正岡子規 『芭蕉雑談』「年齢」部分のみ

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芭蕉雑談「年齢」部分のみ

年齡

 古今の歴史を観、世間の実際を察するに、人の名誉は多くその年齢に比例せるが如し。けだし文学者・技術家に在りては、殊(こと)に熟練を要する者なれば、「黄口の少年」「青面の書生」には成し難き筋もあるべく、あるいは長寿の間には多数の結果(詩文または美術品)を生じ得るが為に、漸次(ぜんじ)に世の賞賛を受くる事も多きことわりなるべく、はた年若き者は、一般に世の軽蔑と嫉妬とによりて、その生前には到底名を成し難き所あるならんとぞ思はる。

 我邦(わがくに)古来の文学者・美術家を見るに、名を一世に揚げ誉(ほまれ)を万歳(ばんざい)[長い歳月、よろずよ]に垂るる者、多くは長寿の人なりけり。歌聖と称せられたる柿本人麿(かきのもとのひとまろ)の如き、その年齡を詳(つまびら)かにせずといへども、数朝に歴仕せりといへば長寿を保ちたる疑ひなし。その外(ほか)年齡の詳かなる者に就て見れば、

[朗読1]
[九十歳以上]

土佐光信(とさみつのぶ)(1434?-1525?)
[大和絵の絵師。代々続く土佐派の中興の祖とされる]
藤原俊成(ふじわらのとしなり)(1114-1204)
[公家・歌人。勅撰和歌集の八代集の七つめにあたる『千載和歌集(せんざいわかしゅう)』を編纂。また『古来風体抄(こらいふうていしょう)』という歌論においては、万葉集から当代までの和歌を解説し、歴史と和歌の心を明らかにする。藤原定家の父親]
葛飾北斎(かつしかほくさい)(1760?-1849?)
[文化・文政時代を代表する浮世絵師。『富嶽三十六景』などが有名。他にも『八犬伝』の曲亭馬琴(きょくていばきん)の戯作(ぎさく)[読本や黄表紙などと呼ばれる庶民の読み物]の挿絵をするなど、挿絵師としても活躍]

[八十歳以上]

藤原信実(ふじわらののぶざね)(1175-1266)
[公家、画家、歌人]
鳥羽僧正(とばそうじょう)=覚猷(かくゆう)(1053-1140)
[天台宗の高僧、絵師、一種の風刺画である戯画(ぎが)に巧みだったとされ、『鳥獣人物戯画』(鳥獣戯画)(国宝)』に関わったとの俗説もある。漫画の始祖とも語られることもある]
北村季吟(きたむらきぎん)(1625-1705)
[江戸前期の国学者、歌人、俳人。松永貞徳に俳諧を学び貞門派の伝統を、弟子の松尾芭蕉へと導いた]
雪舟(せっしゅう)(1420-1506)
[幼少より宝福寺(ほうふくじ)(臨済宗)に入れられ禅僧となる。絵才ゆたかにてついに遣明船に乗り、明で水墨画を探求する。帰国後活躍し、日本独自の水墨画伝統を確立するに大であったとも言われる]
肖柏(しょうはく)(1443-1527)
[歌人・連歌師。牡丹花(ぼたんか)などの号を持つ。宗祇、宗長らと連歌史上の傑作『水無瀬(みなせ)三吟百韻』(1488年)を残す。また宗祇に弟子入りして「古今伝授(こきんでんじゅ)を受け、これを堺の商人へと伝えもした。村田珠光に茶を学んでもいる]
宗長(そうちょう)(1448-1532)
[鍛冶職の息子だったが出家して、今川氏に仕える。宗祇(そうぎ)に師事し連歌を学び、宗祇、肖柏と共に『水無瀬三吟百韻』、さらに『湯山三吟』(1491年)を残す]
山崎宗鑑(やまざきそうかん)(1465?-1553?)
[室町幕府の将軍九代目足利義尚(あしかがよしひさ)に仕え、その死後は出家。連歌師としてだけでなく、初期の俳諧連歌における重要人物と考えられるも、実際の作品はほとんど残されていない。俳諧連歌集として『竹馬狂吟集』に次ぐ作品『新撰犬筑波集(しんせんいぬつくばしゅう)』(1524以降成立、当初の名称は『俳諧連歌抄』)を編纂した。これは「発句」と「付句」からなる「五七五」「七七」のペアを四季・恋・雑に分類したものである]
狩野元信(かのうもとのぶ)(1476?-1559)
[四世紀にわたり国家の公的絵画を引き受ける重要な画家集団を担ったという狩野派(かのうは)。その開祖とされる狩野正信(かのうまさのぶ)(1434-1530)の息子が元信である。後に「古法眼」(こほうげん)のあだ名を持つ。有力者の大画制作の一方で絵付けした扇を販売する商売人としても活躍。代々引き継ぐべき狩野派の画風を大成した]
桜井梅室(さくらいばいしつ)(1769-1852)
[刀研師(かたなとぎし)として加賀藩に仕えつつ、師である成田蒼キュウ(1761-1842)、田川鳳郎(たがわほうろう)(1762-1845)と共に「天保の三大家」とたたえられた俳諧師]
松永貞徳(まつながていとく)(1571-1654)
[里村紹巴(さとむらじょうは)から連歌を、九条稙通、細川幽斎に和歌・歌学を学んだ連歌師・俳諧師(ウィキペディアより割愛引用)]
宗祇(そうぎ)(1421-1502)
[宗砌(そうぜい)らから連歌を学び、和歌を学んだ東常縁(とうつねより)からは『古今伝授(こきんでんじゅ)』を授かるなど、当時の和歌・連歌界の重要人物だった。宗長、肖柏と共に『水無瀬三吟百韻』『湯山三吟百韻』などを残す他、准勅撰(天皇より勅撰に準じるとの称を得たるもの)の連歌集である『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』(1495)を編纂した]
横井也有(よこいやゆう)(1702-1783)
[尾張藩士である横井時衡の長男、横井時般(ときつら)のこと。26才にして家督を継ぐ。也有は号で、俳諧、和歌の他、茶道や儒学にも才能を発揮するのみならず、武芸者としても達者。発句よりも、俳文においてこそ、優れた作品を残したとされる。特に『鶉衣(うずらごろも)』がよく知られている]
成田蒼[虫+おつにょう(乙マイナス一)](なりたそうきゅう)(1761-1842)
[もと加賀藩士。高桑蘭更(たかくわらんこう)に師事し、はじめ京で、次いで江戸でも活躍。「いつ暮れて水田(みずた)の上の春の月」など。同郷の出身でありやはり蘭更の弟子であった桜井梅室(さくらいばいしつ)(1769-1852)と共に、天保時代の俳諧師として活躍した]
曲亭馬琴(きょくていばきん)(1767-1848)
[本名は滝沢興邦(たきざわおきくに)で武家の生まれだが、俳諧などの文学にのめり込み、黄表紙(きびょうし)と呼ばれる大衆読本などを記す。ライフワークとなった『南総里見八犬伝』の他、多数の作品を残し、執筆活動で生活できた専業ライターの最初期の人物でもあった]
藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)(1162-1241)
[公家にして歌人。藤原俊成の息子で「古今和歌集」「新勅撰和歌集」というふたつの勅撰集に関わるほか、「小倉百人一首」の編纂、自作集「拾遺愚草」、また歌論「毎月抄(まいげつしょう)」などを残し、「かに星雲」の超新星爆発を記した「明月記」という日記でもしられる]
一条兼良(いちじょうかねよし・かねら)(1402-1481)
[『花鳥余情(かちょうよじょう・よせい)』を始め多くの源氏物語の注釈書を記し、和歌や連歌にもすぐれ、類(たぐ)い稀(まれ)なる学者とたたえられた公家。摂政関白の地位にも就いたことがある]
大島蓼太(おおしまりょうた)(1718-1787)
[俳人。雪中庵こと服部嵐雪(1654-1707)の弟子にして、雪中庵二世を名乗った桜井吏登(さくらいりとう)(1681-1755)から俳諧を学び、その後雪中庵三世を継承する。溝口素丸(みぞぐちそまる)、二六庵(にろくあん)こと小林竹阿(ちくあ)らと『続五色墨(ぞくごしきずみ)』を刊行するなど新騎手としての活躍を深め、やがて門下に一大勢力を形成するに至った]
吉山明兆(きつさんみんちょう)(1352-1431)
[臨済宗の禅僧としての経歴の半ば、絵画への傾倒を深め、北宋の画法を学び、仏画など寺院専属の画家として名声を博した。僧としても仏殿管理にあたる殿司(でんす)の地位にあり、そのため兆殿司(ちょうでんす)とも呼ばれる]

[七十歳以上]

里村紹巴(さとむらじょうは)(1525-1602)
[安土桃山時代を代表する連歌師で、和歌や古典にも秀でた人物。信長、光秀、秀吉など多くの武将とも連歌を通じて交流し、本能寺の変の直前に光秀が行った「愛宕百韻(あたごひゃくいん)」に参加したことでも知られる。源氏物語の注釈書である『紹巴抄』なども残している]
小沢蘆庵(おざわろあん)(1723-1801)
[歌人にして国学者。江戸時代における和歌四天王(平安の和歌四天王)と讃えられる。「ただごと歌」を提唱]
頼杏坪(らいきょうへい)(1756-1834)
[儒学者にして、広島藩の藩政に関わるなど、政治家として手腕を振るった人物]
西山宗因(にしやまそういん)(1605-1682)
[武士の子として、熊本藩加藤氏の家臣である加藤正方(まさかた)の元に仕えるも、1632年の加藤家改易によって浪人となる。里村昌琢(しょうたく)から学んだ連歌に拠って活動し、1647年には大阪天満宮の連歌所の宗匠として勇名を馳せるに至った。その間、新しい俳諧連歌への傾倒を深め、流行していた貞門派(ていもんは)の言葉遊び的要素に対抗し、談林派(だんりんは)俳諧と呼ばれる流れを築く]
志太野坡(しだやば)(1662-1740)
[両替商である三井越後屋の番頭にまでなった商人だが、其角、次いで芭蕉に入門し俳諧を学び、後に蕉門十哲の一人にも列ねる俳諧師となった。芭蕉死後は大阪に出て俳諧師としての活動に専念、多くの門人を抱えるに至る]
石川雅望(いしかわまさもち)(1754-1830)
[浮世絵師であった石川豊信(いしかわとよのぶ)の息子。江戸に生まれ、大田南畝(おおたなんぽ)から狂歌を学ぶうち鹿津部真顔(しかつべのまがお)(1753-1829)と狂歌界を二分するほどの勢力を得るにいたった]
上田秋成(うえだあきなり)(1734-1809)
[読本と呼ばれる物語の作者にして、特に中国や日本の古典より生みなした怪異の物語である「雨月物語(うげつものがたり)」の作者として、後世知られることとなった。俳諧や和歌においても活躍]
狩野常信(かのうつねのぶ)(1636-1713)
[15歳で狩野派の宗家を継承する。名声の高まるのは歳を経てからであるが、狩野元信(もとのぶ)、狩野永徳(えいとく)、狩野探幽(たんゆう)と合わせて狩野派の四大家などと称せられる。絵画以外にも和歌などにも秀でた]
谷文晁(たにぶんちょう)(1763-1841)
[絵師であり、南画(南宋画の影響を受けつつ生みなされた日本画。文人画とも云われる)をよくした。円山応挙(まるやまおうきょ)(1733-1795)、狩野探幽(かのうたんゆう)(1602-1674)と合わせて「徳川時代の三大家」などと呼ばれる。また漢詩や和歌、狂歌などにも才能を示した]
荒木田守武(あらきだもりたけ)(1473-1549)
[戦国時代の連歌師であり、伊勢神宮の神官でもある。俳諧連歌を有力な文芸ジャンルに押し上げるのに、山崎宗鑑(やまざきそうかん)とともに重要な役割を果たした]
祇園南海(ぎおんなんかい)(1676-1751)
[紀州藩付の医者である祇園順庵の息子。若くして朱子学を学ぶ一方で、詩才を発揮するも、放蕩のため一時は城下を追放。漢詩にすぐれた作品を残す一方で、日本における初期の文人画家として知られている]
土佐光起(とさみつおき)(1617-1691)
[土佐派を代表する画家で、大和絵の王道を自認する自家以外にも、狩野派、元画・宋画などを学び、1654年には従五位下を賜り朝廷の絵師として活躍する。]
加賀千代女(かがのちよじょ)(1703-1775)
[表具師(ひょうぐし)[布や紙を使用した巻物、掛軸、屏風などさまざま扱う職人]の娘として生まれ、幼少より俳諧への傾倒を深める。17才で各務支考(かがみしこう)に弟子入。18才で嫁ぎ、20才で夫に死別。やがて乙由(おつゆう)と知り合い、画を学び、50代で剃髪した]
香川景樹(かがわかげき)(1768-1843)
[鳥取藩の藩士の息子として生まれるも、幼いうちに父を亡くし、親類に預けられつつ文学への傾倒を深めた。蒲柳の質(ほりゅうのしつ)に恵まれ、もとい、武人としては体質のお優しくして、国学、ことに和歌への街道を進み、大成するに至ったという(プチ韜晦主義)]
英一蝶(はなぶさいっちょう)(1652-1724)
[伊勢亀山藩に仕える医師の息子として、やがて江戸に出て、絵画的才能を認められ、絵師としての名声を残す。狩野派の画を習得すべく入門した先で破門されたという噂もあるが、暁雲の号で俳諧をたしなみ松尾芭蕉と知り合う一方で、吉原大好きッ子だったという一面を持つ。47歳の時、生類憐れみの令に反したとして三宅島に流罪。徳川綱吉の死に伴う恩赦によって江戸に戻ってからは、絵師としての名声を博した]
賀茂真淵(かものまぶち)(1697-1769)
[神官の息子として生まれ、国学者として数多くの著作を残す。私塾を開き多くの後継を育てる一方で、50歳にして御三卿の一つ、田安徳川家に学問を以て仕えることともなった。一方で、和歌においては『万葉集』の精神を掘り起こし、自らすぐれた歌を残している]
亀田鵬斎(かめだぼうさい)(1752-1826)
[学問にすぐれ私塾には多くの門弟を抱えるも、寛政の改革が始まり朱子学以外を排斥すると、子弟を失い流浪の旅に出る。晩年、書家としての名声が高まり、今日では書家、詩文家として有名である]
狩野探幽(かのうたんゆう)(1602-1674)
[狩野孝信(たかのぶ)の子であり、狩野派の代表的絵師。1617年に幕府の御用絵師となって以来、寺院や城における大作を次々に制作していった]
近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)(1653-1725)
[越前福井藩士の子として生まれながら、文学的傾向を強め、人形浄瑠璃、歌舞伎の台本作者としての名声を博すこととなった。『芭蕉雑談』原文にある「巣林」は、別号である巣林子を記したもの]
本居宣長(もとおりのりなが)(1730-1801)
[商人の息子として商売の道を歩むかと思われたところ、二十歳を超えて医学を志し、かつ学問への探求を深め、ついに賀茂真淵(かものまぶち)に弟子入りし、ついに現代に連なる古事記解釈の礎を築いた江戸時代中でも稀有な、定冠詞付きの「The 学者」(……君は時々遊びたがるようだね)]
加藤千蔭(かとうちかげ)(1735-1808)
[橘千蔭(たちばなのちかげ)ともいう。上の宣長同様、賀茂真淵の弟子であり、国学、和歌にその功績を残す。万葉集復興の一人で、宣長の協力のもと『万葉集略解』を記す一方、自身歌人としても活躍した]
心敬(しんけい)(1406-1475)
[幼い頃より出家して天台宗の僧となるも、歌人、連歌師として活躍する。その心は和歌や連歌の修業こそ仏の道の極めなるべしといったもので、続く宗祇(そうぎ)や、茶人の村田珠光(むらたじゅこう)などにも影響を与えた]
江島其磧(えじまきせき)(1666-1735)
[浄瑠璃、浮世草子の作者として当代一の売れっ子の名声を博した]

[朗読2]
[六十歳以上]

十返舎一九(じっぺんしゃいっく)(1765-1831)
[武士階級に生まれ一時は町奉行のもとに働いたが、文筆への情熱からさまざまな物語本、さらに浮世絵などに活躍する売れっ子作家となった。特に『東海道中膝栗毛』は爆発的人気を博し、文筆による生計を成就したほとんど初めての人物と云われている]
酒井抱一(さかいほういつ)(1761-1829)
[愛媛藩主である酒井忠仰(さかいただもち)の四男として生まれ、俳諧、茶、絵画などに触れるうちに、絵画および俳諧、狂歌への感心を深めていった。寛政の改革の締め付けもあり出家し武士階級から離れる一方、尾形光琳に学び画家として比類ない完成を遂げた(そうである)]
中院通村(なかのいんみちむら)(1588-1653)
[公家であり古今伝授を授かるほどの歌人として知られる一方、書画にも巧みな芸術肌の人物だった]
各務支考(かがみしこう)(1665-1731)
[蕉門十哲の一人として俳諧の道を歩んだ人物。論理的人物として知られ作品だけでなく多くの俳書を残す]
与謝蕪村(よさぶそん/よさのぶそん)(1716-1784)
[夜半亭こと早野巴人(はやのはじん)より俳諧をたしなみ、また絵をたしなむうち、芭蕉への憧れ高まり、すぐれた俳諧をあまた生みなした。師の称号を継承して夜半亭二世ともなる一方、画家としても広く知られた人物である]
山崎美成(やまざきよししげ)(1796-1856)
[商人として家業を継ぎ学問のうちに破産させたという随筆、雑学的な文筆家]
二代目竹田出雲(たけだいずも)(1691-1756)
[竹本座の座元にして、浄瑠璃作者である。(おそらくこの人物と思われるが、子規の原文には「出雲」とあるのみなので、他の人物かも知れない)]
渋川春海(しぶかわはるみ/しゅんかい)(1639-1715)
[幕府付きの囲碁の家元となった安井算哲(やすいさんてつ)の息子にして、囲碁を以て幕府に仕えるものの、次第に天文学、暦学への感心高まり、ついには初めて純国産の暦である貞享暦(じょうきょうれき)を採用させ、初の幕府天文方に任じられた。囲碁においては天文の法則を当てはめた必殺の一手が無残に破れてしまったりという失態を演じたりもしている。天球儀や地球儀を作成しもした]
小林一茶(こばやしいっさ)(1763-1828)
[信濃の貧農の息子として江戸へ出て奉公しつつ俳諧へ踏み込んだ俳諧師。芭蕉、蕪村に次ぐ名声を発句において、今日得ている]
安原貞室(やすはらていしつ)(1610-1673)
[松永貞徳に師事し、貞門七俳人などと讃えられる俳諧師。芭蕉ら蕉門からの評価を受けている]
紀貫之(きのつらゆき)(866 or 872?-945?)
[『古今和歌集』の撰者にして『土佐日記』の作者]
契沖(けいちゅう)(1640-1701)
[真言宗の僧にして、古典探求に生きる国学者。歌人。彼が古典の仮名遣いを研究して生み出した契沖仮名遣は、今日における歴史的仮名遣いの礎を築き、実証的な古典研究を行ったことでも知られている]
野田笛浦(のだてきほ)(1799-1859)
[田辺藩士にして儒学者]
森川許六(もりかわきょりく)(1656-1715)
[蕉門十哲の一人ともされる俳諧師]
柳亭種彦(りゅうていたねひこ)(1783-1842)
[旗本の家に生まれ家督を相続しつつ、川柳、狂歌、戯作に生き甲斐を見出す]

[五十歳以上]

近松半二(ちかまつはんじ)(1725-1783)
[浄瑠璃作者。竹本座の座長である二代目竹田出雲(たけだいずも)に付く一方で、近松門左衛門の弟子となり近松を名乗る。出雲の死後は竹本座の中心的な作者として活躍した]
田能村竹田(たのむらちくでん)(1777-1835)
[岡藩に仕える下級藩士の息子として生まれ、やがて藩に仕えるも、一方で絵画への探求を深め、特に藩政改革の嘆願書が入れられず藩職を退いた1812年からは、南画(文人画)の画家として活動した。理論書なども残している]
小野お通(おののおつう)(伝1568-1631)
[浄瑠璃を芸術として独り立ちさせたとされる「浄瑠璃御前物語」あるいは「十二段草子」と呼ばれる作品の作者として知られる伝説的な女性。その生年もやはり伝説に過ぎない]
松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)(1582-1639)
[真言宗の僧だが、近衞信尹(このえのぶただ)(1565-1614)、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)(1558-1637)と並んで「寛永の三筆」と讃えられる書家として知られる]
宝井其角(たからいきかく)(1661-1707)
[蕉門十哲の一人にして、芭蕉の高弟の一人]
建部凌岱(たけべりょうたい)(1719-1774)
[建部綾足(たけべあやたり)のこと。凌岱は俳号で、もともとは弘前藩家老の息子で武門に進むべきを、兄嫁との禁断の恋に御家を追われ、出家しかつ還俗(げんぞく)し、俳諧への道を歩むに至った。志太野坡などに付くも、一方では絵画に秀で、後年は「五七七」をもって唱和する「片歌」へ入れ込んだ]
山東京伝(さんとうきょうでん)(1761-1816)
[質屋の息子だが、浮世絵師、戯作(げさく)の作者として活躍。絵入りの黄表紙本や、遊郭の内部を描く作品を記すうちに、風俗取締りにあって、50日間の手錠生活「手鎖の刑」に処されたことでも知られている]
土佐光則(とさみつのり)(1583-1638)
[大和絵を代表する土佐派の絵師として活躍]
尾形光琳(おがたこうりん)(1658-1716)
[本阿弥光悦、俵屋宗達(たわらやそうたつ)らの始めた総合芸術的な絵画や工芸の傾向を発展させ、芸術史において琳派(りんぱ)と呼ばれる流派を生み出した、江戸時代前期の画家、工芸家]
服部嵐雪(はっとりらんせつ)(1654-1707)
[芭蕉の門弟にして蕉門十哲に数えられる高弟のひとり]
池大雅(いけのたいが)(1723-1776)
[南画(文人画)の大成者として知られ、与謝蕪村と共に記した『十便十宜帖(じゅうべんじゅうぎちょう)』もまたよく知られている]
加舎白雄(かやしらお)(1738-1791)
[子規に、安永天明の中興の俳人として、蕪村・暁台・闌更・蓼太と並んで挙げられた俳諧における、中興の五傑の一人。私意を捨てあるがままを提唱し、江戸において一大勢力を築くに至った]
頼山陽(らいさんよう)(1781-1832)
[漢詩の作者としても知られるが、なによりも源平から武家の歴史を描いた『日本外史(にほんがいし)』によって知られる。この書は、歴史書としては当時から非難を受けたが、歴史的叙事詩の傾向を持つ漢文調によって、後の尊皇攘夷運動にも影響を与えたとされる]
井原西鶴(いはらさいかく)(1642-1693)
[商人の息子らしいが、西山宗因に弟子入りし談林派の俳諧によって「オランダの西鶴」なんて呼ばれて有名になったりした。もっとも凄まじいものは一日2万3500句を独吟したという多吟の記録であるが、残念ながら句の内容は残されていない。しかしやがて俳諧から浮世草子(うきよぞうし)と呼ばれる読み物へと情熱を移し、1682年に『好色一代男』を記してから、多くの作品を生みなすこととなった]
松尾芭蕉(まつおばしょう)(1644-1694)
[この『芭蕉雑談』の主人公?である]

[四十歳以上]

清水浜臣(しみずはまおみ)(1776-1824)
[医者の子として医の道を歩むも、国学者、歌人として名声を博した]
渡辺崋山(わたなべかざん)(1793-1841)
[田原藩の上士の家に生まれたが家内は困窮切迫し、得意の絵画を売りつつその道へと傾倒を深めていった。一方病牀の父に代わって家督を相続して後は、田原藩の藩士として藩政改革に関わるなど、公人としても重要な役職にあった。絵画、文学において非凡な才能を示すも、政治闘争に巻き込まれ、最後は切腹をして果てることとなった]
式亭三馬(しきていさんば)(1776-1822)
[(ウィキペディアより部分引用)江戸時代後期の地本作家で薬屋、浮世絵師。滑稽本『浮世風呂』『浮世床』などで知られる]
河野李由(こうのりゆう)(1662-1705)
[浄土真宗の寺院である明照寺(めんしょうじ)[滋賀県]の第14代住職にして、法名を通賢という。芭蕉に弟子入りしよく師を慕う一方、森川許六(きょりく)と俳書を編纂し、自らの発句を『猿蓑』などに残している]
長沢芦雪(ながさわろせつ)(1754-1799)
[辿るべき経歴は乏しいながら、高名な画家である円山応挙(まるやまおうきょ)(1733-1795)に弟子入りし、後年画家として活躍。画の性格と同様自由奔放、奇抜の人であったとされ、その死も普通のものではなかったとされるが、事の真相は闇のなか]
内藤丈草(ないとうじょうそう)(1662-1704)
[旧字で「丈艸」と書いた方が相応しいようなこの俳人は、蕉門十哲の一人に数えられる芭蕉の門人である。もとは尾張犬山藩士の長男として家督を相続する立場にあったが、これを異母弟に譲り、その後芭蕉の門人に至ったという]
左甚五郞(ひだりじんごろう)(生没年?)
[江戸時代初めに活躍したとされる彫刻職人で、もっぱら落語や講談で知られる人物。その実在は極めて不明瞭ながら、講談では嫉妬され右手を切り落とされて「左」を名乗ったとも、単に「左利き」だったとも云われる(ただし、子規がこの人を指して名称を記したかもまた不明瞭である)]

[三十歳以上]

浪化(ろうか)(1672-1703)
[東本願寺の法主(ほうしゅ)の息子として浄土真宗の僧となるが、同時に父親が北村季吟から俳諧を教わっていたことから、同門にて俳諧へ足を踏み込み、やがては去来の門弟、その関係から芭蕉の門弟として、芭蕉を敬いつつ交際した]
川崎重恭(かわさきしげたか)(1798-1832)
[この人を指すか?国学者。江戸の風俗などを編纂した『春の紅葉』などで知られる]

[二十歳以上]

源実朝(みなもとのさねとも)(1192-1219)
[鎌倉幕府開設の源頼朝の次男、すなわち北条政子の子であり、頼朝死後、長男である源頼家(よりいえ)が泥沼の政治闘争に敗れ二代目将軍から失墜(しっつい)した後、1203年から第三代将軍となる。わずか12歳の事である。藤原定家に自らの和歌の批評を求め、彼から万葉集を贈られ歓喜するなど、歌人としての才能を開花させ、663首の自作の和歌を『金塊和歌集(きんかいわかしゅう)』として纏める一方、成長に従って政権への関与を深めたが、源頼家の次男である公暁(くぎょう)(1200-1219)によって、鶴岡八幡宮参詣中に暗殺された]
藤原保吉(ふじわらやすきち)(1760-1784)
[(1789年死去説もある)馬具商人の道を歩むも加舎白雄(かやしらお)のもとで俳諧を学び、その高弟となる。
 紫陽花や折られて花の定まらぬ
の句が有名]

 尤(もっと)も有名なる者のみにて此(かく)の如し。外邦(がいほう)[外国のこと]にても格別の差異あるまじ。華山(かざん)の如き、三馬(さんば)の如き、丈草(じょうそう)の如きは世甚(はなは)だ稀なり。バーンス[ロバート・バーンズ(1759-1796)スコットランドの詩人]の如き、バイロン[ジョージ・ゴードン・バイロン(1788-1824)イギリスの詩人]の如き、実朝(さねとも)の如きは、更に稀なりと謂(い)ふべし。是(これ)に由(より)て之を観れば[漢文訓読から来る慣用的表現]、人生五十を超えずんば名を成す事難く、而(しか)して六十、七十に至れば、名を成す事甚(はなは)だ易きを知る。然れども千古の大名(たいめい)を成す者を見るに、常に後世に在らずして上世にあり。けだし人文未開の世に在て、特に一頭地を出だす者は、衆人の尊敬を受け易く、また千歳(せんざい)の古人は時代といふ要素を得て、嫉妬を受くる事少きなめり[婉曲的に「~であるようだ」というような意味]。独り彼(か)の松尾芭蕉に至りては、今より僅々(きんきん)二百余年以前に生れて、その一門は六十余州に広まり、弟子数百人の多きに及べり。而(しか)してその齡(よわい)を問へば、則ち五十有一のみ。

 古来多数の崇拝者を得たる者は、宗教の開祖に如(し)くはなし。釈迦(しゃか)、耶蘇(やそ)、マホメトは言ふを須(もち)ひず、達摩(だるま)の如き、弘法(こうぼう)の如き、日蓮の如き、その威霊の灼々(しゃくしゃく)[光り輝くさま/花の盛りをあらわす言葉]たる、実に驚くべきものあり。老子・孔子の所説は宗教に遠しといへども、一たび死後の信仰を得て後は、宗教と同じ愛情を惹起(じゃっき)[事件や問題などを引き起こすこと]せるを見る。然れども是(こ)れ皆、上世(じょうせい)に起りたる者なり。日蓮の如き、紀元後二千年に生れて一宗を開く、その困難察すべし。况(いわん)やその後三百年を経て宗教以外の一閑地に立ち、以て多数の崇拝者を得たる芭蕉に於てをや。人皆芭蕉を呼んで翁(おきな)となし、芭蕉を画くに白髪・白鬚(はくぜん)、六、七十の相貌(そうぼう)[顔かたち、容貌]を以てし毫も怪まず。而(しか)して、その年齡を問へば、則ち五十有一のみ。

2011/4/24-5/12

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