私は『八代集』の紹介に割り込ませるように、いくつかの短歌と呼ばれる作品を、おなじ基準で吟味してきました。ここでは、これまで紹介してきた短歌、さらには新たな作品を掲載して、いつわりの表現に、幾ばくかの批判を加えてみたいと思います。そうすることは、和歌とはどのようなものであるかを読み解くのに、有意義なところがあるかと思われるからです。
それでは、『金葉和歌集』の「三十一字(みそひともじ)」に掲載された短歌から始めてみましょうか。
われの眼(め)の
つひに見るなき 世はありて
昼のもなかを 白萩の散る
明石海人 『白描』
この短歌は、失明した作者が、
見ることのない白萩を思うというものですが、
「わたしの見ることのない白萩は散るだろう」
くらいなら、わたしたちも、詠み手の思いを察して、
ちょっとした同情すら起こしそうなものですが、よりによって、
「わたしの目がついに見ることのなかった、
世のなかはあって、
昼のさなかに、白萩が散っているのである」
などと、高らかに宣言してしまったものですから、心情をさりげなく詠んだものとは思われず、大げさな大根役者が、安っぽい台詞で、
「おお、わたしの目。
この目のついに見ることの無かった、
この世のなかに」
なんて、見え透いた芝居でも行っているような、対外意識ばかりが伝わってきます。一方で台詞であるとすれば、あまりにも修辞の欠けらもない、つたない文章に過ぎないものですから、
「なんでこの人は、
こころから感じていることをではなく、
自分をひけらかしたいばかりの、
下手な芝居をうつのだろうか」
というような、不愉快な印象が先に立つことになり、
詩としては破綻してしまうようです。
つまりは、わたしが盲目であることを、どうしても分らせようとしたために、「わたしが見ることの無かった」くらいなら、あるいは「もしかしてこの人は目が見えないのではないだろうか」と、聞き手から寄り添って来そうな所を、「わたしの目が見ることが無かった」なんて、着想をお披露目しまったために、創作の舞台裏が、丸だしになってしまったのが原因かと思われます。
さらに二句目の、「つひに見るなき」というのも、「知られない思い」という言葉を「知るない思い」と書いて、同級生から、失笑を買うような印象がついて回り、使用された言葉ではありますが、こなれた表現とは言えません。「つひに見るなき」ではなく「見ることはなき」くらいならナチュラルな表現なのに、という気分がしてきますから、ここでもまた、どうにか「つひに」という言葉を込めたくて躍起になっている、作者の影がちらついて、興ざめを引き起こします。
あるいは、病により若くして亡くなったので、知名度があるのかも知れませんが、そろそろ伝記や境遇ではなく、作品の質によって、評価をすべき時代ではないでしょうか。むかし「山田かまち」とかいうものがはやったことがありますが、同年代にいくらでも代替可能な、書籍にすべき価値すらないものを、ただ若くして死んだからからとか、目が見えないものだからといって、むらがるような体質からは、そろそろ脱却した方がよいと、わたしなどは、心配するのですけれども……
[ただし何の取りどころも無い「かまち」などとは違って、明石海人の場合は、
さくら花 かつ散る今日の 夕ぐれを
幾世の底より 鐘のなりくる
といった採用されうる短歌も残していますから、必ずしも同列に述べるべきものではありませんが。]
いちまいの ガーゼのごとき 風たちて
つつまれやすし 傷待つ胸は
小池光 『バルサの翼』
同じ詩集内の代表作、
「バルサの木 ゆふべに抱きて 帰らむに
見知らぬ色の 空におびゆる」
における「帰らむに」には、大いにあやしいところがありますが、(それ以前に、着想自体が捏ねすぎて、嫌みにあふれていますが)「いちまいのガーゼ」の方は、全体の古語的な傾向は、統一が取れていて、不自然なところはありません。
もちろん「如し」や音便くらいの、少し前には使用されていた表現を、みずからが咀嚼(そしゃく)した言葉として、詠みなしているからには違いありませんが、したがってこの短歌を優れたもののように感じる人も、おそらくはいるかと思われます。そう感じたなら今は、そのままでよいのですが……
この短歌の嫌みは、その内容にあります。
「いちまいの ガーゼのような 風がたって
包まれやすいものであるよ
傷を待っているような胸は」
上の句の意味は、一枚のガーゼが揺れるくらいの、淡い風が立ったということで、「たちて」とあるからには、もし「立ったなら」ではなく、実際に立った時に、
「包まれやすいものだなあ、
傷を待っている胸は」
と感じたという内容です。
ところで、「傷待つ胸は」という表現は、
二つの解釈が成り立ちます。
一つは詠み手が淡い風を感じて、
「傷を待っている胸は包まれやすいものだ」
とみずから思った場合。もう一つは、
「傷を待っている胸というものは、
包まれやすいものだな」
と相手を推し量った場合です。
けれどもし、青春さなかであろう詠み手が、
自らのセンチメンタルにまかせて、
「傷つくことを待っている胸は、
包まれやすいものだ」
などと、気障な台詞を述べたものであるとするならば、さすがに上の句の
「いちまいのガーゼのような風が立って」
というのは、傷つきやすい自らのこころを表現したものとしては虚飾に過ぎて、本当に感じたことを述べたものとは思われなくなりますから、どうにかして、うまい表現をしてやろうか、という着想への執着が鼻につくことになります。極言すれば、多感時代の少年、あるいは青年が感じた思いとしては、修飾が過ぎる、いつわりの落書には過ぎません。
もっと分りやすく述べるなら、
「わずかな風にさえ飛ばされてしまいそうな思い」
なら、風のほうが比喩として思いを引き立てますが、これをもし、
「いちまいのガーゼのような風にさえ、
飛ばされてしまいそうな思い」
とすると、比喩の解説が過ぎて、思いを修飾しようとして風を持ち出したのではなく、はなから「いちまいのガーゼのような風」を述べることが目的だったように感じられるものですから、思いを比喩したものとしては、ストレートに響いてこないのです。つまりは、立ち止まって、自称「たぐいまれなる表現」を吟味しなければならなくなりますから、作者のひけらかしパーティーに出席させられたような、嫌な気分にさせられる訳です。
では反対に、センチメンタルな少年を、推し量ったものとするならばどうでしょうか。もちろん、傷つきやすい青春に身を置くような当事者からすれば、
「そんな飾りまくった言葉で、
美化しまくてんじゃねえよ」
という不愉快が湧いてくるのはもちろんですが、
かつてそのような時期に、
傷を受けた経験のある者が詠んだとしても、
「そんなおめかしのすぎたような、
イミテーションの情緒じゃないだろうに」
という、嫌な気分が湧いてきます。
つまりは青年時代に、精一杯の傷すらついたこともないような大人が、美辞麗句を並べ立てては、少年時代を美化して詠んで差し上げているような印象で、おそらくこの短歌を楽しめるのは、全力で生きることすら知らずに、本当の傷など心に受けたこともなく、ハウス栽培のゆったりと成長し、なんの疑惑もなく就職でもしたような、同じスーツのサラリーマン体質に、どっぷりと染められたような人々。それだからこそ、一定の信任を得ることも、当然と言えば当然なのですが……
もし「心」と「姿」ということを考えれば、この短歌は、心をもてあそんで、姿を着飾ったような傾向がある。そこに嫌みがこもるのです。けれどもまた、それだけのことを感じるには、三十一文字(みそひともじ)の形式と触れ合う歳月が必要であり、初学者がこれをすぐれた短歌のように錯覚したとしても、それはまったく無理のないことです。
それならそれで、すばらしいと感じている間は、わたしの言葉など、信じないでくださった方が良いのです。こころの信任していないことを、他人がどのように述べたからといって、安易に従うような、個体であるより共通であることを望むような人間に、ユニークなものなど、鑑賞することも、生みなすことも出来ないものならば、あなたはあなたの感じたままに、わたしの言葉を、否定してくださった方が良いくらいですが……
時折は、振り返ってわたしの言葉も、思い出してみてください。そうしてあなたの考えと、何度も比べてみてください。そうしているうちに、あなたはきっと、この短歌のいつわりが見えてくる……
なんて、そんなくだらないことではりません。
ただそうしているうちに……
あなたはあなたなりの、和歌に対しての判断基準を、次第に身につけることになるのです。わたしはただ、そのお手伝いを、出来たらよいと思うのですけれども……
なんだかまた、だらしなく、
酒など飲んでしまうのでした。
ところで、体裁ではなく、内容について論じるところまで踏み込まなければならないくらい、小池光という人の短歌には、他の稚拙な落書きよりは、見るべき価値があるようですから、あるいは私の知らないだけで、比類ない作品が、原石の寝転がっているようなことも、無いとは言いきれません。
もっともわたしには、それを探求するだけの好奇心は、
もはやまったく残されてはいないのですけれども……
だって、あまりにも汚らしい石ころが多すぎです。
鳩は首から 海こぼしつつ 歩みゆく
みんな忘れて しまう眼をして
東直子(ひがしなおこ)
そもそも「鳩は首から(海をこぼして歩きます)みんな忘れてしまう眼をして」という、誰もが現代語としかみなさない文章の一部分を、「海こぼしつつ歩みゆく」などとしたものですから、もはやいつの時代の言語とも異なる、自分勝手なひとり表現を、捏造したような印象ばかりが、漂ってくるのは避けられません。
まだしも、若者のスラングであれば、ある特定の群ではあれ、集団の共通の表現として、生きたその瞬間の言語であるには違いありませんが、こちらはもはや、完全にひとりでこねまわした、謎サークルでさえ統一見解のない、個別かっての捏造言語なものですから、あるいは日本語の破壊活動の中でも、もっとも悪意のこもる所行(しょぎょう)かと思われます。
もちろん、そこまで思い詰めなくても、ちょっと詠み流しても、なぜ古びた表現を持ち込むのか、その理由がどうしても分からず、特に「海こぼしつつ」には、せめて「海こぼしては」くらいなら、どれほどか一つの詩文として、なんの違和感もないのにと、感じる人もあるのではないでしょうか。それはさておき……
ここでもまた、過剰な解説が加えられています。
それは初句の「首から」です。
例えば、海水でも浴びた鳩にせよ、
「鳩が海をこぼして歩いてますね」
くらいなら、まとめればユニークな詩情にもなりそうですが、
あえて「首から」なんて加えたために、
「鳩が首から海をこぼして歩いていますね」
つまりは、かぶった海水をこぼしながら歩いているという、せっかくのユニークな着想は遠ざかり、いかなる事情によってか、鳩が羽根からでも全体からでもなく、首から海水を垂らしているという、特定の事象が先に立ちますから、「これはどういう意味なのだろう?」といぶかしがるような、頓智の読解作業が、なんの詩情もなく浮かんでくることになりました。つまりは、
「汗を流して走っています」
と伝えられれば、暑ささえ伝わって来そうですが、これをもし、
「肘から汗を流して走っています」
と言われると、状況の解説が先に立って、なんらかの事情で、特に肘から汗を流しているような印象が生まれてきます。それでもまだ意義は伝わりますが、さらにこれを、不自然なヵ所に当てはめて、
「指から汗を流して走っています」
などとしたら、きわめて特殊な事情により、指から汗を流しているようなイメージが濃厚ですから、暑さの伝達ではなく、懸命に走っている姿でもなく、
「なぜ指から汗が流れているのだろう」
という疑惑ばかりが、浮かんでくるわけで……
もちろん、前後の文脈から、その状況が正当化されるのであれば、効果的な説明にもなりますが、そうでなければ、詩情を台無しにする、有害無益な解説を加えたと言うことになる訳です。
「鳩は首から海こぼしつつ」
も、同じような説明過剰で、羽根ならまだしも場面が浮かびそうなところを、あえて首としたために、波際で海水をしたたらせるような情景は遠ざかり、アニメの一コマみたいなデフォルメされた鳩さんが、首から海水を垂れ流すような場面が浮かび上がる一方で、それによって得られる特質というものが、詩情に絡んでこないのです。結論を述べれば、あるのはただ、頓智と着想の味気ないオブジェに過ぎません。
それに対して、下の句の、
「みんな忘れて しまう眼をして」
というのが、きわめて散漫な、フィーリング任せのような表現ですから、なおさら初句に解説的な「首から」を加えたのと、全体のバランスがかみ合わなくなって、つまりは着想を、お披露目したくって、生みなしたもののように、思われてしまうことになりました。
さくらばな 陽に泡立つを 目守りゐる
この冥き遊星(ほし)に 人と生れて
山中智恵子(やまなかちえこ)
これについては、以前別のコンテンツでお話ししたことがありましたが、「泡立つ影を見守れば」くらいで続ければ、感動した人の個人的な思いとして、受け止められないこともなかったでしょうが、
「陽に泡立っているのを、
ながめて守っている」
と、自己を自然より上位において眺めつつ、「目守りゐる」などというヘンな表現を捏造し、さらには四句目に「冥き遊星(ほし)」などという場違いなお遊びを加えたために、さくらを眺めて詠んだ素直な心情とはまったく正反対のもの、おしろいでも塗りたくった、虚飾の香水にまみれた女性が、人工的なかおりを振りまきながら、さくらの淡い気配を台無しに練り歩いているような、嫌みな表現へと落ちぶてしまいました。
言い負けて うたた夕暮れ 深むとき
冬の底より 上がる星あり
馬場あき子
「うたた」というのは、
「ますます」「いっそう」くらいの意味です。
通常の現代語にしてみましょう。
「言い負けて、ますます夕ぐれが深まる時
冬の底から、あがる星があります」
まず上の句ですが、「うたた」には、
「まるで言い負かされた心に合せるように」
夕ぐれが深まってゆくように感じられた、というニュアンスが込められています。ところがそのような関連をこしらえたために、まるで、
「言い負かされたのに合せて、
夕ぐれが深まっていく」
という、自己を中心とした自然観が形成されてしまいました。もちろん、それならそれで、叙述の仕様はあるのですが、着想やものしかたが現代的であるのに、
「うたた夕暮れ 深むとき」
などと、古語もどきに述べたものですから、「言い負かされて」その瞬間の悔しさや、やりきれなさを詠んだものとはまったく思われず、古語をもてあそびたくて仕方なかったような印象が、先立つ結果となりました。
これによって、
「冬の底から星が上がってきます」
という、情景にそぐわないような表現が、なおさらみじめなもののように思われてしまう結末を迎えました。もう少し、具体的に述べましょうか……
たとえば、
「湖の底からのぼる月」
と言われれば、それだけでも詩情がこもるように思われます。それは水面とその先に浮かぶ月あかりが、みずうみに反射して照らし出すみたいに、情景として心に浮かんでくるから、そうして本当に、月が湖からのぼってきたように感じるからに他なりません。私たちが経験的に感じるイメージそのものから情緒性が導き出され、詠み手の思いを推し量れるからこそ、その表現は詩的でありうるのです。しかし、
「冬の底から上がる星」
と聞かされると、これだけでは、星が昇りかけている姿すらイメージされず、ただ寒さのきわまった頃の星を、このように表現したのだ、という意味だけが伝わってきます。
もし全体が、優れた情景描写や、心情描写に彩られ、情緒的であるよりも観念的である「冬の底から上がる星」を、効果的に配備することが叶うなら、このような表現もまた、一つの方針ではありますが、(もしこれを散文のうちに使うとすれば、きわめて簡単に、その効果を生かすことが出来るかと思われます)事もあろうに、上の句で、
「うたた夕暮れ 深むとき」
などとお遊びをしたために、
なんの情景も喚起(かんき)しない解説へと貶(おとし)められ、
「もっとも寒い時期。言い負かされた思い。
これらを重ね合わせて、冬の底と表現してみました」
そんな、着想への執着ばかりが、
際立つ結末を迎えました。
それが興ざめを引き起こすのです。
あるいは、同じ言葉を使用するにしても、
言い負かされ
深まる冬の 夕暮を
うたた底より のぼる星かげ
くらいの方が、まだしもマシでしょうか。
どちらにしても、悪いものです……
林檎の花に 胸より上は 埋まりおり
そこならば神が 見えるか、どうか
永田和宏(ながたかずひろ)
「そこならば神が見えるかどうか」という、きわめて散漫な現代人な語りに、三句目の「埋まりおり」といういつわりの古語がサンドイッチされ、しかも歴史的仮名遣いの「をり」にすらなっていないという、まとまりのある日本語としての破綻は言うに及ばず、
「そこなら神が見えるかどうか?」
などという、上の句の脈絡に対して、あまりにも唐突な(心情の予備がなされていないような)ことを、付け加えたものですから、「楽園からの追放」でも込めようとした着想に、すっかり己惚れた作者が、それをひけらかしたくて書きしるしたような印象ばかりが、先だつ結果となりました。
もっと簡単に考えてみましょう。
あなたがもし、誰かと歩いているとします。
向こうには、リンゴの木に首を突っ込んで、胸から上が見えない人が作業をしているとします。そんな情景を浮かべてみて下さい。その時、隣にいた知人が、
「リンゴの花に胸から上が埋まっておる
あそこなら神が、見えるかどうか」
なんて、ヘンな古い言葉をもてあそびながらつぶやいたとして、あなたは果たして、その人の言葉に感動できるでしょうか。口に出して唱えてみてみるとよいでしょう。こんな言葉を語りかける人に対して、あなたは、
「なんて素敵な表現をする人なのだろう」
と感心することが出来るでしょうか。むしろ、なんて表現センスの乏しい、それでいて黙っていられないような、嫌みな奴なのだろう。と興ざめをするのではないでしょうか。
それはなにも「埋まっておる」と加えたからばかりではありません、「リンゴの花にうもれて~をする人の」くらいで聞き手の類推はおこなわれるものを、「胸から上が埋まっておる」などと、全く不要な具体的説明を加えたために、もっとも述べたいことへと、語りの焦点が定まらなくなってしまっているのです。
そのような言葉下手な相手が、
よりによって、神など持ち出すものだから、
「この人は、こころから神を感じたのではない。
何かひと旗、すばらしい表現をしてやろうとして、
嫌がる神を引っ張り出してきたのではないか」
そんな軽蔑ばかりが、心に広がってしまうようです。
あるいはまた、
日盛(ひざか)りを 歩める黒衣 グレゴール
メンデル1866年 モラヴィアの夏
永田和宏
ただメンデルが法則を論文発表したことを述べただけで、三句目以下は、歴史から借用されたニュースに過ぎません。唯一詩としての価値を有すべきところと言えば、冒頭だけですが、それもまた、
「日盛りのしたを黒衣姿をして歩っている」
という、なんの創意工夫もない、誰にでも浮かぶような散文には過ぎないものです。せめてリズム的な面白さでもあれば救いですが、四句目の無意味に肥大した年号すら、なんの効果もなく、詩型を破綻させているだけという様相です。
つまりはこのような落書きなら、歴史の教科書から中学生にでも拾わせれば、ひとりにつき十も二十も、授業時間ごとに、同程度のものが、生まれてくるには違いありません。あるいはまた新聞やニュースを眺めて、
「阿部2014年 日本の夏」
などとすれば、朝のニュースだけでも、何万もの落書が、見た人の数だけ、量産されるのではないでしょうか。たとえるなら、
「局所豪雨 夕べの八月 一日の
何々町に 押し流される家」
などと、誰もが一斉に、ただニュースを文字に押し込めたものを発表したなら、日本の総人口のうちから、たちどころに何十万も、何百万も、何千万もの落書きが、一分ごとに、汚泥のはき出されるには決まっています。
実はこの人には著作があって、岩波新書から出された『近代秀歌』という書籍なのですが、わたしは近代以降の短歌にも、すぐれた作品がこんぺいとうの散らばっているものかと期待して、[820円+税]というなけなしの財産をはたいて、購入してしまったことがあったのです。
けれども裏切られました。
そこに並べられた作品というものは、
いびつをめざした表現やら、着想や頓智のひけらかしのオンパレード。たまたま秀歌を見いだそうものなら、砂漠地帯にオアシスを見つけたときのような、ようやく息を吹き返すくらい、不毛の荒野が広がっていたのです。
たとえば……
相触れて
帰りきたりし 日のまひる
天の怒りの 春雷ふるふ
川田順(かわだじゅん) 『東帰(とうき)』
相触れて、帰ってきた日の真昼に
天は怒りのように、春雷を振るうのである
なんのことやらさっぱり分かりません。
はたしてこんなヘンテコな落書きから、
詩情を感じる人間が、この世にいるのでしょうか。
「日のまひる」などという、作文能力にこなれないような、小学生が述べそうな表現があるかと思えば、なんだか若気の至り、勢いだけで執筆した、中学生ロックンローラーの歌詞みたいな、「天の怒りの」などといった、安っぽい仰々しさが光るばかりではありません。三十一字にまとめるべき形式に、「帰ってきた日の真昼に」などと、内容においてまったく不必要な説明である、「日の」などを割り込ませて、上の句を添削の必要なものへと貶めている。それでいて下の句は、「天の怒りの春雷ふるふ」などと、強引に着想を押し込めて、詩型をまっとうしたような印象です。
そもそも、このような説明をしなくても、
互いに触れ合って、
帰ってきました日の真昼
天の怒りの春雷は振るうのである
はたしてこれを十回詠んで、ヘンテコだと思わないでいられる人が、この世に存在するのでしょうか。わたしにはどうしても、信じることが出来ないのですけれども……
もっとも滑稽なのは、下の句の、
「天の怒りの春雷ふるふ」
です。これは、触れるべきでない人と触れ合ったので、雷が天罰のように聞こえたものなのですが、それを、「天の怒りの」などと述べ立てたものですから、自らがそれに怯えたような印象ではなく、なんだか「天」が安っぽい擬人法に貶められて、まるで顔でもついていそうな、俗画のお天道様が、杖から雷でも振るっているような、ポンチ画めいたイメージへと、情けなくも落ちぶれてしまいました。聞き手の興を削ぐばかりで、ちっとも詠み手の心情というものが見えてこない。代わりに浮かび上がってくるのは、本当は感じてもいないことを、春雷があったものだから、どうにかして効果的な短歌にものしてやろうという……
それでいて、まったく失態を転げ回るという……
ここでも、やはり言葉をこねまわすばかりの、
安っぽいエゴの存在しか、
見いだすことは出来ないのでした。
めん鶏(どり)ら
砂あび居たれ ひつそりと
剃刀研人(かみそりとぎ)は 過ぎ行きにけり
斎藤茂吉(さいとうもきち) 『赤光』より
めん鳥たちよ
砂を浴びているのだ ひっそり静かに
剃刀を研ぐ職人が 今過ぎてゆくぞ
交通安全週間のキャッチフレーズでも、聴かされる印象です。コマーシャルのキャッチフレーズや、標語(ひょうご)と呼ばれるものが、詩として眺めた場合、不愉快の結晶のように思われがちなのは、愛国主義の喧伝(けんでん)とおなじで、あからさまな意図を差し向けた着想が、その言葉を通じて、詠み手の作為を、ひけらかすからには違いありません。その意味では、極端なまでの偽善主義や、あるいは震災の歌なども、同列に並べられるべきものですが……
あるいは今日の、応援歌として作られた流行歌などに、いささか見え透いたところ、あからさまなベクトルがこもるのを、感じる人がいるかもしれません。わたしの述べようとしていることは、程度の違いはありますが、その延長線上のことなのです。
この短歌から、はじめに伝わってくるものは、雌鳥がたわいもなく砂を浴びている姿でもなく、道を剃刀研ぎが歩いて行く実景でもありません。ただ、
「雌鳥よ、剃刀研ぎが来たぞ、
剃られないように、あるいは切られないように、
静かに砂を浴びていろよ」
という、上から目線の警告、またそれを気取って眺めたという、いささか俗な感慨に過ぎません。つまりは、
「子供たちよ
砂遊びしているのだ おとなしく
すごいスピードをした自動車が
今過ぎてゆくぞ」
と述べられた時、詩情を感じるのではなく、作品の意図への関心ばかりが、頭を駆け巡るのと一緒で、この短歌もまた、雌鳥を心から愛でて、思いやる心情ではなく、その情景を詠みなしたものでもなく、まるで雌鳥を教化でもしてやろうという、そんな標語のような意識を、気取ったものには過ぎないのです。
あるいはそうでなければ、風刺画めいたデッサンに描かれたにわとりの横に、添えられた短歌くらいの、つまりは川柳並の、デフォルメされたユーモアと捉えることも可能で、その方がまだしも、この作品の価値を好意的に受け取れるでしょうか。
遺棄死体
数百といひ 数千といふ
いのちをふたつ もちしものなし
土岐善磨(ときぜんまろ) 『六月』
遺棄死体が数百も数千もというのは、殺風景な情報です。ただのニュースに過ぎません。そうして「いのちがひとつしかない」のは、あまりにも当たり前の事には過ぎません。なるほど、凄惨の現場では、あまりにも当たり前の感慨しか浮かばないのは事実ですが、同時にそのような現場で、
「この人たちにも、
かつてはいのちもあっただろうに」
などと、あまりにも当たり前の事を述べられると、かえって、
「なんで、そんな言わなくてもよいことを、
いやらしくも宣言しなければならないのか。
この人は、本当に悲しみを感じているのだろうか?」
と不愉快な気分にさせられるのも事実です。
この作品は、まさしく述べる必要のないことを述べたために、
言わでもの感慨を、わざわざ宣言している詠み手に対して、
「この人は本当は、
死人のことを思ってなどいないのではないか」
という疑惑ばかりが湧いてきます。つまりは、自分の感慨を主張したいがために、あえて口にしたような、詠み手のエゴを、先に感じてしまうので、何となく嫌な気分にさせられるのです。
ためしに、ナチスの収容所の死体でも並んでいる映像がありますから、それを眺めながら、これを口に出して唱えてみるとよいと思います。良心的な人であれば、むしろこの短歌(と呼ばれる作品)が、その死者たちを穢しているように感じるのではないでしょうか。「かつては命もあったろうに」くらいならまだしもですが、
「いのちを二つ持つ者はいないのである」
などという感慨は、言わでもの心どころではなく、理屈が先にたちますから、死体を前に哲学をでも振りかざして見せる、嫌みな人物にでも出くわしたような、嫌な気分が湧いてきます。わたくしなどは、死者への冒涜のようにさえ、響いて来るのですけれども……
この書籍において不可解なのは、
このような嫌みな短歌を選んでおいて、
同じ詠み手の、
あなたは勝つ
ものとおもつて ゐましたかと
老いたる妻の さびしげにいふ
土岐善磨 『夏草』
という、まだしも詩情にかなった作品、つまり心情が詠み手にストレートに響いて来るような作品を、次点に回している点で、はたしてこの執筆者に「詩の基準」があるのやら、ないのやら、いぶかしさばかりが際立つような黄昏(たそがれ)です。(この作品は、散文的傾向が、安易な作品のように思わせていますが、なかなかに味わいのある作品になっています)
垣山(かきやま)に
たなびく冬の 霞あり
我にことばあり 何か歎かむ
土屋文明(つちやぶんめい) 『山下水』
上の句に問題はありません。
「冬の」という説明も、冬なのに霞が掛かっているというイメージを与えるものとして、決して無駄なものではありません。ただ、たなびく冬の霞に向かって、
「私には言葉がある
何を歎くことがあろうか」
と宣言した下の句に、嫌みの核心は込められているようです。
つまりこの短歌の、自発的な趣旨は、
「垣山にたなびく霞は
つめたさに閉ざされた、
春のよろこびさえない、
まぼろしの霞のようではあるけれど……」
やがては春の訪れはきっとあるのだから、
何を嘆くことがあるだろうか。
つまり四句目以外の言葉から、そのような意図が込められているように詠まれてしまうがゆえに、そのような意図に従うことが、この短歌を結晶化させる最良の方針にもなる訳ですが……
「わたしには言葉がある」
というプロバガンダ丸だしの、
自己宣言をひけらかしたような四句目によって、まるで、
「冬の夜も 言の葉あれば 嘆きなし」
のような、発句にすらなっていない、標語を呈示したような印象ばかりが浮かび上がって来ますから、聞き手の方は、音程を外して自己陶酔を続けるような歌手に対して、耳をふさぎたくなるような思いにされてしまうのです。
そろそろ、うんざりしてきましたが、
もうひとつだけ……
左様ならが 言葉の最後
耳に留めて 心しづかに
吾を見給へ
松村栄一 『樹氷と氷壁以後』
ただの別れの挨拶です。
「さようなら」
と手を振ればよいだけなのです。
それでもう、十二分にシチュエーションに叶うのです。
詩情はまっとうされるのです。
それをよりによって、
さよならが
わたしの言葉の最後である。
どうかあなた方は、私の言葉を耳に留めて
心静かに わたしを見るがよい。
心からの、別れ言葉があるとします。
その言葉をどう感じるかは、相手にゆだねられる事柄です。
それが永遠の別れであるとします。
「もうお別れです」
と告げるとします。その言葉に相手が悲しみを感じるか、別れ惜しさになみだをこぼすか、消えゆく人の言葉に耳を傾けるかは、相手にゆだねられる事柄です。そうであればこそ、そのようなシチュエーションにおいて、
「もうお別れですね。
あなた方は、私の最期の言葉に耳を傾けて、
心を落ち着けて、よくわたしを見ておいてください」
などとは、常人は口にはしないものです。相手との信頼が成り立っていれば、そのようなことは、言う必要すらなく、相手は自分に耳を傾けているには決まっていますし、そうでないならば、
「なぜ、こんな奴の言葉に、
耳を傾けなければならないのだ」
となおさら不愉快になるには決まっています。
もちろん宗教家にせよ、英雄にせよ、万人に特別な存在であると認められるような一廉(ひとかど)の人物が、このような台詞を述べたなら、それは舞台俳優の演技のような効果をもたらしますから、人々もあるいは引き込まれたりもするでしょうが、この短歌の表現自体がつたないものですから、そのような英雄性は微塵も感じられず、
「なにさま、こんな自意識過剰なことを述べ立てるのか」
と嫌な気分にさせられる結末を迎えました。
つまりは、日常会話における、あたりきのフィーリングにおいて、このような表現はなされるものではありません。そうして詩とは、一般的傾向を持つ人の、日常的な感性にゆだねることによって、相手に思いを伝えるという、あたりきのコミュニケーションに依存した文芸に過ぎないもの。それはつまり、ポピュラーソングの歌詞が、多々な様相を呈するにも関わらず、違和感を感じないのと同一線上の出来事で、ナチュラルでない感性の持ち主が、引きこもりよろしくサークルでもつくって、その内側で、不可解な表現を模索するものでは、決してないのです。
また、もしこれが、「わたしの短歌を眺めたまえ」という趣旨であると捉えれば、もっと嫌らしいことになります。作品を解釈するのは詠み手ではありません。聞き手です。それを詠み手の方が、
「私の最期の作品に耳を傾けたまえ」
などと述べるなら、全能の英知を宿したようなミラクルな作品でもなければ、「エゴばかりが肥大していやがる」とあきれ果てるには決まっています。
結論を述べるなら、この短歌では「さよなら」が最後の言葉にはなりません。最後の言葉はまぎれもなく、エゴを結晶化させたような、「吾を見給へ」へと収斂(しゅうれん)されているからです。おそらくは、「さよなら」へと収斂させるようなものし方(詠み方)をしたならば、これほど嫌みな作品へと、落ちぶれることはなかったかと思われますが、これによってただ、作者の陳腐なエゴばかりが、殺風景に広がる結末を迎えることになったのです。そうしてそこから感じられるのは、ナチュラルであろうとするのとは正反対のもの、最後の瞬間まで特殊であろうとするような、凡人のエゴの存在です。
個性とは、ひけらかすものではありません。
どれほど控えめにしていても、
静かににじみ出て来るようなものには、
違いないのですけれども……
[臨時覚書:あるいは「石清水のにじみ出てくるようなものには」とするか?]
わたしは悲しくなりました。
この書籍には、このような落書きが、
猖獗(しょうけつ)をきわめているのです。
もっとも許せないのは、この著者が、
よりによってこのような落書きを、
「必要条件の100」などと評して、
「あなたが日本人なら、
せめてこれくらいの歌は
知っておいて欲しいという
ぎりぎりの100首であると思いたい。」
などと高らかに述べ立てている、その途方もない精神です。
一体、詩情とは正反対のもの、
窮屈に押し込めた、駄散文やら、
頓智や屁理屈のオンパレード。
あるいは肥大したエゴと、
それに伴わない表現力。
そうしていつの時代にも、
ナチュラルでないような言語を、
こねまわしている羞恥心の欠落。
つまりは、詩や文学とは関わりのない、
あきれ果てるような落書をならべては、
それをわたしたちが知るべきものであると宣言する、
その根拠がどこにあるのやら、
わたしにはさっぱり理解出来ないのでした。
(をはり)
2014/07/02
2014/09/21改訂
2015/03/21再改訂
2015/05/02朗読掲載