幸田露伴「幻談」覚書的解説

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幻談 (幸田露伴)の覚書的解説

 始めに、落語なら小話(あるいは枕)の要素がおかれるべきところに、それと同じような、本文と関わり、物語の落ちを予見、暗示しながらも、切り返して導入されるべき本文とは、距離感を保った導入部がおかれている。つまり海の話に対して、山の話の部分であり、「こころは巧みなる画師の如し」が全体のオチを予見するが、繋がれた命綱のロープが、釣りと綿密に関わっているという訳ではないし、物語に対する哲学や象徴的意味合いが事前に内包されている訳でもなく、まさに落語の小話のような状態で提示される。

 ところが、釣りの話の本体部分は、おおよそ時代や釣りについてのうんちく話が物語の背景を説明しながらも、博識家の随筆的部分を形成する前半から、次第に物語が中心となっていく後半部分へと、いわば随筆から小説への変遷を辿るような構成になっている。そこでそのままだと、終局のところは釣りの一つのエピソードを、物語りたかったものである、つまり釣り談義が圧倒的な博識を見せつけるとしたところで、小説を指向したものであるという本質を、幾分中途半端にするような全体構成になってしまうものを、始めに別の小話を、しごく短い物語的領域として形成することによって、全体が[小説的ー随筆的ー小説的]というアウトラインを形成し、小品としての結晶化が図られている。

 そうして物語的部分も、随筆的部分も、語り口調のリズムによって快活と、好奇心が保たれるために、釣りにまるで興味のない人にとっても、随筆的部分の釣り談義が、興ざめしないでいられるのは、この小説全体が、学者的に何かを説明しようとしたものとはまるで異なる、作者が、あるいは語り手が、興に乗るに任せて、その場その場でうんちくを語ってしまうという、社会一般上しばしば出会う、知識のお開かし状態を、語り口調の基盤におきながら、ある釣りにまつわるエピソードが、浮かび上がってくるという語り手の一貫性が、見事に保たれているとも言うことが出来る。

 それにしても、小話からまず物語の説明が始まって、物語が動き出して、二人の会話的領域が増して、最後に「竿はこっちにあるんじゃありませんか」のようなオチどころを設けて終わるといったアウトラインは、まさに落語のアウトラインを彷彿とさせるものである。

 それでいて、初めの小話から、最後に到るまで、生真面目に紡ぎ出される物語は、怪談めいたストーリー展開もあり、単なるエピソード以上のもの、ある種の象徴がひそんでいるような錯覚を、読者に与えて止まないがために、読んだ後、何かを考えさせられそうでいて、それでいて実体は何もない、ただの物語にすぎないのだが、ある種の余韻を残すことに成功している。恐らくはその余韻の部分にこそ、文学というジャンルの学問的価値もひそんでいるのかも知れない。

 現実だったはずのアルプスの十字架がいくぶん嘘くさく、虚構の釣り竿がずっと真実味を帯びるのは、もちろんたった二人で見たと言うことが、逆説的にリアリティーを増していることもあるのだが、前日の溺死体、薄暗い海原での出来事などの設定が、虚構であるはずの釣り竿の浮き沈み、その釣り竿は舟に置かれているにも関わらず、彼ら二人には見えざるを得ないような物語方法がなされていて、あるいはその意味においても、「こころは巧みなる画師」つまり真のリアリティーの所在について、ある種の哲学が込められているような、それでいて、その実、そう考えていたかどうか、断言できないようなもの、そうしたものが、やはりつかみ取れない余韻として、この作品の価値を保っているように思われる。

 ただし、上のことについては、より直接には、解説的な語りごと(エッセイ)よりも、物語的(小説)に虚構された部分の方が、リアリティーが増すという逆説を利用したものと言えるだろう。

覚書について

・熟考後の記述ではなく、時の合間の思いつきを、偶然記したに過ぎません。また、思いついたら増殖するし、改めもするでしょう。

2010/11/02

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