住職某の書屋に子規居士の反古在り。吾幸ひに此を閲(けみ)する機会在りて、五十句余(あまり)を抜き出(いだ)したる物なり。住職の快諾に感謝の念存するのみ。春夏秋冬は便宜上の区分にて、制作歳月と関らす。
秋立つや時計の針の永き程
朝顔の咲き初めし庭をありきけり
ひた濡れの町をうつすやいなびかり
天頂を真横に割くや稲光
稲妻や麓の闇を奪ひけり
稲妻の洗い残したるや金盥(かなだらい)
野分去つて鴉の声の鎮まりぬ
味噌皿の割音(われおと)さそふ野分かな
雲去つて風よく晴れて鶏頭花
また太るふくべまた細る我が身かも
[原文「ふくへ」と有り]
旅に憩(いこ)ふ蜻蛉(とんぼう)や君の指まわし
風船のかなたの空や鰯雲
朝な夕な鯊(はぜ)釣る人や埠頭(はと)の秋
椎の実にべたりと垂れて飛びにけり
吾木香(われもこう)風見の鳥のひと芝居
秋の灯を空に翳(かざ)して月肥ゆる
納豆の汁のあまさよ月見酒
[朗読の「うまさよ」は誤りなるべし]
隠れ家の軒の灯しや後の月
椀種(わんだね)に乏しき秋となりにけり
哄笑も曾(かつ)てとなりぬ反古の秋
灯ともして聞くや夜長の物語
甲斐ノアル秋ノ命ト思ケリ
咲き終えて立つくすなり枯尾花
小夜時雨止むべき宛(あて)もなかりけり
雲間よりあられたばしる銀河かな
独り病んで餅喰ふ夜や蚯蚓鳴く
堀割の小鴨に散るや藁半紙(わらばんし)
生けるものをめでたしと思ふ冬至哉
手荒げに煤も払われ佛だち
指折のままの睡(ねむり)や除夜の鐘
空瓶(あきびん)に寒のたまりし小庭かな
梅の香も夕べに散りて冴え返る
[原文「夕へ」と有り]
鶯の梅見て鳴かぬ宵在らん
春雨や宇治の川辺の渡し守
遠き灯のともす岬やおぼろ月
縁に座す上がる雲雀を描きながら
行く春や代筆書の別れ歌
陸奥(みちのく)の峠にきざす若葉かな
蜘のゐを眺めて疎きものあらん
いにしえの調べ尽くせよほとゝぎす
五月雨の雲つれ/”\の硯書
蚕豆(そらまめ)の海の青きを尋けり
驟雨去つて雑報(ざっぽう)書きの筆動く
ひと寐(い)ねて鉦(かね)も御輿もなかりけり
花活ける衿もとぬるき宵あらん
暑き岩をひた登りゆく霧ヶ峰
寐うちわの枝の細りやうつくしき
風鈴を引きちぎり捨つる夕哉
屋根裏にラムネの瓶を隠しけり
馳せのぼる坂のかなたよ雲の峰
[司馬氏の小説名の元なりとかや。「坂のかなたや」と横に付く]
2011/9/2