藤原定家 ――歌論、和歌とその朗読
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『近代秀歌(きんだいしゅうか)』 朗読版
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………もとは鎌倉幕府の将軍、源実朝(みなもとのさねとも)の依頼に応じて執筆された和歌の指南であったと考えられるが、後年和歌例の部分が改められた。随筆としても、きわめて高い完成度を持つ。
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『詠歌大概(えいがのたいがい)』 朗読版
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………『近代秀歌』の後、承久の乱(1221年)の後に執筆された漢文による歌論と、八代集より選抜した秀歌例。
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『毎月抄(まいげつしょう)』 朗読版
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………詳細は不明で、偽作説まであるが、おそらくは定家のものであろうとされる歌論。歌論としてはまとまった長さを持つ。
藤原定家 (1162-1241)
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年代暗記方 (懲りずにまた……)
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いい色に(1162) 染めてし藤の 原ならば
定めて家も ひとに良いもの(1241)
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家柄と親について
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………藤原定家(ふじわらのさだいえ・ていか)(法名、明静・みょうじょう)(1162-1241)。藤原北家のうち、藤原道長の息子の一人、長家を祖とする御子左家(みこひだりけ)の流れである。父親は、『千載和歌集』の編者であり、歌論書『古来風躰抄』の作者でもある藤原俊成(ふじわらのとしなり/しゅんぜい)(法名、釈阿)(1114-1204)であり、その次男に当たる。
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略歴
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………和歌の名門として、幼少より教育を受けたと思われ、1178年には歌合(うたあわせ)にも参加。和歌の腕前は優れたもので、二十歳には「初学百題」を、翌年「堀川題百題」を詠む。父は親馬鹿委みたような、涙を流したとも言う。1180年から記され、晩年まで書き続けられた日記『明月記(めいげつき)』は、当時の歴史資料としても重要であるが、そこには当時の源氏と平氏の争いを、「我が事にあらず」と記している。はたして「我が行くは和歌の道なり」と確信していたかどうか、それは分からない……
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1166年にはすでに授爵(じゅしゃく)。1175年には侍従(じじゅう)としての役職を得るなど、出世の道も順調かと思われたが、24歳の時には、宮中で少将源雅行に屈辱されたとして、燭台で頬を殴りつけて、しばらく除籍させるような血気盛んな性格を見せている。和歌においても、譲れないところは曲げないタイプの人物で、ありそんな性格も災いしてか、最終的に正二位権中納言にまでたどり着くまでの道は険しく、自らが望んだ政治家としての活躍も、完全には果たされなかったという。
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和歌については、彼の新しい歌風は、禅問答のように難解であるとして、当初、禅宗の始祖達磨(だるま)大師にあやかって、「達磨歌(だるまうた)」などと非難されることとなった。しかし、西行に勧められた『二見浦(ふたみがうら)百首』(1186年)には、
見わたせば 花ももみぢも なかりけり
浦のとま屋の 秋の夕ぐれ
などの秀歌を納めるなど、優れた和歌を生みなし、翌年には『殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)百首」』を詠まれ、また父俊成により撰ばれた勅撰和歌集『千載集』(1188年)において8首が採用されるなど、次第に非難を凌駕する名声を獲得していくことになる。
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1186年からは、九条兼実(くじょうかねざね)のもとに仕えるようになり、九条家の和歌のサークルの一員として、藤原良経や慈円などとの交流を深め、たとえば1193年に開かれた『六百番歌合』で詠まれた百首の歌からは、後に多くの和歌が、新古今和歌集に収められることにもなるのだった。
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位階も1190年に従四位下、1195年には従四位上になるなど、九条家の庇護に昇進を進めたが、1196年、源通親により九条兼実が失脚させられると、しばらく不遇の時期を迎える事となった、その間、嫡男である為家(ためいえ)(和歌の家としての跡取り)が誕生する一方、三十代半ばからは病に悩まされるようになるが、1200年、後鳥羽院の『院初度百首』に詠んだ歌が認められ、後鳥羽院の支持のもと、後鳥羽院主催の各種歌合などで中心的な人物として活躍していくこととなった。
駒とめて 袖うちはらふ かげもなし
佐野のわたりの 雪の夕暮
はこの『院初度百首』の歌である。
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さらに翌年には『新古今和歌集』の選者の一人に任命され、歌壇での名声を高めながら、1202年には左近衛権中将となり、1210年には内蔵頭、翌年従三位となり、1214年には参議に加わるなど、出世を進めて行った。
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歌論書の執筆も進め、自らの和歌集である『拾遺愚草』を選定するなど、歌人としての活躍を続けるが、和歌に対する意志の強さか、自らの性格のなせる技か、次第に後鳥羽院との関係が悪化し、1220年には出座と出詠が禁止されるという、歌界追放のような厳しい処分を受けることとなった。
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ところが、不思議な因果もあったもので、1221年、承久の乱が勃発し、あっけなく破れた後鳥羽院は隠岐の島へと流されて、謹慎していた定家は、九条家の後見もあり、歌壇の中心人物として、戦後の歌界に君臨することとなったのである。その後、歌人としての活躍は減少するが、古典の写本や、後堀河天皇より命を受けての、単独撰集である『新勅撰和歌集』(1235年完成)の選定、同じ頃、親友である宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)の依頼により選別した和歌は、『小倉百人一首』の原型となる。1233年には出家して法名を明静と名乗り、1241年に亡くなった。
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血縁関係
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………従兄弟の関係にある藤原定長(法名、寂蓮・じゃくれん)(1139-1202)は、俊成の養子であるため、義理の兄にあたり、姉が定家の後妻である西園寺公経(さいおんじきんつね)(1171-1244)は、西園寺家の発祥ともされるが、定家の義理の弟である。また親交の深い宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)は、娘を定家の嫡男、為家(ためいえ)に嫁がせてからの長い付き合いである。
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写本について
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定家仮名遣いについて
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………藤原定家の執筆とされる『下官集』(げかんしゅう)、あるいは『下官抄』(げかんしょう)と呼ばれるものは、
「書物の書き始めはページ右側からで構わないこと」
「仮名書きを続け書きする場合、意味のまとまりを考慮に入れること」
「和歌の行を分かつときは、上の句と下の句で分けること」
「書物に付箋(ふせん)、つまりしおりを付けること」
など、和歌や写本の執筆の際の注意事項を示したものであるが、その中に「文字を嫌ふこと」、つまり「仮名文字を選択すること」への注意事項が記されている。これは自身の作業のための実践的なものであったが、
「を・お」「え・へ・ゑ」「ひ・ゐ・い」
といった、当時発音上の違いが失われた仮名表記を、どのように使用すべきかという指標を定めたものである。
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これを十四世紀、南北朝時代に活躍した行阿(ぎょうあ)が、『仮名文字遣』として改訂することによって、明治時代初期まで使用された、「旧版歴史仮名遣い」とでも言うべきものが完成し、藤原定家の名を冠して、「さだちゃん仮名遣い」……ではなく「定家仮名遣い」として呼ばれるものとなった。
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今日まで使用される「歴史的仮名遣い」と呼ばれるものは、江戸時代に契沖(けいちゅう)という国学者が、真に古典文献に基づく正統なる仮名遣いを定めたもの、いわゆる「契沖仮名遣い」を元にして、明治時代に公用として定められたものである。
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一方、
「おなじ発音なのに違う仮名を使うなんて、分かりづらいじゃないか」
との意見は戦前から活発だったが、結局戦後、占領者たるアメリカの外圧によって、1946年「現代かなづかい」が定められ、さらにこれが1986年に「現代仮名遣い」に修正されたものが、今日使用されている、つまりは私たちの一般的仮名遣いである。これに対して、「改訂版契沖仮名遣い」とでも呼ぶべきものは、古典に使用される仮名遣い、すなわち「歴史的仮名遣い」として、今日でも学生を悩ませ、あるいはエセ通人を喜ばせたりしている。
藤原定家のリンク
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ウィキペディア
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………「藤原定家」の解説
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ウィキクォート
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………「藤原定家」の引用
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千人万首 藤原定家
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………「やまとうた」のなかの「藤原定家」の和歌紹介
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藤原定家:超新星と陰陽道
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………「銀月の部屋」のなかの「藤原定家」の紹介。和歌とは関係なし。キーワードは蟹?。
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ウィキペディア
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………「テイカカズラ」の解説
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定家煮
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………わたしだってもっと定家の紹介らしいサイトを置きたいのだが……
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