八代集その二十三 補遺(ほい)一

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はじめての八代集その二十三 補遺(ほい)一

 私は『八代集』の紹介に割り込ませるように、いくつかの短歌と呼ばれる作品を、おなじ基準で吟味してきました。ここでは、これまで紹介してきた短歌、さらには新たな作品を掲載して、いつわりの表現に、幾ばくかの批判を加えてみたいと思います。そうすることは、和歌とはどのようなものであるかを読み解くのに、有意義なところがあるかと思われるからです。
 それでは、『金葉和歌集』の「三十一字(みそひともじ)」に掲載された短歌から始めてみましょうか。

われの眼(め)の
  つひに見るなき 世はありて
 昼のもなかを 白萩の散る
          明石海人 『白描』

 この短歌は、失明した作者が、
   見ることのない白萩を思うというものですが、
    「わたしの見ることのない白萩は散るだろう」
くらいなら、わたしたちも、詠み手の思いを察して、
 ちょっとした同情すら起こしそうなものですが、よりによって、
    「わたしの目がついに見ることのなかった、
        世のなかはあって、
       昼のさなかに、白萩が散っているのである」
などと、高らかに宣言してしまったものですから、心情をさりげなく詠んだものとは思われず、大げさな大根役者が、安っぽい台詞で、
    「おお、わたしの目。
       この目のついに見ることの無かった、
      この世のなかに」
なんて、見え透いた芝居でも行っているような、対外意識ばかりが伝わってきます。一方で台詞であるとすれば、あまりにも修辞の欠けらもない、つたない文章に過ぎないものですから、
    「なんでこの人は、
       こころから感じていることをではなく、
      自分をひけらかしたいばかりの、
        下手な芝居をうつのだろうか」
というような、不愉快な印象が先に立つことになり、
 詩としては破綻してしまうようです。

 つまりは、わたしが盲目であることを、どうしても分らせようとしたために、「わたしが見ることの無かった」くらいなら、あるいは「もしかしてこの人は目が見えないのではないだろうか」と、聞き手から寄り添って来そうな所を、「わたしの目が見ることが無かった」なんて、着想をお披露目しまったために、創作の舞台裏が、丸だしになってしまったのが原因かと思われます。
 さらに二句目の、「つひに見るなき」というのも、「知られない思い」という言葉を「知るない思い」と書いて、同級生から、失笑を買うような印象がついて回り、使用された言葉ではありますが、こなれた表現とは言えません。「つひに見るなき」ではなく「見ることはなき」くらいならナチュラルな表現なのに、という気分がしてきますから、ここでもまた、どうにか「つひに」という言葉を込めたくて躍起になっている、作者の影がちらついて、興ざめを引き起こします。

 あるいは、病により若くして亡くなったので、知名度があるのかも知れませんが、そろそろ伝記や境遇ではなく、作品の質によって、評価をすべき時代ではないでしょうか。むかし「山田かまち」とかいうものがはやったことがありますが、同年代にいくらでも代替可能な、書籍にすべき価値すらないものを、ただ若くして死んだからからとか、目が見えないものだからといって、むらがるような体質からは、そろそろ脱却した方がよいと、わたしなどは、心配するのですけれども……

[ただし何の取りどころも無い「かまち」などとは違って、明石海人の場合は、
    さくら花 かつ散る今日の 夕ぐれを
     幾世の底より 鐘のなりくる
といった採用されうる短歌も残していますから、必ずしも同列に述べるべきものではありませんが。]

いちまいの ガーゼのごとき 風たちて
  つつまれやすし 傷待つ胸は
          小池光 『バルサの翼』

 同じ詩集内の代表作、
    「バルサの木 ゆふべに抱きて 帰らむに
       見知らぬ色の 空におびゆる」
における「帰らむに」には、大いにあやしいところがありますが、(それ以前に、着想自体が捏ねすぎて、嫌みにあふれていますが)「いちまいのガーゼ」の方は、全体の古語的な傾向は、統一が取れていて、不自然なところはありません。
 もちろん「如し」や音便くらいの、少し前には使用されていた表現を、みずからが咀嚼(そしゃく)した言葉として、詠みなしているからには違いありませんが、したがってこの短歌を優れたもののように感じる人も、おそらくはいるかと思われます。そう感じたなら今は、そのままでよいのですが……

 この短歌の嫌みは、その内容にあります。
    「いちまいの ガーゼのような 風がたって
       包まれやすいものであるよ
         傷を待っているような胸は」
 上の句の意味は、一枚のガーゼが揺れるくらいの、淡い風が立ったということで、「たちて」とあるからには、もし「立ったなら」ではなく、実際に立った時に、
    「包まれやすいものだなあ、
      傷を待っている胸は」
と感じたという内容です。

 ところで、「傷待つ胸は」という表現は、
  二つの解釈が成り立ちます。
 一つは詠み手が淡い風を感じて、
     「傷を待っている胸は包まれやすいものだ」
とみずから思った場合。もう一つは、
     「傷を待っている胸というものは、
        包まれやすいものだな」
と相手を推し量った場合です。
 けれどもし、青春さなかであろう詠み手が、
  自らのセンチメンタルにまかせて、
      「傷つくことを待っている胸は、
        包まれやすいものだ」
などと、気障な台詞を述べたものであるとするならば、さすがに上の句の
      「いちまいのガーゼのような風が立って」
というのは、傷つきやすい自らのこころを表現したものとしては虚飾に過ぎて、本当に感じたことを述べたものとは思われなくなりますから、どうにかして、うまい表現をしてやろうか、という着想への執着が鼻につくことになります。極言すれば、多感時代の少年、あるいは青年が感じた思いとしては、修飾が過ぎる、いつわりの落書には過ぎません。

 もっと分りやすく述べるなら、
    「わずかな風にさえ飛ばされてしまいそうな思い」
なら、風のほうが比喩として思いを引き立てますが、これをもし、
    「いちまいのガーゼのような風にさえ、
         飛ばされてしまいそうな思い」
とすると、比喩の解説が過ぎて、思いを修飾しようとして風を持ち出したのではなく、はなから「いちまいのガーゼのような風」を述べることが目的だったように感じられるものですから、思いを比喩したものとしては、ストレートに響いてこないのです。つまりは、立ち止まって、自称「たぐいまれなる表現」を吟味しなければならなくなりますから、作者のひけらかしパーティーに出席させられたような、嫌な気分にさせられる訳です。

 では反対に、センチメンタルな少年を、推し量ったものとするならばどうでしょうか。もちろん、傷つきやすい青春に身を置くような当事者からすれば、
    「そんな飾りまくった言葉で、
       美化しまくてんじゃねえよ」
という不愉快が湧いてくるのはもちろんですが、
  かつてそのような時期に、
 傷を受けた経験のある者が詠んだとしても、
     「そんなおめかしのすぎたような、
        イミテーションの情緒じゃないだろうに」
という、嫌な気分が湧いてきます。
 つまりは青年時代に、精一杯の傷すらついたこともないような大人が、美辞麗句を並べ立てては、少年時代を美化して詠んで差し上げているような印象で、おそらくこの短歌を楽しめるのは、全力で生きることすら知らずに、本当の傷など心に受けたこともなく、ハウス栽培のゆったりと成長し、なんの疑惑もなく就職でもしたような、同じスーツのサラリーマン体質に、どっぷりと染められたような人々。それだからこそ、一定の信任を得ることも、当然と言えば当然なのですが……

 もし「心」と「姿」ということを考えれば、この短歌は、心をもてあそんで、姿を着飾ったような傾向がある。そこに嫌みがこもるのです。けれどもまた、それだけのことを感じるには、三十一文字(みそひともじ)の形式と触れ合う歳月が必要であり、初学者がこれをすぐれた短歌のように錯覚したとしても、それはまったく無理のないことです。
 それならそれで、すばらしいと感じている間は、わたしの言葉など、信じないでくださった方が良いのです。こころの信任していないことを、他人がどのように述べたからといって、安易に従うような、個体であるより共通であることを望むような人間に、ユニークなものなど、鑑賞することも、生みなすことも出来ないものならば、あなたはあなたの感じたままに、わたしの言葉を、否定してくださった方が良いくらいですが……
 時折は、振り返ってわたしの言葉も、思い出してみてください。そうしてあなたの考えと、何度も比べてみてください。そうしているうちに、あなたはきっと、この短歌のいつわりが見えてくる……
 なんて、そんなくだらないことではりません。
  ただそうしているうちに……
 あなたはあなたなりの、和歌に対しての判断基準を、次第に身につけることになるのです。わたしはただ、そのお手伝いを、出来たらよいと思うのですけれども……
 なんだかまた、だらしなく、
  酒など飲んでしまうのでした。

 ところで、体裁ではなく、内容について論じるところまで踏み込まなければならないくらい、小池光という人の短歌には、他の稚拙な落書きよりは、見るべき価値があるようですから、あるいは私の知らないだけで、比類ない作品が、原石の寝転がっているようなことも、無いとは言いきれません。
 もっともわたしには、それを探求するだけの好奇心は、
  もはやまったく残されてはいないのですけれども……
 だって、あまりにも汚らしい石ころが多すぎです。

鳩は首から 海こぼしつつ 歩みゆく
  みんな忘れて しまう眼をして
          東直子(ひがしなおこ)

 そもそも「鳩は首から(海をこぼして歩きます)みんな忘れてしまう眼をして」という、誰もが現代語としかみなさない文章の一部分を、「海こぼしつつ歩みゆく」などとしたものですから、もはやいつの時代の言語とも異なる、自分勝手なひとり表現を、捏造したような印象ばかりが、漂ってくるのは避けられません。
 まだしも、若者のスラングであれば、ある特定の群ではあれ、集団の共通の表現として、生きたその瞬間の言語であるには違いありませんが、こちらはもはや、完全にひとりでこねまわした、謎サークルでさえ統一見解のない、個別かっての捏造言語なものですから、あるいは日本語の破壊活動の中でも、もっとも悪意のこもる所行(しょぎょう)かと思われます。
 もちろん、そこまで思い詰めなくても、ちょっと詠み流しても、なぜ古びた表現を持ち込むのか、その理由がどうしても分からず、特に「海こぼしつつ」には、せめて「海こぼしては」くらいなら、どれほどか一つの詩文として、なんの違和感もないのにと、感じる人もあるのではないでしょうか。それはさておき……

 ここでもまた、過剰な解説が加えられています。
   それは初句の「首から」です。
  例えば、海水でも浴びた鳩にせよ、
    「鳩が海をこぼして歩いてますね」
くらいなら、まとめればユニークな詩情にもなりそうですが、
  あえて「首から」なんて加えたために、
    「鳩が首から海をこぼして歩いていますね」
つまりは、かぶった海水をこぼしながら歩いているという、せっかくのユニークな着想は遠ざかり、いかなる事情によってか、鳩が羽根からでも全体からでもなく、首から海水を垂らしているという、特定の事象が先に立ちますから、「これはどういう意味なのだろう?」といぶかしがるような、頓智の読解作業が、なんの詩情もなく浮かんでくることになりました。つまりは、
    「汗を流して走っています」
と伝えられれば、暑ささえ伝わって来そうですが、これをもし、
    「肘から汗を流して走っています」
と言われると、状況の解説が先に立って、なんらかの事情で、特に肘から汗を流しているような印象が生まれてきます。それでもまだ意義は伝わりますが、さらにこれを、不自然なヵ所に当てはめて、
    「指から汗を流して走っています」
などとしたら、きわめて特殊な事情により、指から汗を流しているようなイメージが濃厚ですから、暑さの伝達ではなく、懸命に走っている姿でもなく、
    「なぜ指から汗が流れているのだろう」
という疑惑ばかりが、浮かんでくるわけで……

 もちろん、前後の文脈から、その状況が正当化されるのであれば、効果的な説明にもなりますが、そうでなければ、詩情を台無しにする、有害無益な解説を加えたと言うことになる訳です。
    「鳩は首から海こぼしつつ」
も、同じような説明過剰で、羽根ならまだしも場面が浮かびそうなところを、あえて首としたために、波際で海水をしたたらせるような情景は遠ざかり、アニメの一コマみたいなデフォルメされた鳩さんが、首から海水を垂れ流すような場面が浮かび上がる一方で、それによって得られる特質というものが、詩情に絡んでこないのです。結論を述べれば、あるのはただ、頓智と着想の味気ないオブジェに過ぎません。

 それに対して、下の句の、
    「みんな忘れて しまう眼をして」
というのが、きわめて散漫な、フィーリング任せのような表現ですから、なおさら初句に解説的な「首から」を加えたのと、全体のバランスがかみ合わなくなって、つまりは着想を、お披露目したくって、生みなしたもののように、思われてしまうことになりました。

さくらばな 陽に泡立つを 目守りゐる
  この冥き遊星(ほし)に 人と生れて
          山中智恵子(やまなかちえこ)

 これについては、以前別のコンテンツでお話ししたことがありましたが、「泡立つ影を見守れば」くらいで続ければ、感動した人の個人的な思いとして、受け止められないこともなかったでしょうが、
    「陽に泡立っているのを、
       ながめて守っている」
と、自己を自然より上位において眺めつつ、「目守りゐる」などというヘンな表現を捏造し、さらには四句目に「冥き遊星(ほし)」などという場違いなお遊びを加えたために、さくらを眺めて詠んだ素直な心情とはまったく正反対のもの、おしろいでも塗りたくった、虚飾の香水にまみれた女性が、人工的なかおりを振りまきながら、さくらの淡い気配を台無しに練り歩いているような、嫌みな表現へと落ちぶてしまいました。

言い負けて うたた夕暮れ 深むとき
  冬の底より 上がる星あり
          馬場あき子

 「うたた」というのは、
  「ますます」「いっそう」くらいの意味です。
 通常の現代語にしてみましょう。
    「言い負けて、ますます夕ぐれが深まる時
      冬の底から、あがる星があります」
まず上の句ですが、「うたた」には、
    「まるで言い負かされた心に合せるように」
夕ぐれが深まってゆくように感じられた、というニュアンスが込められています。ところがそのような関連をこしらえたために、まるで、
    「言い負かされたのに合せて、
      夕ぐれが深まっていく」
という、自己を中心とした自然観が形成されてしまいました。もちろん、それならそれで、叙述の仕様はあるのですが、着想やものしかたが現代的であるのに、
    「うたた夕暮れ 深むとき」
などと、古語もどきに述べたものですから、「言い負かされて」その瞬間の悔しさや、やりきれなさを詠んだものとはまったく思われず、古語をもてあそびたくて仕方なかったような印象が、先立つ結果となりました。

 これによって、
    「冬の底から星が上がってきます」
という、情景にそぐわないような表現が、なおさらみじめなもののように思われてしまう結末を迎えました。もう少し、具体的に述べましょうか……

 たとえば、
    「湖の底からのぼる月」
と言われれば、それだけでも詩情がこもるように思われます。それは水面とその先に浮かぶ月あかりが、みずうみに反射して照らし出すみたいに、情景として心に浮かんでくるから、そうして本当に、月が湖からのぼってきたように感じるからに他なりません。私たちが経験的に感じるイメージそのものから情緒性が導き出され、詠み手の思いを推し量れるからこそ、その表現は詩的でありうるのです。しかし、
    「冬の底から上がる星」
と聞かされると、これだけでは、星が昇りかけている姿すらイメージされず、ただ寒さのきわまった頃の星を、このように表現したのだ、という意味だけが伝わってきます。
 もし全体が、優れた情景描写や、心情描写に彩られ、情緒的であるよりも観念的である「冬の底から上がる星」を、効果的に配備することが叶うなら、このような表現もまた、一つの方針ではありますが、(もしこれを散文のうちに使うとすれば、きわめて簡単に、その効果を生かすことが出来るかと思われます)事もあろうに、上の句で、
    「うたた夕暮れ 深むとき」
などとお遊びをしたために、
 なんの情景も喚起(かんき)しない解説へと貶(おとし)められ、
    「もっとも寒い時期。言い負かされた思い。
      これらを重ね合わせて、冬の底と表現してみました」
そんな、着想への執着ばかりが、
  際立つ結末を迎えました。
 それが興ざめを引き起こすのです。
   あるいは、同じ言葉を使用するにしても、

言い負かされ
   深まる冬の 夕暮を
 うたた底より のぼる星かげ

くらいの方が、まだしもマシでしょうか。
 どちらにしても、悪いものです……

[朗読2]

林檎の花に 胸より上は 埋まりおり
   そこならば神が 見えるか、どうか
          永田和宏(ながたかずひろ)

 「そこならば神が見えるかどうか」という、きわめて散漫な現代人な語りに、三句目の「埋まりおり」といういつわりの古語がサンドイッチされ、しかも歴史的仮名遣いの「をり」にすらなっていないという、まとまりのある日本語としての破綻は言うに及ばず、
    「そこなら神が見えるかどうか?」
などという、上の句の脈絡に対して、あまりにも唐突な(心情の予備がなされていないような)ことを、付け加えたものですから、「楽園からの追放」でも込めようとした着想に、すっかり己惚れた作者が、それをひけらかしたくて書きしるしたような印象ばかりが、先だつ結果となりました。

 もっと簡単に考えてみましょう。
  あなたがもし、誰かと歩いているとします。
 向こうには、リンゴの木に首を突っ込んで、胸から上が見えない人が作業をしているとします。そんな情景を浮かべてみて下さい。その時、隣にいた知人が、
    「リンゴの花に胸から上が埋まっておる
         あそこなら神が、見えるかどうか」
なんて、ヘンな古い言葉をもてあそびながらつぶやいたとして、あなたは果たして、その人の言葉に感動できるでしょうか。口に出して唱えてみてみるとよいでしょう。こんな言葉を語りかける人に対して、あなたは、
    「なんて素敵な表現をする人なのだろう」
と感心することが出来るでしょうか。むしろ、なんて表現センスの乏しい、それでいて黙っていられないような、嫌みな奴なのだろう。と興ざめをするのではないでしょうか。
 それはなにも「埋まっておる」と加えたからばかりではありません、「リンゴの花にうもれて~をする人の」くらいで聞き手の類推はおこなわれるものを、「胸から上が埋まっておる」などと、全く不要な具体的説明を加えたために、もっとも述べたいことへと、語りの焦点が定まらなくなってしまっているのです。
 そのような言葉下手な相手が、
  よりによって、神など持ち出すものだから、
    「この人は、こころから神を感じたのではない。
       何かひと旗、すばらしい表現をしてやろうとして、
      嫌がる神を引っ張り出してきたのではないか」
そんな軽蔑ばかりが、心に広がってしまうようです。
 あるいはまた、

日盛(ひざか)りを 歩める黒衣 グレゴール
  メンデル1866年 モラヴィアの夏
          永田和宏

 ただメンデルが法則を論文発表したことを述べただけで、三句目以下は、歴史から借用されたニュースに過ぎません。唯一詩としての価値を有すべきところと言えば、冒頭だけですが、それもまた、
     「日盛りのしたを黒衣姿をして歩っている」
という、なんの創意工夫もない、誰にでも浮かぶような散文には過ぎないものです。せめてリズム的な面白さでもあれば救いですが、四句目の無意味に肥大した年号すら、なんの効果もなく、詩型を破綻させているだけという様相です。
 つまりはこのような落書きなら、歴史の教科書から中学生にでも拾わせれば、ひとりにつき十も二十も、授業時間ごとに、同程度のものが、生まれてくるには違いありません。あるいはまた新聞やニュースを眺めて、
     「阿部2014年 日本の夏」
などとすれば、朝のニュースだけでも、何万もの落書が、見た人の数だけ、量産されるのではないでしょうか。たとえるなら、
   「局所豪雨 夕べの八月 一日の
     何々町に 押し流される家」
などと、誰もが一斉に、ただニュースを文字に押し込めたものを発表したなら、日本の総人口のうちから、たちどころに何十万も、何百万も、何千万もの落書きが、一分ごとに、汚泥のはき出されるには決まっています。

 実はこの人には著作があって、岩波新書から出された『近代秀歌』という書籍なのですが、わたしは近代以降の短歌にも、すぐれた作品がこんぺいとうの散らばっているものかと期待して、[820円+税]というなけなしの財産をはたいて、購入してしまったことがあったのです。
 けれども裏切られました。
  そこに並べられた作品というものは、
 いびつをめざした表現やら、着想や頓智のひけらかしのオンパレード。たまたま秀歌を見いだそうものなら、砂漠地帯にオアシスを見つけたときのような、ようやく息を吹き返すくらい、不毛の荒野が広がっていたのです。
 たとえば……

相触れて
  帰りきたりし 日のまひる
 天の怒りの 春雷ふるふ
          川田順(かわだじゅん) 『東帰(とうき)』

相触れて、帰ってきた日の真昼に
 天は怒りのように、春雷を振るうのである

 なんのことやらさっぱり分かりません。
  はたしてこんなヘンテコな落書きから、
 詩情を感じる人間が、この世にいるのでしょうか。
「日のまひる」などという、作文能力にこなれないような、小学生が述べそうな表現があるかと思えば、なんだか若気の至り、勢いだけで執筆した、中学生ロックンローラーの歌詞みたいな、「天の怒りの」などといった、安っぽい仰々しさが光るばかりではありません。三十一字にまとめるべき形式に、「帰ってきた日の真昼に」などと、内容においてまったく不必要な説明である、「日の」などを割り込ませて、上の句を添削の必要なものへと貶めている。それでいて下の句は、「天の怒りの春雷ふるふ」などと、強引に着想を押し込めて、詩型をまっとうしたような印象です。
 そもそも、このような説明をしなくても、

互いに触れ合って、
   帰ってきました日の真昼
 天の怒りの春雷は振るうのである

 はたしてこれを十回詠んで、ヘンテコだと思わないでいられる人が、この世に存在するのでしょうか。わたしにはどうしても、信じることが出来ないのですけれども……

 もっとも滑稽なのは、下の句の、
     「天の怒りの春雷ふるふ」
です。これは、触れるべきでない人と触れ合ったので、雷が天罰のように聞こえたものなのですが、それを、「天の怒りの」などと述べ立てたものですから、自らがそれに怯えたような印象ではなく、なんだか「天」が安っぽい擬人法に貶められて、まるで顔でもついていそうな、俗画のお天道様が、杖から雷でも振るっているような、ポンチ画めいたイメージへと、情けなくも落ちぶれてしまいました。聞き手の興を削ぐばかりで、ちっとも詠み手の心情というものが見えてこない。代わりに浮かび上がってくるのは、本当は感じてもいないことを、春雷があったものだから、どうにかして効果的な短歌にものしてやろうという……
 それでいて、まったく失態を転げ回るという……

 ここでも、やはり言葉をこねまわすばかりの、
  安っぽいエゴの存在しか、
   見いだすことは出来ないのでした。

めん鶏(どり)ら
  砂あび居たれ ひつそりと
    剃刀研人(かみそりとぎ)は 過ぎ行きにけり
          斎藤茂吉(さいとうもきち) 『赤光』より

めん鳥たちよ
  砂を浴びているのだ ひっそり静かに
    剃刀を研ぐ職人が 今過ぎてゆくぞ

 交通安全週間のキャッチフレーズでも、聴かされる印象です。コマーシャルのキャッチフレーズや、標語(ひょうご)と呼ばれるものが、詩として眺めた場合、不愉快の結晶のように思われがちなのは、愛国主義の喧伝(けんでん)とおなじで、あからさまな意図を差し向けた着想が、その言葉を通じて、詠み手の作為を、ひけらかすからには違いありません。その意味では、極端なまでの偽善主義や、あるいは震災の歌なども、同列に並べられるべきものですが……

 あるいは今日の、応援歌として作られた流行歌などに、いささか見え透いたところ、あからさまなベクトルがこもるのを、感じる人がいるかもしれません。わたしの述べようとしていることは、程度の違いはありますが、その延長線上のことなのです。

 この短歌から、はじめに伝わってくるものは、雌鳥がたわいもなく砂を浴びている姿でもなく、道を剃刀研ぎが歩いて行く実景でもありません。ただ、
    「雌鳥よ、剃刀研ぎが来たぞ、
      剃られないように、あるいは切られないように、
       静かに砂を浴びていろよ」
という、上から目線の警告、またそれを気取って眺めたという、いささか俗な感慨に過ぎません。つまりは、
     「子供たちよ
    砂遊びしているのだ おとなしく
       すごいスピードをした自動車が
      今過ぎてゆくぞ」
と述べられた時、詩情を感じるのではなく、作品の意図への関心ばかりが、頭を駆け巡るのと一緒で、この短歌もまた、雌鳥を心から愛でて、思いやる心情ではなく、その情景を詠みなしたものでもなく、まるで雌鳥を教化でもしてやろうという、そんな標語のような意識を、気取ったものには過ぎないのです。

 あるいはそうでなければ、風刺画めいたデッサンに描かれたにわとりの横に、添えられた短歌くらいの、つまりは川柳並の、デフォルメされたユーモアと捉えることも可能で、その方がまだしも、この作品の価値を好意的に受け取れるでしょうか。

遺棄死体
  数百といひ 数千といふ
 いのちをふたつ もちしものなし
          土岐善磨(ときぜんまろ) 『六月』

 遺棄死体が数百も数千もというのは、殺風景な情報です。ただのニュースに過ぎません。そうして「いのちがひとつしかない」のは、あまりにも当たり前の事には過ぎません。なるほど、凄惨の現場では、あまりにも当たり前の感慨しか浮かばないのは事実ですが、同時にそのような現場で、
    「この人たちにも、
      かつてはいのちもあっただろうに」
などと、あまりにも当たり前の事を述べられると、かえって、
    「なんで、そんな言わなくてもよいことを、
       いやらしくも宣言しなければならないのか。
      この人は、本当に悲しみを感じているのだろうか?」
と不愉快な気分にさせられるのも事実です。
 この作品は、まさしく述べる必要のないことを述べたために、
  言わでもの感慨を、わざわざ宣言している詠み手に対して、
    「この人は本当は、
      死人のことを思ってなどいないのではないか」
という疑惑ばかりが湧いてきます。つまりは、自分の感慨を主張したいがために、あえて口にしたような、詠み手のエゴを、先に感じてしまうので、何となく嫌な気分にさせられるのです。
 ためしに、ナチスの収容所の死体でも並んでいる映像がありますから、それを眺めながら、これを口に出して唱えてみるとよいと思います。良心的な人であれば、むしろこの短歌(と呼ばれる作品)が、その死者たちを穢しているように感じるのではないでしょうか。「かつては命もあったろうに」くらいならまだしもですが、
    「いのちを二つ持つ者はいないのである」
などという感慨は、言わでもの心どころではなく、理屈が先にたちますから、死体を前に哲学をでも振りかざして見せる、嫌みな人物にでも出くわしたような、嫌な気分が湧いてきます。わたくしなどは、死者への冒涜のようにさえ、響いて来るのですけれども……

 この書籍において不可解なのは、
  このような嫌みな短歌を選んでおいて、
   同じ詠み手の、

あなたは勝つ
  ものとおもつて ゐましたかと
 老いたる妻の さびしげにいふ
          土岐善磨 『夏草』

という、まだしも詩情にかなった作品、つまり心情が詠み手にストレートに響いて来るような作品を、次点に回している点で、はたしてこの執筆者に「詩の基準」があるのやら、ないのやら、いぶかしさばかりが際立つような黄昏(たそがれ)です。(この作品は、散文的傾向が、安易な作品のように思わせていますが、なかなかに味わいのある作品になっています)

垣山(かきやま)に
   たなびく冬の 霞あり
 我にことばあり 何か歎かむ
          土屋文明(つちやぶんめい) 『山下水』

 上の句に問題はありません。
「冬の」という説明も、冬なのに霞が掛かっているというイメージを与えるものとして、決して無駄なものではありません。ただ、たなびく冬の霞に向かって、
    「私には言葉がある
       何を歎くことがあろうか」
と宣言した下の句に、嫌みの核心は込められているようです。

 つまりこの短歌の、自発的な趣旨は、
    「垣山にたなびく霞は
       つめたさに閉ざされた、
         春のよろこびさえない、
       まぼろしの霞のようではあるけれど……」
やがては春の訪れはきっとあるのだから、
  何を嘆くことがあるだろうか。
 つまり四句目以外の言葉から、そのような意図が込められているように詠まれてしまうがゆえに、そのような意図に従うことが、この短歌を結晶化させる最良の方針にもなる訳ですが……

    「わたしには言葉がある」
というプロバガンダ丸だしの、
  自己宣言をひけらかしたような四句目によって、まるで、
    「冬の夜も 言の葉あれば 嘆きなし」
のような、発句にすらなっていない、標語を呈示したような印象ばかりが浮かび上がって来ますから、聞き手の方は、音程を外して自己陶酔を続けるような歌手に対して、耳をふさぎたくなるような思いにされてしまうのです。
 そろそろ、うんざりしてきましたが、
  もうひとつだけ……

左様ならが 言葉の最後
  耳に留めて 心しづかに
 吾を見給へ
          松村栄一 『樹氷と氷壁以後』

 ただの別れの挨拶です。
   「さようなら」
と手を振ればよいだけなのです。
 それでもう、十二分にシチュエーションに叶うのです。
  詩情はまっとうされるのです。
   それをよりによって、

さよならが
  わたしの言葉の最後である。
    どうかあなた方は、私の言葉を耳に留めて
  心静かに わたしを見るがよい。

 心からの、別れ言葉があるとします。
  その言葉をどう感じるかは、相手にゆだねられる事柄です。
 それが永遠の別れであるとします。
     「もうお別れです」
と告げるとします。その言葉に相手が悲しみを感じるか、別れ惜しさになみだをこぼすか、消えゆく人の言葉に耳を傾けるかは、相手にゆだねられる事柄です。そうであればこそ、そのようなシチュエーションにおいて、
     「もうお別れですね。
       あなた方は、私の最期の言葉に耳を傾けて、
     心を落ち着けて、よくわたしを見ておいてください」
などとは、常人は口にはしないものです。相手との信頼が成り立っていれば、そのようなことは、言う必要すらなく、相手は自分に耳を傾けているには決まっていますし、そうでないならば、
     「なぜ、こんな奴の言葉に、
       耳を傾けなければならないのだ」
となおさら不愉快になるには決まっています。

 もちろん宗教家にせよ、英雄にせよ、万人に特別な存在であると認められるような一廉(ひとかど)の人物が、このような台詞を述べたなら、それは舞台俳優の演技のような効果をもたらしますから、人々もあるいは引き込まれたりもするでしょうが、この短歌の表現自体がつたないものですから、そのような英雄性は微塵も感じられず、
     「なにさま、こんな自意識過剰なことを述べ立てるのか」
と嫌な気分にさせられる結末を迎えました。

 つまりは、日常会話における、あたりきのフィーリングにおいて、このような表現はなされるものではありません。そうして詩とは、一般的傾向を持つ人の、日常的な感性にゆだねることによって、相手に思いを伝えるという、あたりきのコミュニケーションに依存した文芸に過ぎないもの。それはつまり、ポピュラーソングの歌詞が、多々な様相を呈するにも関わらず、違和感を感じないのと同一線上の出来事で、ナチュラルでない感性の持ち主が、引きこもりよろしくサークルでもつくって、その内側で、不可解な表現を模索するものでは、決してないのです。

 また、もしこれが、「わたしの短歌を眺めたまえ」という趣旨であると捉えれば、もっと嫌らしいことになります。作品を解釈するのは詠み手ではありません。聞き手です。それを詠み手の方が、
     「私の最期の作品に耳を傾けたまえ」
などと述べるなら、全能の英知を宿したようなミラクルな作品でもなければ、「エゴばかりが肥大していやがる」とあきれ果てるには決まっています。

 結論を述べるなら、この短歌では「さよなら」が最後の言葉にはなりません。最後の言葉はまぎれもなく、エゴを結晶化させたような、「吾を見給へ」へと収斂(しゅうれん)されているからです。おそらくは、「さよなら」へと収斂させるようなものし方(詠み方)をしたならば、これほど嫌みな作品へと、落ちぶれることはなかったかと思われますが、これによってただ、作者の陳腐なエゴばかりが、殺風景に広がる結末を迎えることになったのです。そうしてそこから感じられるのは、ナチュラルであろうとするのとは正反対のもの、最後の瞬間まで特殊であろうとするような、凡人のエゴの存在です。
 個性とは、ひけらかすものではありません。
  どれほど控えめにしていても、
   静かににじみ出て来るようなものには、
  違いないのですけれども……

[臨時覚書:あるいは「石清水のにじみ出てくるようなものには」とするか?]



 わたしは悲しくなりました。
  この書籍には、このような落書きが、
   猖獗(しょうけつ)をきわめているのです。
  もっとも許せないのは、この著者が、
 よりによってこのような落書きを、
「必要条件の100」などと評して、
     「あなたが日本人なら、
       せめてこれくらいの歌は
        知っておいて欲しいという
      ぎりぎりの100首であると思いたい。」
などと高らかに述べ立てている、その途方もない精神です。
 一体、詩情とは正反対のもの、
  窮屈に押し込めた、駄散文やら、
   頓智や屁理屈のオンパレード。
    あるいは肥大したエゴと、
   それに伴わない表現力。
  そうしていつの時代にも、
 ナチュラルでないような言語を、
こねまわしている羞恥心の欠落。

 つまりは、詩や文学とは関わりのない、
  あきれ果てるような落書をならべては、
   それをわたしたちが知るべきものであると宣言する、
  その根拠がどこにあるのやら、
 わたしにはさっぱり理解出来ないのでした。

           (をはり)

2014/07/02
2014/09/21改訂
2015/03/21再改訂
2015/05/02朗読掲載

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