贈答歌(ぞうとうか)というものがあります。
一方の人が和歌を贈ります。
贈られた相手はその和歌を踏まえながら、
自らの思いを込めて和歌を詠みます。
それを相手に贈り返します。
これで贈答の完了です。
贈答歌でもっとも多いシチュエーションは、恋する男性の皆さまが、相手の女性に思いを告げる和歌を贈るというものです。贈られた女性は、自らの思いをそっと織り込みながら、返答を兼ねて和歌を返すのです。ただし、あまりにも下手な和歌を贈られたり、相手が嫌いであった場合、和歌すら返さないこともあったようですが、細かいことは今は割愛(かつあい)。
恋歌からその贈答歌をひとつ、
眺めて見ることにしましょうか。
くや/\と 待つゆふぐれと
いまはとて かへる明日と
いづれまされる
元良親王(もとよししんのう) 後撰集510
来るか来るかと 待っている夕ぐれと
今はこれまでと 別れて帰る翌朝と
どちらのほうが つらさはまさるのでしょうか
これはプレイボーイの元良親王が、ある女性とのひと夜の逢瀬(おうせ)を果たしてから、帰宅したのちに、その恋人に贈った和歌です。意味はきわめて簡単ですが、なにしろ抱き合った翌朝の和歌ですから、互いの肌のぬくもりを思い出すみたいに、つまりは、第三者が聞くのとはまるで違ったトーンで、この和歌は相手に伝わったことと思います。しかも元良親王は、自分の思いをそのままに読んだのではなく、
「来るか来るかと」
待っているのは女性の方ですから、つまりは相手に対して、
「待っている時と、別れの朝と、
どちらの方が辛いのでしょうか?」
と尋ねていることになります。これは、和歌でもっとも好まれる、例の間接表現の一種と思って構いませんが、それによって、
「自分にはどちらも辛すぎて、
答えが出せません。
あなたならどちらでしょうか」
そんな思いを、ゆだねている訳です。
ただし、もっとも重要なことは、他にあります。
つまり、相手の気持ちを尋ねることによって、当然相手からの返答が帰ってくるはずであり……
……相手からの返事を期待するがゆえに、わざと自分の思いを記さずに、聞き手に尋ねてみせるのです。なぜなら、返答さえあるなら、ほんの束の間ではありますが、また相手と触れ合うような安心に、こころをゆだねることが出来るのですから。
この本質は、現代でも変わりません。
恋人達がメールなどで、
「ねえ、わたしのこと好き?」
などと確かめ合うのも、自分の思いをストレートに、
「あなたが大好きです」
としたのでは、どれほど深い思いであっても、一方通行には過ぎないものですから、相手からの、何らかのリアクションを求めるばかりに、極言するなら、相手との言葉のキャッチボールをしたいがために、わざと質問を投げかけるという……
……きわめて素朴な、間接表現には過ぎないのです。
それでは女性からの返答は、
どのようなものだったのでしょうか。
「返し」
ゆふぐれは
松にもかゝる しら露の
おくるあしたや 消えは果(は)つらむ
藤原かつみ 後撰集511
夕暮になると
松にすらかかる 白露ですが
見送る翌朝には 消え果ててしまうようです
「はてな?」
なんのことやらさっぱり分からない。
ただ白露が朝には消える、
そんな当たり前の事を、
解説しただけではないのか?
憤慨された方もおられるかもしれませんが、実は現代語の意味は、ただ和歌を情景的に統一させるための、表面上の体裁にしか過ぎません。返答の真意を吟味(ぎんみ)しましょう。
元良親王が二つを比べて、どちらが辛いですかと贈ってきたのに対応して、この和歌は、二つの答えを織り込んでいます。まずは初めの二句ですが、当時の歌人なら誰であれ、「松」に「待つ」が込められるのは、ほとんど同時に詠み取られるくらい、日常茶飯事の表現には過ぎませんでした。より正確に言うならば、これらの和歌は平仮名で「まつ」と記されるものですから、はなからどちらの意味が当てはまるかなど、漢字のようには定まってすらいないのです。
そんな訳ですから、
「あなたのおっしゃる夕暮は、
待つという希望にもかかります」
という解釈が成り立ちます。
一方では、三句目の「白露」を、
涙の比喩と捉えるならば、
「待つというかなしさで泣いています」
という解釈も成り立ちますから、
つまり、前半の趣旨はこうです。
あなたのおっしゃる夕暮は、
待つという、はかない涙(白露)のうちにさえ、
逢えるかもしれないという、
わずかな希望が籠もります。
それに対して後半では、
「白露でさえ、見送る翌朝には、
消え果ててしまうようです」
と締めくくっています。
もし白露を、そのまま涙と読み解いたのでは、
「涙さえもう消えてしまうよ」
となってしまいそうですが、これは真意ではありません。「消え果てる」という表現は、しばしば「命」や「心」に対して用いられるものですから、ここでも、
「白露、つまりは涙の置かれる朝には、
消え果ててしまいそうなくらい、
心細さがつのります」
というようなニュアンスが強くなります。
さらにはここでも、「おくる」には、
「置くる」と「送る」という、
ふたつの意味が掛け合わされて、
「白露の涙に濡れながら、あなたを送る朝は、
消え果ててしまいそうなくらい、
心細さがつのります」
と解釈することが出来ます。さらには白露が消えるというところから、もはや泣き尽くして涙も枯れてしまいました、と読み取ることも可能です。
このような複合的なイメージが結びあわされて、当時の聞き手には、
「どちらも、涙に濡れる辛さですが、
取り分け別れる朝(あした)こそ、
いのちさえ消えてしまいそうな気がします」
という思いが、たちどころに理解出来たかと思います。ただ私たちは、違う時代の、違う精神の、違う言葉のうちに存在するから、ちょっとした解釈が必要になってくる訳ですが……
かといって、一度解釈を加えれば、
次第に心情がにじみ出てくるのではないでしょうか。
わたしはそう信じているのですけれども……
ちなみにこの贈答歌、別の集では、異なる女性の返答が乗せられていて、そちらでは「待つ方が辛い」という表現になっています。女性を渡り歩いたプレイボーイの元良親王らしく、ちょっとおもしろい逸話です。
世のなかに
しのぶる恋の わびしきは
逢ひての後の 逢はぬなりけり
よみ人知らず 後撰集564
世のなかで
しのぶ恋というものの 侘びしさとは
逢ってから後の 逢わないということである
「はてな?」
これははたして詩なのだろうか。
なんの詩情すら湧いてこないのだけれど……
あるいはそう思われた方、
その感性は必ずしも間違ってはいません。
八代集の和歌のうちには、まるで西洋風の格言みたいにして、概念をことわざめかして表現したような和歌が、かなりの数収められています。これらは詩情の豊かさのためではなく、
「~とは~である」
というような、「概念の結晶」として人々の口にのぼっているうちに、まさに格言として、和歌集に収められたようにすら、わたしには思われるくらいです。つまりこの和歌に関しては、詩興の豊かさよりも、その格言めいた表現にこそ、見るべきところがあるようです。
もっとも格言というものは、理屈や教訓そのものではなく、それをちょっと凝った表現や、語りのリズムにゆだねて、結晶化させたような、意義と表現の抽象化された領域にこそ、存在価値があるものならば……
……おそらくはそれもまた、
詩的表現の内側に含まれるものなのかも知れません。
あるいは、
「世のなかにあって、一人偲んでいる恋のわびしさは」
と読み解いて、なかなかに心情のこもる和歌なのではないかと、最終推敲の際に気づきましたが、ちょっと格言風の和歌も、深く読み解いてみるならば、心情にゆだねられたような、詩になっているのかもしれませんね。今はこのまま行き過ぎます。
たまのをの
たえてみじかき いのちもて
とし月ながき 恋もするかな
紀貫之 後撰集646
これは長らく付き合いのある相手に贈った和歌で、「たまのをの」というのは、例の枕詞(まくらことば)になっています。もとの意味は、「玉をつなぎ止める糸」のことですが、ここでは、それが切れる意味から「絶える」に、さらには糸の短さから「みじかき」に、つまり二句目の二つの言葉に、共にかかっていると見てよいでしょう。それで意味は明らかになると思います。すなはち、
玉をつなぎ止める糸の
やがては絶えてしまうような 短い命ではありますが
せめて長い年月の 恋もいたしましょう
命の細く短いような、心細さを表現した上の句が、
かえって恋の長さへの願いを強くする。
それがこの和歌の魅力です。
「恋歌」をさくさく進行しているのは、前編を引き延ばしすぎた罪滅ぼしという訳ではありません。「四季」の頃はまだしもマシだったのですが、恋歌以降になると、『後撰集』も悪い意味での本領を発揮してしまい、読んでいるだけで目眩(めまい)を起こしそうな、くだらない和歌がひしめいているようです。その中に、時折見どころのある和歌が、砂利に混じった勾玉みたいにして、わずかに見いだせるくらい。その密度の低さから、わたしの取り上げるべき和歌も、おのずから減少するのは避けられません。
そんな訳ですから、「恋三」からも、
一首だけ取り上げることにいたしましょう。
もろともに
をるともなしに うちとけて
見えにけるかな
あさがほの花
よみ人知らず 後撰集716
一緒になって
折る訳でもなくただ 気を許し合うみたいに
眺めたものでした
あさがおの花
これは、朝顔の花の咲いている庭先へ、部屋から男が出てゆく時に、おそらくは女の詠んだ和歌です。(詞書から、男が詠んだ和歌にも取れますが……)
恋の和歌が、おもてに情景を描きながら、裏に思いを込めるというのは、これまでも見てきた通りです。ここでもやはり、「折(を)る」には「居(を)る」が掛け合わされ、さらに「朝顔」には文字通り、「朝の顔」が掛け合わされています。それでもう一つの意味は、
ずっと一緒に
居る訳でもないのに いつしか気を許しあって
見せてしまったりもするのです
こんな朝の素顔を……
どうやらこの和歌は、「恋三」のうちでも、もっとも幸せにひたっているような気配です。しかしやがては、逢えない不安がまさってくる……そろそろ「恋四」へとまいりましょうか。
それにしても、わたしが『後撰集』の非難をしたがるのを、あるいは誹謗中傷かと思う方もおられるかもしれません。わたくしが例の「梨壺の五人(なしつぼのごにん)」に選ばれなかったものだから、一人でひがんでいやがるのだ、肝っ玉のちっちぇえ野郎だと……
なるほど、確かにわたくしは、村上天皇にすら認めてもらえませんでした。今では、悲しき日陰者の人生です。みやこを追われて、酒ばかりが心の友です。けれどもだからといって、それを逆恨みはいたしません。わたしは清いおとこです。わたしの言葉が真実であることを知らしめるべく、今回は特別に、一首だけ、その悲惨な和歌の方を、あえて紹介してみたいと思います。そうすれば皆さまも、わたしの言葉が虚言一徹のものではないことを、わずかばかりも信じてくださることもあるかも知れません。そうすれば、ちまたを賑わしている「梨壺不採用」の烙印も、あるいは晴らすことが出来るでしょうか……
あしびきの
山田のそほづ うち詫びて
ひとり蛙(かへる)の 音(ね)をぞなきぬる
よみ人知らず 後撰集806
男が女の田舎まで出向き、逢いたいと扉を叩いたのに、開けてもらえずに戻る途中、蛙(かえる)が鳴いていたので詠まれたという状況が、詞書に記されています。このような、カリカチュアめかした情景からも明らかなように、はなから滑稽な和歌を詠もうとして、仕組まれたものであることは、疑いありません。それで、こんな酷い和歌になっている。
つまりは、計算された駄歌(だか)であるところが、ただのヘタれた和歌とは異なる、特に採用すべき理由ともなっていますが、それにしても悲惨な和歌です。
まず、言葉から説明しましょう。
「そほづ」というのは、つまりは「案山子(かかし)」のことで、同時にひとり乏しく帰路につく主人公の比喩でもあります。「あしびきの」はもちろん枕詞ですが、ここではむしろ、案山子が足を引きながら帰って行く、その情けない有様を、そのまま表現しているような様相です。
そこに蛙が「げこげこ」(かどうかは知れませんが)鳴いている。
ここで、必殺技の掛詞(かけことば)が放たれますが……どうも驚きます。「ひとり帰る」に「蛙」を掛け合わせるという暴挙です。さらに結句では、「蛙が鳴いている」ことと、「私が泣いている」ことを、重ね合わせてしまいましたから、すばらしくヘンテコな和歌が生まれました。
片足を引くような
田舎の田んぼの案山子は 苦しさにさいなまれて
ただひとり蛙(かえる)のなかを帰るのだ
蛙といっしょに「げこげこ」泣きながら
この和歌の圧巻は、「ひとりで帰る」に「蛙」を掛け合わせるという、まさに、みすぼらしい中年の駄洒落(おやじギャグ)以外、なんでもないような、露骨な掛詞を四句目で呈示してみせるところにあります。しかし、コミカルなシチュエーションを記した「詞書」、さらには、惨めな案山子の様相をポンチ絵に描いて見せた上の句によって、その駄洒落を発するべきクライマックスへの、周到な準備がなされている点、初めから滑稽ものを詠み込もうという、作者の作為が込められている。つまりは、計算された駄歌(だか)になっているのです。
結句の「音をぞ鳴きぬる」というのも、なまじ自分の嘆きと、蛙の声を重ね合わせたものだから、主人公が泣いているとは到底思われず、ただ「げこげこ」と四コマ漫画のオチみたいにして、主人公の口から蛙の声が出てしまったような失態が、この和歌のエンディングを、滑稽に讃えているようです。
ですからこの和歌は、真面目なものとして捉えようとした場合、手の施しようのない駄歌であるにも関わらず、滑稽ものとしては、きわめてよく配合された作品になっているのです。そうして、田舎じみた舞台に繰り広げられる、主人公の和歌の下手っぷり、その失態の極みが、見事に呈示されていて、非の打ち所がない駄歌になっている。
つまりは、よく考察すると、詠み手が下手なのではなく、詠み手が下手を演出していることが、まざまざと分かるのですが、表面上はどこまでも、駄歌の手本のように詠まれていて、それが愉快を誘うものになっている訳です。
つまりは、この和歌を「恋歌」に収めたのが誤りなのであって、初めから「雑歌」の滑稽ものに収めればよかったものを、よりによって恋歌に収められたものだから、真面目に読み解こうとして、あきれ果てる結末を迎えることになりました。
結論を述べるなら、これはアンソロジーとしての撰者の方針の誤りに他なりません。せっかくの滑稽ものの傑作を、山羊の歌、すなわちトラジェディーとして発表したために、中原中也さえびっくり致すような、場違いなピエロとなり果ててしまったのです。
あるいはこのような滑稽ものを織り込んだ方が、
「恋歌」に、スパイスが加わるとでも思ったのでしょうか。
わたしには承伏(しょうふく)しかねますが……
あるいは村上天皇も、「梨壺の六人」目に、わたしを参加させておいた方が、『後撰集』のためには、よかったのではないでしょうか。わたしは、また一人で、酒を呷(あお)ります。けれども、しかし……
官位すら持たないわたくしに、梨壺の資格などありはしませんでした。それは覆せない事実です。あまたの歌人たちが、わたしと同じように、才能はあるのに地位も名誉も得られず、歴史の狭間へと消されていった。あの日の、「庶民は不採用」という赤紙を、わたくしは生涯忘れることはないでしょう。それはいつまでも、まるで悲しい酒の肴みたい。心の傷となって、深く刻み込まれているのです。
……さての果てに至りてみれば、
「冗談過ごして、話が折れる」
これは誰の格言だったでしょうか。
話を振り出しに戻しましょう。
先ほどのような和歌は、むしろ滑稽ものの極致ですから、勅撰和歌集に残すべき価値も、大いにありそうなところです。しかしそのような価値もなく、ただ安っぽい掛詞を使用したり、屁理屈を並べたりして、お粗末な和歌へと陥ったもの。あるいは、すでにある着想を練り直したようなまがいもの。安い感慨を、低調にまとめただけのもの。そのような和歌が、他の勅撰和歌集よりもはるかにあふれかえるのが、すなはちち、『後撰集』の実体のようであります。例へるなら、
君見ずて
いく夜へぬらむ とし月の
ふると共にも おつるなみだか
よみ人知らず 後撰集847
上の句の「あなたを見ないで幾夜を過ごしたのであろう年月の」という冗長な説明の後に、「経るのと一緒に落ちる涙か」という、詩文にすら至らない、安っぽい感慨を、ルーズに記したような取りまとめ。思いつきをだらだらと記したばかりで、学生の提出短歌と何の遜色もない、焼却炉を目前としたような体たらく。いかに梨壺の五人が『万葉集』の解読に忙しいからといって、これではあんまりアンソロジーが可哀想(かわをそ)[校訂者注:このような読みは存在しない。滑稽な和歌に釣られて、このあたり、執筆者のお道化が過ぎている傾向があるらしい]すぎます。
他に、着想をそのまま記すにしても、
誓ひても
なほ思ふには 負けにけり
誰(た)がため惜しき いのちならねば
蔵内侍(くらのないし) 後撰集886
(もう逢わないと)
誓いを立てても
それでも恋しい思いには
負けてしまうものです。
(あなたに逢えないなら)
誰のために惜しむような
いのちではないのですから。
(誓いを破ってもしそれで
死が与えられてもかまわない……)
のような思いには、多少の魅力が籠もります。
なるほど取るべき和歌も、
まだまだあるようですが……
意味ばかりくど/\しいのは、やはり後撰集ならではの失態です。
ながらへば
人のこゝろも 見るべきに
露のいのちぞ かなしかりける
よみ人知らず 後撰集894
いのちを長らえていれば
あの人のこころも
あるいは見ることが出来るでしょうに
この恋の苦しさから
今にも消えてしまいそうな
わたしの露のようないのちこそ
悲しいものに思われます
『後撰集』では「よみ人知らず」で、題すらありませんから、このように読み解いても構いません。けれども、この和歌は『小町集(こまちしゅう)』と呼ばれるものに、掲載されているのですが、ある写本では「相手の男が亡くなった時に詠まれたもの」として、置かれているものもあるようです。もしそれに基づいて読み取るならば、また解釈も変わってくるかもしれません。例えば……
あの人がいのちを保っていたならば
そのこころも、いつしかわたしものとして
眺めることも出来たかもしれませんが……
露のようにはかなく消えてしまったあなたの命が、
今は悲しくてなりません。
と、読み解くことも可能です。
このように詞書や、詠み手の状況、さらには聞き手の解釈によって、内容に幅の生まれることは、なにも和歌に限ったことではありませんが、詩の魅力の一つであり、同時に本質でもあると言えるでしょう。
そうであればこそ、感性を越えて、時を超え、あるいは言語をすら突き崩して、異界の友にすら、共感を呼び起こすような、たましいの共鳴作用というもの……
あるいは、自己を基準に、ひたすら天動説に終始して、着想のひけらかしパーティーに邁進(まいしん)する、謎の三十一字(みそひともじ)サークルの落書きが、その実、詩でもなんでもないのは、その共感を無視した、お化粧まみれの、自己アピールのせいでもあるようです。
……それはともかく、
『小町集』にあるからといって、これが小野小町の作品かどうかは、きわめて不明瞭です。なぜなら『小町集』というのは、後になって編纂されたもので、小町にゆだねられて混入した和歌が、数多く収められているからです。また、きわめてユニークなことですが、この和歌はおなじ『後撰集』の「雑歌三」に、三句目を、
「見るべきを」
として掲載されています。その意図がどのあたりにあるものか、私には残念ながら、考察する気にさえなりませんが、おなじ和歌がおなじ集に、無頓着に収められている例は、八代集のなかでも極めて稀(まれ)なことではあります。
失態……
あるいはそれかもしれません。
と言ったなら、
それは梨壺に入れて貰えなかった、
わたしのひがみになるのでしょうか……
皆さまの想像力に、お任せしようと思います。
春がすみ
はかなく立ちて わかるとも
風よりほかに 誰(たれ)かとふべき
よみ人知らず 後撰集929
結句の「誰かとふべき」というのは、「誰に問うべきであろうか」くらいのニュアンスですが、自問自答のような和歌の疑問形であればこそ、「問うべきものなどいないよ」という、反語の意味を内包します。それで、この和歌を、詠まれた内容の表面だけで訳すなら、
春がすみが
はかなく立ちのぼっては 別れるとしても
風よりほかに 誰にたずねたらよいだろう
春がすみがのぼっては消え去ってしまっても、ゆくえは風にしか分からないという意味になります。ところが、消えてしまう春がすみを、わざわざ「別れる」と表現したり、「風よりほかに何にたずねたらよいだろう」と述べるのが自然であるのを、わざわざ「誰かとふべき」として、擬人法の濃度を高めていることから、すでにこの和歌は、自然を描写したものとは、聞き手に受け取れなくなってしまっています。
つまり、聞き手はすぐさま、何らかの秘めた思いが込められていることを、特に「誰かとふべき」の響きから、たちまち考えることになりますから、「恋歌五」に収められた和歌としては、
春がすみのような恋が
はかなくも立ちのぼっては
やがては別れてしまうとしても
風よりほかに誰が
その理由を知っているだろう
ここで風をうわさと解釈して、もはやその理由など、うわさ話のような宛てもないことに過ぎなくて、今さら寄りを戻す手がかりなど、見いだすことは出来ません。そう読み解いても構いませんし、あるいはまた、「はかなく立ちて」という表現を、実際に恋人が遠い所へ旅だったものと解釈して、
春がすみのように あまりにもはかなく
立ち去ってしまった あなたと別れてから
あなたの消息のことなど 風より他に
たずねる相手など どこにもいないのです
と、心が離れたのではなく、物理的な距離にさえぎられたかなしみと読み取っても構いません。さらにこの和歌は、実は贈答歌になっていて、『後撰集』の次の和歌には、伊勢の返歌が並べられていますが、これと共に読み解くならば、また違った印象が、こゝろに広がってくるかも知れませんが……
例えば、単独の和歌と、贈答歌。詞書きのある和歌と、よみ人すら知れない和歌。たったひとつの三十一文字(みそひともじ)が、状況に応じて、万華鏡みたいに変化するような解釈のうちに、詩の面白さはひそんでいるようです。
そうであるならば……
次の和歌は、贈答歌の形式を保って、
二つ揃えてお送りしてみるのも、
また一興かもしれません。
「思ひ忘れにける人のもとにまかりて」
夕やみは 道も見えねど
ふるさとは もとこし駒(ごま)に
まかせてぞ来る
よみ人知らず 後撰集978
「しばらく思い忘れていた人のもとへ向かって」
夕暮も闇に落ちて 道も見えなくなりましたが
慣れ親しんだふるさとのような あなたの処ですから
いつか来た時の 馬に道を任せて
こうしてやってきましたよ
「もうすっかり日も暮れたけど、
馬が道を覚えているものだから、
懐かしいあなたのもとに来れましたよ」
玄関での挨拶のような和歌ですが、ちょっとした着想を語りかけるトーンが軽やかであることから、実際はそれほど期間が空いた訳ではなく、ほんの数日、来訪をサボっていたのを、
「ごめんなさいね」
とあやまるのも体裁が悪いものだから、開き直って詠んでみせたような印象です。なにしろ、本当に期間が空いてしまったら、馬が道を覚えていたことも、その馬が以前と同じ馬であったことも、なおさら嘘っぽくなってしまいますから、人は疎かにしていても、馬は覚えているくらいの、おそらくは当時の人々には察知できるような「馬感覚」というものに、この挨拶はゆだねられているようです。
ここまで考察すれば、私たちにも類推することは可能な訳ですが、案の定、女性の返答も、ちょっとすねたような演出はしていますが、それほど疎遠にされた怒りや、ふてくされた印象はありません。『恋歌五』に収められてはいますが、むしろ和歌としては、仲むつまじいシーズンではないでしょうか。
「返し」
駒にこそ 任せたりけれ
あやなくも こゝろの来ると
思ひけるかな
よみ人知らず 後撰集979
ただ馬に まかせて来たのね
それでたまたま ここに到着してしまったのね
それなのにわたしったら、なにも考えないで
あなたが心から ここに来ただなんて
思い込んでしまうだなんて
(わたしったら なんて馬鹿なんでしょう)
「あやなし」というのは、「理屈にあっていない」とか「筋道が通らない」、あるいは「分別が付かない」といった意味です。つまり自らの気持ちが先に立って、あれこれ考察をする余地もなく、
「わたしに逢いたくて、来て下さったのね」
とはしゃいでいたのに、贈答歌に見られる相手の主張は、馬にまかせて来ただけだったという……
つまりは、「あなたの心」が来たのかと思ったら、「あなたの駒」が勝手に来ただけで、あなたはそれに負ぶさって来たに過ぎなかったのに、わたしったらなんて浅はかなんでしょう。
といった表現ですが、ちょっとすねたように見せながらも、お互いにシャレに興じ合って、安心してからかうようなゆとりが、この贈答歌には込められていて、そのため私たちには、むしろ恋人たちが、たわむれているように感じられるのです。
それにしても、梨壺の五人。
またしても、カテゴリーを失敗しましたね。
わたしが参加してさえいれば、
もっと、以前の恋歌に挟み込んだものを……
断熱膨張した『後撰集』。
密度のわりに、歌数が多いのが特徴で、
恋歌も六まで膨らんでいます。
もしわたしが撰者に加えられたら、
厳選した詩集にしてみせたのですが、
村上天皇も惜しいことをしたものです。
蛇足のような恋六は、
はやくも恋の終末を過ぎ去って、
あらためて逡巡や煩悶を、
まとめ挙げたような気配です。
「はじめて人に使はしける」
思ひつゝ
まだ言ひ初(そ)めぬ わが恋を
おなじこゝろに 知らせてしがな
よみ人知らず 後撰集1012
「はじめて相手に贈る」
心に思いながら
まだ言い出せないでいる わたしの恋を
今の心のままで 知らせてみたいなあ
簡単な和歌ですが、ちょっとだけ加えましょうか。
この和歌は、始めて相手に贈る和歌ですから、本来ならば優れた比喩に思いをゆだねるような、相手の関心を引くように詠まれるべきところです。ところが二句目にあるように、この贈り手は、
「まだうまく和歌として、
まとめ上げることが出来ない」
と白状しているのです。
あるいは、恋心ばかりが先走って、告白のメールすら、満足にまとめられないような様子。そんなところでしょうか。我々の青春時代には、『懸想文集(けそうもんじゅう)』を読破しないと、懸想文(けそうぶみ)などは送信してはならないのが定めでしたから、ずいぶん時代も変わったものです。
ともかく、
それでこの男は考えた。
和歌さえ歌えない自分を、ありのままに表現して、相手の関心がこちらに向けられるか、それとも嫌われるか、一か六かの賭に出たわけです。なんて言うと、大げさなようですが、時は和歌の隆盛を見せた平安時代。「お隣の何とかさんは、こんな優れた和歌で誘われたのよ」などと、娘さんたちが男談義に夢中になっているくらいですから、あえて下手な和歌を贈りつけるというのは、なかなか勇気のいる決断には違いありません。(もっとも、下手な人ほど、自らの駄歌におのぼれて、衝撃の結末を迎えたりするものですが……)
「胸に秘めた思いを、
まだ和歌には出来ません。
けれども、あなたへの思いを、
そのまま、伝えられたら……
今はそう願うばかりです」
もし相手が、この程度のニュアンスに詠み取って、うぶな人だと思ってくれたなら、あるいは見込みもあるでしょうか。結局のところ、詠み手のルックスに掛かってくるのでしょうか。その結末は、残念ながら『後撰集』には記されていないのでした。
「つれなくはべりける人に」
恋わびて
死ぬてふことは まだなきを
世のためしにも なりぬべきかな
壬生忠岑(みぶのただみね) 後撰集1036
「つれなく思いをはねつける相手に」
恋しさに歎き悲しんで
死ぬということは まだ実際には無いようですが
そのはじめての例に なりそうなくらいです
これもちょっとした勝負です。
「和歌の世界では、誰もがみな、
死んでしまうなんてほざいていますが、
本当に死んだ人など、
実際にいたでしょうか」
けれども……
あなたへの思いが、
あまりにも苦しいものですから、
このままではその始めての例に、
わたしはなってしまうに違いありません。
和歌の修辞を逆手に取って、「みんなのは詩的な虚偽に過ぎませんが、わたしの思いだけは、たわむれではありません」と、訴えたことになります。訴えたのは良いのですが、はたしてこれで、
「まあ、それほどまでに、わたしのことを」
と相手の女性が思ってくださるかどうか……
「この人こそ、死ぬという言葉を、
下手な和歌にもてあそんでいる、
張本人じゃないの?」
なんて軽蔑されて、返歌すら届かないリスクが大きすぎます。
ここでもまた、和歌が受けいられるかどうかは、作品の体裁にはよりません。ただ詠み手である、壬生忠岑の容姿や、日頃の振る舞い、つまりはイケメンであるかどうかに、掛かっているかと思われます。例えば、時乃何某などが贈りつけた日には、贈答歌の代わりに「泥だんご」が、四方八方から飛んで来て、泥だるまが、仁王立ちに立ち尽くすには違いありません。ハンサムにほど遠いということは、なんとも無念なことであります。わたしは泣きながら、また焼酎に身をゆだねるのでした……
(ところで、自虐的な道化の技法は、太宰治の得意とする所ではありますが、和歌の技法としても用いられることがありますので、覚えておいて損はないでしょう。)
しら雲の
ゆくべき山は/も さだまらず
思ふかたにも 風は寄せなむ
よみ人知らず 後撰集1065
私の思いはまるで白雲の
向かうべき山も 定まらないようにさ迷っています
どうかわたしの思う方へと
風よ、寄せておくれよ……
情景の「白雲」に私の思いを委ねつつ、四句目ではもう少し率直に、自分の願望を擬人法へ委ねています。それで「白雲」に意志があるように感じられるので、たやすく詠み手のこころを、情景にゆだねたものだと、悟ることが出来るのです。その一方で、自然を詠んだ和歌としては、安っぽくなってしまっている点も、『後撰集』らしい失態に思われなくもありませんが……
そろそろ、恋を終わりましょう。
雑歌の一は、やんちゃ者でお馴染みの?
在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)をひとつだけ。
「世のなかを思ひうじてはべりける頃」
住みわびぬ
今はかぎりと 山ざとに
つま木こるべき 宿もとめてむ
在原業平 後撰集1083
「世のなかに嫌気がさしている頃」
住むのも 辛くなってしまった
もはや今をかぎりとして 山里に逃れて
薪の木でも折り取りながら 生きるための
住みかでも探そうか……
詞書の「思ひうじて」というのは、「思ひ倦(う)む」ことで、ようするに「嫌になるような思いに苦しめられる」ことです。古語の表記では、しばしば発音されていたはずの「ん」が記入されないことがあるのですが、ここでも、
「思ひうじて」
とあるのは、実際には、
「思ひうんじて」
と発音されるのが正しいようです。他にも、
「あんない」という発音が
「あない」と表記されたり、
「あんめり」という発音が
「あめり」と表記されたりと、
撥音(はつおん)の無記入は数多く見られます。さらには「日記」も「にき」と表記されますが、本当は「にっき」と発音されていたかもしれないなど、促音(そくおん)の省略も見られたようですが、それはさておき……
世のなかに嫌気がさしたので、今をかぎりとして、山里に隠れ住もうかと詠んでいる訳ですが、その表現はむしろ、孤独の感慨からはほど遠く、演技で名台詞でも述べているような、対外意識にあふれています。
「今はかぎりと」
などはマントでもひるがえして、騎士でも立ち去りそうなイメージで、行動力のある好男子が、独りごとの台詞まで、観客を意識して演じてしまうような……つまり、当時の表現を用いるならば、
「色好みのなかの色好み」
の魅力にあふれています。だから何度読み返しても、世を捨てて、山里に隠棲(いんせい)しそうに思われないのは、むしろ仕方のないことでしょう。ちなにみこの和歌もまた、例の『伊勢物語』に収められています。
こちらは『伊勢物語』にはありませんが、
やはり業平朝臣の和歌をもうひとつ。
「思ふ処ありて、前太政大臣に寄せてはべりける」
頼まれぬ
憂き世のなかを なげきつゝ
日かげにおふる 身をいかにせむ
在原業平 後撰集1125
「思うことがあって、
先の太政大臣に詠み贈るには」
頼みにもされない
憂いにみちた世のなかを 嘆きながら
まるで日陰に生える植物のような
日の当たらない我が身を
どうしたらよいものか
俳優の演技のような様相があるからこそ、この和歌もまた、我が身を託(かこ)つばかりの、へりくだった嘆きからはほど遠く、むしろ、
「君よ、わたしをなんとかしたまえ」
と不遜な態度で訴えるようにさえ、思われるような台詞ですが……
おそらくその印象は、冒頭の「頼まれぬ」によってもたらされるものと思われます。これが例えば、「無視される」とか、「相手にされない」といった自分本位のニュアンスであれば、個人の嘆きへと陥るところですが、「相手に頼まれない」と言い切ったところに、
「本来は頼まれるべきなのに」
頼まれる資格を有しているような印象が、ほんのわずかに混入し、この和歌を、ありきたりの厭世とは異なる、もっと力強いものへと変えてしまっているように思われます。繊細なたましいに引きこもってうじうじせずに、自らを律して、決してへりくだらないような、カルシウム旺盛の骨太の精神こそ、この人の和歌の魅力なのでしょう。
『後撰集』でやたらと「贈答歌」の紹介を行っているのは、決して偶然ではありません。この集の著しい特色のひとつに、「贈答歌」が『八代集』のどの集よりも、際だって多いことがあげられます。そのあたり、和歌の質はともかくとして、当時の貴族たちが、和歌をどのように使用していたか、生の声が聞こえてくるような魅力が、実はこの『後撰集』にはある訳です。
詩集の魅力というものは、必ずしも秀歌の集合にあるばかりではありません。万華鏡のように玉石混淆した多様性にも籠もることは、むしろ和歌を離れた、『梁塵秘抄』における「今様(いまよう)」の歌詞を眺める時、なるほど、思い当たることもあるのではないでしょうか。
次に紹介する和歌は、シチュエーションからして愉快ですが、もとの詞書は省略して、始めに現代語で、その内容を説明しておこうと思います。
「嵯峨天皇の孫娘である大輔(たいふ)という歌人は、藤原敦忠(あつただ)の恋人のひとりでしたが、その大輔のもとに、敦忠が別の女性に宛てて使わしたはずの手紙が、あやまって届けられてしまいました。他の人への手紙を、あやまって送ってきたのだと察知した大輔は、さっそく藤原敦忠に和歌を詠んでやったのです」
さて、このような状況は、むしろ今日の、ゆび打ちのメール世代にこそ相応しいような内容です。わたくしなども、かつては、異性に送るべきメールを、あやまって同性に送信して、知らぬふりを決め込んだことすらありましたが、それさえ後ろめたいような不体裁に、ちょいっとばかし、さいなまれたものでした。それがもし、恋人を二股に掛けての、別の恋人と取り違えてのメールであったならば、どれほどの窮地に立たされるものか……
あるいは、このような勘ぐりこそ、持てない男のひがみみたいなもので、二股も三股も、渡り歩いているような荒くれどもには、それほどの動揺もないのかも知れませんが……
いずれにせよ、
別の恋人への手紙が届けられた大輔の方は、
愉快な筈もありませんから、
道知らぬ ものならなくに
あしびきの
山踏みまどふ 人もありけり
大輔(たいふ) 後撰集1205
道を知らない
わけでもないでしょうに。
あしびきのと讃えられるような、
山路で踏み迷っているような、
アホな人もあったものですね。
なるほど、藤原敦忠といえば、後に夭折(ようせつ)[若いうちに亡くなること]するとはいえ、なかなかの権力者候補でしたから、その恋人ともなれば、今日とは違い、自らの立場を守るような、ドロドロとしたしがらみが、愛憎と絡み合うような、複雑な恋愛感情に、あるいは身をやつしていたのかもしれません。
けれども、そのような時代であればこそ、和歌を通じてだけは、身分もなくたわむれるすべを、当時の歌人たちは知っていたのでしょうか。この和歌には、ジメジメと隠されたような、陰湿な愛憎はなく、ただ相手をからかうような、軽佻(けいちょう)[落ち着きなく、軽はずみなこと]なひらめきが勝っています。そうしてきわめて分かりやすい表現をしながら、
「道馴れた人でも、
山で迷子になるんですね」
という言葉のうらに、
「恋に手慣れた人でも、
踏み外すことがあるんですね」
なんてからかいを込めながら、
「ちょっと、どうゆうつもりなのよ」
なんて、軽くむくれた調子が感じられます。それでいながら、陰湿な影はありませんから、わたしたちも軽やかに、この和歌に同調することが出来るのです。そんな訳ですから、先ほど現代語訳に「アホな」なんて加えてみたくなったのも、うなづけることかと思いますが……
それに対する、
敦忠朝臣(あつただのあそん)の答えはどうでしょうか?
「返し」
しらかしの 雪も消えにし
あしびきの 山路を誰(たれ)か
踏みまよふべき
藤原敦忠 後撰集1206
白樫(しらかし)に積もった 雪さえ消え去った
あしびきのと讃えられるような その山路をいったい誰が
踏み迷ったりするものですか
(初めからあなたに、贈った手紙なのですよ)
苦しい、苦しすぎる。
あまりにも苦しい返答です。
すでに見破られているのにも関わらず、
「いいえ、あなたに贈った手紙です」
なんて言い張るような不体裁は、今日にも見られる男性の情けなさを露呈して、なほ、あまりあるように思われます。それにも関わらず……
このように、言い訳をされても、
これ以上は糾弾できないであろう、この大輔という女性の、
ただ和歌のなかでのみ、相手と対等になれるような、
身分社会のやり切れなさ……
それが、胡椒くらいのアイロニーとなって、
わずかに、感じられはしないでしょうか……
それでも陽気に律することを、
人はけなげと呼ぶようです。
[おまけのコラム]
初めの頃は、戸惑うこともあるかと思うので、念のために述べておきますが、大輔(たいふ)というのは役職の名称であり、人の名前ではありません。そうであればこそ、ここに登場する大輔と、伊勢大輔(いせのたいふ)、さらには殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)は、すべて別人です。
植へしとき 契りやしけむ
たけくまの 松をふたゝび
あひ見つるかな
藤原元良(もとよし) 後撰集1241
植えたときに 契りを交わしただろうか
武隈の 松を再び
互いに見ることになろうとは
『後撰集』のうちには、長い詞書(ことばがき)が記されていて、ほとんど物語を和歌で締めくくるような、「歌物語(うたものがたり)」の体裁を取っているものが、多くあります。これもそのひとつで、「武隈(たけくま)の松」というのは、宮城県岩沼市にあった(現在でも何代目かの「二つ松」が観光名所となっています)、根元から二つに分かれている、立派な松のことを指しています。そんな「武隈の松」ですが、歌枕としては、しばしば「待つ」に掛け合わされる一方で、「みちのく」という、異郷(いきょう)の地へいざなうものとして、和歌には詠まれてきました……
しかし、いつ頃か、歌枕に知られたその松も、すっかり枯れ果ててしまいましたので、この和歌の詠み手である藤原元良が、任地に赴いたとき、新しい松を植えたのです。あとは詞書を、現代語訳して、締めくくることにしましょう。
陸奥に守(かみ)として赴任したとき、武隈の松が枯れているのを見て、そこに新たに小松を植えついで、やがて任期を終えたので、みやこへと戻った。その後、またその場所を訪れたときに、かつて任期中に植えた松の、立派に生長した姿を眺めながら……
ふたたび松と、顔を合せることになろうとは、植えたとき、約束しただろうか。そんな和歌を詠んだ訳です。陸奥への旅愁(りょしゅう)と、夫婦(めおと)じみた並び松の姿から、「植えたとき約束したでしょうか」「互いに見つめ合うとは」といった、はるかなる恋人めかした擬人法が、ちょっと俗ではありますが、なかなかに効果的です。
ひどいと言えばあまりにも酷い。
おもしろと思えば、あまりにもおもしろ。
駄洒落みたいな露骨さや、下品とさえ捉えられそうな、滑稽な和歌を納めているのも、『後撰集』ならではの特色(魅力とは言いきれませんが)です。
そんな訳ですから、予定を変更して、泣きたくなるような下手歌、もはや定冠詞付きの、「The 足の裏」の和歌を紹介いたしましょう。もちろんこの和歌は、栄えある「足くさコンテスト」が、千年以上の伝統を誇ることを、高らかに宣言したものであることは、述べるまでもありません。(笑ひ)
あしのうらの
いときたなくも 見ゆるかな
波は寄りても 洗はざりけり
よみ人知らず 後撰集1262
寺に籠もっていた時のことです。
知り合いと一緒に、正月の精進を終え、寺を出てきたとき、その相手が、あまりにもよごれた靴下を忘れていったので、その汚れ物と一緒にして、送り付けたという趣向です。
芦の生えた浦が
なんとも汚らしく 見えるようだ
波は寄っても 洗わないのだろうか
……果たして、こんな体裁上の詠み取りが、
この和歌からなされうるでしょうか。
いえいえ、そんな読みとり方は、
出来ません、出来ません。
いくら体裁を取りつくろっても、もう一方の意味が、あまりにも露骨すぎて、たちまち真相を暴露(ばくろ)してしまうからです。この場合、和歌の持つ二重の意味は、もちろんわざとですが、完全に破綻しきっているようです。
つまりは、この和歌は、友人をからかって、
足の裏が
なんとまあ汚らしく 見えるじゃないか
波さえ近寄っては その汚れには びっくりいたし
洗わないでは 逃げていくってか
どんだけ汚い足の裏やねん。
そんな突っ込みが返ってきそうですが、
まあ、それだけ一心不乱に、精進を重ねた武勲であると、そういう思いも込めて、こんなからかい方をしたものと思われます。いずれにしても、和歌としてはあまりにも低俗で、滑稽や誹諧の趣味すら素通りして、ほとんど狂歌(きょうか)の様相です。(あるいは『新撰犬筑波集(しんせんいぬつくばしゅう)』でしょうか?)
そうかと思えば、むしろ今日風の情緒性を、
すらすらと記しただけの、さらりとした魅力の和歌もあります。
ゆふぐれの さびしきものは
あさがほの 花をたのめる
宿にぞありける
よみ人知らず 後撰集1288
夕暮に 寂しげなものは
あさがおの 花を頼みとするような
そんな住みかにこそあります
夕暮にもなれば、朝顔はすっかりしぼんしまい、他に花もないような小さな庭には、ただ草ばかりが、寂しげに揺られている。情景の侘びしさが、「さびしきものは」という率直なつぶやきと調和していて、かえって好印象です。
「巻第十九」は「離別」と「羇旅」を収めています。ここでは分かりやすくするために、見出しを分けておくことにしましょう。まずは離別です。
「みちの国へまかりける人に、
火打ちをつかはすとて、書き付けゝる」
をり/\に
打ちてたく火の けぶりあらば
こゝろざす香を しのべとぞ思ふ
紀貫之 後撰集1304
「陸奥へ向かう人に、
火打ち石と一緒に、書き贈る」
その時ごとに
石を打っては焚く火の
けむりが立ちのぼったならば
わたしのこころざしを香りのなかに
しのんでくれたらと思います
火打ち石のプレゼントなどというシチュエーションも、晴れ舞台用の主題ではなく、むしろ日常生活から生まれた、さりげない贈歌のようで、かえって『八代集』のうちでは、ユニークなお題目のように思われます。
火を焚いた時には、わたしの別れを惜しむ気持ちも、一緒に思い出して欲しいと歌っているのですが、日常的な詩情というのは、わたしたちの詩の享受には、なじみのよいものですから、思いも受け取り易いのではないでしょうか。ただ、目には見えないわたしの思いであればこそ、視覚的なものではなく、嗅覚的な「香り」にしのんで欲しいという表現が、さらりとした巧みです。
「旅にまかりける人に、あふぎつかはすとて」
添へてやる
あふぎの風し こゝろあらば
わがおもふ人の 手をな離れそ
よみ人知らず 後撰集1330
「旅に向かう人に、扇を贈る時に」
添えて贈る
この扇の風よ もし心があるならば
わたしの慕う人の 手を離れないで欲しい
(もしかしたら あおいだ風が
わたしのもとまで
やってくるかもしれないのだから……)
「扇(おうぎ)」は、当時の仮名遣いでは「あふぎ」となりますから、和歌では「逢ふ(あふ)」と掛け合わされることが、定番の技法となりました。「扇よ、心があるなら」ではなく、「扇の風よ、こころがあるなら」としたことにより、「風の伝える思い」というイメージが広がることになり、この和歌に深みを持たせています。
ところで、結句の「手をな離れそ」というのは、否定の構文で、
「な~そ」で、
「~するな」
という意味になります。これは古文で、しばしば使用されますから、覚えておいても損はありません。ずっと後の、誹諧(はいかい)の時代になっても、
な折りそと
折りてくれけり 園の梅
炭太祇(たんたいぎ)
折るんじゃない
そういいながら折ってくれたよ 園の梅を
なんて使用されたりしています。次は旅の和歌を。
ある人が、なにか罪でも犯したのでしょうか、「いやしき名」の汚名を受けて、遠江(とおとうみ)、つまり静岡県のあたりへ向かうことになり、奈良県北部を流れる初瀬川(はつせがわ)を渡る時に詠んだ和歌です。
はつせ川
わたる瀬さへや にごるらむ
世にすみがたき わが身とおもへば
よみ人知らず 後撰集1350
初瀬川の
渡る淵さえ 濁るように思われます
この世に澄んだ心でいられずに
今では、普通に住むことさえ叶わないような
そんな穢れたわたしでありますから
ちなみにこの和歌、『金葉集』の撰者である源俊頼(みなもとのとしより)が、自分の歌論書である『俊頼髄脳(としよりずいのう)』のなかで、
「むかしはこのような時でさえ、
和歌を詠んだものである」
として紹介している和歌です。
今日で言えば、犯罪者の和歌といったところでしょうか。
次のは、女に化けた紀貫之で知られる『土佐日記(とさにっき)』に納められた和歌を……土佐から戻る船旅ですから、おおよその趣旨は分かると考え、詞書は省略します。
みやこにて
山の端(は)に見し 月なれど
海より出(い)でゝ 海にこそ入(い)れ
紀貫之 後撰集1355
みやこでは
山の端から のぼり降りしていた月ですが
ここでは海から出ては
海へと沈んでゆくのです
別に海岸線のことなどは、
ちまちまと、詮索しないでもよいのです。
大海原に出て、陸が遠ざかる頃には、
月はただ、海からのぼって、
海へと沈むように感じられるものです。
それを素直に記したものですが、天球と海岸線を股に掛けたような、壮大な和歌になっているところが、さすが紀貫之、繊細に動いたかと思えば、誰よりも壮大な和歌を詠む。
みやこの月でさえ、なかなかの遠景にみたてた広がりが感じられますが、それを海からのぼり海へと沈む月と対比させている点、スケールの大きさは見事です。さらには、その情景を前に、素直な驚きに満たされるような喜びさえも、ストレートに伝わってくる。わずかでも、こざかしさが芽生えてしまうと、なかなかこう大胆には詠めません。
そうかと思えば、一方では、
女に化けて「日記」など記してみたり、
その「日記」のなかに、
夜(よ)んべの うなゐもがな
銭乞(こ)はむ
そらごとをして おぎのりわざをして
銭も 持(も)て来(こ)ず
おのれだに 来ず
夕べの 坊やったら
お金を貰わなくっちゃ
嘘でたらめで 後から払うだなんて言って
そのお金も持ってこないし
自分さえ来やしない
なんて、ちょっと娼婦めいたような俗謡を掲載したり……
自由自在に、さまざまな詩情をあやつりまくる印象で、
さすが『古今和歌集』最多出場の記録は、伊達ではありません。
最終巻も、「賀歌」と「哀傷歌」を前半後半に収めています。『後撰集』の全体構成は、ちょっと手抜きのようにも思えますが、実際はかならずしも効果的とは言えない『古今和歌集』の実験的配置を、どう再配分したらよいか。それに、真剣に取り組んだ結果とも言えるかも知れません。なぜなら『後撰集』の配置が参照されて、後の勅撰集の配列が、安定していくように思われるからです。
それでは、賀歌を一つだけ。
よろづ世の
霜にも枯れぬ しら菊を
うしろやすくも かざしつるかな
藤原伊衡(これひら) 後撰集1368
果てなく続く世の
霜にさえ枯れない白菊を
この先も、ずっと心安らかに
かざし続けることでしょう
ある人の四十賀、
つまり四十歳のお祝いに詠まれたものです。
「うしろやすく」というのは、「心配ない」「この先安心である」といった表現で、実際に菊の花をかんざしとして折り取って、それに添えられた和歌になっています。賀歌とはいえ、
「永遠に枯れない魔法の白菊である」
なんて、空想のでたらめを述べている訳ではありません。あくまで、
「年ごとに霜が降るということは、
果てなく続いていく」
ものですが、その霜が降りたからといって、枯れることのないのは白菊なのですから、あなたもそれにあやかって、いつまでも枯れずにいられるように、かんざしに差して上げましょう。そう言っているのです。
意地の悪い味方をすれば、霜が降りたからといって、枯れる訳ではないけれど、いつかは枯れる白菊ではあるという、冷めたようなリアリズムさえ、込められているようにすら、感じられないこともありません。つまり、なかなかに現実主義を織り込んで、せめてもの祝賀をおこなったという解釈です。
ところでこの藤原伊衡(ふじわらのこれひら)(876-939)という人、紀貫之の同時代人ですが、記録に残された、歴史上もっとも古い酒合戦の優勝者でもあります。『亭子院(ていじのいん)酒合戦』というのがそれで、911年、宇多上皇のもと、八人の勇者を募り、酒を飲ませに飲ませたところ、酩酊嘔吐の大混乱?のなか、藤原伊衡は乱れもせず、勝負が付いても飲み続け、とうとう止められたという話。優勝賞品に、駿馬を貰って帰って行ったと伝えられます。彼は歌舞にもすぐれ、女性のあこがれの的だったと言いますが、なにをやらせてもスケールの違うような、この時代の業平のような存在だったのでしょうか。
さて、歌合などというと、さぞ雅(みやび)な遊び事のように思われるかもしれませんが、このような酒合戦は特別なものであるにせよ、宮中で行われる相撲(すまい)やら、スポーツのような蹴鞠(けまり)やらと同様、実際はかなりの熱戦が繰り広げられていましたから、「おほほほ」とたわむれるどころの遊びではありません。その場で歌の批判をされて、病で寝込んでしまうような逸話さえ残されている程です。
あるいは、少し簡単に述べるなら、今日のポピュラー音楽の歌詞が、歌手と共にしのぎを削っているような、生きた詩であったと言えるかも知れません。その活力は、象徴的に、1221年の承久の乱(じょうきゅうのらん)で、後鳥羽上皇が島流しになるまで続き、その後は連歌(れんが)に取って代わられたと、初学のうちは、捉えておいてもよいでしょう。
夫が亡くなり、
葬儀も終わる頃、
今の気持ちをたずねられた時の、
妻の歌です。
わかれにし
ほどを果てとも おもほえず
恋しきことの かぎりなければ
平時望(たいらのときもち)の妻 後撰集1391
死に別れた
くらいで果てとは 思われません
恋しい気持ちに かぎりはありませんから
恋しさに限りがない以上、
死に別れても、思いは果てることはない。
恋しさは、生死でさえも、
割り切れないものだと述べています。
最愛の者を失った悲しみが分からなければ、言葉の遊戯のように捉えてしまうかもしれません。けれども、ちょっと理屈っぽいような「果て」や「かぎり」は、思いの永続性を表現するために、それに対するものとして置かれているのであって、つまりは、
「肉体にとっては果てかもしれませんが、
思いが果てることはけっしてありません。
あの人への恋しさばかりは、
限りなく続いているのですから……」
というようなニュアンスになる訳です。
贈答歌の多い『後撰集』は、最後の和歌さえ、贈答歌によって閉じられています。わたしたちはそれを眺めながら、『後撰集』を離れようではないですか。前半での、山吹唄伊さんの活躍もあって、解説が大分伸びてしまいました。次はいよいよ、『八代集』の最後を飾る、『拾遺和歌集』をお贈りいたしましょう。
「妻の身まかりての年の、
師走(しはす)のつごもりの日、
古ごと言ひはべりけるに」
亡き人の
共にしかへる 年ならば
くれゆくけふは うれしからまし
藤原兼輔(かねすけ) 後撰集1424
「妻が亡くなった年の、大みそかの日、
むかし話を語り合う時に」
亡くなった人が
暦と一緒に帰ってくる 新年であったなら
暮れてゆくこの大みそかの日は
うれしく思われたことでしょうけれど……
「返し」
恋ふるまに
年の暮れなば 亡き人の
わかれやいとゞ 遠くなりなむ
紀貫之 後撰集1425
恋しく思うあいだにも
年が暮れてしまったらば 亡くなった人との
別れはどれほどか 遠くなることでしょう
恋しく思い続けているものだから、まるで寄り添うように思われて、亡くなった人との別れさえ、遠くなるように感じられる。つまりは年が過ぎるのにも関わらず、まだあなたがそばにいるように感じられる。そんな、相手へのシンパシーを詠み込みながら、一方では、どれほど恋しく思っていても、年のあらたまるごとに、亡きひとの影は遠くなってゆくでしょう。そんなリアリズムに諭してもいるのです。
相反する、二つの意味を重ねたため、しばらく考察を加えなければ、捉えにくいような和歌ですが、
「恋しく思うあいだに年が暮れたから、
亡くなった人との別れはいっそう遠くなった」
というちょっと不可解な表面上の意味自体から、次第に裏の意味はにじみ出て来るようです。そうして、一度、二重の意味を理解出来れば、あとは詠むたびごとに、その思いは伝わってくるのではないでしょうか。
こんな技巧をこらした、理知的な表現の裏側に、同情とあきらめへの誘いを融和したような、静かな思いやりがこもっている。そんな貫之だから、梨壺の五人も、この和歌を撰集の締めくくりに選んだに違いありません。やはり紀貫之、並の歌人では無いようですね。そうして梨壺とはお別れです。それでは次回、最終章でお会いしましょう。
(をはり)
2014/06/24
2014/09/11 改訂
2015/03/06 再改訂+朗読