正岡子規 『俳句の初歩』

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俳句の初歩 (正岡子規)

[朗読1]
客あり。草廬を敲(たた)いて俳句を談ず。その標準は誤り、その嗜好(しこう)は俗に、称揚する所の句と指斥(しせき)[指さして非難すること。面前で非難すること]する所の句と多くは彼此顛倒(ひしてんとう)せり。予曰(よいわ)く、子(し)の言ふ所、悉(ことごと)く予の感ずる所と相反す。予を以て見れば子の言甚(はなは)だ幼稚なり。もし子もまた、予を以て俳句を解せざる者となさば、予はことさらに是非を争はざるべし。しかれども子が言を以て、予が俳句に入らんとせし十数年前と対照するに、当時の予の意見と符節を合すが如き[割符(さいふ)と呼ばれた中世の為替手形を照らし合わせて一致させるように、双方が一致する]者あり。あるいは十数年前の予にして子と会談せしならんには、手を拍つて子の説を賛成したらんも、爾後(じご)[その後、それ以来]予の嗜好は月々歳々に変じて、今はまた当時の余波をだに留めざるに至れり。子が説く所、果して正しきか。予が嗜好の変遷は、かえって正路を脱して邪路に陥りたるか。感情に本(もと)づく美の正否は、固(もと)より理論を以て窮(きわ)むべきにあらず、経験の多寡(たか)[多い少ない]を以て判ずべきにあらずといへども、普通の道理より推(すい)せば、予が十年の経験と研究とは、予をして、全く邪路に陥らしめ了れりとは信ずる能はず。よし予の嗜好の変遷にして往々邪路に迷ふことありとするも、十年前の嗜好が、十年後の嗜好よりも高尚に、俳句界に入りし当時の標準が、幾多の研究を経し今日の標準よりも正確なりとは信ずる能はず。果して予に一日の長あらんか、予は子のために、十年前の懺悔談(ざんげだん)を為して参考に供せんとす。子聴くや否や。

 予の初め俳句に入るや、自ら思ひ立ちて入りしに非(あら)ず、人に勧められて入りしに非ず。師に就くに非ず、友と共にするに非ず。たまたま一、二巻の俳書を見る、敢(あえ)て研究せず、熟読せず、句の解せざる者十中に九、すなわち巻を抛(なげう)つて他を為す。戯(たわむ)れに一、二の俳句を作る、趣味において得る所あるに非ず、語句に於て練る所あるに非ず、あるいは縁語、駄洒落(だじゃれ)に思ひを凝(こ)らし、あるいは極めて浅薄陳腐なる意匠を繰り返して独り自ら喜ぶ。それすら一、二句を得れば即ち思想涸渇(こかつ)[乾いて水が無くなること/尽きて無くなること]して復(また)一字を吐く能はず。あるいは奉納の行燈(あんどん)に立ち寄りて俗句に感ぜし事もあり、あるいは月並(つきなみ)の巻を見て宗匠輩の選評を信仰せし事もあり。我に句なし、彼の句を妙と称す。自ら標準を立てず、他の標準を正しと為す。俳句に心ざす所あらざりしとはいへ、実におろかにあさはかなる少年にてありき。

 嘘から出た誠とやら、かかる戯れに一時の興を取りし予は、ある時一の俳書を見て、ふと面白しと思ひぬ。中には身に入(し)みて感ずる句さへありしかば、ただその句、その書を面白しと思ふのみならず、俳句といふ者を面白しと迄思ひなりぬ。これ予の俳句に入る第一歩にして、しかもこの時の予は、未(いま)だ俳句の趣味の大体をも解せず、俳句固有の句法をも解せず、僅(わずか)に俳句の一小部分を解したるのみ。一小部分とは何ぞ。即ち予がここに述べんとする所なり。

 当時、予が好みし所の句に就(つ)き、これを数箇条に分ちて左に説明すべし。

(一)理窟を含みたる句

 理窟に美を含まざるは論を待たず。もし理窟に美ありといふ人あらば、その人は必ず美を解せざる人ならん。いやしくも理窟以外に多少の美を認めたる者は、理窟に美ある事を許さざるべし。しかして当時の予は、実にこの必要なる一事をも解せざりしなり。理窟を含みたる俳句といふ、いかに理窟多しとも、既に俳句といふ上は幾何(きか・いくばく)[どれほど、どんなに多く/「幾何も」で、どれほども、なにほども]の文學趣味を含まざるはあらず。若もし理窟的俳句に美ありとすれば、その美は理窟の部分にあらずして、文學的の部分にあるべき筈(はず)なり。当時余が好みし中には

  物いへば唇寒し秋の風  芭蕉

  葉隠れて見ても朝顔の浮世かな  野坡(やば)

  世の中は三日見ぬ間に桜かな  蓼太(りょうた)

の如きあり。もし此(これ)のみならんには、あるいはこの句の文學趣味の上に取るべき所ありて取りたりとも見るを得ん。しかれども此と同時に余の好みし句には

   よつひくは勇なり放たぬは仁なり
  智の一つ足らでをかしき案山子かな  樂翁

の如きあり。この句は五七五の音調を除きて外は純粋の理窟より成る者にて、この句の文學趣味として目すべき者は針のさき程もあらざるに、予はこの句を好みたりとすれば、当時の予の嗜向は純粋の理窟の上に美を認めたる者なり。しかれども理窟の上に美のあるべき道理なければ、その美と認めたるは眞(=真)の美に非ずして、智識の上より生ずる一種の快感を美と誤認せしなり。智識の上より生ずる快感は、謎を解き、数學の問題を解きたる時に生ずる快感の類にして、むつかしき書物(殊に外国語の書物)を漸く読み得し時の快感もまたこの種に属す。芭蕉の秋風の句は世間にて往々仮を蒙(こうむ)れども、こは口は禍(わざわい)の門といへる極めて陳腐なる理窟を十七字に並べたるに過ぎず。世人は理窟なるが故に之(これ)を賞する者にして、もし理窟ならざりせば之を賞せるべし。かつ陳腐なる理窟なるが故に之を賞する者にして、新しき理窟ならば之を賞せざるべし。何故といふに、世人はこの句を読んで、自己がかつてより知り得たる理窟に遭遇したるがために愉快を感ずる者にして、その愉快は外国の書物の中に、自己が解し得る語に遭遇したる時の愉快と同じく、智識の上より来る者なり。感情の上より来る美感と全く種類を異にす。これらの句、よし幾多の文學的伎倆を現し得たりとも、根本において理窟に陥る者、特に之を賞するは美を解せざるがためなり。

(二)譬喩の句

 譬喩(ひゆ)の句は、一事物を以て他の一事物と比較する者なるが故に、比較といふ智識上の作用を要す。予が譬喩の句を好みしは、この智識上の作用、即ち理窟を含みしがためたり。譬喩の中にも、比較すべき両個の事物を並べたる

  茶の花や利休か目には吉野山  素堂

の如きあり。予は当時、この無趣味なる句を以て、茶の花を詠ずる空前絶後の名句なりと思へり。之を賞するは、今より見て殆(ほとん)ど不思議なるが如くなれども、物を解せざる時の愚かさを回顧すれば、多くこの類ならざるは無し。譬喩の句には、右の如く両事物を対したるは稀(まれ)にして、比較すべき他の一事物は、之を句中に現さぬが多し。例へば

  手に取るなやはり野に置け蓮華草(れんげそう)

  精出せば氷(こお)る間も無し水車

   姑むつかしといふ人に示す
  けむくとものちは寝易き蚊遣(かやり)かな  不角

の如く表面には蓮華草、水車、又は蚊遣を詠みたるのみなれど、各裏面に教訓の意を寓(ぐう)するが如し。譬喩には多少の理窟あれども、趣味を主としたる譬喩は、全く殺風景なる者に非ず。しかるに右三句の如きは、譬喩といふ理窟の上に、教訓といふ理窟を加へたる者なれば、その無味索莫(さくばく)[もの悲しいさま]たるはあらためて言ふまでも無し。されど当時の予は之を好み、今なお俗人の之を称するを聞く。

  浮草やけさはあちらの岸に咲く  乙由(おつゆう)

 こは無常の意を寓したるなり。無常は教訓の如く理窟めきたる者には非れども、無常はやや長き時間を含み、俳句は長き時間を写すに適せざるが故に、多く殺風景となる。かつて予が賞賛し、今なお俗人の劇賞する乙由の句の如き、もとより浅薄(せんぱく)見るに足らざるのみ。

 この外、譬喩の句にして予の劇賞せし者は、婦女子、殊(こと)に遊女等が、自己の境遇を詠みし句にして、この種の句には多少の愛すべき思想なきにあらねど、多くは素人(しろうと)の作なるを以て、語句の間に瑕瑾(かきん)[ものの傷、痛み/欠点、あやまち]を存す。当時予は、之を識別するの力無かりき。

始めて嫁ぐ時
渋かろか知らねど柿の初ちぎり  千代
(実際は「柿」は別の漢字を使用)



客より凧(たこ)を送りこしたる返事に
御約束の凧御こし下され。早く揚(あげ)て見参らせたく、こよなう嬉敷(うれしく)ぞんじまゐらせ候。この猩々凧(しょうじょうだこ)こそ、乙女の姿には似ずとも、雲の通ひ路ふらふらとして、どこをまひぶみせんとてか、さりとてはあぶなく見えて、一枚凧のすわらぬやうに、みだれ足とやらんはよほど酔てのことか。しかし、盃と柄杓(ひしゃく)落さぬは、ほんの乱れ足とも見えず、又かたぶけんとや。清玄凧のにくげに、なまづ凧のおどろおどろしきにからまりて、落ちてやぶられやせんと心ぐるしきうちに、風もかはりて、猩猩(しょうじょう)[中国の猿めいた伝説上の動物。日本では酒を好むものとされてきた]舞をやめて、ゑびすくふわざもおかし。いとめのちがはぬうちに、はやはやおろしてたも。

あげられてくるしき日あり凧(いかのぼり)  瀬川



伏猪を書いて客の賛せよと望みけるに気にそまぬ客と思ひ
猪にだかれて寝たり萩の花  高尾

これら皆、作者のさだかならぬのみならず、語句の上はいづれも疵(きず)あり。されど予は、之をこよなき名句と思ひ、殊に伏猪に萩の一句を愛(め)でて、人間の至情(しじょう)[まごころ/ごく自然の情]を尽し、俳句の巧妙を極めたる古今無比の句なりとまで思へり。予のかく称賛せしは、第一に作者が婦女子なる事、第二に人情(後にいふ)を含む事、第三に作者実際の境遇より出でたりと思ふがために同情を惹(ひ)く多き事、等に因(よ)る者にして、もし予をして幾何(いくばく)か俳句の高遠なる趣味、写実的無理想の趣味を解し、語句の練磨(れんま)[練り磨くこと。学問や技量を磨くこと]に多少の心を傾けしめば、これらの句に対する感情は、今少し冷淡なる者ありしならん。

(三)擬人法を用ゐし句

[朗読2]

  手をついて歌申しあぐる蛙かな  宗鑑

  はづかしや蓮に見られて居る心  湖春

 湖春の句は擬人法を用ゐし処に巧妙を感じたれど、半ば蓮につきての理想を描き出だせし処に、我嗜好を惹(ひ)きし者ありしなるべし。宗鑑の句は、初め面白しとも思はざりしが、ある情史(じょうし)[男女の恋愛を記した物語、小説。また、その書物のこと](柳の横櫛といふ者なりけん)の中の見出しにこの句を置き、その下に番頭が若旦那の不身持を諌(いさ)むる事を書きしを見しより、たちまちこの句に味を生じたるが如き心地せり。けだし譬喩に用ゐられしがためなり。「提灯の空にせんなし時鳥」も譬喩の句に非れども、同じ書に譬喩的に引用せられしために、それより我記臆をはなれぬ句となれり。されば最初には、予の嗜好はむしろ擬人法の上にあらざりしが如くなりしも、僅(わずか)に一歩を進めたる後は、擬人法は最も愛すべき手段として用ゐられ、擬人法の句ならばとにかくに一誦(いっしょう)の価あるが如く思へり。この弊は、近年に至るまで予の胸底にわだかまりて長く害毒を流したり。俗宗匠輩、またこの法を慣用する者多し。擬人法、必ずしも悪しとにはあらねど、譬喩と同じく理窟に傾きやすく俚俗(りぞく)[田舎びていること、田舎びている様子]に陥りやすき者なれば、之(これ)を作るには注意を要す。山笑、山眠などいへる題にて佳句を得難きは、その題の擬人的なるが故なり。

(四)人情を現したる句

 俳句を知らぬ人、もしある俳句を劇賞したりと聞かば、その俳句は理窟の句か、譬喩の句か、しからざれば人情を現したる句なること、問はずとも知るべし。予もまた、この種の句にうつつをぬかしたる一人なり。人情は文學には極めて必要なる者にて、小説の如き、演劇の如き、一歩も人情の外に出づる能はず。俳句にもまた、人情を嫌ふに非ず。人情は譬喩等の如く理窟を含む者に非れば、毫も美以外の分子を有する事無し。されど人情は、極めて複雑にして、到底十七八字の短文字にて之を描写する事難く、たまたま巧に之を描写したる者ありとも、そは俳句に適当なるある簡単なる場合の、しかも陳腐ならざる者を択(えら)みたる者なれば、多数に見出だし得べきに非るなり。予が愛したる句

  夏痩(やせ)と答へてあとは涙かな  季吟

  君は今駒形あたりほととぎす  高尾

  魂棚(たまだな)の奥なつかしや親の顔  去来

  井の端の桜あぶなし酒の酔  秋色

   信章江戸より下るに
  いや見せじ富士を見た目に日枝の雪  季吟

   芭蕉翁をとどめて
  我宿は蚊のちひさきを馳走かな  秋之坊

   夫におくれて
  起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな  千代(?)

の如きは、品格の高卑こそあれ、いづれも悪句俗句に非ずして、むしろ佳句に属すべき者多し。されば予が、この種の句を愛せしは、全くその標準を誤る者にはあらざれど、この種の句ばかりを愛せしは、いまだ俳句を解せざりしがためにして、当時、古俳書を見てことごとくつまらぬ句の如く思ひしは、我嗜好の狭かりしを証するに足る。けだし人情的俳句は、全俳句の百分の一をも占領せざるべし。人情は到底、俳句の材料として普通なる能はず。

(五)天然の美を誇張的に形容したる句

 天然の美、殊に花樹花草の美は、何人も之を感ぜざるはあらず、予は特に之に感じ易き性あり。しかれども、この時はなほ写実的の趣味を解する能はざりしを以て、誇張的に形容したる者のみを好めり。

  散る花の音聞く程の深山(みやま)かな  心敬

 深山の静かさを現さんとて、花といふ美しき材料を用ゐたるは、幾何(いくばく)の美を捉へ得たる者なれど、「花の音」といふに至りては、誇張に過ぎて却て趣味を失ふ。花の音なる者、実際に有り得べからざるを以て、「花の音」といへば、既に人間の偽りといふ一種の悪感情を感じ来るなり。偽りも、御伽話の「舌切雀」「猿蟹合戦」「桃太郎」の如く、または白髪三千丈といふが如く、分りきつたる偽りは悪からず。之に反して誠らしき嘘は、人を欺(あざむ)かんとする傾きありて不愉快なる者なり。誇張は多く、後の種類に属す。されど当時予は、この句を以て俳句中の最(もっとも)微妙なる者と思へり。もし感情に訴へたらば、さる誤りは生ぜざるべきも、予はかえって智識(理窟)に訴へて、誇張の処に愉快を求めたりしが如し。

  我駒の沓(くつ)あらためん橋の霜  湖春

 これも愛誦せし一句なり。霜の美を認めたるはさる事ながら、それがために駒の沓を正すとまでは、何人も思はざるべし。これ誇張なり。

  朝顔に釣瓶(つるべ)取られてもらひ水  千代

 此句を好みしは、擬人法を用ゐし処にもありしなれど、主として朝顔の美を誇張的に現さん(と)したる処にありき。この句の欠点は誇張的の処、擬人法を用ゐし処のみならず其外にもあり。

  鰯(いわし)焼く隣にくしや窓の梅  秀和(しゅうわ)

 この句は誇張の程度少くして、前の諸句に勝りたるだけ、最初は予を感ぜしめず、やや進んで後、ようやく之を感ず。その感じたるは「憎しや」の一語あるに因る者にして、この一語、即ち誇張の処、即ちこの句の欠点なり。

 誇張は写実の反対なり。誇張を好む者、写実を解せず、写実を解する者、誇張を好まず。もとよりその理なり。

(六)語句の上に巧を弄する句

 趣味の上に於て写実的自然を好まず、詐偽(さぎ)的誇張を愛したるが如く、語句の上にも平易なるよりは、むしろ伎巧を弄(もてあそ)びたるを喜べり。

  これはこれはとばかり花の吉野山  貞室

 当時はスペンサー[ハーバート・スペンサー(1820-1903)イギリスの哲学者]エコノミー・オヴ・メンタル・エナージー[「認知的節約」の原則だかなんだかなんだそうだ]といふ謬論(びゅうろん)[あやまった議論]を信じ居たる故、この句は美麗といはずして美麗を現したりとて感心せり。されどそは理窟上の解釈にして、その実予は、世人一般の如くは此句を愛せざりしと思ふ。

  舟呼べばたゞ川霧の答かな  昌琢

「川霧の答」といふ無理な言葉に感ぜしならん。

  涼しさのかたまりなれや夜半の月  貞室

「涼しさのかたまり」といふいやな言葉を、手柄のやうに思ひしなり。

  白魚や椀の中にも角田川

やうの厭ふべき句を好みたるは、僅に俳句に入りて月並調を解したる時なり。

(七)雑 此等の外に予の感じたる句を挙げんに

  鳥一羽濡れて立ちけり朝桜

『類聚(るいじゅう)』に出でし句と覚ゆれど、予のはじめ之を見て、艶麗(えんれい)[艶やかであり美しいこと]の感に堪へざりしは、春水(しゅんすい)の『梅暦(うめごよみ)』の中にありしなり。当時『梅暦』を愛せし余波は俳句に及びて、この俳句を見るごとに、幾多の連想に打たれたるにやあらん。此句、清婉(せいえん)[清くてお淑やかな様]なれども品格卑し。

  秋やけさ一足に知るぬぐひ椽  重頼

 言葉つき気に入らで、はじめは感服せざりしが、後に立秋を足の裏に感ずる処に感服せり。しかし善き句に非ず。

  むつとして戻れば庭に柳かな  蓼太

端唄(はうた)にて感心したり。この句、厭味の頂上なり。

  行き行きて倒れ伏すとも萩の原  曾良 情の極端を現して、かつつ萩の美をいへる処に感心せり。これは悪句にあらず。

  長長と川一筋や雪の原  凡兆

 この自然の句、初めは感ぜざりしが、後漸く之を感ずるに至れり。これらや、予が自然に入るの楷梯(かいてい)[昇段の階段。はしご/物事の発展の過程]なりしならん。

 以上論ずる所は、予が入門の第一歩にして、第二歩以後、なお幾多の邪路に迷ひしは言ふまでも無し。予が進歩の順序をいはばm初め貞徳派、天保調などに入り、次に『三傑集』一部により、やや天明、寛政を覗(うかが)ひしも、僅に蓼太の俗調を称賛せしに過ぎず。漸く『七部集』(殊に猿蓑)に眼を開き、始めて元禄の貴ぶべきを知れり。その後あるいは『五色墨』(ごしきずみ)に擬し、或は文化、文政に模する所ありしが、終(つい)に蕪村に帰著す。予の進歩は、近時の俳人の如く、一躍して堂に上るが如き快事に遭遇せず、一歩々々刻苦に刻苦して漸くに進みたる者なれば、著き変遷は固よりあるべき筈なけれど、『七部集』を見て言ふべからざる愉快を感ぜし時は、始めて夜の明けたるが如き心地に、大悟徹底あるいは是(これ)ならんかなど、いたづらに思ひ驕(おご)りし事を記臆す。とにかく、予が理窟を捨てて、自然に入りたるはこの時なり。写実的自然は、俳句の大部分にして、即ち俳句の生命なり。この趣味を解せずして俳句に入らんとするは、水を汲(く)まずして月を取らんとするに同じ。いよいよ取らんとして、いよいよ度を失す。月影紛々、終(つい)に完円を見ず。

            明治32年2月

2011/3/6-3/18

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