去ゆく歳の雪をまるめて眺めけり
蕎麦打の男暖を取る女かな
炊煙の夕べに尽きて除夜の鐘
謡(うたい)止んで餅つく音やはつげしき
重箱の隅を突きけり三が日
あらたまの響き問ふなり豆の音
野焼尽きて人影つとに失せにけり
野焼立ちて遠くに消ゆる子守歌
土器片に弥生の春を伝けり
傾城も睡りたるかなおぼろ月
軒先に葎(むぐら)の若葉伸びにけり
蚊の飛んで癇癪おこす夕べかな
反古焼の煙にむせぶ蝉の声
鮮やかな雨となりけり鳳仙花
燈籠に影絵をすなり女の子
夏絶(げだち)済んでますます肥ゆる庭ふくべ
野分去つて穂ことごとく垂れにけり
はしたなき風鈴見する野分かな
萩を喰ふ子犬に下駄を取られけり
荷卸して萩に安らう老爺(ろうや)かな
禅寺やお萩もてなす袈裟のぬし
狗子(えのころ)に銭をなくすや参禅日
行く我を見て寄る鹿や東大寺
きり/"\す夜更の声は哀なり
寐鎮まる里のあかりやきり/"\す
馬追を蒲団に籠もり聞く夜かな
紅葉のべゞを水子地蔵にかざしけり
夕凪の湖水に添ふやからすうり
懲りもせで今年も肥ゆる小芋かな
朝な夕な柿喰ふ秋となりにけり
起きてまた蒲団をかじる夜長かな
小夜(さよ)更けて糠星(ぬかぼし)ひとつ零(こぼ)れけり
湯の町や湯治が君の初しぐれ
近道に枯葉を踏むやおんなの子
「道惑ひ」
戻り来たる道の兆(きざ)しや冬木立
灌木(かんぼく)も枯尽したり鮒の池
薪を割る音さへすなり根岸庵
「怪火三句」
蔦枯れてきつね火の憑く宵あらん
[漱石の「この下に稲妻起る宵あらん」はこの句のパロディーなるや?]
三叉路を惑ふ鬼火の如く哉
狐火のちろつく晩や野辺送(のべおくり)
水墨の波間の影や浮き寝鳥
古池に張り音(ね)の凍る宵あらん
燗酒の酌する人もなかりけり
冬ざれのざれ音(ね)にむせぶいろり人
月は冷たく軒を差しけり硯箱
戸に雪の染み入る宿や越の朝
柴犬の寒に尻尾(しっぽ)を縮めけり
酒論夜を徹(とう)しまだきに折るゝ氷柱(つらら)かな
みずうみに雪をうずめて閉ざしけり
門松に杵つく音や初景色
なれば静的描写なれど
昇り来たるはつ日に杵がこだまかな
とせば動的傾向は高まるなり。
陳腐の題を理屈にものしたる悪しき例となれば、
梅咲かずうぐひす鳴かで去年(こぞ)の雪
と云ふは如何(いかが)。
朝顔のつるにつるべを取れけり
取るに足らざる駄句なれども、百日千唱の後なほ嫌み生ぜざるは千代の「もらひ水」に非ずしてこの句なるべし。何故と云ふに、千代の句は「朝顔に釣瓶取られた故に」と「もらひ水」を解説したるものにて、吟者の着想が表面に現れるなり。これ即ち主観にて、俳諧連歌に於いては謂ひこなしの妙とて一座の喝采を得たりとも、ひとたびこれを繰り返し吟味し尽せば、次第に嫌みを生じるなり。対して余の句は事実以外何者も非ず、従て何百日何千回読み返したりとても、着想の水面(みなも)に浮かび来るが如き嫌みは生ぜざるなり。尤も嫌み生ぜざるのみにては佳句ならざること、改めて謂ふまでもなし。
岩礁(がんしょう)のしぶき問ふなり女郎花
句意在りとても独善又は韜晦(とうかい)の勝りたる句なれば到底佳句には到らざるべし。但(ただ)し、ちと面白き句位なれば生まれるなり。時には楽しむべし。
牡丹散つて裏戸に当たる風の音
なら客体にて、
「当たる」を「敲く」とすればわずかに主観の籠もれるなり。さらに「風の音」を「風ばかり」とし
牡丹散つて裏戸を敲く風ばかり
と詠めば一層主観の勝ちたるなり。而(しか)して
牡丹散つて心辺を打つ風ばかり
なら主観的とはなれり。斯(かく)の如く主観客観は対立概念に非ずして、多くは両極間のどちらかに寄りたる者と考ふべし。なほ句意は即事にて取るべからず。呵々(かか)。
蜘のゐに蛾の停りたる悲しみよ
なれば写実的主観なれど
蜘のゐの主は川に溺れたり
となれば空想的なり。即ち
「蜘蛛は川に溺れたり」
の描写、現実に在りとても、些(いささ)か唐突に過ぎてものし得難き処を、「蜘のゐの主」と擬人化するによりて描写に空想の勝れり。然れども、
「となり屋の亭主は川に溺れたり」
とものするほどの客観性無きは、「蜘のゐの主」と云ふ擬人法によりて主観的着想の雑(まじ)りたる故にやあらん。されどこれ「悲しみよ」と直接に置く程の主観とはならず、従て写実的なる始めの句よりもやや客観性に勝れるなり。而(しか)して始の句に対するに、やや空想的客観の傾向を生ずる者なれど、「蜘のゐの主」によりて純客観とはならざるが如し。なほ考察の余地あり。
追伸
なほ写生的と客観的の意を混同するべからず。隣屋の亭主の溺れたるは事実にして、其を描写的にものさざれば、事実をものしても写生的とはならず。匆々(そうそう)。
(おわり)
2011/10/26