正岡子規の生涯、俳句と朗読

正岡子規 (1867-1902)の生涯、俳句と朗読

始めに
やはらかな
  雨は降るなり枯葎
        灰病居士
年号暗記述
[完成版?]
人や空しき (1867)
  一句の鬼と (1902)
     ならんかな
[旧版]
肺病みの
 一夜(いちや)空(むな) [1867] しきなみださえ
  一句の鬼 [1902] とならむものかは
子規居士より (朗読)
  「発句は丁寧に取扱うべし」
発句の下手なものは、発句を粗末に取扱い、
字の下手なものは、字を粗末に取扱うを常とす。
字を丁寧に取扱うは、字の上手になる一法なり。
発句を丁寧に取扱うは、発句の上手になる一法なり。
             (病子規識)
正岡子規(1867-1902)の生涯略歴
………俳諧の発句を「俳句」の名称に定着させたとされる正岡子規(まさおかしき)。彼は伊予の国にうまれた。現在の愛媛県松山市花園町である。そこの松山藩士、正岡常尚と、儒学者であった大原観山の娘である八重のあいだに生まれた長男で、幼名は処之助(ところのすけ)、後に升(のぼる)、さらに常規(つねのり)と改めたが、その一方で百を越える雅号(がごう・ようするにペンネーム)を使用していたという。子規(しき)もその一つである。
 1872年、まだ幼いうちに父が亡くなってしまったので、後見人を建てつつ家を相続した常規は、一方では、大原観山の私塾で漢学を勉強しながら、地元の学校へ通っていた。
 当時盛んだった自由民権運動にも関心を示しつつ、1880年には現在の松山東高等学校(夏目漱石が教鞭をふるって、坊ちゃんの下敷きになったというあの学校)に通い、1883年に東京へ上京する。旧藩主家の給費生として、学業を続け、1890年には、東京帝国大学哲学科に進学した。
 ただし文学への関心高まり、翌年には国文科に転科している。
 もちろん俳句にもうつつを抜かしたが、当初は小説などへの関心も高かった。「坂の上の雲」でもお馴染みの秋山真之(あきやまさねゆき)は、正岡子規とは同じ故郷どうし、東京でも付き合いを続けている。一方では江戸っ子の夏目漱石とも意気投合、友人となった。


……しかしながら、やがて結核を患って吐血し、その時に「血を吐くまで鳴き続ける鳥」という意味を込めて、「ほととぎす(子規)」を、雅号として使用するようになった。
 疎かになる一方の学業から、ついに子規は大学を中退し、1892年から新聞「日本」の記者として活躍。母と、お世話になりっぱなしの妹、正岡律(りつ)を東京へ呼び寄せた。
 1895年に、日清戦争の従軍記者として遼東半島に渡るが、すぐに下関条約が調印。帰路に吐血して、療養のため松山に帰郷する。そこで、松山に教師として赴任していた夏目漱石宅に転がり込んで、療養するかと思いきや、さっそく階下で俳句ライブを繰り広げては、漱石を困らせたという。
 その後、漱石からお金を巻き上げて(ではなくあくまでもお借りして)東京へ戻る途中に生まれたのが、有名な俳句、
「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」
である。さっそく漱石に送りつけた。実は漱石が作った俳句のパラフレーズになっているから、これは友情の証でもあったのだ。
 ところが、その上京の途中、子規は腰の痛みで歩行困難になってしまう。実は結核菌が脊髄を冒して、地獄の苦しみを味あわせる(ようするに脊髄が腐ってしまう)という、脊椎(せきつい)カリエスであることが発覚。しだいに床がちになり、1899年頃からは、ほとんど寝たきりとなってしまった。


……しかし、正岡子規の文学活動は、俳句を中心に、1897年に「ほとゝぎす」を創刊し、自宅に知人を集めて、活動を継続。与謝蕪村の名声を高め、それまでの俳句を月並(つきなみ)として批判、写生(しゃせい)の精神を導入するなど、その革新に努めた。
 俳句の弟子でもある、高浜虚子(たかはまきょし)、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)は、後に新しい俳句界をリードしながら、やがて決別し、壮絶なバトル(?)を演じることになるが、それは子規が亡くなってからの話である。
 一方短歌においても、1899年に『歌よみに与ふる書』を発表し、古今集とそれ以降の和歌を否定し、万葉集への回帰を呼びかけた。また橘曙覧(たちばなのあけみ)など、江戸時代の埋もれかけていた歌人を紹介するなど、和歌の領域でもようやく活躍が期待できそうなところだったが、残念ながら、人は誰しも病には勝てず、1902年(明治35年)に亡くなった。
 「何か頼りをくれ」と手紙を書いた、ロンドンにいる夏目漱石は、死に際に立ち会うことが出来ず、また当人もノイローゼで悩んでいる最中だったので、子規に返事をしてやることも出来なかったという。

正岡子規の俳句・短歌 (書生選)

正岡子規 『獺祭書屋俳句帖抄 上』 俳句抜粋
………子規居士の自選俳句集の上巻。その前書と秀作俳句の抜粋朗読とを獺祭書屋書生こと時乃志憐の一存にて行うものである。
河東碧梧桐 『獺祭書屋俳句帖抄上巻』 俳句抜粋
………子規居士の弟子のひとり河東碧梧桐による、『獺祭書屋俳句帖抄』掲載俳句の批評文より、正岡子規の俳句の紹介に相応しいと思われる部分を朗読する。ただし碧梧桐の評は、師匠のそれにくらべて甚だしくアマチュアである。
高浜虚子選 『子規句集』 俳句抜粋上
………弟子の筆頭たる高浜虚子による正岡子規句選集である岩波文庫の『子規句集』より、書生の一存により秀句を選別して、これを朗読する。選別の基準値が異なるため、こちらで撰ばれている俳句が、必ずしも上の『俳句帳抄』で選択されていないなどの差異もある。
高浜虚子選 『子規句集』 俳句抜粋下
………上は明治28年までの俳句を、下は29年以降の俳句を掲載する。
高浜虚子 『俳句はかく解しかく味う』 より 『子規』
………子規居士の弟子の、高浜虚子の俳句解説書より、正岡子規の句のみを朗読する。はじめての人は、この辺りより入るべきか。
時乃志憐選 『子規遺稿集 その一』
………子規居士の遺稿集より五十の俳句。
時乃志憐選 『子規遺稿集 その二』
………子規居士の遺稿集より幾つかの俳句と俳句解説。
時乃志憐選 『子規遺稿集 その三』
………もっとも後年のものと思われる。これにて完了。
正岡子規の短歌選
………全集よりの選抜ではなく、岩波文庫版「子規歌集」からの抜粋。秀歌掲載の疎漏(そろう)は、編者土屋文明氏の選眼に委ねるべきか。書生に時のゆとりあれば、いつの日か、秀歌掲載を改めて目指す意志あり。

増補再版 獺祭書屋俳話 (書生補筆)

増補再版 獺祭書屋俳話増補について
………獺祭書屋主人の名で明治26年5月21日に刊行された『獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)』は、新聞「日本」掲載のエッセイ、明治25年7月から10月までの俳論を中心にまとめ上げられ出版された。明治28年9月5日における再版に際して、この『獺祭書屋俳話』に加えて、新聞「日本」掲載、明治25年後半から27年初等までの俳論、及びいくつかの俳諧的紀行文、俳句などが加えられ、この増補をもって『獺祭書屋俳話』の完成を告げることとなった。(後の訂正は『正誤』としてさらに発表されることとなった)
獺祭書屋俳話  上[1892/6/26-10/20]
………日本新聞社に入社するのに前後して記され、新聞に掲載された、初期俳論の核心である『獺祭書屋俳話』全文をここに掲載、朗読する。ただし長論であるので、ウェブ上では三分割する。
獺祭書屋俳話  中
………「中」には蕉門の代表者の俳句の紹介を掲載する。書生による蕉門俳句の大幅な加筆、及びに俳話より洩れている野沢凡兆など重要な俳人の章を加えて紹介し、これをもって蕉門の紹介を兼ねることにする。肝心の松尾芭蕉は、続く『芭蕉雑談』で紹介する。
獺祭書屋俳話 下
………「下」には、蕉門の紹介以降を掲載し、子規居士の言葉を我が命続く限り (さ迷える風鈴のごとし) 興味ある人に知らしめることを、全うするものである。あるいは心あらん人、我果てし後、此処を継承し給はんや。
芭蕉雑談 [1893/11/13-94/1/22]
………松尾芭蕉を現人神(あらひとがみ)より文学者へと至らしめるべく執筆した、芭蕉の俳論、発句批評を朗読掲載する。さらに「芭蕉雑談」の前に置かれた『増補再版 獺祭書屋俳話』における序文を、合わせて掲載朗読する。これを以て芭蕉を貶めるものと解釈する愚かなる現代俳人あらば、浅薄なる読解力をこそ疑うべし。
芭蕉雑談の「年齢」部分のみ
………冒頭の「年齢」の項、名前だけのものを名字から記し、年号を附し、略歴を加えたもの。獺祭書屋書生こと時乃志憐による。
獺祭書屋俳話 増補
………芭蕉雑談以下、増補部分の残りを掲載し、これをもって本文掲載を完了と致す。
獺祭書屋俳話 附録
………主こと子規居士の附録俳句を、不肖の書生こと時乃志憐が改編掲載するもの。ただし『子規句選』の部分は一切掲載せず。附録は居士の意に沿うものではないことをここに明記するも、膨大なる獺祭書屋俳話の結尾の附録の役割を全うするに足ると信じて行う愚行にて、善者許したまへ。

正岡子規の俳論・歌論

俳諧大要  [1895年10-12月]
………初心の者から極みに達するまでの俳句の心得をまとめた、正岡子規の恐らくは核心論的な俳句論。明治二十八年に記され新聞に掲載、明治三十二年には書籍として刊行された。明治二十五年に新聞日本に掲載された「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」より続けられた子規の、ひとつの取りまとめ的な俳書と言える。
我が俳句  [1896年7-8月掲載]
………明治二十九年、二度に渡り『世界之日本』に掲載された俳句声明。彼の俳句理論および実践の核心を付くものなるからして、『子規の写実論』なる虚偽弁論を捏造し、盛んに述べ立てまくる曲学阿世の愚徒は、省みて此を熟読吟味すべし。
俳人蕪村  [1897年4-11月]
………子規が明治の俳句界に蕪村の名声を確立したとされる作品。それだけでなく蕪村の俳句への導入の手引き書として、優れた作品ともなっている。呪術的国家に於いて語られる写生論の過程としての蕪村評価なる蒙昧は、この論述を読んで導き出すことは出来ないことを、少なくとも中学生以上なら知ることが出来るだろう。
一茶の俳句を評す  [1897年7月]
………小林一茶の俳句をコンパクトに紹介したもの。
歌よみに与ふるの書 [1898年2-3月]
     →(言葉の意味)
………明治十八年、井出真棹先生を尋ねて和歌を始めたと、彼は「筆まかせ」のなかに書いている。俳句を中心に活躍を見せていたのを、明治三十年頃から集中的に和歌への傾倒を見せ、明治三十一年(1898年)の二月からこの「歌よみに与ふる書」を新聞「日本」に発表するなど、和歌の革新に向けた保守派への批判を繰り広げた。しかし実践においては、俳句のようにうまくはいっていない、というかもう少し生きていればと思われる。
人々に答ふ [1898年3-5月]
………「歌よみに」の反響、というか批判に対して、子規がさらに答えたもの。明治三十一年の三月から五月にかけて、新聞「日本」に掲載。
古池の句の弁 [1898年10-11月]
………芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」の俳諧史上の画期とその意義を問くと同時に、それまでの俳諧の略歴を紹介したるが如きエッセイ。
俳句の初歩 [1899年2月]
………『ホトトギス』第二巻第五号(明治32年2月)に掲載されたもの。自分の俳句歴の初歩において犯したる過ちを諭すをもって、よき俳句とはなにかを導こうとするもの。
俳人太祇 [1899年3月]
………『ホトトギス』第二巻第六号(明治32年3月)に掲載されたもの。炭太祇(たんたいぎ)(1709-1771)の俳句を紹介したもの。テキストは俳句部分のみ。
曙覧の歌(あけみのうた) [1899年3-4月]
     →(言葉の意味)
………橘曙覧(たちばなのあけみ)(1812-1868)は、田中大秀(たなかおおひで)から国学や和歌を学び、家督を弟に譲ってしまって自分は遁世的生活をしていた江戸時代の歌人である。「藁屋」(わらのや)と呼ばれる三ツ橋の粗末な家に生活をしていたところ、1865年には越前福井藩主の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)が、わざわざ出仕を求めて橘曙覧のところまで出向いてきたのを、すっぽりと断ってしまったことでも知られている。橘曙覧の歌集に「独楽吟(どくらくぎん)」「志濃夫廼舎歌集(しのぶのやかしゅう)」などがある。正岡子規がこれらを絶賛しまくったために、後世に歌人としての名声を高めることとなった。
 詳しくはこちらをどうぞ。
   →橘曙覧 (ウィキペディア)
   →橘曙覧 (千人万首)
歌話 [1899年7-9月]
………子規が明治三十二年の七月から九月にかけて新聞「日本」に掲載した、和歌に関する箇条書き風のエッセイ、歌論である。
叙事文 [1900年3月]
………文章を記すに当り現実の事物を天然にても人事にても写して面白き方法を述べる者なり。
俳句上の京と江戸 [1900年4月]
………京都から俳句の雑誌『種ふくべ』が出版されるに及んで子規が執筆したもので、明治33年(1900)4月に記され、まとまった俳句論としては数少ない後期の作品である。
仰臥漫録 [1901年9-10月中心]
………晩年の随筆である「墨汁一滴(ぼくじゅういってき)」「病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)」は共に新聞「日本」に掲載された。「墨汁一滴」の連載が明治三十四年(1901年)の一月十六日から七月二日まで、「病牀六尺」が明治三十五年の五月五日から九月十七日まで、そして九月十九日に子規は亡くなっている。二つの随筆の間、九月二日から十月二十九日の日記が「仰臥漫録」の中心を占めているが、これは公表されべき随筆ではなく、個人的な日記であり、食事や病状の覚書でもある。原本は子規の死後、弟子の寒川鼠骨(さむかわそこつ)がしばしば持ち出しては返していたが、やがて複製本が刊行された後に紛失し、それがもとで正岡家が子規庵保存会を提訴し、なぜだか五十年も経った平成十三年、子規庵の土蔵内で発見された。

正岡子規の俳論、歌論 (直接朗読ファイルへ)

曝背閒話(ばくはいかんわ)
………曝背は「ひなたぼっこ」くらいの意味らしい。明治31年。『韻文学』第一号に掲載。
「新俳句」のはじめに題す
………子規に俳句を学んだ、上原三川(うえはらさんせん)と直野碧玲瓏(なおのへきれいろう)により刊行された『新俳句』に対して記されたもの。明治31年、『ほとゝぎす』に掲載。
『或問(あるとい)』より
………切れ字の部分のみ朗読し、切れ字の説明にかえるべし。明治31年。『ほとゝぎす』掲載。
俳人の手蹟(しゅせき)
………俳人の手蹟について、特に松尾芭蕉の手蹟を褒めたもの。明治31年。『日本附録週報』に掲載。
雑感
………『ほとゝぎす』が松山から東京へ発行所を移すことに重ねての雑感。明治31年8月31日。『ほとゝぎす』二十号に掲載。
俳句新派の傾向
       (朗読その一)(朗読その二)
………明治32年1月『ほとゝぎす』掲載。明治新派の傾向への若干の考察を述べたもの。我の子規居士を朗読するは曲学阿世(きょくがくあせい)の徒の彼の思想を蹂躙するが故にもあり。古き文体もまた朗読によつて判別すべし。もつとも朗読いと拙し。残念残念。
「中興俳諧五傑集」叙
………明治32年2月記され、8月に伊藤松宇編纂の『中興俳諧五傑集』上巻の巻頭に掲載された叙。
蕪村句集講義に就きて
………明治32年10月、『ホトトギス』に掲載。
俳諧三傑書序
………明治32年12月、『ホトトギス』に掲載。『俳諧三傑書』は「ほとゝぎす発行所」より「猿蓑」「続明烏」「五車反古」を複刻したもので、その序である。
随問随答
         (朗読一)(二)(三)(四)(五)
………明治32年4月から明治33年3月まで『ホトトギス』に順次掲載。読者の問に子規居士の答えたもの。朗読は有益と想われる処を抜粋朗読。
ホトトギス第四巻第一号のはじめに
………明治33年10月刊行『ホトトギス』の第四巻第一号に掲載。地域的文芸復興ののろし、未だならず。
俳諧新旧派の異同
………明治34年4月刊行『太陽』に掲載。病のための口述筆記につき、子規の文体の独自の整った感じが、朗読をしていても耳に聞こえて乏しかった。
春夏秋冬
………明治34年5月刊行、明治の新俳句と呼ばれる俳句を集めた俳句集『春夏秋冬』(高濱清編)の序文。『新趣味と自在なる言いまわしのついに余の唱道したる「俳句は天然に適し、人事に適せず」の言を打破したる』の趣旨を記す部分は、子規居士の嗜好の柔軟性晩年に至るまで衰えずの証なるべし。

子規に関するリンク

正岡子規 (ウィキペディア)
………ウィキペディアの正岡子規。
正岡子規 (青空文庫)
………青空文庫の正岡子規作品リスト。
子規全集の目次 (講談社版)
………講談社から1970年代に刊行された全22巻+別巻3巻の正岡子規全集。その巻ごとの目次が掲載されているページ。
子規記念博物館
………松山市立による子規記念博物館。いつの間にやら、松山市のホームページから独立したらしい。全作品については、松山市のホームぺージの「正岡子規の俳句」からダウンロードするほうが、子規記念博物館の検索よりも有意義なように思われる。
子規庵
………正岡子規の明治27年より移り住んだ上根岸の家。対戦で消失するも再建され、現在は子規庵保存会の元に公開されている。
愚陀佛庵
………松山に英語教師として赴任した夏目漱石の下宿先へ転がり込んだ子規が、俳諧ライブを繰り広げた伝説のライブ会場?「愚陀佛庵(ぐだぶつあん)」その復元された観光施設のホームページ。しかし、2010年の土砂崩れで全壊。再建を願うばかりなり。
WebM旅
………「Webm旅は、旅のバリエーションルート(個性的な旅)を開拓・提案するウェブマガジンです。」と説明のあるサイトの中に、正岡子規のコーナーがあり、『寒山落木』の掲載俳句、自筆、出版本の画像といった、詳細を眺めることが出来る。
日本語と日本文化 正岡子規
………母体は『続壺齋閑話』というサイトにあると思われる『日本語と日本文化』内部の正岡子規の解説。壺齋散人による。

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