夏目漱石、三四郎09

[Topへ]

精養軒の会(自己確認見出し)

 与次郎が勧めるので、三四郎はとうとう精養軒の会へ出た。その時三四郎は黒い紬《つむぎ》の羽織を着た。この羽織は、三輪田のお光さんのおっかさんが織ってくれたのを、紋付《もんつき》に染めて、お光さんが縫い上げたものだと、母の手紙に長い説明がある。小包みが届いた時、いちおう着てみて、おもしろくないから、戸棚《とだな》へ入れておいた。それを与次郎が、もったいないからぜひ着ろ着ろと言う。三四郎が着なければ、自分が持っていって着そうな勢いであったから、つい着る気になった。着てみると悪くはないようだ。
 三四郎はこのいでたちで、与次郎と二人《ふたり》で精養軒の玄関に立っていた。与次郎の説によると、お客はこうして迎えべきものだそうだ。三四郎はそんなこととは知らなかった。第一自分がお客のつもりでいた。こうなると、紬の羽織ではなんだか安っぽい受け付けの気がする。制服を着てくればよかったと思った。そのうち会員がだんだん来る。与次郎は来る人をつらまえてきっとなんとか話をする。ことごとく旧知のようにあしらっている。お客が帽子と外套《がいとう》を給仕に渡して、広い梯子段《はしごだん》の横を、暗い廊下の方へ折れると、三四郎に向かって、今のは誰某《だれそれがし》だと教えてくれる。三四郎はおかげで知名な人の顔をだいぶ覚えた。
 そのうちお客はほぼ集まった。約三十人足らずである。広田先生もいる。野々宮さんもいる。――これは理学者だけれども、絵や文学が好きだからというので、原口さんが、むりに引っ張り出したのだそうだ。原口さんはむろんいる。いちばんさきへ来て、世話を焼いたり、愛嬌《あいきょう》を振りまいたり、フランス式の髯《ひげ》をつまんでみたり、万事忙しそうである。

 やがて着席となった。めいめいかってな所へすわる。譲る者もなければ、争う者もない。そのうちでも広田先生はのろいにも似合わずいちばんに腰をおろしてしまった。ただ与次郎と三四郎だけがいっしょになって、入口に近く座を占めた。その他はことごとく偶然の向かい合わせ、隣同志であった。
 野々宮さんと広田先生のあいだに縞《しま》の羽織を着た批評家がすわった。向こうには庄司《しょうじ》という博士が座に着いた。これは与次郎のいわゆる文科で有力な教授である。フロックを着た品格のある男であった。髪を普通の倍以上長くしている。それが電燈の光で、黒く渦《うず》をまいて見える。広田先生の坊主頭《ぼうずあたま》と比べるとだいぶ相違がある。原口さんはだいぶ離れて席を取った。あちらの角《かど》だから、遠く三四郎と真向かいになる。折襟《おりえり》に、幅の広い黒襦子《くろじゅす》を結んださきがぱっと開いて胸いっぱいになっている。与次郎が、フランスの画工《アーチスト》は、みんなああいう襟飾りを着けるものだと教えてくれた。三四郎は肉汁《ソップ》を吸いながら、まるで兵児帯《へこおび》の結び目のようだと考えた。そのうち談話がだんだん始まった。与次郎はビールを飲む。いつものように口をきかない。さすがの男もきょうは少々|謹《つつし》んでいるとみえる。三四郎が、小さな声で、
「ちと、ダーターファブラをやらないか」と言うと、「きょうはいけない」と答えたが、すぐ横を向いて、隣の男と話を始めた。あなたの、あの論文を拝見して、大いに利益を得ましたとかなんとか礼を述べている。ところがその論文は、彼が自分の前で、さかんに罵倒《ばとう》したものだから、三四郎にはすこぶる不思議の思いがある。与次郎はまたこっちを向いた。
「その羽織はなかなかりっぱだ。よく似合う」と白い紋をことさら注意してながめている。その時向こうの端《はじ》から、原口さんが、野々宮に話しかけた。元来が大きな声の人だから、遠くで応対するにはつごうがいい。今まで向かい合わせに言葉をかわしていた広田先生と庄司という教授は、二人の応答を途中でさえぎることを恐れて、談話をやめた。その他の人もみんな黙った。会の中心点がはじめてできあがった。

「野々宮さん光線の圧力の試験はもう済みましたか」
「いや、まだなかなかだ」
「ずいぶん手数《てすう》がかかるもんだね。我々の職業も根気仕事だが、君のほうはもっと激しいようだ」
「絵はインスピレーションですぐかけるからいいが、物理の実験はそううまくはいかない」
「インスピレーションには辟易《へきえき》する。この夏ある所を通ったらばあさんが二人で問答をしていた。聞いてみると梅雨《つゆ》はもう明けたんだろうか、どうだろうかという研究なんだが、一人《ひとり》のばあさんが、昔は雷さえ鳴れば梅雨は明けるにきまっていたが、近ごろじゃそうはいかないとこぼしている。すると一人がどうしてどうして、雷ぐらいで明けることじゃありゃしないと憤慨していた。――絵もそのとおり、今の絵はインスピレーションぐらいでかけることじゃありゃしない。ねえ田村《たむら》さん、小説だって、そうだろう」
 隣に田村という小説家がすわっていた。この男は自分のインスピレーションは原稿の催促以外になんにもないと答えたので、大笑いになった。田村は、それから改まって、野々宮さんに、光線に圧力があるものか、あれば、どうして試験するかと聞きだした。野々宮さんの答はおもしろかった。――

 雲母《マイカ》か何かで、十六武蔵《じゅうろくむさし》ぐらいの大きさの薄い円盤を作って、水晶《すいしょう》の糸で釣るして、真空《しんくう》のうちに置いて、この円盤の面《めん》へ弧光燈《アークとう》の光を直角にあてると、この円盤が光に圧《お》されて動く。と言うのである。
 一座は耳を傾けて聞いていた。なかにも三四郎は腹のなかで、あの福神漬《ふくじんづけ》の缶《かん》のなかに、そんな装置がしてあるのだろうと、上京のさい、望遠鏡で驚かされた昔を思い出した。
「君、水晶の糸があるのか」と小さい声で与次郎に聞いてみた。与次郎は頭を振っている。
「野々宮さん、水晶の糸がありますか」
「ええ、水晶の粉《こ》をね。酸水素|吹管《すいかん》の炎で溶かしておいて、両方の手で、左右へ引っ張ると細い糸ができるのです」
 三四郎は「そうですか」と言ったぎり、引っ込んだ。今度は野々宮さんの隣にいる縞の羽織の批評家が口を出した。
「我々はそういう方面へかけると、全然無学なんですが、はじめはどうして気がついたものでしょうな」
「理論上はマクスウェル以来予想されていたのですが、それをレベデフという人がはじめて実験で証明したのです。近ごろあの彗星《すいせい》の尾が、太陽の方へ引きつけられべきはずであるのに、出るたびにいつでも反対の方角になびくのは光の圧力で吹き飛ばされるんじゃなかろうかと思いついた人もあるくらいです」
 批評家はだいぶ感心したらしい。
「思いつきもおもしろいが、第一大きくていいですね」と言った。
「大きいばかりじゃない、罪がなくって愉快だ」と広田先生が言った。
「それでその思いつきがはずれたら、なお罪がなくっていい」と原口さんが笑っている。
「いや、どうもあたっているらしい。光線の圧力は半径の二乗に比例するが、引力のほうは半径の三乗に比例するんだから、物が小さくなればなるほど引力のほうが負けて、光線の圧力が強くなる。もし彗星の尾が非常に細かい小片《パーチクル》からできているとすれば、どうしても太陽とは反対の方へ吹き飛ばされるわけだ」

 野々宮は、ついまじめになった。すると原口が例の調子で、
「罪がない代りに、たいへん計算がめんどうになってきた。やっぱり一利一害だ」と言った。この一言《いちごん》で、人々はもとのとおりビールの気分に復した。広田先生が、こんな事を言う。
「どうも物理学者は自然派じゃだめのようだね」
 物理学者と自然派の二字は少なからず満場の興味を刺激した。
「それはどういう意味ですか」と本人の野々宮さんが聞き出した。広田先生は説明しなければならなくなった。
「だって、光線の圧力を試験するために、目だけあけて、自然を観察していたって、だめだからさ。自然の献立《こんだて》のうちに、光線の圧力という事実は印刷されていないようじゃないか。だから人工的に、水晶の糸だの、真空だの、雲母《マイカ》だのという装置をして、その圧力が物理学者の目に見えるように仕掛けるのだろう。だから自然派じゃないよ」
「しかし浪漫派《ローマンは》でもないだろう」と原口さんがまぜ返した。
「いや浪漫派だ」と広田先生がもったいらしく弁解した。「光線と、光線を受けるものとを、普通の自然界においては見出せないような位置関係に置くところがまったく浪漫派じゃないか」
「しかし、いったんそういう位置関係に置いた以上は、光線固有の圧力を観察するだけだから、それからあとは自然派でしょう」と野々宮さんが言った。
「すると、物理学者は浪漫的自然派ですね。文学のほうでいうと、イブセンのようなものじゃないか」と筋向こうの博士が比較を持ち出した。
「さよう、イブセンの劇は野々宮君と同じくらいな装置があるが、その装置の下に働く人物は、光線のように自然の法則に従っているか疑わしい」これは縞の羽織の批評家の言葉であった。
「そうかもしれないが、こういうことは人間の研究上記憶しておくべき事だと思う。――すなわち、ある状況のもとに置かれた人間は、反対の方向に働きうる能力と権力とを有している。ということなんだが、――ところが妙な習慣で、人間も光線も同じように器械的の法則に従って活動すると思うものだから、時々とんだ間違いができる。おこらせようと思って装置をすると、笑ったり、笑わせようともくろんでかかると、おこったり、まるで反対だ。しかしどちらにしても人間に違いない」と広田先生がまた問題を大きくしてしまった。
「じゃ、ある状況のもとに、ある人間が、どんな所作をしてもしぜんだということになりますね」と向こうの小説家が質問した。広田先生は、すぐ、
「ええ、ええ。どんな人間を、どう描いても世界に一人くらいはいるようじゃないですか」と答えた。「じっさい人間たる我々は、人間らしからざる行為動作を、どうしたって想像できるものじゃない。ただへたに書くから人間と思われないのじゃないですか」
 小説家はそれで黙った。今度は博士がまた口をきいた。
「物理学者でも、ガリレオが寺院の釣りランプの一振動の時間が、振動の大小にかかわらず同じであることに気がついたり、ニュートンが林檎《りんご》が引力で落ちるのを発見したりするのは、はじめから自然派ですね」
「そういう自然派なら、文学のほうでも結構でしょう。原口さん、絵のほうでも自然派がありますか」と野々宮さんが聞いた。
「あるとも。恐るべきクールベエというやつがいる。〔|ve'rite'《ヴェリテ》 vraie《ヴレイ》.〕(フランス語・「本当の真実」の意味) なんでも事実でなければ承知しない。しかしそう猖獗《しょうけつ》を極めているものじゃない。ただ一派として存在を認められるだけさ。またそうでなくっちゃ困るからね。小説だって同じことだろう、ねえ君。やっぱりモローや、シャバンヌのようなのもいるはずだろうじゃないか」
「いるはずだ」と隣の小説家が答えた。

 食後には卓上演説も何もなかった。ただ原口さんが、しきりに九段《くだん》の上の銅像の悪口《わるくち》を言っていた。あんな銅像をむやみに立てられては、東京市民が迷惑する。それより、美しい芸者の銅像でもこしらえるほうが気が利いているという説であった。与次郎は三四郎に九段の銅像は原口さんと仲の悪い人が作ったんだと教えた。


 会が済んで、外へ出るといい月であった。今夜の広田先生は庄司博士によい印象を与えたろうかと与次郎が聞いた。三四郎は与えたろうと答えた。与次郎は共同水道|栓《せん》のそばに立って、この夏、夜散歩に来て、あまり暑いからここで水を浴びていたら、巡査に見つかって、擂鉢山《すりばちやま》へ駆け上がったと話した。二人は擂鉢山の上で月を見て帰った。
 帰り道に与次郎が三四郎に向かって、突然借金の言い訳をしだした。月のさえた比較的寒い晩である。三四郎はほとんど金の事などは考えていなかった。言い訳を聞くのでさえ本気ではない。どうせ返すことはあるまいと思っている。与次郎もけっして返すとは言わない。ただ返せない事情をいろいろに話す。その話し方のほうが三四郎にはよほどおもしろい。――自分の知ってるさる男が、失恋の結果、世の中がいやになって、とうとう自殺をしようと決心したが、海もいや川もいや、噴火口はなおいや、首をくくるのはもっともいやというわけで、やむをえず短銃《ピストル》を買ってきた。買ってきて、まだ目的を遂行《すいこう》しないうちに、友だちが金を借りにきた。金はないと断ったが、ぜひどうかしてくれと訴えるので、しかたなしに、大事の短銃を貸してやった。友だちはそれを質に入れて一時をしのいだ。つごうがついて、質を受け出して返しにきた時は、肝心の短銃の主はもう死ぬ気がなくなっていた。だからこの男の命は金を借りにこられたために助かったと同じ事である。
「そういう事もあるからなあ」と与次郎が言った。三四郎にはただおかしいだけである。そのほかにはなんらの意味もない。高い月を仰いで大きな声を出して笑った。金を返されないでも愉快である。与次郎は、
「笑っちゃいかん」と注意した。三四郎はなおおかしくなった。
「笑わないで、よく考えてみろ。おれが金を返さなければこそ、君が美禰子さんから金を借りることができたんだろう」
「それで?」
「それだけでたくさんじゃないか。――君、あの女を愛しているんだろう」
 与次郎はよく知っている。三四郎はふんと言って、また高い月を見た。月のそばに白い雲が出た。
「君、あの女には、もう返したのか」
「いいや」
「いつまでも借りておいてやれ」
 のん気な事を言う。三四郎はなんとも答えなかった。しかしいつまでも借りておく気はむろんなかった。じつは必要な二十円を下宿へ払って、残りの十円をそのあくる日すぐ里見の家へ届けようと思ったが、今返してはかえって、好意にそむいて、よくないと考え直して、せっかく門内に、はいられる機会を犠牲にしてまでも引き返した。その時何かの拍子《ひょうし》で、気がゆるんで、その十円をくずしてしまった。じつは今夜の会費もそのうちから出ている。自分ばかりではない。与次郎のもそのうちから出ている。あとには、ようやく二、三円残っている。三四郎はそれで冬シャツを買おうと思った。

 じつは与次郎がとうてい返しそうもないから、三四郎は思いきって、このあいだ国元《くにもと》へ三十円の不足を請求した。十分な学資を月々もらっていながら、ただ不足だからといって請求するわけにはゆかない。三四郎はあまり嘘《うそ》をついたことのない男だから、請求の理由にいたって困却(こんきゃく)した。しかたがないからただ友だちが金をなくして弱っていたから、つい気の毒になって貸してやった。その結果として、今度はこっちが弱るようになった。どうか送ってくれと書いた。
 すぐ返事を出してくれれば、もう届く時分であるのにまだ来ない。今夜あたりはことによると来ているかもしれぬくらいに考えて、下宿へ帰ってみると、はたして、母の手蹟《て》で書いた封筒がちゃんと机の上に乗っている。不思議なことに、いつも必ず書留で来るのが、きょうは三銭切手一枚で済ましてある。開いてみると、中はいつになく短かい。母としては不親切なくらい、用事だけで申し納めてしまった。依頼の金は野々宮さんの方へ送ったから、野々宮さんから受け取れというさしずにすぎない。三四郎は床を取ってねた。

お談義(自己確認見出し)

 翌日もその翌日も三四郎は野々宮さんの所へ行かなかった。野々宮さんのほうでもなんともいってこなかった。そうしているうちに一週間ほどたった。しまいに野々宮さんから、下宿の下女を使いに手紙をよこした。おっかさんから頼まれものがあるから、ちょっと来てくれろとある。三四郎は講義の隙《すき》をみて、また理科大学の穴倉へ降りていった。そこで立談《たちばなし》のあいだに事を済ませようと思ったところが、そううまくはいかなかった。この夏は野々宮さんだけで専領していた部屋《へや》に髭《ひげ》のはえた人が二、三人いる。制服を着た学生も二、三人いる。それが、みんな熱心に、静粛《せいしゅく》に、頭の上の日のあたる世界をよそにして、研究をやっている。そのうちで野々宮さんはもっとも多忙に見えた。部屋の入口に顔を出した三四郎をちょっと見て、無言のまま近寄ってきた。
「国から、金が届いたから、取りに来てくれたまえ。今ここに持っていないから。それからまだほかに話す事もある」
 三四郎ははあと答えた。今夜でもいいかと尋ねた。野々宮はすこしく考えていたが、しまいに思いきってよろしいと言った。三四郎はそれで穴倉を出た。出ながら、さすがに理学者は根気のいいものだと感心した。この夏見た福神漬《ふくじんづけ》の缶《かん》と、望遠鏡が依然としてもとのとおりの位置に備えつけてあった。
 次の講義の時間に与次郎に会ってこれこれだと話すと、与次郎はばかだと言わないばかりに三四郎をながめて、
「だからいつまでも借りておいてやれと言ったのに。よけいな事をして年寄りには心配をかける。宗八さんにはお談義をされる。これくらい愚な事はない」とまるで自分から事が起こったとは認めていない申し分である。三四郎もこの問題に関しては、もう与次郎の責任を忘れてしまった。したがって与次郎の頭にかかってこない返事をした。
「いつまでも借りておくのは、いやだから、家へそう言ってやったんだ」
「君はいやでも、向こうでは喜ぶよ」
「なぜ」
 このなぜが三四郎自身にはいくぶんか虚偽の響らしく聞こえた。しかし相手にはなんらの影響も与えなかったらしい。
「あたりまえじゃないか。ぼくを人にしたって、同じことだ。ぼくに金が余っているとするぜ。そうすれば、その金を君から返してもらうよりも、君に貸しておくほうがいい心持ちだ。人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ」
 三四郎は返事をしないで、講義を筆記しはじめた。二、三行書きだすと、与次郎がまた、耳のそばへ口を持ってきた。
「おれだって、金のある時はたびたび人に貸したことがある。しかしだれもけっして返したものがない。それだからおれはこのとおり愉快だ」
 三四郎はまさか、そうかとも言えなかった。薄笑いをしただけで、またペンを走らしはじめた。与次郎もそれからはおちついて、時間の終るまで口をきかなかった。

 ベルが鳴って、二人肩を並べて教場を出る時、与次郎が、突然聞いた。
「あの女は君にほれているのか」
 二人のあとから続々聴講生が出てくる。三四郎はやむをえず無言のまま梯子段《はしごだん》を降りて横手の玄関から、図書館わきの空地《あきち》へ出て、はじめて与次郎を顧みた。
「よくわからない」
 与次郎はしばらく三四郎を見ていた。
「そういうこともある。しかしよくわかったとして、君、あの女の夫《ハスバンド》になれるか」
 三四郎はいまだかつてこの問題を考えたことがなかった。美禰子に愛せられるという事実そのものが、彼女《かのおんな》の夫《ハスバンド》たる唯一《ゆいいつ》の資格のような気がしていた。言われてみると、なるほど疑問である。三四郎は首を傾けた。
「野々宮さんならなれる」と与次郎が言った。
「野々宮さんと、あの人とは何か今までに関係があるのか」
 三四郎の顔は彫りつけたようにまじめであった。与次郎は一口、
「知らん」と言った。三四郎は黙っている。
「また野々宮さんの所へ行って、お談義を聞いてこい」と言いすてて、相手は池の方へ行きかけた。三四郎は愚劣の看板のごとく突っ立った。与次郎は五、六歩行ったが、また笑いながら帰ってきた。
「君、いっそ、よし子さんをもらわないか」と言いながら、三四郎を引っ張って、池の方へ連れて行った。歩きながら、あれならいい、あれならいいと、二度ほど繰り返した。そのうちまたベルが鳴った。


 三四郎はその夕方野々宮さんの所へ出かけたが、時間がまだすこし早すぎるので、散歩かたがた四丁目まで来て、シャツを買いに大きな唐物屋《とうぶつや》へはいった。小僧が奥からいろいろ持ってきたのをなでてみたり、広げてみたりして、容易に買わない。わけもなく鷹揚《おうよう》にかまえていると、偶然美禰子とよし子が連れ立って香水を買いに来た。あらと言って挨拶をしたあとで、美禰子が、
「せんだってはありがとう」と礼を述べた。三四郎にはこのお礼の意味が明らかにわかった。美禰子から金を借りたあくる日もう一ぺん訪問して余分をすぐに返すべきところを、ひとまず見合わせた代りに、二日《ふつか》ばかり待って、三四郎は丁寧な礼状を美禰子に送った。
 手紙の文句は、書いた人の、書いた当時の気分をすなおに表わしたものではあるが、むろん書きすぎている。三四郎はできるだけの言葉を層々《そうそう》と排列(=配列)して感謝の意を熱烈にいたした。普通の者から見ればほとんど借金の礼状とは思われないくらいに、湯気の立ったものである。しかし感謝以外には、なんにも書いてない。それだから、自然の勢い、感謝が感謝以上になったのでもある。三四郎はこの手紙をポストに入れる時、時を移さぬ美禰子の返事を予期していた。ところがせっかくの封書はただ行ったままである。それから美禰子に会う機会はきょうまでなかった。三四郎はこの微弱なる「このあいだはありがとう」という反響に対して、はっきりした返事をする勇気も出なかった。大きなシャツを両手で目のさきへ広げてながめながら、よし子がいるからああ冷淡なんだろうかと考えた。それからこのシャツもこの女の金で買うんだなと考えた。小僧はどれになさいますと催促した。
 二人の女は笑いながらそばへ来て、いっしょにシャツを見てくれた。しまいに、よし子が「これになさい」と言った。三四郎はそれにした。今度は三四郎のほうが香水の相談を受けた。いっこうわからない。ヘリオトロープと書いてある罎《びん》を持って、いいかげんに、これはどうですと言うと、美禰子が、「それにしましょう」とすぐ決めた。三四郎は気の毒なくらいであった。

 表へ出て別れようとすると、女のほうが互いにお辞儀を始めた。よし子が「じゃ行ってきてよ」と言うと、美禰子が、「お早く……」と言っている。聞いてみて、妹《いもと》が兄の下宿へ行くところだということがわかった。三四郎はまたきれいな女と二人連《ふたりづれ》で追分の方へ歩くべき宵《よい》となった。日はまだまったく落ちていない。
 三四郎はよし子といっしょに歩くよりは、よし子といっしょに野々宮の下宿で落ち合わねばならぬ機会をいささか迷惑に感じた。いっそのこと今夜は家へ帰って、また出直そうかと考えた。しかし、与次郎のいわゆるお談義を聞くには、よし子がそばにいてくれるほうが便利かもしれない。まさか人の前で、母から、こういう依頼があったと、遠慮なしの注意を与えるわけはなかろう。ことによると、ただ金を受け取るだけで済むかもわからない。――三四郎は腹の中で、ちょっとずるい決心をした。
「ぼくも野々宮さんの所へ行くところです」
「そう、お遊びに?」
「いえ、すこし用があるんです。あなたは遊びですか」
「いいえ、私も御用なの」
 両方が同じようなことを聞いて、同じような答を得た。しかし両方とも迷惑を感じている気色《けしき》がさらにない。三四郎は念のため、じゃまじゃないかと尋ねてみた。ちっともじゃまにはならないそうである。女は言葉でじゃまを否定したばかりではない。顔ではむしろなぜそんなことを質問するかと驚いている。三四郎は店先のガスの光で、女の黒い目の中に、その驚きを認めたと思った。事実としては、ただ大きく黒く見えたばかりである。
「バイオリンを買いましたか」
「どうして御存じ」
 三四郎は返答に窮した。女は頓着《とんじゃく》なく、すぐ、こう言った。
「いくら兄さんにそう言っても、ただ買ってやる、買ってやると言うばかりで、ちっとも買ってくれなかったんですの」
 三四郎は腹の中で、野々宮よりも広田よりも、むしろ与次郎を非難した。


 二人は追分の通りを細い路地に折れた。折れると中に家がたくさんある。暗い道を戸《こ》ごとの軒燈が照らしている。その軒燈の一つの前にとまった。野々宮はこの奥にいる。
 三四郎の下宿とはほとんど一丁ほどの距離である。野々宮がここへ移ってから、三四郎は二、三度訪問したことがある。野々宮の部屋は広い廊下を突き当って、二段ばかりまっすぐに上がると、左手に離れた二間である。南向きによその広い庭をほとんど椽《えん》の下に控えて、昼も夜も至極静かである。この離れ座敷に立てこもった野々宮さんを見た時、なるほど家を畳んで下宿をするのも悪い思いつきではなかったと、はじめて来た時から、感心したくらい、居心地《いごこち》のいい所である。その時野々宮さんは廊下へ下りて、下から自分の部屋の軒《のき》を見上げて、ちょっと見たまえ、藁葺《わらぶき》だと言った。なるほど珍しく屋根に瓦《かわら》を置いてなかった。
 きょうは夜だから、屋根はむろん見えないが、部屋の中には電燈がついている。三四郎は電燈を見るやいなや藁葺を思い出した。そうしておかしくなった。

「妙なお客が落ち合ったな。入口で会ったのか」と野々宮さんが妹に聞いている。妹はしからざるむねを説明している。ついでに三四郎のようなシャツを買ったらよかろうと助言《じょげん》している。それから、このあいだのバイオリンは和製で音が悪くっていけない。買うのをこれまで延期したのだから、もうすこし良いのと買いかえてくれと頼んでいる。せめて美禰子さんくらいのなら我慢すると言っている。そのほか似たりよったりの駄々《だだ》をしきりにこねている。野々宮さんはべつだんこわい顔もせず、といって、優しい言葉もかけず、ただそうかそうかと聞いている。
 三四郎はこのあいだなんにも言わずにいた。よし子は愚な事ばかり述べる。かつ少しも遠慮をしない。それがばかとも思えなければ、わがままとも受け取れない。兄との応待をそばにいて聞いていると、広い日あたりのいい畑へ出たような心持ちがする。三四郎は来たるべきお談義の事をまるで忘れてしまった。その時突然驚かされた。
「ああ、わたし忘れていた。美禰子さんのお言伝《ことづて》があってよ」
「そうか」
「うれしいでしょう。うれしくなくって?」
 野々宮さんはかゆいような顔をした。そうして、三四郎の方を向いた。
「ぼくの妹はばかですね」と言った。三四郎はしかたなしに、ただ笑っていた。
「ばかじゃないわ。ねえ、小川さん」
 三四郎はまた笑っていた。腹の中ではもう笑うのがいやになった。
「美禰子さんがね、兄さんに文芸協会の演芸会に連れて行ってちょうだいって」
「里見さんといっしょに行ったらよかろう」
「御用があるんですって」
「お前も行くのか」
「むろんだわ」

 野々宮さんは行くとも行かないとも答えなかった。また三四郎の方を向いて、今夜妹を呼んだのは、まじめの用があるんだのに、あんなのん気ばかり言っていて困ると話した。聞いてみると、学者だけあって、存外淡泊(たんぱく)である。よし子に縁談の口がある。国へそう言ってやったら、両親も異存はないと返事をしてきた。それについて本人の意見をよく確かめる必要が起こったのだと言う。三四郎はただ結構ですと答えて、なるべく早く自分のほうを片づけて帰ろうとした。そこで、
「母からあなたにごめんどうを願ったそうで」と切り出した。野々宮さんは、
「なに、大してめんどうでもありませんがね」とすぐに机の引出しから、預かったものを出して、三四郎に渡した。
「おっかさんが心配して、長い手紙を書いてよこしましたよ。三四郎は余儀ない事情で月々の学資を友だちに貸したと言うが、いくら友だちだって、そうむやみに金を借りるものじゃあるまいし、よし借りたって返すはずだろうって。いなかの者は正直だから、そう思うのもむりはない。それからね、三四郎が貸すにしても、あまり貸し方が大げさだ。親から月々学資を送ってもらう身分でいながら、一度に二十円の三十円のと、人に用立てるなんて、いかにも無分別だとあるんですがね――なんだかぼくに責任があるように書いてあるから困る。……」

 野々宮さんは三四郎を見て、にやにや笑っている。三四郎はまじめに、「お気の毒です」と言ったばかりである。野々宮さんは、若い者を、極《き》めつけるつもりで言ったんでないとみえて、少し調子を変えた。
「なに、心配することはありませんよ。なんでもない事なんだから。ただおっかさんは、いなかの相場で、金の価値をつけるから、三十円がたいへん重くなるんだね。なんでも三十円あると、四人の家族が半年《はんねん》食っていけると書いてあったが、そんなものかな、君」と聞いた。よし子は大きな声を出して笑った。三四郎にもばかげているところがすこぶるおかしいんだが、母の言条《いいじょう》が、まったく事実を離れた作り話でないのだから、そこに気がついた時には、なるほど軽率な事をして悪かったと少しく後悔した。
「そうすると、月に五円のわりだから、一人前一円二十五銭にあたる。それを三十日に割りつけると、四銭ばかりだが――いくらいなかでも少し安すぎるようだな」と野々宮さんが計算を立てた。
「何を食べたら、そのくらいで生きていられるでしょう」とよし子がまじめに聞きだした。三四郎も後悔する暇がなくなって、自分の知っているいなか生活のありさまをいろいろ話して聞かした。そのなかには宮籠《みやごも》りという慣例もあった。三四郎の家では、年に一度ずつ村全体へ十円寄付することになっている。その時には六十|戸《こ》から一人ずつ出て、その六十人が、仕事を休んで、村のお宮へ寄って、朝から晩まで、酒を飲みつづけに飲んで、ごちそうを食いつづけに食うんだという。
「それで十円」とよし子が驚いていた。お談義はこれでどこかへいったらしい。それから少し雑談をして一段落ついた時に、野々宮さんがあらためて、こう言った。

「なにしろ、おっかさんのほうではね。ぼくが一応事情を調べて、不都合がないと認めたら、金を渡してくれろ。そうしてめんどうでもその事情を知らせてもらいたいというんだが、金は事情もなんにも聞かないうちに、もう渡してしまったしと、――どうするかね。君たしかに佐々木に貸したんですね」
 三四郎は美禰子からもれて、よし子に伝わって、それが野々宮さんに知れているんだと判じた。しかしその金が巡り巡ってバイオリンに変形したものとは、兄妹《きょうだい》とも気がつかないから一種妙な感じがした。ただ「そうです」と答えておいた。
「佐々木が馬券を買って、自分の金をなくしたんだってね」
「ええ」
 よし子はまた大きな声を出して笑った。
「じゃ、いいかげんにおっかさんの所へそう言ってあげよう。しかし今度から、そんな金はもう貸さないことにしたらいいでしょう」
 三四郎は貸さないことにするむねを答えて、挨拶をして、立ちかけると、よし子も、もう帰ろうと言い出した。
「さっきの話をしなくっちゃ」と兄が注意した。
「よくってよ」と妹が拒絶した。
「よくはないよ」
「よくってよ。知らないわ」
 兄は妹の顔を見て黙っている。妹は、またこう言った。
「だってしかたがないじゃ、ありませんか。知りもしない人の所へ、行くか行かないかって、聞いたって。好きでもきらいでもないんだから、なんにも言いようはありゃしないわ。だから知らないわ」
 三四郎は知らないわの本意をようやく会得《えとく》した。兄妹をそのままにして急いで表へ出た。


 人の通らない軒燈ばかり明らかな路地を抜けて表へ出ると、風が吹く。北へ向き直ると、まともに顔へ当る。時を切って、自分の下宿の方から吹いてくる。その時三四郎は考えた。この風の中を、野々宮さんは、妹を送って里見まで連れていってやるだろう。
 下宿の二階へ上って、自分の部屋へはいって、すわってみると、やっぱり風の音がする。三四郎はこういう風の音を聞くたびに、運命という字を思い出す。ごうと鳴ってくるたびにすくみたくなる。自分ながらけっして強い男とは思っていない。考えると、上京以来自分の運命はたいがい与次郎のためにこしらえられている。しかも多少の程度において、和気|靄然《あいぜん》たる翻弄《ほんろう》を受けるようにこしらえられている。与次郎は愛すべき悪戯者《いたずらもの》である。向後(こうご)もこの愛すべき悪戯者のために、自分の運命を握られていそうに思う。風がしきりに吹く。たしかに与次郎以上の風である。
 三四郎は母から来た三十円を枕元《まくらもと》へ置いて寝た。この三十円も運命の翻弄が生んだものである。この三十円がこれからさきどんな働きをするか、まるでわからない。自分はこれを美禰子に返しに行く。美禰子がこれを受け取る時に、また一煽《ひとあお》り来るにきまっている。三四郎はなるべく大きく来ればいいと思った。
 三四郎はそれなり寝ついた。運命も与次郎も手を下しようのないくらいすこやかな眠りに入った。すると半鐘の音で目がさめた。どこかで人声がする。東京の火事はこれで二へん目である。三四郎は寝巻の上へ羽織を引っかけて、窓をあけた。風はだいぶ落ちている。向こうの二階屋が風の鳴る中に、まっ黒に見える。家が黒いほど、家のうしろの空は赤かった。
 三四郎は寒いのを我慢して、しばらくこの赤いものを見つめていた。その時三四郎の頭には運命がありありと赤く映った。三四郎はまた暖かい蒲団《ふとん》の中にもぐり込んだ。そうして、赤い運命の中で狂い回る多くの人の身の上を忘れた。


 夜が明ければ常の人である。制服をつけて、ノートを持って、学校へ出た。ただ三十円を懐《ふところ》にすることだけは忘れなかった。あいにく時間割のつごうが悪い。三時までぎっしり詰まっている。三時過ぎに行けば、よし子も学校から帰って来ているだろう。ことによれば里見恭助という兄も在宅《うち》かもしれない。人がいては、金を返すのが、まったくだめのような気がする。
 また与次郎が話しかけた。
「ゆうべはお談義を聞いたか」
「なにお談義というほどでもない」
「そうだろう、野々宮さんは、あれで理由《わけ》のわかった人だからな」と言ってどこかへ行ってしまった。二時間後の講義の時にまた出会った。
「広田先生のことは大丈夫うまくいきそうだ」と言う。どこまで事が運んだか聞いてみると、
「いや心配しないでもいい。いずれゆっくり話す。先生が君がしばらく来ないと言って、聞いていたぜ。時々行くがいい。先生は一人ものだからな。我々が慰めてやらんと、いかん。今度何か買って来い」と言いっぱなして、それなり消えてしまった。すると、次の時間にまたどこからか現われた。今度はなんと思ったか、講義の最中に、突然、
「金受け取ったりや」と電報のようなものを白紙《しらかみ》へ書いて出した。三四郎は返事を書こうと思って、教師の方を見ると、教師がちゃんとこっちを見ている。白紙を丸めて足の下へなげた。講義が終るのを待って、はじめて返事をした。
「金は受け取った、ここにある」
「そうかそれはよかった。返すつもりか」
「むろん返すさ」
「それがよかろう。はやく返すがいい」
「きょう返そうと思う」
「うん昼過ぎおそくならいるかもしれない」
「どこかへ行くのか」
「行くとも、毎日毎日絵にかかれに行く。もうよっぽどできたろう」
「原口さんの所か」
「うん」
 三四郎は与次郎から原口さんの宿所(しゅくしょ)を聞きとった。

2007/10/23

[上層へ]