五七五七七の形式がどのようにして生まれたか、それは定かではありません。大陸からの影響による人為的な作用を説く人もいれば、大和言葉に由来する、おおよそ四から六文字の短い言葉と、六文字から八文字、あるいは九文字くらいの長い言葉との繰り返しのリズムが、抽象化されて生まれたものだと説く人もいます。けれどもその詩型が広範に流用され、不偏的なもののように思われるには、やはり当時の言葉にマッチした、自然な詩型であったという側面が、もっとも大きなものには違いありません。
―おおよそ、自然な表現を遊離した人工物に、
豊かな詩情など込められようがありませんから―
それだからこそ、多くの和歌が生みなされたことは、『八代集』にも明らかな事実ですが、言葉の移り変わりと共に、ふさわしい詩型もまた変遷するものであるならば、かつての和歌の形式も、現代語をたしなむわたしたちには、いくぶん型にはまった、窮屈な形式であるように、思われなくもありません。
なるほど、そのことをもっともよく知らしめているのは、着想をクロスワードみたいにして三十一字に押し込めて、不格好な日本語を短歌などと称して、互いに舐め合っているような『着想品評会』の皆さまや、単なる短い駄散文を、言葉数だけをまとめては悦に入っているような、かの『謎サークル』の皆さまの、悲惨な落書なのかもしれませんが……
けれども、わずかに柔軟性を持たせて、言葉数を現代文の幅に拡張しさえすれば、その詩型を崩さなくても、当時の和歌はたやすくわたしたちの表現へと、移し換える事は可能なものであるならば……
……そのくらい日本語の本質は、
揺らいでいないのかもしれません。
ここでは、わたしの紹介してきた和歌が、どれほど分かりやすい内容を、あたり前に詠んでいるのに過ぎないのか、仮に現代語の和歌に置き換えて、紹介してみようかと思います。もとの和歌の持つ詩情を、今日の詩情に移し換えるために、三十一文字(みそひともじ)のプラットフォームは、より柔軟なものへと拡張されることでしょう。けれども、和歌の精神をあまり踏み外さないように、表現してみようと思うばかりです。
これによってもし皆さまのうち、たとえば誰かひとりくらい、いつの時代の古語でもなければ、いつの時代の現代語でさえない、ひとりよがりのでたらめの捏造言語をこねまわし、フィーリングで誤魔化したような意味の不明瞭な内容を述べまくって憚らない、
われの眼(め)の
つひに見るなき 世はありて
昼のもなかを 白萩の散る
明石海人 『白描』
のような、詠み手の肥大した自意識ばかりが、あふれかえってくるような嫌らしさよりも……
あるいは自らのまとめあげた着想を、ただお披露目パーティーに着飾ってみたい欲求が、素直な感情よりも遥かにあふれかえって、本当に心に傷を持つものであれば、誰もが不愉快にさせられるような、
いちまいの ガーゼのごとき 風たちて
つつまれやすし 傷待つ胸は
小池光 『バルサの翼』
のような嫌みにあふれた、上から目線の気取りよりも……
あるいはまた、被災者を馬鹿にしたとしか思えないような、グロテスクな震災短歌と呼ばれる、屁理屈と頓智のオンパレード。まさに言葉を粘土にこねまわして、もてあそんだようないびつなオブジェよりも……
ここに紹介した和歌たち。
わたしたちの日常表現でさらりと詠み込んだ、ふと見上げれば空が青かったくらいの、さりげない詩情、ありきたりの感慨にこそ、愉快を覚えるならば……
あなた方にとってきっと『八代集』は、
素敵なバイブルとなることでしょう。
「言葉をもてあそぶ」
のは情緒の欠けらもない、知恵となぞなぞに邁進する、二十世紀芸術のいち潮流、その浅はかな残骸です。こころでつかみ取る必要がないからこそ、意味だけつかみ取れば満足出来る、俗人の関心を誘います。けれども、
「言葉であそぶこと」
それは詩人の世界です。
そうして、その詩情は、
なにもお勉強とは関わりのない、
流行歌の歌詞を理解するくらいの、
あたりきの感性には違いないのですから。
梅の花
にほふあたりは よきてこそ
いそぐ道をば ゆくべかりけれ
良暹法師(りょうぜんほうし) 金葉集17
梅の花の
匂うあたりは 避けてこそ
急ぎの道は 行けばよかった……
風ふけば
波の綾(あや)をる 池水(いけみづ)に
糸ひきそふる 岸のあをやぎ
源雅兼(みなもとのまさかね) 金葉集25
風が吹けば
綾を織りなす 池波に
糸を掛けます 岸の青柳(あおやぎ)
吉野山(よしのやま)
みねのさくらや 咲きぬらむ
ふもとの里に にほふ春風
藤原忠通(ただみち) 金葉集29
吉野山
峰のさくらは 咲いたかな
ふもとの里に かおる春風
こずゑには
吹くとも見えで さくら花
かをるぞ風の しるしなりける
源俊頼(みなもとのとしより) 金葉集59
こずえには
吹くとは見えない さくら花
香りのうちに 風を知ります
やま里は
野辺のさわらび 萌えいづる
をりにのみこそ 人は訪ひけれ
権僧正 永縁(ようえん・えいえん) 金葉集71
山里は
野辺にワラビが 芽吹きます
その時ばかり 人は来るのです
やま里の
そともの小田(をだ)の 苗代(なはしろ)に
岩間の水を せかぬ日ぞなき
藤原隆資(たかすけ) 金葉集75
山里の
ふもとの小田の 苗代に
岩間の水を そそぐ毎日
荒小田(あらをだ)に
ほそ谷川を まかすれば
引くしめ縄に もりつゝぞゆく
源経信(みなもとのつねのぶ) 金葉集73
荒れた小田に
細い谷川を 引き込めば
引かれた縄を 越えてゆきます
入り日さす
夕くれなゐの 色はへて
山した照らす 岩つゝじかな
源仲政(なかまさ)女(むすめ) 金葉集80
夕日のさす
くれない色の あざやかに
麓を照らす 岩つつじかも
ぬるゝさへ うれしかりけり
はる雨(さめ)に 色ます藤の
しづくとおもへば
源顕仲(みなもとのあきなか) 金葉集87
濡れるのさえ うれしいものです
はるさめに 色づく藤の
しずくと思えば
いづれをか 分きて折らまし
山ざとの 垣根つゞきに
咲けるうの花
大江匡房(おおえのまさふさ) 金葉集99
どのあたりを 分けて折ろうか
山里の 垣根続きに
咲く卯の花を……
み山いでゝ
まだ里馴れぬ ほとゝぎす
旅/うはの空なる 音(ね)をやなくらむ
藤原顕季(あきすえ) 金葉集104
深山を出て
里になれない ほととぎす
うわの空した 声で鳴きます
聞くたびに
めづらしければ ほとゝぎす
いつもはつ音(ね)の こゝちこそすれ
権僧正(ごんそうじょう)
永縁(ようえん/えいえん) 金葉集113
聞くたびに
めずらしいもの ほととぎす
はつ鳴きに会う 気持ちになります
さみだれに
玉江(たまえ)の水や まさるらむ
芦(あし)のした葉の かくれゆくかな
源通時(みちとき) 金葉集137
つゆの雨に
玉江の水が 増えるのか
芦の下草が 隠れてゆきます
とことはに
吹く夕ぐれの 風なれど
秋たつ日こそ すゞしかりけれ
藤原公実(きんざね) 金葉集156
いつもいつも
吹く夕ぐれの 風ですが
立秋の日こそ 涼しいものです
露しげき
野辺にならひて きり/”\す
我が手枕(たまくら)の したに鳴くなり
待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ) 金葉集218
露のはげしい
野辺かと思って きりぎりすは
わたしの手枕(てまくら)の したに鳴いています
さゝがにの
糸引きかくる 草むらに
はたをる虫の 声ぞ聞こゆる
顕仲卿女(あきなかきょうのむすめ) 金葉集219
蜘蛛が糸を
巣に引きかける 草むらで
機織り虫の 声がしてます
道もなく
積もれる雪に 跡たえて
ふるさといかに
さびしかるらむ
肥後(ひご) 金葉集292
道もなく
積もりゆく雪に 足跡も絶えて
ふるさとはどれほど
さみしいでしょうか
音たかき
つゞみの山の うちはへて
たのしき御代と なるぞうれしき
藤原行盛 金葉集313
音たかく
鼓の山よ 打ち鳴らせ
新しき世と なるのはうれしさ
秋霧の
立ち別れぬる 君により
晴れぬ思ひに まどひぬるかな
藤原基俊(もととし) 金葉集345
秋霧に
立ち別れゆく 君のせい
晴れない思いに さ迷うみたいだ
のちの世と
ちぎりし人も なきものを
死なばやとのみ 言ふぞはかなき
藤原成通(なりみち) 金葉集400
死んでも逢おう
約束した人も ないくせに
死にたいなんて 安い言葉さ
たまさかに
逢ふ夜は夢の こゝちして
恋しもなどか うつゝなるらむ
よみ人知らず 金葉集459
ひさしぶりに
逢う夜はまるで 夢のよう
恋しさはこんなに リアルすぎるのに……
いさぎよき
空の景色を たのむかな
我まどはすな つくよみの神
僧正行尊(そうじょうぎょうそん) 金葉集628
いさぎよい
空の秩序を 頼みとしよう
私を惑わすな 月の御神(みかみ)よ
『桃園の花を見て』
桃園の
桃の花こそ 咲にけれ
頼経法師(よりつねほうし)
梅津(うめづ)の梅は
散りやしぬらむ
大江公資(おおえのきんより) 共に金葉集649
桃園の 桃の花こそ 咲きました
梅津の梅は 散ったでしょうか
いかがでしょうか。
どれも分かりやすい内容ではありますが、
心情を伝えるために、
どのような語りかけをしたら効果的であるか、
言葉にいつわりはないか、
安易なごまかしはないか、
よく考え抜かれた結晶になっています。
つまりは心情を効率的に伝えるための、置き換えのきかない表現に落ち着いていますから、はるか時を隔てた私たちにも、その和歌を読み直して、新鮮なよろこびを得るだけの、言葉の価値を有しているのです。
これがもし、
なんとなく落書きされた、
三十一字(みそひともじ)に過ぎなかったらどうでしょうか。
でたらめをフィーリングに述べ立てれば、百人が百人の自由な表現を、たとえば三分ごとに生みなして、一時間なら二十首ばかり、半日たてば二百四十首もの落書を、もう半日で清書でもして、それぞれが短歌と称して、それぞれの詩集を作るとすれば、小学校くらいの人口でも、焼却炉が追いつかないくらい、しおりに挟む価値すらない、言葉の枯れてあふれるのではないでしょうか。
たとえばそう……
鳩は首から 海こぼしつつ 歩みゆく
みんな忘れて しまう眼をして
東直子(ひがしなおこ)
こんなでたらめのフィーリングに身を委ねた、言葉をこねまわしてもてあそんでいるような落書なら、思いついたなり誰にでも、どれほどでも、作ろうと思えば、作れてしまうには違いありません。
―あるいは言葉までも
お化粧くらいのイミテーションとしか、
捉えられなくなった結果でしょうか―
あるいは、詠み手の尊大な上から目線が、
「この冥き遊星」
なんて興ざめするような言葉遊びと一体化した、
さくらばな 陽に泡立つを 目守りゐる
この冥き遊星(ほし)に 人と生れて
山中智恵子(やまなかちえこ)
このような落書の、着想をこねまわしたいびつな粘土細工の、朽ちた残骸を眺めるような印象。鳩が首から海をこぼしたり、桜花が泡だつのを見守ったりするような、私だけのフィーリングを見せびらかすような嫌らしさは、『金葉集』からは感じられないのではないでしょうか。古語ではあるものの、きわめて分かりやすい語りかけで、詠み手の心情がストレートに伝わってくる。ただ当たり前に述べられた事柄への共感に、心を委ねることが出来たのではないでしょうか。そうであるならば……
こねまわしたものは、頓智です。
駄洒落と変わらない、謎解きです。
背後に控えるものは、着想と言う名の、
詠み手のエゴにほかなりません。
詩とはもっとナチュラルに、
さりげなく着こなすものなのです。
ペンキ塗りした衣装には、
道化の気配がこもります。
もしあなたが、そう感じたとすれば、
あなたはまた一歩、
次の和歌を眺めたくなるかもしれません。
そうならない人たちは、
唾でも吐き散らしながら、
早々にここを立ち去るのがよいでしょう。
ここはあなた方の、
フィールドではないのですから……
さて、そろそろ次の勅撰和歌集へと移りましょう。
そうです、
「金曜の鹿は千歳まで」
と喩えられる和歌集の、六番目なら金曜の次は『土曜の鰻』
……ではありません。
『詞花和歌集(しかわかしゅう)』です。
それではあなたへ……
また次回お逢い致しましょう。
(をはり)
2014/07/08
2014/10/22 改訂
2014/11/10 朗読