歌う百人一首(小倉百人一首)

小倉百人一首、歌の朗読と解説

歌う百人一首
 百人一首をアカペラでも口ずさめるくらいのメロディー付けをして歌にしたら、和歌を覚えるのに良かろうというのが第一段階。ついでにそのメロディーから、古典の紹介へといざなえたら面白かろうというのが第二段階。
005番 「奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の」

小倉百人一首の解説

成立について
 「小倉」の名称は後世のものだが、その成立は、
鎌倉の御家人であった宇都宮頼綱・よりつな(出家して実信房蓮生・じっしんぼうれんじょう)(1172-1259)が大きく関わっている。彼は、1205年の「畠山重忠の乱」に関連して、幕府の実質的な支配者である北条得宗家から嫌疑を掛けられたのが原因で、出家して御家人を引退し、東国宇都宮(栃木県)を離れ、京都は嵯峨野にある小倉山麓に別荘を設けて隠棲した。しばらく後に幕府に許され、1221年の承久の乱では鎌倉留守居を務め、伊予国守護の職を得るなど、御家人としての活躍を見せるが、その小倉山荘に飾るための、ふすま色紙用の和歌として選ばれたのが「小倉百人一首」である。
 この時期、政治を握った鎌倉において、武士の文化的側面を向上させる情熱もあってか、一種の和歌ブームのようなものが沸き起こっていたが、頼綱も和歌に浮かされた武士の一人であったといえる。さらに、公家であり歌人として知られていた藤原定家(ふじわらのていか・さだいえ)(1162-1241)の息子、藤原為家(ためいえ)のもとに、自分の娘が嫁いでいたこともあり、小倉山荘のための和歌の選定を定家に依頼。1235年、選定を完了した。
 これをもって、
    『定家の
      一人ふたつとない見事(1235)な選定
        小倉百人一首』

と覚えたからといって、百人の歌人たちから、一首づつを選び出した百人一首を、知ったことにはならないから注意が必要である。
藤原定家について
 撰者の藤原定家は、1200年に後鳥羽院(ごとばいん)と巡り逢い、宮廷歌人として才覚を欲しいままにし、それがためにやがては後鳥羽院と確執し、一度は歌会から追放されたものの、1221年の承久の乱により後鳥羽院が隠岐島(おきのしま)に流罪となると、再び宮廷歌人として名を馳せたという、当代の歌人である。
 奇しくも1235年は、彼が単独で選出した「新勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)」が完成した年である。幕府への配慮から後鳥羽院、順徳院の歌が採用されなかった「新勅撰和歌集」に対して、「百人一首」の最後の二首は、後鳥羽院と順徳院の歌が採用されている。前後して選定された「百人秀歌」(97首が百人一首と同じ)にも後鳥羽院と順徳院の歌は採用されていないので、「百人一首」には定家の私的な思い入れがあるようにも思われるが、定かではない。
内容について
 すべてを勅撰和歌集から選出。勅撰の初めである「古今集」から十代「続後撰集(しょくごせんしゅう)」までを網羅するが、最も多いのは「古今集」(24首)で、八代「新古今集」までで94首を数えることから、ほぼ「八代集(はちだいしゅう)」のアンソロジーと見なすことも出来るかもしれない。
 歌の分類では、恋の歌が43首(分類上異なる意見もあるのか不明)で、選集全体の性格を決定づけると同時に、四季の歌32首がこれに続くといった内容である。四季の分類は[春6、夏4、秋16、冬6]だそうである。
「歌かるた」について
 お正月の季語ともなっている、「かるた」であるが、ルーツは平安時代の「貝合せ」などにさかのぼれるという。しかし「かるた」の名称はポルトガル語で、ようするにカードゲームと一体になって、「あいうえお」順などで「ことわざ」などを織り込んだ取り札と、読み札とで遊ぶゲームとして定着したものだ。そのうち、百人一首を札として行うものを「歌かるた」と呼んだりする。和歌の書かれた「読み札」が百枚。これには歌人の肖像と和歌の全体が記されている。一方「取り札」も百枚。こちらは、ただ言葉だけが記され、しかも「下の句」だけが書かれていて、読み人が上の句を読み始めたら、即座に下の句を奪い取るようなゲームである。

小倉百人一首に関するリンク

小倉百人一首
………ウィキペディアの「小倉百人一首」
小倉百人一首
………「やまとうた」の中の「小倉百人一首」のページ。各歌の注釈は現在見られないが、各歌人の作品紹介ページで確認できるかと思われる。
ちょっと差がつく百人一首講座
………京都せんべいおかき専門店【長岡京小倉山荘】の中の「小倉百人一首」のページ。ネット上の解説の定番。

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