八代集その十 新古今和歌集 前編

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はじめての八代集その十 新古今和歌集 (しんこきんわかしゅう) 前編

 さて『古今和歌集』から始まって『新古今和歌集』にいたる八つの勅撰和歌集のことを、わたしたちは『八代集(はちだいしゅう)』と呼ぶのですが……

 京のみやこを中心とするひとつの文化の終焉は、鎌倉幕府の成立よりも、むしろ「承久の乱」(1221年)をもって、中世へと移り変わったような印象を受けるとき、中世へといたる前の八つの勅撰和歌集を『八代集』と定義することも、意味のあることのように思われてくるものです。

 特に『新古今和歌集』の時代とは、治承寿永(じしょうじゅえい)の乱で源氏と平家が争った動乱も区切りをつけ、朝廷が鎌倉幕府に対して反旗をひるがえす「承久の乱」直前の、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)を中心とした和歌への情熱が、さらなる表現を模索していた、魅力的な時代でありました。

 特定の人によってではなく、あまたの才能が、まるで競い合うようにして、新しい表現をめざし、そのため過去の伝統も踏まえつつ、今までに見られない芸術的な高みにまで到達したのが、この『新古今和歌集』の時代なのですが……

 そうであればこそ、初心者にはつかみ取りにくい表現もまま見られ、和歌に足を踏み入れるには、『古今和歌集』と並んでもっとも取っつきにくい、つまりは和歌を嫌いになりかねないような、危ういアンソロジーでもある訳ですが……

 おそらく皆さまには、その初歩を踏み出すちからが、もはや付いているかと思われます。やはり導入の手助けとして、分かりやすい和歌をばかり撰びながら、『新古今』の紹介をしてみましょう。

春歌上 巻第一

 歌枕(うたまくら)とは、和歌で詠まれるための名所のようなものです。(当時の意味はちょっと違いますが、今日ではもっぱらそのように捉えられています)そんな名所の和歌を巡りながら、『新古今集』の「春」をはじめてみるのも面白いかもしれません。またスルメ歌でお馴染みの、俊恵法師に登場してもらいましょう。

春といへば
   かすみにけりな きのふまで
  波間に見えし 淡路島山(あはぢしまやま)
          俊恵法師 新古今6

春と告げたとたんに
  霞んでしまったようですね
    昨日までは
  波間に見えていた 淡路島の山さえも
    (かすんで見ることが 出来ません)

 暦が春へと移り変わると同時に、
  かすみが淡路島の山を隠してしまった。
 現実を描写したというよりも、春を祝賀するために、こしらえたような構図ですが、昨年から今年へ、冬から春への移り変わりのような、特別な区切りには、むしろ空想に訴えるようなイメージのほうが、リアルな描写よりも、喜ばしさにまさる事があります。

 ここでも、あらたまる暦を祝福するほどの春がすみが、実景としてよりは、喜ばしさを抽象化したような空想的絵画となって、聞き手の心に浮かび上がってくるのではないでしょうか。

 さて、和歌によく詠まれる名所のことを、歌枕(うたまくら)と呼ぶわけですが、兵庫県より瀬戸内海に浮かぶ淡路島も、しばしば和歌に詠まれています。次は、その淡路島より大阪湾を囲う向こう側、難波江(なにわえ)を詠んだ和歌を眺めて見ましょう。

夕月夜(ゆふづくよ) しほ満ち来らし
   なには江の 蘆(あし)のわか葉に
  こゆるしら浪(なみ)
          藤原秀能(ひでよし/ひでただ) 新古今集26

夕月を残す宵に
   潮が満ちてくるらしい
     難波江の葦(あし)の若葉を
  白波が寄せ越えてゆきます

 先の俊恵法師の和歌からして、春の喜びに見立てて、ちょっと芝居めいて詠まれた和歌、つまり、実景を詠んだ訳ではありませんでしたが、この和歌もまた、イメージを豊かにするために、人工的な細工がされています。

 特に重要なのは二句目の、
   「しほ満ち来らし」です。
 ここにはあるいは、まだホッソリとした月が、これより次第に満ちてゆくようなイメージすら、そっと込められているのかもしれませんが、それは定かではありません。ハッキリしていることは、
   「潮が満ちてくるらしいなあ」
と推量に委ねたことによって、葦の若葉が目前に浸されるような、輪郭のはっきりとした情景ではなく、まだおぼつかない月あかりに、ようやく蘆の若葉を浪が越えてゆく近景が、ぼんやり眺められるくらいな……
 つまりは、本当に潮が満ちて来ているために、白波が若葉を越えてゆくのか、確信が持てないほどの薄暗さが、あたりを覆い尽くしている。おぼつかないような印象を与えることに成功しています。

 さらには、浪が越えるほどの若葉であればこそ、
  蘆もようやく伸び始めた頃の季節感を表わしていますし、
   「越ゆる白浪」
と置くことにより、浸るのでもなく、沈むのでもなく、波が寄せた時だけ、その若葉が水に浸されるような、きわめてデリケートな描写をもしています。しかもそれが、熟考したものであると悟らせることなく、即興的に思いついたようなさらりと詠みなしているあたり、なかなかに、巧みの仕事であると言わなければなりません。

 このような洗練された表現を、競い合うようにして求めたのが、この『新古今和歌集』の時代です。それでいて、万人にナチュラルに感じられる情緒性を無視し、ただ作者が着飾った表現をどれほど塗りたくったか、みずからの生みなした着想におぼれまくったか、そればかりが嫌みのにじみ出たような、たとえば、

めん鶏(どり)ら
  砂あび居たれ ひつそりと
    剃刀研人(かみそりとぎ)は 過ぎ行きにけり
          斎藤茂吉(さいとうもきち) 『赤光』より

のような、むなしさの虚飾などはまるで感じさせないで、さらりと詠まれた情景へと引き込まれてしまう。それだから秀歌なのです。
 せっかくですから、
  おなじ白波を詠んで、
   難波江とは別の歌枕をどうぞ。
  今度は川の名所です。

降り積みし
  高嶺(たかね)のみ雪 とけにけり
 清滝川(きよたきがわ)の 水のしら浪
          西行法師 新古今集27

降り積もった
  高嶺の雪さえ 解けたのですね
 清滝川の勢いが増して
    白波が立っています

  清滝川
 それは、京都の愛宕山(あたごさん)より流れ出る渓流で、有名な愛宕神社へ参詣する時に眺めるものですから、西行法師ならば、あるいは特別の思い入れがあったかもしれません。
 けれどもここでは、史実には踏み込まず、ただ渓流の白波が活発なのを、高嶺の雪も解けたからであろうと、喜ばしく詠んだ和歌として眺めておきましょう。
 もちろん「清滝川」という名称に、
  清らかなイメージが重ね合されていることは、
   言うまでもありません。
  さらに、別の川を詠んだものを……

見わたせば
  山もとかすむ 水無瀬川(みなせがは)
    夕べは秋と
  なに思ひけむ
          後鳥羽院(ごとばいん) 新古今集36

見渡すと
  山のふもとはかすみがかっている
 そんな水無瀬川の光景です。
   夕辺は秋こそすばらしいなどと、
     何を思って述べたことでしょうか。

 さて平安のプレスリーと言えば、今様歌いまくりな後白河法皇(ごしらかわほうおう)ですが、その血を受け継いだ後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)であればこそ、やんちゃ者の精神はやがては「承久の乱(じょうきゅうのらん)」(1221)を引き起こし、遂には夢破れて、島根県は隠岐島(おきのしま)へ流されてしまうことにもなりました。しかしそうなる前に、この『新古今和歌集』は勅撰されたのです。勅撰には上皇自らが率先して関わり、また多くの歌合を開催するなど、『新古今』時代の文化的焦点として、上皇は君臨していました。

 さて、水無瀬川とは、大阪府の高槻市から三島郡島本町あたりを流れる川の名前です。そこには、後鳥羽上皇の造営した水無瀬離宮(みなせりきゅう)がありましたので、あるいは離宮からの眺めを詠んだものかもしれません。ちょっと凝ったところは、春はすばらしいと直接讃えるのではなく、
    「夕辺は秋がすばらしいなどと、
      どうして言っただろうか」
と間接的に春がすみの夕暮れを誉めている点で、しかも「秋は夕暮れ」と述べたのは、現代人ですら学校で習う、清少納言の『枕草子』の知られたフレーズに過ぎませんから、私たちでさえ、たやすく受け止めることが可能です。

 ちょっとだけ古語を語るなら、
  「けむ」は過去の推量をあらわしますから、「~ただろう」(つまり「笑っただろう」「しただろう」のような用法)あるいは「~だったのだろう」といったニュアンスになります。

 さて歌枕シリーズを離れて、
  少しく軽やかに参りましょうか。

あるじをば
  誰(たれ)ともわかず
    春はたゝ
   かきねの梅を
     たづねてぞみる
          藤原敦家(あついえ) 新古今集42

そこの主人が誰であるか?
  そんなの、知ったことじゃないね
    春はただ、咲き誇っている梅こそが
  その垣根をおさめる、本当のあるじなんだから
    梅にあいさつをしてさえおけば
      どれだけ眺めたって構わないさ

 音楽に堪能で、特に篳篥(ひちりき)の才に優れていた藤原敦家が、春の屋敷のあるじは人ではない、梅ですよと戯れたもの。あるいは見知らぬ屋敷へ侵入して、花見がてらに屋敷の持ち主に詠んだのではないか、そんな邪推も浮かんでくるような和歌なのです。
 次は、北へと帰る、雁(かり)の和歌。

ふるさとに
  かへる雁がね 小夜(さよ)更(ふ)けて
 雲路にまよふ こゑ聞こゆなり
          よみ人知らず 新古今集60

故郷へと
  帰る雁の鳴き声が 夜が更けてきたので
 雲路を見失って迷っているような
    頼りない響きで聞こえてきます

 「よみ人知らず」らしいストレートな和歌ですが、もとより夜が更けるために頼りなさげに響くのは、和歌の詠み手の感情であり、雁には関わりの無いことです。対象に委ねることにより、詠み手の心境が伝わってくる。擬人法の基本戦略に他なりません。

 さて川はかすみ、梅も咲き、雁も帰る頃には、桜の花を待ち暮らす。待っていれば、戻りの雪さえも、はかない焦燥へと変わるなら……

よしの山
  さくらが枝に 雪ちりて
 花をそげなる 年にもあるかな
          西行法師 新古今集79

吉野山では
  さくらの枝に 雪が散りまして
    花の遅れそうな
  今年であるようですね

 春の遅れがちな吉野山にさえ、おそらくはもう、莟(つぼみ)をつけているであろう。そんなさくらの枝にもどりの雪が降って、花のかわりに白く見せているのですが、もはやそのような風情と戯れて、「雪の花びら」などと遊ぶ余裕もなく、
    「花の遅れそうな今年だなあ」
と嘆息したところに、待ちわびる桜をじらされた西行の、いつわりのない心情があふれているようです。
 そんなさくらも、やがては散ってしまう。
   春の下は、散る花のこころを。

春歌下 巻第二

春雨は いたくな降りそ
  さくら花 まだ見ぬ人に
    散らまくも惜し
          山部赤人(やまべのあかひと) 新古今集110

春雨は たくさん降らないで欲しい
  さくらの花を まだ見ない人もあるのに
     散ってしまうのは 惜しいことだから

 山部赤人と言えば、
  『万葉集』時代の歌人ではないか、
   なんでまた鎌倉幕府すら成立したという、
 『新古今集』の時代に登場なさったか?
 実は勅撰和歌集は、同時代の最新の和歌を採取したものではありません。いにしえより今に至るまでの、優れた和歌のアンソロジー。その基本にあるのは、一度勅撰された和歌は(なるべく)採用しないという方針に過ぎません。
 はじめての勅撰和歌集である『古今和歌集』からして、前時代の歌人達と今の和歌ばかりでなく、より遠い過去の和歌、すなわち『万葉集』時代の和歌が、いにしえの和歌として取り込まれているのです。
 さらに次の勅撰和歌集である『後撰集』の撰者たちは、編纂と同時に、万葉集の解読作業も任されるなど、和歌のルーツとしての『万葉集』に対する情熱は、並々ならないものがありました。もっとも、すでに言葉使いが違ってきていますから、勅撰和歌集に採用する場合に、表現を現代風に改めたものも多く、この和歌も『万葉集』では、

春雨は いたくな降りそ
  さくら花 いまだ見なくに
    散らまく惜しも

とある作者不明の和歌を、山部赤人の作として改編して取り上げている。八代集におさめられた和歌から、万葉集とその時代の和歌を取り出して、ひとつのアンソロジーを作れば、それだけでも『万葉集』の優れた和歌の紹介は果たせるのではないか、それくらい多くの優れた古歌が、八代集のなかには含まれているのです。

 さて、降らないで欲しいとは願っても、しとしと降るのは春雨で、はかなく散るのは花の定めです。

山ざとの
  春のゆふぐれ 来てみれば
    いりあひの鐘に
  花ぞちりける
          能因法師(のういんほうし) 新古今集116

山里の
  春の夕ぐれに 訪れてみれば
     日暮れを告げる鐘の響きのなかで
  さくらの花が散っています

 つらぬき染める夕焼でなく、ぼんやりのほほんとした夕暮れに、はらはらとさくらの花びらは散っていく。遠くには寺の鐘が鳴り響いている。幻想的な光景ですが、特に、
    「風ではなくて、鐘の響きにさえ、
       花びらは散らされてゆくのです」
というイメージが、そのはかなさを際立たせています。
 三句目に「来てみれば」と、あえて行為を加えたところも、あるいは花の盛りに逢いたかったものを、来てみれば散り際の光景であったか、などと空想が膨らんで、名残惜しさにスパイスを加えるようです。
 それにしても……
  惜しんだところで、花はいつしか散ってしまうもの。
 ロックンローラーの歌詞はもっとダイレクトです。

惜しめども
  散りはてぬれば さくら花
    今はこずゑを
  眺むばかりぞ
          後白河院 新古今集146

惜しんでも
  散り果てたならば さくら花
    今は梢を 眺めるばかりさ

 心情を飾らずに記すことを美徳としたかのような、「今はただ梢を眺めるばかり」という、余情を廃したような即興性。和歌に特徴的な、対象に心情をゆだねつつ、裏の意味に含みを残すような基本戦略を、生理的に嫌ったかのような殺風景なリアリティー。この異質性に気づいた時、あなたは後白河院のファンになるかも知れませんね。このような和歌は、八代集のなかでも、ちょっと異質なくらいです。
 こうして、眺めているうちには、
  新たな花も咲くでしょう。

よしの川
  岸のやまぶき 咲きにけり
 嶺(みね)のさくらは 散りはてぬらむ
          藤原家隆(いえたか) 新香禁酒158

吉野川の
  岸には山吹が 咲きました
 嶺の桜は 散り果てたでしょうか

 ……和歌はさておき、
  「新古今集」の打ち間違いで、
    「新香禁酒」というのはなんでしょう。
   あるいはわたくしに、
  新酒を飲むなという暗示でしょうか。
   ちょっと記念に、残しておきましょう。
    しかも、推敲するまで、気づきもしませんでした。

  本文にかえします。
 山吹と桜(ヤマザクラ)、その黄色(正しくは山吹色ですが)と、ピンク色の色彩、さらに嶺と岸という異なる立地を対比させるというのが、この和歌のコンセプトなのですが、上流の嶺から下流の岸(嶺を推し量っていることから、下流であることが知られます)へと流れる吉野川を置くことによって、頓智めいた着想のデッサンではなく、自然の情景のなかで、山吹を眺めながら、山桜を推しはかったような、即興的な印象を与えることに成功しています。

 結句の「らむ」は推量ですが、
  わざわざ「果てぬらむ」とあることから、
 詠み手は、嶺の桜の散る頃であることは知っていますが、これほど山吹が咲く頃になったのだから、嶺の桜は完全に散ってしまっただろうか、それともまだ少しは残されているのだろうか。そのような名残惜しさを兼ねて、「らむ」と推量しているのです。このような、きめ細やかな語りかけによって、先ほど解説した、構造的な対比は背景へと遠ざかり、ただ山吹を愛(め)で、桜を惜しむ、詠み手のこころばかりがあふれてくる。
 そうでなければ、この和歌もまた、
  お披露目パーティーの、仮装行列へと、
   落ちぶれてしまったには違いありません。
  エゴにあふれたひけらかしと、詩との違いは、
 このような、さりげないところにあるのです。
ちなみにこの和歌、

よしの川
  岸のやまぶき 吹く風に
 そこの影さへ うつろひにけり
          紀貫之 古今集124

[後で『古今集』で眺めることに致しましょう]

という和歌を元歌(もとうた)として、本歌取り(ほんかどり)したものです。当時の歌人であれば、誰でも知っている和歌の冒頭を、そのまま使用することにより、
    「紀貫之の和歌と渡り合う気か」
と思わせておいて、風に揺らぐ山吹をうつす水底へと向かう本歌(もとうた)を、かなたの嶺の高みへと移す手際には、このような解説をされるわたしたちよりも、はるかに新鮮な驚きとして、
    「家隆め、やってくれたな」
 そんな感慨が、湧いてきたには違いありません。

夏歌 巻第三

[朗読2]

 さて散り果てた桜は、
  どうなったかしらん。

はな散りし
  庭の木のまも しげりあひて
 あまてる月の 影ぞまれなる
          曽禰好忠(そねのよしただ) 新古今集186

花の散った
  庭の木の間も 若葉が繁りあって
 今ではもう 天から照らす月の
   ひかりさえも わずかしか差し込まない

  振り向けば深緑。
 さくらの葉は、日に日に枝を覆い隠して、これが粉雪に染められたあの木であったかと、疑われるくらいみどり色に染まっていく。そのちょっとした驚きは、わたしたちの感性とも馴染むものです。

 そうして卯の花はさかりを迎え、ホトトギスさえ訪れるなら、やがては、晴れやらぬもの、すなわち五月雨(さみだれ)です。百人一首の撰者である、定家(さだいえ)卿に登場して貰いましょうか。洗練された修辞を、揺ぎない詩情が支えている。おそらく彼こそ、歌人のなかの歌人です。だからといって、身構える必要はありません、わたしは分かりやすいものしか、ここには採用しませんから。

たまぼこの
  道ゆき人(びと)の ことづても
 絶えてほどふる さみだれの空
          藤原定家(さだいえ) 新古今集232

たまぼこの
  道をゆく人の 伝言さえも
 途絶えては 降り続ける
    さみだれの空よ

 これは『拾遺集』の柿本人麻呂の「本歌取り」で、もと歌から恋の歌であることが分かるという仕組みになっていますが、詳細はさておき、今はただ、恋の歌であると思って眺めていきましょう。

 さすがにこれまでのように分かりやすくはありません。はじめに謎なのは、「たまぼこの」というひと言です。これこそが枕詞(まくらことば)と呼ばれるものですが、ある言葉を導くための、決まり文句と思っておいて貰っても、今のところ差し支えはありません。例えるなら、
    「指打ちのメール」
という言葉が流行して、誰もが使用する表現になったとする。やがては、ただメールと述べるだけの時にも、
    「昨日、ゆび打ちのメールしちゃった」
などと会話されるとき、「ゆび打ちの」はちょっと枕詞みたいに使用されていると言えるでしょう。さらにメールさえ省略され、
    「ゆび打ちの途中で寝ちゃった」
となれば、「ゆび打ち」はすでにメールの意味を内包する、一つの枕詞となったような気配です。しかしやがて時は流れ、メールを「ゆびで打つ」ことなどなくなってしまい、後の人にはなぜ「ゆび打ち」であるのか、その実感が湧かなくなってしまう。それなのにメールを導き、時にメールそのものを指す言葉として、社会共通の言葉として残されていく……
 そんな言葉が、例えば、
   「ひさかたの」という枕詞は、
    「天(あめ)」「雨」「光」に掛かる、
   「あしびきの」であれば、「山」に掛かる、
     「たまほこの/たまぼこの」なら、「道」を導き出す、
というように和歌の時代に使用されていたものが、枕詞であるとして、今は捉えておいて下されば、初学の説明としては、十分ではないかと思われます。

 これによって上の句は、「道行く人の伝言さえも」という簡単な意味になるのですが、冒頭に「たまほこの」が、呪文みたいに置かれることによって、ちょっと和歌が様式化される。つまりは、リアルな描写が、おとぎ話や昔話めいたスナップのような、あるいは写真にセピアモードのエフェクトを掛けたような印象へと、ちょっと抽象化されるような気配です。
 そのため、恋の言づてを待ちわびる、切実な痛みは遠のいて、そんな自分を客観的に眺めるような、もう一人の視点から詠んだ印象が生まれて来る。
 これを分かりやすく喩えるなら、恋人に別れた後、カラー写真を眺めていると、悲しみがあふれて涙がとまらないのに、それにモノトーンのエフェクトを掛けてみたら、どうしてだか分からない、おだやかな懐かしさが優位に作用して、しばらくの間、思い出に浸ることができた。
 つまりは、リアルな印象を、少し遠ざけて眺めることによって、別の情緒性が湧いてくる。ここでの「たまぼこの」という様式化には、そんな効果が期待されます。

 これに対して下の句では、掛詞(かけことば)という技法が使用されています。掛詞については、いつかまたお話しようかと思いますが、
   「たえてほどふる」の表現には、
      「絶えるほど降り続く」という意味と、
   「絶えてほどを経る」つまり、
      「長らくことづてさえない」という意味が、
二重に掛け合わされている。それでいて、どちらも文脈の根幹を担っていて、どちらかが裏の意味である訳でも、修飾であるわけでもない。どちらの意味も、表の意味として存在しているところのもの、これすなわち掛詞です。(実際は一方が裏の意味に過ぎなくても差し支えありませんが……)
 これによってこの和歌は、

直接の会話はおろか、
 人づての伝言さえも長らく途絶えて訪れない、
  その長い期間さえも降り止まないような、
 さみだれの空なのです

 ここまで読み取れると、
    「逢えずにいる悲しみのなみだが、
       さみだれのように降り止まない」
と歌っていることが分かります。ただその思いを、様式化されたようなスナップへと移し換えているために、悲しみは静かなあきらめへと変換されて、ちょっと詠みながしてしまうと、まるで心情には乏しくて、技巧的な美しさばかりが際立つようにすら思えるのですが、はたしてそうでしょうか。

もうずっとあの人に逢えない
  誰かの伝えてくれるはずの便りさえ
    長雨にさえぎられているのでしょうか
      思いの絶えて降りつづくみたい……
    そんなさみだれの空から
  まるでわたしのなみだみたいな……

      (いつまでもいつまでも
         止まない雨は降るのです)

 このような情緒は、
  すこしもぶれることなく、
   様式化された和歌の背景から、
  にじみ出ては来ないでしょうか。

 とはいえ、その詩情が、様式美と融合して、結晶のようになっているために、ダイレクトに響いてこないのは事実です。それに対して、分かりやすい情緒性は、常に和歌の王道であると言えるでしょう。

いさり火の
   むかしのひかり ほの見えて
 あし屋の里に 飛ぶほたるかな
          藤原/九条良経(くじょうよしつね) 新古今集255

漁り火を焚いていた
  むかしの光りが ほのかに揺らめいた
    そんな気がしたのだけれど
  芦屋の里に飛び交うのは
      ほたるの光ばかりなのでした

 芦屋の里というのは、兵庫県芦屋市のあたりにあった里の名称で、『伊勢物語』のなかで在原業平(ありわらのなりひら)が、

晴るゝ夜の
  星か川辺の ほたるかも
 わが住むかたの あまの焚く火か
          在原業平 新古今集1591

晴れた夜の星であろうか
  それとも河辺のほたるかも知れない
    ああ違ったようだ、あれはわたしの住むあたりの
   海人(あま)の焚く漁り火であったのか

と戯れて詠んだ和歌を本歌(もとうた)として、
    「いさり火のむかしのひかり」
と詠み始めているのです。

 かつて業平ら貴族たちが、たわむれに「ほたるかも」と詠んだ「いさり火」が、ほのかに見えたかと思われたが、それも束の間のこと。それは「ほたるの光」に過ぎなかったと、本歌と逆に取りまとめているのです。それによって、「いさり火」には感じられた人の気配さえ遠のいて、かつての人々もなく、今はただ、蛍ばかりが飛んでいる。そんなさみしさを醸し出しているようです。

 さて定家卿の和歌も、良経のも、事実をリアルに呈示したものではなく、空想のイメージに訴えるような和歌ですが、今度は写実に優るものを取り上げてみましょう。

庭の面(おも)は
  まだかはかぬに ゆふ立の
    空さりげなく すめる月かな
          源頼政(よりまさ) 新古今集267

庭のおもては
  まだ乾かないというのに、夕立の
    空の様子などまるでなく
  月が澄みわたっているよ

 「然(さ)りげ無し」
の意味は、「そうであるという様子がない」という事ですから、「夕立の空であるという様子さえ見られず」という趣旨になります。
 先ほどの夕立によって、地面はまだ濡れていて、激しい雨の名残を留めているというのに、空にはもう暗雲すら消えてしまい、夕立など知らなかったように、月が澄み切っているという内容です。
 四句目の「さりげなく」はファインプレーですが、
  むしろこのようなシチュエーションに立ち会って、
    「どうしたら先ほどまでの夕立が、
       こんなに晴れ渡たるのだろうか」
という驚きを表現しようとして、おのずから生まれてきたような臨場感が漂っています。実景そのものが詩情に勝っていて、詠み手はどうにかそれを、描写したに過ぎない印象、つまりは写実性において優れているのです。

秋歌上 巻第四

手もたゆく
  ならす扇(あふぎ)の 置きどころ
 わするばかりに 秋風ぞ吹く
          相模(さがみ) 新古今集309

手をけだる気にして
   慣れ親しんできた扇さえ
  置いてあるところを
    忘れてしまうような
      今、秋風は吹いて来るのです

 「弛(たゆ)し」は「だるい、疲れている」といったイメージですから、初めの二句は、
    「夏のあいだ気だるそうに仰いできた扇」
という内容です。その置いてあるところを忘れてしまうくらい、もう涼しげな秋風が吹いているよ、という、ただそれだけの和歌なのです。
    「扇も忘れてしまうくらいな秋風」
 ちょっと女性的な発想かもしれませんね。
  デリケートな相模の着想に対して、
 万葉人の赤人のものは、荒削りですが壮大です。

この夕べ
  降りくる雨は ひこ星の
    と渡る舟の 櫂(かい)のしづくか
          山部赤人(やまべのあかひと) 新古今集314

この七夕(たなばた)の夕暮れ
  降ってくる雨は あるいは彦星が
    天の川を渡る舟の
  櫂のしづくなのだろうか

 当時の七夕は、旧暦の七月七日ですから、今日よりは晴れる機会もあったかもしれませんが、七夕に雨が降るというジンクスは、すでに存在したようで、雲のかなたの七夕というテーマは、しばしば和歌にされています。
 赤人のものは、一年に一度だけ、織り姫(おりひめ)に逢いに行くために、天の川へ漕ぎ出した彦星の櫂のしずくが、地上には雨となって降り注ぐのだろうか。そんな壮大なロマンですが……
 洗練された表現に委ねるのではなく、雨を見上げてひらめいたような、大胆な虚構性を、その場で口にしたような臨場感が、安っぽい比喩に陥りかねないこの着想を、かえって詩情に保っているように思われます。

 もっともこの和歌、もとの『万葉集』では「よみ人知らず」の和歌で、言葉も少し違っています。つまり『新古今集』の時代に相応しいように、実際は表現をわずかに洗練し、万葉の歌人である山部赤人(やまべのあかひと)(700年代初め頃活躍)に委ねたものなのですが、はたしてもとの歌と、どちらの方が優れているでしょうか。

この夕へ
  降りくる雨は ひこ星の
 はやこぐ舟の 櫂の散りかも
          よみ人知らず 万葉集2052

 せっかく赤人が登場しましたから、『万葉歌人』のうちで、もっとも後世の歌人たちに慕われた、あるいは崇(あが)められた、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)(600年代後半頃活躍)の和歌をお送りしましょう。二人は歌聖と讃えられていました。

秋萩(あきはぎ)の
   咲き散る野辺の 夕露に
 ぬれつゝ来ませ 夜はふけぬとも
          柿本人麻呂 新古今集333

秋萩が
  咲いては散ります野原の 夕辺の露に
 濡れながらいらしてくださいな
   たとえ夜は更けてしまっても

 濡れながらでもおいでなさいという、招待を和歌に委ねたもので、やはり『万葉集』(2252番)では「よみ人知らず」になっています。ただ言葉遣いは、万葉集のものをそのままに、『新古今集』に取り入れたものです。赤人の和歌もそうでしたが、その場で臨機に詠みなされたような即時性に勝っているようです。
 これが『古今和歌集』の代表選手、紀貫之(きのつらゆき)(860年代後半~870年代前半頃生?-945年?)になると大分違ってくる。その場の思いをよく吟味(ぎんみ)して、ふたたび詩に移しかえたような印象です。

山がつの
   垣穂(かきほ)に咲ける あさがほは
 しのゝめならで 逢ふよしもなし
          紀貫之 新古今集344

山がつの住む
   垣根に咲いた朝顔は
  東の空が ようやく白むほどの
     夜明け前でなければ
   逢うことさえ 叶いません

 「山賤(やまがつ)」
というのは「木こり」「炭焼き」「猟師」などの山間にくらす貧しい民を、卑しんでいった言葉です。けれども和歌ではよく登場し、海人(あま)が漁撈(ぎょろう)の民を指すように、山人たちのことを軽蔑するまでもなく、ただ山賤(やまがつ)と呼んでいるに過ぎません。

 そんな山賤の、粗末な家の垣根には、朝顔が植えられていて、その美しさは、夜明け前頃でもなければ見ることができないよ。そんな和歌になっています。「朝顔」が植物学的に何を指すのか、ややこしいことは放置して、ここでは現在の朝顔としておきましょう。

 すると、この美しい朝顔は、日の出の頃にはもうしぼんでしまうから、こんな田舎でもなければ、眺めることは出来ませんよ。といったニュアンスが生まれてきます。

 あるいはもし、朝顔を女性の暗示と捉えるなら、実際に美しい女性がいたので感想を述べたのかもしれませんし、庶民の娘であれば、美しいさかりは短いと諭したとも、すぐに嫁に行ってしまうから、さかりを見られるのは稀であることを暗示したとも考えられ、解釈の幅が広がります。

 このように、さまざまに詠み取れるからこそ、くり返すたびに空想が広がり、さらに着想をひけらかすような嫌みがどこにもないから、何度でも愉快に聞かれる訳です。これをもし、

山がつの
   垣穂(かきほ)に咲ける あさがほの
 はかなきものは いのちなるかな

などとしてしまえば、初めのうちこそ、もっともな気持ちさえするのですが、次第に陳腐に命を推し量るような、作者の影がちらついて、しまいには、なんて嫌みな和歌だろうと、反旗をひるがえすことにもなる訳です。

 例えば次の和歌が、黙って読み流すくらいなら、なかなかすばらしいように錯覚されながら、それを何度も口に出して唱え、その情緒性に従おうとすると、次第に不愉快な印象、ある種の説教くささ、あるいは気づいてしまった先輩からのアドバイスみたいな、わずかな嫌みが湧き起こってくるのは、軽々しく命を持ち出したのが原因です。

 朝顔の
  ひとつはさける 竹のうら
ともしきものは 命なるかな
          芥川龍之介

[ただしこの作品は、必ずしも、悪いものではありません。わたしが「嫌み」と述べたものの正体も、正確には、「着想をこねまわし」たりそれを「お披露目」しようという野心とは異なるもの、むしろぶっきらぼうに、つまりは安直に思いついたことを、述べすぎた結果のようにも思えます。
 少なくとも、柱の影から、詠み手の顔が、ちろちろと様子をうかがうような、「ガーゼ」やら「自転車のつばさ」のようなものとは、同列に扱うべき短歌ではないことを、念のために記しておきます。ただ、深く噛みしめていると、ちょっとした嫌みが、ほのかに湧いてくるようなもの……ですからもし、あなたがこの短歌を、すばらしく感じたとしても、それはちっとも間違ったことではないのです。]

  次の藤原基俊の和歌も同様です。
 もし最後の結句を「いのちはかなし」としたのでは、ちょっと俗に落ちて、つまり安い感慨、安易な着想へと陥ってしまい、味わいのある豊かな情緒性は、たちまち穢されることでしょう。
  (もちろん、直接的な表現の生きる場合もありますが)

秋風の
  やゝ肌さむく 吹くなへに
 荻(をぎ)のうは葉の 音ぞかなしき
          藤原基俊 新古今集355

秋風の
 やや肌寒く 吹くのに合せて
  荻の上の葉の
 音さえ悲しく 響いてくるのです

 さて和歌で初心者のさりげなくつまづくものに、
     「萩(ハギ)」と「荻(オギ)」
があります。可愛らしい秋の色香に包まれた「萩(はぎ)の花」は、秋を彩る花の代表選手です。草冠の下に「秋」をかかげているほどですから、その愛されようが知られますが、「荻(おぎ)」の方は違います。こちらは薄(すすき)の友人で、むしろ枯れゆく秋、さびゆく秋の象徴として詠まれることの多い、色気に乏しい花なのです。
 しかし、ここでわたしが言いたいことは、印象の違いではりません。もっと馬鹿馬鹿しい話で、もしこの似通った、二つの漢字を読み間違えると、和歌のイメージがまるで狂ってしまうので、要注意ということなのです。

  話を戻しましょう。
 ここで「荻のうは葉」と言っているのは、まるで枯れているようにも見える「花穂」の部分のことです。ただ肌寒い風がかなしいばかりではない。秋になるとこの「花穂」の部分が成長し、群がって首を垂れるように風に吹かれるものだから、少し冷たい秋風のうちに、ガサガサとした響きがまさってくる。それが風の肌寒さに合せて、少しづつ秋を深めてゆくようで、なおさら悲しいというのです。
 しかも、「やや肌寒く」という表現が生きていますから、枯れ野に冷たい風が吹きすさぶようなイメージではなく、荻の葉もまだ緑を残しているなかに、少しづつ花穂が豊かになってゆくような、季節の移り変わりさえ感じられる。

 もしこのようなデリケートな表現を、「いのちはかなし」くらいの安っぽい感慨でまとめたら、細やかな情緒は、粉々に打ち砕かれてしまうでしょう。逆に、きめ細やかな表現を模索した基俊が、最後だけ「いのちはかなし」などと、俗な失態を犯すことはありえない。それは一流の歌人だからに違いありません。

[おまけ]
 ひとつだけ古語を述べるなら、「なへに」というのは、「~するのにしたがって」「~するのに合せて」くらいの表現になります。

 一方で次の和歌は、デリケートな表現をめざしたものではなく、その場でついつぶやいたような思いが、そのまま和歌になったようなもの。このような和歌は、思いついたままに記した方が、そばで語りかけられたような臨場感を得られるため、好印象であることがよくあります。

あしびきの
   山のあなたに 住む人は
  待たでや秋の 月をみるらむ
          三条院(さんじょういん)御製 新古今集382

あしびきの
  山のむこうに 住んでいる人は
 待つこともなく秋の 月を眺めているのだろうか

 秋ならばこそ月が見たい、
   お月見がしたいのです。
  ああそれなのに、それなのに……
    あの邪魔ったらしい山に隠されて、
   待てど暮らせど、
     月は昇ってはこないのでした。

 もとより、わずかな時差には違いありません。ただあまりにも月を望むこころが強すぎて、もう日の落ちる前から、「月はまだか、月はまだか」と右往左往して、「どうか落ち着いてください」などと咎めらるほどですから、東の水平線を妨げている、山の端さえもわずらわしいのです。
    「ああ、あの山の向こう側の人は、
      こんなに待たなくても、
    もう月を眺めているのだろうか」
素直な感慨を述べた和歌であればこそ、
 詠み手の思いが伝わってくるようです。

 ただおもしろいのは、
  冒頭の「あしびきの」です。
 これは枕詞(まくらことば)です。率直な感慨を吐露したような和歌には相応しくありません。現にこの和歌は、「あしびきの」の表現では様式化されずに、ダイレクトに作者の待ちわびる思いを、伝えるばかりではありませんか。
    「そぐわない枕詞なのかも?」
 そこに気づいた時、この和歌のおもしろさが、
  「あしびきの」にあることがクローズアップされてくるのです。

 「御」とつければ敬意の籠もるように、枕詞もまた、対象へのあらたまった表現として、東に腰を据えている山そのものを、「御山」くらいに表現したものと思われます。ところが実際は、それはどいて欲しい山なのです。ちょっと憎らたしい山なのです。そうであればこそ……

何が「あしびきの山」だ、
  あれが邪魔で、月が見られないんじゃないか。
    ああ、「あしびきの」なんて讃えられている、
  さえぎる山のない向こう側では、
もうお月見をしているのかしらん。

 そんな印象が、かすかに見え隠れはしないでしょうか。つまりこの「あしびきの」は、和歌としての様式化を果たしているように思われながら、幾分かは、お月見への焦燥が、かたちを変えて表れたものなのです。(もちろんあまりにもそのままの語りかけを、和歌へと昇華させる役割も担っているのは、言うまでもありませんが。)

 そんな捉え方をしながら、この和歌を唱えてみると、初めの頃とはまた、違った面白さが広がるのではないでしょうか。逆に、冒頭の「あしびきの」が、そこだけ浮き上がらない理由も、全体がちょっとした、たわむれの口調であることに、救われてもいるのです。

更くるまで
   ながむればこそ かなしけれ
 思ひもいれじ 秋の夜の月
          式子内親王(しょくしないしんのう) 新古今集417

更けゆく頃まで
   眺めていればこそ かなしくもなる……
 今はもう思いやることもしません
       秋の夜の月のことなど……

 『新古今和歌集』のヒーローが誰なのかは知りません。
  けれどもヒロインが式子内親王であることは、
   疑いないようにも思われます。そうであるならば……
  彼女の恋人にも見たてられた藤原定家をこそ、
 ヒーローにしてみたくもなりますが、かといって後鳥羽院のバイタリティー、世捨て人じみた西行、聖と俗を股に掛けた慈円(じえん)の和歌も、それぞれに主人公を主張し合うような、『新古今集』の男性陣は、個性的なせめぎ合いにあふれているようです。
 それはさておき……

 聞き流せばたわいもない表現にも、
  なかなかに奥ゆかしさのこもるのが、
   『新古今集』の特徴です。ここでも、
    「月を眺めては歎息する」
のような、ありきたりの状況は呈示されてはいません。上の句の、
    「夜の更けゆくまで、
       ずっと眺めていればこそ、
      かなしくもなって来るのです」
という表現には裏があります。
 つまり実際のところは、ただ月そのものが、
  かなしみを誘った訳ではありません、
    「夜の更けゆくまで、
      つい月を眺めてしまったのは、
        胸のうちにわだかまりがあって、
      かなしい気持ちにさせるから」
 例えば、逢えない恋人を思うあまりに、月にこころを奪われながらも、気がつけばまた相手のことを考えて、ふと我に返ればまた、そのひかりに誘われるようにして……
 もはや月へのあこがれだか、
  あの人へのあこがれだか、
   なんだか分からないような、
  やりきれない悲しみがこみ上げてきて……

 それで下の句の、
    「思ひもいれじ」
という負け惜しみへと繋がるのです。
 こうして、和歌で詠んでみたところで、
  あの人の思いはまたわき上がり、詠み手が、
    「思うこともしません」
という宣言を、全う出来ることはないのですが……

 つまりこの和歌の真意は、
  詠まれた内容と反対の方向にあるわけです。
    「悲しいから、思うこともしたくないのに、
        秋の夜の月よ……
      またあなたを眺めているのです」
 そんなニュアンスが、この和歌には込められている。表現の裏にひそむ、豊かな心情に触れたとき、あるいは人は、それを余情(よじょう)と呼ぶのかも知れません。

秋歌下 巻第五

[朗読3]

  秋となれば野分(のわき)。
 そんな誹諧(はいかい)の伝統は、もとより和歌にさかのぼるものです。「野分」とは、言葉通り「野を分けて吹く風」の意味で、台風やそれとおなじくらいの、秋の野を無残になぎ倒すような、強風を指す言葉なのです。

野分せし
   小野の草ぶし 荒れはてゝ
 み山にふかき さをしかの声
          寂蓮法師(じゃくれんほうし) 新古今集439

野分の過ぎ去った
  小野には草の臥所(ふしど)さえ 荒れ果ててしまい
 深山には愁いに沈んだ さお鹿の声が響いています

 「草臥(くさぶ)し」
というのは、「草に臥す」ことから、鹿などが草に眠るための、臥所(ふしど)、すなわち寝床のように捉えられた言葉ですが、牡鹿が求婚のために鳴いているものを、まるで恋人と抱き合うための寝床さえ奪われて、
    「これでは恋の成就も叶わないよ」
と、牡鹿(おじか)が悲しんでいるような表現になっています。

 もとより、荒れた野原に、鹿の声だけが響いてくるような、寂しさを誘う光景ですが、鹿の恋を連想させることによって、さらに擬人法的な侘びしさが、湧いてくる。つまりは、「寝床が荒れて」と置くことによって、妻を求めて鳴く牡鹿の声そのものが、たちまち擬人化されて、わたしたちの心を捉えるのです。

きり/"\す
   夜寒(よさむ)に秋の なるまゝに
 よはるか声の 遠ざかりゆく
          西行法師 新古今集472

きりぎりすの声が
   夜の寒い秋へと 移り変わるのに合せて
  弱るのでしょうかその声が
    遠ざかりゆくように思われます。

 「倒置法(とうちほう)」
という言葉を知っていますか。例えば、
    「宿題を忘れたのは、鈴蘭さんです。」
という通常の文脈を、わざと逆にして、
    「鈴蘭さんです!宿題を忘れたのは!」
と言って、仲間が糾弾するような表現です。そうしたら鈴蘭響子さんは、学校を早退して、二度と復学することなく、ついには窓から飛び降りてしまい、メディアがこぞってそれを餌にするという、病的な社会現象にふさわしい表現方法……
 いえいえ、まさか、
  そんなで訳はありませんが……

 もし仮に、この西行の和歌を、
  通常の文体に置き換えるならば、

秋が夜寒になるのにしたがって、
  キリギリスの鳴き声が、遠ざかってゆくのは、
    しだいに弱っていくからでしょうか。

くらいに落ち着くのではないでしょうか。
  すなわちこれを着想のままに和歌にしたならば、

秋もやゝ
  夜さむになれば きり/”\す
 遠ざかりゆく 声の細さよ

などと詠まれるであろうところ……
 初めにその対象を「きり/"\す」(ここでは今のコオロギとしておきましょう)と宣言し、三句目が初句へと倒置される。さらに二句目の内部でも、「秋の夜寒に」の方が通常の表現であるところを、「夜寒に秋の」と倒置している。加えて下の句では、
    「遠ざかりゆく、声が弱々しく聞こえます」
という文脈を倒置して、
    「声がよわるのだろうか、遠ざかってゆくのは」
と「か細い声」を前面に押し出し、さらに四句の内部でも、
    「声が弱るか」を
     「弱るか声の」
と倒置することによって、下の句の比重が「よわるか」へと定められ、もっとも強調されるべきテーマは、構図としてはただ、
    「きりぎりすも、弱るのだろうか」
という分かりやすい骨格に支えられるという表現方法。

 さらりと詠み流したように見せながら、憎たらしいくらいの創意工夫にあふれています。そんな、創作の跡が、嫌みとなってにじみ出だして来ないのは、詠み手が斧鑿(ふさく)[オノとノミ。そこから、詩文に技巧をこらすこと]の痕(あと)を悟られることが、詩情にマイナスに作用することを、知っていたからに他なりません。
 たとえば、斧鑿の痕というのは、

大きなる
  手があらはれて 昼深し
 上から卵を つかみけるかも
          北原白秋 『雲母集(きららしゅう)』

における、「昼深し」のようなものです。
 それさえなければ、素直な表現に過ぎないものを、三句目だけ全体の文脈から遊離した「昼深し」を込めたために、作者がここで何かを込めようとしたという印象が、あまりにも開けっぴろげに、言い方を変えれば、継(つ)ぎ接(は)ぎしたように際立ってしまい、頓智に生きる者たちからの拍手喝采はさらうものの、はなはだしい興ざめを引き起こすばかり。つまりは嫌みにあふれた表現に過ぎないのです。そこで詩情は破綻します。

[ちょっとだけ加えるならば、
    「大きな手が表れて、上から卵をつかんだよ」
なんて表現自体が、鶏卵採取でも眺めた小学生の、夏休みの宿題くらいのつたない文章に過ぎませんから、なおさらわざとらしく加えられた「昼深し」が鼻につくようです。この「昼深し」もまた、初句に置かれるべきものを、倒置させたものと読み解くことが可能ですから、西行の和歌と比べてみるのも面白いかも知れませんが……わたしにはこれ以上の考察は、正直ちょっと苦痛なくらいですので、ここで終わりにしたいと思います。]

 一方で西行法師の和歌は、ひたむきに技巧をこらした和歌ですが、さりとて現代の詩に置き換えて、さらりと詠み流したからといって、つまづくところはありません。つまり北原白秋のものは、安っぽい発想をちょっといじったような、無意味な落書には過ぎなくて、西行の和歌は詩になっているということですが……

 もとより、北原白秋の和歌が常にまがいもので、西行の和歌が常に詩情に叶うというものでもありません。あくまでこの二つの和歌を比べた時の印象を述べたまで。西行にも、いかがかと思われる和歌は沢山ありますし、あるいはそれは時乃何某(なにがし)とても変わらないのでしょう。

 次の後鳥羽上皇の和歌も、かなり人工的に、新しい表現を目論んだような和歌ですが、何気ない日常風景から、演繹(えんえき)されるほどの情緒で推しはかって、やり過ごせないこともありません。
 こんな言い方が腑に落ちないなら、ただ次の和歌を眺めてみて、なんとなく気持ちがつかみ取れるかどうか、試してみるとよいでしょう。詠み手の思いが伝わってくるような気分には、誰しもなるのではないでしょうか。もしそう感じたならば、それがわたしの述べたかったことなのです。

さびしさは
   み山の秋の 朝ぐもり
 霧にしほるゝ まきのした露
          後鳥羽院 新古今集492

さびしさそれは、
   深山の秋の 朝ぐもりの光景であろうか……
  霧を浴びてしおれるみたいに
    真木(まき)の葉がしずくを垂らし、
 うなだれているようだ。

「真木(まき)」というのは、切って利用するのに優れた木のことで、つまりは、秋にも枯れない常緑樹の「ヒノキ」や「スギ」などを指した言葉です。
 それが霧に包まれて、しずくの重みから、まるでうなだれたみたいにしおれている。そんな朝ぐもりの光景は、さびしいものだと詠んだものです。

 「朝ぐもり」のような、華(はな)のない光景を取り出して、幻想的に詠んだ視点も新しければ、「霧にしおれている真木の葉の下の露」という着眼点も、類型的な和歌の表現を凌駕(りょうが)した、個性的なファインプレーのように思われます。

 だからといって現代文にして、捉えにくいところもなく、いったん読み取ってしまえば、魅力的な着想をうまくまとめた、かけがえのない和歌のように思われはしないでしょうか。

 優れた和歌、あるいは優れた詩は、解釈すべき技法や着想をこねまわした、粘土細工にこもるのではありません。どれほど巧みを駆使しても、わたしたちの心情へと伝わらず、ただ知性にのみ働きかけるものは、どこまでいっても品評会の頓智には過ぎません。もし詠み手の思いが、聞き手の心を揺さぶって、ある種の共鳴作用を引き起こさなかったならば、それは詩でもなんでもないのです。そうであればこそ、
    「あこのははえそむる」
みたいな、(当時としての)日常表現を黙殺したような呪文は、詩情の欠けらもない、言の葉の掃きだめに過ぎないものです。(もっとも、こんな落書を名句として紹介するようなすさんだ教育が、二十一世紀にもなってなされるとは思いませんが……)

万緑の中や
 吾子の歯 生え初むる
     中村草田男

 いったいいつの時代の人々が、
     「吾子(あこ)の歯が生え初むったぞ」
などという表現で、子供に歯が生えた瞬間を喜んだというのでしょうか。むしろ子供に歯が生えたときのよろこびを讃えた表現からは、もっとも乖離(かいり)したような印象で、それによって、詠み手が子供の成長を喜んだのではなく、それをネタにして名句を生みなしてやろうかと、まるで子供をほったらかしに、紙上で着想を張り巡らせたような印象ばかりが、嫌らしくも伝わって来くるばかりです。

[より正確に述べるなら、実際はこの文章は、
   「万緑のうちに、
      吾子の歯の生え初むるを知りて、
    詠まれし和歌一首」
というような、詞書の説明的散文を、語りを無視して、十七字に押し込めたものに過ぎません。それでなおさら、着想を切り貼りして、こしらえものを仕立てて見せたような、虚偽の嫌らしさにあふれるのです。]

 それに対して、後鳥羽院の、
    「霧にしほるゝ まきのした露」
もまた、通常の表現を乗り越えようと、
 模索されたものには違いありませんが、
    「緑のなかで、子供の歯が生え始めた」
という内容そのものが、
  中学生くらいのリアリズムでもってしても、
 たちまち安っぽいデフォルメ、
   虚偽を露呈(ろてい)するのとは異なり、
    「霧にしおれているような、
       真木の下露よ」
というのは、つまるところ、
    「霧で折れたような草木のしずくよ」
と述べているに過ぎませんから、どこまでいっても実際の光景が、ヘタなポンチ画のように、落ちぶれることはないのです。極論を述べるなら、
    「霧にしほるゝ まきのした露」
というのは写実がベースにあり、
    「万緑の中や吾子の歯生え初むる」
というのは、安っぽい空想、しかも骨格は、粗末なデッサンに過ぎないものです。それを知恵で固めているから、品のない博識家の自慢話を聞かされているような不愉快が、どこまでもついてまわるのでした。

 さて、後鳥羽院の和歌は、なかなかに表現が洗練されていますが、この時代よりさかのぼった歌人の和歌には、もっと単純明解な和歌もあり、それもまた『新古今集』には、収められているのです。

人は来ず
   風に木の葉は 散りはてゝ
 よな/\虫は こゑ弱るなり
          曾禰好忠(そねのよしただ) 新古今集535

待ち人は訪れません。
   風に木の葉は、散り果ててしまいました。
  夜ごとに虫たちは、
     歌声を弱らせてゆくようです。

 「待ち人は来ません」
それが、この和歌の本体です。
 けれども二句以下の秋の侘びしさが、情景としてその思いを駆り立てます。木の葉さえ散り果てて、虫の声は次第に弱りゆく。「待ち人の来ない」侘びしさを、秋の風景に説明したものですが、声の衰えてゆく虫たちには、詠み手自身がゆだねられているようです。
    「待ち人が来ないために、
      わたしの声もまた、
       秋の虫のように衰えてゆくのです」
すると声を細くする印象が、
 二句目のイメージへとかえります。それは、
    「言の葉さえも、今は散り果ててしまった」
というようなニュアンスですから、

 「どうか来て下さい」
そんな言葉さえ、しだいに出せなくなってゆくようです。
 夜ごとにあなたへの呼びかけも、
   泣き弱るようような心細さです。

 それほどの思いが、
  初句の「人は来ず」に掛かっているようです。
   そうであればこそ……

 待ちわびる思いを知る人であれば、誰でも自らの心情に重ね合わせて、こころを動かされてしまうのです。特に寒さに震えるような、か細い虫の声を知っているものなら、(そうしてそれは、都内でも十分に知ることは出来るくらいのものですが、)その心細さには、sympathy を覚えるのではないでしょうか。
 それにしても、吹きすさぶような寂しさです。
   そろそろ、冬の気配が近づいてまいりました。

冬歌 巻第六

[朗読4]

 殺風景にまさる冬の和歌は、寒さの切実なせいでしょうか、どの勅撰和歌集でも、コンパクトに収められるのが習わしです。『新古今集』でもやはり、情緒の飛翔するような春と秋は「上下」に分けられるほどなのに、夏と冬とは一巻に収められるばかりなのでした。けれども……

 さすがに新しい表現に喜びを見いだしたような『新古今集』です。冬の和歌にも、類型的な表現を抜きんでた、おもしろい和歌が随分あるようです。まずは秋の終わりなのか、冬の入りなのか、不明瞭なところをひとつ。

神無月(かみなづき)
   風にもみぢの 散るときは
 そこはかとなく ものぞかなしき
          藤原高光(たかみつ) 新古今集552

神無月(かみなづき)
   風に紅葉が 散るときには
  なんということはないけれども……
      かなしい思いにとらわれてしまいます。

 『神無月』とは陰暦の十月ですから、きわめて乱暴な言い方をすれば、今の十一月頃にあたります。けれどもその名称から、神さまのいない月とも解釈される神無月は、まるで枯れゆく秋の末路みたいな、閉ざされた冬の訪れみたいな、ある種の侘びしさを宿しているようです。(そのためか、誹諧にも好んで使用されました。)
 ですからこの紅葉は、豊かな彩りさなかの紅色の、木の葉が舞い散るような余興ではなく、ただ風が吹くのに任せて、枯れ葉が保ちきれずに、散らさせてゆくようなイメージが濃厚です。それでいながら、まだ冬の冷たさに閉ざされる前の、ぬくもりくらいは残されていて、たとえばそれは『小春日和(こはるびより)』といった表現さえ馴染むような……

 そうであればこそ、深い悲しみに閉ざされるのではなく、
    「そこはかとなく ものぞかなしき」
なのです。つまり、なんとなく、もの悲しい思いにさせられるためには、一方では寂寞(じゃくまく)[もの寂しさにひっそりとしているさま]の情景がありながら、もう一方では「のどかさ」あるいは「切羽詰まらない」ほどのゆとりが必要な訳で……

 秋の終わりか冬の入りか不明瞭な頃、
  ぬくもりをかすかに残しながら、
   色彩を失ってゆくような季節の変わり目を、
    「どことなくもの悲しい」
と表現したものとして、
  秀歌と呼ぶほどのものではないかもしれませんが、
 取りどころのある和歌になっているようです。

 さて、紅葉も散りました。
  そろ/\、冬を告げるようなにわか雨、
   すなはち、時雨(しぐれ)の降る頃です。

柴(しば)の戸に
  入り日の影は さしながら
    いかにしぐるゝ 山べなるらむ
          藤原清輔(きよすけ) 新古今集572

柴を束ねて作ったような
  粗末なこの庵(いおり)の戸から
 夕ぐれの日差しが さしこんでいるのに
   どうしてぱらぱらと 冬を告げる雨が
    降り落ちて来るような この山辺なのだろうか

 「柴(しば)」とは、薪や垣根などに使用するために、木々の小枝を集めたものですから、そんな小枝でようやく作られた庵のとびらには、風さえ通すような隙間があって、それで紅(くれない)じみた夕日が、奥へと差し込んでくるのです。これだけでもおそらくは、詠み手の侘びしい暮らしが、ひし/\と伝わってくるような気配ですが……

 一方では、冬の到来を告げる時雨(しぐれ)が、ぱらぱらと降り出して、それでいて夕日が差し込めるという、侘びしい殺風景なのだか、こころを奪われるような幻想性なのだか、詠み手にすら分からないようなリリシズムに、囚われた瞬間を詠んだものです。

  「いかにしぐるる山辺なるらむ」
つまり、
  「どんな風にしぐれを迎えるような、
     この山辺なのだろうか」
という表現には、夕日を残しながら冷たい雨の降りそそぐ、幻想とも寂寞(せきばく)ともつかないような、日常感覚をちょっと離れた美意識が働いているようです。

 ところで、このような感慨は、ただその場に居合わせれば、たちまち浮かんでくるようなものではありますが、もしこれを空想に委ねてデッサンを組み立てようとしたならば、かなりの労力を要するのではないでしょうか。そのためなおさら、作者が実体験のうちに、詠みなしたように思われるのですが、自然界の営みというものは、わたしたちの空想よりもはるかにたやすく、幻想性や奇跡のような情景を、呈示してみせるものには違いありません。写実主義というのは、その現実世界の持つ圧倒的な表現力を、創作の拠り所としたものには過ぎないのです。

 一方、次の和歌は、
  これよりは、作為が前面に表れています。
 つまりは、和歌のためにこしらえた気配が濃厚ですが、もしこの作品が、写真や絵画に、添えられているところを思い浮かべれば、あらたな魅力も生まれるのではないでしょうか。

わが門(かど)の
   刈り田のおもに 臥す鴫(しぎ)の
 床(とこ)あらはなる 冬の夜の月
          殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ) 新古今集606

我が家の門の向こうの
  刈り田のあたりに宿りして
    臥している鴫(しぎ)の
 寝床さえあらわになるような
   冬の夜の月がさし込めています

 刈り取った田んぼのなかに、
  鴫が眠っています。
   その寝床をさえ明らかにするみたいに、
  冬の夜の月がさし込めているのです。
 なるほど、構図としてはあまりにも出来すぎていて、作り物の印象がぬぐい去れませんが、もしこれが、そのような情景を描写した絵画に添えられたものと仮定してみたらどうでしょう。ふさわしい和歌には思えてこないでしょうか。

 たとえば、屏風絵などに添えられる和歌の出来ばえとは、必ずしも実景を描写した巧みさとは一致しないものです。むしろその絵画と一緒にその和歌を捉えたとき、詩興を感じるかどうか。つまりは、おもしろく感じられるかどうか。
 ちょっとジオラマみたいなこの和歌も、そこにウィリアム・ターナーみたいな幻想絵画があって、それに添えられたものとして眺めれば、冬の夜の月明かりさえも、心象スケッチのように思われてくる。
 必ずしも、写実が優れていて、
  空想が劣っているわけではないのです。

あづまぢの
  道の冬草 しげりあひて
 跡だに見えぬ わすれ水かな
          康資王母(やすすけおうのはは) 新古今集628

東国へ向かう
  道には冬の草が 茂り合って
 跡さえ見えないような 忘れ水なのです

 「冬草」が「冬にも枯れない水草」であれば、これは夏と何の変わりもない、清水などを覆い隠した、雑草の印象にすぎないのですが……

 もし「冬草」はすでに枯れ果てた草の名残であり、忘れ水もまた、みずうみの底枯れして、今はなき物であるとするならば……

 おそらくはまるで違った印象が、この和歌から捉えられるには違いありません。それで言葉の詠み取り方は、非常に大切だという、俗なお説教にまとめる訳ですが……

 この和歌の場合は、「東路(あづまぢ)」と、寒さのつのる東北へ道を定め、また冬草が枯れないものであろうとも、夏草のように、ゆたかに覆い茂るものではないことから、「しげりあいて」の方が、枯れ草のままに茂っている印象を、深緑に喩えたものであることが分かるかと思います。特に、
    「跡だに見えぬ」
という四句目が、よく情景を定めた表現となっており、そこには水面が覆い隠されている印象よりも、水跡さえもはや見えない、つまりは水の尽きたところに、枯れ草が覆っている光景が、殺風景に広がってくるような様相(ようそう)です。

 これによって、夏草の覆い茂って、底さえ隠され、人々の記憶から消えてしまったような「わすれ水」の情景が、その水も尽きて干からびたあたりに、枯れ草の茂るばかりの冬の情景の裏に、対比されて詠み込まれていることが分かるかと思いますが……

 そこまで読み取ると、結句の「わすれ水かな」というまとめには、あるいは覆い茂っていた夏の間には、そこに水が流れていることさえ気づかなかったのに、枯れ草となって干上がったために、そこに水がたまっていた、あるいは流れていたことを、はじめて知らされた。ああ、ここには「忘れ水」があったのかと、感興を催すと同時に、しかしそれは今や、すっかり冬涸れてしまったという侘びしさが、二重に込められていることが分かるでしょう。

東路の
  路の冬草 枯れ果てて
 跡だにあらぬ わすれ水かな

とは詠まずに、「しげりあひて」と、夏草に覆われて水を隠すように詠んだ策略が、少しでもつかみ取れたらよいかと思いますが……
 そろろそ、次の和歌へと向かいましょう。

夕なぎに 門(と)わたる千鳥
  波まより 見ゆる小島(こじま)の
     雲に消えぬる
          徳大寺実定(とくだいじさねさだ) 新古今集645

風もやんだ夕なぎに
  海峡を渡ってゆく千鳥たちが
    波間に見え隠れする小島の
      雲のあたりへと消えるのです

 「凪(なぎ)」とは、海辺で海風と陸風(りくかぜ)(あるいは丘風・おかかぜ)が交代するときに起こる、一時的な無風状態を指しますが、そのうち夕ぐれに起こるものを「夕凪(ゆうなぎ)」と呼んでいます。

 まるで風の止んだのを見計らって、
  海峡を渡ってゆく千鳥たちを、
   船出にも似た心境でとらえ、
    「今こそ渡れ渡り鳥」
という『銀河鉄道の夜』の鳥渡しの信号手みたいな印象で、呈示してみせたような和歌になっています。もし舟ならば、波間へと消えてゆくには違いありませんが、羽ばたく鳥であればこそ、小島の雲へと消えてゆく。なかなかに情景描写がデリケートです。

 実はこの和歌は、「本歌取り」をしたのか、いにしえの和歌の剽窃(ひょうせつ)をしたのか、盗作問題じみた気配も無きにしもあらずですが、ここでは踏み込まずに先へと進みましょう。
 冬を代表する、雪の和歌を三つほど。

明けやらぬ
   寝覚めの床(とこ)に 聞こゆなり
 まがきの竹の 雪のした折れ
          藤原範兼(のりかね) 新古今集667

まだ明けきらないような
   目覚めの寝床に 聞こえてくるのです
 垣根の竹が 雪のおもみで折れる響きが……

 「下折れ」というのは、折れ下がるようなイメージですが、寒くて目を覚ましたところ、不意に響いてきたものだか、あるいは「下折れ」の響きに起こされたものだか、想像の膨らみそうなところです。

かき曇り
  あまぎる雪の ふるさとを
    つもらぬさきに とふ人もがな
          小侍従(こじじゅう) 新古今678

いちめんに曇り
  空を覆う霧のようにして
    雪の降りつのるふるさとを
  せめて積もるより前に
    訪れてくれる人はいないでしょうか

 「かき曇る」は「いちめん雲に覆われる」イメージとも、「雲に覆われて暗くなる」イメージとも、辞書によってまちまちですが、ここでは「雲に覆われて」くらいで捉えておくことにしましょう。

 「天霧る(あまぎる)」」とは聞き慣れない言葉ですが、実は霧(きり)には「霧(き)る」という動詞が存在していて、それで「霧になる」という表現がまっとうされるものですから、「天霧る」というのも、空がまるで霧のようにかすんで、見えなくなる状態を表現したものと考えられます。

 それではなぜ霧のようにかすむかといえば、それは皆さまが、雪の降る夜に空を見上げてみれば分かることです。つまりは、雪が果てなく降り続くために、雨のようには雲が判然とせず、総体にぼんやりと霞んでいるような状態。まるで霧の中から、雪が降りつのるような表現です。
 繊細な表現ではありますが、雪の降りざまを「天霧る」などと彩るあたり、雪に閉ざされた侘びしさよりも、ちょっと華やかなゆとりを感じさせます。それによって下の句の表現が、
   「雪に閉ざされる前に、せめて誰か訪れて
       わたしの侘びしさをなぐさめてください
      もう誰にも会えなくなってしまうから」
といった切羽詰まったものではなく、
   「雪が積もる前にまた、
       ちょっと話し相手が欲しいなあ」
わずかに、軽やかな調子へといざなっているようです。
  おなじかき曇りでも、俊恵法師の場合。

みよし野の
  山かきくもり 雪ふれば
 ふもとの里は うちしぐれつゝ
          俊恵法師(しゅんえほうし) 新古今集588

 おそらくこの和歌は、詠み方が足りなければ、
   なんの詩情も湧いてこないかと思われます。例えば、

吉野の山の方が
  雲に覆われて 雪が降るので
 麓の里には 繰り返し時雨が降るのです

くらいに詠み流したのでは、
    「だったらどうした」
と過ぎ去りそうな味気なさ。
    「吉野が雪なら麓は雨よ」
なんて俗謡でも聞かされたような、
  安っぽい気分にすらさせられますが……
 けれども、必ずしもそうではありません。

 この和歌のたましいは、最後の「うちしぐれつつ」に込められています。この「つつ」は「時雨をくり返しながら」といった意味ですが、三十一文字(みそひともじ)に閉ざされた文脈ではありません。そうではなくて……

 この「つつ」の先には、思いが込められているのです。その記されなかった思いこそ、この和歌の本体であり、あるいは「余情(よじょう)」と呼ばれるものの、正体には他なりません。それについては最後に眺めることにして、まず詠み手の位置を定めるところから、順番に汲み取っていくことにしましょう。

みよし野の
  山が雲に覆われて 雪が降るので
 ふもとの里は 時雨をくり返しながら……

 情緒的なキーワードが結句に置かれているために、詠み手のシンパシーは時雨をくり返す「ふもとの里」にあり、「ふもとの里」に思いを馳せて詠まれた和歌であることが知られます。
 つまり作者の立ち位置は、雪の降る「み吉野」にあるのではなく、麓(ふもと)の方から吉野の山を推し量って、上の句を詠んでいることになるのです。ちょっと上の句を、おさらいしましょうか。

みよし野の
  山かきくもり 雪ふれば

 この「かき曇り」の意味は定まりませんが、「雲に覆われて」雨や雪が降りそうな状態にあることには、間違いありません。なぜわざわざ「山かきくもり」と置いたかと言えば、下の句にあるように、
    「ふもとの里は うちしぐれつゝ」
つまり継続的に雲に閉ざされているのではなく、短い通り雨である時雨(しぐれ)が、降ったり止んだりするのに合せて、雲が覆ったり切れたりするさまを、詠み手が眺めているからに他なりません。

 それで、吉野の山を眺めると、すでに雪が降り始めていて、「かき曇り」、常に雲に閉ざされているのです。それを眺めているうちに、いつしか時雨の雲さえも、閉ざされた吉野山の方から、もたらされるように思われて……

  ここまでくれば、答えは簡単です。
 上の句は、ふもとの里の現状の由来を表現すると同時に、その未来をも暗示しているのです。このふもとの里もまた、時雨をくり返しながら、やがてはあの吉野山の雲に閉ざされてしまい、ついには雪が降り積もるだろう。つまりは、まとめるなら、

みよし野の
  山さえ雲に覆われて いつしか雪が降るようです。
   ふもとの里もまた その雲のあおりを受けて、
 今は時雨をくり返しながら……
   ついにはあの雲に覆われて、
     雪が降りはじめることでしょう。

 そんな侘びしさの諦観(ていかん)のうちに、冬を迎えるような態度が、「うちしぐれつつ」の先にはひそんでいるのです。そこまで読み取ってから、改めてこの和歌を「何度も口に出して」唱えてみると、その静かな余情が、心にまとわりついて来るのではないでしょうか。そうしてなんだか、かけがえのない和歌のように感じられたなら……
 「スルメ歌」を得意とする俊恵法師が、
   この和歌をこそ、みずからの傑作だと語った理由も、
     華のあるきらびやかな和歌を嫌った理由も、
   すこし分かるような気がしてきます。

 それでは最後に、年末の感慨を二首ばかり紹介して、冬歌にも別れを告げましょうか。

いそがれぬ
   年の暮こそ あはれなれ
  むかしはよそに 聞きし春かは
          藤原実房(さねふさ) 新古今集701

急がされることもない、
    年の暮れこそ おもむきぶかいものです。
  むかしはよそ事みたいに、
      春のしたくを眺め聞くような気持ちには、
    とてもなれませんでしたから。

 出家後の作品です。
  以前は、年の移り変わりに慌ただしいばかりの年末であった。
 それをまるで、人ごとのように眺めるような、穏やかに過ごす年の暮れというものは、これほどおもむきぶかいものであったのか。
 そう感じられるだけのゆとりを、しみじみと味わっている和歌として捉えておきましょう。次の和歌はちょっとユニークで、八十八歳の老人ならではの感慨かもしれません。

けふごとに
   けふやかぎりと 惜しめども
  またもことしに 逢ひにけるかな
          藤原俊成 新古今集706

大晦日の今日が来るたびに
  年の暮れを迎えるのも今日が最後だと
    過ぎゆくいのちが惜しまれもするけれど
  今年もまたこうして生きながらえて
    大晦日に逢うことが出来たのです。

 この和歌で注目すべきは、
    「今日ごとに今日やかぎりと」
といった言葉のリズム遊びの精神と、毎日を今日限りと観念して、一年を通して名残惜しく暮らすうちに、またしても大みそかに辿り着いたという、切実な老人の心情。さらには、もはやつたない表現しか出来なくなったような老人を、演じているような諧謔(かいぎゃく)[おもしろみ、ユーモア]が、写し取られたような滑稽味がこもることです。下の句の、
    「またもことしに」
という表現には、むじゃきな冗談とも、素直な喜びとも、ちょっとした自虐とも、割り切れないような、絶妙な印象が込められているようです。さすが老いてなお俊成卿と言ったところでしょうか。
 そろそろ冬を離れましょう。

賀歌 巻第七

[朗読5]

君が代の 年の数をば
   しろたへの 浜の真砂(まさご)と
 誰(たれ)か敷(し)きけむ
          紀貫之 新古今集710

君が治める御代の 年の数を
   真っ白な 浜の砂の粒として
  誰が敷いたものであろうか

「白妙(しろたえ)の」は、
  例の枕詞で、
「浜のまさご」に掛かりますが、別に「真っ白な」くらいの形容詞として捉えても、差し支えありません。「白妙の浜」という地名もありますが、ここではただ「白砂の美しい砂浜」をイメージしていただければ十分で、その砂粒の数を、あなたの治める、年の数に例えたばかりです。ちょっと唐突な気もしますが、実はこれは屏風絵に添えられた和歌で、描かれた浜辺に対して、
    「どうかあなたの年が、
      この砂浜の、粒の数ほども続きますように」
とお祝いを申し上げたまでのこと。
 大げさな気もしますが、賀歌(がか)のような誉め讃えるべき和歌には、その言葉によって相手を幸せにしたいという、願掛けのような側面もありますから、
    「あと十年生きられますように」
というよりは、
    「もう何十年も生きられますように」
さらには、
    「松の枯れるまで、
       その寿命が続きますように」
その果てしなさを強調し、ついには、
    「松はいつしか枯れ、
       新しい松に生まれ変わったとしても」
あなたの齢(よわい)は尽きません、と讃えるうちに、いつしか星の数やら砂の数へと至ったとしても、相手への祝賀を述べたものとしては、詠み手の気分としては、虚偽を述べている訳ではないのです。

 むしろこの和歌で注目して欲しいところは、最後に「誰か敷きけむ」と置いたところで、これによって「あなたの年は砂の数ほど」という、ありきたりの表現が、
    「おや、こんなところに、あなたの年の数が、
       砂になって敷かれていますね」
と間接的に讃えたことにより、
    「いったい誰が、これを敷いたのでしょう、
       もとより人のわざではないですし……」
 まるで神の定めによって歳月が、
  砂粒ほど果てなく積もりましたよ。
と祝福しているように響くのです。
 つまりは表現が婉曲(えんきょく)されているから、
  大げさな虚偽で讃えても、
 俗におちいらずに済むのです。

……けれどもこんな祝福は、
 わたしたちには一つくらいでお腹いっぱいです。
  そろそろ、次の巻へと移りましょうか。

哀傷歌 巻第八

見し夢を
   わするゝときは なけれども
 秋のねざめは げにぞかなしき
          源通親(みちちか) 新古今集791

春に亡くなった父
   あの人のおもかげを 夢に忘れることはありませんが
 それさえ、かき消されてしまうような
   秋の寝覚めは ほんとうに悲しいものです

  詞書を踏まえて訳してみました。
 この和歌は、春に亡くなった通親の父親について、「春の夜の夢」にたとえながら、なぐさめに送られてきた和歌に対する、返歌(へんか)として詠まれたものです。和歌の本意はただ、

「見た夢を忘れることはありませんが、それが夢であったと気づかされる寝覚めは、季節が秋であればこそ、なおさら悲しく感じられます」

というもので、送られてきた和歌から、夢とは「春に亡くなった父」のまだ「春のころ」、すなわち生きていた頃の面影を指すことが分かります。それは次のような和歌でした。

秋ふかき
  寝ざめにいかゞ 思ひいづる
 はかなく見えし 春の夜の夢
          殷富門院大輔 新古今集790
            (『詞書』は省略)

 贈答歌(ぞうとうか)というものは、二つの和歌をペアに比べて、はじめて全体が明らかにされるような面白味がありますが、今はあえて、それをせずに行き過ぎます。
 きっといつの日か、
  贈答を吟味(ぎんみ)こともあるでしょう。

なき人の
  跡をだにとて 来てみれば
    あらぬ里にも なりにけるかな
          律師慶暹(りっしけいせん) 新古今集819

亡くなった人の
   せめて足跡だけでも 忍ぼうかと来てみれば
 かつての里はもはやどこにも なくなっているのでした

  律師(りっし)というのは、僧の位のひとつです。よく和歌で、僧正(そうじょう)やら法師(ほうし)やら律師などと付いているのは、みな仏僧であると捉えておけば、今はそれでよいでしょう。

 亡くなった高僧の住まいを訪ねたら、もう庵(いおり)さえ無くなっていたという、きわめて単簡(たんかん)[「簡単」のこと]な和歌になっています。三句目の「来てみれば」などは、和歌らしい表現というよりは、ほとんど日常会話の様相です。それだからこそ、ため息が和歌になったような、臨機がこもると言えるでしょう。
 次のは、亡くなった母を思いわずらう頃、
  さらに別の人が、亡くなったことを聞かされての和歌。

世のなかは
   見しも聞きしも はかなくて
 むなしき空の けぶりなりけり
          藤原清輔(きよすけ) 新古今集830

この世のなかは
  自らの見たことも 聞かされたことも
    はかないものですね
 まるで空を漂う 煙みたいなもの

 「むなしき空のけぶり」というのは仏教において、「虚空(こくう)を漂う火葬の煙」を意味します。和歌には漢語は使用しないのが習わしだからというのもありますが、それだけでなく、虚空という教義めいた表現では、陳腐な説教へと落ちぶれてしまいますが、それを避けるためにも「むなしき空」と表現されているのです。
 さらには「火葬の」やら「荼毘(だび)の」といった表現を避けて、ただけむりの立ちのぼるさまへと、情緒の焦点を定めています。ですからもしこれを、「現代語訳」などと銘打って、

現世というものは
  実体験も 仮想体験も
    真の経験ではないもの
  虚空(こくう)を漂う
荼毘の煙に過ぎぬのだ

 まさかここまで酷(ひど)くはありませんが、
  ちょっとした説明的傾向がまさればもう、
 情緒的な取りどころはなにもなくなって、
    「だったらどうした、このエセ宗教家め」
と殴りたくなるような、お定まりの説教へと陥ってしまう。詩情はけぶりと舞い上がり、むなしく消え失せてしまうことでしょう。もしそれが教義と関わることを知らしめたいなら、翻訳とは別に解説を加えればよいのです。その程度の良識すらわきまえない現代語訳とやらが、二十一世紀にもなって巷(ちまた)に出回っているのは稚拙(ちせつ)です。

 さて、おなじ火葬の煙にたとえても、
   こちらの和歌は、もっと巧みが施されています。
  生粋の歌人の仕事です。

見し人の
   けぶりになりし ゆふべより
  名ぞむつましき 塩がまの浦
          紫式部 新古今集820

見知ったひとの
   煙となってしまった 夕べから
  こころに寄り添うように 思われてきました
     塩を焼く煙で知られた
    わびしいはずの塩釜の浦さえも

 「塩がまの浦」というのは、宮城県塩釜市付近の歌枕です。遠く陸奥(みちのく)のさびしげな浦には、塩を取るための煙が立っている。侘びしさ誘う塩がまの浦の、名所の絵を眺めて詠まれた和歌です。

 「見し人」というのは、「見知った人」くらいの意味ですが、あるいは一緒に、この「塩がまの浦」を見た人としても構いません。そんな親しい間柄の人が、亡くなって火葬され、煙となって空にのぼって消えてしまった。それで以前は、侘びしいイメージしかなかった、陸奥の「塩釜の浦」が、そこに煙の立ちのぼる光景が、親しいもののように思われて来たのです。

 それはひとつには、昇りゆく煙に、亡き人を重ねるからではありますが、もうひとつには、取り残されたわたしのこころが、いつしか淋しさに包まれて、侘びしい塩釜の浦に馴染むようになってしまった。そんな意味さえこもるようです。

 一方で、「むつましき」に「陸奥(むつ)」の意味が掛け合わされているということは、詩情とは関わりのないお遊び、ちょっとした修辞には違いありません。ただし、「陸奥の塩釜の浦」と説明を織り込んだだけですから、駄洒落のように、わざとその言葉につまずくために、配置されたものではなく、さらりと読み流せるようなアクセントには過ぎません。

 もう一つ、付け加えるなら、
  このひとつ前の和歌ならば、誰でも思いつきそうな発想には過ぎませんが、亡き人を火葬の煙へと結びつけ、それをさらに陸奥の塩釜の浦へと結びつけ、そこから昇る塩焼きの煙が、火葬の煙と馴染んで、近頃は親しく思えるのですというような着想は、よほど和歌に馴れた巧みでないと、浮かべるものではありませんし、うまくとりまとめられる構想でもありません。
 それをまるで、絵を見ているうちに思いついた和歌のように、さらりと着こなした紫式部という女性は、さすがは『源氏物語』の作者。優れた歌人であったことが、この和歌からも悟れるような気がします。

離別歌 巻第九

 「死別」を先ほどの「哀傷歌」に収めた『新古今集』は、
  「離別」には、生きた別れを描くようです。。

誰(たれ)としも
  知らぬわかれの かなしきは
 松浦の沖を いづるふな人
          藤原隆信(たかのぶ) 新古今集883

誰であるか
  分からないのになぜか
    別れゆく悲しみの湧いてくるものは
  松浦の沖を 船出する旅人

 「松浦の沖」とは、現在の佐賀県にある唐津湾を指すとされ、大陸とつながる港のあったところです。日本海を渡る船旅は、たやすく戻ってこれるものではありませんでしたから、その出港を眺めているだけでも、見知らぬ旅人へのセンチメンタルがこみ上げて、もの悲しい気持ちにとらわれる。そんな和歌です。

羇旅歌(きりょのうた) 巻第十

 それでは旅の歌を二つほど紹介して、『新古今集』の紹介をいったん打ち切ることにいたしましょう。あまりにも長くなりすぎるので、前編に区切りをつけて、後編では、恋の和歌から紹介しようと思います。

しら雲の
   たなびきわたる あしびきの
  山のかけ橋 けふや越えなむ
          紀貫之 新古今集906

白雲ばかりが
 たなびいては渡ってゆくような
  「あしびきの」とたたえられる
    あの山の架け橋を
  今日は越えることになるのだろうか

 この和歌も、屏風絵のための和歌なのですが、ちょっと決死隊じみたところがあって、壮大なイメージを駆り立てます。ここでも「あしびきの」という枕詞が使われていますが、この枕詞は一説には「足を引きながら」越えるようなイメージを内包するという意見もあり、山を畏怖すべきものとして捉えたような枕詞であるようです。

 越えるにけわしい山を「あしびきの山」と表現し、さらに「白雲がたなびいて渡ってゆく」ような高所であることを強調することによって、山の架け橋を渡るのさえ、いのちの危険にさらされるような、登山隊めいた架け橋のようにさえ思われるほどですが、そうであればこそ最後の、
    「今日こそ越えるのだろうか」
という感慨(かんがい)が生きてくる。ちょっとマッターホルンにいどむウィンパーみたいな勇気さえ、湧き起こってきそうな和歌になっています。
 ……といったら、ちょっと大げさでしょうか。

さ夜ふけて
   蘆(あし)のすゑこす 浦風(うらかぜ)に
  あはれうちそふ 波の音かな
          肥後(ひご) 新古今集919

夜も更けて
   蘆の葉末を揺らしながら 吹いてくる浦の風に
 あわれを添えるように 波の音が響いて来ます

 さて肥後の歌集では、舟のなかでの和歌となっていて、波の音は舟に寄せるものとして描かれています。しかし、『新古今集』の詞書きではただ、
    「難波の浦にとまりて」
詠んだものとされています。
 いずれ、照明も乏しいくらいの時代ですから、夜更けともなればあたりは闇のなかです。そこから、蘆の葉を揺らしながら吹き来る浦風と、波とが一緒になって響いてくる、そんなイメージになるかと思われます。そうであるならば、「うちそふ」ものは、もの悲しいような「あはれ」となって添うでしょう。

 さて、ようやく折り返し地点です。
  ひと休みして、改めて『新古今集』の後編を、
   「恋の和歌」からはじめることにしましょう。
     それでは皆さま、それまでお元気よう。さよなら。

           (をはり)

2014/06/04
2014/08/03 改訂
2015/01/07 再改訂+朗読

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