はじめての八代集 予習編

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はじめての八代集

本文中の表現

 ちょっとだけ表現のことなど。
  まずは和歌に近づきがてらに、ひらがな書きの魅力に少しだけ近づいてみましょう。みずから近づいていくと、いつしかその表現がしっとりと馴染んでくるのは、英語でも方言でも、古語にしたとておなじことです。ときおりは本文にさえ、古語が混じることもあるかもしれませんが、分かりにくいほどのいたずらは、控えるようにしたいと思います。
 とりあえずの方針を幾つか呈示しておきましょう。

おなじ平仮名の反復には「やや」であれば「やゝ」を、
「ただ」であれば「たゞ」を使用します。

「ますます」の場合は「ます/\」と、
「かねがね」であれば「かね/”\」と表記します。

漢字とひらがなの配分に関しては、もとは平仮名ばかりを並べるのが、勅撰和歌集のしるしかたですが、現代文に馴染んだわたしたちには、文脈を捉えるのさえ煩わしいことがあります。けれども従来の漢字主体では、もともとのひらがな書きのおもしろさに、なかなか近づけないのも事実です。
 わたしはわたしの感性に従って、適度に漢字とひらがなを振り分けますが、従来の校訂よりは、平仮名の比率が高くなるかと思われます。たとえば「春霞」を「はるがすみ」と記したからといって、馴れてしまえば捉えにくいほどのこともありませんから。けれどもあまりひらがなばかりでは(このセンテンスのように)、わたしたちが漢字で把握していることにより助けられている意味や、文脈の区切りまで、蔑ろにされてしまいますから、適度のバランスを模索してみようと思います。ただし一定の基準は設けません。わたしのその場の感性に委ねられることでしょう。なぜならそれぞれの和歌も、すべてが時には言葉そのものからしてが、一定の基準で記されている訳ではないからです。

和歌に関しては、本文の和歌や詞書の部分にルビを振る場合は、「鶯(うぐひす)」のように歴史的仮名遣いを、そのしたの作者の名称などには、「僧正遍昭(そうじょうへんじょう)」などと現代語でルビを振ります。作者の名称は、多くの場合、日本史上一般的な名称に変えて書きしるすことにします。

詠みやすいように、句ごとに余白を挿入し、かつ好みに応じて段を変更するのは、本歌とは関係なく、わたしの勝手にしていることに過ぎません。またこれは、詩的感覚に基づいているので、切れとは関係ありません。改行が文脈の途切れと寄り添う場合もありますが、はぐらかした方が面白い場合も多いものですから。

各和歌集のまとめアンソロジーについて

 詞書きは、「題知らず」のものはわざわざ記しません。また、朗読に関しては、詞書きは必要であると思われた場合のみ、朗読しています。

和歌の基本

 軽く予習をしておくと、内容が分かりやすくなるかと思われます。
 なお古語については、ところどころしか説明を加えませんが、初めのうちは、いちいち立ち止まって、
   「これは何の意味で」
  なんたらさんが推量したとか、
 完了の助動詞がどうのこうのなどと、思い詰める必要はまるでありません。ただ大切なことは、原文をそのまま、なんども口に出して詠んでみてください。あとはわたしの現代文で、おおよその意味はつかみ取れるかと思います。ただしわたしに限らず、いかなるお節介な現代文でも、原文そのものの意味は呈示しきれませんし、あえてそれをやろうとすると、もっとも大切なこと、詠み手の表現のニュアンスそのものが、ずたずたに切り裂かれてしまうことになります。そのことだけは、ご注意願いたいと思います。

 もっとも今は、あまり気にする必要はありません。
  ともかくも口に出しては唱えてみて下さい。
 それからもう次の和歌へ、さらに次の和歌へと、
とりあえず進んでいってみてください。
 やがては、どのような時に、どのような表現がなされているか、その言葉がどのような意味を持っているのか、おぼろげに感じ取れるようになってきます。そうしたら興味のあるところから、少しずつ辞書でも開いて、思い詰めずに覚えていったらよいでしょう。初めから言葉を解剖することに熱中しないでください。それは精神的な乞食のすることです。それより全体の意味から、詩的な共感を得ることを、おおらかに目指して欲しいと思います。それがわたしの願いです。

[詩の形式]
 形式は、言葉のまとまりが[五七五七七]で三十一字となります。またそれぞれのまとまりを、
    初句(一句)、二句、三句、四句、結句(五句)
と呼びます。

[上下の句]
 またはじめの[五七五]の部分を上の句(かみのく)、後半の[七七]の部分を下の句(しものく)と呼びます。これは勅撰和歌集において「上の句」と「下の句」で文脈が分かれることが多いからです。ただし万葉集の頃には二句目で文脈が切れるものが多く、次第に三句目で区切るものが優位になってきたという変遷もあり、勅撰和歌集においても、必ずしも文脈の途切れとは一致しません。説明する際の、便宜上の名称だと捉えておいて構いません。

[言葉]
 やまと言葉を使用するのが基本で、「月光(げっこう)」ではなく「月のひかり」、「秋風(しゅうふう)」ではなく「あきかぜ」のように、漢語の読みは遠ざけられるのが習わしです。(ただし一切登場しない訳ではありません。)

[詞書(ことばがき)]
 和歌の前後におかれた散文の説明書きで、和歌の詠まれた状況などを説明したもの。単なる「お題は~」や「~の歌合で」といった簡単な説明から、ほとんど独立した物語のようになって、最後に和歌が添えられているような、歌物語的なものまで、その用法は幅広い。

[枕詞(まくらことば)]
 たとえば「ひさかたの空」「あしびきの山」「ちはやぶる神」など、「空、山、神」に掛かるおきまりの表現のことで、ある種のイメージを内包するものの、その言葉自体に独立した意味はありません。ただ特定の単語を飾り立てるような印象で、捉え方としてはむしろ「ひさかたの空」全体で「空」を表現しているのだと考えて結構です。ちなみに、よく使用されるものはきわめて限られていて、枕詞を順に暗記することなど、イトミミズほどの価値さえありません。

[序詞(じょことば)]
 枕詞がある単語に結びつく、定められた表現であるとすれば、序詞はある言葉に結びつく、定められていない表現であると言えるかもしれません。たとえば、
「ひさかたの空」ではなく、
「雲もなく青々とした空」と置きます、
 もしこれが和歌の内容そのものとして使用されたなら、技法も糸瓜(へちま)もありません。和歌の本体に過ぎませんから。けれどももしこれを、
「雲もなく青々とした空色の鉛筆で」
として「描いて見たいなあなたの笑顔を」としたらどうでしょう。もう「雲もなく青々とした空」は、本文の内容とは一致しない、青色の空だけを修飾するものになってしまいます。とりあえず序詞は、このように特定の言葉だけを修飾する文で、本文の内容とは直接関係にないものと思っておいてくだされば、初めの一歩としては、十分かと思われます。

[掛詞(かけことば)]
 短詩型なので、言葉の省略が重要な戦略になってきます。そこでたとえば、
「まるで夜汽車の遠ざかりゆくわたしの思い」
などとして「遠ざかりゆく」の中に、夜汽車の遠ざかるさまと、遠ざかるわたしの思いを同時に込めるようなことは、きわめてあたりまえの表現としてなされます。ただしこれは掛詞ではありません。掛詞はもっとアクロバットな技法で、たとえば
「枯れた野に変わらないもの松ばかり」
と松だけは青々としていることを表現していると思わせておきながら、この「松ばかり」を別の「待つ」に置き換えて、
「枯れた野に変わらないもの待つばかり
   それでも来ないあなたなのです」
ただ変わらずに待っているけれど、あなたは来ないと詠み替えてしまう。つまりは一つの言葉に、違う二つの意味を重ね合わせるのが掛詞です。

[縁語(えんご)]
 縁語というのはつまり、縁のある言葉のことです。たとえば火という単語がある。そうしたら、
     「燃える」「熱い」「赤い」「さかる」
など関係のある言葉はみな縁語であるということになる訳です。それは直接的に使用される場合も多いのですが、たとえば、「待つ」のうちに「松」を委ねて、「千歳」とか「変わらぬ」などと織り込むことも、作者が故意にしているかと思われる場合は、縁語と呼べる訳です。ただ連想の重ね合わされる言葉を使用して、その内容の結晶化をはかるという戦略は、和歌においてきわめて当たり前のようになされているために、これをいちいち取り上げると、かえって興ざめを引き起こすくらいです。またひとつの着想をイメージに和歌を詠んでいる以上、
     「水」と「流れ」「冷たい」
などといった関係は、それが縁語であると指摘するまでもなく、縁があるには決まっています。したがって、これとこれとが縁語であるなど、くどくどしく認識するまでもなく、その内容から結びつきが明らかであるようなものは、わたしは説明においてこれを取り上げません。ただそれが特に指摘するほどのものである場合は、語りかけることもあるかと思います。

[本歌取(ほんかど)り]
 簡単に述べるなら、本歌(もとうた/ほんか)をベースにして、新しい和歌を生みなすことです。そのやり方はさまざまですが、もっとも単純なものは、本歌を部分的にそのままの形で取り込むことによって、故意に本歌を参照したと悟らせる方針です。これによって、聞き手に浮かんだであろう本歌の情景を利用して、新しい状況を呈示する。すると本歌との間に対比が生まれて、二つの情景が置かれるとでも言いましょうか、より詩興が広がるという策略です。
 他にも部分的に取った本歌を再構築して、新たな内容に仕立てるものから、ほとんどパクリに過ぎないものまで、本歌の採用の仕方はさまざまです。

[その他]
 見るべき修辞法があれば、本分の中で説明することもあるかもしれませんが、これくらいの知識を予習しておけば、あとは本文を眺めたほうがはやいでしょう。

見取り図

 「金曜の鹿は千歳(せんさい)を生き抜き、
    やがて新古今へといたるべし」

 これは月曜日から数えて五番目の曜日である金曜日を、五つ目の勅撰和歌集である『金葉(きんよう)和歌集』に喩え、続く六番目の『詞花(しか)和歌集』を「鹿」に、七番目の『千載(せんざい)和歌集』を「千歳」に掛け合わせ、八番目の『新古今(しんこきん)和歌集』へと到達することを述べた、午後の授業の暗記術には過ぎません。

 わたし達もこれにならって、『金葉和歌集』から始めてみませんか。それから『三代集』へと回帰して、集の締めくくりは『拾遺(しゅうい)和歌集』おそらくは八代集のなかの白眉(はくび)です。

2014/05/15
2014/11/03改訂+朗読

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