高浜虚子「子規居士と余」

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子規居士と余 (高浜虚子)

注意書(テキストの改変について)

・注目単語を本文を青色で、補足的な言葉の説明を[枠つき緑色]、さらに気になる文章などは本文を茶色に変更してある。

インデックス

子規居士と余

 [朗読1]松山城の北に練兵場がある。ある夏の夕|其処《そこ》へ行って当時中学生であった余らがバッチングを遣っていると、其処へぞろぞろと東京がえりの四、六人の書生が遣《や》って来た。余らも裾《すそ》を短くし腰に手拭《てぬぐい》をはさんで一ぱし書生さんの積《つも》りでいたのであったが、その人々は本場仕込みのツンツルテンで脛《すね》の露出し具合もいなせなり腰にはさんだ手拭も赤い色のにじんだタオルなどであることがまず人目を欹《そばだ》たしめる[→(そばだつ)高くそびえる。そびえ立つ。といった意味。(そばだてる)]のであった。

「おいちょっとお借しの。」とそのうちで殊《こと》に脹脛《ふくらはぎ》の露出したのが我らにバットとボールの借用を申込んだ。我らは本場仕込みのバッチングを拝見することを無上の光栄として早速それを手渡しすると我らからそれを受取ったその脹脛の露出した人は、それを他の一人の人の前に持って行った。その人の風采《ふうさい》[人のみかけ上の姿のこと]は他の諸君と違って着物などあまりツンツルテンでなく、兵児帯《へこおび》を緩《ゆる》く巻帯にし、この暑い夏であるのにかかわらずなお手首をボタンでとめるようになっているシャツを着、平べったい俎板《まないた》のような下駄を穿《は》き、他の東京仕込みの人々に比べあまり田舎者の尊敬に値せぬような風采であったが、しかも自ら此の一団の中心人物である如く、初めはそのままで軽くバッチングを始めた。先のツンツルテンを初め他の諸君は皆数十間あとじさりをして争ってそのボールを受取るのであった。そのバッチングはなかなかたしかでその人も終には単衣《ひとえ》の肌を脱いでシャツ一枚になり、鋭いボールを飛ばすようになった。そのうち一度ボールはその人の手許《てもと》を外れて丁度《ちょうど》余の立っている前に転げて来たことがあった。余はそのボールを拾ってその人に投げた。その人は「失敬。」と軽く言って余からその球を受取った。この「失敬」という一語は何となく人の心を牽《ひ》きつけるような声であった。やがてその人々は一同に笑い興じながら、練兵場を横切って道後の温泉の方へ行ってしまった。

 このバッターが正岡子規その人であった事が後になって判った。

 それから何年後の事であったか覚えぬが、余は中学を卒業する一年半ばかり前、ふと『国民之友』[アメリカの総合誌「The Nation」にちなんだ総合雑誌で、徳富蘇峰(とくとみそほう)が中心となって1887年より発行された。日清戦争後、蘇峰の政治姿勢が大きく変化し、そのため発行部数の減少をもって98年に廃刊となった]が初めて夏季附録を出して、露伴の「一|口剣《こうけん》」、美妙斎《びみょうさい》の「胡蝶」、春の屋の「細君」、鴎外の「舞姫」、思軒の「大東号航海日記」を載せたのを見て、初めて自分も小説家になろうと志し、やがて『早稲田文学』[1891年に、坪内逍遥が中心となって早稲田大学の文学部より発刊された雑誌]『柵草紙《しがらみぞうし》』[こちらは森鴎外により1889年に発刊]等の愛読者となった。それから同級の親友|河東秉五郎《かわひがしへいごろう》君[後に河東碧梧桐(かわひがしへきごどう/へきごとう)(1873-1937)として虚子の親友である共に宿命のライバルでもある俳人となる]にこの事を話すと、彼もまた同じ傾向を持って居るとの事でそれ以後二人は互に相倚《あいよ》るようになった。それから河東君は同郷の先輩で文学に志しつつある人に正岡子規なる俊才があって、彼は既に文通を試みつつあるという事を話したので、余も同君を介して一書を膝下《しっか》[ひざの下の部分。膝元/親など庇護者のもと/父や母などに宛てる手紙に使用する、手紙の脇付のひとつ]に呈した。どんな事を書いて遣ったか覚えぬがとにかく自分も文学を以て立とうと思うから教を乞いたいと言って遣った。それに対する子規居士の返書は余をして心を傾倒せしめるほど美しい文字で、立派な文章であった。これから河東君と余とは争って居士に文通し、頻《しき》りに文学上の難問を呈出した。居士は常にそれに対して反覆丁寧なる返書をくれた。それは巻紙の事もあったが、多くは半紙もしくは罫紙《けいし》を一|綴《つづり》にし切手を二枚以上|貼《は》ったほどの分量のものであった。

 子規居士は手紙の端にいつも発句《ほっく》を書いてよこし、時には余らに批評を求めた。余らは志が小説にあるのであるから更にこの発句なるものに重きを置くことが出来なかった。しかも近松[【近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)(1653-1724)]を以て日本唯一の文豪なりと『早稲田文学』より教えられていたのが、居士によって更により以上の文豪に西鶴[井原西鶴(いはらさいかく)(1642-1693)]なるもののある事を紹介されて以来、我らは発句を習熟することが文章上達の捷径《しょうけい》[近道/上達へのはや道]なりと知り、その後やや心をとめて翫味《がんみ》[味をよく見分けて十分味わうこと/意義をよく考え味わうこと]するようになった。

 余は一本の傘《からかさ》を思います[恐らく「思い出す」の間違いか]。それはどうしたのかはっきり判らぬがとにかく進藤|巌《いわお》君が届けてくれたのだ。進藤巌君というのは中学の同級生であった。たしか、余が子規居士の家を訪問して忘れて帰った傘を巌君が届けてくれたのかと覚えて居る。その頃子規居士は夏休みで帰省していたのである。

 それからまたこういう事を覚えて居る。一人《いちにん》の大学の制服をつけた紳士的の態度の人が、洋服の膝《ひざ》を折って坐って居る、その前に子規居士も余も坐って居る、表には中の川が流れている。これは居士の家の光景で、その大学の制服を着ている人は夏目漱石君であった。何でも御馳走《ごちそう》には松山|鮨《ずし》[甘めの寿司飯に魚介類を混ぜ込んだちらし寿司]があったかと思う。詩箋《しせん》[詩を書くための用紙]に句を書いたのが席上に散らかっていたようにも思う。

 三津の生簀《いけす》[(みつのいけす)故郷(愛媛県)松山の三津にある溌々園という、子規お気に入りの料亭のこと]で居士と碧梧桐君と三人で飯を食うた。その時居士は鉢の水に浮かせてあった興居《ごご》島[松山港の沖合に浮かぶ有人の離れ島]の桃のむいたのを摘《つま》み出しては食い食いした。その帰りであった。空には月があった。満月では無くて欠けた月であった。縄手《なわて》[縄のすじのこと/畦道のこと/真っ直ぐに長い道のこと]の松が黒かった。もうその頃汽車はあったが三人はわざと一里半[一里、約3.9272727キロメートル(一里は「さんくにじゅうしち、にじゅうしち、にじゅうしち)と唱えると覚えることたやすき。簡単に「さんくにじゅうしち」にても十分なり]の夜道を歩いて松山に帰った。それは、

「歩いて帰ろうや。」という居士の動議によったものであった。その帰りに連句を作った。余と碧梧桐君とは連句[俳諧連歌のこと。初めの五七五が発句で、その後、詠み人を変えながら「七七→五七五→七七」と続けていく]というものがどんなものかそれさえ知らなかったのを居士は一々教えながら作るのであった。何でも松山に帰り着くまでに表六句が出来ぬかであった。そうして二、三日経って居士はそれを訂正して清書したものを余らに見せた。もし今|獺祭書屋《だっさいしょおく》[ずばり旧子規庵の別号。以下、ウィキペディアより部分引用すると。(引用)獺とは川獺(かわうそ)のことである。これは『禮記』月令篇に見える「獺祭魚」なる一文を語源とする。かつて中国において、カワウソは捕らえた魚を並べてから食べる習性があり、その様はまるで人が祭祀を行い、天に供物を捧げる時のようであると信じられていた。「カワウソですら祭祀を行う、いわんや人間をや」というわけである。そして後世、唐代の大詩人である李商隠は尊敬する詩人の作品を短冊に書き、左右に並べ散らしながら詩想に耽ったため、短冊の並ぶ様を先の『禮記』の故事に準え、自らを「獺祭魚庵」と號した。ここから「獺祭魚」には「書物の散らかる様」という意味が転じる。「獺祭書屋主人」という號は単に「書物が散らかった部屋の主人」という意味ではなく、李商隠の如く高名な詩人たらんとする子規の気概の現れである。病臥の枕元に資料を多く置いて獺のようだといったわけである(引用終)]旧子規庵を探したらその草稿を見出すのにむずかしくはあるまい。居士は如何なる場合にいい捨てた句でも必ずそれを書き留めて置く事を忘れなかったのである。

 こういう事もあった。

 海中に松の生えた岩が突出して居る。

「おい上ろう。上ろう。」と新海非風《にいのみひふう》君[(1870-1901)やはり伊予松山の出身で、東京で子規と知り合い俳句世界に引きずり込まれる。結核により陸軍士官学校を退学。虚子の小説「俳諧師」の五十嵐十風のモデルともされている]が言う。

「上ろう。テレペン[テレビン(テレピン)油(松精油)はマツ科の樹木から精製された精油(植物性油)のこと。精油にはテレピン油から名称の由来するテルペンという炭化水素化合物が含有する。それはさておき、この場合は「松ヤニ」が沢山ある、あるいは油の取れる「松」が沢山ある、と言ったものと思われる]が沢山あるよ。」と言ったのが子規居士である。舟が揺れて居る。二人の上ったあとの舟中に取り残されたのは碧梧桐君と余とであった。間もなく碧梧桐君もその岩に掻《か》き上ってしまって最後には余一人取り残された。

 非風君はその頃肺を病んでいた。たしかこの時であったと思う、非風君がかっと吐くと鮮かな赤い血の網のようにからまった痰《たん》が波の上に浮いたのは。

「おいおい少し大事にしないといけないよ。」と子規居士は注意するように言った。

「ハハハハ」と非風君は悲痛なような声を出して笑い、「おい升《のぼ》さん(子規居士の通称)泳ごうや。」

「乱暴しちゃいけないよ。」子規居士は重ねて言う。

「かまうものか。血位が何ぞな。どうせ死ぬのじゃがな。」と非風君は言う。

 居士の病後のみを知って居る人は居士はあまり運動などはしなかった人のように思うであろうが、あれでなかなかそうでもなかったらしい。べースボール[「野球」の日本伝来は1871年とされている。「野球(やきゅう)」という名称は、中馬庚(ちゅうまんかなえ)が考案したもののようだ。これについては、以下ウィキペディアより部分引用すれば、(引用)子規が「野球(のぼーる)」という雅号を用いたのは中馬庚が「ベースボール」を「野球」と翻訳する4年前の明治23年(1890年)である。つまり、「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬庚であるが、読み方は異なるが「野球」という表記を最初に行い、さらに「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」と日本語に訳したのは子規である(引用終)]などは第一高等学校のチャンピオンであったとかいう事だ。居士の肺を病んだのは余の面会する二、三年前の事であったので、余の逢った頃はもう一度|咯血《かっけつ》した後《の》ちであった。けれどもなお相当に蛮気があった。この時もたしか艪《ろ》を漕いだかと思う。ただ非風君ほど自暴《やけ》ではなかった。非風君の方が居士より三、四年後に発病したらしかったがその自暴のために非風君の方が先に死んだ。居士は自暴を起すような人ではなかった。

 同勢三、四人で一個の西瓜《すいか》を買って石手川へ涼みに行き、居士はある石崖[(いしがけ)岩山の側面のこと]の上に擲《な》げつけてそれを割り、その破片をヒヒヒヒと嬉しそうに笑いながら拾って食った事もあった。

 今の代議士|武市庫太《たけいちくらた》君[(1863-1924)]の村居を訪うた事も覚えて居る。その同勢[(どうぜい)同行の人々]は子規、可全《かぜん》[河東可全(1870-1947)]、碧梧桐の三君と余とであったかと思う。可全君というのは碧梧桐君の令兄である。

 これらは居士が大学在学中二、三度松山に帰省した間の片々たる記憶である。

 居士の帰省中に、も一つこういう事があったのを思い出した。余は二階の六畳に寝転んで暑い西日をよけながら近松|世話浄瑠璃《せわじょうるり》や『しがらみ草紙』や『早稲田文学』や西鶴ものなどを乱読しているところに案内も何もなく段梯子《だんばしご》からニョキッと頭を出したのは居士であった。上に上って来るのを見ると袴を穿《は》いて風呂敷包みを脇に抱えて居る。居士が袴を穿いているのは珍らしいので「どうおしたのぞ。」と聞くと、

「喜安※[#「王+二点しんにょうの進」、第4水準2-81-2]太郎《きやすしんたろう》[(1876-1955)言語学者。1904年からジャパン・タイムス社の刊行する「英国青年」の編集刊行などに関わっている]はお前知っといじょうが。あの男から講演を頼まれたので今それを遣って来たところよ。」

「そうかな。何を講演おしたのぞ。」

「文章談をしたのよ。」とそれから間もなくその風呂敷包を開いて一つの書物を取り出して見せたのは浪六《なみろく》[村上浪六(むらかみなみろく)(1865-1944)『当世五人男』(1896)などを代表作とする小説家。大衆小説、時代小説というジャンルの走りともされる]の出世小説『三日月《みかづき》』[(1891年)]であった。それから「内容は俗なものだけれど、文章は引締っていてなかなか旨《うま》い処があるぞな。」と居士は言う。

「そんなに旨いのかな。露伴より旨いのかな。」

「もっとも私《あし》は馬鹿にしていて二、三日前まで読まなかったのだが、読んで見るとなかなか旨いから、今日持って行って材料にしたのよ。そりゃ内容から言ったら露伴の方が遥《はるか》に高尚だけれども文章はところどころ露伴よりも旨いと思われる処がある。」とそれから一々その書物を開きながら、この句がいい、この句が力があるというような事を説明した。

 今『英語青年』を主幹している喜安君はこの事を覚えているや否や。

 [朗読2]余が文学上の書籍に親しんだのは中学[伊予尋常中学校(この時は私立の学校となっていた)卒業の一年前位からの事で、前言った通り『国民の友』、『早稲田文学』、『しがらみ草紙』、『城南評論』、それに近松物、西鶴物、露伴物、紅葉物、高田早苗氏の『美辞学』、中江篤介《なかえとくすけ》訳の『維氏美学《いしびがく》』、それらを乱読して東都[東の都、すなわち東京のこと]の空にあこがれていた。そうしてある時子規居士に手紙を送って、小説を書くためには学校生活を遣るよりも中学を卒《お》えた上直ちに上京して鴎外氏なり露伴氏なりの門下生になりたいと思うが周旋をしてくれぬか、と言って遣った。それに対する居士の返答は極めて冷静な文句で、学校の課程を踏まずに直ちに小説家になる御決心の由、御勇気のほどは感服する、けれども貴兄は家族の係累[つなぎおくこと/心身を束縛するわずわらしい物事/自分が忙しなければならない親や配偶者(妻・夫)などのこと]等はどうなのか、学校を卒業しておけばまず食うに困るような事はないが、今から素手《すで》で世の中に飛出す以上は饑渇《きかつ》[飢えや渇き]と戦う覚悟がなけりゃならぬ、なお鴎外、露伴らに紹介せよとの事だが、自分はまだ逢った事もない、たとい自分が紹介の労を取るにしたところで、門下生になってどれほど得る処があるかそれは疑問だと思う、とこういう意味の返辞であった。その頃十八、九歳の田舎青年であった余は、この衣食問題を提供されて実は一方《ひとかた》ならず驚愕《きょうがく》したのであった。そうしてこの時以来、仙台第二高等学校を中途退学するまで余の頭には実に文芸|憧憬《どうけい》[憧れること]の情と衣食問題とが常に争闘を続けていたのであった。

 とにかくこの居士の手紙を受取ってから余は考えずにはいられなかった。「飯を食う」という実際問題にいつも悶《もだ》え難《なや》んでいた。何だか自分のようなか弱い人間にそんな恐ろしい現実問題が解決が出来るであろうかというような恐怖の情に襲われることがしばしばであった。この余の煩悶[(はんもん)もだえ苦しむこと]を碧梧桐君が居士に通告して遣った時に居士はあまり薬が利き過ぎたと思ったのか、今度は大に余を激励して来た。それに対して余は「飯が食えぬ」という文章を作って解嘲《かいちょう》[=(かいとう)あざけりに対して弁解すること]したこともあった。

 中学四年、現在の愛媛県立松山東高等学校にあたる]までは学校の試験の成績というような事を大いなる興味を持っていた余は、反動的に極端に学校生活というものを憎むようになった。そこで居士はその頃の居士自身の傾向には反対した事をよく認《したた》めて余に送ってくれた事もあった。けれどもその余所行《よそゆ》きの忠告の文句の裡《うち》に余は居士自身の煩悶を体読せずにはおかなかった。居士の煩悶というのは、やはり学校生活を中止して文学に立とうという一つのあせり[#「あせり」に傍点]であった。もっとも居士はその二、三年前咯血をしてから、功を急ぐ念が強くなっていた。かくして居士はその後両三年ならずして退学を決行したのであった。余もそれに遅るる一、二年にしてまた退学を決行した。「石橋《しゃっきょう》」[寂昭法師が中国の仙境の山を分け入ると、文殊菩薩の浄土までは至れぬゆえここで待たれいと言われた橋のところで、獅子が、場合によっては二頭、舞うという目出度い能]という能がある。親獅子は舞台に出て舞い、子獅子は橋がかりで舞うのであるが、ちょっと余と子規居士との関係はそういったような状態であった。居士はまだ舞ってはいかぬいかぬと言いながら舞台で舞い始めたので、余は堪《こら》えずに橋がかりで舞い出したのであった。碧梧桐君もその頃は殆ど余と同身一体のような有様であった。性格の全く異った二人は常に同一行動を取っていた。橋がかりの子獅子は二匹であったのである。

 さて余は中学を三月に卒業[1893年]して九月に京都の第三高等学校[現在の京都大学の母体となった学校。この時はまだ、第三高等中学校。高等中学校は予科(本科に入るためのもの)と本科に別れていた。翌年、1894年の高等学校令によって、本科・予科が廃止され、第三高等学校となる。他の高等中学校も同じく高等学校となり、一高(東京)、二高(仙台)、三高(京都)、四高(熊本)、五高(金沢)が誕生した]に入学することになった。京都遊学が近づいて来るに従ってさすがに嫁入り前の娘のような慌だしい心持がせぬでもなかった。自然その頃は子規居士との手紙の往復よりも、京都の学校に在《あ》る先輩との手紙の往復の方が多くなった。いよいよ京都に行ってからも下宿の番地を知らしたきり位であまり居士とは通信もしなかったように思う。一段高い学府に籍を置いたという厳粛な感じに支配せられて燈下に膝を折って下読みにいそしむ事も多く、同時にまた松山の狭い天地を出て初めて大きな都に出たという満足の下にその千年前の旧都を飽きもせずに彷徨《うろつ》き廻る日も多かった。歴史があり、物語があり、繁華がある。それらは暫《しばら》くの間若い心を躍らせて常に憧憬の衢《ちまた》であった東都の空を想う念も暫くの間は薄らいでいた

 その時突然机上に落ちた一個の郵便は暫く静まっていた余の心をまたさわ立たしめずにはおかなかった。それは『俳諧《はいかい》』と題する雑誌であって、居士が伊藤|松宇《しょうう》、片山|桃雨《とうう》諸氏と共に刊行したものであって、その中には余が居士に送った手紙の端に認めておいた句が一、二句載っていた。碧梧桐君の句も載っていた。――碧梧桐君は一年休学したために中学の卒業は余よりも一年遅れその頃まだ京都へは来ていなかったのである。そうして子規居士との音信の稀《まれ》であったにかかわらず余と碧梧桐君との間の書信の往復は極めて頻繁《ひんぱん》であった。それには文学以外の記事も多かった。――自分の作句が活字となって現われたのは実にこの『俳諧』を以て初めとする。そうして我らの句と共に並べられた名前に鳴雪《めいせつ》、非風《ひふう》、飄亭《ひょうてい》、古白《こはく》、明庵《めいあん》、五洲《ごしゅう》、可全《かぜん》らの名前があった。これらは皆同郷の先輩であったが非風、古白、可全三君の外は皆未見の人であった。明庵というのは前の大蔵次官の勝田主計《しょうだかずえ》君の事である。

 藤野古白君[(1871-1895)正岡子規の従弟に当たり、文学を志すも東京専門学校入学の後、ピストル自殺を図った]は子規居士よりも前に知っていた。そうして京都では何人よりも一番この古白君に出逢う機会が多かった。それは余の学校の保証人|栗生《くりふ》氏は古白君の姻戚[(いんせき)結婚して出来た親類]で、古白君は帰郷の往還《ゆきかえり》によくその家に立寄ったからであった。ある時は古白君と連立って帰郷し、帰路大阪へ立寄って文楽《ぶんらく》[大阪に誕生した人形浄瑠璃の一座のこと]を一緒に聞いた事もあった。

 余は聖護院《しょうごいん》の化物屋敷という仇名《あだな》のある家に下宿していた。その頃は吉田町にさえ下宿らしい下宿は少なかった。まして学校を少し離れた聖護院には下宿らしいものはほとんどなかった。此の化物屋敷も土塀《どべい》は崩れたまま、雨は洩るままと言ったような古い大家にごろごろと五、六人の学生が下宿していた。ある日、すぐ近処の聖護院の八ツ橋を買って食っているとそこへ突然余の名を指して来た客があった。それは子規居士であった。そこでどんな話をしたか忘れたが、とにかく八ツ橋を食いながら話した。この時子規居士はいよいよ文科大学の退学を決行して日本新聞入社という事に定《き》まり家族引連れのため国へ帰るところであった。それから二人は連立って散歩に出た。この時の居士はかつて見た白木綿の兵児帯姿ではなく瀟洒《しょうしゃ》[すっきりしていてあか抜けしている様子/俗を離れてあっさりしている様子]たる洋服に美くしい靴を穿《は》いていた。二人はまず南禅寺へ行って、それから何処《どこ》かをうろついて帰りに京極の牛肉屋で牛肉と東山名物おたふく豆を食った。

 その翌々日余は居士を柊屋[(ひいらぎや)現在も京都市中京区にある老舗旅館。1818年に運送業商業などを開始し、1864年より宿屋を本業へとあらためたとある]に訪ねた。女中に案内されて廊下を通っていると一人の貴公子は庭石の上にハンケチを置いてその上をまた小さい石で叩いていた。美くしい一人の女中は柱に手を掛けてそれを見ながら何とか言っていた。その貴公子らしく見えたのは子規居士であった。

「何をしておいでるのぞ。」と余は立ちどまって聞くと、

「昨日高尾に行って取って帰った紅葉をハンケチに映しているのよ。」と言って居士はまだコツコツと叩いた。柱に凭《もた》れている女中は婉転《えんてん》[ゆるやかに動く様子/淀みのないよい調子/美しい眉の様子]たる京都弁で何とか言っては笑った。居士も笑った。余はぼんやりとその光景を見ていた。たしかこの日であったと思う。二人が連立って嵐山の紅葉を見に行ったのは。

 当時を回想する余の眼の前にはたちまち太秦《うずまさ》あたりの光景が画の如くに浮ぶ。何でも二人は京都の市街を歩いている時分からこの辺に来るまで殆ど何物も目に入らぬようにただ熱心に語り続けていた。それは文学に対する前途の希望を語り合っているのであった。子規居士の顔の浮きやかに晴れ晴れとしていた事はこの京都滞在の時ほど著しい事は前後になかったように思う。何《なん》にせよ多年の懸案であった学校生活を一擲《いってき》[一度にすべてを擲(なげう)つこと]して、いよいよ文学者生活に入ることになったのであるからその、一言一行に生き生きした打晴れた心持の現われているのも道理あることであった。

 二人は楽しく三軒家で盃を挙げた。それから船に御馳走と酒とを積み込ませて大悲閣[(だいひかく)]まで漕ぎ上ぼせた。船に積まれた御馳走の皆無になるまで二人は嵐山の山影を浴びて前途の希望を語り合った。後年子規居士は、自分はあの時ほど身分不相応の贅沢《ぜいたく》をした事はない、と言った。

 話がちょっともとに戻るが、居士が「月《つき》の都《みやこ》」という小説を苦心経営したのは余がまだ松山にいる頃であったと記憶する。居士は初めこれを処女作として世に問う積りであったらしいが、稿を終えて後ち、かえってこういう意味の事をその書信の中にもらして来た。「余は人間は嫌いだ、余の好きなのは天然だ。余は小説家にはならぬ。余は詩人になる。」言葉は長かったが意味はこの外に出なかったと思う。殊にその詩人という字には二重圏点[(けんてん)文字の横に付ける点や丸などの記し。要点や強調などを行う]が施してあったと記憶する。居士がその後一念に俳句革新に熱中したのはこの時の決心が根柢になっていることと思う。そこでその「月の都」を懐にして露伴和尚を天王寺畔に訪うた時[子規は1892年の2月に幸田露伴のもとを訪れている。その7月に退学を決意し故郷へ戻る途中が、ここに描かれている。この時、京都までは夏目漱石氏が一緒にいた様子である]も、小説談よりもかえって俳句の唱和の方が多かったようである。

 京都清遊[風流なあそびをすること。手紙などで、相手の遊びや旅行を敬って言ったりする]の後、居士はたちまち筆硯《ひっけん》[筆と硯(すずり)のこと/そこから、文章を記すこと]鞅掌《おうしょう》[(背に荷(にな)い、手に捧げる意)いそがしく働いて暇のないこと(広辞苑より)]する忙裡《ぼうり》[忙しいとき、忙しくしているさなか]の人となった。けれども閑《かん》を得れば旅行をした。「旅の旅の旅」という紀行文となって『日本』紙上に現われた旅行はその最初のものであった。この時分から居士の手紙には何となく急がしげな心持がつき纏《まと》っていた。染々《しみじみ》と夜を徹して語るというようなゆったりした心持のものはもう見られなくなった。その旅中伊豆の三島から一葉の写真を余の下宿に送ってくれた。それは菅笠を下に置いて草鞋《わらじ》の紐《ひも》を結びつつある姿勢で、

   甲かけに結びこまるゝ野菊かな

という句が認《したた》めてあった。余は京都に在る間『日本新聞』[1889年から1914年まで刊行された新聞。初代の社長である陸羯南(くがかつなん)が主筆をも務めた]は購読しなかったのであるが、この紀行と前後して居士の俳論、俳話は日々の紙上に現われてそれらは俳句革新の警鐘となりつつあるのであった。後年『獺祭書屋俳話《だっさいしょおくはいわ》』として刊行されたものがこれである。

 その春休みは月の瀬近傍に発火演習を遣る旨が学校の講堂に掲示された時余は誰にも言わず一人で東京行きを志した。一日の費用拾五銭という予算で徒歩旅行を始めたのであった。けれどもそれは名古屋を過ぎ池鯉府《ちりゅう》に行って遂に底豆を踏み出し、行こうか帰ろうかと刈谷の停車場で思案した末遂に新橋までの切符を買ってしまった。子規居士は驚いて余を迎え小会を旧根岸庵――今の家より二、三軒西の家――に開いてくれた。その時は鳴雪、松宇、庵主、余の四人の会合であったかと思う。そうして余は二、三日滞在の上帰路は箱根を越え、富士川を渡り、岩淵停車場まで徒歩し、始業の時日が差迫ったためにそれからまた汽車に乗って帰った。同級生は皆月の瀬の勝《しょう》を説いていたが、余は黙って、根岸庵小会の清興を心に繰返えしていた。

 さて京都の一年も夢の間に過ぎた。余はその前年の冬休みにもその年の夏休みにも帰省した。が別に文学上の述作をするのでもなく、あまり俳句を作るでもなく、碧梧桐君と一緒に謡《うたい》など謡って遊び暮らした。こういうと極めて暢気《のんき》なようであるが、実にその京都遊学の一年間は、精神肉体共に堪え難き苦痛と戦った時代であった。それは何冊かの日記になって今もなお篋底《きょうてい》[箱の底、箱のなか]に残って居る。吉田町の何とかいう開業医は余に一年間の静養を勧めた。けれども余は思い切って休学する勇気もなかった。

 夏休み二カ月の放心は大分元気を回復して、今度は碧梧桐君と相携えて再び京都に出た。それから余は同好数人と共に回覧雑誌を創《はじ》めたり、小述作を試みて見たりした。鳴雪[(1847-1926)伊予松山藩士である内藤同人の長男として江戸に生まれ、長州討伐などにも従軍したが、明治維新後は役人として務める。俳句への好奇心を抑えられず、子規一味の年長者(翁)としてグループの一員となっていた]飄亭[五百木飄亭(いおきひょうてい)(1870-1937)子規の友人であり、後に新聞『日本』に入社]の二君は相ついで吉田の虚桐庵またの名双松庵を訪問した。――余と碧梧桐君と同宿していた下宿を、他にも同宿人があるにかかわらず我らは僭越《せんえつ》[自分の身分や地位よりも出過ぎた真似をすること]にもかく呼んでいた。そうして俳句の友、謡の友は此処《ここ》を梁山泊[(りょうざんぱく)水滸伝で豪傑たちが集結した盗人のねぐら]のようにして推しかけて来た。――鳴雪翁の一句を得るに苦心|惨澹《さんたん》[見るも無惨な様子/こころを砕いて思い悩むこと(苦心惨憺)]せらるると、飄亭君の見るもの聞くものことごとく十七字になるのとは頗《すこぶ》る我ら二人を驚かすものがあった。かくして直ちに文学者の生活に移るべく学校生活を嫌悪するの情は漸くまた抑えることが出来なくなって来た。かくしてその学年の終らぬうちに余は遂に退学を決行して東京に上った。

 [朗読3]退学を決行して東京に上った余は大海に泳ぎ出た鮒《ふな》のようなものでどうしていいんだか判らなかった。関根|正直《まさなお》氏の『小説史稿』や、坪内逍遥氏の『小説神髄』や『書生気質《しょせいかたぎ》』や『妹背鏡《いもせかがみ》』や、森鴎外氏の『埋木《うもれぎ》』やそんなものを古書肆[(こしょし)「書肆」は本屋の意味]から猟《あさ》って来てそれらを耽読《たんどく》[夢中に読みふけること]したり上野の図書館に通って日を消したりしながら、さて小説に筆を染めて見ようとすると何を書いていいんだか判らなかった。初めは鳴雪翁の監督の下に在る常磐会《ときわかい》寄宿舎[旧松山藩の子弟用に東京に置かれた寄宿舎、同郷の旧藩士の師弟たちをサポートする役割を果たした。鳴雪はここの監督役を仰せつかりながらも、寄宿舎内で開かれる子規の俳句ライブに混ざり込んで、一部の寄宿生から白い眼で見られていたようである]に居たが、やがて子規居士の家に同居することになってからも居士の日本新聞社に出勤した留守中居士の机に凭《もた》れて見たり、居士の蔵書を引ずり出して見たりするばかりで、相変らずどうして文学者になるんだか見当が附かなかった。京都にいた時分は俳句の会合も羨望[うらやましく思うこと]の一つであったのだが、上京後子規庵その他で催される俳句会に出席して見ると思うほどの興味もなく、かつて春休みに出京した時の句会ほど好成績も収められなかった。それに誰も皆気の毒そうな眼をして余を眺め、この道楽ものの行末がどうなることかと言い合わしたように余を憫殺《びんさい》[=(びんさつ)取るに足りないというような憐れみをもって黙殺すること、だそうである]するものの如く見えるので、余の自負心を傷《そこな》うこと夥《おびただ》しく、まずそういう処に出席するよりもと、寧ろ広漠[広く果てしない様子]な東京市中をただ訳もなく彷徨《うろつ》き廻る日の方が多かった。浅草の観音堂から玉乗り、浪華踊[(なにわおどり)]、向島、上野、九段、神田、本郷の寄席を初めとして、そんな処に日を消し夜を更かすことも珍らしくなかった。

 子規居士は心配して、ある時余に、

「どうおしる積りぞな。」と聞いた。余は何とも答える事が出来なかった。

「とにかく何でも書いて御覧や。文章が出来なけりゃ俳句だけでも熱心に作って御覧や。」と居士は更に忠告した。去年京都の嵐山で前途を語り合った時とは総ての調子がよほど違っていた。これも余の自負心を傷けることが少くなかった。

 ある時日本新聞社に来ておった案内状とパッス[ようするにチケット]を居士は余に持って帰ってくれて小金井の桜を見に行けと勧めた。余はこの時初めて汽車の二等に乗って小金井の桜なるものを見に行った。その紀行文を『日本新聞』に書かなければならなかったのだが、余は遂に何ものをも書かなかったように思う。その後ち百花園の春色を描いた文章を居士に見てもらったら居士は絶望したように、

「こりゃ文章になっておらん。第一これじゃ時間の順序が立っていないじゃないか。それに場所も判《はっ》きりしない。」と言って、例の皮肉な調子で、「お前はもう専門家じゃないか。学校に通学している傍で作る文章ならこの位でもよかろうけれど、学校まで止めてかかった人としてはこんな事ではいかんじゃないか。」

 余はまた広漠な東京市中を訳もなく彷徨き廻るのであった。

 これより先子規居士は『日本新聞』の分身である『小日本』という新聞を経営しておった。それには五百木《いおき》飄亭君も携わっていた。この新聞は相当に品格を保って、それで婦女子にも読ますようなものを作ろうというのであったが、元来売行が面白くなかった上に、やがて日清戦争が起ったためにその維持が出来なくなり遂に廃刊の止むなきに至った。その当時に起った主要な事件を列挙すると、

 浅井|忠《ちゅう》[(1856-1907)明治の洋画家。1900年にフランス留学を行う。子規も画を習ったりしている]氏の紹介で中村|不折《ふせつ》君[(1866-1943)洋画家にして書家。やはりフランスに留学している。漱石の『吾輩は猫である』の挿絵を描いたことでも知られる]が『小日本』に入社。

 石井露月《いしいろげつ》君[(1873-1928)俳句にのめり込むも、後には医者となる]が校正として『小日本』に入社。

 斎藤緑雨《さいとうりょくう》君[(1868-1904)小説家、批評家]が何とかいう時代物の小説を『小日本』に連載。

 緑雨君の弟子たる小杉天外君[(きすぎてんがい)(1865-1952)『魔風恋風(まかぜこいかぜ)』という若者向けの恋愛ものがヒットした]が初めて「蝶ちゃん」(?)という小説を『小日本』に連載。これが天外君の初舞台?。

 子規居士既作の処女作「月の都」を『小日本』紙上に連載、続いて「一日物語《いちにちものがたり》」その他を連載。

『小日本』紙上にて俳句を募集。その応募者のうちに把栗《はりつ》、墨水《ぼくすい》、波静《はせい》、梅龕《ばいがん》、俎堂《そどう》等の名を見出した事。

等。

 さて句会は月に一会以上諸処に催おされて、その出席者は居士、鳴雪、飄亭、非風、古白、牛伴《ぎゅうはん》(為山)、松宇、桃雨、猿男《さるお》、得中《とくちゅう》、五洲、洒竹、紫影《しえい》、爛腸《らんちょう》(嶺雲)、肋骨《ろっこつ》、木同《もくどう》、露月、把栗、墨水、波静、虚子らの顔触《かおぶれ》であったかと記憶して居る。この中《うち》にはまだこの頃は面《かお》を出さず、『小日本』廃刊後になって初めて出席した人が誤って這入《はい》っているかも知れぬ。

 居士も飄亭君も殆ど全力を上げて『小日本』に尽していた。何にせよ記者はこの二人を中心にして他に二、三人あるかないか位なのだからその骨折というものは一通りではなかったようである。別に外交記者も置いてなかったので、通信種を引延ばせて面白くするのが専ら飄亭君らの役目であったらしく記憶して居る。例えば何月何日に雷《らい》が鳴って何とかいう家におっこちたという通信種を、その家の天水桶[(てんすいおけ)防火用に溜め置かれた雨水桶のこと]に落雷して孑孑《ぼうふり》[=(ぼうふら)蚊の幼虫で、水の中でうにょうにょしてる奴ら]が驚いたという風に書いて、その孑孑の驚いたという事が社中一同大得意であったかと記憶する。

 居士は朝起きると俳句分類に一時間ばかりを費し、朝寝坊であったから間もなく出社、夕刻、ある時は夜に入り帰宅。床の中に這入ってから翌日の小説執筆、十一時、十二時に至りて眼《ねむ》るというような段取りであった。そうしてこの床の中に這入ってからの小説執筆が遂に余の役目になって、居士の口授を余は睡魔を抑えつつ筆記しなければならぬ事になった。余は一方《ひとかた》ならず此の筆記に悩まされたものだ。「一日物語」はこの床の中での製作である。

「不折という男は面白い男だ。」と居士は口癖のようによく言っていた。「お前も逢って御覧、画の話を聞くと有益な事が多い、俳句に就いての我らの意見とよく似て居る。」

『小日本』紙上には不折君の画に居士の賛《さん》をしたものが沢山に出た。

 石井露月君が初めて入社と極《きま》った時に、何でも居士は、

「僕の家《うち》に虚子という男が居る、遊びに行って見給え。」とでも言ったものと見える。居士の留守中に露月君は遣って来た。そこで余は座敷に火鉢を隔てて相対して坐った。余はこの時つくづく露月を変な男だと思った。シンネリムッツリで容易に口を開かない。そうして時々笑う時には愛嬌《あいきょう》がある。その時余は、

「君は天然が好きですか、人事が好きですか。」という質問を発した。それに対する露月君の答は、

「天然の中《うち》に在る人事、人事の中に在る天然が好きです。」というのであった。その頃から露月君は老成していた。そうして後年何かの紙上に、当時の余の質問の事を書いて、

「……というような大分早稲田|臭《くさ》いことを言われた。」と冷かしていたかと思う。

 この頃居士はもう今の家に移っていたのだが、棟続きの隣の家に松居松葉《まついしょうよう》君[(1870-1933)小説家、翻訳家、歌舞伎座の作家でもある]が一時住まっていた事があった。裏庭伝いに訪ねて来て雑談をして帰ったこともあったかと思う。また『早稲田文学』に何か俳句に関することを書いてもらいたいと言って島村抱月君[(しまむらほうげつ)(1871-1918)劇作家、演出家など。特に新劇運動の旗手として知られる]が居士を訪問して来た事もあった。

 余はいつまで経《た》っても、小説はもとより多少|纏《まとま》った文章をも仕上げる事が出来なかった。遂に意気地なくも復校と決して、その事を京都の碧梧桐君に交渉すると、ともかく京都へ来い、大概は出来る見込みだが、一度当人に会って見ねば確答する訳に行かぬと主任教師がいうと言って来た。そこで在京日数およそ二百日の後、余は空しくまた京都に逆戻りと決し、六月何日に根岸庵を出て木曾路を取ることに極《き》めた。古びた洋服に菅笠、草鞋《わらじ》、脚絆《きゃはん》という出立《いでた》ち。居士が菅笠に認《したた》めくれたる送別の句、

   馬で行け和田塩尻の五月雨  子規

 余はそれに同行二人《どうぎょうににん》、行雲、流水と書き添えて、まず軽井沢まで汽車に乗り、そこから仲山道、木曾路と徒歩旅行を試み、美濃の山中で物好きに野宿などをし、岐阜からまた汽車に乗って京都に入った。旧知の山川に迎えられて、今は碧梧桐、鼠骨両君の住まっている、もとの虚桐庵に足踏み延ばしてその夜は熟睡した。

 [朗読4]京都に着いた翌日早速碧梧桐君と連れ立って余のクラスの受持であった服部宇之吉先生の家を訪問した。宇之吉先生は綺麗《きれい》に油で固めた髪を額に波打たせその下に金縁眼鏡を光らせつつ玄関に突立って、

「もう二度と勝手なことをしなければ今度だけは復校を許すことにする。勿論前の級には駄目だから次の級に入れる。それで君も知っている通り今度高等学校制が変って京都の大学予科は解散することになったから、他の学校に生徒を分配する。君は鹿児島の造士館に行くことになっている。」との事だ。鹿児島と聞いて余は失望した。

 もっとも東京から手紙で碧梧桐君に交渉した時にも鹿児島なら欠員があるから許してもいいというような話であったとの事であったので、どうか他の学校の方に運動して見てくれぬか、一高が出来れば申分ないが、それがむずかしければ二高でも四高でもいいなどと言って遣って碧梧桐君を労しておいたのだが、やはり鹿児島でなけりゃ駄目なのかと余はギャフンと参った。今考えれば鹿児島などかえって面白かったかとも思うのだが、その頃は造士館というとまだ大分蛮風[(ばんぷう)野蛮な風習]の残っている話が盛んで、生温《なまぬる》い四国弁などでぐずぐずいうと頭から鉄拳《てっけん》でも食わされそうな心持もするし、それにまだその頃は九州鉄道も貫通していなかった頃で交通も不便だし、京都から移って行く文科の男は他に一人もなさそうだし、頗《すこぶ》るしょげざるを得なかった。

 しかしこれは服部先生の思惑違いであって、余はやはり碧梧桐君などと共に二高――仙台――に行く事に極った。

 大学予科の解散という事は生徒に取っては一方ならぬ動揺で何百人という人が一時に各地に散る事になったので痛飲[(喜びでなく)大いに酒を飲むこと]悲歌の会合が到る処に催おされた。しかし今の余に取っては前の同級生は最早《もはや》上級生で、今度の同級生たるべき人には二、三氏の外は親しみがないのでそのどの会合にも加わらなかった。そうしてただ碧、鼠二君らと共に悠遊[(ゆうゆう)ゆったりと遊ぶこと]した。多くの人が行李《こうり》[旅などで使用する荷物入れの名称/そこから旅行の荷物そのもの]を抱いて一度郷里に帰り去って後も我らはなお暫く留まって京洛の天地に逍遥《さまよ》うていた。

 それから夏季休暇は松山で過ごして碧梧桐君と相携えて東京を過《よ》ぎり仙台に遊んだのは九月の初めであった。この時東京で俳句会のようなものがあったかなかったか、そういう事は全く記憶に残っておらぬ。しかし同郷の多くの先輩に一度廃学の遊蕩子《ゆうとうし》[遊蕩するような、すなわち酒や女などに遊びふける人物]と目されていたものが、ともかく再び高等学校生徒として上京して来たのであるから、それらの人々から祝福を受けたことは非常なものであった。

 余は手荷物を預けてしまって上野ステーションの駅前の便所に這入った時、余の服装が紺飛白《こんがすり》の単衣《ひとえ》と白地の単衣との重ね着であった事をどういうものだか今だに記憶して居る。汽車が白河の関を過ぎた頃から天地が何となく蕭条《しょうじょう》[物寂しげな様子]として、我らは左遷[もと中国で、より高位の右の官職から、左の官職へ落とすこと。そこより、低い地位へ落としたり、僻地、遠地へ官職を変えて流すこと]されるのだというような一種の淋しい心持を禁ずることが出来なかった。乗客の中《うち》にだんだん東音の多くなって来る事も物淋しさを増す一つの種であった。

 さて仙台駅に下車して見ると、それは広い停車場ではあったが、何処《どこ》となくガランとしていて、まだ九月の初めであるというのに秋風らしい風が単衣の重ね着の肌に入《し》みた。車を勧めに来た車夫のもの言いが皆目《かいもく》判らなかった。碧梧桐君の親戚の陸軍大尉(?)宇和川氏の家にともかく一応落着いて、二人は素人下宿を探しに出た。そうして新町四十七番地鈴木芳吉という湯屋の裏座敷を借りて其処《そこ》に二人は机を並べ行李を解いた。其処に年とった上《かみ》さんと若い上さんと二人あったが、二人共早口でその話すことが暫くの間全く通じなかった。この銭湯の主人公の姓名を今なお不思議に記憶しているのも、スンマツスツジウスツバンツスズキヨスキツとそのお上さんたちが言った言葉をその後になって口癖のように面白がって繰返していたからである。

 学校は町外れにあったかと思うが、余はこの学校では講堂と教室と下駄箱と器械体操の棚だけを記憶して居る。転学後間もなく我らは講堂に召集されて吉村校長からデグニチー[dignity[ディグニティー]厳粛/気品、品位]という事を繰り返して説法された。この説法がひどく余の気に入らなかった。三高では折田校長が声を顫《ふる》わせて勅語を朗読さるる位の外あまり顔も出さず、小言も言われなかったが、それでも一高に比べると校風がどことなくこせついているというような不平が一般の口から洩れていた。ところが二高に来て見ると、これはまた京都以上に細々した事が喧《やかま》しかった。第一靴を脱いで上草履に穿き替えなければ板間に上ることが出来なかった。余の頭に下駄箱の厭な印象が深く染み込んでいるのはこのためで、ついでこの講堂に於ける、人を子供扱いにしたデグニチー論がひどく神経に障《さわ》った。それから教室に於いては湯目《ゆめ》教授の独逸《ドイツ》語がひどく神経に障った。殊に教授は意地悪く余に読ませた。そうして常に下読を怠っていた余は両三度手ひどく痛罵《つうば》[はげしく罵ること]された。それからまた体操の下手な余は殊に器械体操に反感を持っていた。ある時、

「下駄を穿《は》いているものは跣足《はだし》になる。」と体操教師は怒鳴った。多くの人は皆跣足になった。余と碧梧桐君とは言合わしたように跣足にならなかった。順番が来て下駄を穿いたままで棚に上ろうとすると教師は火の出るように怒った。多くの生徒はどっと笑った。それから棚に上ろうとして足をぴこぴこさせても上れなかった時に多くの生徒は再びどっと笑った。これから後《の》ち器械体操に対する反感はいよいよ強くなって休むことが多かった。湯目教授の独逸語もよく休んだ。

 その頃同級生であって記憶に残っているものは久保|天随《てんずい》、坂本|四方太《しほうだ》[(1873-1917)鳥取県出身で、後に子規組の一員となる]、大谷|繞石《じょうせき》、中久喜信周《なかくきしんしゅう》諸君位のものである。久保君は向うから突然余に口を利いて『尚志会雑誌』に文章や俳句を寄稿してくれぬかと言った。余はその頃国語の先生が兼好法師の厭世《えんせい》思想を攻撃したのが癪《しゃく》に障ってそれを讃美するような文章を作って久保君に渡したことなどを記憶している。その後久保天随君[(1875-1934)中国文学者]の名は常に耳にしているが、今でも余のデスクの傍に来て文章を書く事を勧めた時のジャン切り頭、制服姿が君の印象のすべてである。その後余は天随君には一度も逢わないのである。

 坂本四方太、大谷繞石の二君はやはり京都よりの転学組に属する。大谷繞石君は京都でもよく往来《ゆきき》した。一緒に高知の人吉村君に剣舞[(けんばい・けんまい・けんぶ)特に東北地方の仙台以北の太平洋側に分布する剣を使った伝統芸能]を習ったりした。「孤鞍衝雨《こあんあめをついて》」などは繞石君得意のもので少女不言花不語《しょうじょものいわずはなかたらず》の所などは袖《そで》で半《なか》ば顔を隠くして、君の小さい眼に羞恥《しゅうち》の情を見せるところなど頗《すこぶ》る人を悩殺するものがあった。余も東京に放浪中は酒でも飲むとこの京都仕込みの剣舞を遣ったが、東京の日比野|雷風《らいふう》式[明治になって日比野雷風が開いた神刀流(しんとうりゅう)という抜刀と剣舞の一派]の剣舞に比較して舞のようだという嘲罵[(ちょうば)あざけり罵ること]を受けたので爾来《じらい》[それより後]遣らぬことにした。

 余が京都で無声会という会を組織して回覧雑誌を遣っていた時も繞石君はその仲間であった。――序《つい》でに無声会員は栗本勇之助、金光|利平太《りへいだ》、虎石|恵実《けいじつ》、大谷繞石、武井|悌四郎《ていしろう》、林|並木《へいぼく》、岡本勇、河東碧梧桐、高浜虚子という顔振れであった。栗本勇之助君は今は大阪の弁護士、金光君は今は亀山姓を名乗って台湾総督府の警務総長、虎石君は岡崎中学校の教授、武井君は京都高等女学校の校長、林、大谷、岡本三君は揃いも揃って第二高等学校教授をしておる。――坂本君は京都では覚えがなかった。ただ後になって余が京都着早々行李を下ろした上長者町の奥村氏の家に余が去ったあとへ移って来たことがあったという話を聞いた。

 その大谷君と坂本君とがある日連れ立って銭湯の裏座敷の余ら寓居を訪問して来た。二君の来意はこれから一つ俳句を遣って見たいと思うが教えてくれぬかとの事であった。二君が熱心な俳句宗となったのは後に子規居士の許《もと》に直参してからの事であったが手ほどきはこの鈴木芳吉君の裏座敷であった。

 碧梧桐君も余もだんだん学校へは足を向けなくなった。余は東京で買った文学書類に親しんだり、文章を書いて見たりした。碧梧桐君も同じような事をしていた。日暮になると二人は広瀬橋畔に出て川を隔てて対岸の淋しい灯火《ともしび》を見ることを日課にしていた。その灯火をじっと見ていることは腸《はらわた》を断つように淋しかった。

 その灯火もだんだんと寒くなって来た。我らは行李から袷《あわせ》を出し綿入を出して着た。銭湯の裏座敷に並べた机の上の灯火も寒い色が増して来た。

 仙台に留まることは三月ばかりに過ぎなかった。二人は協議の上また退学という事に決した。

 名残《なごり》として松島を見物した。塩釜神社の長い石段も松島の静かな眺めも何となく淋しかった。松島から帰った日、今の工科大学教授加茂正雄君、昨年露国|駐剳《ちゅうさつ》大使館一等書記官として亡くなった小田徳五郎君らの周旋の下に京都転学組一同は余ら二人の送別茶話会を開いてくれた。小田君が送別の辞を陳《の》べてくれたので、余は答辞を陳べねばならぬことになり、頗るまずい演説をした。碧梧桐君は松島遊覧の発句を一句高誦して喝采《かっさい》を博した。

 日清戦争[1894年7月−1895年3月]はこの仙台在学中に始まっていた。保証人の宇和川大尉は出征後間もなく戦死した。

 [朗読7]碧梧桐君と二人で仙台の第二高等学校を退学して上京してからは二人とも暫時の間根岸の子規居士の家に居た。そのうち碧梧桐君は居士の家に止まり余は小石川武島町に新世帯を持っている新海非風君の家に同居することになった。

 この間も発句を作る位の外あまり勉強もしなかった。初め別居したのは、別居していくらか勉強もするつもりであったのだが、事実はそうもいかなかった。そうして余が碧梧桐君を訪わねば碧梧桐君が余を訪うて二人でよくぶらぶらと東京市中を歩き廻った。

 ある時子規居士は余の不勉強の主因を非風君の家に同居しているのに在るとして、

「家がも少し広ければお前も一緒に居てもいいけれど、秉公《へいこう》一人だけでも母なんか大分急がしそうだから二人はむずかしかろう。下宿でもして見てはどうかな。」と勧めた。余も遂にその気になって本郷台町の柴山という下宿に卜居《ぼっきょ》[もとは、土地を占って住みかを定めること。そこからよい住居を定めること]することにした。居士は早速その家へ訪ねて来て、

これは以前に夏目漱石の居た家じゃ。それでお前何でもええから自分の好きな事を遣って御覧や。」そんな事を言って帰った。

 この宿に碧梧桐君が来たかどうかという事を覚えて居ぬ。ただやや静かな心持で余は書物に親しんで居ったように記憶して居る。そうしてある哲学めいた一文章を認めて居士に送った。居士はその後間もなく再び下宿を訪うて居士自身の哲学観を陳《の》べた一篇を渡した。この一篇は今も獺祭書屋の居士の文稿のうちに残って居る。

 居士はそんな事をして余らを激励する事を怠らなかった。

 日清戦争はますます酣《たけなわ》[物事の一番の盛りをあらわす場合と、少し過ぎた頃をあらわす場合がある]となって『日本新聞』からは沢山の記者が既に従軍したが、なお一人を要するという時に居士は進んでこれに当ることになった。余らは居士の病躯《びょうく》[病気の体。病身]で思いもよらぬ事だと思ったが、しかし余らのいう事はもとより容《い》れなかった。居士は平生、

「お前は人に相談という事をおしんからいかん。自分で思い立つと矢も楯もたまらなく遣っておしまいるものだから後でお困りるのよ。」とよく余に忠告したがしかしそれには余は服さなかった。如何《いかん》となれば居士もまた同じような人であったからである。ただ晩年になっては些細《ささい》の私事までも人に相談せねば断行せぬような傾きのあったのは一つは病重く自分の体でありながら思うままにならぬ所もあり、二つには自重して軽挙しなかったところもあろうが、三つにはまたよく前途を明察して後に発する言なればその言うところ必ず行われざるなく、いわば他人を悦服[(えっぷく)よろこび従うこと]せしむるためにただそれだけのステップを踏んだというのに過ぎなかった。その自我心の強く一旦思い立った事を容易に撤回するような人でなかった事は事実が一々これを証明する。この従軍志望の如きはその著しきものの一つである。晩年に在っても興津移転問題[子規は晩年、静岡県静岡市の沖津へ転住しようとしたが果たせなかった。もともと東海道の宿場町で、明治以降別荘地にもなっていた場所である]の如きはその最も露骨なるものであって、もし居士の体が今少し自由が利いたなら居士は何人の言をも排して断行したに相違なかった。もっとも居士は軽挙はしなかった。けれども居士の口より何故に人に相談せぬかとの非難を受くることは余の甘受し難きところのものであった。

 居士は一夕碧梧桐君と余とを携えてそこに別離を叙し別るるに臨んで一封の書物《かきもの》を余らに渡した。それは余らを訓戒[(くんかい)教え諭して戒(いまし)めること]するというよりも寧ろ居士自身の抱懐[(ほうかい)こころに抱いた思い、考え]を述ぶる処のものであった。居士はこの従軍を以て二個の目的を達するの機運とした。その一は純文学上の述作、その二はこの事もし能わずともこれによって何らか文学上の大事業を為し得可《うべ》しというに在った。

 旧暦の雛《ひな》の節句前後居士は広島の大本営[(ウィキペディアより)大本営(だいほんえい)は、日清戦争から大東亜戦争にかけての戦時中・事変中に設置された大日本帝国陸軍および海軍の最高統帥機関である。天皇の命令(奉勅命令)を大本営命令(大本営陸軍部命令(大陸命)、大本営海軍部命令(大海令))として発令する最高司令部としての機能を持つ]に向って出発した。余はどういうものだかその新橋出発当時の光景を記憶して居らぬ。ただ居士が出発当日の根岸庵の一室を記憶して居る。

 居士は新調の洋服を着つつある。その傍には古白君が、

「万歳や黒き手を出し足を出し……。」と何かにこういう居士の句の認めてあるのを見ながら、「近頃の升《のぼ》さんの句のうちでは面白いわい。」と何事にも敬服せない古白君は暗に居士の近来の句にも敬服せぬような口吻《こうふん》[くちばし/言いぶり、口ぶり]を漏らした。居士は例の皮肉な微笑を口許に湛《たた》え額のあたりに癇癪《かんしゃく》らしい稲妻を走らせながら、

「ふうん、そんな句が面白いのかな。それじゃこういうのはどうぞな。……運命や黒き手を出し足を出し……その方が一層面白かあないかな。ははははは。」

 それは古白君は今の抱月、宙外《ちゅうがい》諸君と共に早稲田の専門学校に在って頻りに「運命」とか「人生」とかいう事を口にしていたので、元来それが余り気に入らなかった居士は一矢を酬《むく》いたのである。古白君も仕方なしに笑う……こんな光景がちぎれた画のように残っている。

 しかもこれが互に負け嫌いな居士と古白君との永久の別離であったのである。

 居士は大分長い間広島に在った。容易に従軍の令が下らなかったので他の多くの記者と共に当時のいわゆる従軍記者らしい行動に退屈な日を送っていたらしかった。この間には一つの文章も纏った句作もなかったようである。久松《ひさまつ》伯から貰った剣を杖づいて志士らしい恰好《かっこう》をして写した写真が当時の居士を最もよく物語っているものではあるまいか。大本営の置かれてあった当時の広島の常軌を逸した戦時らしい空気は居士の如き人をすら足を地に定着せしめなかったのであろう。

「毎日何するという事もなしにごろごろしていて、それでいつ夜中《やちゅう》に俄然《がぜん》[だしぬけに]として出発の令が下るかも判らんから、市中以外には足を踏み出すことは出来ないというのだもの。全くあの間は弱らされたよ。」と居士は後になって話していた。

 従って居士から余らに宛て、その起居を報ずるような手紙をよこすことは極めて稀であったが、ただ居士の留守中碧梧桐君と余との両人に依託された『日本新聞』の俳句選に就いて時に批評をしてよこした。この頃余は碧梧桐君と協議の上本郷竜岡町の下宿に同居していた。そうして俳句はかなり熱心に作っていた。

 余は桜花満開の日青木|森々《しんしん》君と連れ立って大学の中を抜けておると医科大学の外科の玄関に鳴雪翁が立っておられて我らを呼びとめられた。翁の気色《けしき》が常ならんので怪みながら近よって見ると、

古白が自殺してなもし。今入院さしたところよなもし。」と言われた。それで余らはすぐその足で病室に入って看護することになった。ピストルの丸《たま》は前額に深く這入っていたがまだ縡《こと》切れてはいなかった。余はその知覚を失いながら半身を動かしつつある古白君をただ呆《あき》れて眺めた。謹厳[慎み深く厳格なこと]な細字で認められた極めて冷静な哲学的な遺書がその座右の文庫の中から発見された。

 数日にしてこの不可思議な詩人は終に冷たい骸《むくろ》となった。葬儀の時坪内先生[坪内逍遙(つぼうちしょうよう)(1859-1935)]の弔文が抱月氏か宙外氏かによって代読されたことを記憶しておる。

 子規居士は広島に在ってこの悲報に接したのであった。けれども居士がしみじみと古白君の死を考えたのは秋帰京してその遺書を精読してからであった。「古白|逝《ゆ》く」という一篇の長詩は『日本人』紙上に発表された。

 古白君の死よりも少し前であった、非風君は日本銀行の函館? の支店に転任した。

 非風君は北海道に去り、古白君は逝き、子規、飄亭両君は従軍したその頃の東京は淋《さび》しかった。それでも鳴雪翁、碧梧桐君などがいたので時々俳句会はあった。俳句談に半日を消《しょう》する位の事は珍らしくなかった。

 古白君歿後[=死後]暫くして余は京都に行った。あたかもそれは内国博覧会の開設中で疏水[水を流すこと/灌漑などのため人工的に水路を設けて流すこと、またそのような水路]の横に沢山の売店が並んでいた光景などが目に浮ぶ。

 京都には鼠骨《そこつ》君[寒川鼠骨(さむかわそこつ)(1875-1954)子規の門下の俳人だが、子規の死後、その遺品の保全に務めたことによりよく知られる人物。やはり松山の出身。1899年に田中正造の糾弾した足尾銅山鉱毒事件について、彼を紙面から擁護したりしている]がいた。鼠骨君はその頃吉田神社前の大原という下宿にいたので余は暫く其処《そこ》に同居していた。

 その時突として一つの電報が余の手に落ちた。それは日本新聞社長の陸羯南《くがかつなん》氏から発したもので、子規居士が病気で神戸病院に入院しているから余に介抱に行けという意味のものであった。

 [朗読6]神戸の病院に行って病室の番号を聞いて心を躍らせながらその病室の戸を開けて見ると、室内は闃《げき》として、子規居士が独り寝台《ねだい》の上に横わっているばかりであった。余は進んでその傍に立って、もし眠っているのかも知れぬと思って、壁の方を向いている居士の顔を覗《のぞ》き込んだが、居士は眠っていたのではなかった。透明なように青白く、全く血の気がなくなってしまっているかと思われるような居士は死んだものの如く静かに横臥《おうが》[体を横にして寝ている]しているのであった。居士は眼を瞠《みひら》いて余を見たがものを言わなかった。余も暫く黙っていたが、

「升《のぼ》さん、どうおした。」と聞いた。この時余の顔と居士の顔とは三尺位の距離ほかなかったのであるが、更に居士は余を手招きした。手招きと言ったところで、けだるそうに布団の上に投げかけている手を少し上げて僅に指を動かしたのであった。余はその意をさとって居士の口許に耳を遣ると、居士は聞き取れぬ位の声で囁《ささや》くように言った。

「血を吐くから物を言ってはいかんのじゃ。動いてもいかんのじゃ。」

 たちまち余の鼻を打ったのは血なま臭い匂いであった。居士の口中からともなく布団の中からともなく一種の臭気が人を襲うように広がった。余は憮然《ぶぜん》[失望やむなしさにぼんやりしてしまう様子/あやしみ驚く様子]として立ちすくんだ。

 その時余の後ろに立ったのは五十近い附添婦であった。余の室に這入った時たまたま外に在った附添婦は手に一つのコップを持って帰って来たのであった。居士は間もなく激しい咳嗽《がいそう》[ようするに咳のこと]と共にそのコップに半分位の血を吐いた。そういう事は一日に数回あった。その度附添婦はその赤いものに充たされたコップを戸外に持って行ってはそれを潔《きよ》めて帰って来た。時に枕《まくら》切れなどを汚すことがあるとそれも注意して取りかえたが、それでも例の血なま臭い匂いは常に室内に充ちていた。

 この病院の副院長は江馬《えま》医学士であった。これは江馬|天江《てんこう》翁の令息であって、自然羯南氏から天江翁を通じて特別に依頼でもあったのであろう、常に注意深く居士を見舞っていた。余が初めて医局に同氏を尋ねて病状を聞いた時、氏は眉をひそめて、

「少しも滋養物[滋養とは、体の栄養になること、また、栄養になるもののこと]が摂《と》れぬので一番困ります。」と言った。居士は匙《さじ》の牛乳をも摂取せぬことが既に幾日か続いているのであった。碧梧桐君の令兄の竹村|黄塔《こうとう》君は師範学校の教授をしてこの地に在住してるので朝暮《ちょうぼ》病室に居士を見舞った。

「お前が来ておくれたので安心した。」殆ど居士の生死《しょうし》を一人で背負っていたかのような感があった黄塔君は、重荷を卸《おろ》したような顔をして余に言った。それから入院費用の事やその他万般に就いて日本新聞社から依頼されていた事を黄塔君はすべて余に一任した。余は病床日誌と金銭出納簿とを拵《こしら》えて、それに俳句を書くような大きなぞんざいな字で、咯血の度数や小遣の出入《でいり》を書いた。

 附添婦というのが、あばずれた上方女であって、世間的の応対に初心であった余を頭から馬鹿にしてかかった。病室で喫煙することを厳禁したが彼女は平気で長い煙管《きせる》でスパスパと遣った。

 どうしても咯血がとまらぬので氷嚢《ひょうのう》で肺部を冷し詰めたために其処《そこ》に凍傷を起こした。ある一人の若い医師が来て見て、

「こんな馬鹿をしては凍傷を起こすのは当然だ。いくらあせったって止まる時が来なけりゃ血はとまりゃしない。出るだけ出して置けば止まる時に止まる。」

 この言葉は頗《すこぶ》る居士の気に入ったらしく病み衰えた顔に珍らしく会心の笑を洩らした。実は医師の言ったよりも大分極度に氷を用いていたので、しかも下にガーゼも何も当てないで直接に氷嚢を皮膚に押しつけるようなことをしてこの凍傷を起こしたのであって、それも居士の発意[(はつい・ほつい)思いつくこと、考え出すこと]に基いてやったのであったが、此の若い医師の言葉はすべてそれらの神経的な小細工な遣り口を嘲笑して遺す[=残す]ところがなかった。その後居士は少しも病気についてあせる容子《ようす》を見せず、安然としてただ平臥[(へいが)横になること]していた。

 けれども困った事はいつまで経っても営養物を取らない事であった。余や附添婦がかたみ代りに勧めても首を振って用いなかった。仕方がないので遂に医師は滋養|灌腸《かんちょう》を試むるようになった。居士はその時余を手招きして医師は今何をしたかと聞いた。それが滋養灌腸であることを話した時に居士は少し驚いたようであった。その後《のち》になって居士は当時の心持を余に話したことがあった。

「滋養灌腸と聞いた時には少し驚いたよ。何にせよ遼東から帰りの船中で咯血し始めたので甲板に出られる間は海の中に吐いていたけれど、寝たっきりになってからは何処《どこ》にも吐く処がない、仕方がないから皆呑み込んでしまっていたのさ。それですっかり胃を悪くして何にも食う気がなくなってしまった。私は咯血さえ止まればいいとその方の事ばかり考えていたので、厭な牛乳なんか飲まなくっても大丈夫だと思っていたのだが、滋養灌腸を遣られた時にはそんなにしてまで営養を取らなけりゃならんほど切迫していたのかとちょっと驚かされたよ。」

 実際、これで滋養灌腸が旨《うま》く収まらなかったら、駄目《だめ》かも知れぬと医者は悲観していた。が、幸なことには居士はその以後|力《つと》めて栄養物を取るような傾きが出来て来た。

 医師から今晩は特に気を附けなければならんと言われた心細かった一夜は無事にしらしらと白らんだ。恐らくその晩が病の峠であったろう。前日少し牛乳を取ったためであろうか、その暁の血色は今までよりはいくらかいいようであった。その日から咯血もやや間遠になって来た。

 それから居士の母堂を伴って碧梧桐君が東京より来、大原氏――居士の叔父《しゅくふ》――が松山より見えるようになった頃は居士の病気もだんだんといい方に向っていた。

 病床の一番の慰めは食物であった。碧梧桐君と余とが毎朝代り合って山手の苺《いちご》畑に苺を摘みに行ってそれを病床に齎《もた》らすことなども欠くべからざる日課の一つであった。戦地や大本営に往還《ゆきかえり》の日本新聞記者や他の社の従軍記者なども時に病床を見舞って自由に談話を交換するようになった。鼠骨君も京都から来てある期間は看護に加わり枕頭[(ちんとう)まくらもと]で談笑することなども珍らしくはなかった。

 いよいよもう大丈夫と極ってから大原氏は松山にかえり、碧梧桐君は母堂を伴って東京にかえり、後に残るものは、また余一人となった。急に淋しくはなったけれども、もう以前のように心細いことはなかった。癪に障っていた附添婦とも病室が晴れやかになるに従い親しくなった。依然として執拗《しつよう》な処はあったけれども、漸く親しくなって見るとこれもまた老いたる憐れなる善人であった。

 居士は車に乗って黄塔君の宅に出掛けた。余はその車に跟《つ》いて行きながら万一を心配したが、それも無事であった。黄塔君と三人で静に半日を語り明して帰った。

 いよいよ須磨の保養院に転地するようになったのはそれから間もないことであった。病院を出て停車場に行く途中で、帽のなかった居士は一個のヘルメット形の帽子を買った。病後のやつれた顔に髯《ひげ》を蓄え、それにヘルメット形の帽子を被った居士の風采は今までとは全然異った印象を余に与えた。

 保養院に於ける居士は再生の悦びに充ち満ちていた。何の雲翳《うんえい》[雲で空が曇ること。くもり]もなく、洋々たる前途の希望の光りに輝いていた居士は、これを嵐山清遊の時に見たのであったが、たとい病余の身であるにしても、一度危き死の手を逃れて再生の悦びに浸っていた居士はこれを保養院時代に見るのであった。我らは松原を通って波打際に出た。其処《そこ》には夢のような静かな波が寄せていた。塩焼く海士の煙も遠く真直ぐに立騰《たちのぼ》っていた。眠るような一帆《いっぱん》はいつまでも淡路の島陰にあった。

 ある時は須磨寺に遊んで敦盛蕎麦《あつもりそば》[兵庫県神戸市須磨区にある須磨寺に詣でて、須磨浦公園(すまうらこうえん)にある敦盛塚(源平合戦の平敦盛の塚)を拝んでから、いただくというとも言う、敦盛塚の目の前のそば屋の蕎麦]を食った。居士の健啖《けんたん》[大食い。沢山食べること]は最早余の及ぶところではなかった。

   人も無し木陰の椅子《いす》の散松葉  子規

   涼しさや松の落葉の欄による  虚子

などというのはその頃の実景[実際の景色]であった。初め居士の神戸病院に入院したのは卯の花の咲いている頃であったが、今日はもう単衣を着て松の落葉の欄によるのに快適な頃であった。居士がヘルメット形の帽子を被って単衣の下にネルのシャツを来て余を拉《らっ》して松原を散歩するのは朝夕《ちょうせき》の事であった。余はかくの如く二、三日を居士と共に過ぐしていよいよ帰東することになった。

 いよいよ明朝出発するという前の日の夕飯に居士は一つか二つか特別の皿をあつらえた。それから居士は改まって次のような意味の事を余に話した。



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「今度の病気の介抱の恩は長く忘れん。幸に自分は一命を取りとめたが、しかし今後幾年生きる命かそれは自分にも判らん。要するに長い前途を頼むことは出来んと思う。それにつけて自分は後継者という事を常に考えて居る。折角《せっかく》自分の遣りかけた仕事も後継者がなければ空になってしまう。御承知の通り自分には子供がない。親戚に子供は多いけれどそれは大方自分とは志を異にしている。そこでお前は迷惑か知らぬけれど、自分はお前を後継者と心に極めて居る。が、どうも学校退学後のお前の容子を見ると少しも落着きがない。それもよく見ておるとお前一人の時はそれほどでもないが秉公――碧梧桐――と一緒になるとたちまち駄目になってしまうように思う。どちらが悪いという事もあるまいが、要するに二人一緒になるという事がいけないのである。それでこれからは断じて別居をして、静かに学問をする工夫をおし。出来ない人ならば私《あし》は初めから勧めはしない。遣れば出来る人だと思うからいうのである。」

[#ここで字下げ終わり]



 こんな意味の事であった。余はこの日かく改まった委嘱《いしょく》[仕事などを他の人にゆだね頼むこと]を受けようとは予期しなかったので、少し面食《めんくら》いながらも、謹んでその話を聴いていた。かくの如き委嘱は余に取って少なからざる光栄と感じながらも、果して余にそれに背かぬような仕事が出来るかどうか。余は寧ろ此の話を聴きながら身に余る重い負担を双肩に荷わされたような窮屈さを感じないわけには行かなかった。けれどもこの時の余は、截然《せつぜん》[切り立つ様子/区別がはっきりしている様子]としてその委託を謝絶するほどの勇気もなかった。余はただぼんやりとそれを聴きながらただ点頭《うなず》いていた。

 その夜は蚊帳《かや》の中に這入《はい》ってからも居士は興奮していて容易に眠むれそうにもなかった。当日の居士の句に、

   蚊帳に入りて眠むがる人の別れかな

とかいうのがあったかと思う。余は蚊帳に入ると殆ど居士の話も耳に入らぬように睡ってしまった。

    須磨にて虚子の東帰を送る
   贈るべき扇も持たずうき別れ  子規

 余は此の句に送られて東《ひがし》に帰った。

 居士の保養院に於ける言葉はその後余の心の重荷であった。そこで余は帰東早々これを碧梧桐君に話し、早稲田専門学校に坪内先生のセークスピヤの講義を聴くことをも一つの目的として高田馬場のある家に寓居を卜した[「卜する」(ぼくする)占い定める/よいところを選ぶ]。此の家はもと死んだ古白君の長く仮寓[仮住まい。仮に済むこと]していた家であったという事が余をしてこの家を卜せしむるに至った主な原因であった。

 専門学校の入学試験は容易であったが、不幸にして坪内先生の講義はセークスピヤでなくてウォーズウォースであった。そのウォーズウォースの講義は少しも余の興味を牽《ひ》かなかった。その他に在っては大西|祝《はじめ》先生の心理学の講義を面白いと思ったが、それ以外には興味を呼ぶものがなかった。初めはつとめて登校していたが、それも漸く欠席勝になってしまった。此の明治二十八年の九月に専門学校の文科に這入った同期生は三、四十人であったかと思うが、余はそれらの人の名前を一人も記憶しておらぬ。その中には今の文壇に在って高名な人もあるのであろうが今までそれを取しらべて見たこともない。入学試験の時余は答案を誰よりも早く出して、その尻に一句ずつ俳句を書いた。その当時の余には賤《いや》しむべき一種の客気[(かっき・きゃっき)血気。激しやすい意気]があって専門学校などは眼中にないのだというような見識をその答案の端にぶらさげたかったのである。初めより真面目に課程を没頭する気はなかったのである。

 それと同時に羯南氏の紹介で余は『日本人』紙上に俳句の選をし俳話を連載することになった。後年『俳句入門』に収録したものは此の『日本人』に連載した俳話が主なるものであった。

 一方に子規居士は須磨に在って静養の傍《かたわ》ら読書や執筆やに日を送った。『日本新聞』に連載しつつあった「養痾雑記《ようあざっき》」は遂に蕪村の評論に及んでそれはそれのみ切り放して見ることの出来る一の長篇となった。後年俳諧叢書の一冊として出版した『俳人蕪村』がこれである。余の方からは鳴雪翁、碧梧桐君らと会合して作った句稿などを送ると居士はそれに詳細な評論を加えてかえして来たり、またその近況を報ずる書面のうちに御承知の保養院の何番にいた病人は病状が悪くって家に引取ったとか、お前の帰った後に僕の部屋附きの女中となった何某《なにがし》という女にこの頃は習字を教えているというようなことも書いてあった。

 居士の俳句に於ける努力は大分前からの事であるし、『日本新聞』紙上に新俳句を鼓吹したことも二十六、七年からの事であったが、陣容が漸く整うて世人の注目を牽《ひ》くようになったのは実に此の『俳人蕪村』を以って始まると言っていいのである。それから須磨を引上げて松山に帰省してからは、折節松山中学校に教鞭《きょうべん》を取りつつあった夏目漱石氏の寓居に同居し、極堂《きょくどう》、愛松《あいしょう》、叟柳《そうりゅう》、狸伴《りはん》、霽月《せいげつ》、不迷《ふめい》、一宿《いっしゅく》らの松風会員諸君の日参して来るのを相手に句作に耽《ふけ》ったのであったが、その間に在って居士は『日本新聞』紙上に「俳諧大要」を連載し始めた。これはやはり松風会員の一人であった盲俳人|華山《かざん》君のために説くという形式によって居るが、その実居士の胸奥[(きょうおく)]に漸く纏った自己の俳句観を天下に宣布したものであった。

 居士は二十八年の冬はもう東京に帰っていた。松山からの帰途須磨、大阪を過《よ》ぎり奈良に遊んだが、その頃から腰部に疼痛《とうつう》[ずきずきとした痛み]を覚えると言って余のこれを新橋に迎えた時のヘルメットを被っている居士の顔色は予想しておったよりも悪かった。須磨の保養院にいた時の再生の悦びに充ちていた顔はもう見ることが出来なかった。居士は足をひきずりひきずりプラットホームを歩いていた。

「リョウマチのようだ。」と居士は言った。けれどもそれはリョウマチではなかった。居士を病床に釘《くぎ》附けにして死に至るまで叫喚[(きょうかん)大声でわめき叫ぶこと]大叫喚せしめた脊髄腰炎はこの時既にその症状を現わし来つつあったのであった。

 居士が根岸の住みなれた庵《いおり》に病躯を横たえてから一月ばかり後のことであった。余に来てくれという一枚の葉書が来た。

 早速余は出掛けて行くと、少し話したいことがあるが、うちよりは他《よそ》の方がよかろうと言って居士は例のヘルメットを被って表に出た。余はそのあとに跟《つ》いて行った。頗る不機嫌な顔をした居士は黙々として先に立って行った。腰の痛みはあまりいい方でなかったのでその歩きぶりは気の毒にも苦しそうであった。余は大方の意味を了解していたのでやはり黙りこくってあとについて行った。稲は刈り取られた寒い田甫《たんぼ》を見遥るかす道灌山の婆の茶店に腰を下ろした時、居士は、

「お菓子をおくれ。」と言った。茶店の婆さんは大豆を飴《あめ》で固めたような駄菓子を一山持って来た。居士は、

「おたべや。」と言ってそれを余に勧《すす》めて自分も一つ口に入れた。居士は非常に興奮しているようであったが余はどういうものだか極めて冷かに落着いて来た。何も言わずにただ居士の唇《くちびる》の動くのを待っていた。

「どうかな、少し学問が出来るかな。」

 こう切り出した居士は、何故に学問をしないのかという事を種々の方面から余に問質《といただ》すのであった。殆ど二、三時間も婆の茶店に腰をかけていた間に、ものをいった時間は四分の一にも当らぬほどで二人の間にはむしろ不愉快な絶望的の沈黙が続いた。居士はもう自分の生命は二、三年ほかないものと覚悟した一つのあせりがもとになってじりじりと苛立《いらだ》っていた。二十三歳の快楽主義者であった余は、そういうせっぱ詰った苛立った心持には一致することが出来なかった。

「私《あし》は学問をする気はない。」と余は遂に断言した。これは極端な答であったかも知れぬがこう答えるより外に途がないほどその時の居士の詰問は鋭かった。が、また今日から考えて見ても此の答は正しい答であったと思う。余はたとい学問の興味が絶無でないまでも、生涯を通じて読書子ではないのである。余の弱味も強味も――もしそれがありとすれば――何れも此の非読書主義の所に在る。

「それではお前と私《あし》とは目的が違う。今まで私のようにおなりとお前を責めたのが私の誤りであった。私はお前を自分の後継者として強うることは今日限り止める。つまり私は今後お前に対する忠告の権利も義務もないものになったのである。」

「升《のぼ》さんの好意に背くことは忍びん事であるけれども、自分の性行を曲げることは私《あし》には出来ない。つまり升さんの忠告を容《い》れてこれを実行する勇気は私にはないのである。」

 もう二人共いうべき事はなかった。暮れやすい日が西に舂《うすづ》き[(うすづく=臼づく)臼にものを入れて杵(きね)でつくこと/夕日が山に入ろうとすること]はじめたので二人は淋しく立上った。居士の歩調は前よりも一層怪し気であった。

 御院殿《ごいんでん》の坂下で余は居士に別れた。余は一人になってから一種名状し難い心持に閉されてとぼとぼと上野の山を歩いた。居士に見放されたという心細さはもとよりあった。が同時に束縛されておった縄が一時に弛《ゆる》んで五体が天地と一緒に広がったような心持がした。今一つは多年余を誨誡《かいかい》[教え諭しいましめること]し指導する事の上に責任と興味とを持っていた居士に今日の最後の一言で絶望せしめたという事に就いて申訳のないような悔恨[(かいこん)悔やみ残念に思うこと]の情もこみ上げて来た。

 居士が余に別れて独り根岸の家に帰って後ちの痛憤[(つうふん)激しく憤慨すること]の情はその夜居士が戦地に在る飄亭君に送った書面によって明白である。その書面の結末に次の文句がある。

「今まででも必死なり。されども小生は孤立すると同時にいよいよ自立の心つよくなれり。」

 かくして居士はいよいよあせりいよいよいら立ち一方に病魔と悪戦しつつ文学界に奮闘を試みたのであった。

十一

 [朗読7]今から考えて見ても、殆ど垂死[瀕死、死にかけの状態]の大病に取りつかれていた居士を失望さしたという事は申訳のないことであった。今少し余も心をひきしめ情を曲げて、その高嘱[(こうしょく)相手を敬ってその人の依頼を言うときの言葉]に負《そむ》かぬようにし、知己の感に酬《むく》ゆべきであったろう。がまた一方から考えて見ると、それは畢竟《ひっきょう》無益なことであって、たとい一寸《いっすん》逃れに居士及自己を欺いておいたところで、いつかは道灌山の婆の茶店を実現せずにはおかなかったのである。須磨の保養院で初めて居士から話を聞いた時に、截然として謝絶することが出来たらその上《うえ》越《こ》すことはなかったのであるが、その時それが出来なかった以上、婆の茶店で率直に断ったという事は双方に取って幸福なことであったとも考えられるのである。

 のみならず、後継者を作るというようなことは、生い先きが短いと覚悟した居士に在っては、それが唯一の慰藉[(いしゃ)同情して慰めること]ともなるのであったろうが、冷かにこれを言えば、そういう事はやや幼稚な考であって、居士の後継者は決して一小虚子を以てこれに満足すべきではなくして、広くこれを天下に求むべきであったのである。一番居士の親近者であるという事が、決して後継者としての唯一の資格ではなかったのである。現に今日に於てこれを見ても居士の後継者は天下に充満して居るのである。居士全体を継承していないまでも居士の何物かを受けて、各々これを祖述[(そじゅつ)師匠や先人の説を引き継いで学問をさらに進めること]しつつあるのである。これがむしろ正当の意味に於ける後継者である。また他の方面からこれをいうと、たとい一小虚子であってもその虚子を居士の意のままに取扱いたいと考えたことはやや無理な註文であったともいえるのである。

 世の中はどうすることも出来ぬことが沢山ある。余は満腹の敬意を以て居士に接しながらも、またこの際に在って自分自身をどうすることも出来なかったのである。どうすることも出来ぬということは今日の余に在ってもなお少なからずある。人間の生涯はいつもそのどうすることも出来ぬ岐路に立っているものとも考えられるのである。

 居士が飄亭君に宛てた手紙の中に、「一語なくして家に帰る。虚子路より去る。さらでも遅き歩《あゆみ》は更に遅くなりぬ。懐手のままぶらぶらと鶯《うぐいす》横町に来る時小生の眼中には一点の涙を浮べぬ」とあるのもやはり此のどうすることも出来ぬ人間の消息を物語っているのである。

 居士の命《めい》が短かかっただけそれだけ余と居士との交遊は決して長かったとはいえぬのであるが、それでも此の道灌山の破裂以来も、なお他の多くの人よりも比較的親しく厚い交誼《こうぎ》[交際のよしみ、親しい交わり]を受け薫陶《くんとう》[得によって相手を感化してすぐれた人間へと導くこと]を受けた事は事実である。だから一面からこれを見ると、その婆の茶店の出来事というのも畢竟一時の小現象に過ぎなかったので、前後を一貫してその底深く潜めるところのものの上には何の変るところもなかったともいえるのである。が、また他の一面からこれを見ると、それと反対に居士と余とは遂に支吾[(しご)支える、支持すること]を来さねばならぬ運命に在ったので、その最初の発現が道灌山の出来事であったともいえるのである。更に一歩を進めて言えば、爾来《じらい》[それ以来]居士の歿年である明治三十五年までおよそ六年間の両者の間の交遊は寧ろその道灌山の出来事の連続であったともいえるのである。かつて碧梧桐君は「居士は虚子が一番好きであったのだ。」と言った。居士が最後の息を引き取った時枕頭に在った母堂は折節共に夜伽《よとぎ》[看病のために夜も寝ないで付き添うこと]をせられていた鷹見氏の令夫人を顧みて「升は一番|清《きよ》さんが好きであったものだから、なにかというと清さんにお世話になりました。」と言われた。余はそう言って泣かれた母堂を見てただ黙って坐っていた。余は此の碧梧桐君の言も母堂の言も決して否認しようとは思わぬ、実際居士は最も深く余を愛していてくれたように思われる。余もまた何人よりも一番深く居士を信頼していた。居士の言行は一に余の脳裏に烙印《やきいん》せられていて今もなお忘れようとしても忘れることは出来ぬのである。それにかかわらず道灌山以来余と居士との間にはどうすることも出来ぬある物が常に常に存在していたという事はまた止むを得ぬ事であった。

 明治二十九年に入って後ち居士の腰痛は緩んだり激しくなったりした。そうしてそれが遂に僂麻質斯《りうまちす》でなくて結核性の脊髄炎であると判ったのは三月の中旬の事であった。この時居士が折節帰省中であった余に与えた手紙は面白い消息を伝えておる。少し長いけれどもそれをここに載することにする。



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「貴兄驚き給うか。僕は自ら驚きたり。今日の夕暮ゆくりなくも初対面の医師に驚かされぬ。医師は言えり。この病は僂麻質斯にあらずと。

 歩行し得ざる事ここに五旬、体温高き時は三十九度に上り低き時は三十五度七分に下《くだ》る。たちまち寒くして粟《あわ》肌に満ち、たちまち熱くして汗胸を濡《うる》おす。しかも一日も精神の不愉快を感じたる事なし。詩を作り俳句を作るには誠に誂《あつら》え向きの病気なりとて自ら喜びぬ。俳友も時におとずれくるるに期せずして小会を開くことさえ少からず。きのうは朝より絵師、社友、従軍同行者と漸次おとずれて点燈後鳴雪翁来給いたり。やがて碧梧桐、紅緑《こうろく》来りぬ。一会を催して別れたるは夜半近かりけん。誠に面白き一日なりけり。きょうは歴史談など面白く読み居る最中に医師は来りしなり。

 僂麻質斯にあらぬことは僕もほぼ仮定し居たり。今更驚くべきわけもなし。たとい地|裂《さけ》山|摧《くだ》くとも驚かぬ覚悟を極め居たり。今更風声鶴唳[(ふうせいかくれい)ヒスイの戦いで敗れた前秦軍の潰走ぶりから)敗兵が、風の音や鶴の鳴き声をも敵かと思って驚き恐怖心をつのらせること。おじけづいた人が、ちょっとしたことにも驚き怖れること。(広辞苑より引用)]に驚くべきわけもなし。然れども余は驚きたり。驚きたりとて心臓の鼓動を感ずるまでに驚きたるにはあらず。医師に対していうべき言葉の五秒間遅れたるなり。

 五秒間の後は平気に復《かえ》りぬ。医師の帰りたる後十分ばかり何もせずただ枕に就きぬ。その間何を考えしか一向に記憶せず。ただその中に世間野心多き者多し。然れども余《わ》れほど野心多きはあらじ。世間大望を抱きたるままにて地下に葬らるる者多し。されども余れほどの大望を抱きて地下に逝《ゆ》く者はあらじ。余は俳句の上に於てのみ多少野心を漏らしたり。されどもそれさえも未だ十分ならず。縦《よ》し俳句に於て思うままに望を遂げたりともそは余の大望の殆ど無窮[(むきゅう)どこまでも続いていて際限のないこと。無限]大なるに比して僅かに零《ゼロ》を値するのみ。

 余の如く大望を抱きて空しく土と化せしもの古来幾人かある。余は殆どこれを知らず。されば余今ここに死したりとも誰か余に大望ありしとばかりも知り得んや。さりとて未だ遂げざる大望の計画を人に向って話さば人は呆然《ぼうぜん》としてその大なるに驚くにあらざれば輾然《てんぜん》[おおいに笑うこと]としてその狂に近きを笑わん。鴻鵠《こうこく》[鴻(おおとり)と鵠(くぐい)のこと。つまり大きな鳥のこと]の志は燕雀《えんじゃく》[ツバメと雀のこと。つまり小鳥どものこと]の知る所にあらず[「燕雀いずくんぞ鴻鵠のこころざしを知らんや」という「史記」による逸話を踏まえたもの]大鵬《たいほう》[中国の伝説の巨鳥である鵬(ほう)の別名]南を図って徒[(いたず)]らに鷦鷯《しょうりょう》[スズメ科ミソサザイのこと]に笑われんのみ。余は遂に未遂の大望を他に漏らす能わざるなり。古人またかくの如く思いあきらめしかばその大望は後世終にこれを知るなきに至りしのみという瞬間の考のみ僅《わず》かに今記憶せり。

 再び読みさしたる歴史談を取って読む。誠に面白く珍らしく能くその意をも解し得たり。されども僕の脳髄は前半を読みたる時の脳髄と自ら異れり。時には半枚ほど前へ立ち戻りて繰り返したることも二、三度はありたり。一、二篇を無理に読みたる後これを抛棄《ほうき》[=放棄]せり。

 何か面白くてたまらん一切の事物を忘れてしまうようなもの欲しと思えり。たちまち思い出でしことあり。枕頭を探りて反古堆中《ほごたいちゅう》[反古、つまり書き損じ(ここでは原稿くらいの意味)のたい積した中から]より『菜花集《さいかしゅう》』を探り出《いだ》して「糊細工《のりざいく》」を読み初めぬ。面白し面白し。覚えず一声を出してホホと笑いたる所さえあり。この笑いほど僕を慰めたる笑いはなかりしなり。たちまちにして読み畢《おわ》りぬ。余音|嫋々《じょうじょう》[音の長く残って絶えない様子]として絶えざるの感あり。天ッ晴れ傑作なり貴兄集中の第一等なりと感じぬ。この平凡なる趣向、卑猥《ひわい》[いやらしくてみだらなこと]なる人物、浅薄なる恋が何故に面白きか殆ど解すべからず。されど僕はたしかにかく感じたり。

 けだし僕が批評眼以外の眼を以て小説を見しこと『八犬伝』、『小三金五郎』[歌舞伎役者である「金屋金五郎(かなやきんごろう)」と、体洗ってあげちゃうけど、夜の相手もしちゃうわよ的な商売である湯女(ゆな)、その湯女の「小さん」との間の情話を主題とした浄瑠璃や歌舞伎の物語]以後今度がはじめてなり。小説が人間に必要なりとは常に理論の上よりしか言えり。その利益を直ちに感受したる今度がはじめてなり。

 小説を読み畢りて[(おわりて)]今朝の僕は再び現われ来れり。この書面を認めて全く昨日の僕にかえりぬ。あら笑止。

 僕もしこの間の消息を取って小説の材料となすを得ば僕に取りてこの上もなきめでたき事なり。僕これを得記さざるも貴兄これを用い給わばこれもめでたき事なり。

 右等の事総て俗人に言うなかれ。天機[天然自然に秘められた神秘/生まれもっての才能]|漏洩《ろうえい》の恐れあり。あなかしこ。[恐れ多いこと、くらいの意味の文末の言葉。女性が使用することが多い]明治二十九年三月十七日。病子規。虚子兄几下[(きか)宛名に添える言葉。机の下まで差し出すの意味]。」

[#ここで字下げ終わり]



『菜花集』というのは碧梧桐君などと共に拵《こしら》えた小説の回覧集であったのである。「糊細工」というのは即ち余のそれに載せた小説で、ある一小事件をスケッチしたものであった。写生文という名はまだ一、二年後の明治三十一年頃になって起ったのであるが、此の「糊細工」なども何の趣向もなく、また何の憚《はばか》るところもなく、事実をそのままに写生したもので即ち後年の写生文の濫觴《らんしょう》[(長江も水源にさかのぼれば、觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの、または觴に濫(あふ)れるほどの小さな流れである意)物の始まり。物事の起原。おこり。もと。「近代医学の―」(広辞苑より引用)]であったのである。居士が此の文章を見てホホと笑を洩らしたという処に居士の余に対するある消息は明白に読まれ得るのである。今日でも余は殆ど余の感情の赴くままに行動しつつあるのであるが、当時に在っては今日以上の極端であった。一旦《いったん》居士が余を以て居士の後継者と目するか、よし後継者と目さぬまでも社会的に成功させようという老婆親切を以て見た時には徹頭徹尾当時の余は歯痒《はがゆ》いまでに意思薄弱の一青年であったのである。道灌山以来は「虚子は小生の相続者にもあらず小生は自ら許したるが如く虚子の案内者にもあらず」と飄亭に贈った手紙にある如く、居士は忠告の権利を放棄したように言明しているのであるが、それにかかわらず爾後もなお何かにつけて社会的の忠告を余に試みて、余をして居士の手紙を見るたびに、顔を見るたびに、一種の圧迫を感ぜしめるまでに至ったのであるが、それが一旦その点の問題を離れて、居士と何らの利害関係なきただ一個の人間として余を見た場合にはまた別個の消息があったのである。この手紙に在る如く、医師から結核性脊髄炎といういよいよ前途の短い病であることを宣告された時に居士の頭には例の社会的の野心問題が頭を擡《もた》げて一時は烈しい精神の昂奮を感じたのであるが、それを忘れるがために何物かを探した時、そこにいわゆる「平凡なる趣向、卑猥なる人物、浅薄なる恋」を描いた余の作物に接して、居士の心はかえって何物かに救われたような慰安を感じたものと見える。余は先に道灌山以来、どうすることも出来ぬある物が常に両者の間に存在していたと言ったが、それにかかわらずまた居士と余との間には終始変らぬある感情上の領会[(りょうかい)了解して会得すること]恒久[=永久、長く変わらないこと]に存在していたのであった。

十二

 [朗読8]いわゆる「自立の決心いよいよ深くなれり」と言った居士は何人にも頼むところなく万事を自己一人の力で遣って行こうという決心を堅くした。それは二十八年の暮から二十九年に掛けて一言一行の上にきびきびしく現われておる。殊に明治二十九年という年は居士によって唱道[(しょうどう)自らが先に立って唱えること]せられたいわゆる新俳句が非常の力を以て文壇の勢力となった年であった。が、それについて他の手ぬるっこい承認を待つよりも居士自身で「明治二十九年の俳句界」と題した長論文を『日本新聞』紙上に連載して自らこれを承認し評価した。これは『俳句界四年間』と題した俳書堂出版の俳諧叢書のうちに収録してある。――この頃『俳諧大要』という合冊本として重版されたもののうちに在る。

 居士の門下に集う俳人はこの頃も已に少くはなかった。漸く病床を出ることが稀になった居士はそれらの俳人の来訪を受けて句作し評論する上に種々の便宜[(べんぎ)]も多かった。他の多くの人が種々の社会上の出来事に駆使されたりまた物質上の快楽に牽引されたりする中に在って、居士は静かに俳句の研究に専念なることを得た。もとより居士の性格にも原由[(げんゆ)原因、物事のもとづくところ]するが境遇もまたこれを助けたといってよい。その静かに方丈[(ほうじょう)四畳半ほどの広さ]の室に閉じ籠《こも》っていわゆる野心を満足さするのもこれ、病苦を慰むものもこれ、純一|無雑《むぞう》の心持で一向専念に古俳句の研究、新俳句の主張にこれ日も足らなかった居士の眼から、その周囲に勝手気儘に行動しつつあった人々を見た時の心持はどうであったろう。剣呑《けんのん》[あやういこと。あるいは、あやぶむこと]でもあったろう、歯痒くもあったろう、片腹痛くもあったろう、残念でもあったろう。居士は飄亭君に対しても、碧梧桐君に対しても余に対しても、紅緑君に対しても、鼠骨君に対しても、殆ど何人に対しても、時としては鳴雪翁に対してすらも、直接もしくは間接に種々の忠言を試みることを忘れなかった。もう道灌山でお互に絶縁を宣言した間柄の余に対して居士はなおその事は忘れたように何かにつけて苦言を惜まなかった。余を唯一の後継者とする考はその時以来全く消滅したのであるが、しかし門下生の一人として出来るだけこれを引立てようとする考は以前と少しも変るところはなかった。

 余はいつもその事を思い出す度に人の師となり親分となる上に是非欠くことの出来ぬ一要素は弟子なり子分なりに対する執着《しゅうじゃく》であることを考えずにはいられぬのである。たとえばそれは母が子を愛するようなものである。余の知っているある一人の寡婦《かふ》[夫と離別してまだ離婚していない女性。未亡人]はただ一人の男の子の放蕩を苦にしながらもどうしてもそれを棄て去ることが出来ぬ。その親戚の多くはその子と絶縁してしまうことをその寡婦なりその一家なりの利益だとして時々忠告を試みるのであるけれども、寡婦は陰になり日南《ひなた》になりしてその子を暖き懐に抱きよせようとしておる。その結果その子は夙《と》くに堕落し切ってしまうはずのものがまだともかくそこまでの深淵に陥らずに踏み止まっておる。これは母の愛である。母の子に対する執着である。もしこの執着がなかったらその子は牢に入っておるかのたれ死をしておるか、いずれそういう結果になっているのはいうまでもないことであるが、同時にまたその母はただ一人の男の子をその手から失っているのである。曲りなりにもなお母一人子一人として互に頼り合っていることの出来るのはその母の執着――愛――の力である。これと同じ事で人の師匠となり親分となるのにも第一に欠くことの出来ぬものはこの執着である。弟子や子分は気儘《きまま》である、浮気である。決して師匠や親分が思っている半分の事も思っていやしない。その弟子や子分の思い遣りのない我儘《わがまま》な仕打に腹を立てて一々それに愛想をつかしていた日には一人は愚か半人の弟子もその膝下《しっか》[ひざの下の部分。膝元/親など庇護者のもと/父や母などに宛てる手紙に使用する、手紙の脇付のひとつ]に引きつけておくことは出来ないのである。為《な》すある師匠、為すある親分はその点に於て執着――愛――を持っておる。たとい弟子や子分の方から逃れようとしても容易にそれを逃しはしない。母の愛が子を抱《いだ》きしめるようにその一種の執着力はじっと弟子や子分を抱きしめていて、たといもがき逃れようとしても容易にそれを手離しはしない。そういう点に於て子規居士は十二分の執着――愛――を持っていた。たとい門下生同士で互に他の悪口を言って、何故あんなものを膝下によせつけるのかという風にそれを排擠《はいせい》[他人を押しのけて陥れること]することがあるとしても、またそういう人間が自分から遠ざかろうとしても、居士は仮りにも自分の門下生となったものは一人も半人もこれを手離すに忍びなかったようである。これは居士の愛が深かったともいえる。居士の慾が突張っていたともいえる。いずれにしても見様《みよう》言様《いいよう》である。居士はかつて余らが自己の俳句をおろそかにするのを誡《いまし》めてこういう事を言ったことがある。自分はたといどんな詰まらぬ句であっても一句でもそれを棄てるに忍びない。如何《いか》なる悪句でも必ずそれを草稿に書き留めておく。それは丁度金を溜める人が一厘五厘の金でも決して無駄にはしないというのと同じ事である。僅か一厘だから五厘だからと言ってそれを無駄にするような考があったら如何に沢山の収入のあるものでも金持になることは出来ない。それと同じ事で、たとい如何に沢山の句を作る人でも、その句を粗略にして書きとめておかないような人はとても一流の作者にはなれない。そういう点に於て私《あし》は慾張りであると。即ちこの意味に於て居士は慾張りであった。執着心があった。愛があった。

 松山で初めて居士に逢ってから神戸病院、須磨保養院、道灌山に至るまでの余は居士の周囲に在る一人《いちにん》として自ら影の濃い感じがするが、それ以後『ホトトギス』を余の手で出すようになるまでのおよそ三ヶ年間はよほど影の薄い感じがする。もっともこれはただ感じである。明治二十九、三十、三十一年の三年間は最も熱心に句作した年で、また居士が鳴雪翁、碧梧桐君らと共に余を社会に推挙した年で、それまでは放浪の一書生に過ぎなかったものがたちまち俳人として世に名を知らるるようになったのであるが、それでいて何となく影の薄い感じがする。というものはたとい居士によって社会に推挙され社会からは予期せざる待遇を受けるようになりながらもなお自己としては何処《どこ》までも放浪の書生で、居士の門下生として俳句を作っておる中《うち》に格別の興味も誇をも見出し得ないで、半《なかば》は懊悩《おうのう》[悩みもだえる様子]し半は自棄しつつ、ただ本能に任せ快楽を追うのにこれ急であったのである。ある時居士は、「お前ももう少し気取ってもええのだがなあ。」と笑いながら余に言ったことがあった。余は淡路町の下宿に「大文学者」という四字を半紙に書いて壁に張りつけながら瘧《おこり》[わらわやみ。間欠熱(かんけつねつ)で、一定の時間に熱が上がっては引いていくのを繰り返すもの。特にマラリアを指すこともある]を病んでうんうん言っていたことがあった。居士はこの事を伝え聞いて、「大文学者の肝小さく冴《さ》ゆる」と同じく半紙に書いて余に送って来た。これは馬鹿気《ばかげ》た一笑話であるが、実をいえば十七字の短詩形である俳句だけでは満足が出来なかったのである。世人が子規門下の高弟として余を遇することは別に腹も立たなかったがそれほど嬉しいとも思わなかったのである。このとりとめもないような一種の空想は今もなお余を支配している。余は今でもなお学問する気はない。けれどもどこまでも大文学者にはなろうと思っておる。余の大文学者というのは大小説家ということである。それ以上を問うことは止めてもらいたい。ただ大小説家となろうと思っているのである。

 此の余が居士の周囲の一人として影の薄い時代に種々の俳人が居士の周囲を彩《いろど》った。その中《うち》に中野|其村《きそん》君のような人もあった。其村君は何人《なんぴと》の子で何国の産という事を知らない。ただ落語家の燕枝《えんし》の弟子であったとか博徒《ばくと》の子分であったとか饗庭篁村《あえばこうそん》氏の書生であったとかいう事のみが伝えられていた。三多摩郡《さんたまごおり》の吉野左衛門君の家に書生をしていた頃から『日本新聞』に投句して我ら仲間の人となったのである。余の下宿にも書生の目には珍らしい大きな菓子折を持って刺《し》を通じて来た。長大な体に汚い服装をして顔も煤《すす》け色をして、ドンモリで、一見立ちん坊を聯想するような男であった。赤い舌を出したりひっこめたりしながら余の知らぬ色んな面白い話をして聞かせた。三十に近い同君が二十二歳の余を先生先生と敬称するのもそういう敬語に慣れぬ余には不思議に思われた。その後しばしば余を訪問して遂に余の下宿に同宿した。その部屋には殆ど何の什器《じゅうき》もなくって、机の上に原稿紙があるのと火鉢の傍に煙管が転がっているばかりであった。障子を開けるといつも濛々《もうもう》たる煙の中に坐っていた。着替はもとより寝巻もなく本当の着のみ着のままというのはあの男の事であった。『国民の友』に「人寄席《ひとよせ》の話」を投書したのが縁となって遂に民友社に入社し下層の事情に通ずるので重宝がられていたがその後行方不明になって今に誰の処にも音信がない。大方死んだのであろうという左衛門君などの鑑定である。

 二、三日前の『国民新聞』の「忙閑競《ぼうかんくら》べ」の中《うち》に寄席の下足の話があったが、すべてああいう話が其村君の得意なところで、下足の誇りはそれを投げ出すと同時にチャンと下駄の並んでいるところに在るというようなことをあたかも自分の誇のようにしてドモリながら話していた。また余を縄暖簾《なわのれん》[大衆居酒屋のことやね]に伴《つ》れて行って初めて醤油樽に腰を掛けさせたのも其村君であった。其村君はいつでも袂《たもと》の底に銅銭や銀貨を少しばかり――ただし自分の所有全部――入れていたが、それをつかみ出してその時の支払をもしたことを覚えて居る。風呂屋に行った時着物を脱ぐ拍子にそれを板間にばら蒔《ま》いて黒い皮膚をした大きな裸の同君がそれを掻き集めた様《さま》などがまだ目に残っている。三十年の新年に初めて新年宴会が不忍《しのばず》弁天境内の岡田亭で催おされた。その時居士は車に乗って来会した。其村君が余興として軍談を語った。平生のドンモリに似合わず黒人《くろうと》じみて上手に出来た。

 あまり其村君の話が詳し過ぎたかも知れぬが、そういう其村君のような人も門下生の一人として集まって来たという事が如何に当時各種の人が居士の門下に走《は》せ集まったかという事を物語るに足ると考えたからである。

 芝の白金三光町にあった北里病院から『新俳句』という句集の現われたことも思いがけない出来事であった。それはその病院に入院中の上原|三川《さんせん》君と直野|碧玲瓏《へきれいろう》君とが――その外に東洋、春風庵《しゅんぷうあん》という二人の人もいた――『日本新聞』の句を切抜いて持っていたそれを材料として類題句集を編み、それを国民新聞社にいた中村|楽天《らくてん》君の周旋で民友社から出版したのであった。校正万端出版上の面倒は楽天君の隠れたる努力であった。この頃余は『国民新聞』の俳句の選者を依頼された。

 その頃余の一身上には種々の出来事があった。余は一時季兄を助けて芝に下宿を営んだ。それが緒についてから日暮里《にっぽり》に間借をして家を持ち、間もなく神田五軒町に一戸を構えて父となった。余は最早《もはや》放浪の児ではなくなった。出産の費用を得るために『俳句入門』を出版したり、小説めいたものを書いて今の『中央公論』の前身『反省雑誌』に寄せたりした。政教社と国民新聞から若干の給料を貰っていたがそれだけでは生計を支えるに足りなかった。

 明治三十年の一月に伊予の松山で柳原|極堂《きょくどう》君の手によって俳諧雑誌が発刊された。それが実に我『ホトトギス』であった。計らずもこの原稿を認《したた》める日、在伊予宇和島の増永|徂春《そしゅん》君から左の手紙の写しを送って来てくれた。これは『子規書簡集』にも洩れているものであるからここに全文を掲げる事にする。これは『ホトトギス』第一巻第一号が出来た時の評言で当時の消息が大体これによってわかる。



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『ほととぎす』落掌、まず体裁の以[#「以」に「(ママ)」の注記]外によろしく満足致し候《そうろう》。実は小生は今少しケチな雑誌ならんと存じ「反古籠《ほごかご》」[『俳諧反古籠』募集句の選句を行ったもの]なども少き方|宜《よろ》しからんとわざと少く致し候|処《ところ》甚だ不体裁にて御気毒に存《ぞんじ》候。さて編輯[(へんしゅう)]の体裁に就きて議すべきこと少からず、乍失敬《しっけいながら》アア無秩序にては到底《とうてい》田舎雑誌たるを免かれず候。

 第一俳諧随筆類と祝詞[(しゅくし)]と前後したることは不体裁の極《きわみ》也。最初に発刊の趣旨を置き、次に祝詞祝句を載せ、その次に随筆類その次に俳句などにて宜しかるべくと存候。

 発刊の趣旨は色紙を用いざる方よろし。色紙を用いるならば祝詞祝句と随筆類との中間に挿《はさ》むかまたは他の文と募集句との中間に挿むかしてその上は募集句広告ばかりにてものせたし。

 第二募集句の第五等を四分詰にしたるも苦しそう也。これは小生兼て申上置《もうしあげおき》候通り多ければ下より御削り可相成《あいなるべく》候。御忘れありしか如何。もし出来得べくんば四等以上にも出たる人の句を削り、その外のかつかつ五等及第の句のみを残せば猶《なお》宜し。

 第三蕪村の句を入れるもよろしけれど一句|毎《ごと》に蕪村の名あるはうるさし。蕪村とはじめにあればそれにて十分也。(これは飄亭より注意)

 第四飄亭曰く、募集句は鳴雪子規代る代る(一月おき)見ることにしては如何と。愚考にては前にも申上候通り募集句を二分して違う部分を見ても宜しと存候。飄亭説にてもまたたまたまには一処に同じものを評するも面白しと存候。これはしかし売行にも関することと存候|故《ゆえ》貴兄も御考可被成[(なられるべく)]また広く一般趨向をも御聞可被下《おききくださるべく》候

 またある時は草稿を三分四分して碧虚なども一部分を見るもよろしからん。

 第五募集題鶯、春風とはわるし。春風は昨年も『海南新聞』[現在の『愛媛新聞』]にて募集したるもの故よろしからず。同じ題が出ては前の募集句を見ておかねば剽窃《ひょうせつ》[他人の詩や文章などを盗んで自分のものとして発表すること]の煩いあり、また同じ題ばかりでは投書家の詩想広くならぬ憂あり。

 また壱号の題に千鳥、時雨という動物天文ありて今度もまた鳥類と天文とはよほど素人くさき題の出し方也。貴兄にも似合ぬと存候。小生の我儘《わがまま》を申さば一応小生に御打合せ被下まじくや。

  ○以上欠点

 此度《こんど》は題も二つにしてよほど材料を少くする御覚悟と見つれども、それならば祝詞の代りになるべき文章か俳句かをしっかり集める用意なかるべからず。碧、虚、飄亭はじめそれぞれ貴兄よりきびしく御請求あるべく候。鳴雪翁と僕とは黙っていても送る。

 また募集句も今度は一号の半分もあるまじと存候。それは題が少きと題がわるきとに基因いたし候。その覚悟にて他の材料御あつめ可被成候。

 鳴雪翁曰く校正行届きたること感心也。

 先月鳴雪翁小家に来られ曰く、『ほととぎす』今日壱部来れり。猶諸方へ得意をつけんと思う故二部三部でもほしければ取りに来りたりと。小生方にも一部より参らずと申候えば、御失望の様子なりき。万一飄亭方へでもと存じ聞合候処同人へも一部しか来らずと。さては貴兄もぬかり給えり。とにかく初号也。残りあらば何部にてもよこしたまえ。鳴雪翁は少くも五、六部はほしといわれたり。(これは久松《ひさまつ》家及び諸俳人に贈るため)とにかく『ほととぎす』発行に就きては鳴雪翁一番大得意也。翁は一号を見てうれしくてたまらねば即日小家へも来られたるわけ也。

 正直に申せば小生鳴雪翁ほどには得意ならず。一号を見た時はじめはうれしく後には多少不平なりき。しかし出来るだけは完美にしたいとは思う也。御勉強可被下候。壱円位の損耗[(そんもう)減ること。減らすこと]ならば小生より差出してもよろしく候。

 鳴雪翁のうれしさはあたかも情郎の情婦におけるが如く、親の子におけるが如くにて体裁も不体裁もなくただむやみやたらに嬉しき也。『ほととぎす』は翁の好意に向って感謝する処なかるべからず。

 鳴雪翁は二号に「粛山公《しゅくざんこう》の句《く》」を送らるる由小生は「反古籠」を永く書くべし。

 右大略批評まで如此候[(このごとくそうろう)]。以上。

[#ここで字下げ終わり]

一月二十一日

[#地から3字上げ]子規

  正之君

  一号残り御贈り被下度[くだされたく]鳴雪翁宛にてもよろし。

      当地昨今厳寒
   手|凍《こゞ》えてしば/\筆の落んとす



『ホトトギス』が松山で出ている間は余はあまり熱心なる投書家ではなかった。子規居士のみは「俳諧反古籠」を連載し募集句を選むこと等を怠らずやっていたが、鳴雪翁も何か家事上の都合で一時俳壇を退れた事などがあってどうも思う通りに原稿が集らなかったようであった。その上いつも経費が不足し意外に手数のかかる事が多いので極堂君はその続刊困難の事を時々《じじ》居士に洩らして来た。次の手紙は『子規書簡集』に載っているものであるが、前掲の手紙に対照して見ることの上に興味が多いので更にここに載せる事にする。



[#ここから1字下げ]

 拝啓おしつまり何かと御多忙と奉存《ぞんじたてまつり》候。

『ほととぎす』の事委細|御申越《おもうしこし》承知致候。編輯を他人に任すとのことはもとより小生の容喙《ようかい》[くちばしを入れること。そこから、横合いを入れること]すべきことにてもなく誰がやっても出来さえすれば宜しく候。ただ恐る三|鼠《そ》は粗漏[(そろう)大ざっぱで、手落ちのあること]にして任に堪えざるを。盲天《もうてん》[天に対して盲であるの意味らしい]寧ろ[(むしろ)]可ならんも盲目よく為し得べきや否や。

 御申越によれば売先は予州にあらずして他国に在る由。これ最も可賀の事とうれしく存候。即ち予州は極めて僻在《へきざい》[かたよって存在すること/僻地に存在すること]の地ながら俳句界の牛耳を取る[(ぎゅうじをとる)春秋戦国時代の中国で、諸侯の会盟に際して、盟主が牛の耳をとって裂き、その血をすすって誓い合ったという故事から、「同盟の盟主となること。転じて、団体・党派などを実力で支配すること」(広辞苑より引用)]証拠にしてこの事を聞く已来《いらい》猶更小生は『ほととぎす』を永続為致度[(なしいたしたき)]念|熾《さかん》に起り申候。

 編輯上最も面倒なるは募集句清書ならんと存候。せめてはこれだけにても御手を助けんと存、この度は小生清書致し俳巻に添置候。今後も出来さえすれば清書可致候。

 しかしこの事は小生の奮発より成るものにて他人を強うる事は出来不申候故左様御承知|被下度《くだされたく》候。

 財政の事につきては一向様子分らず候えども収支償わず[(つぐなわず)]とありてはもとより分別せざるべからず候。既往の決算将来の見込につきて大略の処御報奉願候。

 小生金はなけれども場合によりては救済の手段も可有之と存居候。

 定価の事は可成[(なるべく)]しばしば変更せぬこそよけれと存候。

 しかし少しにても経済的のことならば改むるに憚《はばか》らずそれらは御考にて如何様《いかよう》とも可被成《なさるべく》候。ただ隔月刊行の事は小生絶対的反対に有之候。隔月にするようならば廃刊のまさるに如《し》かずと存候。

 昨年の今頃にありては貴兄と鳴雪翁との気焔《きえん》[燃えるようなさかんな気勢のこと]あたるべからざるものありしやに覚え候。今は小生一人意気込居候。然れども東京にて出すには可なり骨が折れて結果|少《すくな》しと存候。畢竟松山の雑誌なればこそ小生等も思う存分の事出来申候。

 何にせよ小生はただ貴兄を頼むより外に[(すべ)]無く、貴兄もし出来ぬとあれば勿論雑誌は出来ぬことと存候。

 一時編輯を他人に任すはもとより宜しけれど到底それは一時の事にして再び貴兄の頭上に落ち来るは知れたことと存候。

 何分にも松山には人物なきか。熱心家なきか。貴兄を扶助する人一人もなきは御気の毒と申外之無候。またなげかわしき事に存候。

 (中略)

 万里の外に在って小生独り気をもむ処御|憫察《びんさつ》[憐れみ思いやること/そのようにしてくれる相手に対する尊敬語]可被下候。

 年末は小生一年間最多忙の時期殊にこの両三日は一生懸命に働いても働ききれぬほどに御座候。しかし『ほととぎす』の事も忘れ難く、貴兄に弱音を吐かれてはいよいよ心細く相成申候。呵々《かか》。

 貴兄御困難のことも大方推量致し居候えども何卒《なにとぞ》出来るだけの御奮発願上候。

 (下略)

   十二月十八日

   極堂詞伯[(しはく)詩文に巧みな人]

[#ここで字下げ終わり]



 居士の例の執着はここにも頭をもたげて来て、容易に極堂君をして『ホトトギス』から手を引かさしめなかった。そこで極堂君は翌年の夏頃までとにかく続刊して来たのであったが、それが三十一年の十月から余の手に渡って東京に移さるることになったのである。『ホトトギス』が余の手に渡ってから居士と余との関係はまた一変した。道灌山で一度破れた特別の関係がまた違った形で結ばれることになった。

十三

[朗読9]『ホトトギス』が余の手に渡ってから居士と余との関係は非常に密接になった。

 その前から、明治三十年の頃から、居士は和歌の革新を思い立ってその方に一半の努力を割《さ》いていたのであったが、その方は余も碧梧桐君もあまり関係はなかった。初めの間は和歌の会に案内を受けて二、三度行ったこともあったが、余らの作は俳句の調子になってどうも和歌らしいものが出来なかったのでそのまま止めてしまった。碧梧桐君も同様であったように記憶する。それで余らは単に俳句の方の門下生として居士の許に時々顔を出すに過ぎなかったのであったが、いよいよ『ホトトギス』を東京に移して晴々しく文壇に打って出ることになってから、居士の注意も暫くは此の雑誌の方に傾いていたようであり、自然その当事者たる余は最も居士と交渉が多かった。

 碧梧桐君初め多くの同人の頭には、

「虚子が東京で雑誌を遣るそうであるが、そんな馬鹿なことをして成功するものか。」というような軽侮の念があったことは隠くされぬ事実であった。もっともそういう風に同人から同情を得なかったという事は余の注意が行届かなかったのも一つの原因を為《な》しておる。由来余は感興[(かんきょう)興味を感じること。面白がること]に任せて事をするためにいつもそのステップを踏むことを忘れるのである。時には気のついて居る事もあるけれども、気がついていながらそれを踏むことが面倒臭いのである。そのため人から種々の誤解を受け反感を招くのである。これは他人の罪でなく一に余の罪である。此の東京で『ホトトギス』を遣るようになった時も余は居士とは熟議を経たけれども碧梧桐君その他にはあまり念の入った相談はしなかったかと思う。碧梧桐君らがその事についてたいした同情を持たず、時としては反感を抱くことすらあったというのも当然の事だと今からは考えるのである。

 が、諸君とそういう関係であったという事が余と居士との関係をしてますます深からしめる原因ともなったのであった。

「『ホトトギス』は他の何人の力も借らずに二人の力でやらねばならぬ。」

 こういう考は期せずして両人の頭に在った。

『ホトトギス』は予期以上の成功であった。当時の文壇はまだ幼稚であって文学雑誌というものも『早稲田文学』、『帝国文学』、『めさまし草』、その他一、二あったばかりで競争者が少なかったのにも原因するであろうが、初版千五百部が瞬く間に売切れて五百部再版したことはちょっと目ざましいことであった。第二号は千二百部を刷り第三号は千部を刷ったが、いずれも売切れて、第三号はあまり用心し過ぎて大分読者に行渡らず種々の不平を聞いたほどであった。第四号以下は千二、三百から千四、五百に殖えて行ったように記憶する。

 この雑誌売行の成功という事は頗《すこぶ》る仲間の人気を引立てた。居士初め何人も我党の人気がそれほど盛であろうとは予期しなかった事でいずれも多少の意外に感じたことであった。が、同時にまた、

「虚子は我ら仲間が食わしてやっているのだ。」というような不平が同人仲間にあった。これもやはり余に対する同情の少なかったのが原因で、それも余の不注意が最大原因を為しているのであった。

 居士は余と他の人々との間に立って両者の意思を疏通《そつう》[ふさがっているものを通すこと/意思の通じること]することを常に忘れなかった。が、また他の人々の意見を借りて居士自身の不平を余に訴えることも少くはなかった。

 余は先きに『ホトトギス』の関係が出来てから居士の周囲に於ける余の影は再び濃くなったと書いたが、しかし悲しむべきことには一方に妻子を控えていた余は決してその昔し――道灌山以前に――余が居士の周囲に影の濃かった時代に比べると何処《どこ》となく不純なところがあった。かつて居士の眼に、世間の事には全く疎く金銭の事には殆ど低能児だとまで見られていた余が、存外世間の事にかけて居士よりも巧者なことがあり、金銭に於てもそれほど間が抜けていないという事が判った時に、居士は一面に安心したと同時に一面には多少の不快をも感じたに相違なかった。『ホトトギス』は必ずしも営利的の事業という事は出来なかったけれども、幸か不幸か相当に売れて、まず雑誌としては成功した部に属したという事が、同人仲間の関係をしていくらかむずかしくならしめたという事は争うことの出来ぬことであった。それも余がその際に処することが行届いていたならばそれほど難事ではなかったのであろうけれども頗る不行届であったという事が勢いそれをむずかしくならしめたのであった。居士は、居士自身の不平はさて措いて、常にその点に注意を払って余のために『ホトトギス』のために――憂慮していた。

 居士の健康は決していい方に向うのではなかったが、二十八、九年頃の病勢[(びょうせい)病気のいきおい]に比べると大分緩和されたので三十年、三十一年、三十二年という三年間位はそれほど衰弱が増したように余所目《よそめ》には見えなかった。もっともこれは余所目である。居士にしては止むを得ず病気に慣らされて、目立って苦痛を訴えなかったというだけで、その実病勢は漸次に進みつつあったのであろうが、我らの眼にはそれほど著しく映らなかった。

 その間居士の仕事はおよそ三つに分つことが出来た。その一つは俳句の仕事、その二は和歌の仕事、第三は写生文の仕事であった。俳句の仕事は、もう天下の大勢が定まって、ちょっと容易に動かぬまでになっていたので、居士は寧ろ其方よりも当時創業時代にあった和歌革新の事業の方により多くの力を注いでおったのである。けれども居士の事であるから決して俳句の方を疎《おろそ》かにするではなかった。和歌に関する事は主として『日本新聞』紙上に於てし、俳句に関する事は主として『ホトトギス』紙上に於てするようにしていた。その他『ホトトギス』紙上の事業の一つは写生文で、居士は此の方面に於ても我らの中堅となって常に努力を惜まなかった。

 俳句を作るもので和歌を作るものも少しはあったがそれは寧ろ少なかった。どちらかというと俳句の弟子と和歌の弟子とはそれぞれ別々に屯《たむ》ろして居った。そうして写生文の方には初めは俳句の側のものばかりであったが、中頃から和歌の側のものも走《は》せ参じてあたかも両者が半分位ずつの割合となった。

 余は和歌には殆ど無関係であった。それが原因というではなかったが『ホトトギス』には最も和歌の関係が薄かった。初めは強いて二、三の作を載せたがそれもいつか中絶してしまった。そうして俳句の分量が過半であったことはいうまでもないとして、写生文が存外重きを為してまたその方面に著しい進歩のあったことは特に記憶せなければならぬことであった。

 居士もかつてこういうことを言ったことがあった。

「この間紅緑が何かに書いて居ったが、俳句の事業は革新とはいうものの寧ろ復古で、決して新らしい仕事という事は出来ないが、写生文は純然たる新らしい仕事で、これは我ら仲間が創始したものと言って誇ってもいいのである。」

 しかし余をして忌憚《きたん》[はばかること。遠慮すること]なく言わしめば居士の俳句の方面に於ける指導は実に汪洋《おうよう》[水面の広々としたさま、ゆったりしたさま]たる海のような広濶《こうかつ》[ひろびろと眺めの開けている様子]な感じのするものであったが写生文の方面に於ける指導はまだ種々の点に於て到らぬ所が多かったようである。その一、二の例をいえば、居士は頻りに山[#「山」に白丸傍点]ということを唱えて、山のない文章は駄目だとし、特に『水滸伝《すいこでん》』などを講義して居士の認めて山とするものを指示してくれたが、今日から見るとその山なるものはよほど境界の狭いものであった。――文章会を山会と言ったのもそれに基いたのであった。――また居士は山を製造[#「製造」に白丸傍点]することを頻《しき》りに唱道したが、それも晩年になって、自然を寸毫《すんごう》[きわめてわずかなこと]も偽わることは大罪悪なりといった言葉から推すと、自ら否定したものともいえるのである。――少くとも其処《そこ》に矛盾した二個の主張があったともいえるのである。

 居士の盛名[(せいめい)盛んな名声]は日に月に加わって来た。居士の盛名が強大であるに連れて我らのような有象無象《うぞうむぞう》[(仏)世の中の有形無形のもの、森羅万象/世の中にいくらでもあるつまらないもの]も共に有名になって来た。それが相当に勉強して有名になるならば不思議はないのであるが、あまり勉強もしないでいて、有名になって、それで澄ましていたものだから、漸くいらいらして来た居士は何かにつけて余らを罵倒《ばとう》し始めた。居士の晩年に於ける言行は何物に対しても痛罵骨を刺すものであったが殊に余らに対しては最も峻烈《しゅんれつ》[きびしくかつ激しいこと]を極めていた。

 居士はある時余にこういう事を言ったことがあった。

「私《あし》がこう悪口ばかりを言っていて世人が我慢をしているのは病人だからである。これが病人でなかった日にはとても我慢はしていやすまい。それを思うと病人というものはなかなか得なものである。」と。そう言って居士は苦笑した。

 しかしそれは決して病人だからという理由ばかりではなかった。その他居士の人格、事業が世人に認識されて居士のいう事は一つの権威となってしまったからであった。もう居士の文壇に於ける地位は動かそうと思っても動かされぬものになってしまっていた。居士は初めは自分の大を為すために社会に自分の門下生を推挙する必要があった。今は居士の大を為すために、公平に厳密に門下生を品隲《ひんしつ》[品定めをすること]する必要があった。

 こういう事をいうとそれは居士の人格を傷《きずつ》ける議論だという人があるかも知れぬ。私はその議論にくみしない。居士はその位の用意は常に忘れなかった人である。居士はそういう事は超越してもっと高いところに偉大なところがあった。

 一方からいうと居士の門下生に対する執着――愛――がこの時に至るまで熾烈《しれつ》[勢いが盛んで激しい様子]であって黙ってそのぐうたらを観過することを許さなかったのであった。彼らの前途のためにもしくは彼らを見習う多くの青年のためにぜひ一痛棒を加えておく必要を感じたのであった。

 居士に就いていうべき事はなお頗る多い。が、『ホトトギス』東遷後は世人の耳目[(じもく)]に新たなることであるからここにはこれを省き、他日機会を得て別に稿を起こすことにしょうと思う。

十四

[朗読10]『ホトトギス』東遷後の居士の事業が俳句、和歌、写生文の三つであった事は前回に陳《の》べた通りであったが、その他居士は香取秀真《かとりほずま》君[(1874-19540)鋳金(ちゅうきん)工芸の旗手であり、歌人としても知られた人物。ウィキペディアより部分引用すると、「伊藤左千夫、長塚節らと正岡子規門下の根岸短歌会のアララギ派の歌人としても活躍し1954年の宮中新年歌会始の召人として召歌を奏上することが許された。」とある]の鋳物《いもの》を見てから盛にその方面の研究を試み始めたり、伊藤左千夫君[(1864-1913)子規の弟子でもあった歌人かつ小説家]が茶の湯を愛好するところから同じくその方面の趣味にも心をとめて見たり、また晩年は草花類の写生を試みて浅井画伯[前出の浅井忠のこと]などの賞讃を博したりしていた。ある時余が訪問して見ると居士は紙の碁盤の上に泥の碁石を並べていた。別に定石の本とか手合せの本とかを見て並べているわけではなく、ただ自分の考で白と黒との石を交りばんこに紙の上に置いているのであった。それまで殆ど碁というものに就いて何の知識もなかった居士はふと思い立って碁の独り研究を始めたのであった。ある時風が吹いたために折角《せっかく》並べた石が紙と共に飛んでしまって何もなくなってしまったというようなことを居士自身で文章にしたことがあったように記憶する。ある日四方太[前出]青々《せいせい》[松瀬青々(まつせせいせい)(1869-1937)やはり子規に俳句を習った人物]、余の三人が落合って居士もその中に加わって、四人で五目並べをしたことがあった。それもその紙の碁盤と泥の碁石とであった。

 居士の草花の写生は大分長く続いて、なかなか巧みなものであった。水彩画の画《え》の具《ぐ》で書くのであったが、色の用法などは何人にも習わず、また手本というようなものは一冊もなく、ただ目前に草花類を置いていきなりそれを写生するのであったから、色の使用具合とか何とかそういう形式的のことは一切知らずにやるのでちょっと見ると馬鹿に汚い、素人臭い感じのするものであったが、しかしその純朴な単刀直入の写生趣味になかなか面白いものがあった。

 此の絵画の試みも、事実を写生するということが文芸の第一生命であるという居士の確信から来ているのであった。秀真君の鋳物を批評するのにもこの写生ということを極言して従来の型にはまろうとする上に警告を与えるのを常としていた。たとえば、『子規書簡集』にこういう歌が載っている。これは秀真君の鋳物の批評である。



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青丹《あをに》よし奈良の仏もうまけれど写生にますはあらじとぞ思ふ

天平のひだ鎌倉のひだにあらで写生のひだにもはらよるべし

飴売のひだは誠のひだならず誠のひだが美の多きひだ

人の衣に仏のひだをつけんことは竹に桜をつけたらんが如し

第一に線の配合其次も又其次も写生/\なり

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 これは秀真君の作である飴売の襞《ひだ》が型にはまった襞であって面白くない、ぜひ共実際の衣の襞を研究してその写生をせねばいかぬというのである。写生という言葉のくり返してあるところに居士の主張は観取[よく観察して真相を得ること]されるのである。最後の歌に「第一に線の配合」とありて写生以上になお線の配合なるものを置いているところは、居士は写生の上に大活眼を開きながらも、なお旧来の宿論たりし配合論に煩わされていると言っていいのである。もし余をして居士に代って言わしめるなら、

   第一に写生其次も其次も又其次も写生/\なり

と言いたいと思う。線の配合の妙味もまた写生より得来るべきものではなかろうか。

 何はともあれ、居士はかくの如く何事にも研究的で、病を忘れ死を忘れ一日生きていれば一日研究するという態度ですべての事に向ったのであった。居士の病苦の慰藉は一に此の研究そのものに在った。

 その上居士はその研究の結果や自分の意見やを黙って仕舞《しま》い込んでおくことの出来ない人であった。まずこれを友人や門下生に話し、それに対する他人の意見を聴くことを楽みにしていた。殊に歿前[(ぼつぜん)=没前]一、二年は日課として短文を『日本新聞』に出し毎朝その自分の文章を見ることを唯一の楽しみにしていた。新聞社の都合でその文章が一日でも登載されぬことがあると居士の癇癪《かんしゃく》はたちまち破裂して早速新聞社に抗議を申込むのが常であった。ある時は、そんなに紙面の都合で載せられぬなら広告料を支払うから広告面に出してくれなどと言って遣ったことがあるように記憶する。そういう事をして居士は自ら生きる方法を講じていたのである。居士の体は殆ど死んでいたのを常に精神的に自ら生きる工夫を凝らしていたのであった。

 臨終前には大分足に水を持っていた。そこで少しでも足を動かすとたちまち全体に大震動を与えるような痛みを感じたのでその叫喚は烈しいものであった。居士自身ばかりでなく家族の方々や我々まで戦々|兢々《きょうきょう》[恐れつつしむさま、びくびくする様子]として病床に侍していた。

 居士はその水を持った膝を立てていたが、誰かそれを支えているものがないとたちまち倒れそうで痛みを感ずるというので妹君《まいくん》が手を添えておられたがその手が少しでも動くとたちまち大叫喚が始まるのであった。ある時妹君が用事があって立たれる時に余は代ってその役目に当った。その頃の居士は座敷の方を枕にしていたので――臨終の時の姿勢もその時の通りであった――いつも座敷に坐っていた我らは暫く居士の顔を見なかったのであったが、そのいたましい脚に手を支えながら暫くぶりに見た居士の顔は全く死相を現じていたのに余は喫驚した。

 臨終に近い病人の床には必ず聞こゆる一種の臭気が鼻を突いた。大小便を取ることも自由でなかったのでその臭気は随分烈しかった。

「臭いぞよ。」と居士は注意するように余に言った。

「それほどでもない。」と余は答えた。

 左の手で、仰臥しておる居士の右脚を支えるのであったがじっと支えているうちに手がちぎれそうに痛くなって来た。けれどもその余の手が微動をしても忽ち大震動を居士の全身に与えることになるのだからじっと我慢していなければならなかった。それは随分辛かった。その上根岸は蚊が名物なので、そうやっている手にも首筋にも額にも蚊が来てとまる、それを打つことも払うことも出来ないので大《おおい》に弱った。その時居士はこんなことを言った。

脇の修行が出来るよ。」と。それは微動もせずにじっと端坐しているのが、能の脇の修行になると戯れたのであった。その頃余も碧梧桐君も宝生金五郎《ほうしょうきんごろう》翁の勧めに従って脇連《わきづれ》などに出ていたのであった。

 前の臭いぞよ、と言った言葉も、この脇の修行が出来るよ、と言った言葉もすこし舌がもつれて明瞭には響かなかった。けれども十分に聞き取れぬほどではなかった。

 この頃でもなお居士は例の新聞に出す日課の短文を止めなかった。試に九月十二日以後の文を抜載する。



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▲支那や朝鮮では今でも拷問《ごうもん》をするそうだが自分はきのう以来昼夜の別なく五体すきなしという拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。(十二日)

▲人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるがしかしそんなに極度にまで想像したような苦痛が自分のこの身の上に来るとは一寸想像せられぬ事である。(十三日)

▲足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大磐石の如し。僅に指頭[(しとう)]を以てこの脚頭に触るれば天地震動、草木号叫。女蝸《じょか》氏[中国(史記)に見られる女神。人類を生みなしたが、災難にあって亀の肢体を切り取って柱となし、玉を星として天球の穴を塞ぐなどして人々を守ったという]未だこの足を断じ去って、五色の石を作らず。(十四日)

▲芭蕉が奥羽行脚の時に尾花沢という出羽の山奥に宿を乞うて馬小屋の隣にようよう一夜の夢を結んだ事があるそうだ。ころしも夏であったので、

   蚤《のみ》虱《しらみ》馬のしとする枕許

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という一句を得て形見とした。しかし芭蕉はそれほど臭気に辟易《へきえき》はしなかったろうと覚える。

▼上野の動物園にいって見ると(今は知らぬが)前には虎の檻《おり》の前などに来るともの珍らし気に江戸児のちゃきちゃきなどが立留って見て鼻をつまみながら、くせえくせえなどと悪口をいって居る、その後へ来た青毛布《あおげっと》のじいさんなどは一向匂いなにかは平気な様子でただ虎のでけえのに驚いている。(十五日)

芳菲山人《ほうひさんじん》[(1855-1909)おなら大師として、放屁山人をもじったのがこの名称らしい。本名は西松二郎で、長崎の出身。地質学を学び、後に教師として活躍した]より来書。(十七日)

拝啓昨今御病床六尺の記二、三寸に過《すぎ》ず頗《すこぶ》る不穏に存候間《ぞんじそうろうあいだ》御見舞申上候|達磨《だるま》儀も盆頃より引籠り縄鉢巻《なわはちまき》にて筧《かけひ》の滝に荒行中|御無音致候《ごぶいんいたしそうろう》。

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俳病の夢みなるらんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか
[これは社会風刺や皮肉などを歌い込む和歌のジャンル「狂歌(きょうか)」であるそうだ]

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 即ち居士の日課の短文――『病牀六尺』――はこれで終末を告げている。そうして居士は越えて一日、九月十九日の午前一時頃に瞑目《めいもく》[目を閉じること/そこから、死ぬこと]したのであった。実に居士は歿前二日までその稿を続けたのであった。

 もっともそれらの文章は、代り合って枕頭に侍していた我らが居士の口授[(こうじゅ・くじゅ)口伝えに教えを授けること。口伝(くでん)]を筆記したものであった。前に陳《の》べた余が居士の足を支えたというのはたしか十三日であったかと思う。

 十三日の夜は余が泊り番であった。余は座敷に寝て、私《ひそ》かに病室の容子を窺《うかが》っていたのであったが、存外やすらかに居士は眠った。居士の眼がさめたのはもう障子が白んでからであった。

 まず居士は糞尿の始末を妹君にさせた。その時、「納豆々々」という売声が裏門に当る前田の邸中に聞こえた。居士は、

「あら納豆売が珍らしく来たよ。」と言った。それから、「あの納豆を買っておやりなさいや。」と母堂に言った。母堂は縁に立ってその納豆を買われた。

 居士はこの朝は非常に気分がいいと言って、余に文章を筆記させた。「九月十四日の朝」と題する文章がそれで、それは当時の『ホトトギス』に載せ、『子規小品文集』中にも収めてある。



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    九月十四日の朝

 朝蚊帳の中で目が覚めた。なお半ば夢中であったがおいおいというて人を起した。次の間に寝ている妹と、座敷に寝ている虚子とは同時に返事をして起きて来た。虚子は看護のためにゆうべ泊ってくれたのである。雨戸を明ける。蚊帳をはずす。この際余は口の内に一種の不愉快を感ずると共に、喉《のど》が渇いて全く湿いのない事を感じたから、用意のために枕許の盆に載せてあった甲州|葡萄《ぶどう》を十粒ほど食った。何ともいえぬ旨さであった。金茎[中国の逸話にもとずく。漢の武帝が、不老不死の天の露を受けるために設けたとされる承露盤を支えるための銅の柱のこと]の露一杯という心持がした。かくてようように眠りがはっきりと覚めたので十分に体の不安と苦痛とを感じて来た。今人を呼び起したのも勿論それだけの用はあったので、直ちにうちの者に不浄物を取除けさした。余は四、五日前より容体が急に変って、今までも殆ど動かす事の出来なかった両脚がにわかに水を持ったように膨れ上って一分も五厘も動かす事が出来なくなったのである。そろりそろり脛と皿の下へ手をあてがって動かして見ようとすると、大磐石[(だいばんじゃく)大きな岩、物事の土台がどっしりと構えて揺るぎないこと]の如く落着いた脚は非常の苦痛を感ぜねばならぬ。余はしばしば種々の苦痛を経験した事があるが、この度の様な非常な苦痛を感ずるのは始めてである。それがためにこの二、三日は余の苦しみと、家内の騒ぎと、友人の看護|旁《かたがた》訪い来るなどで、病室には一種不穏の徴を示して居る。昨夜も大勢来て居った友人(碧梧桐、鼠骨、左千夫、秀真、節《たかし》)は帰ってしもうて余らの眠りに就いたのは一時頃であったが、今朝起きて見ると足の動かぬ事は前日と同じであるが、昨夜に限って殆ど間断なく熟睡を得たためであるか精神は非常に安穏であった。顔はすこし南向きになったままちっとも動かれぬ姿勢になっているのであるが、そのままにガラス障子の外を静かに眺めた。時は六時を過ぎた位であるが、ぼんやりと曇った空は少しの風もない甚だ静かな景色である。窓の前に一間半の高さにかけた竹の棚には葭簀《よしず》が三枚ばかり載せてあって、その東側から登りかけて居る糸瓜《へちま》は十本ほどのやつが皆痩せてしもうて、まだ棚の上までは得取りつかずに居る。花も二、三輪しか咲いていない。正面には女郎花《おみなえし》が一番高く咲いて鶏頭はそれよりも少し低く五、六本散らばって居る。秋海棠《しゅうかいどう》はなお衰えずにその梢を見せて居る。余は病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持って静かにこの庭を眺めた事はない。嗽《うがい》をする。虚子と話をする。南向うの家には尋常二年生位な声で本の復習を始めたようである。やがて納豆売が来た。余の家の南側は小路にはなって居るが、もと加賀の外邸内であるのでこの小路も行き止りであるところから、豆腐売りでさえこの裏路へ来る事は極めて少ないのである。それでたまたま珍らしい飲食商人が這入って来ると、余は奨励のためにそれを買うてやりたくなる。今朝は珍らしく納豆売りが来たので邸内の人はあちらからもこちらからも納豆を買うて居る声が聞える。余もそれを食いたいというのではないが少し買わせた。虚子と共に須磨に居た朝の事を話しながら外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたかと思ふように[#「思ふように」はママ]、糸瓜の葉が一枚二枚だけひらひらと動く。その度に秋の涼しさは[(はだ)]に浸《し》む様に思うて何ともいえぬよい心持であった。何だか苦痛極って暫く病気を感じないようなのも不思議に思われたので、文章に書いて見たくなって余は口で綴る。虚子に頼んでそれを記してもろうた。筆記し了えた処へ母が来て、ソップ[スープのこと]は来て居るのぞなというた。

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 もう自分の命が旦夕《たんせき》[朝夕/始終/いよいよ今晩か明日の朝かと切迫する様子]に迫っているのに奨励のために納豆を買わせるなどは居士の面目を発揮したものである。この文中に「須磨に居た朝の事を話す」とあるのは、独りこの日ばかりでなく、談話の材料に窮した時は余はいつも須磨を話題に選んだものであった。前にも書いたことがあるように須磨の静養は居士の生涯に於ける最も快適な一時期であったので、如何に機嫌の悪い時でも、どうかして話の蔓《つる》をたどってそれを須磨にさえ持って行けば、大概居士の機嫌は直おったのであった。この朝は初めから機嫌がよかったが、話は自然須磨に及んで居士はやや不明瞭な言葉で暫く楽しく語り合った。

「足あり仁王の如し……」云々《うんぬん》という記事もこの文章を書いた序《ついで》に余が筆記したもののように覚えて居る。

 その翌日の十五日の記事に糞尿の臭気の事が三項まで書いてあるのは居士自身病床の臭気に基いたものに相違ない。その二項共が臭気の弁護になっているところも居士の面目を発揮している。

 それから十六日には記事がなく、十七日には芳菲山人の来書が代りに載せてあって、十八日も欠け、十九日朝に永眠されたのであった。それから思うと十五日の臭気の記事を除くと、実に十四日の朝の記事は居士の最後の文章と言ってもいいものであったのである。

 十五日から十七日までのことは記憶が朧気《おぼろげ》であるが、十八日の午前であったか、午後であったか、余らが枕頭に控えていると居士は数日来同じ姿勢を取ったままで音もなく眠って居た。其処《そこ》へ宮本|仲《ちゅう》氏――医師――が見えて、

「どの辺が苦しいですか。」と聞いた。

「この辺一面に……」と居士は左の手で胸の当りを教えた。胸部には水が来て居ったが、手の方は痩せたままであったので、殆ど骨に皮を着せたような大きな手を広ろげるようにしてその胸部を教えた時の光景が目に染み込んでいる。

「そうですか。それでは楽にしてあげますよ。」と宮本氏は子供にでも言って聞かすような調子で言って何か粉薬を服用させた。それもガラス管で水を吸い上げるようにして飲んだのであった。

 それから居士は眠ったようであった。枕頭にいる我らも黙りこくっていた。沈鬱[(ちんうつ)気分が沈んでふさぎ込むこと]な空気が部屋に漂っていた。それから暫くして居士はまた目を覚まして、口が渇《かわ》くのであろう、

「水……」と言った。妹君は先刻服薬した時のようにやはりガラスの管《くだ》で飲ませた。居士はそれを飲んでから、

「今誰が来ておいでるのぞい。」と聞いた。妹君は枕頭に固まっていた我らの名を読み上げた。

 それから暫くの間の事は記憶していない、たしか余は他の人と交代して一応自分の家に引取ったものかと思う。

 その十八日の夜は皆帰ってしまって、余一人座敷に床を展《の》べて寝ることになった。どうも寝る気がしないので庭に降りて見た。それは十二時頃であったろう。糸瓜の棚の上あたりに明るい月が掛っていた。余は黙ってその月を仰いだまま不思議な心持に鎖《とざ》されて暫く突立っていた。

 やがてまた座敷に戻って病床の居士を覗いて見るとよく眠っていた。

「さあ清さんお休み下さい。また代ってもらいますから。」と母堂が言われた。母堂は少し前まで臥せっていられたのであった。そこで今まで起きていた妹君も次の間に休まれることになったので、余も座敷の床の中に這入った。

 眠ったか眠らぬかと思ううちに、

「清《きよ》さん清さん。」という声が聞こえた。その声は狼狽《ろうばい》した声であった。余が蹶起《けっき》[思いきって立ちあがること/断固として行動に打って出ること]して病床に行く時に妹君も次の間から出て来られた。

 その時母堂が何と言われたかは記憶していない。けれどもこういう意味の事を言われた。居士の枕頭に鷹見氏の夫人と二人で話しながら夜伽《よとぎ》をして居られたのだが、あまり静かなので、ふと気がついて覗いて見ると、もう呼吸《いき》はなかったというのであった。

 妹君は泣きながら「兄さん兄さん」と呼ばれたが返事がなかった。跣足《はだし》のままで隣家に行かれた。それは電話を借りて医師に急を報じたのであった。

 余はとにかく近処にいる碧梧桐、鼠骨二君に知らせようと思って門《かど》を出た。

 その時であった、さっきよりももっと晴れ渡った明るい旧暦十七夜の月が大空の真中に在った。丁度一時から二時頃の間であった。当時の加賀邸の黒板塀と向いの地面の竹垣との間の狭い通路である鶯横町がその月のために昼のように明るく照らされていた。余の真黒な影法師は大地の上に在った。黒板塀に当っている月の光はあまり明かで何物かが其処《そこ》に流れて行くような心持がした。子規居士の霊が今空中に騰《のぼ》りつつあるのではないかというような心持がした。

   子規逝くや十七日の月明に

 そういう語呂が口のうちに呟《つぶや》かれた。余は居士の霊を見上げるような心持で月明の空を見上げた。

 両君を起こして帰って来て見ると母堂と鷹見夫人とはなお枕頭に坐っておられた。妹君は次の間に泣いておられた。殆ど居士の介抱のために生きて居られたような妹君だもの、たとい今日あることは数年前から予期されていたことにせよ、今更別離の情の堪え難いのは当然の事である。何事にも諦らめのいい女々しい事は一度も言われたことのない母堂も今外から戻って来た余を見ると急に泣き出された。余は言うべき言葉がなくって黙ってその傍に坐った。

「升《のぼ》は清《きよ》さんが一番好きであった。清さんには一方ならんお世話になった。」と母堂は言われた。それは鷹見夫人に向って言われたのであった。余は何と答えていいかを弁《わきま》えなかった。相変らず黙って坐っているばかりであった。

 碧梧桐君や鼠骨君や羯南先生なども見えた。何にせよ天明を待たねばならなかった。

 羯南先生を中心にして一同で暁を待った心持はしめやかであった。

 医師が来てから間もなく夜が開けた。羯南先生の宅を本陣にして葬儀その他についての評議が開かれてからは落着いた心持はなかった。

 その夜の通夜《つや》は「談笑平日の如くなるべきこと。」という予《か》ねての居士の意見に従って自然に任せておいた。余は前夜の睡眠不足のために堪え難くて一枚の布団を※[#「木+解」、第3水準1-86-22]餅《かしわもち》にして少し眠った。

 一人の俳人のそれを低声に誹謗《ひぼう》しつつあるのを聞きながら余はうつらうつらと夢に入った。

 居士|逝去《せいきょ》後|俄《にわか》にまめまめしげに居士の弟子となった人も沢山あった。その人らは好んで余らの不謹慎を責めた。

 居士逝去後居士に対して悪声を放つ人はあまりなかった。ただ一人あった。

 余と碧梧桐君とは居士の意を酌《く》んで、「死後」と題する文章に在るような質素を極めた葬儀にせようと思ったがそれは空想であった。

 けれどもその葬儀はやはり質素な葬儀であった。

 私はこれで一先《ひとまず》居士追懐談の筆を止《と》めようと思う。私は今でもなお、居士の新らしい骸《むくろ》の前で母堂の言われた言葉を思い出す度《たび》に、深い考に沈むのである。余の生涯は要するに居士の好意に辜負《こふ》[(期待などに)背く/(好意などを)無にする]した生涯であったのであろう。

[#地から2字上げ](大正三年二月十三日夜十一時半擱筆
[(かくひつ)筆を置くこと。文章を終えること]

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(例)しば/\

青空文庫データ

底本:「回想 子規・漱石」岩波文庫、岩波書店
   2002(平成14)年8月20日第1刷発行
   2006(平成18)年9月5日第5刷発行
底本の親本:「子規居士と余」日月社
   1915(大正4)年6月25日発行
初出:「ホトトギス」
   1911(明治44)年12月〜1912(明治45)年3、5、6月号
   1912(大正元)年8、10月号
   1913(大正2)年1月号
   1914(大正3)年12月号
   1915(大正4)年1〜3月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年12月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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2011/2/15-3/2

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