『金葉集』と『詞花集』を足したより歌数の多い『千載集』ですから、『四季』の区切りで「後編」へと移りましょう。あまり説明が伸びすぎると、飽きが来ることも予想されますが、なかなか捨て去れない和歌のあるのもまた、『千載集』の魅力かと思われます。
まずは『別れ』の和歌から。
ここではひとつだけ、
紫式部(むらさきしきぶ)
(西暦1000年頃20代であったとされる)
などいかがですか。
詞書(ことばがき)により、
「九月の終わり、遠くへ行った人が尋ねてきて、
けれども明け方に帰ってしまった後、
虫の音が哀れに響くので詠んだ和歌」
鳴きよはる まがきの虫も
とめがたき 秋のわかれや
かなしかるらむ
紫式部 千載集478
鳴き弱るような 垣根の虫たちも
留めることの出来ない 秋の別れこそ
哀しくて泣いているのでしょうか
「まがきの虫も」と詠まれているために、「わたしと同様に」という思いが内包されていることは、すぐに悟れます。私の思いと虫の嘆きをシンクロさせるのは、和歌の基本戦略の一つですが、それによって今度は、虫たちのシチュエーションが、私の思いへと返ってきます。すなはち……
秋の別れは、冬の到来。
虫たちには滅びを意味します。
鳴き弱るのは、寒さがまさるにつれて、
いのちの尽きる哀しみそのものです。
それとおなじくらい、あなたとの別れは心細くて、もう会えなくなるような哀しみで、わたしは間もなく死んでしまいそうなくらい、か細い声で泣いているのです。けれども、こんな不条理な世のなかであれば、わたしより先にあなたの方が、消えてしまうことだってあるかも知れません。まるで私たちの別れは、ほろびゆく虫たちよりも、もっとはかないもののように思われてならないのです。
そんな別れの悲しみが、
この和歌には織り込まれているのですが……
それではなにゆえに、
みずからの思いを、
自然などの対象物へと委ねるのか。
それはおそらく、感情をダイレクトに表現して、
わたしは、ひたすらあなたのことが心配で
今度また別れてしまったら、どれほど会えないか、
あるいはもう再開も叶わないかも知れないと、
心震えて、何時間も泣いていたのです。
どれほど遠くへ行ってしまったのか、そんな悲しみで、
声も枯れるくらいに泣いていたのです。
なるほど、どれほど重ねても、直情は直情のままです。
思いばかりは伝わるものの、その言葉として残されるべき価値のまったくない、ありきたりの心情の吐露(とろ)には過ぎません。誰にでも記せるがゆえに、誰にでも理解され。誰にでも記せるがゆえに、改めて記すまでもないもの。つまりは日常文をさ迷うばかりです。
もちろん、それが効果的なこともありますが、ここでは、そんな自らの思いを、自然の対象物、「虫の鳴き声」へと委ねることにより、ヒステリックな直情は弱められ、様式化された叙情性のなかへ、そっと思いを込めるような和歌になっているのです。
なるほど、ちょっと引いて眺めれば、まったくおなじ心情で泣いている人にとっては、直情を記した方がはるかにリアリティーは増すかも知れませんが、落ち着いた感情で、中立的に和歌を楽しんでいる、大部分の聞き手にとっては、ちょっとしたふくみを持たせて、詠み手の気持ちを悟らせるくらいの余韻の方が、静寂な状態のうちに、わずかに心を動かされるような喜ばしさ、すなわち詩興を催すことも、事実には違いありません。
旅の和歌とて紹介いたすなら、
ちょっとおしゃれな女流歌人の和歌を……
さゝの葉を
夕露ながら 折りしけば
玉ちる旅の
草枕かな
郁芳門院安芸(いくほうもんいんのあき) 千載集514
宿もみあたらない あきらめて
笹の葉を 夕露のしたたるまま
折り取って 寝床に敷き詰めたなら
玉つゆこぼれて なみだと散るような
そんな旅の 草枕みたいです
「玉」とは、よく「玉露(たまつゆ)」などと表現される露の雫(しずく)ですから、「玉散る」というのは、その雫がこぼれることを指しています。露の雫が涙を暗示することは、和歌ではお決まりの表現ですから、ここでは「涙を散らすようなひとり旅」を暗示していることになります。
「草枕」とはようするに、草を枕にして野宿することですから、露しげき夕暮に、笹の葉を敷いて、涙ながらに野宿するその光景は、悲しみにとらわれたような、侘びしさの象徴にでもなりそうですが……
ちっとも、そうは思われないのは何故でしょう。
それはおそらく、「玉ちる」という美称に讃えたような、ちょっと宝石じみた印象が、華やかに響いてくるからかもしれません。ちょっとしたお洒落が、トーンを明るくしているのです。「折って敷いたなら」という見立ても、軽みに貢献しているようです。それで、全体のニュアンスとしては、
笹の葉を
夕露のままに 折って敷いたなら……
これが本当の、
なみだの旅の草枕、
な~んてね。
ちょっと可愛らしくたわむれたような、
軽快な響きがするのです。
悲しみを表現したものとしては、きらびやかに聞こえてしまう。つまりここでは、「なみだをながすような旅」が和歌の主題ではなく、詠み手が旅の悲しみすらもお飾りに、和歌をデコレーションしているようなゆとりが感じられるのです。ちょっとお化粧を加えたような、どぎつくない程度の華やかさ。そんなところでしょうか。
一方旅する僧は、着るものも姿も、
そればかりか和歌も、ずっと質朴(しつぼく)です。
月見れば
まづみやこゝそ 恋しけれ
待つらむと思ふ 人はなけれど
道因法師(どういんほうし) 千載集521
月を眺めれば
まずはみやこのことが 恋しく思い起こされる
待っているだろうと思われる 人などいないのだけれど
待つ人などなくても、月を眺めれば、華やかなみやこのことが思い起こされる。もうそこには、わたしを必要とする人など、どこにもいないのに……
ただそれだけの和歌ですが、この道因法師というのは、出家する前の名前を藤原敦頼(あつより)といって、みやこで活躍していた人物です。また出家後も和歌に憧れるあまり、住吉大社へ、
「和歌がうまく詠めますように」
との参詣を欠かさず、鴨長明の『無名抄』の逸話にも名を連ねるほどの人物です。そんな歌狂いですから、なおさら和歌の中心地である「みやこ」が恋しいわけです。
……とここまでが、
和歌そのものを、素直に詠んだ時の印象なのですが、
この和歌の詞書に着目すると、
またちょっと印象が変わってきます。そこには、
「ある人のもとから、
みやこは忘れたのかと言ってきたので、
その返事に」
と書かれているからです。
つまりは、尋ねてきた人物がみやこに居たとすれば、
「あなたがわたしを待っているとも思えませんが」
というニュアンスを、宿していることになるのです。
さて、そのニュアンスがいかなるものか、あるいは分かれた恋人であるのか、みずからが出家したためなのか、そのようなことに好奇心を抱いたとき、あなたはいつしか、和歌の背景へと、思いをはせていることになる訳です。いつか、その背景を知ったときに、その和歌の隠された意味が静かに紐解かれて、こころに響いてきた瞬間、あなたはもはや、中性的な言葉の結晶としての詩を眺めているのではなく、いつしか詠み手のプロフィールへと近づこうとしていることになるのですが……
そのような好奇心もまた、
人が何かに関心を向けるときの、
当然の帰結には違いありません。
つまりは、詩が「詠み手」と「聞き手」の心理的共鳴に成り立つ以上、純粋な言葉に引かれるばかりではなく、「詠み手」への関心が生まれるのは当然のことであり、それによってなおさら、詩情が深まるように感じられるのも、ただ身近な存在になればなるほど、相手への関心も高まり、共鳴も増すという、人間の本質に付き合わせれば、ごく自然の成り行きには違いありません。
けれども、その頃にはもう、わたしの役目はお仕舞いです。
世のなかには沢山の書籍や情報があふれていますから、
あなたはみずからの好奇心の赴くままに、
それぞれの和歌を、突き詰めればよいでしょう。
今はただ、そのことだけを、
この和歌の、由来などよりも、
お話ししてみたかっただけのこと。
そこから先はわたくしの、
不要なお節介には違いありませんから……
まずは詞書きの内容から、
「共に花を眺め暮らした友も、
いつしか亡くなり、
また春のさくらを眺める頃」
そんな、和歌をひとつばかり。
春来れば
散りにし花も 咲きにけり
あはれ別れの かゝらましかば
具平親王(ともひらしんのう) 千載集545
春が巡り来れば
かつては散った花さえも また豊かに咲くのです
もし亡き人との別れが そのようなものであったなら……
けれどもはや、
亡くなった人は返ってきません。
ただ花ばかりが、豊かに咲き誇る春なのです。
そうであればこそ、
この和歌を贈られた公任卿は、
「返し」
行きかへる
春やあはれと 思ふらむ
ちぎりし人の またも逢はねば
藤原公任 千載集546
去りゆけば かならず戻ってくる
春の方こそ 哀れだと思っているのでしょうか
春との別れを惜しんで
また逢おうなんて約束をしている
人と会えなくなることを……
春は約束を守るけれど、約束を口にした人の方は、かならずしもその約束を果たせない。「ちぎりし人の」というひと言には、深い思いが込められています。そんな春の思いは、詠み手の思いへと移されて、亡き人の哀しみを忍ぶことになるのですが……
もしその涙さえ消えないうちに、
さらに別の知人が亡くなったと聞かされたならば……
かなしさに
そへても物の かなしきは
わかれのうちの わかれなりけり
小弁命帰(こべんのみょうぶ) 千載集561
かなしさに
添えてなおさら かなしいものは
別れの済まないうちの
新たな別れなのです
おなじ年に、二つの哀しみ、すなわち大切な人を、続けて亡くした時の和歌ですが、この和歌は、四十九日の終わりの供養に詠まれたものですから、亡き人のたましいが死に帰されるこの日が、葬儀の別れから続く、もう一つの別れのようでなおさら悲しい。そう詠まれてもいるのです。
このような、両方に解釈の出来るような記し方は、ほとんど、和歌の本質であると言ってもかまわないくらい、当たり前の技法として、和歌の根底を流れていますが、大切なことはその双方の意味が、互いに補いあって、あるいは結びついて、より深い味わいを出すために貢献している点であり、そうでなければ、二重の意味など、なんの値打ちも無いものであることは、一応ここで確認しておくことも、無駄ではありません。
さて、深い哀しみに耽っても、
消え去った人は戻ってきません。
ただ残された人の、
思いばかりがくすぶります。
もろともに
ありあけの月を 見しものを
いかなる闇に 君まよふらむ
藤原有信(ありのぶ) 千載集576
ふたりで一緒に
夜明けの月を 眺めこともありました
(今はもう 月明かりのしたにあなたはいません)
いったいどのような 黄泉(よみ)の闇のなかを
あなたはさ迷っているのでしょうか
月明かりのした、二人でレールの上を、空を見ながら幸せそうに歌っていた。けれどもレールの一方は、途中で途切れていて、知らないうちに、大切な人はもう、真っ黒な深い闇の底へと消えてしまっていた。それに気がついて、慌ててどんなに叫んでも、もうその人のゆくえは分かりません。ただ月影だけが、先ほどと変わらないように、静かに照らしているばかりでした。
あるいはそんな哀しみが、
ほのかに伝わっては来ないでしょうか。
突き詰めるならば、本当に闇に迷っているのは、相手ではなくて、詠み手自身の心に他なりません。やりきれない思いが、静かなあきらめと共に、けれどもこらえきれず、にじみ出て来るようで、こざかしい修辞よりも、はるかに真実味にまさる和歌かと思われます。
これは詞書から、
恋人への思いを詠んだ和歌であることが知られますが、
次の和歌は亡き父親のおもかげに……
をしへおく
その言の葉を 見るたびに
また問ふかたの なきぞかなしき
徳大寺実定(とくだいじさねさだ) 千載集590
教え記してくれた
あなたの手記を 眺めるたびに
もう新たに尋ねることの 出来ないことが悲しい
当時の「日記」は、後継者のために有職故実(ゆうそくこじつ)、つまり儀礼や祭事の行い方や、礼儀作法などを教え残すために書かれたものです。そのような、父の残した「日記」を眺めていると、やはり残された言葉ではすべてを伝えきれず、ところ/”\に尋ねたいことがあるのですが、もはや尋ねることなど出来ないというもどかしさが……
あらためて、父はなくなったという、悲しい事実と結びついて、切実に訴えて来るようです。このような表現法は、決して技巧的な修辞ではなく、現代のわたしたちも口にしそうなくらい、日常会話でも見られるような表現ですが、その真実味によって、豊かな詩情をもたらしているようです。
さて、『哀傷歌』の最後は、
本来ならば、人々の死を見守るべき、
僧どうしの死別を詠んだ、
そんな和歌を眺めてみましょう。
この世にて
また逢ふまじき かなしさに
すゝめし人ぞ こゝろみだれし
円位法師(えんいほうし) 千載集605
この世では
もう逢うことの出来ない 悲しみに
臨終に仏を願うことを
勧めたわたしの方こそ
かえってこころ乱れてしまったのです
詞書によると、これは西住法師(さいじゅうほうし)が亡くなる際に、円位法師が臨終正念(りんじゅうしょうねん)を勧め、西住法師はそれに従って静かに息を引き取った。臨終正念というのは、
「極楽往生を心に祈り続けるもの」
くらいで捉えておけば良いでしょう。
こうして亡くなった西住法師ですが、
その死を聞かされた、
寂然法師(じゃくねんほうし)という僧が、
「静かに引き取ったと聞かされて、安心しましたが、
別れの悲しみが、無くなるわけでもありません」
そう和歌にして送ってきた。
それに対する円位法師の返答が、この和歌なのです。
はたしてこの三人が、マブダチであったのかどうかは知りませんが、この和歌のキーポイントは、四句目に「すすめし人ぞ」と置いたところにあります。「ぞ」というのは断定的な表現ですから、
「すすめた人の方なんだぞ、心が乱れたのは」
と強調していることになります。すでに、西住法師がこころを乱さずに亡くなったことを知って、和歌を送ってきた寂然法師に対する答えですから、この強調の意味は、
① すすめた人の方が取り乱していた
⇒西住法師は取り乱すことなく亡くなった
⇒そんな優れた法師であった
② すすめた人こそ、取り乱していた
⇒円位法師は取り乱していた
⇒まだまだ修行が足りないわたくしである
そんな二つの意味が、
「すすめし人ぞ」には籠められているようです。
もちろん上の句の意味から、
「西住法師と会えなくなるのが悲しいから」
取り乱してしまったという主題は揺るぎませんが、「すすめし人」と仏教的な精神を織り込んだことによって、修行を重ねて、人々の生死にも馴れているはずの仏僧が、どうしようもなく心を動揺させて、日頃の修練の甲斐もなく、哀しみに胸を振るわせるような瞬間を、みごとに表現しているように思われます。ですから、このさらりと詠まれたように見える和歌は、なかなかに深い思いが込められて、(あるいは和歌の技量が込められて、)詠み込まれていると言えるでしょう。
ちなみにこの円位法師という人、実は名前だけは誰でも知っている西行法師(さいぎょうほうし)(1118-1190)のことです。西行法師といえば、次の勅撰和歌集である、『新古今和歌集』の代表的な歌人であり、また院政期から鎌倉時代への移り変わり、源氏と平氏の争いの時代を生きた、中世を告げる歌人としても有名です。思えば、藤原定家の才能を、いち早く理解していたのも、あるいはこの西行法師かも知れませんし、そろそろ八代集の最後を締めくくる、『新古今和歌集』の足音が近づいてまいりました。
『千載集』の賀歌には、もっと隙のない和歌もありますが、ここではあえて、ちょっと面白い賀歌を、取り上げておきましょう。きわめて取っつきやすいかと思われるからです。
もゝちたび
うら島が子は かへるとも
はこやの山は ときはなるべし
藤原俊成(としなり) 千載集626
さて『千載集』の撰者、
俊成卿(しゅんぜいきょう)みずからの登場です。
「ももちたび」というのは、なにも「嗣永のももち」が夢に破れて、旅に消える訳ではありません。「百」を「もも」と呼び、「千」を「ち」と呼ぶので、「百千度(ももちたび)」とはつまり「百も千もくり返して」という意味になります。
そこに登場するのが、皆さまお馴染みの……
……かどうかは知りませんが、
例の「浦島さん」です。
あの、亀を助けたばかりに竜宮城へ連れられて、逃れたところを玉手箱の煙に包まれて、身も心も灰になってしまったという浦島太郎さん。その伝説は、当時から知られたものでした。
この和歌は、そんな浦島さんが、海底にひそむ竜宮城で暮らしては、地上に戻って玉手箱を開けたなら、「驚くほどの歳月」が流れ去ってしまっていた。その「驚くほどの歳月」を、「百や千ほども」くり返したところで、「はこやの山はときわである」、つまり「永遠に変わらないよ」、そう詠んでいるのです。
それなら「はこやの山」とはなんであるか。
それは中国の伝説的な仙人の山、『姑射(こや)の山』を指しているのです。『遙かなる姑射の山』という中国語が、そのまま「はこやの山」という一つの山として示されている。それでは「はこやの山」が、ここで何を指すかと尋ねれば、それはもう、上皇や院の御所を祝福して、そう呼んでいるに過ぎません。つまりこの和歌は、上皇に対する祝賀の和歌となっているのです。
さて、仙人めいた強者も多かった、この時期の上皇(院)の御所を指すには、まことに相応しい「はこやの山」ですが、この和歌のユニークなところは、浦島伝説だけでも十分面白いのに、上の句では「大和の伝説」を、下の句には「中国の伝説」を折り込んで、その対比を楽しんでいるところにあると言えるでしょう。それでいて、文脈は捉えやすくて明快です。和歌の表現を自由自在に使いこなしているような印象がするのは、さすがは撰者の力量と言えるでしょう。
さて、待ちに待った恋の歌です?
さあ、それはどうか知りませんが、
残念ながら、またしても、軽く行き過ぎます。
恋の見せ場も、きっといつの日か、
紹介することもあるでしょう。
なにしろ先は長いのですから。
はかなしや
まくら定めぬ うたゝ寝に
ほのかに迷ふ 夢のかよひ路
式子内親王(しょくしないしんのう) 千載集677
はかないものですね
まくらの向きさえ定めずに
いつしかうたた寝をしてしまいました
ぼんやりとした夢の通い路をさ迷うみたいに
あなたにたどりつけないでいるのです
枕の向きを定めれば夢のうちで恋人に逢える。そんな俗信に基づいた和歌です。「ほのかに迷ふ」という表現は、逢えるとも逢えないともつかない、まるでシルエットを追い求めるような、女性的な言語感覚であり、恋の初め頃の心理状態を、みごとに捉えているようです。
……それから初句の「はかなしや」。
これはもちろん、
「ほのかに迷ふ夢のかよひ路」を「はかない」と捉えたものですが、もう一つの意味が込められています。つまり、この和歌が詠まれた時には、すでにうたた寝の夢さえも、「ほのかに迷ふ」あいだに覚めてしまって、それを回想している訳ですから、
もしおぼつかないような夢であっても、そのまま、ほのかにさ迷い続けたら、いつしかあなたのもとへ辿り着けたかも知れないのに、枕も定めないほどのうたた寝であったから、はっと我に返った瞬間、シャボン玉の味気なさで、あなたの気配さえ消えてしまったのです。
そんな、現実に引き戻されるような侘びしさもまた、
この「はかなしや」には、込められているようです。
このように眺めてくると、なかなかに技巧的な和歌であることが分かるのですが、それが少しもわざとらしくなく、言葉を普段着のさらりと着こなして、おしゃれさえも気づかせないような、巧みな表現力。さすがは『新古今和歌集』の女流歌人として名を馳せた、式子内親王ならではの和歌に仕上がっているようです。
なみだをも
偲ぶるころの わが袖に
あやなく月の やどりぬるかな
よみ人知らず 千載集824
なみだをさえ
忍んでいる頃の わたしの袖に
どうしてでしょうか月が
いつしか宿っているのは……
涙をこらえていたはずなのに、
いつしか袖は、なみだに濡れてしまい、
袖のしずくに月のひかりが、
宿っているのはなぜですか?
現代文ならそんな感慨ですが、和歌において「袖の露に月が宿る」というのは、なみだに重ね合わせるお決まりの表現です。なるほど、袖の露が月影を宿すなど、実際にはあり得ないかもしれませんが、草葉にたたえられた玉の露などを眺めていると、袖の露にも月は映し出されそうな気がします。
どうにも嘘くさく感じる人は、ただ単に、袖で涙を拭いながら月を見たものだから、にじんだ月が袖に宿ったように感じた。そう捉えてみたら、詠み手の思いに近づけるのではないでしょうか。そうして、そこに共感が得られれば、この和歌はすらすらと受け取ることが出来るでしょう。
ところで、この和歌の表現の粋(すい)は、四句目に「あやなく」と置いたところにあります。「あやなし」というのはここでは、「道理に合っていない」「理屈にあっていない」というような意味で、
「懸命に涙をしのんでいるのに、
宿るはずのない月のひかりが、
袖に宿ってしまうのはなぜなの?」
それはつまり、こらえきれずに、いつしか泣いていたからです。「理屈に合わない」それは、感情をコントロール出来ずに、いつしか泣いている自分の姿であり、理性では押さえきれない、いとしい人への思いそのものが、この「あやなく」には込められているようです。
帰りつる
なごりの空を ながむれば
なぐさめがたき ありあけの空
九条兼実(くじょうかねざね) 千載集838
帰ってしまったあと
名残を惜しむように 空を眺めていると
こころを慰めることさえ 叶わないような
そんな夜明けの空なのです
もとより、九条兼実は男です。
それどころか、政権の中枢で勢力にしのぎを削っていた、むしろ歴史上の重要人物です。それがこともあろうに、女性の気持ちで和歌を詠むなどとは……
なんたる失態!
なんたる惰弱!
まったくだらしないこと数光年、
さすが貴族とは、
武士にも劣る「なよなよ」とした者どもであることよ。
……などと、誤解してはなりません。
女性が男性の立場で詠む、男性が女性の立場で詠む、公卿(くぎょう)になりすましたかと思えば、たちまち木こりの姿にもなる。そのような成り済まし、つまりは「役者の精神」を楽しむからこそ、豊かな表現も生まれて来る。それだからこそ、和歌は生きた詩としての、活力を宿しているのです。
男性が女性の家を訪問し、語り合ったり、組んずほぐれつしてみたり、ともかく愛を確かめ合って、夜を明かした後に別れることを、後朝(きぬぎぬ)の朝と呼びますが、この和歌は、男性の帰った後にひとり残された、女性の求め尽くせぬ寂しさを、「なぐさめがたき」と表現したものです。
(ただし、完全に女性になりきって詠んだものではなく、叙し方にはむしろ男性的なものが感じられ、いわゆる化けの皮を着込んだお尻から、尻尾のようなものが、見え隠れしているような気もしますが……
一生懸命、和歌を学び取った、幾分アマチュアめいた作品ですから、それを掴んではかわいそうです。ちなみに、安易に繰り返された「空」もこの和歌の弱みです。)
ひと夜とて
よがれし床(とこ)の さむしろに
やがても塵(ちり)の 積もりぬるかな
二条院讃岐(にじょういんのさぬき) 千載集880
今宵ひと夜は、と言って
あなたはわたしを抱きしめたけれど……
本当にひと夜で離れてしまった、その寝床には
いつしか塵が積もっているようです
わたしが眠れないでいるばかりに……
「夜離れ(よがれ)」というのは男性が女性のところへ来なくなることで、「さむしろ」とは「狭筵」、つまり短くて狭い「ワラ敷き」のことですが、ここでは寝床、あるいはベットくらいで受け止めておいても構いません。そこがいつしか埃(ほこり)まみれになってしまったのは、わたしがそこで眠らないから。それがこの和歌の着想です。
そうして眠れない理由と言えば、もちろんあなたを思い続けて、恋煩いで眠れないからでありますが、その寝床が、相手との思い出の場所であるから、そこに眠ることが、なおさら哀しみを募らせるので、苦しくて近寄れないでいるのです。
「やがては塵が積もる」
ちょっと大げさな表現には、
そのような気持ちが内包されているようです。
ところでこの作者、二条院讃岐と言えば、源頼政(みなもとのよりまさ)(1104-1180)の娘です。父の頼政は、歌人としても知られた、平清盛のもとで活躍した武人です。彼が平家に反旗をひるがえし、以仁王(もちひとおう)の挙兵に荷担したとき、源氏と平氏のいくさが切って落とされる。そのような、激しくいのちを燃やした人たちが、一方では和歌にも本気でのめり込む。それだから優れた和歌となって、今に伝わるのかも知れません。
もし彼らが給料に安住して、上司に逆らう意志など毛頭(もうとう)なく、ただ酒など飲んでは、行動とは関わりのない愚痴などつぶやきながら、安穏(あんのん)と生涯を送るような人物であったなら、俗人受けするような安っぽい和歌しか、生みなされなかったのではないでしょうか。
人知れず
結びそめてし わか草の
花のさかりも 過ぎやしぬらむ
藤原隆信(たかのぶ) 千載集888
誰にも知られず
つぼみを結び始めていた 若草の
花の盛りさえ 今は過ぎてしまっただろうか
「花の盛り」とあれば「女性の美しい」シーズンを連想するものならば、「若草の」シーズンもまた、少女から女性へと移り変わる、魅力的な瞬間を讃えた表現として、今日にも伝わるイメージではないでしょうか。ところでこの和歌の詞書(ことばがき)には、
「絶えて久しい恋という心を詠んで」
とありますから、
あの頃、まだ誰にも知られずに
はじめて恋の結ばれあったふたりだけれど
あなたはいつしかわたしから離れて
花のさかりに華やいでいました
けれどもそれさえ昔のこと、
わたしはこうして枯れかけて……
あなたもまた、花のさかりを
静かに過ぎてしまったでしょうか。
そんな思いがそっと、
この三十一字(みそひともじ)には、
込められているようです。
それでは恋歌の最後は、
女流歌人の和泉式部(いずみしきぶ)で締めくくりましょう。
恨(うら)むべき
こゝろばかりは あるものを
なきになしても
訪はぬ君かな
和泉式部 千載集958
恨めしく思う
こころばかりが、残されています
たとえそれを無いものとしたからといって
あなたはもう二度と
訪れることなどないのでしょう……
恨みに想う気持ちが、あなたの来るのを妨げているなら、その気持ちさえ忘れてみせましょう。けれどもそれを無くしたからといって、あなたはもうきっと、わたしのところには来ないのです。
ちょっとやりきれないような、哀しみです。
これまで見てきたカテゴリーに当てはまらないものは、「雑歌」としてまとめられています。千載集では「上中下」と三部に渡って、雑の歌が繰り広げられ、最後に宗教的な和歌を納めて、全二十巻としています。
もの思はぬ
人もや今宵(こよひ) 眺むらむ
寝られぬまゝに 月を見るかな
赤染衛門(あかぞめえもん) 千載集984
思い悩むことの
ない人も今宵は、眺めるのでしょうか
眠ることも出来ないままに
わたしは月を眺めています
人々が思いわずらうこともなく、こゝろおかしく名月を眺めるはずの今宵、わたしひとりは、あるいは恋の悩みなのでしょうか、悲しい憂いに沈みながら、眠ることさえ出来ないで、楽しくもない月を眺めている。それを、
悩みさえないみたいに
多くの人が今宵は月を眺めています
ただわたしひとりが
眠れない月を見ながら、
もの思いに沈んでいるのです
とは記さずに、
悩みさえないような人も
今宵は月を眺めているのでしょうか
と推量にゆだねることによって、
「多くの人が月を見てます」
その月をわたしも眺めているのではなく、
「ただわたしひとりが月を眺めている」
というイメージが前面に表れてきます。その上で、
「あるいはわたしと違う思いで、
この月を眺めている人もいるのでしょうか」
つまりは、月を眺めている多くの人々は、はるかな遠景へと過ぎ去って、眠れずに月を眺めるわたしひとりが、孤独に浮かび上がってくるようです。
もちろん、これを恋の悩みとして、「もの思わぬ人」を、わたしのことさえ思ってくれない、恋の相手と捉えた方が、解釈はしやすいかもしれません。
わたしのことを
思ってなどいないあなたも
今宵はこうして月を眺めているのでしょうか
わたしは眠れないままで
恋煩いに月を見ているというのに……
明確に定めるべきところを「人は」と抽象化させ、虫にわたしの泣き声を委ねるような和歌は、多様な解釈をする余地を残します。推し量りつつも、明確に定まらない領域が、一種の余韻となって残るとき、詠み手の作戦は成功したと言えるでしょう。それは同時に、さまざまな人に受け入れられるだけの幅を、提供することにもなっているようです。そうであればこそ、この和歌は「恋」の和歌ではなく、「雑」の部に収められているのです。
ふるさとの
いた井の清水 み草ゐて
月さへすまず なりにけるかな
俊恵法師 千載集1011
ふるさとの
板井戸の清水も 水草に覆われて
月影さえも宿さないように
なり果ててしまったなあ
キーワードは四句目の「月さへすまず」です。
かつて住んでいたふるさとを訪れてみると、
井戸さえ水草に覆い隠されて、
人の住む気配さえなく、荒れ果てていた。そして、
「人が住まなくなってしまった」
だけではなく、井戸のみなもには、
「月さえ住まなくなってしまった」
つまり、月かげさえ映らなくなってしまったというのです。
これにはもちろん、「月さえ澄み渡らなくなってしまった」という意味も掛け合わされていますが、訴えるところはおなじですから、どちらを取っても本意は変わりません。月明かりに照らされて呆然と立ち尽くす、俊恵法師の姿さえ、古井戸の横に浮かんで来るようではありませんか。
さらにこの和歌は、
わが門(かど)の
いた井の清水 里とほみ
人しくまねば み草おひにけり
よみ人知らず 古今集1079
という『古今集』の和歌に基づいて詠まれています。
ある歌の着想や言葉をもとにして、
新たな和歌を作ることを、
「本歌取り(ほんかどり)」といいますが、
ここでは、
「井戸の清水が里から離れて、
人さえ汲まないので、
とうとう水草がはびこってしまった」
と詠んだ本歌に対して、
「そんな里から離れた家には、
もはや人さえ住まなくなり、
井戸の水草も今では、
月影さえ映らないほどになってしまった」
と答えたもの。
本歌より後の事象を述べているわけです。
次は簡単な見立て(みたて)の歌。
水の色の
たゞしら雲と 見ゆるかな
誰(たれ)さらしけむ
布引(ぬのびき)の滝
源顕房(あきふさ) 千載集1037
水の色さえも
ただ白雲のように 見えるばかり
いったい誰が さらしているのだろうか
布引の滝を 白い布のようにして
さて布引の滝を、ウィキペディアから部分引用してみますと、
「布引の滝(ぬのびきのたき)は神戸市中央区を流れる布引渓流(名水百選)にある4つの滝の総称。日本三大神滝(しんたき)のひとつ。」
とあります。「手抜きのこころ百までも」というのは、ホレイショーでも述べた言葉でしょうか。ありがたい名言です。それはさておき……
この滝のように、和歌にしばしば詠まれる、お馴染みの名所のことを「歌枕(うたまくら)」と呼びます。つまりこの和歌も、名所である「布引の滝」を讃えた和歌には違いありません。その内容は、きわめて簡単で、
「水しぶきを白い雲の色にたとえ」
「その滝を白布(しらぬの)をさらしたもの」
と捉えたに過ぎません。
あまりのしぶきに水の色は、真っ白な雲のように見える。それで全体がまるで、白布をさらしているように思われる。そんな布引の滝である。ただそれだけの和歌ですが、実際の滝を眺めて、
「白い雲を布にさらしたみたいだね」
というのは、空に浮かぶ雲まで広がっていくような、雄大なところがあります。ぷかぷかしている雲に喩えたにすぎませんから、即興的な印象がはるかに勝り、ガーゼが傷ついたこころを癒すような、捻(ひね)った嫌らしさもありませんから、心地よく受け取れる訳です。
うき世をば
峰(みね)のかすみや へだつらむ
なほやま里は 住みよかりけり
藤原公任 千載集1059
憂いのある世のなかを
峰のかすみが 隔ててくれるのだろうか
(さみしいこともあるけれど、それでもやはり)
山里は住みよいところだなあ
これもまた「本歌取り」の和歌で、
山ざとは
ものゝわびしき ことこそあれ
世の憂きよりは 住みよかりけり
よみ人知らず 古今集944
『古今集』の和歌の、
「侘びしいことはあるけれど、
愁いに満ちた世のなかよりは住みやすい」
という着想に答えて、
「やはり山里は住みやすいのだなあ」
と再度噛みしめたものが、「なほやま里は住みよかりけり」の「なほ」つまり「それでもやはり」というニュアンスになっています。したがって本歌を参照しなければただ、
「やっぱり山里の方がいいなあ」
という単純な肯定なのですが、本歌が、
「もの侘びしいようなこともあるけれど」
と歌っているために、その和歌を参照すると、
「もの侘びしいようなことがあっても」
それでもやはり、
「山里は住みよいものですね」
という、さみしさと安らぎをカクテールしたようなニュアンスが生まれて来る。その効果を得るために、本歌取りが利用されているのです。
ただし、この和歌の際だったところは、上の句にあります。つまりは、観念的な表現に終始する本歌に対して、
「あの立ち上る峰のかすみが、
憂き世からわたしを隔てているのだろうか」
と、かすみの情景が浮かび上がってくる点、本歌よりもリリシズムにおいて遥かにまさっています。それによって、わたしたちも山里に逃れて、峰の霞を眺めながら、ほっとひと息をつくような気持ち。大げさに言えば、ようやく憂き世を逃れたような安らぎを、つかの間共感出来るからこそ、この和歌は本歌よりも勝っていると見ることが出来るでしょう。
さて、おなじ山里を詠んでも、
次の和歌はもっと明白です。
山ざとの
柴(しば)をり/\に 立つけぶり
人まれなりと 空に知るかな
二条太皇大后宮(たいこうたいごうぐう)
肥後(ひご) 千載集1092
やまざとでは
柴を折りながら 折りながら
立ちのぼるのは かまどのけむり
のぼる数さえ少ないものですから
住む人さえもまれなのだと
空のけむりから知られます
「柴(しば)」とはかまどや焚き火にくべるため、枯れた枝を拾い集めたもので、「をりをり」と言うのは、その柴を折りながら火にくべて、という意味と、「おりおりに、つまりあちらこちらに立つ煙」という意味が掛け合わされています。このような単純な掛け合わせは、捉えるのに修練の必要な掛詞(かけことば)などとは違って、繰り返し唱えているうちに、次第に両方の意味が伝わってくる。意味を重ね合わせるという、和歌の基本技術の中でも、もっとも単純な、もっとも多用される形です。
このような意味の掛け合わせから、一歩一歩階段を上っていくうちには、いつしかもっと複雑な掛詞も、理屈ではなく情緒的に、捉えることが叶うようになるでしょう。もし情緒的に捉えられなければ、掛詞など馬鹿げた頓智に過ぎませんから、初めから理屈として教え込むのは、和歌を嫌いにさせるための、伝統破壊活動には違いありません。
それにしてもこの和歌。人がまれであるということが、空からも知られるというのは、ちょっとユニークな着眼点で、おもしろみがありますね。次は西行法師(円位法師)。
ほとけには
さくらの花を たてまつれ
わが後の世を 人とぶらはゞ
円位法師 千載集1067
ほとけには
さくらの花を 捧げて欲しい
わたしが亡くなった後の世界を
もし祈ってくれるのならば
細かい仏教の教義はさておき、ここではみずからが「仏さまになる」、すなわち亡くなったら、その墓を訪ねた時には、さくらの花を捧げて欲しい。くらいで受け取って構いません。
「もしわたしの死後の幸福を願うなら、
さくらの花を供養(くよう)に捧げてください」
ただそれだけの和歌なのですが、さくらの花びらの舞い散るうちに死にたいと詠んだことのある、西行らしい和歌と言えるでしょう。
この和歌は、墓標に捧げられるさくらの花が、情景を彩ってくれますが、そのような叙情性とは関わりなく、ただ観念をありのままに記したような和歌も、『八代集』のなかには沢山あります。中には、ほとんど格言やことわざかと思えるものもあり、勅撰集のふところの深さが知られます。次のものは格言とまではいきませんが、ただ観念をなんの修辞法もなく、そのまま記したものと言えるでしょう。
いとひても
なほしのばるゝ わが身かな
ふたゝび来べき
この世ならねば
藤原季通(すえみち) 千載集1129
いとわしいと思っても
それでもなお 惜しまれるような
自らのいのちというもの
再び来ることの出来る
この世ではないのだから
宗教や仏教の生きた時代と捉えると、すぐに「後の世」を信じていたなどと解釈するのはあやまりです。人間の生死感の根源は、まずは活動する実体験からもたらされ、自らの生きる社会からもたらされ、宗教感はそのなぐさめには過ぎません。そのようなことを述べると、宗教を信じていなかったような言いぐさですが、それどころではなく、どれほど宗教にすがっても、自らの感覚から得たリアルな現実、病で消えゆく知り合いや家族たち、疫病や殺されて消えゆく沢山の人々、つまりは憂き世の実体験が、どこかで死後の生まれ変わりや、死後の生命といった概念を拒絶してしまう。人の死が日常茶飯事であった時代の感性は、あるいは今日の私たちよりもっと、死の無常を深く観念していたのかもしれません。
そうであればこそ、
「再び戻れるこの世ではないのだから」
そんな思いもあふれては、このような歌も生まれるわけです。たとえばこれを、仏教的輪廻では、同じ世界には戻れないから詠まれたと説明しても、この和歌にはたどり着けません。この和歌の精神は、ただわたしたちの感じるのと同じように、消えたらもう戻ることはない、という極めて単純な感覚以外なにもないのです。
(もっとも宗教家の和歌には、本当に教理めかしたものもあります。成功しているものもあれば、ただの説教に陥っていることもありますが、いつか見ることもあるでしょう)
[さて、お気づきの人も多いかと思いますが、この和歌は『詞花和歌集』の「雑上巻第九」の解説にすでに登場し、そこでは観念的な和歌であるというよりも、心情を結晶化させたものとして解釈を加えたはずでした。それがここでは、観念的な和歌として、説明されているのはどうしたことか……
実は解説の順番としては、
こちらが先に執筆され、
『詞花集』の「いとひても」の和歌は、
「率直な表現さえすれば、
優れた和歌となる訳ではない例」
として、かなり後になってから書き加えられたものでした。
つまり初めに解釈をしたときには、わたしは確かにちょっと格言めかした、観念的な和歌としてこれを捉えていたのですが、『八代集』を最後まで執筆して、ふたたび初めから推敲を重ねる頃には、それがもっと切実な思いを宿していることに気づかされた。つまりは、
「いとひても」
という言葉を、初めは説明的な表現に過ぎないと詠み流していたのですが、ようやくその表現のうちに、深い思いが込められていることに気づかされ、するともう和歌の解釈自体が、個人的な深い心情を表現したものであると、まるで印象を変えてしまったのです。
それなら、
どうしてこちらを改変するか、削除するかせずに、
わざわざこうして断わりを加えるのか……
それは言葉を深く読み取ることの難しさ、その和歌を捉えきることの難しさ、そうして捉え方によって、どれほど和歌の印象が変わってしまうか、そうしたことに思いを馳せるための、恰好(かっこう)の sample であると考えたからに他なりません。
つまりは、わたしの解説をしている和歌たちも、いつかわたし自身によって、くつがえされる事もあるでしょうし、あるいはあなたがそこは違うと思って、首をかしげている、そのひらめきの方が、詠み手の思いに近いことだって、おそらくは十二分にあるのです。
その事実を、片隅にでも置いて下さったなら、
あなたの和歌に対する解釈も、
きっと、繰り返すごとに深くなってゆくことでしょう。
そのことを伝えるために、わざわざこうして、
二つの解釈を残してみるのも一興です。
おおよそこの二つの解釈には、
半年程度の開きがありました。]
次の和歌もまた、
捉えるために、
宗教観が必要な訳ではありません。
はつせ山
いりあひの鐘を 聞くたびに
むかしの遠く なるぞ悲しき
藤原有家(ありいえ) 千載集1154
奈良県桜井市にある初瀬山。
そこには長谷寺(はせでら)があって、そこで鳴らす「入相(いりあい)の鐘」、すなわち日没に合わせてつく鐘の音は、しばしば和歌に登場します。加えられた詞書(ことばがき)から、父親の亡くなった後に、山寺の鐘をしのぶ和歌であることが分かります。
初瀬山の長谷寺から響く
入相の鐘を聞くたびに
むかしが遠くなるようで悲しい
鐘の響きがしたので、
死んだ父親を思い出したものか。
安易に詠み流してしまいそうになりますが、ちょっと立ち止まって吟味してみましょう。まず「聞くたびに」という言葉が気になってきます。
「たびに」とあるからには、この鐘は、その時たまたま聞いたのではなく、「毎日毎日聞く度に」という、過ぎゆく日数を表現したものであるようです。すると「むかしの遠くなる」という表現が生きてきます。
そこにはもちろん、鐘を聞く日数が過ぎるたびに、父と別れた瞬間から離れてゆくという哀しみがこもりますが、それでけではありません。亡き人を回想するということが、葬儀の頃はしばしばあったものを、やがては日常の生活のなかで、面影は少しずつ遠のいてしまう。それで入相の鐘を聞いたときだけ、思い出したようにはっとさせられる。
「あるいは、いつしか寺の鐘を聞いても、
わずかな感慨すらも浮かんでこなくのだろうか。」
そんな、誰にでもある、
死者の忘却ということを含めて、
悲しいと言っているように思われます。
なぜなら、「遠くなる」という表現には、鐘の響きが「遠くに鳴る」という意味が掛け合わされているために、
「父の死を思い起こさせる鐘の音も
しだいに遠くに鳴るように薄れてゆく」
つまりは、こころの中にあまり響かなくなってゆく、というあきらめのような感慨が、静かににじみ出て来るものですから、次第に死者を忘れてゆくような悲しみを、詠んでいるように聞こてくるのです。
このように、掛け合わされた意味が、その和歌をより深く、味わいのあるものに変えるとき、掛詞にしろ二重の意味にしろ、それは駄洒落などとはまったく異質な存在として、詩情に寄与していることに気づくでしょう。それに対して、下手な掛詞などは、文字通り駄洒落に落ちぶれたものも、『勅撰和歌集』のなかにも、もちろん存在します。
そのような訳ですから、
掛詞や重ね合された意味を、
駄洒落と呼ぶのではありません。
それが純粋な言葉の面白さに訴えるときは、それは駄洒落にもなり、詩情に訴えるような意味の二重性にもなれば、失敗して駄洒落以下の、着想のひけらかしパーティーにも落ちぶれるような、つまりは言葉の修辞法の一つには過ぎないものです。
もっとも、そのようなことは、
きわめて当たり前のことなのですが……
「掛詞のような今日から見れば駄洒落の」
などと自らの無知をお披露目するような、
曲学阿世(きょくがくあせい)の吐瀉物(としゃぶつ)が、相変わらず幅をきかせるものですから、そのような発言や書籍を見かけたら、もうその人物の述べることは、なにひとつ信用しない方が良いことを、ここに忠告しておこうという老婆心から、(もっともわたしは残念ながら老婆ではありませんが、)余計な落書きを加えてみたまでのこと……
皆さまへの、お口汚しには過ぎませんでした。
さて、千載集も大分深まってまいりました。
「巻第十八」には、五七五七七の短歌形式とは異なる和歌や、折句(おりく)とか物名(もののな)と呼ばれる言葉遊び、それからちょっとした滑稽さを求めた誹諧歌(はいかいか)などが収められています。今回はそこから、誹諧歌をひとつだけ紹介したいと思います。和歌の前に置かれた、詞書も一緒にどうぞ。
「花のもとに、寄り臥して、詠みはべりける」
あやしくも
花のあたりに 臥せるかな
折らば咎むる 人やあるとて
道命法師 千載集1180
「花の下に寄って臥せりながら詠むには」
あやしげに
花のあたりに 臥せっているのだ
折れば咎める 人もあるだろうと思って
すでに詞書からしてこっけいです。
この和歌を、花のところに寄りながら、
臥せるようにして詠んだというのです。
「あやし」というのは「不思議だ」「変だ」くらいの意味ですから、あたかも変な格好した自分を「まったくもって変なおっさんである」と自虐(じぎゃく)したものと受け取れます。
また一方では、こっそり花を折り取ろうとしているのですから、「大変だ、あそこに変な人がいるよ!」と非難されるような、プチ犯罪者が潜んでいるような怪しさを表現してもいる訳です。
ところが、演劇的に眺めれば、隠れているはずの法師が、「あやしくも」などと自分で和歌を詠み始めてしまうのですから、そこに潜んでいることはもはや「ばればれ」で、シリアスな情景としてはまるで破綻してしまいます。
そんな破綻した情景が浮かんできますから、たちまちおかしみを誘う。それで滑稽な和歌、すなわち誹諧歌という訳です。
さらにこの「花」を、
女性の比喩と解くならもっと面白い。
坊主のくせに女をものにしようとして臥せっている、
ずきんでもかぶっていそうなエロジジイの光景が浮かんできて、
たちまち滑稽がにじみ出してくるのです。
あるいはその意訳は、
あやし気な姿で、
花のあたりに 臥せっておるぞえな
ぐふふふ(笑)
折ったらば咎めるような
人もあるだろうと思ってのお
のようなニュアンスを、宿しているかとも思われますが、そのような下品さは表には出さず、あくまでも和歌の体裁をまっとうしているところに、品位を保ったがゆえの滑稽が感じられ、なおさら愉快に詠まれるようです。
ところで、
こんな和歌も掲載しているあたり、
八代集のふところの深さと言いますか、決して芸術至上主義の和歌ばかりを乗せているのでは全然ない。和歌というものが、社会に生きた表現であった頃の臨場感が、そこからは伝わってくるようです。それどころか、当時の撰者でさえも、「なんじゃこりゃ」と呆れたような駄歌すらも、おそらく「これは残すべき駄歌である」という趣旨で採用されて、残されたのではないかと思われるものすら、納められているくらいですが、いずれなにかの機会で、紹介することもあるかもしれません。
釈教(しゃっきょう)とは、「釈迦(しゃか)の教え」のことですから、すなわち仏教のことです。もとより宗教的概念は、人の心より生まれたものですから、わたしたちにも容易に寄り添える和歌も、数多くある訳で……
ここでは教義など無くても、伝わるくらいの思いして、作られた和歌をいくつか、眺めて見ることにしましょう。
こゝに消え
かしこに結ぶ 水の泡の
うき世に巡る 身にこそありけれ
藤原公任 千載集1202
こちらでははじけて消えてしまい
あちらではまた生まれて来るような 水の泡の
浮くような世のなかを 巡るいのちというもの
最後の部分、直訳なら「この身であることよ」とか「この身であるのだなあ」といった翻訳になるでしょうが、もとより自分だけの身を述べたものではありません。輪廻転生(りんねてんしょう)というと、まるで自分が自分のままで、何度も再生をくり返すような印象を受けるかもしれませんが、
「今のわたしは、
今のままでは、
今しかありえない」
というような認識は、当時も今も、なにも変わってはいないのです。それは、ほとんど、生理的に捉えられる感覚だからです。そうであるならば、この和歌の「うき世に巡る身」とは、さながら植物が種子を残して、また生まれ変わるような印象、あるいは私たちが子どもを作り、同種の個体を残すようなイメージとして捉えたからといって、それほど大きな隔たりが出来る訳ではありません。むしろ安易に、
「死んではまた生まれ変わる、
永遠に続くような、自らの命というもの」
などと捉えるよりは、はるかにこの和歌に寄り添います。「学者と宗教家のわめき声」ですか、そんなことは、わたしたちにはどうでもよいことです。つまりはこの和歌を、
消えては結ばれる無数の泡の中
輪廻転生をくり返すわたしなのです
としたのでは、今日(こんにち)となっては取りどころもない、荒唐無稽な蒙昧(もうまい)のような興ざめを引き起こすばかりですが、この和歌はむしろ、
消えては生まれ来る無数の泡のように
生まれては消えて、消えては生まれて
それを時の流れのなかでくり返しているような
わたしたちの命なのです
そんな日常経験から得られたような感慨を、仏教の教義に委ねたものに過ぎません。それだからこそ、仏教の教義などに染まらなくても、現在のわたしたちの日常的感覚でも、十分に捉えることが可能なのです。(教義がなければ捉えようのない和歌は、わたしはここでは採用しないことでしょう。)
ところでこの和歌、
鴨長明の『方丈記』の冒頭を、
思い起こさせはしませんか?
ゆく河のながれは絶(た)えずして、しかもゝとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。
なるほど、泡沫に人の命を委ねるような表現は、大陸からの書籍や仏教の影響によるものには違いありません。そもそも、この公任卿の和歌からしてが、漢詩の影響がちらちらしてはいますが……
咀嚼された表現は、何度もつぶやかれるうちに、
いつしかわたしたちの共通観念へと、いたるものならば……
あるいはこの和歌などにも、鴨長明にとっての、わずかな影響力はなかったのかと、ちょっと考えてしまうくらいの、身近な類似性が込められてはいるようです。
朝まだき
みのりの庭に 降る雪は
空より花の 散るかとぞ見る
中原清重(なかはらのきよしげ) 千載集1248
詞書に「雪の朝に法を聞く」とありますから、「御法(みのり)の庭」とは坊さまから説法(せっぽう)を聞かされた、その寺の庭ということになります。「朝まだき」とは、まだ十分に明けきってないような早朝ですから、
朝もまだ明けきらない頃
御法の庭へと 降ってきたような雪は
まるで空から花びらが 散るように思われて
そう詠んだものなのです。
もちろんこの花は、
「法華経(ほけきょう)」の教えを喩えたものですが、
だからといって、その教義を知らなくても、
「教えを聞かされた朝早く、
その庭に降りそそぐ雪は
まるでその教えが花びらになって
降りそそぐように思われたのでした」
くらいに解釈しても、なんだか清らかなイメージが、先ほどまで聞かされた教えに寄り添うような印象は、自らのエゴ以上のものが、存在しているくらいの知性を有している者であれば、十分理解出来るのではないでしょうか。
さらに深く解釈するならば、先ほどは理性で捉えていた教えが、降り注ぐ雪という叙情性によって、まるでこころの中に「ぱっと」生きたもののように、花ひらいたような瞬間を、この和歌は讃えているように思えます。
いずれ、仏教など知らなくても、敬虔な情感を知るもの、敬虔な言葉の存在を信じられるくらいの人間であるならば、十分に寄り添うことが可能なのではないでしょうか。現にこれを解釈しているわたしからして、仏教の教えなど、踏み絵にしても憚らないような人物には過ぎないのですから……
最後は仏教ではありません。
神祇(じんぎ)の歌とは、大和の神々の和歌のことです。
つまりは、神社とも関わりのあるような和歌が、仏教の後におかれて、和歌集を締めくくっている。そこには撰者の意志が、深く籠められているのかもしれませんが、今はさておき……
最後にひとつだけ、
神祇の和歌を眺めつつ、
この『千載和歌集』に、
別れを告げることにいたしましょう。
天(あめ)のした のどけかれとや
さかき葉を みかさの山に
さしはじめけむ
藤原清輔(きよすけ) 千載集1260
「三笠山」は、奈良県奈良市にある春日大社の東側に位置し、神の宿る神奈備(かむなび)の山として、古くから崇拝されてきた山ですが、春日大社が藤原氏の神社であるように、三笠山もまた、藤原氏の神域としても知られていました。そんな神域に、藤原清輔がお贈りします。曲は「雨の下で」……
……そんな曲紹介は冗談ですが、
この三笠山には神聖とされた榊(さかき)が植えられていて、
神事に使用されていましたので、
天の下、つまりはわたしたちの住まうところが
のどかにありますようにと願って
(この山にいらっしゃいます神は)
榊葉(さかきば)をみかさの山に
挿し始めたのであろうか
それで、今はこれほど立派な榊があり、
そのおかげで天の下は、
のどかに治められているのだろうか。
と、つまりはそんな和歌になっています。
神祇の和歌ですから、「憂き世のなか」だの「涙の森」のような悲惨なイメージはいたしません。それだからこそ、めでたい気持ちで、和歌を締めくくることが叶うのです。まるで賀歌のように並べられた、「神祇歌」の祝賀的イメージを眺めていると、あるいは藤原俊成の狙いはこれであったか、共感させられるような思いです。
例えば闇の嬰ヘ短調でさえも、コーダは明るく長調へと復帰する。西洋音楽のソナタ形式の精神も、千載集の締めくくりのイメージも、あるいは人間に共通する、救済概念が象徴的に表出したものなのかもしれません……
さて、いよいよ次は、
八代集の最後を飾る、
『新古今和歌集』へと足を踏み入れてみましょう。
歌数も二千首近くあり、八代集のなかでも、群を抜いて規模の大きな勅撰集です。あるいは、これまでのやり方では、ままならないかもしれませんが、それは「さいの目」の出たとこ勝負となりましょう。
いまはしばしのひと休み、
せめて一晩くらいは、
お休みなさいを告げたいと思います。
それでは皆さん、よい夢を……
(をはり)
2014/05/21
2014/07/24 改訂掲載
2014/12/05 再改訂+朗読