幸田露伴の生涯、小説と朗読

幸田露伴の生涯、小説と朗読

幸田露伴(1867-1947)の生涯
 幸田露伴(こうだろはん)、本名幸田成行(こうだしげゆき)(1867-1947)は、慶応3年7月23日(1867年8月22日)、現在の東京都台東区に江戸の幕臣幸田利三(成延)の四男として生まれる。ちなみに夏目漱石は慶応3年1月5日(1867年2月9日)に誕生しているし、正岡子規は慶応3年9月17日(1867年10月14日)生まれである。
 幼時は病弱であったが、家はやがて神田に移り、1875年には東京師範学校附属小学校に入学。その後1878年には東京府第一中学正則科に進学するも、金銭の事情により中退。東京英学校に入るが、これも中退。結局は、16歳で電信の実務的な学校へ入って、卒業後電信技師として、北海道に赴任した。後に1887年に職を辞して東京へ戻るが、これには坪内逍遙などの影響もあり、文学への志を立てたためらしい。
 1889年に処女作である「露団々(つゆだんだん)」を、さらに「風流佛(ふうりゅうぶつ)」を発表。「風流佛」は仏師が女に惚れたら結婚の直前に破綻しちゃった悲しみで、女の映しみの仏像を彫っていたら……といったストーリーである。さらに1893年には「五重塔」を発表し、大工の棟梁の弟子である十兵衛が、俺が五重塔を作るんだと突き進む物語を文語体で描ききった。
 1894年、腸チフスにかかり重症、しかし回復して95年には山室幾美子と結婚し、96年「新羽衣物語」を発表するなど、尾崎紅葉、幸田露伴、坪内逍遥、森鴎外と合わせて「紅露逍鴎時代」を築いた。(ウィキペディアからの引用だが、そんなことを言う人もあるんだそうだ。)
 1904年に小説「天うつ浪」が断筆した頃から、「頼朝」「平将門」といった史伝や、「芭蕉七部集」の注釈といった古典の評価に力をそそぎ始め、1908年には京都帝國大学の国文学の講師となっている。しかし、肌に合わなかったらしく、一年あまりで自ら東京へと戻ってしまった。妻の病気も関係していたらしく、間もなく妻は亡くなってしまった。
 その後、1911年には、文学博士を授与され、以後も、中国の古典を素材にした小説などを発表。また1912年に玉八代子と再婚し、前妻との娘、幸田文(こうだあや)(1904-1990)を育てゆけば、彼女は後に、幸田露伴の思い出などを随筆にしたため、後には小説まで書き出す文学者となった。さらに彼女の娘である青木玉も「石川の家」で知られる随筆家で、そのまた娘の青木奈緒も随筆家なんだそうだ。そんなお家芸があってたまるか!
 ……脱線した。後はさらりと流しましょう。
 1937年には第一回文化勲章を授与され、第二次大戦をも経験し、1947年、戦後に移住した千葉県市川市において亡くなった。
 作品には数多くの批評や、随筆、詩などから、論語を評した「悦楽」や「一国の首都」といった都市論まであり、また漢詩、漢語への教養は、漢語文化の高かった当時においても、図抜けていたようである。
「観画談(かんがだん)」 のテキストと朗読 (1925年執筆)
「観画談」の覚書的解説
「骨董(こっとう)」 のテキストと朗読 (1926年執筆)
「骨董」の覚書的解説
「魔法修行者」 のテキストと朗読 (1928年執筆)
「魔法修行者」の覚書的解説
「蘆声(ろせい)」 のテキストと朗読 (1928年執筆)
「蘆声(ろせい)」の覚書的解説
「幻談(げんだん)」 のテキストと朗読 (1938年執筆)
「幻談」の覚書的解説

幸田露伴に関するリンク

幸田露伴 (ウィキペディア)
………ウィキペディアの幸田露伴。
幸田露伴 (青空文庫)
………青空文庫の幸田露伴作品リスト。

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