歌経標式のなかの万葉集

[Topへ]

歌経標式(かきょうひょうしき)のなかの万葉集

 さて、729年、「なにく(729)わぬ顔で」長屋王を殺したとの噂もある、藤原四兄弟ですが、その末の弟を、藤原麻呂(ふじわのまろ)(695-737)と言います。もちろん彼も、長屋王の祟りかどうかは分かりませんが、737年、都をおそった天然痘の流行により、四兄弟もろともに亡くなってしまいますが、その息子に、藤原浜成(ふじわらのはまなり)(724-790)という男がいました。後には、大伴旅人のように、大宰帥として大宰府へ赴任するまでになりましたが、桓武天皇(かんむてんのう)(在位781-806)の恨みを買ったのでしょうか、職務を減少される一方のうちに、大宰府で亡くなったとされる人物です。

 しかし、そんな転落を見せる前、順調な昇進を重ねていた頃の、772年、光仁天皇(こうにんてんのう)(在位770-781)に奉られたとされるのが、最古の歌論書(かろんしょ)とされる、『歌経標式(かきょうひょうしき)』と呼ばれるものです。もちろん歌論ですから、アンソロジーではなく、漢詩における詩学をもとに、韻(いん)や歌病(うたのやまい)などを定義した、理論書になっていて、後の歌論書にも影響を及ぼしたと考えられています。

 ここでは、その『歌経標式』(真本)から、『万葉集』と類似の短歌を取り出して、紹介してみようかと思います。『歌経標式』のものよりも、『万葉集』の作品が優れている場合が多いので、『歌経標式』の執筆者は、『万葉集』を参照にしているようにはあまり思えませんが、ほとんど同一の短歌も収められ、当時認知されていた、いわゆる名歌について、思いを馳せることも出来るかも知れません。何より、紹介されている歌数が少ないものですから、『歌経標式』を通じて、『万葉集』の和歌をかじってみるのも、導入の手引きには丁度良さそうです。

歌経標式

 はじめに、『歌経標式』の和歌を掲載して、次に『万葉集』の該当和歌と、その現代語訳を掲載します。大きく違っているものは、採用していませんから、それでどちらの意味も、理解できるかと思います。範囲を広げれば、類似の歌もあるのですが、ただ、『万葉集』の紹介に、『歌経標式』を利用しているに過ぎませんから、疑いなく同一の短歌だけを、掲載したいと思います。

妹が紐
  解くと結びて たつた山
    見わたす野辺(のへ)の 黄葉(もみち)けらくは
          藤原内大臣 歌経標式3

  『黄葉を詠む』
妹が紐
  解くと結びて たつた山
    今こそもみち はじめてありけれ
          万葉集10巻2211

恋人の紐を 解いて結んで立つと
  竜田山(たつたやま)は 今こそ紅葉が
    始まったところだなあ

 初めの二句は序詞ですが、実際の比喩を兼ねた「有心(ゆうしん)の序詞」と読んで、構わないかと思います。意味は、恋人との再会のために、また解こうと紐を結んで貰って、恋人の家を立つと、竜田山は朝の空気のなか、今こそまさに紅葉をはじめたところだった。くらいの意味です。

 万葉集の方は、「黄葉はじめて」という言葉が句をまたいで、つまり「句またぎ」になっていますから、詩型を離れて純粋な心情を語ったような臨場感が、色づきはじめた黄葉を見た、生の印象を浮かび上がらせます。それに対して、歌経標式のものは、もう少し客観的な記し方になっていて、臨場感には劣るものの、その分様式美を得ているようなもので、どちらにも魅力が籠もります。

     「角沙弥が美人名誉の歌」
妹が名は 千代(ちよ)に流れむ
  姫島(ひめしま)の 小松が枝の
    苔生(こけむ)すまでに
          角沙弥(つのしゃみ) 歌経標式4

妹が名は 千代(ちよ)に流れむ
  姫島(ひめしま)の 小松がうれに
    苔生(こけむ)すまでに
          河辺宮人(かわへのみやひと) 万葉集2巻228

この娘の名は 千代に伝わるだろう
   この姫島の まだ若い小松の梢に
 いつか苔がむすほど長い間

 これは、どちらもほぼ同じ歌ですが、万葉集のものは河辺宮人が、死んだ女性の名は永遠に刻まれようと歌っているのに対して、歌経標式のものは角沙弥が美人を讃えたものになっています。和歌の内容が、美人を褒めたものとしては、大げさであると同時に、最適な比喩なのか疑わしく感じられますから、詞書きの優劣、状況提示の優劣が、短歌の印象を大きく変えてしまう、良い例になっているかと思われます。それにしても、美人を褒める歌としては不自然で、もともとは河辺宮人の短歌を、美女を讃える際に利用したような気配が籠もります。

ひさかたの
   天ゆく月を 網に刺し
 わが大君は きぬがさにせり
          柿本人若子 歌経標式6
          柿本人麻呂 万葉集3巻240

(ひさかたの)
   天をゆく月を 網で捕らえて
     われらの大君は きぬ傘になさった

 天武天皇(てんむてんのう)の息子である長皇子(ながのみこ)が「猟路(かりぢ)の池」という場所に、狩に出向いた時に、柿本人麻呂が詠んだ和歌で、もともとは長歌と反歌でペアになっているものです。歌経標式にもまったく同じ形で乗っていますが、人麻呂のことを「若子(わくご)」という、若い男性に呼びかける名称で呼んでいます。

 内容は、長歌が「あなたの狩の姿には、鹿も鶉も畏まるが、そのように私たちも畏まってお仕えします」という讃え歌の地上編をお送りしたので、反歌の方では、「空行く月を狩猟用の網で掴まえて、きぬ傘にしてしまわれるとは、さすが大君でいらっしゃるという、天上編の讃え歌になっています。

「きぬがさ」とは今日の傘のようなものを、部下がかざして差し上げるものと、思って貰えば良いでしょう。「月人(つきひと)」の言葉もあるように、月は何かと擬人化されやすい対象物だったようで、ここでは捕らえられて、「きぬがさ」にされてしまっていますが、平然とした詠み方なので、冗談や滑稽のようには響きません。また、敬意を込めた和歌も、ここまで壮大だと、なんの嫌味も湧いてこないばかりか、魅力的な表現に思えて来るのは不思議なもので、中途半端なおべっかを使う、無意識のスーツ姿とは、印象も大きく異なる訳です。

     『大伯内親王、大津皇子に恋ふる歌』
見まく欲り
  我(わ)が思(も)ふ君も あらなくに
    なにしか来けむ 馬疲(うまつか)らしに
          大伯内親王(おほくのひめみこ) 歌経標式7

見まく欲り
  我(あ)が思(も)ふ君も 過ぎにけり
    なにゝか来けむ 馬疲(うまつか)らしに
          大伯内親王(おほくのひめみこ) 歌経標式8

見まく欲り
  我(あ/わ)がする君も あらなくに
    なにしか来けむ 馬疲るゝに
          大伯皇子(おほくのひめみこ) 万葉集2巻 164

見られたら良いと
   わたしの願うあなたも もはや居ないのに
     なにをしに来たのだろう
   馬が疲れるだけだったのに

 天武天皇の息子である、大津皇子(おおつのみこ)が686年、謀反のかどで亡くなったのに際して、伊勢神宮の斎宮(さいぐう)であった姉の大伯皇子(おおくのひめみこ)が、都に戻される時に詠まれた、二首の短歌のうち一首です。

「見まく」というのは例のク語法で名詞化された、「見ること」を表わしますから、「見まく欲り」というのは「見ることを欲する」となります。それで冒頭の意味は、「見ることを願うことを、私が思うようなあなたも居ないのに」という、屈曲した表現になっています。これは、万葉時代には当たり前の表現に過ぎなかったというより、ワザとそのような表現をすることにより、下の句のぶっきらぼうな感慨と共に、遣り切れないような思いを詠み込んでいると思われます。

 ところで、『歌経標式』で類似の歌を続けて示しているのは、歌論の解説と関係があるのでしょうか。残念ながら『歌経標式』の本文は、参照していないことが、ちょっと申し訳ないくらいの、今回は紹介になってしまいました。

今更に なにか思はむ
   うかなびく こゝろは君に
  寄りにしものを
          但馬内親王(たじまのひめみこ) 歌経標式9

今更に なにをか思はむ
   うちなびく/うちなびき こゝろは君に
  寄りにしものを
          阿部女郎(あべのいらつめ) 万葉集4巻505

いまさら 何を心配しましょう
  なびくように 私の心は
    あなたに寄り添っているのですから

 内容は分かりやすいかと思いますが、歌経標式のものは、天武天皇の娘である但馬皇女(たじまのひめみこ)が、やはり天武天皇の皇子である、穗積皇子(ほづみのみこ)との贈答歌を詠んだときのものとなっているようです。

     『角沙弥、紀浜歌』
白波の
  浜松が枝(え)の 手向けくさ
    幾代(いくよ)までにか 年の経(へ)にけむ
          角沙弥(つのしゃみ) 歌経標式15

白波の
  浜松が枝(え)の 手向けくさ
    幾代(いくよ)までにか 年の経ぬらむ
       (一に云ふ「年は経にけむ」)
          川島皇子(かわしまのみこ) or 山上憶良 万葉集1巻34

白波の寄せる
  浜松の枝に供(そな)え付けられた 祈願のための品々は
    どれほどの歳月を 経てきたものだろうか

 持統天皇が伊勢に行幸(みゆき)なされた時に、その地で詠まれた短歌です。川島皇子(かわしまのみこ)(657-691)と言えば、天智天皇の息子で、先にあげた大津皇子(おおつのみこ)の親友でしたが、一説には彼こそが、大津皇子の謀反を密告した、張本人であったともされています。

「手向け草(たむけぐさ)」は、神に祈願のために捧げる「幣帛(へいはく)」などを差す言葉で、今日なら、縁起の良い浜の松に、おみくじやら祈願を記した紙が、くくりつけられているような感じでしょうか。それを眺めると、非常に古いものが見られるので、どれほどの歳月を、人々の願いを受けとめ続けたのだろうか、そんな短歌になっています。それにしても……

 この短歌、『万葉集』の中でも、編集者の注で「あるいは山上憶良が作る」記されていますが、[万葉集9巻1716番]にも、ほぼ同じものが掲載され、そこには作者が「山上」とされ、「あるいは川島皇子の作という」と解説が加えられています。その上、『歌経標式』では角沙弥という詠み手が登場して、後世の混乱を誘っているようですが……
 誰かが誰かの名歌を、ことわりなく引用して、
  自分の短歌のように詠むようなスタイルが、
   必ずしも非難には値しない時代精神にも思われて、
  集団的想像力ということを思うと、
 ちょっとうらやましいような時代ですね。
  だって、個人の想像力なんて、
   品評会の醜態が関の山ではありませんか。

み吉野を/の
  よしとよく見て よしと言ひし
    よき人よしの よき人よく見
          天武天皇 歌経標式16

よき人の
  よしとよく見て よしと言ひし
    吉野よく見よ よき人よく見/よく見つ/よ君
          天武天皇 万葉集1巻27

 優れた人が
   良いとよく眺めて 良いと言った
     吉野をよく見るのだ 優れた人を良く見るのだ

「よき」「よし」「よく」の言葉遊びに、漢字の表記での「淑」「良」「吉」「好」「芳」「四来」という記述遊びを兼ねて、吉野を讃えた短歌として知られます。なおかつ、ただ遊んだだけではなく、自分の息子達への教訓も兼ねたともされています。内容にまで踏み込むと、記述が間延びして、『歌経標式』による『万葉集』の紹介から逸れますので、今回は何も記さずに過ぎ去ります。いつか、優れた作品として、紹介することがあるでしょう。

 今はその意図などよりも、このリズムに溢れた言葉の調子を、何度も口で確かめて欲しいと思います。この詩の魅力は、その遊びのなかにこそ存在しているからです。もちろん「遊び」とは、ふざけるの意味ではありません。もっと生真面目な、そうして本当の遊びです。ついでに『歌経標式』のものと、どちらが優れているか、確認してみるのも愉快です。

 さて、この後[歌経標式21]に、[万葉集14巻3225]のよみ人しらずの長歌が、柿本若子(かきのもとのわくご)、つまり柿本人麻呂の作品として、「長谷(はつせ)を詠める四韻歌」と紹介されていますが、これはほぼ同じ形の『歌経標式』は省略して、万葉集の和歌だけを掲載します。

天雲(あまくも)の 影さへ見ゆる こもりくの 泊瀬(はつせ)の川は 浦なみか 舟の寄り来(こ)ぬ 磯なみか 海人(あま)の釣りせぬ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 磯はなくとも 沖つ波 しのぎ漕(こ)ぎり来(こ)/競(きほ)ひ漕ぎり来(こ) 海人(あま)の釣舟(つりぶね)
          よみ人しらず 万葉集13巻3225

天雲の 影まで映す (こもりくの) 泊瀬(はつせ)の川は 浦も無く 舟は寄らずに 磯も無く 漁師(あま)も釣らずに よしそれなら 浦は無くても よしそれなら 磯は無くても 沖の波 分けて漕ぎ来い 漁師(あま)の釣舟

 泊瀬川(はつせがわ)は、奈良県桜井市の北東部から奈良盆地を西に流れる大和川(やまとがわ)の上流の名称で、浦も無く磯も無いので、岸には舟も来なければ人もいない。「よしゑやし」は「よしそれならそれで」くらいの掛け声で、「よし浦も磯もなくても構わない」というニュアンスです。(講談社文庫)には「放念の感動詞」とありました。「沖つ波」は川にとっての沖ですから、中心の流れの淀みないあたり。「しのぎ」というのは「押し分けて」、「しのぎ漕ぎり来」というのは「押し分けて漕ぎ入り来い」という意味になります。また「競(きほ)ひ漕ぎり来」だと、「波と競うように」になります。

  「舟は寄って来ない」
と言っている所からも分かるように、長歌は岸から眺めた印象を詠(うた)っています。それで浦も磯も無くて、釣った魚に触れる機会も、眺める機会も、釣り人と話す機会もないのですが、それでも川を過ぎゆく釣船を眺めるだけでも、感興を催すから、漕ぎ分けて川を行けという内容です。

さゞれ波
  浮きて流るゝ 泊瀬川
 寄るべき磯の なきがさぶしさ
          よみ人しらず 万葉集13巻3226

さざ波が
  浮かんで流れる 泊瀬川
 寄り添う磯が 無くて無念だ

 反歌では同じ詠み手が、「それでも寄るべき磯が無いのは残念だ」と詠んでいると捉えても構いませんが、しばしば反歌で行なわれるように、視点そのものを移してしまって、今度は船に乗っている者たちが、
     「あんな所に誰かいるなあ
、        磯も無いから、岸に寄れなくて残念だ」
と感興を催したと捉えると、
  非常に魅力的な和歌に思えて来るのではないでしょうか。

あづさゆみ
  引津(ひきつ)の辺(へ)なる なのりそも
    花は咲くまで 妹逢はぬかも
          当麻大夫(たいま/たぎま/とうまのだいぶ?) 歌経標式

     『問答の問い』
あづさゆみ
  引津(ひきつ)の辺(へ)なる なのりその
    花咲くまでに 逢はぬ君かも
          よみ人しらず 万葉集10巻1930

(あづさゆみ)
   引津のあたりに生える なのりその
     花が咲くまでも 逢わないあなたです

 この短歌は、問答の一方で、答えが女性になっていますので、ここで「逢はぬ君かも」と詠んでいるのは、通常なら女性ですが、ここでは男性からの呼びかけになっているようです。それで歌経標式の短歌も、やはり女性に対して歌っている。「なのりそ」というのは、海藻のホンダワラを指すとされ、その花は、春に見られる「生殖器」が、花と思われたともされています。それで、最近逢っていないことを、嘆く和歌になっているという訳です。

潮満てば
   入りぬる磯の 草ならし
  見る日少なく 恋ふる夜多み
          塩焼王(しおやきのおおきみ) 歌経標式26

     『藻に寄せる』
潮満てば
   入りぬる磯の 草なれや
 見らく少なく 恋ふらくの多き
          よみ人しらず 万葉集7巻1394

潮が満ちれば
   海に隠れる磯の 草であろうか
  見ることは少なくて 恋しいことばかり多い

 内容は分かりやすいでしょう。下の句の「見らく少なく恋ふらくの多き」という、独特な表現がこの和歌の魅力で、一度その味わいにはまると、抜けられなくなるような魅力が籠もります。それを台無しにしている『歌経標式』の方は、なんの取り柄もありません。

 少し前の「吉野よく見よ」の和歌もそうでしたが、『万葉集』で生かされている表現の魅力が、『歌経標式』では殺されがちなのは、採用すべき短歌の選別の問題なのでしょうか、それとも藤原浜成が、自らの説に合せて、歌を改編したりしているのでしょうか。あるいは逆に、『万葉集』の方が整えられているのでしょうか。私にはちょっと分かりかねます。

水底へ
  沈(しづ)くしら玉 誰(た)がゆゑに
 こゝろ尽くして わが思はなくに
          藤原里官卿(読み不明) 歌経標式28

     『玉に寄せる』
水底に
  沈くしら玉 誰がゆゑに
 こゝろ尽くして わが思はなくに
          よみ人しらず 万葉集7巻1320

水底に 沈んでいる白玉よ
  お前以外の いったい誰のために
    こんなに心を尽くして 思ったりするものか

 沈んでいる白玉とは、潜って取る天然真珠が念頭にあると思われますが、三世紀後半に記された中国の資料、「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」にも、

「男女の生口(せいこう)[奴隷や捕虜か]三十人を献上し、白珠五千孔[真珠五千個]、青大句珠二枚[翡翠の勾玉二枚]、模様の異なる雑錦二十匹を貢いだ」

と卑弥呼が贈ったプレゼントについて、天然真珠を掲げています。翡翠(ひすい)も縄文時代からの日本の名産品ですから、贈りものとして相応しい品々であったのでしょうが……

 そんな大切な白玉のようなあなただから、わたしもこれほど心を尽くしているのだという、分かりやすくも素敵な短歌になっている。以上で『歌経標式』に掲載されている、ほぼ『万葉集』と同じ内容の和歌の解説は終了ですが、なかなか魅力のある和歌が、紹介されていたのではないでしょうか。

後書

 さて『万葉集』は759年の大伴家持の和歌をもって閉ざされ、この『歌経標式』も772年に天皇に奏されたことになっています。それが完成された年を指すとは、もちろん言えませんが、その後和歌の音沙汰は、現存資料からは長らく途絶え、「漢文の流行時代」「和歌の暗黒時代」などと比喩されることもある、一世紀あまりを過ごすことになります。

 やがて班子女王(はんしじょおう)(833-900)と、その息子である宇多天皇(うだてんのう)(867-931)(在位887-897)の活躍する時代になると、にわかに歌合(うたあわせ)が盛んに催され、905年に奏上された『古今和歌集』へとつながる、和歌の伝統が返り咲きますが、もちろんその間にも、和歌は途絶えることなく、継承されていたものと思われます。

 それでは、次回はその『古今和歌集』から、
  振り返って『万葉集』を眺めてみることにしましょう。
   『古今和歌集』の編纂方針は、
  『万葉集』の和歌は掲載しないというものでしたが、
 それにも関わらず、幾つもの和歌が、
  『万葉集』からの由来も含めて、紹介できるかと思いますから。

               (つゞく)

2016/06/20

[上層へ] [Topへ]