八代集その二十 拾遺和歌集 後編

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はじめての八代集その二十 拾遺和歌集 後編

 ここらで、『拾遺和歌集』の成立を復習してみるのも悪くありません。結論から申し上げますと、どうやらこの勅撰和歌集は、藤原公任(ふじわらのきんとう)(966-1041)と、花山院(かざんいん)(968-1008)という、和歌に対する並々ならない情熱を宿した二人が、まるで火花を散らすようにして生まれたものではないか。というのが、どうやら今日有力な説を、初心者向けにかみ砕いたものになるかと思われます。

  公任卿は、数多くの和歌のアンソロジーを残しました。
 自らの理想にしたがって、秀歌を収めたものですが、そのうち今は失われた『如意宝集(にょいほうしゅう)』を元に、おほよそ西暦千年のわずか前に完成したものが、『拾遺抄(しゅういしょう)』と呼ばれるアンソロジーで、579首(ただし伝本により違いがある)あまりを収める、コンパクトな秀歌集でした。
 この『拾遺抄』は、しばらくのあいだ、後に編纂された『拾遺集』よりも歌人の間に広まっていて、『金葉集』や『詞花集』がハーフサイズの勅撰和歌集として成立したのは、この『拾遺抄』を見習ったのではないかともされているくらいです。

 一方で花山院は、十代のうちに天皇に即位するやいなや、わずか二年で一条天皇に位を譲ることになり、出家して院となってから後、女沙汰を初めとする、数多くの「やんちゃな逸話」に彩られたような人物ですが、特筆すべきことは、和歌への関心が非常に高く、自らも歌人として、後の勅撰和歌集に何首も顔を覗かせるような、『新古今和歌集』時代の後鳥羽上皇じみた院だったことです。
 おそらくは彼を中心として、公任卿の『拾遺抄』をベースに、さらに多くの和歌が勅撰され、最終的に1010年より前頃『拾遺和歌集』として完成したのではないか。
 というのが、今日有力な説であるようです。

 内容の詳細は、今は省きます。
  ただ、花山院と公任卿とは、和歌に対する嗜好性も異なり、
 おのずから二重の価値観のようなものが、絡み合うような集として、きわめて魅力的な発展を遂げたものが、この勅撰和歌集であることをのみ記して、その後半を眺めようではありませんか。
 ちなみに、紫式部の『源氏物語』の文献初出が1008年ですから、ほぼ同じくらいの時に、これらの文学的結晶は生みなされたと見ることが可能です。あるいはそれは、和歌の黄金時代の、真の幕開けなのでしょうか。。。



 さて、拾遺集の特徴として、ドラマチックな和歌の配列があげられますが、それをもっともよく表しているのは、「恋歌」に他なりません。わたしはまず「第十六巻」からの和歌を軽(かろ)く紹介して、一番最後に「恋歌」を眺めながら、長らく続いた『八代集』の紹介を締めくくろうかと思います。それこそ長大な交響詩の、コーダには相応しいのではないでしょうか。
 その前に、まずは、
  「雑春」からどうぞ。

雑春 巻第十六

春立つと
   おもふこゝろは うれしくて
 いまひと年(とせ)の 老いぞゝひける
          凡河内躬恒 拾遺集1000

   「おもふこゝろの うれしさに」
であれば、「春がうれしいばかりに、また年を取ってしまった」という、きわめて分かりやすい和歌であったものを、「うれしくて」と置いたために、二通りの解釈が成り立つような、ambivalence な思いを宿したような和歌になっています。もちろんそれが、この和歌の魅力でもあるのです。すなわち、

新しい春を迎えたと
   思うこころが うれしいばかりに
 また一年分の 老いを加えてしまいました

 「一年分の老い」とは、数え年がひとつ増すという意味で、上の句の「うれしくて」をこそ、和歌のこころと読み解くと、うれしいからといって、ついまた年を取ってしまったかのような、ちょっとしたユーモアを詠んだように、取れるのですが、

新しい春を迎えたと
   思うこころは うれしいものですが
 今いち年分の 老いを加えてしまうことを思うと……

 上の句と下の句を、相反する二つの思いと読み解くと、新しい春の喜びと、老いゆく悲しみとが、互いに絡み合うような、あるいは天秤に掛けられているような、複雑な思いを宿すことになるのです。

 ここでは、結論は呈示しませんから、皆さまはそれぞれの解釈で、この和歌を楽しんで頂けたらと思います。いつも述べますように、その解釈の幅こそが、生きた詩の面白さなのですから。
 死んだ解釈を金科玉条に貶めて、
   文法の贄(にえ)に晒(さら)すくらいなら、
     伝統など損なわれた方が、
   なんぼかマシなくらいです。

山ざとの
   家ゐはかすみ こめたれど
 垣根のやなぎ 末はとに見ゆ
          弓削嘉言⇒大江嘉言(よしとき) 拾遺集1031

山里の
  家にいれば かすみが立ちこめていますが
 垣根の柳の葉末だけは
    かすみから抜け出して見えるのです

 柳のしだれた葉先のあたりが、かすみの立ちこめたなかにも、鮮明に映し出されるように思われた、そんな和歌です。「末はとに見ゆ」というのは「末は外(そと)に見える」という表現に過ぎません。
 この和歌は「家居(いえゑ)」を単なる「住むべき家」と解釈してしまうと、ちょっと安っぽいような、屏風絵に添えられた和歌のようになってしまいますが、そこに実際にいて眺めたからこそ「家居」と表現したものと詠み取れば、たちまち臨場感に優って、面白く詠まれるものと思われます。

 ただし描写のしかたはむしろ空想的で、絵画か何かに、添えられたもののように感じられます。特に初めのうちは、(これもわたしの初めの印象に過ぎませんが、)かすみのなかに実際に葉先だけが、際だって見えるような実景が思い描けませんから、優美なる虚飾とたわむれて、これもまた美しいものであると、眺めるような印象ばかりが先に立ちます。けれども……

  はたしてそれがすべてでしょうか。
 日常から逸脱したような光景というものを、自然はしばしば私たちに見せてくれますが、そのような時わたしたちは、幻想世界に紛れ込んだような錯覚に囚われます。けれども、その情景を描いても、立ち会ったことのない者には、日常的ではないものですから、どうしても、それが空想のように思われてしまう。この和歌もまた、あるいは実際の光景をもとに、生みなしたものなのかも知れません。

 もしこの和歌を、現実の光景として考察するなら、糸口はもちろん、かすみではっきりと見えるはずのない柳の葉末が、かすみの外(と)にはっきりと確認出来たところにあります。初めの頃はわたしも、それは絵画のようなものに、描かれた柳のシチュエーションに他ならないと、安易に判断を下していたものですが、詠み手が結句に込めた思いとは、はたしてその程度のものなのか……

 しばし立ち止まりて、霧や霞が流れるときの、途切れ間のことを考えたとき、あるいは「末はとに見ゆ」という表現は、風を暗示したものではないか。ということに、ようやく気づかされたのです。

 つまりこの和歌は、かすみに濃淡を生じ、時折ずっと先まで見通せるような、透明な部分を流動的に形成する、押し流す風が見せた、はっとするような鮮明な印象を、そのまま詠みなしたには過ぎないのではないか。かすみを薄くさせては動かすときの風が、柳の葉末を揺らしたものだから、そこだけがはっきりと、霞から(やや)抜け出して見えたのではないか。
 ただそのシチュエーションが、現代の日常感覚でもって、この和歌を読み解いてしまう、現代のわたしたちからすれば、あまり遭遇する機会も無いものだから、ちょっと突飛すぎて、空想画か何かのように捉えられてしまうのではないか。

 もちろん、確証はありませんし、この和歌の持つ、ちょっと虚構っぽい美意識が、あらたまる訳でもありませんが、このような考察を経てみると、この和歌の印象も、より深く、こころに刻み込まれるような気分です。

[おまけのコラム]
 実は
  「はたしてそれがすべてでしょうか。」
以下の部分は、最後の改訂の際に加えられたもので、それまでは「そのような超自然的な現象も、現実に起こらないとは限りません」くらいの取りまとめで、執筆者自身も、写実と詠み取ろうとは、まったく考えていませんでした。この和歌を始めて詠み、下書を行い、一度改訂を行ない、最改訂を行ない、この執筆にたどり着くまで、一年もの開きがあることだけでも、和歌を読み解くことの、幽遠さが思いやられます。

世のなかに うれしきものは
  おもふどち 花見てすぐす
    こゝろなりけり
          平兼盛 拾遺集1047

世のなかで うれしいものはと言えば
  親しいものどうし 花を見ながら過ごす
    その時の気持ちに他なりません

 平兼盛と言えば、「歌合のなかの歌合」と讃えられる、「天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)」(天徳四年三月三十日⇒960年4月28日)において、「しのぶれど」の和歌をもって、壬生忠見(みぶのただみ)を打ち負かしてしまった男として、よく知られた人物ですが、このように現代人にもストレートに伝わるような和歌を、いくつも残している歌人でもあるので、その名前を覚えておいても損はありません。

春過ぎて
  散り果てにける 梅の花
    たゞ香ばかりぞ 枝に残れる
          如覚法師(藤原高光) 拾遺集1063

春が過ぎて
  散り果ててしまった 梅の花の
    ただかおりばかりが 枝に残っているようです

 梅の花の記憶が、梅の枝に思い起こされて、まるでかおりが漂うように思われた。そう読んでも結構ですが、これがなぜ「雑の春」に収められているかは、詞書を読むと分かります。すなわち、現代語で呈示すれば、

 出家して比叡山に住む頃、知人が薫物(たきもの)
   -かおりを楽しむためのお香の一種-
 を求めてきたのに応じて、わずかばかりを、
  梅の花の、少しだけ散り残っている枝に添えて、贈る時に……

 つまりこの和歌は、梅の香りのする薫物(たきもの)に添えて、
    「梅の花は散ってしまいましたが、
       ここにはわずかばかり、
      その香りが残っていますよ」
と贈与物(ぞうよぶつ)の説明を果たしている訳で、「ただかばかりぞ」には「香ばかり」という意味と共に、「ただこれくらいですが」という意味も込められています。「わずかばかりですが」というニュアンスが加わることによって、社交辞令を兼ねると同時に、小さな早春の忘れ物のような、淡い/\梅の香りが、おもかげみたいにして、相手に伝わるという策略です。
 そんな贈答歌を兼ねているために、
  雑春に収められているのです。

年を経て
  深山隠れの ほとゝぎす
    聞く人もなき
  音(ね)をのみぞ鳴く
          藤原実方(さねかた) 拾遺集1073

年月を過ごして
  深い山奥に 隠れている時鳥は
    聞いてくれる人もない
  声をあげて鳴いています

 これが、誰も知らない声で、山奥の時鳥が鳴いているようには、あまり感じられない理由はきわめて簡単です。この和歌のこころは、

年を経て
  深山隠れの わたくしは
    聞く人もなき
  音をのみぞ泣く

という自らの思いを、「ほととぎす」に委ねながら、すぐに「わたし」の喩えであると悟らせるような、幾分露骨な口調で詠んでいるからです。つまりは、『古今集』の優れた和歌にあるように、「ほととぎす」を情景に眺めたような印象は生まれずに、はじめから「時鳥」はかりそめの主題であることが、聞き手に伝わってくるものですから、冒頭の「年を経て」という表現も含めて、「四季」の分類ではなく、人事を扱った和歌として、「雑春」に収められている訳です。

 この藤原実方(ふじわらのさねかた)(?-999)という人は、歌談義が白熱していた時、一条天皇の目の前で、今日三蹟(さんせき)のひとりとされる藤原行成(ゆきなり)(972-1028)の冠を、怒りにまかせてぶん投げるという、狼藉を働いたことがありました。そのため、一条天皇から、
    「君、しばらくのあいだ、
        歌枕でも見て、頭を冷やしたまえ」
と言われて、陸奥守に左遷されたという逸話が残されています。
 そうして赴任先で、お馬さんに押しつぶされながら亡くなってしまったという……その、あまりにも切ない最後は、彼を歌人伝説のヒーローに押し上げたようで……いつしか賀茂川に帰ってきて、亡霊となってさ迷っているという、怪談すら後にはあったようです。

 ところでお気づきでしょうが、この「雑春」の後半は、「雑夏」の和歌を納めているのです。そうであるならば、次の「雑秋」は後半に「雑冬」を収めつつ、一年をまっとうすることになるでしょう。

雑秋 巻第十七

[朗読2]

たなばたの
  あかぬ別れも ゆゝしきを
    けふしもなどか
  君が来ませる
          平兼盛 拾遺集1083

七夕の
  飽き足りない別れというものが
 不吉なものに思われるのに
   よりによって今日こそ、どうしてだか
     あなたはやって来るのでした

 この和歌は、『兼盛集』の諸本には、三句目を「かなしきを」としたものがありますが、そちらの方が、はじめの一歩を踏み出しやすいかもしれません。つまりは、

七夕の満ち足りない別れが、悲しく思われるのに
   どうしてそんな今日に、あなたは来たのでしょうか
 (なんだかわたしたちの別れを、
    暗示しているようで落ち着きません)

 この思いをさらに進めて、三句目に「ゆゆしき」という表現を持ち込むことによって、「不吉である」「縁起でもない」といった、不安が現実のものとなりかねないような怖れを、強くにじませることとなりました。

  「けふしもなどか」
 つまり「今日こそどうして」という表現から、「日頃は来ないのに」というニュアンスが読み取れますから、相手の恋人の訪問はすでに途切れがちで、不安を感じる時期にさしかかっていることが分かります。そうであるならば……

「ゆゆしきに」という表現は、相手の疎遠になるのが、これによって定められてしまうような、リアルな感情を宿しているのです。好きな相手であればこそ、本来ならうれしいはずなのに、「ゆゆしき」と感じてしまうような状況には、深い意味が込められている。別れを告げられることが、すでに第六感で分かってしまったような、恋人たちのあの感覚を、思い起こしていただければよいでしょう。

天の川
  のちの今日(けふ)だに はるけきを
 いつとも知らぬ 船出かなしな
          藤原公任 拾遺集1093

天の川での
  一年後の今日 七夕の日に巡り会うことさえ
    はるか遠い日のように思われますが……
      (それでも一年後には逢えるものなのです)
  いつ再開できるか分からないような
    あなたの船出をこそ、今は悲しく思うばかりです

  「のちの今日」
というのは「後になってからの今日と同じ日」の意味で、天の川を指して「後の今日」と言えば、それはもう詞書などなくても、すぐに七夕の一年に一度の再開を述べているのだ、と悟れるようになっています。さらに詞書の内容を加えると、
    「七月七日に寂照(じゃくしょう)という僧が、
      宋に渡海するために舟に乗る時に詠んだ」
和歌であることが語られていますから、

 七夕でさえ、一年後には会えるからこそ、別れを耐えることも出来るのに、大陸へ渡るあなたとは、今度いつ会えるか、まるで分からない。だから、耐えることも出来ないような、悲しみに沈んでいるのです。

  そんな和歌になっているのです。
 一年後の逢瀬(おうせ)を、遠く悲しむというのが、
  七夕の一般的な詠まれ方であるのに、
    「一年後にふたたび会えるから幸せだ、
       あなたとはいつ会えるか、
      なんの宛てさえないのだから」
と逆に詠むことにより、かえって、
 再会を願う気持ちが高まってくる。
  さすがスルメ歌の達人、藤原公任卿ですね。

    「円融院御屏風に、秋の野に
    色々の花咲き乱れたる所に
      鷹据ゑたる人あり」
家づとに
   あまたの花も 折るべきに
  ねたくも鷹(たか)を 据(す)ゑてけるかな
          平兼盛 拾遺集1101

家へのみやげに
   たくさんの花も 折り取ろうと思うのに
 憎たらしくも鷹を 据えているとは

 美しい花の乱れているなか、
  鷹を据えて、鷹狩りのために構えている人がいます。
 そんな屏風絵に、
    「花を折りたいのに、
      狩猟中では、折れないではないか」
と、花を愛でる思いを詠み込むことにより、あたかも絵を眺めている者が、花を取れずにいるような印象を与える、まことに屏風歌らしい和歌になっています。「家づと」というのは、簡単に言うと「お土産」のことで、「ねたし」は「憎たらしい」「しゃくに障る」といった表現です。

 ちなみにこの和歌、「新日本古典文学大系」(岩波書店)の『拾遺和歌集』のなかに収められている現代語訳では、

 家への土産に多くの花を折り取ろうとするのに、癪にさわることには、鷹を止まらせてあって、思うように花を手折れないことだよ。

 このごつごつしたような、いびつな日本語だと、花に鷹が止まっているとしか思われず、色々な秋の草花をこそ折り取るべきであるのに、それぞれの花に鷹が止まっているような、(なぜなら「多くの花を折り取ろうとする」のに止まっている鷹のせいで、そのすべてが折れないのはあまりにも不自然ですから、)小学生の落書きみたいな絵日記しか、頭に浮かんでこないために、
    「なんて下手な和歌なのだろう」
と誤解させる以外、なんの存在意義もありません。
   (正確に述べれば、むしろ悪意を感じるくらいです。)
 そもそも詞書に対する、初等教育レベルの読解力すら欠落しています。詞書には「鷹を据えている人がある」といっているのです。詠み手は、鷹そのものを妬(ねた)んでいるのではありません。屏風絵には、鷹狩りを行っている現場が描かれていて、まさに鷹狩りが行われているために、多くの美しい花があるのに、それを折り取って帰ることが許されない、それが憎たらしいと詠んでいるのです。したがって、憎たらしい対象は鷹ではなく、鷹狩りを行っている人間にこそ存在することになります。そうして対象としての「人間」は、ちゃんと詞書きに、きわめて明確に、
     「鷹据ゑたる人あり」
と記されているのです。
 鷹は「止まらせてある」のではありません、
  まさに狩りを行なうために、
   鷹を構えている人があると言っているのです。
    その臨場感があって始めて、
   この和歌の持つ無念のニュアンスは、
  生き生きとしたものになるというのに……

 せっかく詞書きが、屏風絵の代わりに
  そのシチュエーションを呈示してくれているのに、
   すべてを粉々に打ち砕いて、
  まるで花の上に鷹が止まっているような、
 園児の落書きを提出して、かつての和歌を貶めるくらいなら、はじめから現代語など加えない方がはるかにマシです。二十世紀後半にもなって、これほど稚拙な失態は、なんの思慮もなく乱筆するような者どもの、文化的退行現象もいいところです。

(このような、ボリボリお菓子でも食べながら、テレビでも眺めてゲラゲラ笑いつつ、その合間に翻訳でもしたかのような、片手間にしていい加減な現代語訳は、この例を待つまでもなく、あまたの書籍にあふれているので、わたしは不味い酒を呷(あお)りながら、わずかに紹介してみたまでです……)

庭草に むらさめ降りて
  ひぐらしの 鳴くこゑ聞けば
    秋は来にけり
          柿本人麻呂 拾遺集1110

庭草に にわか雨が降り過ぎて
  ひぐらしの 鳴く声が聞こえれば
    秋の到来です

この和歌は、万葉集の第十巻にある、
   「庭草に むらさめ降りて
      こほろぎの 鳴く声聞けば
        秋づきにけり」
という作者未詳の和歌を、三句目を「ひぐらし」に替えて、柿本人麻呂に委ねた和歌であるかと思われますが、どちらの和歌にも、夕暮の気配がただよいます。
 コオロギは、今日のコオロギを指すのではなく、秋に鳴く虫を漠然と述べたものに過ぎないようですが、ちょっと肌寒いような、秋の夕暮のさみしさを感じさせる「万葉集」の和歌に対して、「ひぐらし」の方は、まだ夏の暑さや賑わいを見せる毎日に、秋めいたにわか雨が過ぎて、ひぐらしが鳴き渡るような印象です。それで始めて、
    「ああ、秋は来たのだなあ」
と気づかされるような和歌になっています。
  だからこそ、「秋は来にけり」なのです。

 はたして、どちらの和歌が魅力的なのか、それは皆さまの判断にお任せします。わたしとしては、どちらもそれぞれの方向によろしいような場合にこそ、「引き分け」という言葉は、積極的な意味を持つのではないかと、それだけを加えておくことに致しましょう。

秋風は
  吹きな破りそ わが宿の
 あばら隠せる 蜘蛛の巣がきを
          曽禰好忠(そねのよしただ) 拾遺集1111

秋風よ
  吹き破らないでくさだい わたしの家の
 荒れた隙間を隠している
   蜘蛛の巣の掛かるあたりを……

 あばら屋の隙間に掛かる蜘蛛の巣が、破れようが破れまいが、その隙間を覆い隠すことなど、叶う訳はありませんし、すきま風さえ、防ぐことなど出来ません。それでもなお秋風に、その蜘蛛の巣を吹き破らないで欲しいと願うのは、もし蜘蛛の巣を破るような風が吹きすさべば、秋の寒さがこらえきれないであろうことを、詠み手が知り尽くしているからに他なりません。
 つまりは、脅(おびや)かすような冷たい風を、まるで蜘蛛の巣が防いでくれているように感じるものだから、どうか破らないで欲しいと願う訳です。(これを本当にあばらを隠しているものと読んだのでは、安っぽい虚偽にしか響きません。)
 ちょっとしたユーモアでありながら、
  なかなか深い味わいの籠もる作品です。

さはらびや したにもゆらむ
   霜がれの 野原のけぶり
  春めきにけり
          藤原通頼(みちより) 拾遺集1154

さわらびが 下で芽吹いているのでしょうか
   霜枯れの 野原のけむりさえ
  春めいて来たように思えます

「さわらび」とは、芽吹いたばかりの「ワラビ」のことで、ワラビといえば、春に摘むべき若菜です。その「さわらび」には、「火」が掛け合わされているというと、さすがにちょっとこじつけがましいですが、二句には「燃ゆ」が、三句目には「枯れ」が、四句目には「野原の煙」があり、つまりは縁語(えんご)によって、総体に、枯れ野の燃える様を表しています。逆に、この張り巡らされた縁語によって、「さわら火」というこじつけが、つなぎ止められていると見ることも出来るでしょう。
 その一方では、「さわらび」が下に「芽吹いている」ために、霜枯れの野原を焼く煙さえも、どことなくかすみのように思われて、春を予感させるという趣向です。

 もとより、「さわらび」が芽吹いたからといって、春めいた煙が立つわけはないのですが、その時の気候や大気の気配が、ちょっと春を期待させるようなおもむきに感じられたものですから、枯れ野が燃えている様子を、
    「わらびが下で萌えているから、
       ちょっと春めいて来たのだろうか」
とたわむれてみたのです。
 これが嫌みに感じられないのは、みずから感じたことをさらりと語っているからであり、それに対する余計な解説は加えずに、聞き手の忖度(そんたく)[相手の心中を推し量ること]に委ねているからです。
 ひとつ例をあげてみましょうか……

曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
   一むら燃えて 秋陽(あきび)つよし
 そこ過ぎてゐる しづかなる径(みち)
          木下利玄(きのしたりげん) 『みかんの木』

 黙って詠んでいる時は、もっともらしく聞こえるのですが、口に出して何度も唱えると、次第に「燃えて」が嫌みに響くのは、直前の「ひとむら」のせいではありません。「秋陽が強い」という蛇足、つまりはひとむら燃えている理由を三句目に加えたために、着想が丸だしになってしまったからです。たとえば、

曼珠沙華が夕日に燃えていました

と言われると、なるほど曼珠沙華が赤い夕日を浴びて、燃えるように思われたので、おのずから「燃えていました」と表現したように思われますが、これをもし、

曼珠沙華が、夕日が真っ赤だから、燃えていました

と言われると、たちまち興ざめを引き起こします。「燃えていました」が自然な比喩にならないからです。「夕日が真っ赤であるために」などと説明を加えたために、情緒性は遠のき、理屈がまさってしまい、たちまち、
     「夕日が真っ赤なので、
        燃えていましたという喩えを、
       わたしは思いつきました」
というような、着想を表現したかった詠み手のエゴが、表面に表れてしまうのです。「秋陽つよし」というのは、これよりさらに説明的傾向にまさります。

曼珠沙華が、秋の日が強いから、燃えていました

 なるほど、まだ夏のような日差しを残すからこそ、曼珠沙華も燃えるのだという、「圧倒的な理屈」だけは分かります。あるいは、和歌の文脈どおりに、
     「曼珠沙華が燃えています。
         秋の日がまだ強いからです。」
でもかまいませんが、「秋日は強い」などという、あまりにも露骨な説明を加えたために、「燃えて」が「まるで燃えているように思われた」という、情に訴えるべき比喩とはならず、
     「秋の日差しがまだ強いのを、
          燃えてと喩えてみました」
というような、着想の種明かしに躍起になる、詠み手のひけらかし願望ばかりが、果てなく広がってくるような、結末を迎えることになったのです。

P.S.
 念のために加えておきますが、これは、説明的傾向が、絶対的に興ざめを引き起こすという意味ではありません。この木下利玄の和歌でも、例えば、
    「牡丹花は 咲き定まりて 静かなり
      花の占めたる 位置のたしかさ」
などは、下の句の理屈が、効果的に生きているかと思われます。詩的かどうかは別として、「定まりて」「占めたる」「位置の確かさ」というのが、まるで幾何学的な安定をもたらして、その結果三句目の「静かなり」という状態にあるという、全体のコンセプトが構造的であるため、ちょっと解説的な表現が、有意義に働くからです。

雑賀 巻第十八

[朗読3]

 円融天皇の女御(にょうご)であり、後の一条天皇の母親にもあたる東三条院(ひがしさんじょういん)[藤原詮子(せんし\あきこ)]。彼女の四十歳を祝う祝賀を、実の弟である藤原道長(みちなが)が催したのですが、貴族たちが杯を取って、歌を詠み交わす時に、詠まれたものです。

君が世に
   今いくたびか かくしつゝ
 うれしきことに あはむとすらむ
          藤原公任 拾遺集1174

あなたの生きる世に
   今から幾たび このようにして
 うれしいことに 巡り会うでしょうか

 先ほどの「秋陽つよし」ではありませんが、ここでもし、
    「あなたの長寿の間には
       今から幾たび 宴を催して
      うれしい祝賀にも 巡り会えるでしょう」
と詠んだなら、おおやけのスピーチかなにか、誇大表現が求められる場合にはよいでしょうが、和歌としては安っぽく、心にもない社交辞令を述べたようにすら感じてしまいます。つまりは、説明が具体的過ぎるものですから、心情を述べたものとしては響かず、相応しい言葉をこしらえたように響いて来るのです。
 けれども、公任卿のように、

 あとどれくらい、
   このようなうれしい機会に会えるでしょう。

なんて語られると、まるで宴に出席した詠み手が、
  東三条院とおなじ喜びにひたりながら、
    「こんなにうれしいことが、
       もっとくり返されればいいですね」
と思わず漏らしてしまったような、寄り添うような心情がこもりますから、対外的な体裁よろしく、修辞を飾るよりも、はるかに詩情にまさるのです。
 これはおなじシチュエーションであっても、ニュースでは感情を動かされず、物語風にされると心を揺さぶられるような、語りの性質の違いを考えると、捉えやすいかと思います。

 ところでそんな公任卿ですが、
  はるか若かりし頃、この東三条院の邸宅の前で、
    「早く結婚したほうがいいんじゃないか」
にも勝るとも劣らないような?
  暴言を吐いたという逸話が残されています。
 はたして真実はどうであったのでしょうか。
  次は連歌をひとつ。
   詞書は現代語でどうぞ。

 筑紫(つくし)に向かうときに、
  かまど山の麓に、宿りをして休んでいる時に、
   道ばたに立っている木に、
  古びた文字で書き付けてあった言葉
        「春はもえ
           秋はこがるゝ かまど山」

 かまど山とは、現在の福岡県太宰府市にある宝満山(ほうまんざん)を指すようですが、竃(かまど)の山であるだけに、
     「春は燃えるし、秋は焦げるよ」
そんな「かまど」に合わせた縁語のたわむれに、
     「春は草花が萌え、
        秋には木の葉が色づく」
という意味を重ねた表現で、上の句だけが書き付けられていたという趣向です。これに対して、清少納言のお父様である清原元輔(きよはらのもとすけ)の詠んだ下の句は、

かすみも霧も けぶりとぞ見る
          清原元輔 拾遺集1180

 春の霞も、秋の霧も、煙のように見えるのは、なるほど竃山の火が燃えて、焦がれるためであったのか、と上の句に答えたものです。霧や霞に覆われがちな「かまど山」を讃えたものとして、「雑賀」のカテゴリーにも含まれますが、実際にはここから「連歌(れんが)」を幾つか収め、さらには「雑誹諧」とでも呼べるような和歌へと移ります。
 次のは、巻の最後の方に収められた和歌ですが、祝賀とは関わりのないもので、つまりは『雑賀』という巻は、幾つものカテゴリーに分かれている訳です。

    「東三条にまかりいでゝ、
      雨の降りける日」
雨ならで
   もる人もなき わが宿を/は
 あさぢが原と 見るぞかなしき
          斎宮女御(さいぐうのにょうご)
          /徽子女王(きしじょおう) 拾遺集1204

雨が漏る以外に
   守る人もいない わたしの家を
  今は浅茅の原のように 眺めるのが悲しい

 東三条にある亡き父親の邸宅に出向くと、雨が「漏(も)る」ばかりで、「守(もる)」人もいないわが家は、まるで浅茅原のように荒れ果てゝいた。それを見ていると、父のいた頃、かつての日々が思い起こされて、なおさら悲しい、という和歌です。「雨が漏る」ことと「守る人がいない」ことは、関係のない掛詞には過ぎませんが、「雨が漏るばかりで、守る人もいない」という情景を、自然に連想させますから効果的です。

雑恋 巻第十九

    「ものへまかりける道に、
   浜づらに貝のはべりけるを見て」
わが背子を
   恋ふるもくるし いとまあらば
 拾ひてゆかむ 恋わすれ貝
           坂上郎女(さかのうえのいつらめ) 拾遺集1245

わたしの愛する人を
  恋い慕うのも苦しいものですから
    ひまさえあるならば
  拾ってゆきたいな 恋の忘れ貝を……

「忘れ貝」とは、二枚貝の半分が残されたもので、それを拾えば、ペアの相手と寄り添いたいような、恋を忘れられるかと思って、「恋わすれ貝」とたわむれたものです。二句目で「恋い慕うのも苦しい」と歎いておきながら、三句目では、
    「ちょっと時間があったなら、
       貝でも拾っていきましょか」
つまり、「暇(いとま)あらば」なんてたわむれるのは、いかなる心境か。あるいは、苦しいのは嘘なのか。いぶかしがる方も、あるかも知れません。もしこれが『古今集』時代の作者であれば、(もちろん、これとはちょっと異なる表現であろう、全体のニュアンスから推し量ってですが、)わたしも、
    「ゆとりがあれば、拾ってゆきたいけれど、
       あまりにも苦しくて、その暇さえありません」
などと、説明したかもしれません。
 けれども、もともとは『万葉集七巻』に収められたこの和歌のトーンは、全体が軽やかで、むしろ「恋ふるもくるし」の方が、ちょっとしたデフォルメのように響きます。まるで冗談がてらに、

あの人を
  恋し続けるのも、ちょっと疲れたんで
 ひまでもあったら
   拾ってゆこうかな
     恋わすれ貝でも……

なんて、忘れる気もないのに、
  たわむれて見せたような気配が漂います。
 あるいはもう少し大胆に、
    「旅に出た時くらいは、
       恋人のことも忘れてみたいな」
くらいに、捉えられるかもしれません。
 ちなみにもとの『万葉集』では、
   「わが背子に恋ふればくるし」
  となっています。
   次の和歌。

 かつて稲荷神社に参詣して、
  恋心が叶うようにと、願を掛けたはずの女性が、
異なる人に逢っているのを知って

われと言へば
   いなりの神も つらきかな
 人のためとは 祈らざりしを
          藤原長能(ながとう) 拾遺集1267

 この和歌は、上の句と下の句を、完全に区切って読み解くと分かりやすいでしょう。まずは上の句ですが、「わたしのことを言えば」というのは、「わたしについて祈れば」という意味で、「つらし」は今日ではもっぱら自分が苦しい場合に使用しますが、当時は「非情である」「冷淡だ」といった他者の様子を述べ立てることも多かったのです。それで、

わたしのことを祈れば、稲荷の神も冷たいものだ

という表現になります。
 何を祈ったかと言えば、詞書にあるように、恋が叶うように参詣した訳です。一方、下の句にある「人のためとは」とあるのは、「われのため」に祈った上の句と対照して、「他人のため」の意味となります。それで、

ほかの誰かのためにとは、祈らなかったはずなのに

という意味になるのです。
 つまりは、上の句と下の句は倒置されていて、

他の誰かとの恋仲を、祈ったわけではないのに、
   他の男の思いを、叶えてしまった稲荷神よ、
 ただ、わたしの願いであるという言うだけで、
    どうしてそれほど冷たくなさるのか

という、「フラれ男」のやり場のない嘆きを、
  見事に表現している訳です。
 もっともこの和歌は、
  悲嘆にくれた和歌ではありません。むしろ、
   「なんでこうなるの?
     人のために祈ったのではないのに」
と歎いている人物の、当人ばかりは真面目なのですが、周囲から見たらちょっと滑稽な印象を、そのまま和歌に織り込めたものです。そんな諧謔味(かいぎゃくみ)こそ、この和歌を「雑恋」に分類している由縁でしょうか。そのようなユーモアのあるシチュエーションですから、わたしたちの考えもおのずから、
    「こいつ本当は、
       『われ』と祈るのを忘れたんじゃなかろうか。
      ただ『何とかさんと恋仲になりますように』
        とだけ祈ったんじゃなかろうか」
 それで稲荷の神も、そのまま願いを叶えて、何とかさんを、誰かさん(他の男)と恋仲にして差し上げた。そこに気がついた詠み手が、慌ててもう一度参詣して、
    『われと言えば稲荷の神も』
なんて後から、願いを訂正して見せたけれど、もはや後の祇園祭。持てない男のひがみへと、落ちぶれてしまったのかもしれません。このような邪推が加わると、なおさら面白く、この和歌を眺めることが出来るようです。
 なるほど、藤原長能という人もまた、
  なかなかの、和歌の巧みのようですね。

哀傷 巻第二十

 『拾遺集』の締めくくりは、「哀傷歌」を収めていますが、その後半は『釈経(しゃっきょう)』つまり仏教の和歌へと移り変わり、最後は、聖徳太子の和歌とされる贈答歌をもって、天皇を讃えるようにも響く、栄えある和歌で締めくくる、という方針が採られています。

    「妻の亡くなりてはべる頃、
       秋風の夜寒に吹きければ」
おもひきや
  秋の夜風の 寒けきに
    妹(いも)なき床に
  ひとり寝むとは
          藤原国章(くにのり) 拾遺集1285

思いもしませんでした
  秋の夜風の 寒さのなかを
    愛する人もいない寝床に
  ひとりで寝ようとは……

 この和歌は、再撰されている『後拾遺集』や、『元輔集』などから、藤原元輔(もとすけ)が、妻を亡くした藤原国章に贈った和歌が、あやまって藤原国章の作品とされたことが分かります。
 贈答される和歌は、それぞれ相応しい状況に応じて、技巧的にも詠めば、素直な思いも口にします。妻を亡くした国章への和歌としては、技巧のうちに余情を隠すような和歌よりも、ストレートな表現こそ、慰めに叶うことを元輔は知っていました。それで、私たちにもすぐに受け取れるような、率直な和歌となったのです。
 「おもひきや」というのは「思っただろうか」というニュアンスですが、これが国章の和歌と間違われたように、元輔はほとんど自分の妻を亡くしたように、この和歌を詠んでいます。それで冒頭の「おもひきや」も「思われたでしょうか」というよりは、「思いもしませんでした」というような印象へと移るのです。

秋風に
 なびく草葉の 露よりも
  消えにし人を なにゝたとへむ
          村上天皇 拾遺集1286

秋風に
 なびいている草葉に置かれた 露よりほかに
  はかなく消えたあの人を
 なにに喩えられるというのでしょう

 村上天皇と言えば、梨壺の五人に『後撰集』を編纂させた帝(みかど)ですが、政治に対しても、自らが主導権を握り、その治世は『天暦の治(てんりゃくのち)』と讃えられるほどでした。その妻であった藤原安子(やすこ)が、三十代半ばで亡くなった時の和歌です。

 内容は、古語につまづくことはないかと思いますが、それにも関わらず、初めのうちは、捉えきれないように感じるかもしれません。それは、上の句と下の句の文脈が、「露よりも消えにし人」とナチュラルにはつながらず、文章の隙間、すなわち「切れ」が生じていることによるものです。つまり、今日の和歌であるならば、

秋風に
 なびく草葉の 露よりも……
  消えたあの人を 何にたとえようか

と、三点リーダーを加えたような印象。置かれるはずの言葉が、故意に省略されているように感じるものですから、私たちが無意識のうちに、それを補うのに際して、解釈しきれない幅が、余韻となって残ります。それがこの和歌に、深みを与えているようです。

  ちょっと考察を加えましょう。
 まずは、「露よりも他に」というニュアンスが、浮かんでくるかもしれません。つまり、消えてしまったあの人は、上の句のような「はかない露」以外に、喩えようもないという解釈です。
 しかし同時に、「露よりも、さらにはかなく消えたあの人を、何に喩えたらよいのでしょう」として、下の句に掛かるようにも感じられるものですから、

消えてしまったあの人を、
  秋風に吹かれる草葉の露より他に、
    いったい何に喩えたらよいのでしょう。
 いいえ、そうではありません。
   そんな露より、もっとはかなく、
     あの人は消えてしまったのです。
  それを喩えるものなど、
    どこにあると言うのでしょう。

 「露のようにはかない」と「露よりもはかない」という、矛盾するはずの二つのニュアンスを込めることによって、その内容を破綻させるどころか、一度目の悲しみを、さらに深いところで噛みしめたような……つまり、この和歌を、同一の精神で、わずかに異なった内容で、二度繰り返したような印象を生みなしているものですから、それが、しみじみとしたおもむきとなって、余韻のように残される訳です。

うつくしと
   おもひし妹(いも)を 夢にみて
 起きてさぐるに なきぞかなしき
          よみ人知らず 拾遺集1302

いとしいと
   思っていた妻を 夢に見て
 起きてさぐれば そこにいないのが悲しい

 これは『万葉集』に似た和歌があり、もともとは恋人のいない朝を詠んだ和歌が、「哀傷歌」として取り上げられたものです。「起きたらあなたはいなかった」という思いを、象徴的に表現しただけですから、つかの間の別れのようにも、永遠の別れのようにも、解釈が成り立つわけです。
 どちらにせよ、詩情はまっとうされるような幅広さが、和歌の面白さでもあると言えますが、説明がちな下の句が、効果的に作用するのは、私たちが夢から覚めたとき、夢世界を現実だと錯覚して、続きを追い求めてしまうような感覚に、寄り添ったものだからに違いありません。もし現代語であれば、
    「指を伸ばせば あなたはいなくて……」
   と述べているのと、
  聞き手に呼び起こされる心情は変わりません。
   けれども……
    これをもし、

うつくしと
   おもひし妹(いも)を 夢にみて
  我のみ覚めて ありて悲しむ

 つまり「わたしだけ覚めて、存在しては悲しんでいる」なんてまとめたら、どうでしょうか。もとより、妻が亡くなったのだから、自分だけが覚めて悲しむのは当たり前のことで、先ほどの和歌も、それを前提にして、つまり「わたし一人が残されて悲しんでいる」という着想を根底にして、それをどのように表現したらよいか、言葉を紡いだものには過ぎませんでした。それを、よりによって、書きしるすまでもない(誰にでも書ける)根底の部分、詩になる前の前提に過ぎないものを、くどくどしくも、
    「存在しては悲しんでいる」
などと、説明を加えなければならないのか。
 これでは、悲しみへの同情はまるで起こらずに、下手な文章を読まされたときの、興ざめや不快感が湧いてきますから、考察を加えるのさえも、嫌になってしまうには違いありません。
    「まさか、そんなひどい和歌が、
        存在するわけがないではないか」
  あなたは思うでしょうか。
    けれども……

終わりなき 時に入らむに
  束の間の 後前(あとさき)ありや
    有りてかなしむ
          土屋文明 『青南後集』

などという、落書きもありますから、
  一応注意を加えたまでのことです。
 それにしても……

 妻に先に死に別れて、
    「死にゆくのに前後はあるだろうか。
      あって悲しんでいる」
こんなたどたどしい、日常的な会話で人を感心させるくらいの能力すら枯渇したような、ごつごつした説明を、なぜしなければならないのでしょうか。まだしも、
    「死にゆくのに、
       前後はあるのだろうか……」
くらいで止めておけば、多少の詩情は籠もるものを、
 まったく必要のない蛇の角を加えて、
    「有りてかなしむ」
などと、聞き手が推し量ればよいことを、詠み手が、
    「ほら、ほら、これが僕の思いだよ」
と舞台裏やら、土台まで説明してしまいましたから、まるで今日における、あらゆる思いを述べ立てるような、稚拙なアニメでも眺めるみたいに、聞き手に興ざめと嫌悪感を催させることになりました。
  それを簡単にまとめれば、
 表現力の欠落、と言うのでしょうか……

 このような嫌みは、「よみ人知らず」の和歌からは、微塵も感じられません。それは「よみ人知らず」さんが、優れた詩人だった訳ではなく、ありきたりの情緒を、ありきたりに表現しているからに過ぎないのです。日常的な語りの効果を踏まえないで、ただ着想やら頓智を駆使して、言葉をこねまわすから、「終わりなき」の方は、終わりなき醜態をさらすことになってしまったようです。そのため、優れた表現になるかも知れなかった、初めの二句まで、きわめて安っぽい虚偽のように落ちぶれてしまいました。

 このような、言葉をもてあそんでいる者たちは、平安時代であろうと、万葉の世であろうと、あるいは現代であろうと、私のもっとも嫌うところの者どもには違いありません。私はただ、それらの人々に、どうかここには近寄らないで下さいと、小さな声でお祈りするしかないのですけれども……

手にむすぶ
   水にやどれる 月かげの
 あるかなきかの よにこそありけれ
          紀貫之 拾遺集1322

手にすくい取った
   水に映し出された 月影の
  あるかないか分からない
     そんなはかない夜でありました

 病が重くなってから詠まれた、紀貫之の辞世(じせい)の歌です。表の意味は、
    「すくい取った水に映る月影が、
      あるかないかの夜でした」
と月さえ細る、心細さを詠んだものですが、
  それは同時に、
    「そのような、はかなくも、
      薄暗いような世のなかでした」
 回想すれば、そのような世のなかに過ぎなかったことを、そっと織り込んでもいるのです。それは同時に、もはや年老いて、輝かしい光の日々には戻れないような、まるで暗がりへ消えゆくような、心許ない過ぎし日のおもかげにすがりつくような、そんな夜であると、死にゆく者の悲しみを、深く宿してもいるようです。

 それにしても、乏しいくらいの月影を、すくい取った水に写し取ろうとしても、あるかないか分からないような夜というのは、読み返すほどに心細く、晩年の紀貫之の悲しみがにじみ出ているようです。同時に、「終わりなき」の短歌ように、安易に「悲しい」など、安っぽい情にゆだねるような態度は見せず、あるいは「消えゆくわたしを見たまえ」といったエゴが、煙のように立ちのぼるような嫌みも見せず、ただ月明かりに乏しい夜と、世のなかを重ねることによって、終末の悲しみを表現している和歌の巧みさに、真の詩人のたましいを見い出すのではないでしょうか。

 最後にもう一つだけ、自らの死を客体に委ねることよって、かえって悲しみを誘うような和歌をもって、『巻第二十』を締めくくることにしましょうか。

とりべ山
  谷にけぶりの 燃え立たば
    はかなく見えし
  われと知らなむ
          よみ人知らず 拾遺集1324

もしとりべ山の
  谷から煙が 燃え立つのが見えたら
    それははかなくも消え去った
  わたしの姿だと思ってください

 とりべ山とは、京都市東山区にある鳥辺野(とりべの)に含まれる山で、このあたりは火葬場として知られていました。したがって、その煙が見えたなら、それはわたしが死んで、焼かれた煙だと思って下さい、という内容になります。
 毎日のように立ちのぼる煙が、わたしの証であると言うからには、もう死を目前にした詠み手が、明日の煙は私のものであることを観念して、悲しみのうちに詠んだ和歌であることが悟られ、聞くもののこころを打つのです。

           (をはり)

2014/06/25
2014/09/17改訂
2015/04/28再改訂+朗読

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