その二十五 補遺三 終わりにかえて

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はじめての八代集その二十五 補遺三 終わりにかえて

 こうしてみると、『八代集』の和歌に優れたものと、劣ったものがあるように、近代のものにも秀歌から駄歌までがひしめいて、その優劣は、作品を吟味するほか無いということが分ります。それはもちろん、今日の作品にも当てはまることで、いくつもの優れた作品が、一人の作者のうちに見いだせるとき、その歌い手は、優れた歌人であると述べることが出来る訳です。

 正岡子規以外、予備的な知識に乏しく、彼らへの思い入れなど、ほとんど見られない、わたしの『補遺二』における分類からも、やはり一般人に知られているような、与謝野晶子や石川啄木といった人の短歌は、詠み手の心情が、それを伝えるのにもっともふさわしい言葉で表現されているのを、見いだせたのではないでしょうか。そうであるならば、彼らもまた、いにしえの歌人たちの系譜に、名を連ねるべき人物には他ならないということですし、一方、サークル内の歴史に名を残すくらいの人物が、今日のサークルの皆さまにも典型的な、エゴや頓智のひけらかし、生みなしてしまった着想を、たぐいまれなるお披露目へと結びつけたいような、欲求のあふれかえった嫌らしさを、振りまいているのであれば、彼らはその系譜に、名を連ねるべき人物ではないということにもなるでしょう。

  最後に、作品の評価について、
 わたしは本文のなかにも、自分の評価が変化していくさまを、ところどころに織り込んでおきました。それはわたしの判断が、暫定的(ざんていてき)なものに過ぎなくて、あるいは一年後、二年後に眺めれば、その三十一字(みそひともじ)への評価も、変わってくる可能性があることを、白状しているに過ぎませんが、何よりも伝えたかったのは、あなた方が和歌を眺める際も、はじめに感じたときの印象や評価というものは、特に初学のうちは、どんどん変化していくものですから、安易に優劣の判断などを付けずに、他人の言葉を信じすぎずに、「もう一度解釈したら印象はどう変わるだろう」そんな好奇心を、いつまでも持ち続けて欲しいということです。
 わたしの執筆でも、特に批判を加えた場合には、嫌になるくらいその作品を、口に出して唱えてみるのですが、「木に花咲き」や「曼珠沙華」の短歌のように、批判を加えながらも、はたしてこれは悪いものなのか、あるいは取るべきものがあるものなのか、口に唱えるほどに、評価の定まり切らないものさえあるくらいです。
 ただしこの二つは、現時点ではやはり執筆したようなわだかまりを、繰り返すたびに浮かべてしまうものですから、わたしのなかでは、どうしても秀歌とは呼べないものですが、やはり批判を記しながら大いに悩まされた短歌として、

朝顔の ひとつはさける 竹のうら
 ともしきものは 命なるかな
               芥川龍之介

 この作品については、わたしの執筆時の判断の方があやまりであり、実際はなかなかに優れた作品であることを、ここに謝罪し、訂正を加えたいと思います。この作品の「ひとつはさける」は、決して大げさなジェスチャーではなく、むしろ冷たいものが宿っているようです。命を推しはかる詠み手の精神には、むしろ「ぶっきらぼうなさみしさ」のようなものが感じられるくらいです。

  この訂正によって、
 読み返すことにより、評価が変わる可能性については、十分伝えられたかと思います。あなた方は、わたしの解釈もまた、ひとつの参考くらいにとどめて、いつかきっと、自分自身にしっくり来るような、それぞれの和歌の解釈を、見いだしてくださったなら、それにまさる幸いはありません。
 それでは、長らくのお付き合い、
   ありがとうございました。
     これをもって、『八代集』の初学を、
   修了(しゅうりょう)させていただきます。
 いつか、機会があれば、
   中級でお会いしましょう。
     それでは、さようなら。

          (をはり)

2015/3/23
2015/05/04 朗読掲載

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