演芸会は比較的寒い時に開かれた。年はようやく押し詰まってくる。人は二十日《はつか》足らずの目のさきに春を控えた。市《いち》に生きるものは、忙しからんとしている。越年《おつねん》の計《はかりごと》は貧者の頭《こうべ》に落ちた。演芸会はこのあいだにあって、すべてののどかなるものと、余裕あるものと、春と暮の差別を知らぬものとを迎えた。
それが、いくらでもいる。たいていは若い男女《なんにょ》である。一日目《いちじつめ》に与次郎が、三四郎に向かって大成功と叫んだ。三四郎は二日目《ふつかめ》の切符を持っていた。与次郎が広田先生を誘って行けと言う。切符が違うだろうと聞けば、むろん違うと言う。しかし一人でほうっておくと、けっして行く気づかいがないから、君が寄って引っ張り出すのだと理由《わけ》を説明して聞かせた。三四郎は承知した。
夕刻に行ってみると、先生は明るいランプの下に大きな本を広げていた。
「おいでになりませんか」と聞くと、先生は少し笑いながら、無言のまま首を横に振った。子供のような所作をする。しかし三四郎には、それが学者らしく思われた。口をきかないところがゆかしく思われたのだろう。三四郎は中腰になって、ぼんやりしていた。先生は断わったのが気の毒になった。
「君行くなら、いっしょに出よう。ぼくも散歩ながら、そこまで行くから」
先生は黒い回套《まわし》を着て出た。懐手《ふところで》らしいがわからない。空が低くたれている。星の見えない寒さである。
「雨になるかもしれない」
「降ると困るでしょう」
「出入《ではい》りにね。日本の芝居小屋《しばいごや》は下足《げそく》があるから、天気のいい時ですらたいへんな不便だ。それで小屋の中は、空気が通わなくって、煙草が煙って、頭痛がして、――よく、みんな、あれで我慢ができるものだ」
「ですけれども、まさか戸外《こがい》でやるわけにもいかないからでしょう」
「お神楽《かぐら》はいつでも外でやっている。寒い時でも外でやる」
三四郎は、こりゃ議論にならないと思って、答を見合わせてしまった。
「ぼくは戸外がいい。暑くも寒くもない、きれいな空の下で、美しい空気を呼吸して、美しい芝居が見たい。透明な空気のような、純粋で簡単な芝居ができそうなものだ」
「先生の御覧になった夢でも、芝居にしたらそんなものができるでしょう」
「君ギリシアの芝居を知っているか」
「よく知りません。たしか戸外でやったんですね」
「戸外。まっ昼間。さぞいい心持ちだったろうと思う。席は天然の石だ。堂々としている。与次郎のようなものは、そういう所へ連れて行って、少し見せてやるといい」
また与次郎の悪口《わるくち》が出た。その与次郎は今ごろ窮屈な会場のなかで、一生懸命に、奔走(ほんそう)しかつ斡旋《あっせん》して大得意なのだからおもしろい。もし先生を連れて行かなかろうものなら、先生はたして来ない。たまにはこういう所へ来て見るのが、先生のためにはどのくらいいいかわからないのだのに、いくらぼくが言っても聞かない。困ったものだなあ。と嘆息するにきまっているからなおおもしろい。
先生はそれからギリシアの劇場の構造を詳しく話してくれた。三四郎はこの時先生から、〔Theatron《テアトロン》, |Orche^stra《オルケストラ》, |Ske^ne^《スケーネ》, |Proske^nion《プロスケニオン》〕 などという字の講釈を聞いた。なんとかいうドイツ人の説によるとアテン(=アテネ)の劇場は一万七千人をいれる席があったということも聞いた。それは小さいほうである。もっとも大きいのは、五万人をいれたということも聞いた。入場券は象牙《ぞうげ》と鉛と二通りあって、いずれも賞牌《メダル》みたような恰好《かっこう》で、表に模様が打ち出してあったり、彫刻が施してあるということも聞いた。先生はその入場券の価まで知っていた。一日だけの小芝居は十二銭で、三日続きの大芝居は三十五銭だと言った。三四郎がへえ、へえと感心しているうちに、演芸会場の前へ出た。
さかんに電燈がついている。入場者は続々寄って来る。与次郎の言ったよりも以上の景気である。
「どうです、せっかくだからおはいりになりませんか」
「いやはいらない」
先生はまた暗い方へ向いて行った。
三四郎は、しばらく先生の後影を見送っていたが、あとから、車で乗りつける人が、下足札を受け取る手間も惜しそうに、急いではいって行くのを見て、自分も足早に入場した。前へ押されたと同じことである。
入口に四、五人用のない人が立っている。そのうちの袴《はかま》を着けた男が入場券を受け取った。その男の肩の上から場内をのぞいて見ると、中は急に広くなっている。かつはなはだ明るい。三四郎は眉《まゆ》に手を加えないばかりにして、導かれた席に着いた。狭い所に割り込みながら、四方を見回すと、人間の持って来た色で目がちらちらする。自分の目を動かすからばかりではない。無数の人間に付着した色が、広い空間で、たえずめいめいに、かつかってに、動くからである。
舞台ではもう始まっている。出てくる人物が、みんな冠《かんむり》をかむって、沓《くつ》をはいていた。そこへ長い輿《こし》をかついで来た。それを舞台のまん中でとめた者がある。輿をおろすと、中からまた一人あらわれた。その男が刀を抜いて、輿を突き返したのと斬り合いを始めた。――三四郎にはなんのことかまるでわからない。もっとも与次郎から梗概《こうがい》を聞いたことはある。けれどもいいかげんに聞いていた。見ればわかるだろうと考えて、うんなるほどと言っていた。ところが見れば毫《ごう》もその意を得ない。三四郎の記憶にはただ入鹿《いるか》の大臣《おとど》という名前が残っている。三四郎はどれが入鹿だろうかと考えた。それはとうてい見込みがつかない。そこで舞台全体を入鹿のつもりでながめていた。すると冠でも、沓でも、筒袖《つつそで》の衣服《きもの》でも、使う言葉でも、なんとなく入鹿臭くなってきた。実をいうと三四郎には確然たる入鹿の観念がない。日本歴史を習ったのが、あまりに遠い過去であるから、古い入鹿の事もつい忘れてしまった。推古天皇《すいこてんのう》の時のようでもある。欽明天皇《きんめいてんのう》の御代《みよ》でもさしつかえない気がする。応神天皇《おうじんてんのう》や聖武天皇《しょうむてんのう》ではけっしてないと思う。三四郎はただ入鹿じみた心持ちを持っているだけである。芝居を見るにはそれでたくさんだと考えて、唐《から》めいた装束《しょうぞく》や背景をながめていた。しかし筋はちっともわからなかった。そのうち幕になった。
幕になる少しまえに、隣の男が、そのまた隣の男に、登場人物の声が、六畳敷で、親子差向かいの談話のようだ。まるで訓練がないと非難していた。そっち隣の男は登場人物の腰が据わらない。ことごとくひょろひょろしていると訴えていた。二人は登場人物の本名《ほんみょう》をみんな暗《そら》んじている。三四郎は耳を傾けて二人の談話を聞いていた。二人ともりっぱな服装《なり》をしている。おおかた有名な人だろうと思った。けれどももし与次郎にこの談話を聞かせたらさだめし反対するだろうと思った。その時うしろの方でうまいうまいなかなかうまいと大きな声を出した者がある。隣の男は二人ともうしろを振り返った。それぎり話をやめてしまった。そこで幕がおりた。
あすこ、ここに席を立つ者がある。花道《はなみち》から出口へかけて、人の影がすこぶる忙しい。三四郎は中腰になって、四方をぐるりと見回した。来ているはずの人はどこにも見えない。本当をいうと演芸中にもできるだけは気をつけていた。それで知れないから、幕になったらばと内々心あてにしていたのである。三四郎は少し失望した。やむをえず目を正面に帰した。
隣の連中《れんじゅう》はよほど世間が広い男たちとみえて、左右を顧みて、あすこにはだれがいる。ここにはだれがいるとしきりに知名の人の名を口にする。なかには離れながら、互いに挨拶《あいさつ》をしたのも、一、二人ある。三四郎はおかげでこれら知名な人の細君を少し覚えた。そのなかには新婚したばかりの者もあった。これは隣の一人にも珍しかったとみえて、その男はわざわざ眼鏡《めがね》をふき直して、なるほどなるほどと言って見ていた。
すると、幕のおりた舞台の前を、向こうの端《はじ》からこっちへ向けて、小走りに与次郎がかけて来た。三分の二ほどの所で留まった。少し及び腰になって、土間の中をのぞき込みながら、何か話している。三四郎はそれを見当にねらいをつけた。――舞台の端に立った与次郎から一直線に、二、三間隔てて美禰子の横顔が見えた。
そのそばにいる男は背中を三四郎に向けている。三四郎は心のうちに、この男が何かの拍子に、どうかしてこっちを向いてくれればいいと念じていた。うまいぐあいにその男は立った。すわりくたびれたとみえて、枡《ます》の仕切りに腰をかけて、場内を見回しはじめた。その時三四郎は明らかに野々宮さんの広い額と大きな目を認めることができた。野々宮さんが立つとともに、美禰子のうしろにいたよし子の姿も見えた。三四郎はこの三人のほかに、まだ連《つれ》がいるかいないかを確かめようとした。けれども遠くから見ると、ただ人がぎっしり詰まっているだけで、連といえば土間全体が連とみえるまでだからしかたがない。美禰子と与次郎のあいだには、時々談話が交換されつつあるらしい。野々宮さんもおりおり口を出すと思われる。
すると突然原口さんが幕の間から出て来た。与次郎と並んでしきりに土間の中をのぞきこむ。口はむろん動かしているのだろう。野々宮さんは合い図のような首を縦に振った。その時原口さんはうしろから、平手《ひらて》で、与次郎の背中をたたいた。与次郎はくるりと引っ繰り返って、幕の裾《すそ》をもぐってどこかへ消えうせた。原口さんは、舞台を降りて、人と人との間を伝わって、野々宮さんのそばまで来た。野々宮さんは、腰を立てて原口さんを通した。原口さんはぽかりと人の中へ飛び込んだ。美禰子とよし子のいるあたりで見えなくなった。
この連中の一挙一動を演芸以上の興味をもって注意していた三四郎は、この時急に原口流の所作がうらやましくなった。ああいう便利な方法で人のそばへ寄ることができようとは毫も思いつかなかった。自分もひとつまねてみようかしらと思った。しかしまねるという自覚が、すでに実行の勇気をくじいたうえに、もうはいる席は、いくら詰めても、むずかしかろうという遠慮が手伝って、三四郎の尻《しり》は依然として、もとの席を去りえなかった。
そのうち幕があいて、ハムレットが始まった。三四郎は広田先生のうちで西洋のなんとかいう名優のふんしたハムレットの写真を見たことがある。今三四郎の目の前にあらわれたハムレットは、これとほぼ同様の服装をしている。服装ばかりではない。顔まで似ている。両方とも八の字を寄せている。
このハムレットは動作がまったく軽快で、心持ちがいい。舞台の上を大いに動いて、また大いに動かせる。能掛《のうがか》りの入鹿とはたいへん趣を異にしている。ことに、ある時、ある場合に、舞台のまん中に立って、手を広げてみたり、空をにらんでみたりするときは、観客の眼中にほかのものはいっさい入り込む余地のないくらい強烈な刺激を与える。
その代り台詞《せりふ》は日本語である。西洋語を日本語に訳した日本語である。口調には抑揚がある。節奏もある。あるところは能弁(のうべん)すぎると思われるくらい流暢《りゅうちょう》に出る。文章もりっぱである。それでいて、気が乗らない。三四郎はハムレットがもう少し日本人じみたことを言ってくれればいいと思った。おっかさん、それじゃおとっさんにすまないじゃありませんかと言いそうなところで、急にアポロ(=アポロン、太陽神)などを引合いに出して、のん気にやってしまう。それでいて顔つきは親子とも泣きだしそうである。しかし三四郎はこの矛盾をただ朧気《おぼろげ》に感じたのみである。けっしてつまらないと思いきるほどの勇気は出なかった。
したがって、ハムレットに飽きた時は、美禰子の方を見ていた。美禰子が人の影に隠れて見えなくなる時は、ハムレットを見ていた。
ハムレットがオフェリヤに向かって、尼寺へ行け尼寺へ行けと言うところへきた時、三四郎はふと広田先生のことを考え出した。広田先生は言った。――ハムレットのようなものに結婚ができるか。――なるほど本で読むとそうらしい。けれども、芝居では結婚してもよさそうである。よく思案してみると、尼寺へ行けとの言い方が悪いのだろう。その証拠には尼寺へ行けと言われたオフェリヤがちっとも気の毒にならない。
幕がまたおりた。美禰子とよし子が席を立った。三四郎もつづいて立った。廊下まで来てみると、二人は廊下の中ほどで、男と話をしている。男は廊下から出《で》はいりのできる左側の席の戸口に半分からだを出した。男の横顔を見た時、三四郎はあとへ引き返した。席へ返らずに下足を取って表へ出た。
本来は暗い夜《よ》である。人の力で明るくした所を通り越すと、雨が落ちているように思う。風が枝を鳴らす。三四郎は急いで下宿に帰った。
夜半《よなか》から降りだした。三四郎は床《とこ》の中で、雨の音を聞きながら、尼寺へ行けという一句を柱にして、その周囲《まわり》にぐるぐる※[#「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31]徊《ていかい》した。広田先生も起きているかもしれない。先生はどんな柱を抱いているだろう。与次郎は偉大なる暗闇の中に正体なく埋まっているに違いない。……
あくる日は少し熱がする。頭が重いから寝ていた。昼飯は床の上に起き直って食った。また一寝入りすると今度は汗が出た。気がうとくなる。そこへ威勢よく与次郎がはいって来た。ゆうべも見えず、けさも講義に出ないようだからどうしたかと思って尋ねたと言う。三四郎は礼を述べた。
「なに、ゆうべは行ったんだ。行ったんだ。君が舞台の上に出てきて、美禰子さんと、遠くで話をしていたのも、ちゃんと知っている」
三四郎は少し酔ったような心持ちである。口をききだすと、つるつると出る。与次郎は手を出して、三四郎の額をおさえた。
「だいぶ熱がある。薬を飲まなくっちゃいけない。風邪《かぜ》を引いたんだ」
「演芸場があまり暑すぎて、明るすぎて、そうして外へ出ると、急に寒すぎて、暗すぎるからだ。あれはよくない」
「いけないたって、しかたがないじゃないか」
「しかたがないったって、いけない」
三四郎の言葉はだんだん短くなる、与次郎がいいかげんにあしらっているうちに、すうすう寝てしまった。一時間ほどしてまた目をあけた。与次郎を見て、
「君、そこにいるのか」と言う。今度は平生の三四郎のようである。気分はどうかと聞くと、頭が重いと答えただけである。
「風邪だろう」
「風邪だろう」
両方で同じ事を言った。しばらくしてから、三四郎が与次郎に聞いた。
「君、このあいだ美禰子さんの事を知ってるかとぼくに尋ねたね」
「美禰子さんの事を? どこで?」
「学校で」
「学校で? いつ」
与次郎はまだ思い出せない様子である。三四郎はやむをえずその前後の当時を詳しく説明した。与次郎は、
「なるほどそんな事があったかもしれない」と言っている。三四郎はずいぶん無責任だと思った。与次郎も少し気の毒になって、考え出そうとした。やがてこう言った。
「じゃ、なんじゃないか。美禰子さんが嫁に行くという話じゃないか」
「きまったのか」
「きまったように聞いたが、よくわからない」
「野々宮さんの所か」
「いや、野々宮さんじゃない」
「じゃ……」と言いかけてやめた。
「君、知ってるのか」
「知らない」と言い切った。すると与次郎が少し前へ乗り出してきた。
「どうもよくわからない。不思議な事があるんだが。もう少したたないと、どうなるんだか見当がつかない」
三四郎は、その不思議な事を、すぐ話せばいいと思うのに、与次郎は平気なもので、一人でのみこんで、一人で不思議がっている。三四郎はしばらく我慢していたが、とうとう焦《じ》れったくなって、与次郎に、美禰子に関するすべての事実を隠さずに話してくれと請求した。与次郎は笑いだした。そうして慰謝のためかなんだか、とんだところへ話頭を持っていってしまった。
「ばかだなあ、あんな女を思って。思ったってしかたがないよ。第一、君と同年《おないどし》ぐらいじゃないか。同年ぐらいの男にほれるのは昔の事だ。八百屋《やおや》お七《しち》時代の恋だ」
三四郎は黙っていた。けれども与次郎の意味はよくわからなかった。
「なぜというに。二十《はたち》前後の同じ年の男女《なんにょ》を二人並べてみろ。女のほうが万事|上手《うわて》だあね。男は馬鹿にされるばかりだ。女だって、自分の軽蔑《けいべつ》する男の所へ嫁へ行く気は出ないやね。もっとも自分が世界でいちばん偉いと思ってる女は例外だ。軽蔑する所へ行かなければ独身で暮らすよりほかに方法はないんだから。よく金持ちの娘や何かにそんなのがあるじゃないか、望んで嫁に来ておきながら、亭主を軽蔑しているのが。美禰子さんはそれよりずっと偉い。その代り、夫として尊敬のできない人の所へははじめから行く気はないんだから、相手になるものはその気でいなくっちゃいけない。そういう点で君だのぼくだのは、あの女の夫になる資格はないんだよ」
三四郎はとうとう与次郎といっしょにされてしまった。しかし依然として黙っていた。
「そりゃ君だって、ぼくだって、あの女よりはるかに偉いさ。お互いにこれでも、なあ。けれども、もう五、六年たたなくっちゃ、その偉さ加減がかの女の目に映ってこない。しかして、かの女は五、六年じっとしている気づかいはない。したがって、君があの女と結婚する事は風馬牛《ふうばぎゅう》だ」
与次郎は風馬牛という熟字を妙なところへ使った。そうして一人で笑っている。
「なに、もう五、六年もすると、あれより、ずっと上等なのが、あらわれて来るよ。日本《にほん》じゃ今女のほうが余っているんだから。風邪なんか引いて熱を出したってはじまらない。――なに世の中は広いから、心配するがものはない。じつはぼくにもいろいろあるんだが、ぼくのほうであんまりうるさいから、御用で長崎へ出張すると言ってね」
「なんだ、それは」
「なんだって、ぼくの関係した女さ」
三四郎は驚いた。
「なに、女だって、君なんぞのかつて近寄ったことのない種類の女だよ。それをね、長崎へ黴菌《ばいきん》の試験に出張するから当分だめだって断わっちまった。ところがその女が林檎《りんご》を持って停車場《ステーション》まで送りに行くと言いだしたんで、ぼくは弱ったね」
三四郎はますます驚いた。驚きながら聞いた。
「それで、どうした」
「どうしたか知らない。林檎を持って、停車場に待っていたんだろう」
「ひどい男だ。よく、そんな悪い事ができるね」
「悪い事で、かあいそうな事だとは知ってるけれども、しかたがない。はじめから次第次第に、そこまで運命に持っていかれるんだから。じつはとうのさきからぼくが医科の学生になっていたんだからなあ」
「なんで、そんなよけいな嘘《うそ》をつくんだ」
「そりゃ、またそれぞれの事情のあることなのさ。それで、女が病気の時に、診断を頼まれて困ったこともある」
三四郎はおかしくなった。
「その時は舌を見て、胸をたたいて、いいかげんにごまかしたが、その次に病院へ行って、見てもらいたいがいいかと聞かれたには閉口した」
三四郎はとうとう笑いだした。与次郎は、
「そういうこともたくさんあるから、まあ安心するがよかろう」と言った。なんの事だかわからない。しかし愉快になった。
与次郎はその時はじめて、美禰子に関する不思議を説明した。与次郎の言うところによると、よし子にも結婚の話がある。それから美禰子にもある。それだけならばいいが、よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい。だから不思議なのだそうだ。
三四郎も少しばかにされたような気がした。しかしよし子の結婚だけはたしかである。現に自分がその話をそばで聞いていた。ことによるとその話を美禰子のと取り違えたのかもしれない。けれども美禰子の結婚も、まったく嘘ではないらしい。三四郎ははっきりしたところが知りたくなった。ついでだから、与次郎に教えてくれと頼んだ。与次郎はわけなく承知した。よし子を見舞いに来るようにしてやるから、じかに聞いてみろという。うまい事を考えた。
「だから、薬を飲んで、待っていなくってはいけない」
「病気が直っても、寝て待っている」
二人は笑って別れた。帰りがけに与次郎が、近所の医者に来てもらう手続きをした。
晩になって、医者が来た。三四郎は自分で医者を迎えた覚えがないんだから、はじめは少し狼狽《ろうばい》した。そのうち脈を取られたのでようやく気がついた。年の若い丁寧な男である。三四郎は代診と鑑定した。五分ののち病症はインフルエンザときまった。今夜|頓服《とんぷく》を飲んで、なるべく風にあたらないようにしろという注意である。
翌日目がさめると、頭がだいぶ軽くなっている。寝ていれば、ほとんど常体に近い。ただ枕を離れると、ふらふらする。下女が来て、だいぶ部屋の中が熱臭いと言った。三四郎は飯も食わずに、仰向けに天井をながめていた。時々うとうと眠くなる。明らかに熱と疲れとにとらわれたありさまである。三四郎は、とらわれたまま、逆らわずに、寝たりさめたりするあいだに、自然に従う一種の快感を得た。病症が軽いからだと思った。
四時間、五時間とたつうちに、そろそろ退屈を感じだした。しきりに寝返りを打つ。外はいい天気である。障子にあたる日が、次第に影を移してゆく。雀《すずめ》が鳴く。三四郎はきょうも与次郎が遊びに来てくれればいいと思った。
ところへ下女が障子をあけて、女のお客様だと言う。よし子が、そう早く来ようとは待ち設けなかった。与次郎だけに敏捷《びんしょう》な働きをした。寝たまま、あけ放しの入口に目をつけていると、やがて高い姿が敷居の上へ現われた。きょうは紫の袴《はかま》をはいている。足は両方とも廊下にある。ちょっとはいるのを躊躇《ちゅうちょ》した様子が見える。三四郎は肩を床から上げて、「いらっしゃい」と言った。
よし子は障子をたてて、枕元《まくらもと》へすわった。六畳の座敷が、取り乱してあるうえに、けさは掃除《そうじ》をしないから、なお狭苦しい。女は、三四郎に、
「寝ていらっしゃい」と言った。三四郎はまた頭を枕へつけた。自分だけは穏やかである。
「臭くはないですか」と聞いた。
「ええ、少し」と言ったが、べつだん臭い顔もしなかった。「熱がおありなの。なんなんでしょう、御病気は。お医者はいらしって」
「医者はゆうべ来ました。インフルエンザだそうです」
「けさ早く佐々木さんがおいでになって、小川が病気だから見舞いに行ってやってください。何病だかわからないが、なんでも軽くはないようだっておっしゃるものだから、私も美禰子さんもびっくりしたの」
与次郎がまた少しほらを吹いた。悪く言えば、よし子を釣り出したようなものである。三四郎は人がいいから、気の毒でならない。「どうもありがとう」と言って寝ている。よし子は風呂敷包《ふろしきづつ》みの中から、蜜柑《みかん》の籠《かご》を出した。
「美禰子さんの御注意があったから買ってきました」と正直な事を言う。どっちのお見舞《みやげ》だかわからない。三四郎はよし子に対して礼を述べておいた。
「美禰子さんもあがるはずですが、このごろ少し忙しいものですから――どうぞよろしくって……」
「何か特別に忙しいことができたのですか」
「ええ。できたの」と言った。大きな黒い目が、枕についた三四郎の顔の上に落ちている。三四郎は下から、よし子の青白い額を見上げた。はじめてこの女に病院で会った昔を思い出した。今でもものうげに見える。同時に快活である。頼りになるべきすべての慰謝を三四郎の枕の上にもたらしてきた。
「蜜柑をむいてあげましょうか」
女は青い葉の間から、果物《くだもの》を取り出した。渇《かわ》いた人は、香《か》にほとばしる甘い露を、したたかに飲んだ。
「おいしいでしょう。美禰子さんのお見舞《みやげ》よ」
「もうたくさん」
女は袂《たもと》から白いハンケチを出して手をふいた。
「野々宮さん、あなたの御縁談はどうなりました」
「あれぎりです」
「美禰子さんにも縁談の口があるそうじゃありませんか」
「ええ、もうまとまりました」
「だれですか、さきは」
「私をもらうと言ったかたなの。ほほほおかしいでしょう。美禰子さんのお兄《あに》いさんのお友だちよ。私近いうちにまた兄といっしょに家を持ちますの。美禰子さんが行ってしまうと、もうご厄介《やっかい》になってるわけにゆかないから」
「あなたはお嫁には行かないんですか」
「行きたい所がありさえすれば行きますわ」
女はこう言い捨てて心持ちよく笑った。まだ行きたい所がないにきまっている。
三四郎はその日から四日《よっか》ほど床を離れなかった。五日目《いつかめ》にこわごわながら湯にはいって、鏡を見た。亡者《もうじゃ》の相がある。思い切って床屋へ行った。そのあくる日は日曜である。
朝飯後、シャツを重ねて、外套《がいとう》を着て、寒くないようにして美禰子の家へ行った。玄関によし子が立って、今|沓脱《くつぬぎ》へ降りようとしている。今兄の所へ行くところだと言う。美禰子はいない。三四郎はいっしょに表へ出た。
「もうすっかりいいんですか」
「ありがとう。もう直りました。――里見さんはどこへ行ったんですか」
「にいさん?」
「いいえ、美禰子さんです」
「美禰子さんは会堂《チャーチ》」
美禰子の会堂へ行くことは、はじめて聞いた。どこの会堂か教えてもらって、三四郎はよし子に別れた。横町を三つほど曲がると、すぐ前へ出た。三四郎はまったく耶蘇教《やそきょう》(=キリスト教・特にローマカトリック)に縁のない男である。会堂の中はのぞいて見たこともない。前へ立って、建物をながめた。説教の掲示を読んだ。鉄柵《てっさく》の所を行ったり来たりした。ある時は寄りかかってみた。三四郎はともかくもして、美禰子の出てくるのを待つつもりである。
やがて唱歌の声が聞こえた。賛美歌《さんびか》というものだろうと考えた。締め切った高い窓のうちのでき事である。音量から察するとよほどの人数らしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌はやんだ。風が吹く。三四郎は外套の襟《えり》を立てた。空に美禰子の好きな雲が出た。
かつて美禰子といっしょに秋の空を見たこともあった。所は広田先生の二階であった。田端《たばた》の小川の縁《ふち》にすわったこともあった。その時も一人ではなかった。迷羊《ストレイ・シープ》。迷羊《ストレイ・シープ》。雲が羊の形をしている。
忽然《こつぜん》として会堂の戸が開いた。中から人が出る。人は天国から浮世《うきよ》へ帰る。美禰子は終りから四番目であった。縞《しま》の吾妻《あずま》コートを着て、うつ向いて、上り口の階段を降りて来た。寒いとみえて、肩をすぼめて、両手を前で重ねて、できるだけ外界との交渉を少なくしている。美禰子はこのすべてにあがらざる態度を門ぎわまで持続した。その時、往来の忙しさに、はじめて気がついたように顔を上げた。三四郎の脱いだ帽子の影が、女の目に映った。二人は説教の掲示のある所で、互いに近寄った。
「どうなすって」
「今お宅までちょっと出たところです」
「そう、じゃいらっしゃい」
女はなかば歩をめぐらしかけた。相変らず低い下駄《げた》をはいている。男はわざと会堂の垣《かき》に身を寄せた。
「ここでお目にかかればそれでよい。さっきから、あなたの出て来るのを待っていた」
「おはいりになればよいのに。寒かったでしょう」
「寒かった」
「お風邪はもうよいの。大事になさらないと、ぶり返しますよ。まだ顔色がよくないようね」
男は返事をしずに、外套の隠袋《かくし》から半紙に包んだものを出した。
「拝借した金です。ながながありがとう。返そう返そうと思って、ついおそくなった」
美禰子はちょっと三四郎の顔を見たが、そのまま逆らわずに、紙包みを受け取った。しかし手に持ったなり、しまわずにながめている。三四郎もそれをながめている。言葉が少しのあいだ切れた。やがて、美禰子が言った。
「あなた、御不自由じゃなくって」
「いいえ、このあいだからそのつもりで国から取り寄せておいたのだから、どうか取ってください」
「そう。じゃいただいておきましょう」
女は紙包みを懐へ入れた。その手を吾妻コートから出した時、白いハンケチを持っていた。鼻のところへあてて、三四郎を見ている。ハンケチをかぐ様子でもある。やがて、その手を不意に延ばした。ハンケチが三四郎の顔の前へ来た。鋭い香《かおり》がぷんとする。
「ヘリオトロープ」と女が静かに言った。三四郎は思わず顔をあとへ引いた。ヘリオトロープの罎《びん》。四丁目の夕暮。迷羊《ストレイ・シープ》。迷羊《ストレイ・シープ》。空には高い日が明らかにかかる。
「結婚なさるそうですね」
美禰子は白いハンケチを袂《たもと》へ落とした。
「御存じなの」と言いながら、二重瞼《ふたえまぶた》を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気づかいすぎた目つきである。そのくせ眉《まゆ》だけははっきりおちついている。三四郎の舌が上顎《うわあご》へひっついてしまった。
女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねるほどのため息をかすかにもらした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。
「我はわが愆《とが》を知る。わが罪は常にわが前にあり」
聞き取れないくらいな声であった。それを三四郎は明らかに聞き取った。三四郎と美禰子はかようにして別れた。下宿へ帰ったら母からの電報が来ていた。あけて見ると、いつ立つとある。
2007/11/05