夏目漱石、三四郎5

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夏目漱石、三四郎5

手洗水(てあらいみず)

・あるいは「手水」の代用で「ちょうず」?
・「ちょうず」とは「手や顔を洗う水」または「手洗い・トイレ」を表現する。

待ち設ける(まちもうける)

・「設ける」には「あらかじめ準備する」の意味があるので、「用意して待ち受ける」といった意味。

唖(おし)

・話すことが出来ない状態。また、出来ない人。

ワットマン

・イギリス産の水彩画用画用紙。

しりめ(尻目・後目)

・瞳だけ動かして、横や後方を見ること。ながしめに目尻の方で見ること。
・「~を尻目に」などの用法で、「相手にしない態度を取ること」

度はずれ

・普通の程度を大きく超えていること。度を越していること。

がんぜない(頑是無い)

・幼くて物事の是非が分からない。また、聞き分けのない。
・無邪気な。

要目垣(かなめがき)

・バラ科の樹木であるカナメモチで作った、生け垣。

渾然・混然(こんぜん)

・溶け合って区別できない様子。

談枝(だんぺい)

・丹下段平のことではない。
・「話題」「話の種」といったことを表すそうだ。

近因(きんいん)

・もっとも直接的な原因。(対義語:遠因)

ここの会話について

・「そんなに高く飛びたくない人は~」は文脈から美禰子の言葉であるが、「我慢しなければ、死ぬばかりですもの」も女性側の言葉であることから、美禰子が云ったか、もしくはよし子にして、「そうすると~」を野々宮の言葉とすることになるのだろうが、安全で地面の上に立っているのがつまらないと考えるのは、意味的に捕らえると美禰子の方が相応しいので、ここの部分は少しく腑に落ちない。

空中飛行機

・アメリカのライト兄弟の初飛行について、ウィキペディアから部分抜粋すると、「1903年12月17日にノースカロライナ州のキティホークにて12馬力のエンジンを搭載した「ライトフライヤー号」によって人類で初の飛行機による有人動力飛行に成功した。」とある。ちにみに、飛行船の試験が成功したのは1852年である。18世紀後半に登場した気球に動力を付けるという遣り口であった。

のべつ

・たえまなく。

哀願(あいがん)をたくましゅう

・逞しい(たくましい)には「力強い、活力に満ちている」などのほかに「非常に盛んである」という意味がある。「哀願」は「同情に訴えて頼むこと」と言った意味。よって「非常に盛んに情に訴えて頼みまくっている」ということ。

銭(せん)

・百銭で一円。

葦簀掛け(よしずがけ)

・葦は「あし」とも「よし」とも発音する。「よし」とは、もともと「あし」の発音が悪に繋がるので「よし」と発音したもので、どちらも同じイネ科の多年草である。
・葦簀(よしず)とは、この葦の茎を編んで作った、すがれ状のものを言うが、これを立てかけて日よけにしたり、内側を隠したりするものを、葦簀掛けと言った。

癪(しゃく)

・もともとは、胸や腹の辺りの激痛をさしていた。これは「さしこみ」とも言う。
・ここから「不愉快でむしゃくしゃすること」を指すようになった。「癪に障る」などと使用されることが多い。

遺却(いきゃく)

・忘れ去ること。

造作(ぞうさ)

・手間や費用のかかること。面倒なこと。
・もてなし。御馳走。
・技巧。装飾。
・造り出すこと。(三省堂、スーパー大辞林より)

及第(きゅうだい)

・試験などに合格すること。(対義語:落第)

迷える子(ストレイ・シープ)

・「新約聖書」マタイによる福音書の18章の中にある弟子へのたとえ話。天国では誰が最もえらいのかと問う弟子達に対して、イエスがまず幼子を連れてきて、「お前達は、心を入れ替えて、この幼子のような精神でなければ、とうてい天国なんかいかれない。この子のように、自らを低くする者こそ、天国で一番えらいのである。」と説教を始め、「現世には罪があるが、手が罪を犯したら手を切り捨て、足が罪を犯したら足を切り捨て、このような小さな者の一人も軽んじないように気を付けなさい。」と云った後で、「もしある羊飼いが百匹の羊を飼っていて、その一匹が迷子になったとすれば、残りの九十九匹を現状が保たれる山に残して、迷子の羊を探しに行かないだろうか。そしてそれを見付けた時は、よく聞くのだ、迷わずにいる羊たちのためよりも、見付け出した一匹のためによろこぶだろう。このように、小さい者のひとりが滅びることは、天上の父の御心ではないのだ。」と説明する。
・だからといって、この聖書の内容を必要以上に読み解くことは、自己妄想の迷宮に足を踏み入れる可能性を秘めている。美禰子はチャーチに行って聖書に被れているから、魂の迷子に掛けて、詩的にこの言葉を使用したのだろう。この迷子の逸話が、作品の根底を流れる通奏低音にどの程度参加しているかは、よく考えてみる必要がある。確かに三四郎のたましいがふわつきだしたり、野々宮さんが家庭と学者の間を(家を移ることによって)さ迷ったり、さまよう雲のイメージがあったり、ストレイ・シープはともかく、純粋に「迷子」の概念に掛け合わせた考察は、面白いかも知れない。
・迷子というか、さ迷うといえば、3つの世界を空想の中にさ迷う三四郎は、都会的な女と田舎の女「お光さん」の間を、母の手紙だけでなく、自ら時々想い出すことによってもさ迷っている。もちろん「お光さん」も愛しているという意味ではない。結婚対象として、恒に可能な地点に居るばかりでなく、手紙によると求婚がなされているという点によってである。さらに三四郎という名称の、三と四という概念も、我々のいい加減極まりないイメージからすると、交わりにくそうな、行ったり来たりしそうなイメージが、内包されているのかも知れない。・・・などと、つい走り出してしまったが、三四郎については、朗読が終わってから、のんびり考えてみることにしましょう。

半間(はんま)

・中途半端なこと。間が抜けていること。

卒然

・とうとつな様子。突然。
・慌てる様子。

地息(じいき)

・地面からのぼる水蒸気。



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