松尾芭蕉、俳句と朗読

松尾芭蕉(1644-1694)生涯、俳句と朗読

松尾芭蕉(1644-1694)の生涯
………さて、1644年に伊賀上野(三重県伊賀市)に生まれ、1694年11月28日、旅の途中の大阪で無くなった松尾芭蕉は、1689年に出発した「おくのほそ道」でお馴染みである。そんな彼の年代暗記術として、
  [改訂版]
    「一炉の夜々(1644)に
      焼く串(1689)(1694)もなし
        芭蕉庵」

  [旧版]
    「囲炉裏(1600年代)して
       獅子 (1644) の串 (1694) 焼く (1689)
          おくのほそ道」
などは、小学生なら誰でも知っているほどの、格調高きわたしの提唱した暗記法である。(リニューアル、覚えやすさ120%アップ?)
 幼名は金作に始まり、当時の慣習に従って、籐七郎、元服して宗房(むねふさ)と名称を変えていった。そんな彼の生まれは、伊賀国上野、今日の三重県伊賀市上野で、名字・帯刀の許される無足人(むそくにん)の家柄では無いものの、地元には多少名家と認められるくらいの百姓の家であったと思われる。
 父の名は与左衛門、芭蕉が十三歳の頃に亡くなった。以後家は兄半左衛門が支えることとなる。それと前後して芭蕉は、藤堂藩(津藩とも)の伊賀上野の支城、そこの侍大将だった藤堂新七郎良清の息子、藤堂良忠(よしただ)に同年代の奉公人(というより格差のある友人といったところか)として仕えることとなったらしい。そして俳諧連歌を好む良忠(俳名を蝉吟という)の影響を受けて、また必然として俳諧を習得していったものと思われる。
 蝉吟(せみぎん)は京の北村季吟(きたむらきぎん)(1624-1705)に師事したが、その関係で芭蕉も季吟の門下ともなった。古典に於ける教養も蝉吟に仕えた結果習得されたものだ。
 1666年、その蝉吟こと良忠公が若くして亡くなると、恐らくは藤堂藩に奉公人として務めつつ、俳諧に於いては伊賀上野では知られた存在となり、俳諧を教えたりもしていたと考えられる。一方で姉の子供ではないかとされる、甥の桃印(とういん)(俳号)を引き取って面倒を見始めた。

 1672年、初めての句集「貝おほひ」を上野天満宮(伊賀市)に奉納した松尾芭蕉は、江戸へ向かうこととなった。俳諧宗匠(つまり師匠)となることを決意してのこととされているが、真相は不明である。江戸では日本橋大舟町の名主小沢太郎兵衛(俳号コ入、芭蕉の門弟の卜尺・ぼくせきの父)に仕え、十全に読み書きの出来ることから、記録文章の作成などを行いつつ、俳諧師としての活動を開始。人脈を広げると共に、1675年には俳号を「桃青(とうせい)」と改めた。
 これは、唐の詩人である李白(りはく)の名称に対して生み出されたもので、俳諧における李白ほどの人物になるのだという、自負の現れでもあったようである。この時期は、西山宗因(にしやまそういん)の談林俳諧が流行していたので、彼もそれにのっとって作品を生み出していた。
 1677年には伊賀に帰国して桃印を連れて江戸に戻り、1678年には、恐らくこの年三十五歳にして万句興行(まんくこうぎょう)を成功させ、宗匠として名の知られた存在となった松尾芭蕉。一方では、1677年から4年間、町人との契約に基づき神田上水の浚渫(しゅんせつ)事業をみずから請負い、なかなかの収入を納めていたようだ。古参の弟子たち、其角(きかく)、嵐雪(らんせつ)、杉風(さんぷう)らはすでに1675年から蕉門をくぐっているが、この頃にはかなりの弟子たちを抱え込む、江戸に知られた俳諧師となっていた。

 ところが1680年(延宝八年)、三十七歳にして、その生活を捨てて芭蕉は深川に移り住む。翌年、門人から貰った芭蕉の株を植えて以来、そこは芭蕉庵などと呼ばれるようになった。やがて自らの俳号にも「芭蕉」(仮名書きの場合の署名は「はせを」)を使用することになるが、それはさておき、これは都会から足を洗って、俳諧師の宗匠としての地位を捨てるような行為だった。その後、仏頂和尚(ぶっちょうおしょう)から禅を教わるなど、それまでの宗匠生活に嫌気が差したように思われる。生活も門弟の喜捨に頼って生計を繋ぐなど、羽振りのよい生活とはすっかり別れを告げた。あるいはこころを反転させるほどの一大事が、あったのだろうか。
 我々の親しむ作品の多くは、これより後の芭蕉の姿である。1684年から、「野ざらし紀行」の旅に出発して以来、旅する俳諧師としての芭蕉の作品が残されていく。「野ざらし紀行」「鹿島紀行」「笈の小文(おいのこぶみ)」「更科紀行(さらしなきこう)」そして「おくのほそ道」、「幻住庵(げんじゅうあん)の記」「嵯峨日記(さがにっき)」、その他多くの発句が詠まれ、また各地で俳諧連歌を開催し、門人のあいだを渡り歩いた。
 旅の終わりは1694年、故郷の伊賀を訪れるも、帰りの大阪で高熱に倒れ、症状を回復せぬまま、弟子たちに見守られながら亡くなる。享年五十有一(ごじゅうゆういち)であった。
 その墓は、彼の生前の希望に従って、義仲寺(ぎちゅうじ)(滋賀県大津市)の木曾義仲の墓の隣に葬られた。
おまけに、(ウィキペディア)からの引用で済ませると、
「弟子に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角、服部嵐雪、森川許六、向井去来、各務支考、内藤丈草、河合曽良、杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人や野沢凡兆などがいる」
とのことである。
松尾芭蕉、全俳句朗読
………全句把握の為にのみ「角川ソフィア文庫」の「芭蕉全句集」を全俳句朗読したるものなり。ただし、こればかりにては如何ともし難し。興あるものは本書を参照すべし。順は百毎に句切りたるなり。
   《 松尾芭蕉、全俳句朗読 その1 》
   《 松尾芭蕉、全俳句朗読 その2 》
   《 松尾芭蕉、全俳句朗読 その3 》
   《 松尾芭蕉、全俳句朗読 その4 》
   《 松尾芭蕉、全俳句朗読 その5 》
   《 松尾芭蕉、全俳句朗読 その6 》
   《 松尾芭蕉、全俳句朗読 その7 》
   《 松尾芭蕉、全俳句朗読 その8 》
   《 松尾芭蕉、全俳句朗読 その9 》
   《 松尾芭蕉、全俳句朗読 その10 》
野ざらし紀行、テキストと朗読
………松尾芭蕉が弟子の千里(ちり)と共に、故郷の伊賀国上野など、西国に旅をしたときの紀行文。貞享元年(1684年)八月秋より翌年の四月まで。
鹿島紀行 (鹿島詣)、テキストと朗読
………貞享四年八月十四日(1687年)、芭蕉は門弟の曾良(そら)、禅僧でもあった宗波(そうは)と共に、鹿島(茨城県鹿島市)の根本寺(鹿島神宮の近く)に隠棲していた仏頂和尚(ぶっちょうおしょう)を尋ね、かつ月見を兼ねるという旅に出発。偽古文調で書かれている。
笈の小文 (おいのこぶみ)、テキストと朗読
………貞享四年十月二十五日(1687年)、松尾芭蕉は亡父の三十三回忌のため故郷へ戻り、かつ大垣や名古屋の仲間たちとの俳諧を行うため、上方への旅に出発する。さらに伊勢、吉野、須磨などの名所を徘徊しつつの長旅のあいだにつづった翌年四月までの俳文、書簡などをもとに、芭蕉の死後に門弟の乙州(おとくに)が編纂してひとつにまとめあげたのがこの「笈の小文」であるとされる。
更科紀行 (さらしなきこう)、テキストと朗読
………貞享五年八月十一日(1687年)、上方へ登る「笈の小文」の旅により美濃に留まっていた芭蕉は、十五夜の月を見るために、門弟の越人(えつじん)と共に信濃国(現在の長野県)更科へと出発する。
おくのほそ道、テキストと朗読
………芭蕉が弟子の河合曾良(そら)と共に、東北北陸を中心にした旅行へ出発したのは、元禄二年三月二十七日(1689年5月16日)である。それから約半年間、今日の岐阜県に所属する大垣(おおがき)までの旅行を元に、後日執筆された紀行文で、「奥の細道」の記述も多いが、正しくは「おくのほそ道」が正解であるそうだ。
    《 おくのほそ道 その一 (出発) 》
    《 おくのほそ道 その二 (白河) 》
    《 おくのほそ道 その三 (仙台) 》
    《 おくのほそ道 その四 (平泉) 》
    《 おくのほそ道 その五 (象潟) 》
    《 おくのほそ道 その六 (山中) 》
嵯峨日記 (さがにっき)、テキストと朗読
………『おくのほそ道』の旅の続くまま、元禄二年(1689年)の九月には伊勢参りへと向かい、伊賀、京都、近江など関西方面での門下との俳諧を続ける松尾芭蕉。江戸に戻るのは、元禄四年(1691年)の十月の終わりになってからである。『嵯峨日記』はその京都滞在時、嵯峨にある去来の別荘、「落柿舎」(らくししゃ)において執筆された、俳文風日記(あるいは日記形態をまとった俳文)であり、元禄四年(1691年)四月一八日から五月四日までの記録がまとめられている。

松尾芭蕉に関するリンク

松尾芭蕉 (ウィキペディア)
………ウィキペディアの松尾芭蕉。
松尾芭蕉 (ウィキクォート)
………ウィキクォート内の松尾芭蕉の発句紹介。
芭蕉翁記念館
………松尾芭蕉の生まれ故郷である伊賀にある芭蕉翁の記念館。芭蕉ゆかりの場所などが分かる。
江東区芭蕉記念館
………松尾芭蕉が移り住んだ深川の芭蕉庵の上に建てられた、訳ではないが、そんな心持ちで作られた記念館。展示室にある芭蕉のおもかげを忍びに出かけるような施設かな。
芭蕉DB
………伊藤洋さん制作の、松尾芭蕉に関する詳細なサイト。
芭蕉庵ドットコム
………こちらも、松尾芭蕉に関する詳細なサイト。年表などが便利。

[Topへ]