万葉秘抄 解説 その一

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万葉秘抄 解説 その一

 なるべく簡素な解説を加えて、
   朗読に相応しい秀歌アンソロジーとします。

朗読ファイル

はじめ歌

 はじめ歌として、古今和歌集の平仮名の序文に、
   「この二歌(ふたうた)は、歌の父母のやうにてぞ、
      手習ふ人のはじめにもしける」

とある「安積山」の歌に、
 『万葉集』以外から「難波津の歌」を加えて、
   序歌の代りとしましょう。
     まずは、万葉集の手習ひ歌。

     『手習ひ歌』
安積山(あさかやま)
  影さへ見ゆる 山の井(ゐ)の
    浅きこゝろを 我が思はなくに
          (陸奥のさきの采女詠む) 万葉集16巻3807

安積山の
  影さえ映しだされる 澄んだ山の井のような
 浅いこころで あなたを思ってはいません

 これは葛城王(かつらぎおう)が、陸奥国(みちのくのくに)に派遣されたとき、現地の饗応があまりにも悪いので、ふて腐れていますと、かつて采女(うねめ)であった女性が、この和歌で王の機嫌を直したという解説が加えられた和歌です。ただし自分で作詩したのではなく、既存の歌を詠んだようですから、歌の内容ばかりでなく、その声のすばらしさにこそ、王は惚れたのかも知れません。

 その采女というのは、豪族などから捧げられる形を取る、天皇の女官にあたる特別な女性ですから、この逸話の心は、田舎じみた陸奥国の饗応に、都のみやびを弁えた女性が、優雅な振る舞いをしてくれたおかげで、王の機嫌も治ったという趣旨かと思われます。安積山は福島県の郡山市にいくつか候補があるようで、葛城王は橘諸兄(たちばなのもろえ)(684-757)の事かともされますが、他にも候補があるようです。

     『手習ひ歌 (万葉集外)』
難波津に
   咲くやこの花 冬ごもり
 今は春べと 咲くやこの花
          王仁(わに) 万葉集外(古今和歌集仮名序)

難波津に
   咲きますこの花 冬ごもりして
 今こそ春だと 咲きますこの花

 第十六代の仁徳天皇(にんとくてんのう)(実体不明多)が、まだ皇太子だった時に、天皇の座を兄弟で譲り合って、難波津に居られたまま、三年間もみかどが空位になっていたのを、即位をうながす歌とも、即位を祝う歌ともされています。王仁(わに)は百済系の知識人ですから、この頃の朝鮮半島との結びつきを象徴しているとも、和歌が日本人だけのものでないことを予祝しているとも、言えるかも知れませんね。

 競技カルタの開始を告げる際に、「今を春べと」と改変して歌われる有名な短歌ですが、この時代の花はさくらではなく「梅の花」、それも万葉集時代頃までは、紅梅は日本には伝えられていなかったらしく、白梅をさします。初め二句で場所を確定させた内容を、三句目から改めて、「冬をこもって今こそ春である」という、状況を提示しながら繰り返すという、初学用の構成の手本にもなっていますが、まず場所を定め、次に過去から現在へと導いて、今の喜びを表明する方針と、喜びの核心を、記述を拡大しながらリフレインする効果は、単純であればこそ見事なものであると言えるでしょう。

四季

春歌

石走(いはゞし)る
  垂水(たるみ)のうへの さわらびの
    萌え出(い)づる春に なりにけるかも
          志貴皇子 万葉集8巻1418

岩をほとばしり
  流れ落ちる水のほとりの ゼンマイが
    芽生え出る春に なったものですね

 万葉集における「垂水(たるみ)」というのは、上下の落差の激しい一般の滝よりも、岩場を流れ落ちるような激流の様子を表わしているようにも思われます。それで「岩を走るような」という表現が、枕詞のように加えられているのでしょう。「上(うえ)」というのは、今日の感覚では水の上か、滝の上部のように感じられがちですが、「ほとり」くらいのニュアンスです。「さわらび」はワラビでは時期も場所もそぐわず、ゼンマイではないかという説があるので、それに従います。

 必ずしも、勢いのある流水が、雪消(ゆきげ)の水を込めていると捉える必要はありませんが、淀みのない活力のこもるような動的なところから、芽吹くイメージを「さわらび」へと静止させ、春への証を立てる手際には淀みがありません。

昨日こそ 年は果てしか
  春かすみ 春日(かすが)の山に
    はや立ちにけり
          よみ人しらず 万葉集10巻1843

昨日年が 暮れたばかりなのに
  春霞が 春日山には
    早くも立ちのぼっている

 昨日、年が終わったというのは、暦上の出来事です。暦が変わったから春霞が立ったというと、お決まりの虚構のように感じる人もあるかも知れませんが、盆地など山あいの地形で、霧やら靄(もや)やら霞らが立ちやすい環境であれば、夕べの靄を、今朝は霞に読み替えた、などと安っぽい知的解釈をしなくても、年明けなので特に意識して、おめでたい気分で自然を眺望すると、しばしば目にする蒸気が、立ちこめているのを認めたとき、
     「ああ、早くも春霞が立ち始めたな」
 つまりは、年と季節が改まったという詠み手の感覚が、自然の風物への印象を、これまでとは違うものとして捉えさせた。そう考えれば、これは虚構でもなんでもなく、あらたまの年への喜びが、そして春への期待が、情景に加味されたものと悟るでしょう。

 それなら純粋に、実景を読み取ったものかというとそうでもなく、春霞を春日の山に配して、春のイメージを豊かにするような戦略も練られていますが、それもまた、お正月ならではのめでたさや、春への期待やら喜びが、そうさせるのだと考えれば、むしろ寄り添いたくなるのではないでしょうか。

 それで結論を述べるなら、たとえ実景をみてかすみを捉えたのでなくても、霞の多い地域で、霞を眺める機会に恵まれているような人たちが聞けば、浅はかな虚構のようには響かないだろう。また、そのくらいの認識で、寄り添えるものならば、私たちも糾弾することをのみ生き甲斐にせず、素直にそれに寄り添って、和歌を楽しんだらよいでしょう。そのくらいのまとめには過ぎませんでした。

明日よりは
   春菜(はるな)摘まむと 標(し)めし野に
 昨日も今日も 雪は降りつゝ
          山部赤人 万葉集8巻1427

明日から
  春菜を摘もうと 標(しめし)をした野でしたが
    昨日も今日も 雪が降り続きます

 標めし野とあるのは、しめ縄で神域を囲んで、立ち入りを禁じるように、何かを行なうために、縄張りをした野原のことです。あるいは今日なら、ぶらんこに砂を置いておけば、小学生でも縄張りを主張できるかも知れませんが、当時は階級社会ですから、御座さえ敷いておけば、お花見は大丈夫という訳にはいきません。ですから狩やら菜摘のために「標(しめし)」を付けるという行為は、天皇など特別な階級の和歌である可能性が濃厚です。この短歌が、庶民的な印象がまったく感じられず、気品に満ちているように感じられるのは、そのせいでもあるようです。

 そんなことなら、貴族ぶった歌には過ぎないなどという、下衆(げす)の勘繰りも起こりそうな夕ぐれですが、精神的階級すらなくしてしまった、大衆社会に息づくような私たちからすれば、泥まみれの表現からそっと離れた、気品のようなものが感じられ、かえってうれしくなるくらいではないでしょうか。その意味では、「大宮人」という表現にさえ、素敵なものを感じてしまうのは、心のどこかにはまだ、品位を求める願望がくすぶっている。そんな私たちの精神の、残骸のなせるわざかも知れないと、悲壮な見方すら出来るかも知れません。

 それで和歌としては、春へのよろこびを兼ねた若菜詰みが、雪に妨げられるという、今日でも春を待つ私たちが、しばしば感じるような、冬勢力のぶり返しを、雪に描いて見せたものです。「明日よりは」という未来への希望が、昨日今日にあった現実によって邪魔されるという、[願望]から[現実]への負の移行が、リアルへと聞き手を引き戻すように感じられます。

     『玉箒(たまばゝき)をたまひての宴の時』
初春(はつはる)の
  初子(はつね)の今日の たまばゝき
    手に取るからに 揺(ゆ)らく玉の緒
          大伴家持 万葉集20巻4493

初春を迎えて
  初子の日である今日の 玉箒は
    手に取る途端に 玉が鳴り揺れます

 こちらは『万葉集』の編者とも考えられる、
  大伴家持(おおとものやかもち)(717/718-785)の和歌。
「玉箒(たまばはき)」とあるのは、玉飾りの付けられた、お祝い用の飾り箒(ぼうき)のことで、年が明けて初めての子の日(ねのひ)に、朝廷で祝宴が開かれたものですから、
     「玉箒も祝賀の気持ちで手に取れば玉が鳴りますよ」
と短歌にしたものです。残念ながら仕事の都合で、家持はこの祝宴には参加できなかったようですが、万葉集の和歌というと、即興で詠まれることが特徴であるように思われている方もあるかも知れませんが、なかなかどうして、当座に詠まれた即興歌などが、そのまま収められたりはしていません。

 この短歌についてですが、冒頭からの「はつ」「はる」「はつ」の類似の表現を繰り返しながら、
     初春(四文字)の初子(三文字)の今日(二文字)の
と緊密になっていく「の」の繰り返しが、今現在を定めた上で、三句目に始めて「玉箒」を提示しますから、今この瞬間のよろこびの表明として効果的です。しかもその玉箒を、他人任せではなく、自らの手に取るという行為によって、玉を鳴らして祝福するという、積極的な喜びへとまとめますから、非常におめでたい印象がしてきます。それでいて、聞いていると「ほのぼの」としていて、構成や修辞が耳に付きません。何となく心地よいくらいのものです。だからこそ、優れた短歌なのです。

我が背子に
  見せむと思ひし 梅の花
    それとも見えず 雪の降れゝば
          山部赤人 万葉集8巻1426

あの人に
  見せようと思った 梅の花でしたが
    見分けが付きません
  真っ白な雪が 降りましたから

 山部赤人は男ですから、「我が背子に」と詠む場合は、友人や目上の相手に対して、恋人の表現で詠んだものかと思われます。特定の状況なら、女性に化けることもあるかも知れませんが、なかなか紀貫之の『土佐日記』のような人工的な変装は、普通一般には見られるものではありません。

 それで内容は、白梅の花が咲いたと思ったら、雪に埋もれて見分けが付かなくなってしまった。これもまた、冬の引き戻しを残念がる短歌になっています。ただ先ほどの「春菜」の時ほど無念に響かないのは、詠み手が梅と雪との取り合わせにも、美しさを感じてしまっている。つまり感興を催しているからに他なりません。そのため聞いている方も、その幻想的な気分を共有してしまい、なかなか残念な気持ちは、前面に表われて来ないようです。

 ただこの和歌でもっとも述べたかったのは、初めの二句の方で、純粋に冬の揺さぶりを残念がるよりも、梅の花が見られなくなったことを嘆くよりも、梅を口実に誘い出して、一緒に眺めながら逢えるかと思ったあなたを、呼ぶことが出来なくなってしまった。つまりは「あなたに逢えなくなってしまったこと」を悲しがる短歌になっている。

 それで「あなたは来ない」「梅は見えない」「雪の寒さがぶり返す」と、幾つもの残念が重なり合うような、複雑な心情が込められているのですが、それがあまり切実に響いてこないのは、先ほど述べましたように、白梅と雪の取り合わせに、詠み手も聞き手も、一定の感興を覚えてしまい、一方では残念がりながらも、一方では眺め入ってしまうような、描き出された情景そのものに由来するようです。

もゝしきの
   大宮人(おほみやひと)は いとまあれや
  梅をかざして こゝに集(つど)へる
          よみ人しらず 万葉集10巻1883

(ももしきの)
    宮中の貴人たちは 暇なのだろうか
   梅を髪に挿して ここに集まったりして

 大宮人というのは、宮廷の人のことで、特に高位の貴族たちを指す言葉です。「ももしきの」はそれに掛かる枕詞。「市役所の職員たちは」と言うと現実的ですが、「役人たちは」などと呼ぶと、ちょっと親しみが籠もるのと一緒で、「大宮人」に枕詞まで加えて表明されますから、ほとんど現実の貴族の気配がしてきません。このような効果があればこそ、和歌に相応しい表現として、歌詞(うたことば)などが発達していくのも、自然な成り行きにもなるのでしょう。

 ここでも、
  「貴族たちは暇なのか、こんな所に集まって」
では詩にもなりませんが、「ももしきの大宮人」と言われると、なんだか伝説の貴人たちが、物語のうちに梅をかざして、宴でも開いているような印象がしてくる。これもまた和歌の魅力の一つです。ですから、ただ意味だけを解釈しても、詩を紐解いた事にはなりません。表現と内容は絡み合って、はじめて一つの詩になるばかりです。

 それにしても、効果的なのは四句目の「梅をかざして」で、これによって季節が定められ、途端に春めいて来ます。春めいて来ますと、なんだかのほほんとして来ます。なんて言うと、それで解説かと叱られそうですが、日の延びゆく春にこそ、間延びしたような、長い一日を感じる人は多いのではないでしょうか。そうであればこそ、三句目の「いとまあれや」という表現が、軽蔑や疑惑よりも、むしろ春ならば「さもありなん」という共感をわずかに込めて、なんだか自分も梅をかざして、そこに参加したくなるような印象を、聞き手に与えるのではないでしょうか。それがこの和歌の魅力です。

梅が枝に
  鳴きて移ろふ うぐひすの
    羽根しろたへに あは雪そ降る
          よみ人しらず 万葉集10巻1840

梅の枝に
  鳴いては飛びうつる うぐいすの
    羽根さえ真っ白にして
  沫雪(あわゆき)が降っています

 これも雪により、冬へと引き戻されるパターンですが、今度は梅と雪にうぐいすまで参加してきますから、とても寒いイメージや、冬の頑固さに縮こまるような印象は浮かびません。三つどもえの対象物の見せる情景への共感が、遥かに増さってしまいますから、その感興に身を委ねるような気持ちにさせられます。

 もちろん、和歌では定番過ぎて、マンネリズムの取り合わせには過ぎませんから、むしろ第一人者としての、万葉集の短歌としては迷惑な話です。しかしおなじ取り合わせにしても、もちろん優劣は存在し、対象が陳腐に落ちたと捉えられても、実際は自然の対象物に過ぎませんから、優れた表現でありさえすれば、和歌同士の比較などはなおざりに、私たちは実景の方から、聞くたびに詩興を感じるのも事実です。

 この短歌では、ただうぐいすが鳴いているのではなく、鳴きながら枝を飛び移っていることが、情景描写を安易な虚構から救い、リアルな印象へと移しかえています。そもそも、うぐいすに雪が降って、羽根が真っ白になりながら、鳴いているような構図は、あまりにも安っぽい虚偽のように響きますから、ありがちなマンネリズム、つまり月並調(つきなみちょう)へと落ちぶれる可能性が濃厚です。ところがそれが飛び回って鳴いていますと、羽根に雪が積もることはおろか、羽根を静止画に定めることも危うくなりますから、かえって羽根に雪が覆い被さるような虚偽の印象は抜け落ちて、
     「飛び移るうぐいすの羽根が白く感じられるように」
沫雪(あわゆき)が降りつのっているという、自然の情景が優位に立ちます。それでちょっと聞き流すくらいでも、二句目の「移ろふ」の印象が動的に捉えられて、うぐいすに雪が乗っかっているような、下手なデッサンには、あまり捉えられないのではないでしょうか。そうしてあらためて吟味してみると、次第にうぐいすを白く見せているのは、まさに現在降っている雪であることが、感じられるようになってくる。つまり簡単にまとめると、この短歌は、

梅が枝に
  鳴きて移ろふ うぐひすの
    羽根にしろたへの あは雪そ降る

という内容を、
 ちょっと言葉を飾って見せた。
  そう捉えられるかと思います。

春の野に 霞たなびき
  うら悲(がな)し この夕影に
    うぐひす鳴くも
          大伴家持 万葉集19巻4290

春の野に 霞がたなびいて
  もの悲しい この夕暮の光に
    うぐいすが鳴いている

 こちらは大伴家持の「春愁三首(しゅんしゅうさんしゅ)」と呼ばれる、よく知られた三首のひとつです。春の野に霞をたなびかせますから、四句目の「夕影」つまり「夕暮の光」「夕日」は、ぼんやりとしたものへと移しかえられます。その情景のうえに、うぐいすの鳴き声という聴覚に訴えて短歌を結びますから、情景全体はぼんやりとして、そこにうぐいすの声だけがしてきます。しかし、ぼんやりしても夕日には違いありませんから、全体が暖色系に包まれます。

 その上で、うぐいすの声を「もの悲しい」と提示しますから、その悲しさは秋の切り裂くような冷たいものではなく、おぼろ気で、せっぱ詰まったものではないけれど、どことなく悲しいような。そんな心情へと返されます。それで普通なら、「もの悲しい」と結句をまとめるのが常道であるところを、家持はそれを三句目に置きました。

 これによって、[情景⇒心情の対象]⇒[心情]という単純な構図ではなく、
     [情景]⇒[心情]⇒[情景⇒心情の対象]
という複雑な構成になると同時に、三句目に置かれた「うら悲し」が、必ずしも「うぐひす鳴くも」だけに掛からずに、初めの二句にも、あるいは「この夕影に」にも均しく掛かり、うぐいすの鳴いているその情景すべてが「うら悲しい」ものであることを、構成のためにより強く、聞き手の印象にすり込ませることに成功しているようです。このような技巧的な表現もまた、技巧のために存在するのではなく、情景と心情にかえされるものですから秀歌です。

[朗読ファイル その二]

我が宿の
  いさゝ群竹(むらたけ) 吹く風の
    音のかそけき この夕へかも
          大伴家持 万葉集19巻4291

私の家の
  わずかな群竹に 吹く風の
 音さえかすかな この夕べです

  これも「春愁三首(しゅんしゅうさんしゅ)」の一首。
「いささ群竹」の「いささ」は「いささか」の意味ですから、庭にわずかな群れとなっている竹を表現していますが、それをまるで一つの名詞であるかのように、半ば造語にしてしまっているところがユニークです。一方、表現上もっとも重要な言葉は四句目の「かそけき」に込められていますが、これは「かすか」とおなじ事で、乏しいくらいにかすれたような、頼りない音をあらわしています。

 以上二句と四句の、わずかな竹にかすかに響く風の音、というのがこの短歌の心臓部を形成する訳で、それが、吹かないわけではない風、揺れないわけではない、竹の小さな群生、聞こえないわけではない、そのサラサラとした響き、という、あるとも無いとも頼りないような、けれども意識には捉えられるくらいの、日本人好みの「あるない」の境界線上を踏み迷い、それを夕ぐれへと返す結句が、全体の情景を聞き手の心へと定めます。

ものゝふの
  八十娘子(やそをとめ)らが 汲(く)みまがふ
    寺井(てらゐ)の上の かたかごの花
          大伴家持 万葉集19巻4143

(もののふの)
    沢山の娘らが 汲み交わしている
   寺の井のほとりの かたくりの花

 さて家持ばかりが登場するのは、彼が優れた歌人であるからですが、同時に万葉集の和歌の一割ほどが、彼の和歌でしめられているせいでもあります。特に十六巻から二十巻までは、彼の個人的な歌日記のようになっていますから、なおさら彼のことを、編纂者と考えがちになるのは避けられません。

 冒頭の「もののふの」は「八十(やそ)」に掛かる枕詞で、「八十」は実数ではなく、数の多いことを表わしているに過ぎません。この「もののふの」という枕詞は、武士ではなく、朝廷に勤める役人を、文官も武官も含めて「もののふ」と呼んだもので、さまざまな氏族(しぞく)が集まって天皇を支えお仕えする、その数の多さが「八十」に掛かるのだとされています。ただし、やはり武士的な傾向を持った表現として、使用されていたようにも思われます。

 それで短歌としては、そんな沢山の娘たちが、寺の井戸で水を汲みあっている。「まがふ」というのは「乱れる」の意味ですから、「八十」と合わさって、きわめて賑やかな状況を詠みなしている訳です。バーゲンセールに群がるほどではないけれど、なかなかにごちゃごちゃしていて、おまけに女同士が集まれば、おしゃべりに花が咲きまくって、収拾がつかなくなる、そんな状況さえ思い描けるのではないでしょうか。そうすると、冒頭の枕詞である「もののふの」に、武士的なイメージが込められてるならば、なおさら女強者どもみたいで、面白い気もしてきます。

 それに対置されるのが、結句の「かたかご」つまり、今日の「かたくりの花」です。ここで「寺井の上」とあるのは、「石走る垂水の上の」とおなじで、井戸のほとりの意味になります。この花が娘たちに対して、どのような意味を担っているのかは、花だけを配置しても明確ではないかも知れません。ですが、あれほど賑やかに踏み荒らされた井戸のほとりですから、「かたかごの花」の存在できる場所は、おのずから限られてきます。つまりは、皆の踏みつけにされないところに、そっと咲いているような気配がします。また結句の焦点の定め方も、広範な「かたかご畑」のような群生というより、わずかな花を見つけて、そこにスポットを当てたような印象です。

 これらから総合的に、動的で賑やかで華やかである娘たちに対して、反対の方向への思いを込めて、「富士には月見草がよく似合ふ」ではありませんが、詠み手が心を添えるべき対象物を見いだしたような、体言止めにまとめたものと思われます。かといってこれは、乙女らへの反感という訳でもなく、共感のままに見いだされた、新たな対象物の様相ですから、文字通り花のある、華やかな短歌でありながら、同時にひっそりとした、静寂の気配がこめられているようです。

恋ひつゝも 今日は暮らしつ
   かすみ立つ 明日の春日(はるひ)を
      いかに暮らさむ
          よみ人しらず 万葉集10巻1914

恋しく思いながら
  今日はとりあえず暮らしましたが
    霞の立ちのぼる 明日また長い春の一日を
      どうやって暮らしたらよいでしょう

 恋しさの長い時間は、春なら「ひねもす」、秋なら「夜長」。それをどう過ごそうというテーマも、後の勅撰和歌集へと継承される、黄金のテーマには違いありません。それで後々、さまざまな詠まれ方もされる訳ですが……

 あるいはその核心は、すでにこの短歌で閉ざされてしまっているようにも思われます。今日はどうにか暮らしました。初めの二句で、恋しさにさいなまれて、もう明日を暮らせないような、くたくたな印象を提示します。こんな有様で、明日の春の日をどうやって暮らしたらよいのだろう。それが後半です。長い春の印象を冒頭には提示せず、あえて三句目に「霞立つ」によって春の日を立ちのぼらせる構成も、二句と結句の類似の繰り返しも、これ以上飾り立てても、リリシズムやデリケートな心情は込められるかも知れませんが、テーマを結晶化させた表現としては、これ以上は増さらないかも知れません。

     『春苑桃李(しゅんえんとうり)の歌』
春の園(その)
  くれなゐにほふ もゝの花
    した照(で)る道に 出で立つをとめ
          大伴家持 万葉集19巻4139

春の園に
  くれない色に 映える桃の花が
    下を照らすような道に
  立ち現われた少女よ

 もし「巻第十九」が存在しなかったら、大伴家持という歌人の評価は、星を幾つか減らしたと思われます。それくらいこの巻における、彼の表現力は、それまでの内容からも隔たっていて、情緒と着想と修辞とが、きわめて高いレベルで融合した、誰にも真似できないような表現を獲得しているのが、この第十九巻の大伴家持という歌人です。残念ながら、彼の際だった表現力は、それが万葉集の時代の、昇りすぎたピークででもあったかのように、後の時代には継承されませんでした。勅撰和歌集の時代へと下っていったのは、もっと以前の、例えば「よみ人しらず」に代表されるような、短歌のスタイルには過ぎなかったようです。もちろんそれはそれで、魅力的ではあるのですが……

 初句だけで時節と場所を定めて、「桃」と「乙女」という、二つの「春の花」を配置するものですが、紅色に映える桃の、それだけでも印象的な、鮮やかなトーンを情景へと置き換えて、その色彩に照らし出されるように、乙女が立つという構図は他に類をみません。しかも「出で立つ」と置きましたから、まるで桃の花を自然のライトにでもして、乙女がまさに今、立ち現れたような光景で、動きの中で今を捉えたような印象が、聞き手に強く焼き付けられます。

 このような動的であり即時的であり、同時に人工的に仕組まれた、美的な舞台でもあるような、演技の一場面のような詩興の提示は、古今和歌集などではほとんど見られなくなる、大伴家持の際だった特色の一つです。日常的感慨をもとに、どれほど言葉をもてあそんでも、同一線上のものしか生まれないことを悟る時、あるいは今の私たちにこそ、見習うべきところがあるのかも知れませんね。

あをによし 奈良のみやこは
   咲く花の にほふがごとく
      今盛りなり
          小野老(おののおゆ) 万葉集3巻328

(あをによし) 奈良の都は
   咲き誇る花の 照り映えるように
     今こそ栄えているよ

 奈良のみやこは、710年に遷都した平城京のことで、「あをによし」は「奈良」に掛かる枕詞です。歌の意味は、平城京の栄える様を、咲き誇る花にたとえたものですが、単なる比喩ではなく、花の栄えるみやこを眺めればこそ、この咲いている花のように、奈良のみやこも華やいでいると歌ったものと思われます。

うら/\に
  照れる春日(はるひ)に ひばり上がり
    こゝろ悲(がな/かな)しも ひとりし思へば
          大伴家持 万葉集19巻4292

うららかに
  照る春の日に ヒバリは上がり
    こころ悲しいもの
  ひとりもの思いをしていると

  家持の「春愁三首」の三つ目です。
 ヒバリは急な上昇下降をして、しばしば「上がる」などと表現される事のある鳥です。あるいは、どこにいるのか分からずに、鳴き声だけが野から聞こえたり、雲に入って鳴いていると比喩される事もあります。体は小さく、せわしなく鳴く鳥ですので、作者が「心悲しも」と感じたのも、大鷲が飛んでいるような、飛翔の姿を眺めての感慨ではなく、むしろしきりに鳴いているヒバリの声に、せわしなさのうちの悲しみを見い出したからに他なりません。ただここでは、声はあえて明言せず、鳴き声と一緒にひばりが空へ上がっていく、その姿だけを描いています。

 まるで、のどかな春の日を、せかせるみたいなせわしない声が、空へと舞い上がっていくような印象で、「春日に」とあるのはもちろん春の一日ではありますが、うららかな日差しに向かっていくような、そんなイメージも湧いてきます。

 つまりその情景は、秋の夕ぐれや、しぐれに散るもみじのようには、悲しいものではありません。むしろ陽気に捉えて、うれしくなっても可笑しくないくらいです。そうであればこそ、詠み手はわざわざ、下の句において、
   「ひとりで思い悩めば、心悲しく感じられる」
と心情を定義する必要があった訳ですが、わざわざ「ひとりし思へば」と述べるからには、「ひとりで思う」ような状況になければ、詠み手も悲しみを感じないであろう、むしろ陽気になれたであろう事が推察されます。逆を返せば、そのような春の情景さえも、「悲しも」と感じるような状況に、詠み手は置かれているという事が悟られますから、その心情の深いところまで、聞き手は受け取ることが出来るという仕組みです。

 そのような全体構成において、
   「こゝろ悲しも ひとりし思へば」
と倒置された表現は絶妙で、これによって「心悲しも」が強調されると同時に、最後に詠み手の置かれた状況をまとめて、
   [情景にあっての心情]⇒[詠み手の置かれた状況]
という構造に様式化を計ってもいるのです。

 ただし、この和歌、実際は後書が記してあり、そこにはうぐいすも登場しますから、後書まで含めると、うぐいすの響きのうちに、ヒバリがあがりますから、上の解釈とは、また違って来るかと思われます。

かはづ鳴く
    神(かむ)なび川(かは)に 影見えて
  今か咲くらむ 山吹の花
          厚見王(あつみのおおきみ) 万葉集8巻1435

蛙の鳴く
  神のおわします川に 影を映して
    今頃咲いているだろうか 山吹の花は

 神奈備(かむなび)とは、「神のおわします」くらいの意味で、神聖な山や川に掲げられるものですが、三室山など特定の山を指す場合もあります。それで、この「神奈備川」も、あるいは飛鳥川を指すかともされていますが、確定はされていません。山吹は晩春の季語として、歳時記にも知られますが、「川」「蛙(かはず)」「山吹」の取り合わせは、ちょっと和歌に馴れた人なら、またかと思うくらい、定番の取り合わせになっています。その蛙は、おそらくは鳴き声の豊かな、カジカガエルではないかとされています。

 もちろん、定番の取り合わせというものは、類想(るいそう)に親しみたがる、私たち大和の民には、心地よい側面もありますから、それが直ちに陳腐に落ちぶれるものではありません。これは先ほどの、「梅」「雪」「うぐいす」にしてもおなじ事です。特にここでは、蛙の声がするので、聴覚に引かれて川を覗いたら、その川に山吹の花が映し出され、視覚へと移り変りながら、鏡像としての山吹を眺めますから、非常に凝った構図になっています。

 しかも「今か咲くらむ」と、推測にゆだねますから、この情景は実際に眺めたものではなく、詠み手が思い描いた、心象スケッチであることが分かります。つまりは、これほど鮮やかな情景を描き出すほど、対象物へのあこがれが大きいことが分かりますから、私たちもまた、その情景に引き込まれてゆくのです。この構想において、蛙を封じ込め、鏡の役割も果たしている、心象スケッチのかなめの川を、「神のおわします川」と呼んだ二句目の効果には、感歎するしかありません。それでいて、聞き流してしまうと、あたりきの感慨を、つぶやいたようにしか聞こえない。詠み手のエゴに引っかかる針などどこにもない。だからこそ、優れた和歌だと言えるでしょう。

夏歌

     「天皇の御製歌」
春過ぎて 夏来たるらし
  しろたへの ころも干したり
    天(あめ)の香具山(かぐやま)
          持統天皇(じとうてんのう) 万葉集1巻28

春が過ぎて 夏が来たようだ
  真っ白な 着物を干してある
    天の香具山に

 藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)の編纂した『小倉百人一首』にも含まれる、有名な短歌ですが、百人一首とは少しく表現が異なります。百人一首では、「真っ白な布を干すという山に夏が来たらしい」と詠みますが、万葉集のものはもっと確定的で、衣(ころも)が干されているのを確認して、それによって夏が来たことを知るという内容です。そうして初めの二句で、
     「ああ夏が来たようだな」
と定めてしまってから、詠み手が感興を催した、対象物としての「天の香具山」の様子を、実際に見たものとして提示しますから、百人一首のものが心情に訴えるのに対して、明確な情景となって、聞き手にも詩興を生じさせるようです。くっきりと、はっきりとしているからこそ、夏の来た喜ばしさも鮮明に浮かぶというもの。それが元歌の魅力だと言えるでしょう。

旅にして
   妻恋ひすらし ほとゝぎす
 神(かむ)なび山に さ夜更けて鳴く
          (古歌集) 万葉集10巻1938

旅にあって
  妻が恋しいのだろう ほととぎすが
    神奈備山で 夜更けに鳴いているのは

 夜鳴きの鳥などは、後の時代になるほど、聞き手の悲しみや、闇の情念のようなもの、あるいは不気味さなどが加味されることが多くなりますが、純粋に慕わしい気持ちにさせられるのは、叙し方が単純なのと、神のおわします山の効果でしょうか。自分も旅に出て、妻に逢いたい共感とも捉えられますし、自分も旅に出たら妻を慕うだろうと、ほととぎすに同情しているようにも捉えられます。この短歌は、長歌の反歌になっていますから、長歌と合わせると、また印象も変わってくるかと思われますが、あちらから情緒を強制はしない、それでいて詩情の込められた短歌だからこそ、聞き手も飽きないどころではなく、噛めば噛むほど、また味わいたくなるような、もう一度口ずさんでみたくなるような、そんなスルメの味わいのある名歌です。

あしひきの
  山川(やまがは)の瀬の 鳴るなへに
    弓月が岳(ゆつきがたけ)に 雲立ちわたる
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集7巻1088

(あしひきの)
   山川の瀬が 鳴り渡るなかに
     弓月が岳に 雲が立ち渡っていく

 弓月が岳というのは、奈良県桜井市にある巻向山(まきむくやま)の峰のひとつと考えられています。冒頭の「あしひきの」はもちろん、山に掛かる枕詞で、万葉集の時代には「ひきの」と清音で発音されていたようです。三句目の「鳴るなへに」とあるのは、「鳴るのに合わせて」くらいの意味。

 もちろん単純に、雲が昇るのを眺めた短歌として楽しんでも構いませんが、三句目によって、上二句と下二句が並置されていることを、積極的に捉えるならば、むしろ弓月が岳に雲が立って、上流では雨が降っているから、山川の瀬がより鳴り渡っている。それを反転させて詠んだと考えると、魅力も増すかと思います。そうして歌い手は、魅力の増すことを望んで詠んでいるのですから、つまりはそれが、詠み手の意図であるという可能性が、高いということに他なりません。

秋歌

[朗読ファイル その三]

この夕(ゆふ)へ
   降りくる雨は 彦星(ひこほし/ぼし)の
 はや漕ぐ舟の 櫂の散りかも
          よみ人しらず 万葉集10巻2052

この夕方に
    降ってきた雨は 彦星が
  早漕ぎする船の 櫂のしずくかもしれない

 七夕の雨というのは、昔からの決まり事だったようで、当時は旧暦で変動しますから一概には言えませんが、梅雨のイメージではなく、真夏のにわか雨、すなわち夕立(ゆうだち)を指すと考えるのが相応しいでしょう。だからこそ、わざわざ「この夕べ」と断わってもいる訳で……

 その夕立が、彦星が船を漕ぐ時間帯と重なるものですから、彼女の元に懸命に漕ぎ出す船の、櫂から散らされる水しぶきが、雨になったのだろうと推し量っている。すると四句目の「はや漕ぐ」という印象が、彦星の逢いたい気持ちと同時に、「どれだけ必死に漕いだら、こんな激しい夕立になるんだ」という、やさしいからかいのようにも聞こえてきますから、ちょっと自分らの恋するときの気分を、くすぐられるような気もします。そんな共感が、この短歌を親しいものにしているのです。

     『三山の歌の反歌』
わたつみの
  豊旗雲(とよはたくも/ぐも)に 入り日さし
    こよひの月夜(つくよ) さやけかりこそ/さやけくありこそ
          中大兄皇子(なかのおおえのみこ) 万葉集1巻15

大海原の
  旗のようになびく雲に 入り日がさしている
    今夜の月の明かりは きっとすばらしいだろう
      (今夜の月の明かりが すばらしいものであるように)

 これも反歌ですから、長歌と合わせた時とは、印象が少し変わるかと思われますが、単独の短歌としても魅力的ですので、ここではそのつもりで解説を加えます。まず冒頭の「わたつみの」は、海の神の名前です。そこから派生して、広大な海を指す言葉としても使用されましたが、二句目の「旗雲」にわざわざ「豊(とよ)」の文字を加えていますから、神聖なイメージが強く提示されます。ですから詠み手の心情としてはむしろ、
     「わたつみの神のしめされた豊(とよ)の旗雲に」
くらいの詠い出しで、
 そうであればこそ、始めて結句と呼応して、
  ひとつの詩的精神に至れるものかと思います。

  その結句ですが、上句の「神のしめされた豊める」という印象から、この雲が風雲急を告げる、暗雲立ちこめるような雲ではなく、逆にその雲が喜ばしいもの、つまり夜の晴れを期待させるような雲であることは分かります。それで下の句は、その雲を予兆として、「ああ、きっとすばらしい月夜なのだな」とする解釈と、その雲に対して「すばらしい月夜になればいいな」と、願望を込めたとする解釈があるようですが、あるいはそのような解釈は、現代病なのかもしれません。

  神聖なものに対する希求には幾つか種類があります。
 一つは目的をもってなされるもので、恋人を求めたり、受験のために、あるいは病気の治癒を祈願するために、神への具体的な祈りを捧げるものです。もう一つは、たとえば神社に行ったときに、別に具体的な目的が存在する訳でもないのに、お賽銭を投げ入れて、健康でありますようにとか、幸せでありますようにとか、仮に祈りを捧げるものです。あるいはまた元旦に、朝日を眺めて一年の慶(けい)を祈るようなものです。初めのものは、もちろん目的があって、そのために神に祈る訳ですが、二つめの祈りにおいて、目的はむしろ名目です。神に祈りたい、ある種の敬けんな情緒が引き金になって、仮の願いを立てて、神に手を合わせたに過ぎません。もちろん名目にしても、心から願うには違いありませんが、その心情の中心は、目的にはなく、祈りたい気持ち、そのものに存在すると言えるでしょう。

 つまりこの短歌においては、豊かに表現された夕ぐれの雲に対して、もしそれに見合うか、それ以上の表現が、月に込められているならば、印象も変わるでしょうが、この歌い方では、はるかに豊旗雲の神聖が、情景の中心となって、私たちの心に浮かびます。それは描写の指向性が、そちらにベクトルを定めているからで、つまりは詠み手自身が、豊旗雲にベクトルを定めて詠まれたから、私たちもまた、そのように感じるものに過ぎません。

 結論を述べれば、この短歌の本意は、今宵の月のことにはありません。もちろんそれを考えない訳ではなく、考えたからこそ詠まれているのですが、それにも関わらず、実際の心情は、夕方のたなびく雲に、入り日がさして、暮れて行く情景にあって、神聖なものに触れたような、敬けんな気持ちにさせられた。それでわざわざ、神に対するように「わたつみの豊旗雲」と唱えて、神聖な自然に、もちろん当時であれば本当に神に、祈りを捧げた。その祈りの内容が、
     「どうか今宵の月がすばらしくありますように」
であったという事で、極論を述べれば、
     「きっといいことがありますように」
と目的もなく祈ってしまったのと、本心は変わりません。それを、瑞兆の雲であるから、月がよいのを予見したものだとか、雲があるのでそれが広がらないように、願望を込めたというのは、ちょっとあさましくて、せっかくの詠み手の敬けんさを、かえって賽銭で穢すような、俗の勘ぐりというものではないでしょうか。ただそれだけのまとめですが、あえて、ここでの現代語訳は、元のままにしておきましょうか。私自身、この程度の解説をしてみなければ、その本心へとたどり着けなかった、その読解力の甘さの、見せしめのために。

秋萩の
  咲き散る野辺(のへ)の 夕露に
    濡れつゝ来ませ 夜は更けぬとも
          よみ人しらず 万葉集10巻2252

秋萩が
  咲き散る野辺の 夕露に
    濡れながらでもいらっしゃい
  夜は更けてしまっても

 恋人に来て欲しいと願うような短歌は、待ちわびる思いが切実であるために、しばしばせっぱ詰まったものになりがちですが、この短歌の詠み手は、よほど相手に安心しているのか、あるいはあっけらかんとした性格なのか、それとも男性の方が一方的に恋しているのかは分かりませんが、詠み方のトーンにゆとりがあります。

 つまりは、
   「遅くなってもいらっしゃいな」
くらいの軽い誘いには過ぎませんから、私たちも詠み手の心情に同情するよりは、彼女が描いて見せた秋の情景、そして夜更けになって、秋萩の野辺を露に濡れならがら、恋人のもとへ向かう男の印象に、思いを馳せることが出来るようです。そのため、心情の吐露というよりも、抒情詩の体裁を借りた、叙景詩のように聞こえてくるのが魅力です。

夕されば
   小倉の山に 鳴く鹿は
 今夜(こよひ)は鳴かず 寐(い)ねにけらしも
          舒明天皇 万葉集8巻1511

夕方になれば
  小倉の山に 鳴くはずの鹿は
    今夜は鳴きません
  妻といっしょに寝ているのでしょう

 秋の鹿が鳴くのは、牡鹿が妻を求めて鳴く、特別な響きですから、秋の風物詩としてしばしば和歌に詠まれています。それで「夕されば」というのは「夕方になれば」の意味ですから、これまでは夕方になると聞こえてきたはずの、鹿の妻問(つまど)いの鳴き声が、今日に限って聞こえないことに気がついた詠み手が、「妻を呼ばなくてよい状況になったのか」、つまり妻と一緒に寝ているのか、と推察したものです。

 ほととぎすの声なら、むしろ声そのものの感興と捉えて良いですが、秋の情景に妻を求める声がしなくなったのに気が付いたのは、あるいは純粋に鹿の鳴き声を惜しんだのではなく、詠み手もまた妻への思いをはせたものと、解釈するのは悪い読み取りではありません。

 ただし、そうでなければならないと、強制するのはよろしくないかと思われます。この短歌の調子もまた、それほど心情に、せっぱ詰まったものを抱えていないからです。もちろん、軽い詩だという意味ではありません。心情に切り詰めたものがなくても、深い詩興にいたった詩というものは、それだけで貴いものです。手っ取り早く感情に溺れるような詩よりも、かえって価値は高いくらいのものですから。

     『七種(なゝくさ)の花の歌』
萩の花
  尾花葛花(をばなくずはな) なでしこが/の花
    をみなへし
  また藤袴(ふぢばかま) 朝顔(あさがほ)が/の花
          山上憶良 万葉集8巻1538

上同

 別に七草だから採用したという訳ではありません。五句目の「また」以外は、すべて花の名前を並べただけですが、そうであればこそ、その並べられた花の美しさが、この和歌の詩情を確定します。旋頭歌にしたのは、歌謡的であるからという説明もありますが、純粋に短歌には収めきれないから、と見る方が自然です。もちろん結果として、相応しい詩型に収められているならば、妥協どころではなく、見事に枠にはまったと解釈されるべきものです。

 花の順番は、よく和歌に読まれる順番、つまりよく知られたものから並べられているようですが、秋の代表を告げる「萩の花」から始めるのは、あるいは外せないプランでしょうか、「をみなへし」「藤袴」は五文字で、旋頭歌の五文字の句は二ヶ所しかありません。一方で、四文字の「なでしこ」と「あさがほ」には必ずしも花は必要ありませんが、繰り返される「花」の効果も兼ねて、旋頭歌の上句下句のまとめにそれぞれ「~の花」と置くという方針は、むしろ早くにまとまったかと思われます。

 また前半で緊密に繰り返された「花」の連続が、「をみなへし」の後半部分の導入で一度破棄されて、最後の「朝顔の花」でリズムをまとめる方針は、
     [定型リズム]⇒[逸脱]⇒[定型リズムの回帰]
というもっとも普遍的な構造にもとずいていますし、「~の花」という表現が「一句」「三句」「六句」とバランス良く配置されているのもやはり構造的です。もちろん構想として、知られた花からという意識もあったでしょうが、全体の緻密なプランの中で、選択された順番であったことは見逃してはなりません。

 もう一つ加えるなら、この和歌でなかなか外せない大切な役割を果たしているのが五句目の「また」という表現です。詩においてあまり名詞が続くと、ちょっと「お馬鹿」っぽく響くのは避けられませんが、そこにわずかでも語りの表現が加えられると、
     「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」
 冒頭の「目には」だけで青葉以下の、ばらばらな並置が、表現としての体裁を獲得するくらいのものですから、この「また」という表現には、実際にはすべての花をまとめあげるための、軸が仕込まれていると言えるでしょう。表現としては大したものではありませんが、それを取り除いてしまうと、全体がばらばらの名詞に還元されてしまうという訳です。

 それにしても結句に収められた「あさがほの花」には、めずらしくも特別な、詠み手の花への思い入れがあるように思われるのですが、この「あさがほの花」が何であるか、ある人は「ムクゲ」と言い、別の人は「キキョウである」と定め、「いいや今日に続く朝顔のルーツに違いない」と主張する人もいて、キキョウ説が有力ではあるようですが、現在に至るまで、決着が付いていないようです。

秋づけば
  尾花がうへに 置く露の
    消ぬべくも我(あれ/わ)は 思ほゆるかも
          日置長枝娘子(へきのながえおとめ) 万葉集8巻1564

秋めいてくると
   尾花のうえに 置かれた露のように
 消えてしまいそうに私は 思われてなりません

 全体を散文詩と捉えたくなるような、きわめてユニークな作品である、夏目漱石の『草枕』に織り込まれた和歌として、知る人ぞ知る短歌です。上の句は四句目の「消えてしまいそうに」に掛かる序詞(じょことば)なのですが、「消えるのが哀れに思われてなりません」と詠めば、たちまちに秋の露の歌になってしまうくらい、統一された情景歌の印象が浸食していて、上の句がわたくしの心情の比喩なのか、わたくしの心情がむしろ付録なのか、その区別をなし得ない融合物である、というのが実はこの詩の魅力です。

 こういうものは、二元論でしかものを考えない、初等教育の範疇では、煮え切らない半端物のようにも論じられかねませんが、実際は優れた詩の一表現の、ひとつの方針には過ぎません。完全に融合された序詞と本体は、もはや切り離して、比喩であるなどとは、安易に解釈が付かなくなってしまう、そのような詩であると捉えておけばよいでしょう。

しぐれの雨 間なくし降れば
  真木(まき)の葉も あらそひかねて
    色づきにけり
          よみ人しらず 万葉集10巻2196

しぐれの雨が 絶え間なく降るので
  真木の葉さえも 抗(あらが)いきれなくて
    色が変わってきました

 真木(まき)は杉や檜などの、常緑の木を指す言葉で、これらはしばしば建築材として利用されました。常緑と言うからには、冬でも緑葉を保ちそうなものですが、やはり寒さに晒されると、夏の頃よりは色あせるように感じられ、それをしぐれの雨に抵抗できずに、色付いたと表現しているのです。

 詠み手はあるいは、目にした自然の情景のままを、ありきたりに詠んだのかも知れませんが、しぐれの雨に晒されて、常緑樹が色づいたという発想は、もし頭のなかで生みなそうとすると、なかなか浮かんで来るものでもありませんから、聞かされている方は、着想において優れたものが感じられます。それでいて詠まれてみると、なるほどもっともな内容でもありますから、ひねったような嫌味は起こりません。それだからこそ、秀歌なのです。いくら着想に邁進しても、それが嫌らしく響いたら、それはもはや秀歌どころか、言葉のガラクタへと、転落するしかありませんから。

冬歌

八田(やた)の野の あさぢ色づく
   愛発山(あらちやま) 峰のあは雪 寒く降るらし
          よみ人しらず 万葉集10巻2331

八田の野の 浅茅が色づいた
  愛発山の 峰にはあわ雪が
    寒く降っていることだろう

 八田の野は、奈良県の大和郡山市(やまとこおりやまし)の西方にある野です。それに対して愛発山(有乳山)というのは、福井県敦賀市(つるがし)南方にある山のことです。なぜそのような遠方の事が推し量られたかと言いますと、恐らく、ここに不破の関(ふわのせき)、鈴鹿の関(すずかのせき)と並ぶ関所、「愛発の関(あらちのせき)」が設置されていたことと、関連があるように思われます。

 もちろんこの短歌だけから、明白な意図は知りようがありませんが、奈良にある浅茅が色づくのを眺めて、遠く福井の関所には雪が降っているだろうかと思いはかるものならば、残された者が、旅行く者を推し量るという、ありがちな和歌であるという、可能性が高いとは言えそうですから。

 それでは、せっかく旅の気配がして来ましたので、
  「羈旅」の和歌に移ることにいたしましょう。

羈旅

[朗読ファイル その四]

     『舒明天皇、宇智の野に遊猟(みかり)する時の歌の反歌』
たまきはる
  宇智(うち)の大野に 馬なめて
    朝踏ますらむ その草深野(くさふかの)
          中皇命(なかつすめらみこと) 万葉集1巻4

(たまきはる)
   宇智の大野に 馬を連ねて
     朝野を踏ませているだろう
   その草深い野を

 中皇命というのは女性で、斉明天皇(さいめいてんのう)(594-661)の娘である間人皇女(はしひとのひめみこ)を指すのではないかともされますが、斉明天皇自身ではないかなど諸説あり、はっきりしたことは分かりません。この短歌は、み狩りに出発する際に詠まれた長歌の、反歌になっていますが、直接狩には同行せず、残された者の立場で、「朝野を踏ませているのだろう」つまり「らむ」という推量にゆだねています。

 冒頭の「たまきはる」は宇智に掛かる枕詞で、宇智は奈良県五條市、金剛山のすそ野に広がっていた狩猟地のことです。そこに馬を並べて、朝狩りに草を踏ませているのであろうという内容ですが、
     「草踏ますらむ朝の深野を」
と詠むのが通常でありそうなところを、わざと言葉を入れ替える、今日で言うなら代換法(だいかんほう)という修辞法が利用されているのがユニークです。これによって草と野をまとめて、「草深野(くさふかの)」という表現で締めくくることが出来ましたが、これもあるいは造語でしょうか。冒頭の枕詞の使用から、全体に修辞的、様式的な傾向が見られるのが特徴ですが、それがむしろおおやけの場で詠まれるための、様式的傾向を持った作品として、外向性と詩情のバランスをたもっているのが、この短歌の格調を高めている要因かと思われます。決して個人的に、心情を歌ったものではありません。

 これはあるいは、王宮で竪を奏でる吟遊詩人の詩情が、個人的な心情そのものを表明するのではなく、様式と表現の格調を保ちながら、聴衆を意識しつつ歌うがゆえに、その歌詞には個人のエゴの表明などよりも豊かな、普遍的な情緒が込められる。そのようなシチュエーションを、思い描いていただければ良いかも知れません。後の、在原業平(ありわらのなりひら)の和歌などもそうですが、和歌を読むであろう後の第三者ではなく、作られたその場の第三者を意識して、それに対して演技をしているような節がある。だからといって、舞台の俳優は現実ではないといって、私たちが感動しないということはありません。それが優れた表現であれば、かえって詩の結晶として、こころを揺さぶられるがゆえに、ギリシア劇や、シェイクスピアのような、非日常的表現を使用した、様式的な言葉の劇が成り立つ訳です。

     『持統太上天皇、参河国(みかはのくに)にいでませる時』
引馬野(ひくまの)に
  にほふ榛原(はりはら) 入り乱れ
    衣にほはせ 旅のしるしに
          長意吉麻呂(ながのおきまろ) 万葉集1巻57

引馬野に
  色づいた榛木(はんのき)の原に 乱れ入って
    着物を染めるがいい 旅のしるしに

 引馬野(ひくまの)は、一説には愛知県豊川市(とよかわし)にある引馬神社のあたりかともされていますが、確証はありません。榛原(はりはら)は、カバノキ科に属する落葉高木のハンノキの原のこと。ハンノキの実から染料を得て、染め物をするのに掛けて、引馬野のハンノキの間を駆けているうちに、衣が染まるだろうと洒落(しゃれ)たものです。

 ハンノキは落葉高木なので、秋はもみじに染まります。その様子を、当時はもっぱら色彩的に映える意味に使用された「にほふ」という言葉で示していますから、染め物に使用するための、実がなる秋とも重ねながら、旅のあかしに服を染めてくれと詠んでいる訳です。

 つまり詠み手は、お留守番だったようですが、この長意吉麻呂という人は、万葉集の「巻第十六」に、言葉遊びや下卑た冗談の座興の和歌を、幾つも収める歌人です。それだけに、機知に富んだこのような発想はお手の物だったようで、「入り乱れ」の表現と「引馬野」という地名自体から、大勢で馬を馳せる様子が生き生きと描き出され、万葉集において、なかなか特別な思い入れのあるような「にほふ」という表現を、惜しげもなく二句と四句に、既知の現実を願望に委ねるように配する手際は鮮やかです。

     『明日香の宮より藤原の宮に移りし後』
うねめの
  袖吹きかへす 明日香風(あすかゝぜ)
    みやこを遠み いたづらに吹く
          志貴皇子(しきのみこ) 万葉集1巻51

かつて 天皇(みかど)の侍女たちの
  袖を吹き返してた 明日香の風も今は
    新しいみやこが遠いので
  ただ空しく吹いている

 采女(うねめ)は、もともとは地方豪族から天皇に差し出される、服属の証としての美しい娘を指しました。そこから、後宮の総妾状態を想像するのは短絡に過ぎますが、天皇以外が手を出してはならない、特別な女官であったのは事実です。中臣鎌足(なかとみのかまたり)などは、天智天皇(てんちてんのう(中大兄皇子)から采女を妻にいただいて、万葉集のなかでも、もっとも大はしゃぎしているような、うれしい短歌を詠いまくっているくらいです。

 ですから彼女たちは、吟遊詩人たちにとっては、いわばあこがれの恋人の役割も果たしていたようで、そのような騎士道精神を捧げるべき乙女(おとめ)たちがたたずんで、美しい袖を風になびかせていた、かつての都、明日香の宮も今は人影なく、みやこが藤原の宮に移ってしまったものだから、風さえもわたしと同じように、采女の袖をくすぐるような喜びもなくて、ただ空しく追憶の彼方を吹いているのか。そんな内容を歌ったものです。

 ところで詠み手の志貴皇子(しきのみこ)(?-716)ですが、彼は「大化の改新」で知られる天智天皇(てんちてんのう)(626-672)の息子です。歴史の流れ次第では、政権の中枢にもいたかも知れない人物ですが、672年の壬申の乱(じんしんのらん)によって、天皇の血筋が天智天皇の弟である、大海人皇子、つまり天武天皇(てんむてんのう)(?-686)へと移ってしまいましたから、政界とは距離を取った生活を営んでいたようです。そのおかげか知れませんが、後に彼の息子が光仁天皇(こうにんてんのう)として即位して、現在に至る天皇の血筋へとつながっていくことになりました。

 そんな志貴皇子ですが、数は少ないものの、万葉集に優れた短歌をいくつも残す、重要な歌人のひとりで、前に四季で紹介した「垂水のうへのさわらび」の和歌も、やはり彼の作品になっています。

     『紀伊国(きのくに)にいでませる時』
白波(しらなみ)の
  浜松が枝(え)の 手向けくさ/ぐさ
    幾代(いくよ)までにか 年の経ぬらむ
          川島皇子(かわしまのみこ) or 山上憶良 万葉集1巻34

白波の寄せる
   浜松の枝に 結ばれた祈願の幣(ぬさ)は
  幾とせの歳月を 過ごしてきたものか

 川島皇子(かわしまのみこ)(657-691)もまた、天智天皇の息子のひとりですが、こちらは天武天皇の下でも、政権で活躍した人のようで、751年の序文を持つ我が国初の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』によると、天武天皇が亡くなった際の大津皇子(おおつのみこ)の謀反を、親友でありながら朝廷に告げた者として紹介されている人物です。

 歌の内容は、旅先の祈願として浜松に結ばれた、神に捧げる幣(ぬさ)としての布などを眺めて、いったいどれほどの歳月を、この松は、人々の願いを受けとめてきたのだろう、と回想したものです。白波の寄せる浜辺の松を、神のやしろと置き換えて、人々の繰り返される祈願を、永続的な歳月へと押し流し、白波へと返すような内容は、その着想ときわめてシンプルな叙し方だけでも、永遠の名歌を約束されたようなもので、唱えれば唱えるほど、こころに響いて来る。華を必要としない、さりげない名歌となっています。

 もっともこの歌は、万葉集では二ヶ所に収められていて、どちらにも山上憶良(やまのうえのおくら)の名称が登場し、あるいは彼の代作ではないかともされています。またこの短歌は、あるいは斉明天皇(さいめいてんのう)時代にあった、有間皇子(ありまのみこ)(640-658)のクーデター未遂事件の和歌とも関係があるともされ、有間皇子が処刑される少しまえに詠まれた「浜松が枝を引き結び」の歌をもとに、詠まれたものとも考えられますが、この歌については、後に眺めることにしましょう。

     『富士の山を望む歌の反歌』
田子(たご)の浦ゆ
   うち出でゝ見れば 真白にそ
  富士の高嶺(たかね)に 雪は降りける
          山部赤人 万葉集3巻318

田子の浦から
  うち出て見ると 真っ白に
    富士の高嶺に 雪は降っているよ

  こちらは長歌に添えられた、
   『百人一首』でよく知られた、
  山部赤人(やまべのあかひと)の代表作です。
 ただ百人一首では「田子の浦に」とありますから、旅をしていて、田子の浦へと、つまり浜の方へと出て、開けたところから、富士を眺めてみるという趣向ですが、万葉集のものは「田子の浦ゆ」とありますから、大分印象が違います。この「ゆ」というのは、経由の「ゆ」とでも呼べるもので、時間でも空間でも、そこを経過して今ここに至る、という意味で使用される表現です。それで長歌の方にも「天地(あめつち)の分かれし時ゆ」とあって、
     「天地が分かれてより今に至るまで」
と使用されているくらいで、あるいは頻繁には使用されないこの「田子の浦ゆ」という表現も、長歌に触発されて持ち込まれたものかもしれません。

 それで百人一首の印象が強すぎて、イメージにノイズが交じりやすい短歌ではありますが、素直に読み取れば、「田子の浦を経由して、田子の浦から出てここに至れば」、あるいはしばらく見られなかったか、進行方向とマッチしていなかったであろう富士山が、目の前にはっきりと眺められ、そこには真っ白に雪が降っているのだった。だからといって、田子の浦から海に出たというのも、長歌にもなんのヒントもありませんから唐突に過ぎ、「漕ぎ出でて」などの言葉もありませんから、ドラマチックに見せようと願うあまりの、希望的観測に過ぎるように思われます。

 それで素直に考えれば、当時の田子の浦は、駿河湾の西岸側にあったようなので、和歌における旅の歌としては、都(みやこ)から東国へ向かう方向に足を進め、ちょうどその先に富士山が開けて見えたとするのが自然で、「田子の浦ゆ」という冒頭の表現は、そのような距離を経由してきたという、長旅の果ての富士山を提示する、アシストの役割を果たしていると同時に、富士山に対する場所や距離感、視線の向きを定めるために、置かれているものと思われます。

 対して「うち出でて見れば」によって、視界が大きく開けた印象を与え、「ま白にそ」は後に係り結びと命名される表現で、そこを強調する意味合いがありますから、まさに開け見えた富士の印象を、「ああ真っ白だ」と、まず感動の表明を済ませてから、「富士の高嶺に雪が降っている」と説明したことになります。

 これもまた、都を出てから富士山を見なかったとか、はじめて今雪が降ったとか、そういう事ではまったくなく、しばらく旅を進めて、より近い距離ではっきりとその姿を眺めたときの、鮮やかな印象を詠んだものと捉えるのが、もっともナチュラルな解釈で、それ以上の受け止め方は、むしろ妄想に陥るかと思われます。つまりはその程度の短歌に過ぎません。それだからこそ秀歌です。

     『近江荒都(あふみくわうと)の歌の反歌』
さゝなみの
  志賀(しが)の唐崎(からさき) 幸(さき)くあれど
    大宮人(おほみやひと/びと)の 舟待ちかねつ
          柿本人麻呂 万葉集1巻30

(ささなみの)
   志賀の唐崎は 今もすこやかにあるが
     かつての宮廷の人たちの
   来ない船を待ちわびている

 次は、万葉集の影の支配者とも噂される、柿本人麻呂の知られた作品を二つ。どちらも『近江荒都歌(おうみこうとか)』などと呼ばれる、長歌に添えられた反歌です。題名から察しが付くかと思われますが、長歌はかつて置かれた天智天皇の近江大津宮(おうみのおおつのみや)が、672年の壬申の乱を経て、完全な廃墟となったのを嘆いた和歌になっています。その場所が、歌にある「志賀の唐崎」で、琵琶湖の最南端近くの西岸あたり。「ささなみの」は枕詞ともされますが、もともとは志賀あたりを含めた地名そのものであったようです。

 短歌は、その志賀の唐崎は今でも健在であるのに、もはや宮廷の人たちは存在せず、港はまるでかつての貴族たちを待ちわびるように思われる。それを、土地を人に見立てて、つまりは今日でいうところの擬人法を持って描き出したものです。

     『近江荒都(あふみくわうと)の歌の反歌』
さゝなみの
  志賀(しが)の大わだ 淀むとも
    むかしの人に またも逢はめやも
          柿本人麻呂 万葉集1巻31

(ささなみの)
  志賀の入り江は このように淀んでしまっても
    かつての人々に また逢えるだろうか
  そう思っているようでした

 前の短歌に対して、二首目の反歌は、「大わだ」とあるのは湾が入り込んでいて、海流があまりない、つまり淀んでいる入り江のことで、そうであればこそ、船着き場にもなるものですから、この地が舟客を待っているのを、より近景に描いたことになります。

 それによって、水のよどみを、やはり擬人法によって「居なくなった人のことを思って逡巡する」ような「心の淀み」へと差し替えて、そのように逡巡していても、かつての人たちに、また逢うことがあるだろうかと締めくくっています。もちろんその意図は、「いいやもう逢うことは叶わない」で、現代語で言えばむしろ、
     「昔の人は二度と戻っては来ないのだ」
というような印象になるかもしれません。

 このように二つの反歌は、詠み手の心情が、志賀の唐崎そのものの思いとして表明された結果、かえって詠み手が消されて、志賀の唐崎の、自然の風光は豊かでありながら、かつての人の賑わいの消えた、寂しげな湾の淀みの情景へと、私たちをいざなうように思われます。それは結局、大自然というものは、わたしたちの心情などには、お構いなしであるという現実を、私たちが知り抜いているからかも知れません。それで擬人化された心情は、すべて私たち側の思いに過ぎないという意識が、たちまち生まれてしまいますから、そんな情緒をもたらせた情景の方が、かえって浮かんで来てしまう。そんな効果があるのかも知れませんね。

     『みやこに向かふ海路(うみつぢ)にして、
        貝を見て作る歌一首』
我が背子に 恋ふれば苦し
    いとまあらば
  拾ひてゆかむ 恋忘れ貝
          大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ) 万葉集6巻964

愛する人への 恋しさが苦しいから
  暇があったら 拾って行こうかしら
    恋を忘れるという貝殻を

 すこし文章が重くなって来ました。
  軽やかなところを行きましょう。
 恋忘れ貝というのは、相方を無くした二枚貝の、一枚になった貝殻だとも、初めから一枚しかないくせに、二枚貝の片割れであるように見える、アワビの貝殻だともされています。そうして伝説では、これさえ手にすれば、どんなに苦しい恋も、たちどころに忘れてしまうという。究極の忘却アイテムになっているのですが、現実では、しばしばその効力が疑われ、海に投げ捨てられる役回りにもなっているようです。

 ここでは、それほど苦しんでいる訳でもないのでしょう。「ひまが合ったら拾って行こうかしら」なんてわざわざ断わっている三句目が、全体の調子を規定するための、実は重要な表現になっています。ですからそれを見落として、「恋に苦しむ和歌である」などと訴えたら、読解力の不足を、さらけ出すことにもなりかねません。

     『羈旅の歌八首より』
あまざかる
  鄙(ひな)の長道(ながち)ゆ 恋ひ来れば
    明石(あかし)の門(と)より 大和島(やまとしま)見ゆ
          柿本人麻呂 万葉集3巻255

(あまざかる)
   田舎びた地方からの長い道を
     みやこを恋慕ってやってくると
   明石海峡から 大和の山々が見えてきました

 当時の海上交通のメインルートは瀬戸内海ですから、淡路島と兵庫県の合間の明石海峡(あかしかいきょう)から見える大阪湾の向こうの大陸は、故郷への帰還のイメージへと重なります。それを、山々が連なる様子から島に見立てて、「大和島見ゆ」とまとめたものです。なにしろ潮流の激しい海域ですし、順調な航海が望みにくいような当時の船路ですから、その喜びもひとしおだったに違いありません。

 対して冒頭の「天離(あまざか)る」は、遥か天の彼方を意味する、鄙(ひな)の枕詞になっていて、鄙(ひな)とは都に対して、地方の田舎びた土地のことを指す言葉です。冒頭の二句によってはるかなる旅を確定させて、三句目できわめて率直に「恋ひ来れば」と心情を表明している事が、結句に向かう情景描写を、心からうれしいものにしている。「天」「鄙」「長道」「明石」「大和島」と、目的地へ近づいていく全体のプロットが、聞き手に安心感を与えてもいるようです。

[朗読ファイル その五]

     『近江国よりのぼり来る時、
       宇治川の辺(へ)にいたりて作る歌』
ものゝふの
  八十宇治川(やそうぢかは/がは)の 網代木(あじろき/ぎ)に
    いさよふ波の ゆくへ知らずも
          柿本人麻呂 万葉集3巻264

(もののふの)
    八十に分かれる宇治川の 網代の木に
  いざよう波の 行方は分からない

 明確な目的を持って、終着の喜びを表明したかと思えば、どこへ向かう当てもない、頼りのない不安な心情も表明する。柿本人麻呂という人は多彩な表現者です。そんな歌人であればこそ、宴の席では、長意吉麻呂のような冗談歌も詠まなかったとも限りませんが、残念ながらそのようなものは、万葉集には残されてはいないようです。

「もののふの」は、八十娘子(やそおとめ)の歌で見ましたように、数多くの文官武官に基づく「八十」に掛かる枕詞。ただし強者の意味合いを含んでいるなら、ここでもまた、「もののふの八十宇治」には「もののふの八十氏」が掛け合わされ、近江荒都が壬申の乱以後の移り変りを嘆くように、この和歌にも多くの氏族が争い消えていった、壬申の乱のような、栄枯盛衰(えいこせいすい)のイメージが重ね合わされているという見方もあります。

 同時に「八十宇治川」とあるのは、当時の宇治川が支流に乱れていたのが、重ね合わされているとも言います。網代(あじろ)は、川に連続して杭を打ち付けて、魚の通行を妨げて、それを捕らえるための装置で、その杭のことを網代木(あじろき)と呼んでいます。

 それで沢山の支流によって、行方の知れないような宇治川に、無数に打たれた杭に妨げられて、その杭の一つ一つから生まれて、どこに行くか分からないように干渉し合う無数のさざ波。その行方は誰にも分からない。というのが歌の内容ですが、かつての英雄たちをしのぶ歌か、観念的なわびしさか、羈旅の不安を訴えたのか、はたまた叙景詩として、実際に感じたことを述べたに過ぎないのか、ここでは確定せずに、皆さまに委ねようかと思います。わたしの解析も、すっかりいざよってしまいましたから。

     『紀伊国(きのくに)にいでませる時の歌の反歌』
若の浦に
  潮満ち来れば 潟(かた)をなみ
    葦辺(あしへ)をさして 鶴(たづ)鳴き渡る
          山部赤人 万葉集6巻919

若の浦に
  潮が満ちてくれば 干潟がないので
    葦辺をめざして 鶴が鳴き渡るよ

 自然の情景にすら心理戦を仕掛ける柿本人麻呂に対して、実景に身を委ねる山部赤人、と言ったら怒られるでしょうか。「和歌浦(わかのうら)」は、和歌山県北部の海岸沿いにある景勝で、当時は潮の干満により島になったり陸になったりする山を幾つも望む、広大な干潟だったようです。そこに潮が満ちて、干潟が消えたので、鶴たちが葦の生えている方をめざして、鳴き渡っていく。そんな叙景詩(じょけいし)になっています。詠み手の心情などはあまり感じられず、ただ感興に任せて自然に眺め入るようなところが、この和歌の魅力ではないでしょうか。

近江(あふみ)の海
  夕波千鳥 汝(な)が鳴けば
    こゝろもしのに いにしへ思ほゆ
          柿本人麻呂 万葉集3巻266

近江の海の
  夕波にいる千鳥よ お前が鳴けば
    胸が締め付けられるように
  昔のことが思われるよ

 もちろん心情が優位に伝われば、それだけ私たちも、詠み手の思いに引き込まれますから、感情移入がしやすいのも事実です。このように、夕波のなかを千鳥が鳴いているのを、締め付けられるように昔が想い出される、などと詠まれたならば、場景と心情が一緒になって、わたしたちの心に定められますから、受け取った情緒が心地よいものであるならば、実景だけの時よりも、深く感傷に浸ることも出来る訳で……

 その代償として、その心情を伴った場景になりますから、嬉しいときに唱えたり、悲しいときに唱えたり、なんとなく類似の風景を前につぶやいたり、自由に歌えるような融通は利かなくなります。つまり叙景的であるか、抒情的であるかは、概念それ自体には、優劣の付けようはありません。

 それにしても「夕ぐれの波間に鳴いている千鳥」という内容を、まるで初めから存在する言葉でもあるかのように「夕波千鳥」とまとめてしまって、たちまち「お前が鳴けば」と語りかける表現力は見事で、冒頭の三句によって、千鳥の声がぐっと私たちの方へと近づけられます。その上で、「わたしは悲しくて胸がくるしい」くらいのありきたりの心情なら、ほかの歌人でも詠みなせるかもしれませんが、「胸がしめつけられるように昔がしのばれる」という「取って置かれた表現」にまとめ上げる才能は恐ろしい位のもので、残念ながら山部赤人には、ここまでの手際は無いのも事実です。

 ただしそれは、山部赤人が劣っている訳ではありません。
   柿本人麻呂の表現が、特別すぎるというのが正解です。

しなが鳥(とり)
   猪名野(ゐなの)を来れば 有間山(ありまやま)
 夕霧立ちぬ 宿りはなくて
          よみ人しらず 万葉集7巻1140

(しなが鳥)
   猪名野へと来れば 有間山に
 夕霧が立ちのぼる 宿る所はないままで

「しなが鳥」は「鳰鳥(におどり)」と一緒で、カイツブリを指しますが、ここでは猪名野の「猪」に掛かる枕詞になっています。「猪名野」は兵庫県の猪名川(いながわ)が流れる平野部で、有間山は有馬温泉(ありまおんせん)付近とも、「六甲山」を指したかとも言われています。

 その野を渡ってくれば、泊まる場所もないのに、はやくも有間山に夕霧が立ってきたという内容で、だからといって特に危機感も無いのは、恐らくは野宿になれているせいでしょう。「やれやれ、夕霧も立ったし、今日はここで足を止めようか」くらいの心情表明を兼ねたものと思われます。あまり深刻に捉えると、せっかくの上の句の、言葉のリズム遊びをしたような調子が台無しになるに違いありません。

     「碁檀越、伊勢国に行きし時、とゞまれる妻が作る歌一首」
神風(かむかぜ)の
  伊勢の浜荻(はまをぎ) 折り伏せて
    旅寝やすらむ 荒き浜辺(はまへ)に
          碁檀越(ごのだにおち)の妻 万葉集4巻500

(神風の)
   伊勢の浜荻を 折り敷いて
     旅に寝ているのだろうか
   荒れた浜辺で

  一方こちらのトーンはシリアスです。
「神風の」は伊勢に掛かる枕詞で、なにしろここには伊勢神宮がありますから、相応しい枕詞になっていると言えるでしょう。ただしその印象はやさしい神の姿ではなく、三句目の旅人の仕草も、あるいは半分は風が吹き折ったものではないか、そんな荒ぶる神の印象がしてくるのは、結句の「荒き浜辺に」によるものです。そのような、人間には非情な事も多い、荒涼たる神々の領域で、浜近くの荻を臥所(ふしど)にして、あの人は寝ているのだろうか。もちろん夫を推し量る、妻の和歌になっている訳です。荒々しい神聖さとでも言うような短歌は、あまり存在しませんので、着想だけでも取りどころがあるように思われます。

     『吉野離宮賛美の歌の反歌』
ぬばたまの
   夜の更けゆけば 久木(ひさぎ/ひさき)生ふる
 清き川原に 千鳥しば鳴く
          山部赤人 万葉集6巻925

(ぬばたまの)
   夜が更けてゆけば 久木(ひさぎ)の生える
     清らかな川原に 千鳥がしきりに鳴いている

「ぬばたまの」は「夜」に掛かる、もっとも知られた枕詞のひとつ。「久木(ひさぎ)」は、楸(ひさぎ)のことで「キササゲ」または「アカメガシワ」の古名ともされますが、あるいは違う木かも知れず、確定はされていません。吉野の離宮を讃えた長歌に添えられた、反歌の二つ目になっています。長歌では大宮人が通うとまとめられ、一つ目の反歌ではそこでは鳥が頻りに鳴くという、昼の状況を提示してるのに対して、ここでは夜の吉野川を描き出すというのが、その基本戦略です。

 ぬばたまを掲(かか)げて夜が更けていくのに、闇の気配よりも、月にでも照らされているような、かすかな光の気配が籠もるのは、清き川原という表現と、闇なら見えないであろう「久木が生えている」という三句目によるものでしょうか。知識としてそう詠まれたというより、かすかでも木の気配が、実体として浮かび上がるような気配がします。それで千鳥の声も、床の中で聞いているというよりは、夜更けに表に出て、川原の方に目を凝らしながら、聞いているような印象です。そうして不思議なことに、千鳥が鳴いているのにその情景は、静寂に支配されているようです。

     『伊予の湯にて』
熟田津(にきたつ)に
  船乗りせむと 月待てば
    潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
          額田王 万葉集1巻8

熟田津から
  船を出そうと 月を待てば
    潮も頃合いだ 今こそ漕ぎ出そう

 これも知られた名歌ですが、歌風の違いもあって、斉明天皇の作品とする説も、万葉集自体に記されています。この熟田津(にきたつ)とは、朝鮮出兵の際に、斉明天皇を初め軍隊が、北九州に向かう途中の、愛媛県松山市の道後温泉付近のいずれかの港であろうとされています。三句目の「月待てば」には、最適な暦を待てばという説や、明るい月になるのを待てばなど、さまざまな説があるようですが、そのような意図を込めようと、最終的な歌の心情としては、

今夜の出航のために、今宵の月の出を待って、
  なおかつ潮も最適だ、今こそ漕ぎ出そうよ

というものでないと、その瞬間の喜びを表明したものとしては、解説的傾向が増さってしまい、心情よりも屁理屈の短歌に落ちぶれてしまいます。つまり着想のうちに、暦や潮や明かりのことが、知性でもって考慮に入れられたにしても、最終的に表明された詩としては、「さあ、いよいよ月も昇った、潮も頃合いだ」以外の何物をも表明するものでは無いことを、ここに付け加えて置きましょう。

 なお、詩の調子がユニークで、「よしみんないくぜ」みたいな、主導者な口調が込められています。もちろん、天皇の気分として、公的な場で誰かが詠んだとしても差し支えはありませんが、案外命令を下せる立場の人間が、素直に詠むと、こんな和歌が、自然に生まれてくるものなのかも知れません。だからといって、斉明天皇の作品であるとは、とても言い切れるものではありませんが。

     『軽皇子、安騎野(あきの)に宿ります時の歌の短歌』
ひむがしの
  野にかぎろひの 立つ見えて
    かへり見すれば 月かたぶきぬ
          柿本人麻呂 万葉集1巻48

東の野に
  夜明けの きざしがあらわれて
    かえり見れば 月は西へと傾いていた

 これもまた、きわめてよく知られた短歌で、すぐれた長歌に加えられた、四首の短歌のうちのひとつです。ただしその読み方には諸説あり、実際はこのように詠まれなかった可能性も、かなり高いかと思われます。むしろ秀歌というものが、このようにあればすばらしいのにという、後の人々の願望によって、時代を超えて研き抜かれた結果としての表現で、万葉集の短歌そのものでは無いという、ユニークな見方も可能かも知れません。また「かぎろひ」が何を意味するかにも諸説あり、知名度の割には、解明されていないことの多い歌でもあります。

 またその意味も、長歌やほかの短歌と合わせなければ、正確には解明出来ないものですから、ここではこの表現が正統であり、この短歌だけで完結した、単独の作品として、ただ東の夜明けの気配を告げる「かぎろひ」に、はっとなって返り見れば、月は西の方へ傾いていたという作品であるとして、今は眺め過ごして行き去ります。

               (つゞく)

2016/07/22 時乃旅人記す
2016/08/05 朗読+推敲

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