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こう暑くなっては皆さん方《がた》があるいは高い山に行かれたり、あるいは涼《すず》しい海辺《うみべ》に行かれたりしまして、そうしてこの悩ましい日を充実した生活の一部分として送ろうとなさるのも御尤《ごもっと》もです。が、もう老い朽《く》ちてしまえば山へも行かれず、海へも出られないでいますが、その代り小庭《こにわ》の朝露《あさつゆ》、縁側《えんがわ》の夕風ぐらいに満足して、無難に平和な日を過して行けるというもので、まあ年寄《としより》はそこいらで落着いて行かなければならないのが自然なのです。山へ登るのも極《ご》くいいことであります。深山《しんざん》に入り、高山、嶮山《けんざん》[剣山・険しい山]なんぞへ登るということになると、一種の神秘的な興味も多いことです。その代りまた危険も生じます訳《わけ》で、怖《おそろ》しい話が伝えられております。海もまた同じことです。今お話し致そうというのは海の話ですが、先に山の話を一度申して置きます。
それは西暦千八百六十五年の七月の十三日の午前五時半にツェルマット[スイス側の昇り口に位置する場所]という処《ところ》から出発して、名高いアルプスのマッターホルン[スイスとイタリアの国境にあり、ピラミッド状のそそり立つアルプス山脈の山のひとつ。標高4478m]を世界始まって以来最初に征服致しましょうと心ざし、その翌十四日の夜明前《よあけまえ》から骨を折って、そうして午後一時四十分に頂上へ着きましたのが、あの名高いアルプス登攀記《とうはんき》[登攀は、山や高いところへよじ登るの意味・2010年現在、岩波文庫で購入可能]の著者のウィンパー[イギリスの登山家エドワード・ウィンパー(1840-1911)]一行でありました。その一行八人がアルプスのマッターホルンを初めて征服したので、それから段々とアルプスも開《ひら》けたような訳です。
それは皆様がマッターホルンの征服の紀行によって御承知の通りでありますから、今|私《わたくし》が申さなくても夙《つと》に御合点《ごがてん》のことですが、さてその時に、その前から他の一行|即《すなわ》ち伊太利《イタリー》のカレルという人の一群がやはりそこを征服しようとして、両者は自然と競争の形になっていたのであります。しかしカレルの方は不幸にして道の取り方が違っていたために、ウィンパーの一行には負けてしまったのであります。ウィンパーの一行は登る時には、クロス、それから次に年を取った方のペーテル、それからその悴《せがれ》が二人、それからフランシス・ダグラス卿《きょう》[彼だけは後に遺体が発見されず埋葬されなかった]というこれは身分のある人です。それからハドウ、それからハドス、それからウィンパーというのが一番|終《しま》いで、つまり八人がその順序で登りました。
十四日の一時四十分にとうとうさしもの恐《おそろ》しいマッターホルンの頂上、天にもとどくような頂上へ登り得て大《おおい》に喜んで、それから下山にかかりました。下山にかかる時には、一番先へクロス、その次がハドウ、その次がハドス、それからフランシス・ダグラス卿、それから年を取ったところのペーテル、一番終いがウィンパー、それで段々降りて来たのでありますが、それだけの前古《ぜんこ》未曾有《みぞう》[前古未曾有で、昔から一度たりともなかったこと]の大成功を収め得た八人は、上《のぼ》りにくらべてはなお一倍おそろしい氷雪の危険の路を用心深く辿《たど》りましたのです。ところが、第二番目のハドウ、それは少し山の経験が足りなかったせいもありましょうし、また疲労したせいもありましたろうし、イヤ、むしろ運命のせいと申したいことで、誤って滑って、一番先にいたクロスへぶつかりました。そうすると、雪や氷の蔽《おお》っている足がかりもないような険峻《けんしゅん》[山の高くて険しいこと]の処で、そういうことが起ったので、忽《たちま》ちクロスは身をさらわれ、二人は一つになって落ちて行きました訳《わけ》。あらかじめロープをもって銘々《めいめい》の身をつないで、一人が落ちても他が踏《ふみ》止《とど》まり、そして個々の危険を救うようにしてあったのでありますけれども、何せ絶壁の処で落ちかかったのですから堪《たま》りません、二人に負けて第三番目も落ちて行く。それからフランシス・ダグラス卿は四番目にいたのですが、三人の下へ落ちて行く勢《いきおい》で、この人も下へ連れて行かれました。ダグラス卿とあとの四人との間でロープはピンと張られました。四人はウンと踏《ふみ》堪《こら》えました。落ちる四人と堪《こら》える四人との間で、ロープは力足らずしてプツリと切れて終《しま》いました。丁度《ちょうど》午後三時のことでありましたが、前の四人は四千尺ばかりの氷雪の処を逆《さか》おとしに落下したのです。後《あと》の人は其処《そこ》へ残ったけれども、見る見る自分たちの一行の半分は逆落しになって深い深い谷底へ落ちて行くのを目にしたその心持はどんなでしたろう。それで上に残った者は狂人の如く興奮し、死人の如く絶望し、手足も動かせぬようになったけれども、さてあるべきではありませぬから、自分たちも今度は滑って死ぬばかりか、不測の運命に臨んでいる身と思いながら段々|下《お》りてまいりまして、そうして漸《ようや》く午後の六時頃に幾何《いくら》か危険の少いところまで下りて来ました。
下りては来ましたが、つい先刻《さっき》まで一緒にいた人々がもう訳も分らぬ山の魔の手にさらわれて終《しま》ったと思うと、不思議な心理状態になっていたに相違ありません。で、我々はそういう場合へ行ったことがなくて、ただ話のみを聞いただけでは、それらの人の心の中《うち》がどんなものであったろうかということは、先ず殆《ほとん》ど想像出来ぬのでありまするが、そのウィンパーの記したものによりますると、その時夕方六時頃です、ペーテル一族の者は山登りに馴れている人ですが、その一人がふと見るというと、リスカンという方に、ぼうっとしたアーチのようなものが見えましたので、はてナと目を留《と》めておりますると、外《ほか》の者もその見ている方を見ました。するとやがてそのアーチの処へ西洋諸国の人にとっては東洋の我々が思うのとは違った感情を持つところの十字架の形が、それも小さいのではない、大きな十字架の形が二つ、ありあり空中に見えました。それで皆もなにかこの世の感じでない感じを以《もっ》てそれを見ました、と記してありまする。それが一人見たのではありませぬ、残っていた人にみな見えたと申すのです。十字架は我々の五輪《ごりん》の塔《とう》[五輪塔(ごりんとう)→五大にかたどった五つの部分から成る塔。下から地輪は方、水輪は球、火輪は三角、風輪は半球、空輪は宝珠形。平安中期頃から供養塔・墓塔として用いた。(広辞苑より)]同様なものです。それは時に山の気象で以《もっ》て何かの形が見えることもあるものでありますが、とにかく今のさきまで生きておった一行の者が亡くなって、そうしてその後《あと》へ持って来て四人が皆そういう十字架を見た、それも一人《ひとり》二人《ふたり》に見えたのでなく、四人に見えたのでした。山にはよく自分の身体《からだ》の影が光線の投げられる状態によって、向う側へ現われることがありまする。四人の中《うち》にはそういう幻影かと思った者もあったでしょう、そこで自分たちが手を動かしたり身体《からだ》を動かして見たところが、それには何らの関係がなかったと申します。
これでこの話はお終《しま》いに致します。古い経文《きょうもん》の言葉に、心は巧《たく》みなる画師《えし》の如し[華厳経「華厳唯心偈(けごんゆいしんげ)」の一節。心如工画師画種種五陰。こころは巧みな絵師のように、種々の五陰、すなわち人間を描くもの。くらいの意味か]、とございます。何となく思浮《おもいうか》めらるる言葉ではござりませぬか。
[朗読2]さてお話し致しますのは、自分が魚釣《うおつり》を楽《たのし》んでおりました頃、或《ある》先輩から承《うけたまわ》りました御話《おはなし》です。徳川期もまだひどく末にならない時分の事でございます。江戸は本所《ほんじょ》[現在東京都墨田区にある。江戸時代に深川と共に、宅地化が推し進められた地域だったそうだ]の方に住んでおられました人で――本所という処は余り位置の高くない武士どもが多くいた処で、よく本所の小《こ》ッ旗本《ぱたもと》などと江戸の諺《ことわざ》で申した位で、千|石《ごく》とまではならないような何百石というような小さな身分の人たちが住んでおりました。これもやはりそういう身分の人で、物事がよく出来るので以《もっ》て、一時は役《やく》づいておりました。役づいておりますれば、つまり出世の道も開けて、宜《よろ》しい訳でしたが、どうも世の中というものはむずかしいもので、その人が良いから出世するという風には決《きま》っていないもので、かえって外《ほか》の者の嫉《そね》みや憎みをも受けまして、そうして役を取上げられまする、そうすると大概|小普請《こぶしん》[城や建造物の修繕などをまかなう職だが、役のなく収入のない下級武士の救済をかねていた]というのに入る。出る杙《くい》が打たれて済んで御《お》小普請、などと申しまして、小普請入りというのは、つまり非役《ひやく》になったというほどの意味になります。この人も良い人であったけれども小普請|入《いり》になって、小普請になってみれば閑《ひま》なものですから、御用は殆どないので、釣《つり》を楽みにしておりました。別に活計《くらし》に困る訳じゃなし、奢《おご》りも致さず、偏屈でもなく、ものはよく分る、男も好《よ》し、誰が目にも良い人。そういう人でしたから、他の人に面倒な関係なんかを及ぼさない釣を楽んでいたのは極く結構な御話でした。
そこでこの人、暇具合《ひまぐあい》さえ良ければ釣に出ておりました。神田川《かんだがわ》の方に船宿《ふなやど》があって、日取《ひど》り即ち約束の日には船頭が本所側の方に舟を持って来ているから、其処《そこ》からその舟に乗って、そうして釣に出て行く。帰る時も舟から直《じき》に本所側に上《あが》って、自分の屋敷へ行く、まことに都合好くなっておりました。そして潮の好い時には毎日のようにケイズ[スズキ目タイ科である黒鯛(クロダイ)のこと。「チヌ」とも呼ばれ、釣り人を引きつける魚でもあるようだ]を釣っておりました。ケイズと申しますと、私が江戸|訛《なま》りを言うものとお思いになる方もありましょうが、今は皆様カイズカイズとおっしゃいますが、カイズは訛りで、ケイズが本当です。系図を言えば鯛《たい》の中《うち》、というので、系図鯛《けいずだい》を略してケイズという黒い鯛で、あの恵比寿《えびす》様[七福神の一神。蛭子(ひるこ)のみこと、事代主神(ことしろぬしかみ)と結びつけられることもあるが、漁業の神であり、また福の神でもある]が抱いていらっしゃるものです。イヤ、斯様《かよう》に申しますと、えびす様の抱いていらっしゃるのは赤い鯛ではないか、変なことばかり言う人だと、また叱られますか知れませんが、これは野必大《やひつだい》[人見必大(ひとみひつだい)(1642-1701)江戸時代前期の植物学者・食物研究家]と申す博物の先生が申されたことです。第一えびす様が持っていられるようなああいう竿《さお》では赤い鯛は釣りませぬものです。黒鯛《くろだい》ならああいう竿で丁度釣れますのです。釣竿の談《だん》になりますので、よけいなことですがちょっと申し添えます。
或《ある》日のこと、この人が例の如く舟に乗って出ました。船頭の吉《きち》というのはもう五十過ぎて、船頭の年寄なぞというものは客が喜ばないもんでありますが、この人は何もそう焦《あせ》って魚をむやみに獲《と》ろうというのではなし、吉というのは年は取っているけれども、まだそれでもそんなにぼけているほど年を取っているのじゃなし、ものはいろいろよく知っているし、この人は吉を好い船頭として始終使っていたのです。釣船頭というものは魚釣の指南番《しなんばん》か案内人のように思う方もあるかも知れませぬけれども、元来そういうものじゃないので、ただ魚釣をして遊ぶ人の相手になるまでで、つまり客を扱うものなんですから、長く船頭をしていた者なんぞというものはよく人を呑込《のみこ》み、そうして人が愉快と思うこと、不愉快と思うことを呑込んで、愉快と思うように時間を送らせることが出来れば、それが好い船頭です。網船頭《あみせんどう》なぞというものはなおのことそうです。網は御客自身打つ人もあるけれども先ずは網打《あみうち》が打って魚を獲るのです。といって魚を獲って活計《くらし》を立てる漁師とは異《ちが》う。客に魚を与えることを多くするより、客に網漁《あみりょう》に出たという興味を与えるのが主《しゅ》です。ですから網打だの釣船頭だのというものは、洒落《しゃれ》が分らないような者じゃそれになっていない。遊客も芸者の顔を見れば三弦《しゃみ》を弾《ひ》き歌を唄わせ、お酌《しゃく》には扇子《せんす》を取って立って舞わせる、むやみに多く歌舞《かぶ》を提供させるのが好いと思っているような人は、まだまるで遊びを知らないのと同じく、魚にばかりこだわっているのは、いわゆる二才客《にさいきゃく》[青二才と同様、ボラやスズキなど出世魚の稚魚を「二才魚」などと呼んだところから来ているのかも知れない」]です。といって釣に出て釣らなくても可《よ》いという理屈はありませんが、アコギに船頭を使って無理にでも魚を獲ろうというようなところは通り越している人ですから、老船頭の吉でも、かえってそれを好いとしているのでした。
ケイズ釣というのは釣の中でもまた他の釣と様子が違う。なぜかと言いますと、他の、例えばキス釣なんぞというのは立込《たちこ》みといって水の中へ入っていたり、あるいは脚榻釣《きゃたつつり》[脚榻=脚立は、両側に梯子がある上の方が平らになっていて、三角形型に置くと、高いところにも手が届く、作業できるというやつ]といって高い脚榻を海の中へ立て、その上に上《あが》って釣るので、魚のお通りを待っているのですから、これを悪く言う者は乞食釣《こじきづり》なんぞと言う位で、魚が通ってくれなければ仕様がない、みじめな態《ざま》だからです。それからまたボラ釣なんぞというものは、ボラ[関係ないが、出世魚としてのボラは、最後には「トド」と呼ばれ、「とどのつまり」が結局、最終的には、の意味になるのはそのためだそうだ]という魚が余り上等の魚でない、群れ魚ですから獲れる時は重たくて仕方がない、担《にな》わなくては持てないほど獲れたりなんぞする上に、これを釣る時には舟の艫《とも》の方へ出まして、そうして大きな長い板子《いたご》や楫《かじ》なんぞを舟の小縁《こべり》から小縁へ渡して、それに腰を掛けて、風の吹きさらしにヤタ一《いち》の客よりわるいかっこうをして釣るのでありまするから、もう遊びではありません。本職の漁師みたいな姿になってしまって、まことに哀《あわ》れなものであります。が、それはまたそれで丁度そういう調子合《ちょうしあい》のことの好きな磊落《らいらく》[気持ちがおおらかで小事にこだわらない]な人が、ボラ釣は豪爽《ごうそう》[気性が大きくて、さわやかな様子]で好いなどと賞美する釣であります。が、話中の人はそんな釣はしませぬ。ケイズ釣りというのはそういうのと違いまして、その時分、江戸の前の魚はずっと大川《おおかわ》へ奥深く入りましたものでありまして、永代橋《えいたいばし》新大橋《しんおおはし》より上流《かみ》の方でも釣ったものです。それですから善女《ぜんにょ》が功徳《くどく》[良きことを願うために施す徳・その結果得られた御利益]のために地蔵尊《じぞうそん》の御影《ごえい》を刷った小紙片《しょうしへん》を両国橋《りょうごくばし》の上からハラハラと流す、それがケイズの眼球《めだま》へかぶさるなどという今からは想像も出来ないような穿《うが》ち[ここでは、「凝ったこと」くらいの意味か]さえありました位です。
で、川のケイズ釣は川の深い処で釣る場合は手釣《てづり》を引いたもので、竿などを振廻《ふりまわ》して使わずとも済むような訳でした。長い釣綸《つりいと》を※[#「※」は「たけかんむり+隻」、17-8]輪《わっか》から出して、そうして二本指で中《あた》りを考えて釣る。疲れた時には舟の小縁へ持って行って錐《きり》を立てて、その錐の上に鯨《くじら》の鬚《ひげ》を据えて、その鬚に持たせた岐《また》に綸《いと》をくいこませて休む。これを「いとかけ」と申しました。後《のち》には進歩して、その鯨の鬚の上へ鈴なんぞを附けるようになり、脈鈴《みゃくすず》と申すようになりました。脈鈴は今も用いられています。しかし今では川の様子が全く異《ちが》いまして、大川の釣は全部なくなり、ケイズの脈釣《みゃくづり》なんぞというものは何方《どなた》も御承知ないようになりました。ただしその時分でも脈釣じゃそう釣れない。そうして毎日出て本所から直ぐ鼻の先の大川の永代《えいたい》の上《かみ》あたりで以《もっ》て釣っていては興も尽きるわけですから、話中の人は、川の脈釣でなく海の竿釣をたのしみました。竿釣にも色々ありまして、明治の末頃はハタキなんぞという釣もありました。これは舟の上に立っていて、御台場《おだいば》に打付ける浪《なみ》の荒れ狂うような処へ鉤《はり》を抛《ほう》って入れて釣るのです。強い南風《みなみ》に吹かれながら、乱石《らんせき》にあたる浪《なみ》の白泡立《しらあわだ》つ中へ竿を振って餌《えさ》を打込むのですから、釣れることは釣れても随分労働的の釣であります。そんな釣はその時分にはなかった、御台場もなかったのである。それからまた今は導流柵《どうりゅうさく》なんぞで流して釣る流し釣もありますが、これもなかなか草臥《くたび》れる釣であります。釣はどうも魚を獲ろうとする三昧《さんまい》になりますと、上品でもなく、遊びも苦しくなるようでございます。
そんな釣は古い時分にはなくて、澪《みよ》の中《うち》だとか澪がらみで釣るのを澪釣《みよづり》と申しました。これは海の中に自《おのず》から水の流れる筋《すじ》がありますから、その筋をたよって舟を潮《しお》なりにちゃんと止《と》めまして、お客は将監《しょうげん》――つまり舟の頭《かしら》の方からの第一の室《ま》――に向うを向いてしゃんと坐って、そうして釣竿を右と左と八《はち》の字のように振込《ふりこ》んで、舟首《みよし》近く、甲板《かっぱ》のさきの方に亙《わた》っている簪《かんこ》[簪(かんざし)の漢字借用で、かんこ舟(手こぎ船)と掛け合わせたのか、ちょっと不明]の右の方へ右の竿、左の方へ左の竿をもたせ、その竿尻《さおじり》をちょっと何とかした銘々《めいめい》の随意の趣向でちょいと軽く止めて置くのであります。そうして客は端然として竿先を見ているのです。船頭は客よりも後ろの次の間《ま》にいまして、丁度お供のような形に、先ずは少し右舷《うげん》によって扣《ひか》えております。日がさす、雨がふる、いずれにも無論のこと苫《とま》[菅(すげ)や茅(かや)などで小舟の上などを覆うもの]というものを葺《ふ》きます。それはおもての舟梁《ふなばり》とその次の舟梁とにあいている孔《あな》に、「たてじ」を立て、二のたてじに棟《むね》を渡し、肘木《ひじき》を左右にはね出させて、肘木と肘木とを木竿で連《つら》ねて苫を受けさせます。苫一枚というのは凡《およ》そ畳《たたみ》一枚より少し大きいもの、贅沢《ぜいたく》にしますと尺長《しゃくなが》の苫は畳一枚のよりよほど長いのです。それを四枚、舟の表《おもて》の間《ま》の屋根のように葺くのでありますから、まことに具合好く、長四畳《ながよじょう》の室《へや》の天井のように引いてしまえば、苫は十分に日も雨も防ぎますから、ちゃんと座敷のようになるので、それでその苫の下|即《すなわ》ち表の間――釣舟《つりぶね》は多く網舟《あみぶね》と違って表の間が深いのでありますから、まことに調子が宜《よろ》しい。そこへ茣蓙《ござ》なんぞ敷きまして、その上に敷物《しきもの》を置き、胡坐《あぐら》なんぞ掻《か》かないで正しく坐っているのが式《しき》です。故人|成田屋《なりたや》[初代市川團十郎(1660-1704)に始まる歌舞伎役者の屋号]が今の幸四郎《こうしろう》、当時の染五郎《そめごろう》を連れて釣に出た時、芸道舞台上では指図を仰いでも、勝手にしなせいと突放《つっぱな》して教えてくれなかったくせに、舟では染五郎の座りようを咎《とが》めて、そんな馬鹿な坐りようがあるかと激しく叱ったということを、幸四郎さんから直接に聞きましたが、メナダ釣、ケイズ釣、すずき釣、下品でない釣はすべてそんなものです。
それで魚が来ましても、また、鯛の類というものは、まことにそういう釣をする人々に具合の好く出来ているもので、鯛の二段引きと申しまして、偶《たま》には一度にガブッと食べて釣竿を持って行くというようなこともありますけれども、それはむしろ稀有《けう》の例で、ケイズは大抵は一度釣竿の先へあたりを見せて、それからちょっとして本当に食うものでありまするから、竿先の動いた時に、来たナと心づきましたら、ゆっくりと手を竿尻にかけて、次のあたりを待っている。次に魚がぎゅっと締める時に、右の竿なら右の手であわせて竿を起し、自分の直《すぐ》と後ろの方へそのまま持って行くので、そうすると後ろに船頭がいますから、これが※[#「※」は「てへん+黨」、20-13]網《たま》をしゃんと持っていまして掬《すく》い取ります。大きくない魚を釣っても、そこが遊びですから竿をぐっと上げて廻して、後ろの船頭の方に遣《や》る。船頭は魚を掬って、鉤《はり》を外《はず》して、舟の丁度|真中《まんなか》の処に活間《いけま》がありますから魚を其処《そこ》へ入れる。それから船頭がまた餌《えさ》をつける。「旦那、つきました」と言うと、竿をまた元へ戻して狙ったところへ振込むという訳であります。ですから、客は上布《じょうふ》の着物を着ていても釣ることが出来ます訳で、まことに綺麗事《きれいごと》に殿様らしく遣《や》っていられる釣です。そこで茶の好きな人は玉露《ぎょくろ》など入れて、茶盆《ちゃぼん》を傍《そば》に置いて茶を飲んでいても、相手が二段引きの鯛ですから、慣れてくればしずかに茶碗を下に置いて、そうして釣っていられる。酒の好きな人は潮間《しおま》などは酒を飲みながらも釣る。多く夏の釣でありますから、泡盛《あわもり》[琉球から将軍様への献上を始め江戸には、かなりの泡盛焼酎が持ち込まれていた。切り傷などの消毒にも用いられたそうだ]だとか、柳蔭《やなぎかげ》[味醂と焼酎をブレンドした甘い酒。飲みにくい酒に甘みを加えたところから「本直し」と呼ばれる。焼酎2:本味醂1くらいが美味しかった。余談だが、この柳蔭だけでなく、「甘酒」も江戸時代には夏の風物詩だった]などというものが喜ばれたもので、置水屋《おきみずや》ほど大きいものではありませんが上下箱《じょうげばこ》というのに茶器酒器、食器も具《そな》えられ、ちょっとした下物《さかな》、そんなものも仕込まれてあるような訳です。万事がそういう調子なのですから、真に遊びになります。しかも舟は上《じょう》だな檜《ひのき》で洗い立ててありますれば、清潔この上なしです。しかも涼しい風のすいすい流れる海上に、片苫《かたとま》を切った舟なんぞ、遠くから見ると余所目《よそめ》から見ても如何《いか》にも涼しいものです。青い空の中へ浮上《うきあが》ったように広々《ひろびろ》と潮が張っているその上に、風のつき抜ける日蔭のある一葉《いちよう》の舟が、天から落ちた大鳥《おおとり》の一枚の羽のようにふわりとしているのですから。
それからまた、澪釣《みよづり》でない釣もあるのです。それは澪で以《もっ》てうまく食わなかったりなんかした時に、魚というものは必ず何かの蔭にいるものですから、それを釣るのです。鳥は木により、さかなはかかり、人は情《なさけ》の蔭による、なんぞという「よしこの」[よしこの節。上方などで江戸後期に流行。七七七五の節を持ち、これをもとに都々逸坊扇歌 (1804-1852)が都々逸(どどいつ)を生み出したとされる]がありますが、かかりというのは水の中にもさもさしたものがあって、其処《そこ》に網を打つことも困難であり、釣鉤《つりばり》を入れることも困難なようなひっかかりがあるから、かかりと申します。そのかかりにはとかくに魚が寄るものであります。そのかかりの前へ出掛けて行って、そうしてかかりと擦《す》れ擦れに鉤《はり》を打込む、それがかかり前の釣といいます。澪だの平場《ひらば》だので釣れない時にかかり前に行くということは誰もすること。またわざわざかかりへ行きたがる人もある位。古い澪杙《みよぐい》、ボッカ、われ舟、ヒビがらみ、シカケを失うのを覚悟の前にして、大様《おおよう》にそれぞれの趣向で遊びます。いずれにしても大名釣《だいみょうづり》といわれるだけに、ケイズ釣は如何にも贅沢に行われたものです。
[朗読3]ところで釣の味はそれでいいのですが、やはり釣は根《ね》が魚を獲《と》るということにあるものですから、余り釣れないと遊びの世界も狭くなります。或《ある》日のこと、ちっとも釣れません。釣れないというと未熟な客はとかくにぶつぶつ船頭に向って愚痴《ぐち》をこぼすものですが、この人はそういうことを言うほどあさはかではない人でしたから、釣れなくてもいつもの通りの機嫌でその日は帰った。その翌日も日取りだったから、翌日もその人はまた吉公《きちこう》を連れて出た。ところが魚というのは、それは魚だからいさえすれば餌《えさ》があれば食いそうなものだけれども、そうも行かないもので、時によると何かを嫌って、例えば水を嫌うとか風を嫌うとか、あるいは何か不明な原因があってそれを嫌うというと、いても食わないことがあるもんです。仕方がない。二日ともさっぱり釣れない。そこで幾《いく》ら何でもちっとも釣れないので、吉公は弱りました。小潮《こじお》[「こしお」太陽と月が地球に対して直角に位置する、つまり半月くらいの時には、干潮と満潮の差が小さくなる]の時なら知らんこと、いい潮に出ているのに、二日ともちっとも釣れないというのは、客はそれほどに思わないにしたところで、船頭に取っては面白くない。それも御客が、釣も出来ていれば人間も出来ている人で、ブツリとも言わないでいてくれるのでかえって気がすくみます。どうも仕様がない。が、どうしても今日は土産《みやげ》を持たせて帰そうと思うものですから、さあいろいろな潮行《しおゆ》きと場処《ばしょ》とを考えて、あれもやり、これもやったけれども、どうしても釣れない。それがまた釣れるべきはずの、月のない大潮《おおしお》[大潮は太陽と月が一直線になる時だが、ここでは月のない大潮なので、新月の時]の日。どうしても釣れないから、吉もとうとうへたばって終《しま》って、
「やあ旦那、どうも二日とも投げられちゃって申訳《もうしわけ》がございませんなア」と言う。客は笑って、
「なアにお前、申訳がございませんなんて、そんな野暮《やぼ》かたぎのことを言うはずの商売じゃねえじゃねえか。ハハハ。いいやな。もう帰るより仕方がねえ、そろそろ行こうじゃないか。」
[会話部分は「」が一字空きになっている。文章が続かないときは、句点が設けられている]
「ヘイ、もう一《いっ》ヶ処《しょ》やって見て、そうして帰りましょう。」
「もう一ヶ処たって、もうそろそろ真《ま》づみになって来るじゃねえか。」
真づみというのは、朝のを朝《あさ》まづみ、晩のを夕《ゆう》まづみと申します。段々と昼になったり夜になったりする迫《せ》りつめた時をいうのであって、とかくに魚は今までちっとも出て来なかったのが、まづみになって急に出て来たりなんかするものです。吉の腹の中では、まづみに中《あ》てたいのですが、客はわざとその反対をいったのでした。
「ケイズ釣に来て、こんなに晩《おそ》くなって、お前、もう一ヶ処なんて、そんなぶいきなことを言い出して。もうよそうよ。」
「済みませんが旦那、もう一ヶ処ちょいと当てて。」
と、客と船頭が言うことがあべこべになりまして、吉は自分の思う方へ船をやりました。
吉は全敗《ぜんぱい》に終らせたくない意地から、舟を今日までかかったことのない場処へ持って行って、「かし」を決めるのに慎重な態度を取りながら、やがて、
「旦那、竿は一本にして、みよしの真正面へ巧《うま》く振込んで下さい」と申しました。これはその壺《つぼ》以外は、左右も前面も、恐ろしいカカリであることを語っているのです。客は合点して、「あいよ」とその言葉通りに実に巧く振込みましたが、心中では気乗薄《きのりうす》であったことも争えませんでした。すると今手にしていた竿を置くか置かぬかに、魚の中《あた》りか芥《ごみ》の中りかわからぬ中り、――大魚《たいぎょ》に大《おお》ゴミのような中りがあり、大ゴミに大魚のような中りがあるもので、そういう中りが見えますと同時に、二段引どころではない、糸はピンと張り、竿はズイと引かれて行きそうになりましたから、客は竿尻を取ってちょいと当てて、直《すぐ》に竿を立てにかかりました。が、こっちの働きは少しも向うへは通じませんで、向うの力ばかりが没義道《もぎどう》[非常なこと。情け知らず。不人情]に強うございました。竿は二本継《にほんつぎ》の、普通の上物《じょうもの》でしたが、継手《つぎて》の元際《もとぎわ》がミチリと小さな音がして、そして糸は敢《あ》えなく断《き》れてしまいました。魚が来てカカリへ啣《くわ》え込んだのか、大芥《おおごみ》が持って行ったのか、もとより見ぬ物の正体は分りませんが、吉はまた一つ此処《ここ》で黒星がついて、しかも竿が駄目になったのを見逃しはしませんで、一層心中は暗くなりました。こういうこともない例ではありませんが、飽《あく》までも練れた客で、「後追《あとお》い小言《こごと》」などは何も言わずに吉の方を向いて、
「帰れっていうことだよ」と笑いましたのは、一切の事を「もう帰れ」という自然の命令の意味合《いみあい》だと軽く流して終《しま》ったのです。「ヘイ」というよりほかはない、吉は素直にカシを抜いて、漕《こ》ぎ出しながら、
「あっしの樗蒲《ちょぼ》一《いち》[サイコロ一個で行う博打]がコケだったんです」と自語《しご》的《てき》に言って、チョイと片手で自分の頭《かしら》を打つ真似《まね》をして笑った。「ハハハ」「ハハハ」と軽い笑《わらい》で、双方とも役者が悪くないから味な幕切《まくぎれ》を見せたのでした。
海には遊船《ゆうせん》はもとより、何の舟も見渡す限り見えないようになっていました。吉はぐいぐいと漕いで行く。余り晩《おそ》くまでやっていたから、まずい潮《しお》になって来た。それを江戸の方に向って漕いで行く。そうして段々やって来ると、陸はもう暗くなって江戸の方|遥《はるか》にチラチラと燈《ひ》が見えるようになりました。吉は老いても巧いもんで、頻《しき》りと身体《からだ》に調子をのせて漕ぎます。苫《とま》は既に取除《とりの》けてあるし、舟はずんずんと出る。客はすることもないから、しゃんとして、ただぽかんと海面《うみづら》を見ていると、もう海の小波《さざなみ》のちらつきも段々と見えなくなって、雨《あま》ずった空が初《はじめ》は少し赤味があったが、ぼうっと薄墨《うすずみ》になってまいりました。そういう時は空と水が一緒にはならないけれども、空の明るさが海へ溶込《とけこ》むようになって、反射する気味が一つもないようになって来るから、水際《みずぎわ》が蒼茫《そうぼう》[見渡す限り青々とだだっぴろい様子]と薄暗くて、ただ水際だということが分る位の話、それでも水の上は明るいものです。客はなんにも所在がないから江戸のあの燈《ひ》は何処《どこ》の燈だろうなどと、江戸が近くなるにつけて江戸の方を見、それからずいと東の方を見ますと、――今漕いでいるのは少しでも潮が上《かみ》から押すのですから、澪《みよ》を外れた、つまり水の抵抗の少い処を漕いでいるのでしたが、澪の方をヒョイッと見るというと、暗いというほどじゃないが、よほど濃い鼠色《ねずみ》に暮れて来た、その水の中からふっと何か出ました。はてナと思って、そのまま見ているとまた何かがヒョイッと出て、今度は少し時間があってまた引込《ひっこ》んでしまいました。葭《よし》か蘆《あし》[「よし」は「あし」を縁起が悪いとして言い換えたものだから、同じこと。言葉の遊びの類]のような類《たぐい》のものに見えたが、そんなものなら平らに水を浮いて流れるはずだし、どうしても細い棒のようなものが、妙な調子でもって、ツイと出てはまた引込みます。何の必要があるではないが、合点が行きませぬから、
「吉や、どうもあすこの処に変なものが見えるな」とちょっと声をかけました。客がジッと見ているその眼の行方《ゆくえ》を見ますと、丁度その時またヒョイッと細いものが出ました。そしてまた引込みました。客はもう幾度も見ましたので、
「どうも釣竿が海の中から出たように思えるが、何だろう。」
「そうでござんすね、どうも釣竿のように見えましたね。」
「しかし釣竿が海の中から出る訳はねえじゃねえか。」
「だが旦那、ただの竹竿《たけざお》が潮の中をころがって行くのとは違った調子があるので、釣竿のように思えるのですネ。」
吉は客の心に幾らでも何かの興味を与えたいと思っていた時ですから、舟を動かしてその変なものが出た方に向ける。
「ナニ、そんなものを、お前、見たからって仕様がねえじゃねえか。」
「だって、あっしにも分らねえおかしなもんだからちょっと後学《こうがく》のために。」
「ハハハ、後学のためには宜《よ》かったナ、ハハハ。」
吉は客にかまわず、舟をそっちへ持って行くと、丁度|途端《とたん》にその細長いものが勢《いきおい》よく大きく出て、吉の真向《まっこう》を打たんばかりに現われた。吉はチャッと片手に受留《うけと》めたが、シブキがサッと顔へかかった。見るとたしかにそれは釣竿で、下に何かいてグイと持って行こうとするようなので、なやすようにして手をはなさずに、それをすかして見ながら、
「旦那これは釣竿です、野布袋《のぼてい》です、良《い》いもんのようです。」
「フム、そうかい」といいながら、その竿の根の方を見て、
「ヤ、お客さんじゃねえか。」
お客さんというのは溺死者《できししゃ》のことを申しますので、それは漁やなんかに出る者は時々はそういう訪問者に出会いますから申出《もうしだ》した言葉です。今の場合、それと見定めましたから、何も嬉《うれ》しくもないことゆえ、「お客さんじゃねえか」と、「放してしまえ」と言わぬばかりに申しましたのです。ところが吉は、
「エエ、ですが、良《い》い竿ですぜ」と、足らぬ明るさの中でためつすかしつ見ていて、
「野布袋の丸《まる》でさア」と付足《つけた》した。丸というのはつなぎ竿になっていない物のこと。野布袋竹《のぼていだけ》というのは申すまでもなく釣竿用の良いもので、大概の釣竿は野布袋の具合のいいのを他の竹の竿につないで穂竹《ほだけ》として使います。丸というと、一竿《ひとさお》全部がそれなのです。丸が良い訳はないのですが、丸でいて調子の良い、使えるようなものは、稀物《まれもの》[たぐいまれなもの・世にもすばらしいもの]で、つまり良いものという訳になるのです。
「そんなこと言ったって欲しかあねえ」と取合いませんでした。
が、吉には先刻《さっき》客の竿をラリにさせたことも含んでいるからでしょうか、竿を取ろうと思いまして、折らぬように加減をしながらグイと引きました。すると中浮《ちゅううき》になっていた御客様は出て来ない訳には行きませんでした。中浮と申しますのは、水死者に三態あります、水面に浮ぶのが一ツ、水底に沈むのが一ツ、両者の間が即ち中浮です。引かれて死体は丁度客の坐の直ぐ前に出て来ました。
「詰《つま》らねえことをするなよ、お返し申せと言ったのに」と言いながら、傍《そば》に来たものですから、その竿を見まするというと、如何《いか》にも具合の好さそうなものです。竿というものは、節《ふし》と節とが具合よく順々に、いい割合を以て伸びて行ったのがつまり良い竿の一条件です。今手元からずっと現われた竿を見ますと、一目《ひとめ》にもわかる実に良いものでしたから、その武士も、思わず竿を握りました。吉は客が竿へ手をかけたのを見ますと、自分の方では持切れませんので、
「放しますよ」といって手を放して終《しま》った。竿尻より上の一尺ばかりのところを持つと、竿は水の上に全身を凛とあらわして、あたかも名刀の鞘《さや》を払ったように美しい姿を見せた。
持たない中《うち》こそ何でもなかったが、手にして見るとその竿に対して油然《ゆうぜん》[盛んに沸き起こる様子・「油然たる雲の」など]として愛念《あいねん》が起った。とにかく竿を放そうとして二、三度こづいたが、水中の人が堅く握っていて離れない。もう一|寸《すん》一寸に暗くなって行く時、よくは分らないが、お客さんというのはでっぷり肥《ふと》った、眉の細くて長いきれいなのが僅《わずか》に見える、耳朶《みみたぶ》が甚《はなは》だ大きい、頭はよほど禿《は》げている、まあ六十近い男。着ている物は浅葱《あさぎ》[浅黄とも書くが、決して浅い黄色のことではなく、薄い藍色、みずいろ系統の色彩である。ただし浅黄と書いた場合は、浅い黄色も表す場合がある]の無紋《むもん》の木綿縮《もめんちぢみ》[夏向きに木綿を縮織(ちぢみおり)にしたもの]と思われる、それに細い麻《あさ》の襟《えり》のついた汗取《あせと》りを下につけ、帯は何だかよく分らないけれども、ぐるりと身体《からだ》が動いた時に白い足袋《たび》を穿《は》いていたのが目に浸《し》みて見えた。様子を見ると、例えば木刀にせよ一本差して、印籠《いんろう》の一つも腰にしている人の様子でした。
「どうしような」と思わず小声で言った時、夕風が一※[#「※」は小書きの「ト」]筋さっと流れて、客は身体《からだ》の何処《どこ》かが寒いような気がした。捨ててしまっても勿体《もったい》ない、取ろうかとすれば水中の主《ぬし》が生命《いのち》がけで執念深く握っているのでした。躊躇《ちゅうちょ》のさまを見て吉はまた声をかけました。
「それは旦那、お客さんが持って行ったって三途川《さんずのかわ》で釣をする訳でもありますまいし、お取りなすったらどんなものでしょう。」
そこでまたこづいて見たけれども、どうしてなかなかしっかり掴《つか》んでいて放しません。死んでも放さないくらいなのですから、とてもしっかり握っていて取れない。といって刃物を取出《とりだ》して取る訳にも行かない。小指でしっかり竿尻を掴《つか》んで、丁度それも布袋竹《ほていだけ》の節の処を握っているからなかなか取れません。仕方がないから渋川流《しぶかわりゅう》[柔術の流派の名称]という訳でもないが、わが拇指《おやゆび》をかけて、ぎくりとやってしまった。指が離れる、途端に先《せん》主人《しゅじん》は潮下《しおしも》に流れて行ってしまい、竿はこちらに残りました。かりそめながら戦ったわが掌《て》を十分に洗って、ふところ紙《がみ》三、四枚でそれを拭《ぬぐ》い、そのまま海へ捨てますと、白い紙玉《かみだま》は魂《たましい》ででもあるようにふわふわと夕闇の中を流れ去りまして、やがて見えなくなりました。吉は帰りをいそぎました。
「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏、ナア、一体どういうのだろう。なんにしても岡釣《おかづり》の人には違いねえな。」
「ええ、そうです。どうも見たこともねえ人だ。岡釣でも本所、深川《ふかがわ》、真鍋河岸《まなべがし》や万年《まんねん》のあたりでまごまごした人とも思われねえ、あれは上《かみ》の方の向島《むこうじま》か、もっと上の方の岡釣師ですな。」
「なるほど勘が好い、どうもお前うまいことを言う、そして。」
「なアに、あれは何でもございませんよ、中気《ちゅうき》[痛風(つうふう)のこと。発作的に激しい痛みを生じるもの]に決まっていますよ。岡釣をしていて、変な処にしゃがみ込んで釣っていて、でかい魚《さかな》を引《ひっ》かけた途端に中気が出る、転げ込んでしまえばそれまででしょうネ。だから中気の出そうな人には平場でない処の岡釣はいけねえと昔から言いまさあ。勿論《もちろん》どんなところだって中気にいいことはありませんがネ、ハハハ。」
「そうかなア。」
それでその日は帰りました。
いつもの河岸に着いて、客は竿だけ持って家に帰ろうとする。吉が
「旦那は明日《あす》は?」
「明日も出るはずになっているんだが、休ませてもいいや。」
「イヤ馬鹿雨《ばかあめ》でさえなければあっしゃあ迎えに参りますから。」
「そうかい」と言って別れた。
[朗読4]あくる朝起きてみると雨がしよしよと降っている。
「ああこの雨を孕んでやがったんで二、三日|漁《りょう》がまずかったんだな。それとも赤潮《あかしお》でもさしていたのかナ。」
約束はしたが、こんなに雨が降っちゃ奴《やつ》も出て来ないだろうと、その人は家《うち》にいて、しょうことなしの書見《しょけん》などしていると、昼近くなった時分に吉はやって来た。庭口からまわらせる。
「どうも旦那、お出《で》になるかならないかあやふやだったけれども、あっしゃあ舟を持って来ておりました。この雨はもう直《じき》あがるに違《ちげ》えねえのですから参りました。御伴《おとも》をしたいともいい出せねえような、まずい後《あと》ですが。」
「アアそうか、よく来てくれた。いや、二、三日お前にムダ骨を折らしたが、おしまいに竿が手に入るなんてまあ変なことだなア。」
「竿が手に入るてえのは釣師には吉兆《きっちょう》でさア。」
「ハハハ、だがまあ雨が降っている中《うち》あ出たくねえ、雨を止《や》ませる間《あいだ》遊んでいねえ。」
「ヘイ。時に旦那、あれは?」
「あれかい。見なさい、外鴨居《そとがもい》[障子やふすまなどを横へスライドさせるためのレールの付いた横木のうち、下の部分が敷居(しきい)であり、上の部分が鴨居(かもい)である]の上に置いてある。」
吉は勝手の方へ行って、雑巾盥《ぞうきんだらい》に水を持って来る。すっかり竿をそれで洗ってから、見るというと如何にも良い竿。じっと二人は検《あらた》め気味《ぎみ》に詳しく見ます。第一あんなに濡れていたので、重くなっているべきはずだが、それがちっとも水が浸みていないようにその時も思ったが、今も同じく軽い。だからこれは全く水が浸みないように工夫がしてあるとしか思われない。それから節廻《ふしまわ》りの良いことは無類。そうして蛇口《へびぐち》[釣り竿の先の糸(道糸)を結ぶ部分のこと]の処を見るというと、素人細工《しろうとざいく》に違いないが、まあ上手《じょうず》に出来ている。それから一番太い手元の処を見るとちょいと細工がある。細工といったって何でもないが、ちょっとした穴を明けて、その中に何か入れでもしたのかまた塞《ふさ》いである。尻手縄《しってなわ》が付いていた跡でもない。何か解らない。そのほかには何の異《かわ》ったこともない。
「随分|稀《めず》らしい良《い》い竿だな、そしてこんな具合の好《い》い軽い野布袋《のぼてい》は見たことがない。」
「そうですな、野布袋という奴は元来重いんでございます、そいつを重くちゃいやだから、それで工夫をして、竹がまだ野に生きている中《うち》に少し切目《きりめ》なんか入れましたり、痛めたりしまして、十分に育たないように片っ方をそういうように痛める、右なら右、左なら左の片方をそうしたのを片《かた》うきす、両方から攻める奴を諸《もろ》うきすといいます。そうして拵《こしら》えると竹が熟した時に養いが十分でないから軽い竹になるのです。」
「それはお前|俺《おれ》も知っているが、うきすの竹はそれだから萎《しな》びたようになって面白くない顔つきをしているじゃないか。これはそうじゃない。どういうことをして出来たのだろう、自然にこういう竹があったのかなア。」
竿というものの良いのを欲しいと思うと、釣師は竹の生えている藪《やぶ》に行って自分で以《もっ》てさがしたり撰《えら》んだりして、買約束《かいやくそく》をして、自分の心のままに育てたりしますものです。そういう竹を誰でも探しに行く。少し釣が劫《こう》を経《へ》て来るとそういうことにもなりまする。唐《とう》の時に温庭※[#「※」は「たけかんむり+均」、37-11]《おんていいん》[(812-?)中国唐時代、李商隠(りしょういん)と共に晩唐を代表する詩人]という詩人、これがどうも道楽者で高慢で、品行が悪くて仕様がない人でしたが、釣にかけては小児《こども》同様、自分で以て釣竿を得ようと思って裴氏《はいし》という人の林に這入《はい》り込んで良い竹を探した詩がありまする。一径《いっけい》互《たがい》に紆直《うちょく》し、茅棘《ぼうきょく》亦《また》已《すで》に繁《しげ》し、という句がありまするから、曲がりくねった細径《ほそみち》の茅《かや》や棘《いばら》を分けて、むぐり込むのです。歴尋《れきじん》す嬋娟《せんえん》[あるいは「せんけん」、美しく艶やかな様子]の節、翦破《せんぱ》す蒼莨根《そうろうこん》、とありまするから、一々《いちいち》この竹、あの竹と調べまわった訳です。唐の時は釣が非常に行われて、薜氏《せつし》の池という今日まで名の残る位の釣堀《つりぼり》さえあった位ですから、竿屋だとて沢山《たくさん》ありましたろうに、当時|持囃《もてはや》された詩人の身で、自分で藪くぐりなんぞをしてまでも気に入った竿を得たがったのも、好《すき》の道なら身をやつす道理でございます。半井《なからい》卜養《ぼくよう》[(1607-1679)江戸前期に活躍した医者兼、狂歌師]という狂歌師の狂歌に、浦島《うらしま》が釣の竿とて呉竹《くれたけ》の節はろくろく伸びず縮まず、というのがありまするが、呉竹の竿など余り感心出来ぬものですが、三十六節あったとかで大《おおい》に節のことを褒《ほ》めていまする、そんなようなものです。それで趣味が高じて来るというと、良いのを探すのに浮身《うきみ》をやつすのも自然の勢《いきおい》です。
二人はだんだんと竿に見入っている中《うち》に、あの老人が死んでも放さずにいた心持が次第に分って来ました。
「どうもこんな竹は此処《ここい》らに見かけねえですから、よその国の物か知れませんネ。それにしろ二|間《けん》の余《よ》もあるものを持って来るのも大変な話だし。浪人の楽《らく》な人だか何だか知らないけれども、勝手なことをやって遊んでいる中《うち》に中気が起ったのでしょうが、何にしろ良《い》い竿だ」と吉はいいました。
「時にお前、蛇口を見ていた時に、なんじゃないか、先についていた糸をくるくるっと捲《ま》いて腹掛《はらがけ》のどんぶりに入れちゃったじゃねえか。」
「エエ邪魔っけでしたから。それに、今朝それを見まして、それでわっちがこっちの人じゃねえだろうと思ったんです。」
「どうして。」
「どうしてったって、段々細《だんだんぼそ》につないでありました。段々細につなぐというのは、はじまりの処が太い、それから次第に細いのまたそれより細いのと段々細くして行く。この面倒な法は加州《かしゅう》やなんぞのような国に行くと、鮎《あゆ》を釣るのに蚊鉤《かばり》など使って釣る、その時蚊鉤がうまく水の上に落ちなければまずいんで、糸が先に落ちて後《あと》から蚊鉤が落ちてはいけない、それじゃ魚《さかな》が寄らない、そこで段々細の糸を拵えるんです。どうして拵えますかというと、鋏《はさみ》を持って行って良い白馬の尾の具合のいい、古馬にならないやつのを頂戴して来る。そうしてそれを豆腐《とうふ》の粕《かす》で以て上からぎゅうぎゅうと次第々々にこく。そうすると透き通るようにきれいになる。それを十六本、右|撚《よ》りなら右撚りに、最初は出来ないけれども少し慣れると訳なく出来ますことで、片撚《かたよ》りに撚る。そうして一つ拵える。その次に今度は本数を減らして、前に右撚りなら今度は左撚りに片撚りに撚ります。順々に本数をへらして、右左をちがえて、一番終いには一本になるようにつなぎます。あっしあ加州の御客に聞いておぼえましたがネ、西の人は考《かんがえ》がこまかい。それが定跡《じょうせき》[将棋で最善とされるある場合に対する差し方]です。この竿は鮎をねらうのではない、テグス[楓蚕(ふうさん)・樟蚕(くすさん)という虫の幼虫から生み出した釣り糸。また、釣り糸の俗称としても現在使用される]でやってあるけれども、うまくこきがついて順減《じゅんべ》らしに細くなって行くようにしてあります。この人も相当に釣に苦労していますね、切れる処を決めて置きたいからそういうことをするので、岡釣じゃなおのことです、何処《どこ》でも構わないでぶっ込むのですから、ぶち込んだ処にかかりがあれば引《ひっ》かかってしまう。そこで竿をいたわって、しかも早く埒《らち》の明《あ》くようにするには、竿の折れそうになる前に切れ処《どこ》から糸のきれるようにして置くのです。一番先の細い処から切れる訳だからそれを竿の力で割出《わりだ》していけば、竿に取っては怖いことも何もない。どんな処へでもぶち込んで、引《ひっ》かかっていけなくなったら竿は折れずに糸が切れてしまう。あとはまた直ぐ鉤《はり》をくっつければそれでいいのです。この人が竿を大事にしたことは、上手に段々細にしたところを見てもハッキリ読めましたよ。どうも小指であんなに力を入れて放さないで、まあ竿と心中《しんじゅう》したようなもんだが、それだけ大事にしていたのだから、無理もねえでさあ。」
などと言っている中《うち》に雨がきれかかりになりました。主人は座敷、吉は台所へ下《さが》って昼の食事を済ませ、遅いけれども「お出《で》なさい」「出よう」というので以て、二人は出ました。無論その竿を持って、そして場処に行くまでに主人は新しく上手に自分でシカケを段々細に拵えました。
さあ出て釣り始めると、時々雨が来ましたが、前の時と違って釣れるわ、釣れるわ、むやみに調子の好い釣になりました。とうとうあまり釣れるために晩《おそ》くなって終いまして、昨日《きのう》と同じような暮方《くれがた》になりました。それで、もう釣もお終いにしようなあというので、蛇口から糸を外《はず》して、そうしてそれを蔵《しま》って、竿は苫裏《とまうら》に上げました。だんだんと帰って来るというと、また江戸の方に燈《ひ》がチョイチョイ見えるようになりました。客は昨日からの事を思って、この竿を指を折って取ったから「指折《ゆびお》※[#「※」は小書きの「リ」]」と名づけようかなどと考えていました。吉はぐいぐい漕いで来ましたが、せっせと漕いだので、艪臍《ろべそ》が乾いて来ました。乾くと漕ぎづらいから、自分の前の処にある柄杓《ひしゃく》を取って潮《しお》を汲んで、身を妙にねじって、ばっさりと艪の臍《へそ》の処に掛けました。こいつが江戸前の船頭は必ずそういうようにするので、田舎《いなか》船頭のせぬことです。身をねじって高い処から其処《そこ》を狙ってシャッと水を掛ける、丁度その時には臍が上を向いています。うまくやるもので、浮世絵《うきよえ》好みの意気な姿です。それで吉が今|身体《からだ》を妙にひねってシャッとかける、身のむきを元に返して、ヒョッと見るというと、丁度|昨日《きのう》と同じ位の暗さになっている時、東の方に昨日と同じように葭《よし》のようなものがヒョイヒョイと見える。オヤ、と言って船頭がそっちの方をジッと見る、表の間《ま》に坐っていたお客も、船頭がオヤと言ってあっちの方を見るので、その方を見ると、薄暗くなっている水の中からヒョイヒョイと、昨日と同じように竹が出たり引込《ひっこ》んだりしまする。ハテ、これはと思って、合点しかねているというと、船頭も驚きながら、旦那は気が附いたかと思って見ると、旦那も船頭を見る。お互《たがい》に何だか訳の分らない気持がしているところへ、今日は少し生暖《なまあたた》かい海の夕風が東から吹いて来ました。が、吉は忽《たちま》ち強がって、
「なんでえ、この前の通りのものがそこに出て来る訳はありあしねえ、竿はこっちにあるんだから。ネエ旦那、竿はこっちにあるんじゃありませんか。」
怪《かい》を見て怪とせざる勇気で、変なものが見えても「こっちに竿があるんだからね、何でもない」という意味を言ったのであったが、船頭もちょっと身を屈《かが》めて、竿の方を覗《のぞ》く。客も頭の上の闇を覗く。と、もう暗くなって苫裏《とまうら》の処だから竿があるかないか殆ど分らない。かえって客は船頭のおかしな顔を見る、船頭は客のおかしな顔を見る。客も船頭もこの世でない世界を相手の眼の中から見出したいような眼つきに相互に見えた。
竿はもとよりそこにあったが、客は竿を取出して、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏と言って海へかえしてしまった。
(昭和十三年九月)
《》:ルビ
(例)皆さん方《がた》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一行|即《すなわ》ち
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、底本のページと行数)
(例)[#「※」は「たけかんむり+隻」、17-8]
底本:「幻談・観画談 他三篇」岩波文庫、岩波書店
1990(平成2)年11月16日第1刷発行
底本の親本:「露伴全集」第六巻、岩波書店
1953(昭和28)年12月刊
※繰り返し記号の二の字点(漢数字の「二」を一筆書きにしたようなもの)は、「々」で代えた。
入力:Sin
校正:伊藤時也
2000年5月31日公開
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2010/10/21~11/1