藤原公任 ――歌論、和歌とその朗読
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●公任卿の撰あやまたず
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………いとゞ優れたりければ、初等に眺むるとて、吟詠することしきりなり
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●『新撰髄脳 (しんせんずいのう)』
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………学術たらざれど掌握するには足るべき者なり
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●『和歌九品 (わかくほん)』
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………和歌の階梯また下等より出でゝ上等へといたるなり
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●『前後十五番歌合』
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………『前十五番』こそ四條大納言藤原公任卿の撰によるべけれど『後』の方はいかゞ。いさゝか劣りたるはあやかるたる者にや
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●『三十六人撰』
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………古今の六歌仙ならずも、いにしえの歌人ども『三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)』などのたまふはこの撰によりしなり
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●『深窓秘抄』
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………四條の大納言こと公任卿の和歌撰集としては、『金葉集』こそかつても今も知られたものであるが、構成と選択においてより優れたものは『深窓秘抄』のように思われる。これを朗読して、和歌の導入の手引きとしてみるのも悪くない。勅撰和歌集『拾遺集』の母体となった『拾遺抄』は、もっとも知られたものであるが、今は割愛。
藤原公任 (ふじわらのきんとう) (966-1041)
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●生涯略歴
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………藤原公任は、藤原北家の流れを汲む小野宮家の藤原頼忠(よりただ)(924-989)の息子。父親は関白・太政大臣まで登るも、藤原北家九条流の藤原兼家(かねいえ)(929-990)(藤原道長の父でもある)との権力闘争に敗れるかたちで政権の座を追われ、やがて失意の内に亡くなることになる。
………その関係は公任にものしかかったものと思われるが、やがて藤原道長(966-1027)が権力の座に着くと、進んで彼のもとに従った。最終的には正二位、権大納言となるが、父ほどの政治権力は手にすることがかなわず、代わりに和歌、漢詩、管弦にすぐれ宮中一の芸術肌として名を馳せた。
………『大鏡』によると、藤原道長が「漢詩・管弦・和歌の舟」を用意して、いずれかに乗り込んで芸術を競い合うという「芸術バトル」?を開いたとき、和歌に乗り込んで名声を博してしまった公任が、どれに乗っても賞賛を得られるのだから、政治家のなすべき漢詩に乗り込めばよかったと後悔したという、逸話が残されている。これより彼は『三舟の才(さんしゅうのさい)』と讃えられた。プレイボーイのたまものか、清少納言には、「少し春あるここちすれ」という手紙を渡し、彼女の返答を求めたところ、「空さむみ花にまがえて散る雪に」と付けて返したと、『枕草子』に記されている。また、源氏物語を読んでいたらしく、紫式部に「このあたりに若紫(登場人物の名)はいませんか」と言って、ひんしゅくを買った?という逸話が残されている。
………などと、芸術界のスターであった彼だが、本心は政権の中枢に上り詰めたかったのかもしれない。権力者として絶大な勢力を誇る、藤原道長に追随せざるを得なかったところに、あるいは鬱屈した思いもあったものか。以下は「ウィキペディア」の部分引用を、ちょっとアレンジしたもの。
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………家集『大納言公任集』、私撰集『金玉和歌集』、歌論書『新撰髄脳』『和歌九品』などがあり、『和漢朗詠集』や三十六歌仙の元となった『三十六人撰』は公任の撰による。勅撰歌人として『拾遺和歌集』(15首)以下の勅撰和歌集に88首が入首している。その『拾遺和歌集』自体、恐らくは花山院によって、藤原公任撰の『拾遺抄』をベースに成立したと考えられている。また、引退後著したと見られる有職故実書『北山抄』は、摂関政治期における朝廷の儀式・年中行事の詳細が分かる貴重な史料である。
藤原公任のリンク
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ウィキペディア
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………「藤原公任」の解説
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千人万首 藤原公任
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………「やまとうた」のなかの「藤原公任」の和歌紹介
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藤原公任
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………「鏡匣の中」のなかの「藤原公任」の紹介。それなりの情報量がある。
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