その二十四 補遺二 近代秀歌・駄歌

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はじめての八代集その二十四 補遺二 近代秀歌・駄歌

 『近代秀歌』(岩波書店)の執筆者は、
   先ほど例をあげたような謎表現を知るのと知らないとでは、
     「現実の世界を感受する豊かさにおいて
         圧倒的な違いがあることは言うまでもない」
と明言していますが、その基準と根拠がまるでありません。もし圧倒的な違いがあるとしても、それは感受性の乏しい方へのベクトルではないかと思われるような短歌が、あまりにもひしめいているからです。けれども……

 百の短歌を紹介して、百が駄歌ということはありません。ただ『秀歌』の基準もなく、まるで玉石混淆に詰め込んだ、整理もつかないおもちゃ箱みたいな有様で、この程度のものを、有料の書籍として販売するのは、執筆者と出版社の良心において、いかがなものか、と思われるばかりのことです。(念のために言っておきますが、他のアンソロジーと称する書籍も、わたしの知る限りでは、類似のものに過ぎません。つまり、現代において、藤原公任卿は存在しないということでしょうか。)

 けれども購入したからには、最大限に利用することとして、『八代集』の付録に、短歌と呼ばれるものの優れたものと、劣ったものを、百首分類してみるのも悪くはありません。それによって、かつての和歌と、近代のものと、どちらにもそれぞれ、優れたものと、劣ったものが存在すること。また、和歌と短歌は別物であるなどと、矮小(わいしょう)な精神を掲げて分割を加えるほどの違いが、根本的には無いということ。けれども、詠まれた内容や、詠まれ方は、時代と共に変化していること。などが、分るのではないかと思われるからです。

採用歌

秀歌 (二十首)

なにとなく
  君に待たるる ここちして
 出でし花野の 夕月夜かな
          与謝野晶子 『みだれ髪』

なんとなく
  あなたに待たれている 気持ちがして
 出かけた花野の 夕月の夜でした

[冒頭の「なにとなく」は、散漫に加えたもののように感じるかもしれませんが、自らの期待もあって、根拠もなく君が待っているような気持ちが湧いてきたその心情を、表現するために置かれたもので、つまりは必要な言葉となっています。]

やは肌の
   あつき血汐(ちしほ)に ふれも見で
  さびしからずや 道を説く君
          与謝野晶子 『みだれ髪』

柔らかい肌の
  あつい恋の血汐に 触れてもみないで
 さみしくないの 理屈ばっかり言って

それとなく
  紅き花みな 友にゆづり
 そむきて泣きて 忘れ草つむ
          山川登美子(とみこ) 『恋衣(こいごろも)』

さりげなく
  紅い花をすべて 友にゆずってしまい
 背を向けては泣きながら
   (本当はあの人にあげるはずだった、
     紅い花を忘れるために)
   忘れ草なんか摘んでいるのです

髪五尺
  ときなば水に やはらかき
 少女(をとめ)ごころは 秘めて放たじ
          与謝野晶子 『みだれ髪』

長い髪を
  ほどけば水に やわらかく放たれます
    でも少女のこころだけは
  そっと隠して 水に放ったりはしないもの

その子二十(はたち)
  櫛(くし)にながるる 黒髪の
 おごりの春の うつくしきかな
          与謝野晶子 『みだれ髪』

その子は二十歳
   櫛に流している 黒い髪のすばらしさに
  おごっているような束の間の春
     なんてうつくしいことでしょう

不来方(こずかた)の
   お城の草に 寝ころびて
 空に吸はれし 十五の心
          石川啄木(たくぼく) 『一握(いちあく)の砂』

不来方の城(盛岡城)に 寝転びながら
  眺める空に吸われたような 十五歳のこころよ

東海(とうかい)の
  小島の磯の 白砂(しらすな)に
 われ泣きぬれて 蟹とたはむる
          石川啄木 『一握の砂』

東海の小島の磯の
  白砂にしゃがみこんで
    わたしはなみだに濡れながら
  蟹とたわむれているのでした

清水(きよみづ)へ
   祇園(ぎをん)をよぎる 桜月夜(さくらづきよ)
 こよひ逢ふ人 みなうつくしき
          与謝野晶子 『みだれ髪』

清水へ向かって
   祇園を横ぎる 桜の美しい月夜です。
 今宵は逢う人、逢う人
     誰もがうつくしく見えるでしょう。

病める児(こ)は
   ハモニカを吹き 夜に入りぬ
 もろこし畑(ばた)の 黄なる月の出
          北原白秋(きたはらはくしゅう) 『桐(きり)の花』

病気の子供は
   ハモニカを吹きながら 夜を迎えます。
  それはもろこし畑の
     黄色の月の昇る時……

友がみな
  われよりえらく 見ゆる日よ
 花を買ひ来て 妻としたしむ
          石川啄木 『一握の砂』

[訳するまでもなく、友たちが自分より出世して立派に思えるような日に、花を買ってきて妻と眺めているという趣旨ですが、「見ゆる日」とことわりのあることや、花を購入するあたりから、あるいは給料日にその内訳を眺めて、ため息一つに花を買って、妻と月給の話でもしているところかと、想像力の膨らむようなところが魅力かもしれません。一個人の感慨を、てらいもなく率直に語ったからこそ、私たちもその思いを受け止めることが出来るのです。]

幼きは
  幼きどちの ものがたり
 葡萄(ぶどう)のかげに
   月かたぶきぬ
          佐佐木信綱(のぶつな) 『思草(おもいぐさ)』

幼いどうしは
   幼いどうしの ものがたり
  ぶどうの影からは
      傾く月が見えています

柿の実の
  あまきもありぬ 柿の実の
 しふきもありぬ しふきそうまき
          正岡子規 『竹之里歌』

[「しふき」は濁点を記入していないだけで、「しぶき」の意味ですから、柿の甘いのと渋いのがあるが、渋いのがうまいと言っているだけのことです。ただ、一二句と三四句が繰り返しによる言葉のリズム遊びになっていて、しかも甘いのがうまいのではなく、渋い方がうまいよというオチも、遊び心があって、全体が愉快に詠まれる訳です。さらに具体的に述べますと、
     一句「柿の実の」と三句「柿の実の」
     二句「あまきもありぬ」と四句「しぶきもありぬ」
     四句「しぶきも」五句「しぶきぞ」
     二句「あまき」五句「うまき」
という全体に張り巡らされたような繰り返しがなされ、ただのリズム遊びではなくそれが構造的に生かされているのですが、その内容がきわめて即興的であるために、虚飾にこね回したようないやらしさがまるでありません。つまりは、取りどころも無いような感慨を、ただ述べたような内容であるからこそ、この短歌は成功していると言えるでしょう。特に、母音で記すと、
     aioio aaioaiu
     aioio iuioaiu
        iuiouai
となるのですが、「i」がまるで他の母音を挟み込みながら、全体を統一する定期的な口調として、語りのリズムを規定しているのが分かるかと思います。その上で、二句と四句の文脈の区切りに「aiu」と繰り返された母音が、結句の最後で「uai」と切り替わる効果は見事です。それを噛みしめながら、唱えてみると、どうしてこれが心地よく語れるのかが、少しずつ分かってくるのではないでしょうか。つまりこの短歌の場合、純粋に内容だけを吟味することには、びた一文の価値すら無いと言うことになります。]

[同じ言葉の繰り返しと言えば、おなじ百首の紹介に、
     海底(うなぞこ)に
        眼のなき魚(うを)の 棲(す)むといふ
      眼の無き魚の 恋しかりけり
という、若山牧水の短歌もありますが、構造的に散漫なただの繰り返しが、いかにずぼらでしまりの悪いものであるか、比べてみるとよく分かるかと思います。]

街(まち)をゆき
   子供の傍(そば)を 通る時
 蜜柑(みかん)の香(か)せり
     冬がまた来る
          木下利玄(きのしたりげん) 『紅玉(こうぎょく)』

街を行きながら
   子供のそばを 通ったときに
  蜜柑のかおりがしました。
     また冬がやって来ます。

ふるさとの 訛(なまり)なつかし
  停車場の 人ごみの中に
   そを聴きにゆく
          石川啄木 『一握の砂』

ふるさとの 訛りがなつかしいものですから
   停車場の 人混みの中へと
  それを聞きに行ったりするのでした。

くれなゐの
  二尺伸びたる 薔薇(ばら)の芽の
 針やはらかに 春雨のふる
          正岡子規 『竹乃里歌』

紅(くれない)の薔薇の新芽のあたりは
   紅色に見えるものですが、いつしか二尺に伸びた
 その新芽のトゲもまだ柔らかい頃、
     やわらかな春雨が降っているのでした。

瓶(びん)にさす
  藤の花ぶさ みじかければ
    たゝみの上に
  とゞかざりけり
          正岡子規 『竹乃里歌』

藤の花というのは
   すばらしく長く垂れ下がって見えるものですが
 この瓶に挿した藤の花の房は
     本来あるべきところから切り離されたせいでしょうか
  畳みの上にすら、
    どうしても届きはしないのでした。

ほととぎす
   嵯峨(さが)へは一里(いちり) 京へ三里(さんり)
 水の清滝(きよたき) 夜の明けやすき
          与謝野晶子 『みだれ髪』

[この短歌のおもしろいところは、ホトトギスを聞きながら、「嵯峨まで一里、京まで三里あるこの清滝ははやくも夜が明けるよ」と詠んだようにも、ホトトギスに向かって、
    「ほととぎすよ、嵯峨へは一里だし、京へは三里あるぞ」
夜が明けやすいのだから、はやく出かけておくれよ。とでも催促するようにも聞こえますし、そうではなくてホトトギスの方が、まるで、
    「嵯峨へは一里、京へは三里」
と教え鳴いているように感じられたようにも捉えられるという……
 つまりは、一見味気ない解説に過ぎないような二句目と三句目が、情緒的な肝として利用され、さまざまな詠み取り方がなされるばかりではなく、
    「ホトトギスの鳴く水の清滝は夜が明けやすいよ」
という清滝をスポットとした詠み手の心情が、嵯峨と京へ思いをはせるような、スケールの大きなものとなっている点にあると言えるでしょう。しっかりとした近景のリリシズムを描写しながら、遠景へと思いをはせる詠み手の心情が、きわめて構造的にまとめられているあたり、さすが明治の式子内親王と讃えられる、与謝野晶子ならではの作品にまとめられています。つまりは知性が、詩情にかえされているのです。]

金色(こんじき)の
  ちひさき鳥の かたちして
 銀杏(いちやう)ちるなり 夕日の岡に
          与謝野晶子 『恋衣』

金色の
  小さな鳥の かたちをして
 いちょうは散ります 夕日の照らす岡のあたりに

最上川
  逆白波(さかしらなみ)の たつまでに
 ふぶくゆふべと なりにけるかも
          斎藤茂吉 『白き山』

最上川は
  さかさに白波が 立ちのぼるほどに
 吹雪くような夕べとなったものです

[はじめは次点より下に置いたものですが、次第にのぼりつめて、とうとう秀歌へと辿り着いた短歌です。評価するにせよ、批判するにせよ、第一印象などというものがいかに頼りないものか、スルメのような和歌もありますし、かめば嫌みの湧いてくるような、体裁ばかりの和歌もある訳です。
 ところでこの短歌ですが、宿題の答案みたいな固さのある『七堂伽藍』(下に掲載)の短歌よりも、柔軟で詩情がこもります。ただしこの短歌にまつわるエピソードは、詠み手のあまりにも矮小な精神をひけらかすようで、聞くたびに悲しくなるくらいの醜態です。言葉を取っておくなんて、せこせこしすぎて、子規居士が聴いたら叱りつけるには違いありません。]

いちはつの
  花咲きいでゝ 我目には
 今年ばかりの 春行かんとす
          正岡子規 『竹乃里歌』

鳶尾(いちはつ)の
   花が咲き始めて 私の目には
 今年が最後なのでしょう
     春が過ぎてゆくのです

佳作 (十四首)

[朗読2]

  心情は籠もっていても、姿の結晶とまでは言えないもの。
 および、その姿は優れていながら、詩情が比類ない結晶とまでは言えないもの。わずかばかりの言葉遊びの気配の拭いきれないもの。つまりは、秀歌とまでは、言い切れないものの良き作品を、ここに掲載します。

君がために
  死なむと云ひし 男らの
 みなながらへぬ おもしろきかな
          原阿佐緒(はらあさお) 『涙痕(るいこん)』

君のために
  死のうと言った 男たちの
 みんな長らえて生きているなんて
   思わず笑っちゃうわね

石をもて 追はるるごとく
   ふるさとを 出でしかなしみ
 消ゆる時なし
          石川啄木 『一握の砂』

石を投げられて
  追い払われるように
    ふるさとを 出たときの悲しみは
  消えるときはありません

木に花咲き
   君わが妻と ならむ日の
 四月なかなか 遠くもあるかな
          前田夕暮(ゆうぐれ) 『収穫』

木に花が咲いて
  あなたがわたしの妻と なるであろう日の
 四月はなかなかに 遠く感じられてなりません

[「金葉和歌集」の紹介に解説があります。
    ⇒こちら
ちょっと極論を述べましたが、引っかかる処のあるものの、それほど悪いものではありません。むしろ『近代秀歌』というものを選ぶとすれば、入選すべき作品なのかもしれませんね。]

かたはらに
  秋ぐさの花 かたるらく
    ほろびしものは
  なつかしきかな
          若山牧水(わかやまぼくすい) 『路上』

傍らで
  秋草の花が 語るには
    「滅びたものが、
   今はなつかしく思われます」

たはむれに 母を背負ひて
   そのあまり 軽(かろ)きに泣きて
 三歩あゆまず
          石川啄木 『一握の砂』

たわむれに 母を背負って
   そのあまりに軽いのに 悲しくなって
  三歩ほども歩けませんでした

新しき 明日の来(きた)るを 信ずといふ
  自分の言葉に
    嘘はなけれど――
          石川啄木 『悲しき玩具(がんぐ)』

[自由な言論が統制されて、やがては戦争へと至る頃に詠まれた作品です。なるほど、現代にもそのまま通じるような、感慨をあまりにも率直に述べたような、価値の低い短歌のようにも思えますが、必ずしもそうではありません。
     「明日への信念」「宣誓」「虚偽」
 深くは、考察はしませんが、
  あらゆる人の持つような根本的な心情の、
   抽象概念を呈示しているような印象がこもります。]

はたらけど
  はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり
 ぢつと手を見る
          石川啄木 『一握の砂』

働いても 働いても
  わたしの暮らしは楽にはなりません。
 じっと手を眺めれば……

曼珠沙華(まんじゆしやげ)
   一(ひと)むら燃えて 秋陽(あきび)つよし
 そこ過ぎてゐる しづかなる径(みち)
          木下利玄(きのしたりげん) 『みかんの木』

[「拾遺和歌集 後編」の紹介に解説があります。
    ⇒こちら
極論を述べていますが、「秋陽つよし」の問題は、『秀歌』が『佳作』に落ちるくらいのものには過ぎません。『拾遺集』の本文とことなり、ここでは木下利玄の「牡丹花」の短歌より優れたものとして置かれていますが、つまりは『拾遺集』執筆当時と、『補遺』の推敲時点の、わたしの考え方の違いを露呈しているに過ぎません。ただし、「秋陽つよし」には今でも引っかかり続けています。いつか解決する日が来るのでしょうか。]

池水は
  濁(にご)りににごり 藤なみの
 影もうつらず
    雨ふりしきる
           伊藤左千夫(さちお) 『左千夫歌集』

[描写に詩情はこもりますが、たとえば正岡子規の「たゝみの上にとゞかざりけり」と並べてみると、特に二句目の「濁りににごり」という仰々しい表現に、わずかな安易さがこもるようで、つまりはちょっとしたわざとらしさが、傷となって残るのが無念です。始めて詠む時は興が湧くのですが、十回、二十回と唱えるうちに、少しずつ疲れてくるようなものです。]

はつなつの
   かぜとなりぬと みほとけは
  をゆびのうれに ほのしらすらし
          会津八一(あいづやいち) 『鹿鳴(ろくめい)集』

初夏の
  風となったと 御仏は
 指さきのあたりで
   ほのかに知らせてくれるようです

 これ以下のものは、以上の『佳作』より見劣りがします。
  『佳作下』と言ったところでしょうか。

幾山河(いくやまかは) 越えさり行かば
   寂しさの 終(は)てなむ国ぞ
 今日(けふ)も旅ゆく
          若山牧水 『海の声』

幾つの山河を 越え去って行ったなら
   寂しさの 果てることのある国だというのだろうか
 今日も旅を続けながら……

大門(だいもん)の
   いしずゑ苔(こけ)に うづもれて
 七堂伽藍(しちだうがらん) ただ秋の風
          佐佐木信綱 『思草』

寺の大門の
  土台石さえ苔に埋もれているようです。
 寺の建築物にはただ、
   秋の風が吹き抜けてゆくばかり。

昼ながら
   幽(かす)かに光る 螢(ほたる)一つ
 孟宗(まうそう)の薮(やぶ)を 出でて消えたり
          北原白秋 『雀の卵』

昼でありながら
  幽かな光をした 螢がひとつ
 孟宗竹の薮から 逃れて消えました

白鳥(しらとり)は 哀しからずや
  空の青 海のあをにも
    染(そ)まずただよふ
          若山牧水 『海の声』

白鳥は 哀しくはないのでしょうか。
  真っ青な空 海の青にさえ
    染まらずに白くただよっています。

 以上、合わせて三十四首は、『秀歌』のもとに、百首程度のアンソロジーを組んだとして、採用されるべき作品になっているかと思われます。

次点 (六首)

 アンソロジーが千首や二千首であれば、
   そこに含まれることもあるでしょう。
  ここまでを、入選とみなしておきましょう。

鎌倉や
  御仏(みほとけ)なれど 釈迦牟尼(しやかむに)は
 美男(びなん)におはす 夏木立かな
          与謝野晶子 『恋衣』

[鎌倉の大仏を、仏のくせに美男子であると讃えたのは、ユーモアがあってしかも女性的でよろしいのですが、対比としては「鎌倉や」という大なるものから、大仏の顔へとスポットを収斂させて、その感想を述べておきながら、不意に視線を移せば「ああ夏木立だなあ」というオチは、配合の妙と信じて詠み込んだものではありましょうが、かえって大仏は美男子だなあと感じた心情に、蛇足を加えるような不始末と相成りました。そこが残念ですが、同時にちょっとしたおかしさとなって、この短歌を、陽気なものにもしているようです。つまりは、悪い歌ではありません。]

牡丹花(ぼたんくわ)は
  咲き定まりて 静かなり
 花の占(し)めたる 位置のたしかさ
          木下利玄(きのしたりげん) 『一路』

[はじめは良いのですが、絵画やスナップであるように、「咲き定まって、位置が確かである」という表現が、こころに牡丹の情景を描いていているうちに、次第にその心情より劣ってくる。つまりベクトルでも表わすような、殺風景な解説に終始するところが、着想においてはプラスに、詩情に於いてはマイナスに作用して、拮抗するようなところに、抜けきらないものがあるようです。つまりは何度も口に出しているうちに、ちょっとした味気なさが芽生えてしまうくらいのもので、決して悪い歌ではありません。]

ふるさとの
   尾鈴(をすず)の山の かなしさよ
 秋もかすみの たなびきて居(を)り
          若山牧水 『みなかみ』

[甘いところがあるとでも言いましょうか、
  ちょっと安易にものしたような嫌いがあります。
   特に「かなしさよ」の表現には、
    俗な安っぽさが籠もるようです。
   連続された詩の一部なら、生きるでしょう。
  わずか五句の結晶とするならば、
 ありがちな感傷主義が際立ちます。]

高槻(たかつき)の
   こずゑにありて 頬白(ほほじろ)の
 さへづる春と なりにけるかも
          島木赤彦(しまきあかひこ) 『太虚(たいきょ)集』

[万葉集のパロディーという印象が詠むたびに先に立って、そのわりには「高槻の梢にありて」という表現は、着想を練り上げた人工物の気配がただよいますから、万葉集の和歌のようには、その場の印象を歌い上げたものとして、よろこびにあふれては来ないようです。つまりは、八代集以降の勅撰和歌集に、しばしば見られる人工物の体裁と、似通うものがあると言えるでしょう。
 表現のそつなさ
  その割りには心情に響かないもどかしさ。
   その両方を感じるとしたら、
  それがこの短歌の本質かと思われます。]

うすべにに
  葉はいちはやく 萌(も)えいでて
 咲かむとすなり 山桜花(やまさくらばな)
          若山牧水 『山桜の歌』

[これも、ちょっと安易な表現にとどまっているようです。月並調に陥りそうな、ありがちの発想の、境界線をぎりぎり抜け出しているくらいの所でしょうか。初学には優れて眺められ、次第に陳腐に感じられるような気配がします。

やまばとの
  とよもすやどの しづもりに
 なれはもゆくか ねむるごとくに
          会津八一(あいづやいち) 『寒燈(かんとう)集』

[人工物の気配です。
  オブジェとしては立派です。
   そのわりに心を動かされない、
  不思議なもどかしさにうたれます。
 特に、豊かな響きを意味する「とよもす」という表現を使用しながら、すぐに「しづもりに」と置き、静寂へと誘うあたり、聞き手の情景描写にゆだねたような発想ではなく、下の句を導き出すために、やや強引に舵を切ったような作為性が感じらます。それで、
    「岩にしみいる蝉の声」
のようには、素直に受け入れられないもどかしさが、心情にマイナスに作用しているようです。もちろん、わずかなものには過ぎませんが。]

 以上、百首のうち四十首が、
   『近代秀歌』として選出し得る、
      ギリギリのラインかと思われます。

不採用

[朗読3]

 やや安易にまとめただけの、
  いくらでも大量生産されそうなもの。
   あるいは着想のこなれていないもの。
    または、着想に対して、
   表現の不十分なもの。
  それらは、悪歌とは言えませんが、
 入選すべき短歌とも思えません。

[ただし、この中には、わたし自身が採用か不採用かで評価の定まりきれないようなものも、含まれています。その時の気分で評価が変わるような作品の位置づけを確定させるには、はっきりとした理由付けが必要になってくるようですが、それは故意にこしらえるものではなく、何度も繰り返し唱えるうちに、ようやく悟れるようなものですから、すべてを確定させることは、なかなか時間が必要にはなってくるかと思われます。今はそこまでしていられないので、暫定的にコンテンツを完了させることに致しましょう。]

かんがへて
   飲みはじめたる 一合の
 二合の酒の 夏のゆふぐれ
          若山牧水 『死か芸術か』

[酒を飲んでいるせいでしょうか、ちょっと安易な甘ったれた短歌です。「かんがえて飲み始めた」というのも、誰にでも思いつきそうですし、「一合の二合の」なんてリズムも、特筆するほどのことはありません。つまりはだらけた表現で、その辺のちまたのおやじでも詠めそうなくらいです。]

のど赤き
   玄鳥(つばくらめ)ふたつ 屋梁(はり)にゐて
  足乳根(たらちね)の母は 死にたまふなり
          斎藤茂吉 『赤光(しゃっこう)』

[つばくらめを、ふたつとしたところに、着想のひねりのようなものが先に立ち、品評会の提出物にはちょうどよいかも知れませんが、母の死を詠んだ心情としては、いつわりの気配がただよいます。つまりは、「のど赤き」などと、かなしみを知らしめようとした冒頭と、二羽ちょこんと並べたのがあいまって、上の句がちょっと安っぽい俗画のように、デッサンが荒くなってしまいました。率直な現代語にしてみれば、よく分かると思います。
    「のどの赤いつばめがふたつ屋根にいて
       たらちねの母は死んでしまわれました」
  あなたは心から感動できるでしょうか。
 のどの赤いつばめという、嘆きの比喩を丸だしにしたような安っぽい鳥が、「ふたつ」などというわざとらしい数え違いを引き連れて、無理矢理くくりつけられて並ばされたような上の句が、下の句を嘘の心情、つまり母の死を悲しむ思いではなく、それをうまく表現してやりたいような、詠み手の創作欲へと、いざなうばかりではないでしょうか。
 それでも辛うじて、詠み手の真心が、短歌の真実味をつなぎ止めているようにも思えますから、ここでは「可」ということにしておきましょう。]

春の鳥
  な鳴きそ鳴きそ あかあかと
 外(と)の面(も)の草に 日の入る夕(ゆふべ)
          北原白秋 『桐の花』

[「な鳴きそ鳴きそ」というのは、「な鳴きそ、な鳴きそ」を略したもので、「鳴くんじゃない、鳴くんじゃない」という意味になります。家の外の野原を赤く染めるみたいにして夕日が消えていくのに、春の鳥よそんなに鳴くなというのが全体の趣旨で、あるいは春にもなったのだから、日が落ちるからと言って、そんなに悲しまなくてもよいのだよ、といったニュアンスが込められているのかもしれませんが……
「あかあかと」やら「かにかくに」といった表現は、この頃の流行なのでしょうか。三句目に加えた「あかあかと」が、上の句にも掛かるように感じられてしまうものですから、
    「春の鳥よ、あかあかと鳴くんじゃない」
というヘンなイメージが混入してしまい、「あかあかと」が稚拙な表現のように、浮き出てしまう結果となりました。それによって、
    「春の鳥 な鳴きそ鳴きそ 外の草に
       あかあかとして 日の入る夕」
のような無難な情景としてはまとまらず、全体に対して「あかあかと」がちょっと子供子供したような感じに響いて来るのです。実は、それが作者の狙いでもあり、
     「ななきそなきそ、あかあかと」
という言葉遊びをクローズアップさせたかったということなのですが、情景描写がいびつになってしまったために、言葉のリズム遊びばかりが空しく際立つような不始末と相成りました。それが不採用の理由です。]

其子等(そのこら)に
  捕へられむと 母が魂(たま)
 螢(ほたる)と成りて
     夜を来たるらし
          窪田空穂(くぼたうつぼ) 『土を眺めて』

[ちなみに、書籍には、
     「この歌が、国民的知名度を得てしまったのは」
などと、現実を無視した妄想が記されていますが、渋谷の交差点でもアンケート調査を行ってみたらよいかと思われます。はたして著者の述べるところの国民的認知度とは、八割のことでしょうか。それとも六割?
 まずそこからして、
  執筆者の認識は誤謬(ごびゅう)にあふれているのですが、
   それはさておき……
  「ほたるとなって沢に飛び交う」
 くらいなら、まだしも自然な情景が浮かんできますが、「ほたるとなって夜をやって来た」と置いたものですから、実際のほたるを眺めてそれを比喩したものというよりは、擬人法で虚構の物語を完遂させたような印象が強まり、ちょっと安っぽい描写へと落ちぶれてしまいました。つまりは、詠み手がほたるを眺めてそのように感じた、という臨場感が遠のいてしまったということです。
 ただし、この短歌は、採用に値するものかもしれません。
  わたしには引っかかる処がある、つまりは俗に響くので、現状はここに置いておきますが、いずれ再考すべき時を待つものと思われます。]

朝あけて
   船より鳴れる 太笛(ふとぶえ)の
 こだまはながし 竝(な)みよろふ山
          斎藤茂吉(もきち) 『あらたま』

[結句に取って付けたような、怪しきところあり。自然に並ぶ山を前に感じた情景描写というより、ただ「竝みよろふ山」という、自称スッペシャルな表現を取りまとめたいがために、生みなされたような嫌いあり。]

葛の花
  踏みしだかれて、色あたらし。
 この山道を行きし人あり
          釈迢空(しゃくちょうくう) 『海やまのあひだ』

[釈迢空というのは、折口信夫(おりぐちしのぶ)の号であり、折口信夫というのは知られた国語学者だった人物です。それはさておき、三句目の「色あたらし」というところに、込めたい思い、あるいは内容はあるのですが、姿がこなれていないものですから、そこだけちょっとぎこちなく響きます。つまり三句目がまだ動きそうに思われてならないのです。それが傷かと思われますが、悪い作品という訳ではありません。]

向日葵(ひまわり)は
  金の油を 身にあびて
 ゆらと高し 日のちひささよ
          前田夕暮 『生くる日に』

[「千載和歌集 前編」の紹介に解説があります。
    ⇒こちら
ただし小学生の教育用には、
 なかなかよろしい短歌かと思われます。
  何度読んでも、
 小学生の絵日記のひまわりが浮かんできます。
  それならそれで、
   それだけの価値を有しているということでもあるのです。]

ゆく秋の
   大和(やまと)の国の 薬師寺の
 塔の上なる 一ひらの雲
          佐佐木信綱 『新月』

[百人一首の巻頭、「秋の田の」の和歌の焦点の定め方と、比べてみるのがよいでしょう。こちらの短歌は、「一ひらの雲」へと思いが収斂されず、ただ取り合わせただけのように感じられてしまいます。特に「ゆく秋の」大気である上空から降りて、大和の国、さらには薬師寺、塔へと視点をクローズアップさせておきながら、初めの空へ返してしまうので、せっかくのフォーカスが「ゆく秋の一ひらの雲」の不活化した修飾のようになってしまっています。そうしてフォーカスが生かされないと、薬師寺の塔の前に「大和の国の」などと付け加えることが、きわめて無意味なことになってしまうのですが、詳細は割愛。つまりは、心情に寄り添うよりも、着想におぼれて、創意工夫を凝らしてしまったような短歌になっています。]

みづうみの
  氷は解けて なほ寒し
 三日月の影 波にうつろふ
          島木赤彦 『太虚(たいきょ)集』

[上の句があまりにも安易な叙し方で、ちょっと良いような下の句を、生かしきれていません。ようするに類歌から逃れ出ていないようなものです。そのため嫌みには響かずに、聞き流せば心地よいのも当然なことです。私たちが、記憶に留めるほどのものか、という基準で考えると、幾分心もとないのも事実です。]

もの忘れ
   またうち忘れ かくしつつ
 生命をさへや 明日は忘れむ
          太田水穂(おおたみずほ) 『老蘇(おいそ)の森』

[優れたものとも言えませんが、
  ユーモアがこもって悪いものではありません。
   シリアスなものと説くと、いやみに響きます。]

傷あり

人妻を
 うばはむほどの 強さをば
  持てる男の あらば奪られむ
          岡本かの子 『かろきねたみ』

[こゝろ、すなはち思いあれど、
 言葉、すなはち安きすがたの歌なるべし。]

海底(うなぞこ)に
  眼のなき魚(うを)の 棲(す)むといふ
    眼の無き魚の 恋しかりけり
          若山牧水 『路上』

[中途半端なファンタジーといったところでしょうか。せっかく上の句で空想を駆り立てて置きながら、「眼の無き魚の恋しかりけり」などと、リズムの面白さというよりも、安易に繰り返したような着想に、甘えたように取りまとめてしまったものですから、物語性でももたせれば、ユニークな短歌にもなったでしょうに、残念な結果となりました。つまりは、せっかく空想を飛躍させた上の句に見合うだけの、下の句になっていないということです。]

父君よ
  今朝はいかにと 手をつきて
 問ふ子を見れば 死なれざりけり
          落合直文(なおぶみ) 『萩之家歌集』

[「今朝はいかにと」
  と置くからには、父君は生死の境にあるようですが、「死ぬことは出来ない」という結句には、もちろん決意表明もこもりますが、同時に、必ずしも死ぬわけではなく、生存の可能性が込められているようにも思えます。この短歌においては、現実に感じたことを、そのままに記した印象が、好感となってこもるのは事実ですが、同時にそれを安易に書きしるしたために、この短歌のもっとも述べたかったはずのこと、死線をさ迷う父を見守る子の思いも、どうにか生き延びたいと思う父の願いも、詩の内側に、結晶化出来なかった嫌いが残ります。それが煮え切らないようなくすみ火となって残るのです。]

ただひとり
  吾(われ)より貧しき 友なりき
 金のことにて 交(まぢはり)絶(た)てり
          土屋文明 『往還(おうかん)集』

[ 日記帳に記した散文くらいの味気なさです。
 特に下の句の味気ない散文ニュースの印象が強すぎて、とても「自分より貧しい友」との断絶を思いわずらったものとは感じられません。下の句が殺風景なものですから、「ただひとり」と付け加えた言葉が、かえってわざとらしいくらいに響いてしまいます。そうして友を慕うような上の句と、絶交した下の句の間に、情緒的な乖離があって、理屈のちからを借りながら、それを解釈しなければなりません。それが詩情にマイナスに作用しているようです。
 つまりこの作品は、たった一人の自分より貧しいような大切な友人ではあるけれど、なまじ貧しいのがわざわいして、金銭トラブルでついには絶交にいたってしまったものを、まだその友人への思いはくすぶり続けている。そんな思いを詠み込もうとしたものですが、三十一字に押し込めたために、聞き手にはそのような思いは、ストレートには伝わらず、嫌々ながら類推しなければならなくなってしまっているのです。つまりは、詩になっていないということです。]

馬追虫(うまおひ)の
   髭のそよろに 来る秋は
 まなこを閉じて 想ひ見るべし
          長塚節(ながつかたかし) 『長塚節歌集』

[せっかく上の句が愉快なのに、下の句の「まなこを閉じて想ひ見るべし」が嫌みに響きますが、そろそろ詳細は割愛してもよいのではないでしょうか。]

大きなる
  手があらはれて 昼深し
 上から卵を つかみけるかも
          北原白秋 『雲母(きらら)集』

[「新古今和歌集 前編」の紹介に解説があります。
    ⇒こちら
この程度のものを残すとなれば、おそらくは千も万も、未来にもいくらでも読みなせるくらいの短歌が、過去という名の、不毛な山脈を築くことにはなりましょう。]

かにかくに
  祇園(ぎをん)はこひし 寐(ぬ)るときも
 枕の下を 水のながるる
          吉井勇(よしいいさむ) 『酒(さか)ほがひ』

[借用された「かにかくに」、啄木のようにはこなれていない嫌いがあります。どうでもよいことですが、『酒祝ひ(さかほがい)』とは酒宴などでお祝いをすることです。]

ゆふされば
  大根の葉に ふる時雨(しぐれ)
    いたく寂しく 降りにけるかも
          斎藤茂吉(もきち) 『あらたま』

[蛇足の典型で、
    「ゆふされば大根の葉に時雨かな」
で寂しく降る気配は十二分に伝わるものを、わざわざ言い加えたものですから、余計な解説を加えたような興ざめを引き起こしたものです。]

たゝかひに
  果てにし子ゆゑ、身に沁(し)みて
 ことしの桜 あはれ 散りゆく
          釈迢空(しゃくちょうくう) 『倭(やまと)をぐな』

[思いが勝りすぎると、独りよがりの傾向が生まれます。意味はつかみ取れるのですが、その意味はこの三十一文字のうちに、ナチュラルに心情へとは伝わりません。推しはかりが必要になってきます。つまり第三者が唱えても、ちっとも「あはれ」を催さないのが傷ですが、これも詳細は省きます。]

悪歌

[朗読4]

 言葉や、着想に不自然の目立つもの。
  あるいは大いに陳腐なもの。
   不用意なひけらかしばかり目立つものなど、
  もっぱら短歌のみを、書き記すに留めます。

髪ながき
  少女(をとめ)とうまれ しろ百合に
 額(ぬか)は伏せつつ 君をこそ思へ
          山川登美子(とみこ) 『恋衣(こいごろも)』

人恋ふは
   かなしきものと 平城山(ならやま)に
  もとほりきつつ 堪へがたかりき
          北見志保子(しほこ) 『花のかげ』

[「もとほりきつつ」とは「巡る」とか「巡りまわる」「巡り歩く」といった表現です。歌詞にまでされているようですが、込めようとした思いが、三十一字のうちに結晶化されきっていません。短詩にでもして、もう少し加えた方が、はるかに勝るような印象ばかりが広がります。]

草づたふ 朝の螢(ほたる)よ
  みぢかかる われのいのちを
 死なしむなゆめ
          斎藤茂吉(もきち) 『あらたま』

[俗と呼ばれるもの。
   安易な歌の典型でしょうか。]

今朝の朝の
   露ひやびやと 秋草や
 すべて幽(かそ)けき 寂滅(ほろび)の光
          伊藤左千夫(さちお) 『左千夫歌集』

[三句目の置き方のきわめて悪い例として、考察してみるのもおもしろいかも知れません。下の句が、品評会の皆さまの眼鏡にかなうことは間違いありませんが、上の句の表現がそれに釣り合っていません。優れた表現を全う出来ないという無念は、ことに和歌には、よくついて回る問題です。(どうしてこの下の句に、こんな上の句を付けてしまったのか、という無念ばかりが心に広がります。)]

鉦(かね)鳴らし
   信濃(しなの)の国を 行き行かば
  ありしながらの 母見るらむか
          窪田空穂(くぼたうつぼ) 『まひる野』

垂乳根(たらちね)の
   母が釣りたる 青蚊帳(あおがや)を
 すがしといねつ たるみたれども
          長塚節(ながつかたかし) 『長塚節歌集』

篠懸樹(ぷらたぬす)
  かげ行く女(こ)らが 目蓋(まなぶた)に
 血しほいろさし 夏さりにけり
          中村憲吉(けんきち) 『林泉(りんせん)集』

白玉(しらたま)の
   歯にしみとほる 秋の夜の
  酒はしづかに 飲むべかりけり
          若山牧水 『路上』

[同時代のフィーリングで記された表現が、同時代に受け入れられるのは当然ですが、そのうちあるものは古くさく、へんな表現となり、あるものは不偏的価値を手に入れるものであるならば……
 あるいは「白玉の歯に染み通ってくる酒」なんて表現も、なんだか老人臭がただようように感じられますが、当時としてはモダンな表現にも思われたものでしょうか。などと、思ってもいないことを、ちょっと記しながら、百首から外れて紹介されている、
     「人の世に たのしみ多し 然れども
       酒なしにして なにのたのしみ」
の方が、はるかに素直でよいと、一人でうなずいたりもするのです。]

時代ことなる
   父と子なれば 枯山に
 腰下ろし向ふ 一つ山脈(やまなみ)に
          土屋文明

[「時代ことなる父と子」などという、説明書にしても、あまりにも乏しい描写を、無駄に加えたかと思えば、「枯れ山に腰を下ろして向かうひとつの山なみに」などという、添削を要するようなまとまりのつかない表現を、無理矢理三十一字にねじ込んだような印象が濃厚です。「枯れ山に腰を下ろして向かう」というのも、着想がにじみ出て来るようで、安っぽく響くようですが、それも「時代ことなる」などという理屈を、初句に呈示して見せたのが原因です。ともかく、詠み手の着想を込めた表現である、ということばかりが、殺風景に響いて来るばかりですから、はなはだ嫌な気分にさせられることは、言うまでもありません。]

四月七日
  午後の日広く まぶしかり
    ゆれゆく如く ゆれ来る如し
       窪田空穂(くぼたうつぼ) 『清明の節(せいめいのせつ)』

りんてん機(き)、今こそ響け。
   うれしくも、
  東京版(ばん)に、雪のふりいづ。
          土岐善麿(ときぜんまろ) 『黄昏(たそがれ)に』

みんなみの
  嶺岡山(みねをかやま)の 焼くる火の
 こよひも赤く 見えにけるかも
          古泉千樫(こいずみちかし) 『川のほとり』

つけ捨てし
   野火の烟の あか/\と
 見えゆく頃ぞ 山は悲しき
     尾上柴舟(おのえさいしゅう/しばふね) 『日記の端より』

駄歌

 同じ書籍から、際だって珍妙奇天烈な表現を模索した、詩でもなんでもない、ヘンテコな落書を、『駄歌』として参照のために記します。もし和歌に興味のある方は、反面教師にでもなさったらよいかも知れませんが……
 もっとも、これほどの反面では、
  不良教師にすら、ならないかもしれません。

相触れて
  帰りきたりし 日のまひる
 天の怒りの 春雷ふるふ
          川田順(かわだじゅん) 『東帰』

[『補遺1』に掲載]

あかあかと
   一本の道 とほりたり
  たまきはる我が 命なりけり
          斎藤茂吉(もきち) 『あらたま』

照る月の
  冷(ひえ)さだかなる あかり戸に
眼は凝(こ)らしつつ 盲(し)ひてゆくなり
          北原白秋 『黒檜(くろひ)』

われの眼の
   つひに見るなき 世はありて
 昼のもなかを 白萩の散る
          明石海人(あかしかいじん) 『白描(はくびょう)』

[『補遺1』に掲載]

老ふたり
  互(たがい)に空気と なり合ひて
 有るには忘れ 無きを思はず
          窪田空穂(くぼたうつぼ) 『去年(こぞ)の雪』

[この短歌、悪しきものにあらず。過ちを許されたく。(後日記す)]

隣室に
  書(ふみ)よむ子らの 声きけば
 心に沁みて 生きたかりけり
          島木赤彦(しまきあかひこ) 『柿蔭集(しいんしゅう)』

めん鶏(どり)ら
   砂あび居たれ ひつそりと
 剃刀研人(かみそりとぎ)は 過ぎ行きにけり
          斎藤茂吉(もきち) 『赤光(しゃっこう)』

[『補遺1』に掲載]

ゴオガンの
   自画像みれば みちのくに
 山蚕(やまこ)殺しし
     その日おもほゆ
          斎藤茂吉 『赤光』

にんじんは
  明日(あす)蒔(ま)けばよし 帰らむよ
 東一華(あづまいちげ)の 華も閉ざしぬ
          土屋文明(つちやぶんめい) 『山下水』

[他に紹介されている短歌も、
    ツチヤクンウフクと鳴きし山鳩は
      こぞのこと今はこゑ遠し
など稚拙なもの多し。]

遺棄死体
  数百といひ 数千といふ
 いのちをふたつ もちしものなし
          土岐善麿(ときぜんまろ) 『六月』

[『補遺1』に掲載]

垣山(かきやま)に
   たなびく冬の 霞あり
 我にことばあり 何か嘆かむ
          土屋文明(つちやぶんめい) 『山下水(やましたみず)』

[『補遺1』に掲載]

人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。
  旅寝(たびね)かさなるほどの かそけさ
          釈迢空(しゃくちょうくう) 『海やまのあひだ』

[上の句、着想の表現が安易かつ露骨にすぎて、意味ばかりが伝わってきて、詠み手の心情への共感が生まれてきません。ただし一番の傷は、上の句と下の句が、きわめて不調和な点にこそあります。]

この三朝(みあさ)
  あさなあさなを よそほひし
 睡蓮(すゐれん)の花 今朝(けさ)はひらかず
          土屋文明 『ふゆくさ』

馬と驢(ろ)と 騾(ら)との別(わかち)を 聞き知りて
  驢来り騾来り馬来り騾と驢と来る
          土屋文明 『韮菁(かいせい)集』

[リズム遊びにも嫌みのあるものと、無いものとあり。
  これは嫌みの典型なるべし。]

春さむき
  梅の疎林(そりん)を ゆく鶴の
 たかくあゆみて 枝をくぐらず
          中村憲吉 『軽雷集』

おりたちて
  今朝の寒さを 驚きぬ
 露しとしとと 柿の落葉深く
          伊藤左千夫(さちお) 『左千夫歌集』

沈黙(ちんもく)の われに見よとぞ
  百房(ひやくふさ)の
 黒き葡萄(ぶどう)に 雨ふりそそぐ
          斎藤茂吉(もきち) 『小園(しょうえん)』

死に近き
   母に添寝(そひね)の しんしんと
 遠田(とほだ)のかはづ 天に聞ゆる
          斎藤茂吉 『赤光(しゃっこう)』

我(わ)が母よ
  死にたまひゆく 我が母よ
 我(わ)を生(う)まし乳(ち) 足(た)らひし母よ
          斎藤茂吉 『赤光(しゃっこう)』

[死にゆく母を前に素直に生まれた表現とは逆のもの。
  下の句の、自称たぐいまれなる表現を述べたいがために、
 母を持ち出したような印象です。
  それでいて、常人には、変てこな表現に過ぎません。
   かかる駄文を一つでも残したものに、
    はたして詩人を名のる資格があるのやら無いのやら、
   はなはだ心もとないくらいの不始末です。]

我が家の
  犬はいづこに ゆきぬらむ
 今宵も思ひ いでて眠れる
          島木赤彦 『柿蔭(しいん)集』

[「後撰和歌集 前編」の紹介に解説があります。
    ⇒こちら

左様(さよ)ならが
   言葉の最後 耳に留めて
 心しづかに 吾(われ)を見給へ
          松村英一 『樹氷と氷壁以後』

[『補遺1』に掲載]

終わりなき
  時に入らむに 束の間の
 後前(あとさき)ありや 有りてかなしむ
          土屋文明 『青南後集(せいなんこうしゅう)』

[「拾遺和歌集 後編」の紹介に解説があります。
    ⇒こちら

別枠

誹諧歌(はいかいか)

 「優れた」というのとはまったく違った価値観を持ちながら、その別の価値観のうちで完結してしまい、秀歌とは異なりながら、覚えるだけの価値を有してしまった、ユニークな、あるいは滑稽な短歌を、『八代集』を踏まえて、誹諧歌としてくくります。みなさまも、これらの短歌は覚えておいて損はないかと思われます。といいますか……
 あまりヘンなものですから、
  何度か読み直していると、
 嫌でも勝手に覚えてしまいます。

われ男(を)の子
   意気の子 名の子 つるぎの子
 詩の子 恋の子 あゝもだえの子
          与謝野鉄幹(よさのてっかん) 『紫』

[特に結句の「あゝもだえの子」というのは、勢いだけの中学生のハッスル詩文みたいな、拙さが光ります。簡単に言うと、ヘンです。口に出して詠んでみると、こころの底から笑えます。最後のところが、コントのオチみたいです。]

ああ皐月(さつき)
  仏蘭西(フランス)の野は 火の色す
 君も雛罌粟(コクリコ) 我も雛罌粟
          与謝野晶子 『夏より秋へ』

[鉄幹の妻だけあって、「君も雛罌粟 我も雛罌粟」なんて、楽しい表現を生みなしています。]

保留

 現時点で、評価が定めきれないものも、
  もちろんあるわけです……

やはらかに 柳あをめる
  北上(きたかみ)の岸辺(きしべ)目に見ゆ
    泣けとごとくに
          石川啄木 『一握の砂』

[現状どうしても結句の「泣けとごとくに」が引っかかってなりません。]

白埴(しらはに)の 瓶(かめ)こそよけれ
  霧ながら 朝はつめたき
    水くみにけり
          長塚節(ながつかたかし) 『長塚節歌集』

[引っかかるところがありますが、
  再考すべきかもしれません。
   二句目の「瓶こそよけれ」が、
  この短歌の、キーワードであるようですが、
 結論は出さない方がよさそうです。]

           (をはり)

2014/10/01 掲載 2015/05/05 再改訂+朗読

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