高浜虚子の生涯、俳句と朗読

高浜虚子(1874-1959)の生涯、俳句と朗読

高浜虚子(1874-1959)の年号暗記述
………いやな世(1874)を
一句ごくり(1959)と呑み込んで
書記のマハタカ今日も行きます
(なんのこっちゃ)

高浜虚子(1874-1959)の生涯
………高浜虚子、本名、高濱清(たかはまきよし)はすでに瓦解した江戸幕府の下で松山藩士であった池内政忠の五男として、1874年2月22日、現在の松山市湊町に生まれた。やがて彼は、高濱家の跡取りとして、1888年、伊予尋常中学に入学。親友にして宿命のライバル(?)でもある河東碧梧桐(かわひがしへきごとう/へきごどう)(1873-1937)と知り合い、ちょうど松山の帰省時に知り合った正岡子規から、二人して俳句を教わることとなった。それがもとで、1891年に虚子(きょし)の号を授かり、高浜虚子(たかはまきょし)という名称が誕生する。
 虚子と碧梧桐は、1893年に京都の第三高等学校へ進学し、共に文学熱に浮かされていたが、やがて学科の改編により二人は仙台の学校へ転入となった。しかし、文芸で身を立てたい思いが高じて、二人は東京を目ざしてしまう。学校を中退して、まるで正岡子規の家に転がり込んだようなものであった。子規は愚痴を言いながらも、二人の住まいの面倒を見、その後この二人は、子規の無くなるまで、子規の家を訪れる常連として、あるいは弟子として、あるいは看病人として、行動していくことにもなるのだった。
 その間、1895年、子規が日清戦争の従軍から戻り、血を吐いて重症に陥ったときには、「自分の後を継いでくれ」と子規に頼まれて、ちょっとうろたえてしまったり、もともとは河東碧梧桐の婚約者だった大畠いと(糸子)と1897年に結婚したり、翌年、子規から雑誌「ほとゝぎす」を託されたりしたが、1902年に正岡子規が没すると、碧梧桐との間に、俳句に対する意見の違いが表面化し、1903年には河東の俳句を文章にて批判するにいたった。二人はそれぞれが子規の後継者的な立場であり、「ホトトギス」(高浜虚子)、「新聞日本」(河東碧梧桐)と、それぞれ子規の遺産を相続して、活動を深めていたのである。ちなみにこの1903年、次女立子(たつこ)が生まれているが、彼女は後に女流俳人「星野立子」として活躍することにもなるのだった。
 1906年、次男友次郎が生まれる頃から、次第に小説への傾倒を強め、俳句から遠ざかるようになっていく。1905年に夏目漱石の『吾輩は猫である』がホトトギスに掲載されたように、総合文芸誌としてのホトトギスは、むしろ小説などへとその傾斜を強めていった。虚子自身、この時期は俳句の巨塔などではなく、小説家になることを夢みて、1907年には『斑鳩物語(いかるがものがたり)』、1908年には『俳諧師(はいかいし)』などを発表、自らの作品を「ホトトギス」へと掲載誌続けていく。関係ないが、次男友次郎は、池内の姓を名乗り、池内友次郎として音楽教育者として活躍することになる。すなわち、日本におけるクラシック音楽の学習内容を、ドイツからフランスに変換させた音楽家として、和声の学習などをする上で、(お名前だけは)知られた人物である。
 1910年、高浜虚子は鎌倉へと移住した。翌年朝鮮へ旅行するも、1912年(明治45年/大正元年)の秋には腸を病んで入院するなどしていた。しかし、明治から大正への移り変わりに合わせた訳でも無いだろうが、(あるいは時代の雰囲気として文学上にもそのような傾向が生まれるものだか知らないが)、俳句のリズムを突き崩す河東碧梧桐などの運動(自由律俳句)に力強く対立するために、
「春風や闘志いだきて丘に立つ」
という句を掲げ、これをシンボルとして、以後活発な俳句活動へ身を投じて行くこととなった。
 以後、太平洋戦争時に長野県へ疎開する他、神奈川県鎌倉市を拠点とし、俳句の一時代を築いていった。その理念は自ら掲げた言葉である「花鳥諷詠(かちょうふうえい)」「客観写生」などに現れている。生涯に詠んだ句は二十万を越えるそうだが、現代の俳句は、良くも悪くも高浜虚子の影響力を被っていると言えるかもしれない。
俳句とはどんなものか (俳句入門の手引)
………大正二年五月号より雑誌「ホトトギス」紙上、すなわち1913年に発表された「六ヶ月間俳句講義」として連載されたもので、圧倒的初心者から俳句を学ぶもののために記された、今日に生きる俳句の導入書。
俳句の作りよう (俳句の作り方、入門の手引)
………大正二年(1913年)十一月号より雑誌「ホトトギス」紙上に連載されたもので、上の「俳句とはどんなものか」に続くもの。すなわち、圧倒的初心者から俳句を学ぶもののために記された、今日に生きる俳句の導入書である。
俳諧談 (俳句の歴史、入門の手引)
………「俳句の作りやう」初版の一冊本に「附録」として納められたもの。上と違い「ですます調」が使用されず、熱く俳句に対して思いを致した名エッセイ。同時に上の二つを補完する意味を持つ。諸君、俳句導入の手引きとして、以上の三篇を是非とも参照すべし。
子規居士と余 (1911-1915執筆)
………雑誌「ホトトギス」紙上に掲載された後、大正4年(1915年)6月に出版された回想録。子規の回想録でもあるが、同時に余こと、高浜虚子の子規と別離するまでの人生の回想録でもある。晩年の驚くべき我に支配される虚子とはまるで別の、すなわち劣等感と格闘して真率なる青年の心を保ちし虚子の生真面目さのこもる、真率な文章としても好感が持てる。

高浜虚子に関するリンク

高浜虚子 (ウィキペディア)
………ウィキペディアの高浜虚子。
高浜虚子 (青空文庫)
………青空文庫の高浜虚子作品リスト。
虚子記念文学館
………兵庫県芦屋市にある高浜虚子の記念館。

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