・原文は学究的なものではなく、朗読のために示すものである。原文の()内の言葉は、後世筆写の際などの覚え書きかと思われるが、朗読の分かりやすさのために掲載朗読する。正し公任の意義と一致すると言い切れないものや、 文章中の補いには「かっこ」という発声を朗読に加えた場合もある。また、朗読者の補ったものは[かように]表記された部分であるが、朗読の分かりやすさのため、共に読んだものもある。青く記したのはこんな風に朗読者の補った言葉であり、原文ではない。なお見出しは、朗読者の便宜上に付けたもの。
歌のさま、三十一字(みそあまりひとじ)、総じて五句(いつく)あり。上の三句(みつく)をば本(もと)といひ、下の二句をば末(すゑ)といふ。一字・二字あまりたれども、うち詠むに、例に違(たが)はねば、癖(くせ)とせず。
おほよそ歌は、心ふかく、姿きよげにて、心にをかしき所あるを、すぐれたりといふべし。ことおほく添(そ)へ、くさりてや[堕落している、駄目になっている、くらいの意]と見ゆるが、いと悪(わろ)きなり。ひと筋(すぢ)に、すくよか[飾り気無く、率直にくらいの意]になむ詠むべき。
[この場合、姿は詞(ことば)の連鎖によって配合された様式美、すなわち詠われている内容に対して、その語り口のことである。分かりづらければ、「思い」とそれを伝える「語り口」くらいで捉えておいて構わない。]
心・姿、あひ具(ぐ)する[共にそなえ持つこと]こと難(かた)くば、まづ心を取るべし。つひに思ひいたらず心深からずば、その時は姿をいたはるべし。その姿のかたちといふは、うち聞き清げに、ゆゑありて、歌と聞こえ、文字はめづらしく添(そ)へなどしたるなり。
どうしても妙案が浮かばず、共(とも)に得ずなりなば、いにしへの人おほく、本(もと)[上の句]に歌まくらを置きて、末(すゑ)[下の句]に思ふ心をあらはす。さるをなむ、中頃よりはさしもあらねど、はじめに思ふことを言ひあらはしたる、なほ悪(わろ)きことになむする。貫之、躬恒は、中頃の上手なり。今の人の好(この)む、これがさまなるべし。(こゝに云ふ、九首の風体(ふうてい)なり。)
[和歌で言われる、「景」+「情」をパターン化したような、体裁を保つための方策。続けてその理由。少し前はそれほどでもないが、はじめに「思ふ心」を表すのを、次第に悪いと考えるようになってきたからである。と説明している。最後に今日の歌風のスタイルを決定づけた少し前の優れた読み手として、紀貫之と凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)を挙げる。]
風吹けば 沖つしらなみ 立田山
よはにや君が ひとりこゆらむ
[古今集994]
これは貫之が、歌の本にすべしといひけるなり。『伊勢物語』にあるこれを歌の本にすべし。
難波なる 長柄(ながら)の橋も つくるなり
今はわが身を 何にたとへむ
[古今集1051 伊勢(いせ)(9世紀後半~10世紀前半)]
これは伊勢(いせ)の御(ご)が、中務の君(なかつかさのきみ)に、かくよむべしといひける歌なり。
恋せじと みたらし川に せしみそぎ
神はうけずも なりにけるかな
[古今集501 詠み人知らず]
これは深養父(ふかやぶ)が、元輔(もとすけ)に教へける歌なり。
世の中を 何にたとへむ あさぼらけ
漕ぎゆく船の あとの白浪
[拾遺集1327 (万葉集のもの改編) 沙弥満誓(さみまんせい)(8世紀前半活躍)]
天の原 ふりさけ見れば 春日(かすが)なる
三笠(みかさ)の山に 出でし月かも
[古今集406 安倍仲麿(あべのなかまろ)(698-770)]
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
人にはつげよ あまの釣ぶね
[古今集407 小野篁(おののたかむら)(802-853)]
これらは、むかしのよき歌なり。
思ひかね 妹がりゆけば 冬の夜の
川風寒み 千鳥鳴くなり
[拾遺集224 紀貫之(きのつらゆき)(866?/872?-945?)]
わが宿の 花見がてらに くる人は
散りなむのちぞ 恋しかるべき
[古今集67 凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)(859?-925?)]
かぞふれば わが身につもる 年月を
送り迎(むか)ふと 何いそぐらむ
[拾遺集261 平兼盛(たいらのかねもり)(?-991)]
これらなむ、よき歌のさまなるべき。(右九首の心・詞をよく思ふべし。)
歌の病(やまひ)あまたある中に、むねと去るべき[=避けるべき]ことは、二所(ふたところ)におなじ事のあるなり。たゞし、言葉おなじけれども、心ことなるは去るべからず。
深山(みやま)には 松の雪だに 消えなくに
みやこは野べの 若菜つみけり
[古今集19 詠み人知らず]
(「みやま」と「みやこ」、詞おなじく、心ことなり難ならず)
言葉異(こと)なれども、心おなじきをば、なほ去るべし。
もがり船 いまぞ渚(なぎさ)に 寄するなる
みぎはの田鶴(たづ)の 声騷ぐなり
[拾遺集465 詠み人知らず]
[「渚(なぎさ)」と「汀(みぎは)」、心おなじければ去るなり]
一文字(ひともじ)なれども、同じきはなほ去るべし。
みさぶらひ 御笠(みかさ)と申せ 宮城野の
木のした露は 雨にまされり
[古今集1091 詠み人知らず]
[「御さぶらひ」と「御笠」、一文字なれども去るべし。「宮城野」の「み」は異なれば去らず]
優れたることのある時は、総じて去るべからず。
み山には 霰(あられ)降るらし 外山(とやま)なる
まさ木のかづら 色づきにけり
[古今集1077 詠み人知らず]
(山ふたつあり、秀逸の歌なれば、病とならず)
ことさらに取り返して読み(わざと同じことを重ねて、よく所々に詠む一体の事なり)、ところ/”\に多く読めるは、去るべきさまなり。その歌ども、さらに書かず。
また、二句(ふたく)に、末(すゑ)におなじ字あるは(初句二句の末の字同じき事なり)、世の人みな去るものなり。句の末(すゑ)にあらねども、ことばの末にあるは、耳にとゞまりてなむ聞ゆる。
散りぬれば のちは芥(あくた)に なる花を
思ひしらずも まどふ蝶(てふ)かな
[古今集435 僧正遍昭(そうじょうへんじょう)(819-890)]
(「散りぬれば」の「は」と「のちは」と、耳に立つなり)
句を隔(へだ)たらでも、去らざらむよりは、劣りて聞ゆるものなり。
《旋頭歌(せどうか)》
うちわたす 遠方人(をおちかたびと)に もの申す
われそのそこに 白く咲けるは 何の花ぞも
[古今集1007 詠み人知らず]
[「うちわたす」の「す」と「もの申す」の「す」]
句の末(すゑ)、言葉の末ごとにあれども、癖(くせ)と聞えぬなり。
ひさかたの あまの川原の わたし守(もり)
君わたりなば 梶(かぢ)かくしてよ
[古今集174 詠み人知らず]
(「の」の字など、上手の歌は、耳に立たずなり。また初句の末の字と、本韻(ほんいん)の字変わり、句隔たり、去るを嫌はず。されど耳に立つ字、「ぬ」「た」「そ」「れ」などの字、有るべからず。)
おほよそ、こはく卑(いや)しく、あまりおいらかなる言葉などを、よくはからひ知りて、優れたる事あるにあらずは、詠むべからず。「かも」「らし」などの古き言葉などは、常に詠むまじ。古く人の詠める言葉を、節(ふし)にしたる、悪(わろ)し。一節(ひとふし)にても、めづらしき言葉を、詠み出でむと思ふべし。
古歌を本文(ほんもん)[典拠、拠り所とする古書など]にして詠めることあり。(その歌を取りて、この詞を詠みたりと聞こゆる事なり。)それは言ふべからず。総じて、我はおぼえたりと思ひたれども、人の心得がたきことは、甲斐(かひ)なくなむある。むかしの樣(さま)を好みて、今の人ごとに好み詠み、我ひとり良しと思ふらめど、なべてさしもおぼえねば、あぢきなくなむあるべき。
[ここでは古歌を取ることは、よろしからずとされている]
これはみな人の知りたることなれども、まだはか/″\しくも習(なら)はぬ人のために、あら/\書き置くなるべし。
旋頭歌(せどうか)、三十八字(みそあまりやつじ)あるべし。(この儀、旋頭歌とは、世の常の三十一字の歌に、七文字入れたるをいふなり。)
ます鏡 そこなる影に
向ひゐて 見るときにこそ
知らぬ翁に 逢ふ心地すれ
[拾遺集565 凡河内躬恒]
ひとつの様(さま)。
かの岡(をか)に 草刈るをのこ しかな刈りそ
ありつゝも 君が来まさむ み馬草(まくさ)にせむ
[拾遺集567 柿本人麻呂]
(この儀、三十六七字などに詠む歌はひとつの様にて、旋頭歌にはあらず。旋頭歌は三十八九字有るなり。この歌は世の常、五句三十一字の中に、五文字加へたるなり。たゞひとつの様なり。)
また歌枕、[原文ここに「貫之が書ける」とあるものあり]またふるき言葉、日本紀、国々の歌に詠みつべき所なんど、これらをみるべし。
(おわり)
2013/6/14作成
2013/06/20朗読