万葉秀歌集 解説版その二

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万葉秀歌集 解説版その二

巻第三

 巻第三、巻第四は、はじめの二巻を踏まえて、そこから抜けたもの、また少し後のものを、継続的にまとめたものと思われ、ジャンル立ても「雑歌」「相聞」「挽歌」を踏襲(とうしゅう)します。ただ異なるのは、巻第三に「雑歌」と「挽歌」をまとめてしまい、巻第四のすべてを「相聞」すなわち「恋歌」へとまとめた点で、儀式的な、公的な和歌よりも、心情的な和歌へと移り変るような気配も、しなくもありません。

大君は神の歌

     『天皇、いかづちの岡にいでませる時』
大君は 神にしませば
  天雲(あまくも)の いかづちの上に 廬(いほ)り/らせるかも
          柿本人麻呂 万葉集3巻235

大君は神であられるゆえ
  天雲をとどろかせる 神なりの岡のうえに
    仮の庵(いおり)を築いていらっしゃる

     『壬申の乱静まりし後』
大君は 神にしませば
   赤駒(あかごま)の 腹ばふ田ゐを みやことなしつ
          大伴御行 万葉集19巻4260

大君は神であられるゆえ
   赤駒が 腹ばうような田んぼを 都へと変えられた

     『壬申の乱静まりし後』
大君は 神にしませば
   水鳥(みづとり)の すだく水沼(みぬま)を みやことなしつ
          よみ人しらず 万葉集19巻4261

大君は神であられるゆえ
   水鳥が 群がるような沼地を 都へと変えられた

  『大君は神シリーズ』
 まるで有史以前の、伝説のすめらことを詠んだような和歌ですが、かえって国家体制が整備されて、中央集権化が推し量られるその精神の中で生み出された、無自覚のプロパガンダ(というのもなんだか変ですが)の意味合いがあるようです。ここではむしろ「神であるから~をどうした」くらいの、ありきたりの発想が、大量生産されそうなところを、
     「天雲の いかづちの上に 廬りせるかも」
と平然と詠みなした、柿本人麻呂の力量をこそ、味わいたいと思います。

猟路の池の歌より反歌

     『長皇子(ながのみこ)、猟路(かりぢ)の池にいでませる時』
ひさかたの
  天(あま/あめ)ゆく月を 網(あみ)に刺(さ)し
    わが大君は きぬがさにせり
          柿本人麻呂 万葉集3巻240

(ひさかたの)
   天を行く月を 網で捕らえ
     我らが天皇は かざし傘にされている

 長皇子(ながのみこ)もまた天武天皇の息子。猟路の池は所在不明ですが、そこで狩りをする皇子の姿を、「鹿は腰を下ろして拝み、鶉は腹ばうように、皆々畏まってお仕えするよ」という、あっぱれな讃美をした長歌に添えられた反歌ですから、その誇大表現に合わせて、反歌もまた、「月を捕まえて、かざし傘にしている」とまとめています。和歌全体から読み取れるのは、人だけでなく自然もまた、天皇にお仕えするような意識が、虚構という訳ではなく、心から詠まれているような精神で、このような儀式的・形式的な表現と心情が混じり合ったような無頓着な賞賛は、後の長歌には、あまり見られなくなるようです。

柿本人麻呂の羈旅歌

玉藻刈る 敏馬(みぬめ)を過ぎて
   夏草の 野島(のしま)の崎に 船近づきぬ
          柿本人麻呂 万葉集3巻250

玉藻を刈っている 敏馬を過ぎて
  夏草の茂る 野島の崎に 船は近づいた

 敏馬(みぬめ)は兵庫県の神戸市東部で、野島の崎は淡路島の北端にあたります。旅路のルートを描いた短歌には過ぎませんが、それぞれの地名に、一方には漁師の営みを、一方には季節と自然を掲げて、一二句と三四句を並べますから、様式と場景が定まります。詳細に眺めると、
     「玉藻」と「夏草」の植物同士
     「二つの地名」
     「過ぎて」と「近づきぬ」
という対比を考慮に入れて、構造的に詩を生みなすことにより、短歌に格調を与えると同時に、日常表現とは異なる、詩的表現としての和歌を、取りまとめるのが柿本人麻呂の特徴です。周到に構築させるからこそ、「一方を過ぎて、一方に近づいた」という、散文であれば単純すぎるくらいの発想が、素敵な着想に思えて来るのも、またその成果によるものです。

 ところで、このような即時的な、「野島の崎」で手帳を開いて、現実を詠んだだけのような羈旅の歌は、皆さまには当たり前に思われるかも知れませんが、万葉集の時代を過ぎ去ると、きわめてユニークなものとなってしまう。和歌への精神が異なる、勅撰和歌集の時代へと移り変っていくことになるのでした。

あまざかる
  鄙(ひな)の長道(ながち)ゆ 恋ひ来れば
    明石(あかし)の門(と)より 大和島(やまとしま)見ゆ
          柿本人麻呂 万葉集3巻255

(あまざかる)
   田舎びた地方からの長い道を
     みやこを恋慕ってやってくると
   明石海峡から 大和の山々が見えてきました

 こちらは、田舎から長い海路を、都を慕って来れば、淡路島北方の明石海峡から、大阪湾の方が、まるで山々を連ねた、島のように見えてきたという内容です。初めの二句で、遙かなる僻地からの帰還のような印象を与え、「恋したってここまで来れば」とまとめた上の句が、視覚情報としての下の句をドラマチックに、今のよろこびへと返す手際は見事です。

 先ほどの短歌にも見られたように、当時の海路の旅と言えば、その中心は瀬戸内海を渡るもので、朝鮮半島などへ向かう場合も、このルートで北九州の大宰府をめざして、そこから改めて海を渡るというものでした。柿本人麻呂の短歌などは、健全なものですが、海に原始的な恐れを抱いているような短歌も多く残されているのは、瀬戸内海の航海が、なかなかに危険を伴ったことと関係があるのかも知れませんね。

八十宇治川の歌

     『近江国よりのぼり来る時、宇治川の辺(へ)にいたりて作る歌』
ものゝふの
  八十宇治川(やそうぢかは/がは)の 網代木(あじろき/ぎ)に
    いさよふ波の ゆくへ知らずも
          柿本人麻呂 万葉集3巻264

(もののふの)
    八十に分かれる宇治川の 網代の木に
  いざよう波の 行方は分からない

 秋から冬にかけて、魚を捕らえるために、川に杭を連続的に打ち付けたものが、網代木(あじろぎ)です。その一本一本に流れが妨げられますと、それぞれから小波が立ちますから、互いに干渉し合った様子は、まるで川の流れさえ、定まらないように思われたという内容です。

 丁寧な観察による表現は、そのような様子を、じっと眺め続けるような心情へと返されますから、状況はつかめなくても、その行方の知れないという取りまとめには、しみじみとした感興に耽る詠み手の姿が浮かんできます。その上で、冒頭の「もののふの八十氏(やそうじ)」というのは、天皇を支える沢山の氏族のイメージで、支流の乱れる宇治川を比喩していて、なおさら行方の分からない印象を、強めていると言えます。

 もちろんそれだけで、詩興を共有しても、素敵な短歌ではありますが、「もののふの八十氏の行方は分からない」という印象には、壬申の乱などの争乱によって、氏族が興亡した過去を偲ぶ意味が、込められているのだと捉えると、また違った深みが、感じられるのではないでしょうか。そのような説が唱えられるのも、牽強付会(けんきょうふかい)に学問のために推察したものではなく、この短歌の魅力から、素直に導き出されたもののようです。

夕波千鳥の歌

近江(あふみ)の海
  夕波千鳥 汝(な)が鳴けば
    こゝろもしのに いにしへ思ほゆ
          柿本人麻呂 万葉集3巻266

近江の海の
  夕波にいる千鳥よ お前が鳴けば
    胸が締め付けられるように
  昔のことが思われるよ

  これもまたおなじ事です。
 一方では、近江に有ったかつての都を偲ぶとか、何らかの逸話を踏まえて、詠まれていることが分かれば、より心情を定めやすくはなりますが、ただ情景に身を委ねたものとして、いにしえを偲ぶ心情に口ずさんでも、感興を豊かに共有できるからこそ、作品としての価値を有していると言えるでしょう。そうでなければ、伝統であろうと、最初の詩集だろうと、私たちがポケットに収めるべき、理由などどこにもありませんから。

 それにしても、夕ぐれの波間にいる千鳥を、わずか七文字でまとめてしまったかと思えば、すぐさま「お前が鳴けば」と語りかける手際は見事で、凡庸な歌人であれば、上の句の着想だけでも、混迷を来すかも知れませんが、まとめた状況を元に、下句で悠々と自らの思いを述べるようなゆとりです。

 だからといって、このような手際にあこがれて、造語を生みなしたり、かつての表現を物まねしたりするような行為は、明治時代以後、盛んに行なわれてもいるようですが、なかなかこのように自然に、傷ひとつ無い表現には、まとめきれないものも、夢の島にひしめいているようです。

高市黒人の羈旅歌

旅にして もの恋しきに
  山もとの 赤(あけ)のそほ船(ぶね/ふね)
    沖を漕ぐ見ゆ
          高市黒人 万葉集3巻270

旅にあって もの恋しい時に
  山裾から 赤色の丹(に)を塗った船が
    沖を漕いでいるのが見える

「赤(あけ)のそほ船」は、朱塗りの船ですから、それが特別な船なのか、ありきたりの光景なのかは知りませんが、閉ざされた和歌のうちでは、鮮やかな印象が広がります。旅先で、故郷のことが偲ばれて、もの思いに沈んでいる時に、ちょっと鮮やかな情景を詠み込んで、それによって、こころを晴れやかにするのではなく、かえってその情景を、寂しさに寄り添わせるような効果が、この短歌の魅力でしょう。

桜田(さくらだ)へ 鶴(たづ)鳴き渡る
  年魚市潟(あゆちがた) 潮干(しほひ)にけらし
    鶴鳴き渡る
          高市黒人 万葉集3巻271

桜田の方へ 鶴が鳴き渡る
  年魚市潟では 潮が引いたらしい
    鶴が鳴き渡る

 地名は名古屋市あたり海岸線ですが、当時の海岸線はもはや行くえ知れずで、正確な場所は不明です。地名を利用して、おなじ事を拡大させながら二度繰り返すという、短歌の定型パターンによったもので、四句目の「潮干にけらし」によって、詠み手が見えていない年魚市潟を推し量ったことが分かります。

 すなわち、実景としては、鶴が鳴き渡って行くだけには過ぎませんから、それをその場の感慨に描いても、観察日記のような落書きが、大量生産されるには過ぎないものです。それを特別な表現へと移しかえる手段として、万葉集ではしばしば地名の読み込みがなされていますが、この作品においては、今となってはどことも分からないような地名の効果が、不思議な魅力となって、短歌に活力を与えているようです。

いとまなみの歌

志賀(しか)の海人(あま)は
  藻刈(めかり)り塩焼き いとまなみ
    櫛笥(くしげ)/くしらの小櫛(をぐし) 取りも見なくに
          石川少郎(いしかわのしょうろう) 万葉集3巻278

志賀の海女たちは
  海藻を刈り塩を焼きと 暇がないので
    化粧箱の小櫛(おぐし)さえ 取って見ようとしないよ

「藻刈り塩焼き」というのは、ホンダワラなどの海藻を刈って焼いて煮て塩を作る、製塩の様子を描いたものです。とはいっても、実際の行程は諸説あり、これは一説に過ぎませんが、そのような日常の作業に追われて、漁師の娘たちは、化粧箱の櫛さえも、取って見ることが無いと詠んでいます。

 もちろん山上憶良のように、生活への同情を詠ったものではありません。庶民の海女さんの行為に、ある種の詩興を感じて詠まれたものです。そのため旅人の口ずさむ歌のように、深刻にならない、リリシズムに委ねたような旅情が感じられ、聞き手の感興もまた、海女の生活そのものではなく、眺めている情景へと返される。それで自分も漁村にでも、旅がしたくなってくるような短歌です。心情が確定されてしまう、「夕波千鳥」などとは、異なったベクトルの、すばらしさを持っていると言えるでしょう。

田子の浦の歌

     『富士の山を望む歌の反歌』
田子(たご)の浦ゆ
   うち出でゝ見れば 真白にそ
  富士の高嶺(たかね)に 雪は降りける
          山部赤人 万葉集3巻318

田子の浦から
  うち出て見ると 真っ白に
    富士の高嶺に 雪は降っているよ

 田子の浦から、どこかへ抜け出てみると、進行方向に富士があり、そこには真っ白に雪が降っていたという内容です。別にはじめて雪に気付いた訳でもなく、「うち出て」より近いところで、はっきりと富士を眺めた時の、清新な印象を詠んだものと思われます。勅撰和歌集の地名の短歌のように、思い描いて詠んだものに過ぎないと、ののしる人もあるようですが、むしろ経験がないと詠みにくいような短歌ではないでしょうか。それだけの感想でした。

あをによし奈良の都は

あをによし 奈良のみやこは
   咲く花の にほふがごとく
      今盛りなり
          小野老(おののおゆ) 万葉集3巻328

(あをによし) 奈良の都は
   咲き誇る花の 照り映えるように
     今こそ栄えているよ

 710年に都となった平城京の、約20年後くらいの様子を詠んだものです。新しい印象はまだ消えず、都市生活も安定し、今こそ盛りを迎えている様子を、「咲く花のにほふがごとく」と詠った、共感を得やすい比喩によって、この作品は名歌を約束されたようです。咲く花は梅の花で、白梅であると思われますが、空想的な表現ですから、あえてこころに桜を描いて、楽しんでみても良いでしょう。

つばらつばらの歌

あさぢ原
   つばら/\に もの思(おも/も)へば
 古(ふ)りにし里し 思ほゆるかも
          大伴旅人 万葉集3巻333

(浅茅原)
    つくづくと もの思いに耽っていると
  古びたかつての都のことが 思われてなりません

「つばらつばら」は「つばらに」つまり「詳細に」を重ねたものですから、「よくよく」「つくづく」といった意味になります。冒頭の「あさぢ原」は「つばら」つまり「ちばら」に掛け合わせた枕詞で、もちろん浅茅の勢力の勝るイメージから、「古りに里」と結びつき、全体としてその印象を表現しているのであって、ただ「つばら」に乗っかっている訳ではありません。ですから、枕詞を取り除くと、詩としての面白みはなにもなくなってしまいます。

宴(えん)をまかる歌

     「山上憶良臣(おみ)、宴(えん)をまかる歌一首」
憶良(おくら)らは
  今はまからむ 子泣くらむ
    それその/そのかの母も 我(あ/わ)を待つらむそ
          山上憶良 万葉集3巻337

この憶良めは
   これで失礼します。子も泣いているでしょう。
 それでその子の母も、私を待っているでしょうから。

 このような作品は、日常的な短歌として、何の不自然も感じないかも知れませんが、自分の名前などを織り込んだ、私的な挨拶の短歌などは、万葉集のなかでもきわめて例外的で、ユニークな短歌になっています。日常語の挨拶を、そのまま当座に詠ったようでありながら、「まからむ」「泣くらむ」「待つらむそ」と表現の類似性によるリズムを形成し、初句の「らは」もこれに加わりますから、なかなかに様式をまっとうしていて、言われた方としても、この短歌に免じて、彼が帰るのを、許さなければならないような気になってしまいます。もちろん、そこまで計算して、あらかじめ作って置いたとしたら、相当の策士と言わなければなりません。当座の即興の体裁ですが、どことなく予作(よさく)[予め作っておくこと]の気配も籠もります。

酒を讃(ほ)むる歌

しるしなき ものを思はずは
   ひと坏(つき)の にごれる酒を
  飲むべくあるらし
          大伴旅人 万葉集3巻338

考えても仕方のない ことを思うよりは
  一杯の にごった酒を
    飲む方が良いでしょう

 あるいは山上憶良が、退散してしまったせいでしょうか。大伴旅人(おおとものたびと)はひとりで、十三首の酒を褒める歌を残しています。これはその第一首。全体が漢詩の趣向を真似たものなので、実際に飲んでいた酒が濁り酒だったかは、不明ではありますが、むしろ健康志向の現代としては「一杯、一杯、また一杯」のような李白(りはく)の精神を良しとせず、「一杯のにごった酒」と量を定めているところを、酒量をわきまえた大和の酒飲みのすすめとして、捉え直しても面白いかも知れません。もちろん、飲兵衛(のんべえ)にも通じる内容になっているのは、言うまでもありません。

 そんな大伴旅人(おおとものたびと)は、万葉集の和歌の一割以上を作詩し、編纂者とも考えられている大伴家持(おおとものやかもち)(718-785)の父親です。六十才を過ぎた、大伴旅人と山上憶良が大宰府で知り合って、和歌の活動を盛んにしたことが、あるいは後に家持を優れた歌人にする原動力になったのかも知れませんが、ここで紹介されている酒の歌などは、あるいは連作短歌の開始を告げるものとして、捉える事も出来そうです。

満誓沙弥の歌

世のなかを
  なにゝ喩(たと)えむ 朝びらき
    漕ぎ去(い)にし船の 跡なきごとし/がごと
          沙弥満誓(しゃみまんぜい) 万葉集3巻351

世の中を 何に喩えようか
  朝の港から 漕ぎ去った船の
    波跡が消えてしまうようなものか

 この歌人は、木曽路を切り開くなどの功績を称えられた貴族でしたが、出家して観世音寺(かんぜおんじ)の別当(べっとう)として大宰府に赴任していたところ、大伴家持と山上憶良を中心とする、筑紫歌壇(つくしかだん)の一員となった人物です。といっても、別にサークルが存在していた訳ではありませんから、大宰府での盛んな文芸の営みのことを、後の世の人が、勝手に筑紫歌壇と称しているには過ぎません。そのような文芸サークルを考えるならば、都にも長屋王歌壇(ながやおうかだん)など、いくつもの文芸の集いが存在していたかも知れませんが、万葉集以外の和歌の営みは、すべてが時の狭間へと消えてしまいました。そうであるならば、『万葉集』が当時の和歌の営みのすべてであるなどとは、思い込まないことが大切です。

 さて、万葉集の時代には、特に八世紀にも入りますと、仏教はかなり浸透していますが、和歌においては後の勅撰和歌集のようには、仏教的精神の作品はそれほどありませんし、僧が詠んではいても、日常的な感慨と変わらないような内容だったりするくらいです。そんな中、この作品はちょとと宗教的な、観念的な響きがしますから、なるほど仏僧らしい作品になっています。もちろん一方では、普遍的な内容には過ぎませんから、別に宗教を信じなくても、その精神を受けとめることは難しくはありません。

 もっとも、「世の中は過ぎ去った舟に跡がないようなものだ」だけでしたら、なんだか格言か説教みたいで、詩としてはちっとも面白くありませんが、三句目に挟み込まれた「朝開き」という表現が、情景への最低限度の足がかりを付けて、実際に漕ぎ去った船を、眺める海に思い描いて、情景の中で詠まれているように感じられる。そのわずかなリリシズムによって、格言ではなく詩情へと返されるのが、この短歌の手際です。

挽歌

雲隠りなむの歌

     「大津皇子、死をたまはりし時、
         磐余の池の堤(つゝみ)にして、
       涙を流して作らす歌一首」
もゝづたふ
  磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を
    今日のみ見てや 雲隠(くもが)りなむ
          大津皇子(おおつのみこ) 万葉集3巻416

(ももづたふ)
   磐余の池に 鳴いている鴨を
     今日だけは見て
   死んでいくというのか

 姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)と共に、何度も紹介しました大津皇子(おおつのみこ)(663-686)が、いよいよ謀反の罪で自害させられる時、宮のあった磐余(いわれ)の池を眺めながら詠んだ、「辞世の一首」とされますが、後世の仮託であるとも考えられます。

 池に鳴く鴨は、自らの為に泣いてくれる家族や従者を委ねたものでしょうか。もし、「泣いている皆に別れを」やら「さよならが言葉の最後」などと詠んだら、現実社会では家族なら泣いてくれるでしょうが、詩的感興はまた別の事ですから、作品として聞かされると、安っぽい感慨を述べた、下手な詩のように感じられがちです。しかし、ここではあくまでも、鴨を眺めながら、自分の方が羽ばたいて、雲へ隠れるのだろうか。と詠んだものに過ぎませんから、その心情の解釈は聞き手に委ねられ、押しつけがましくない味わいが籠もります。

 つまりは、「消えゆくわたしを見たまえ」では、家族ならうなずいて泣いてくれるでしょうが、詩として聞かされる第三者からすれば、興ざめを引き起こすようなものです。これはなにも、日本語だからということではなく、別の国語であっても、「天国へ行くぜ」などと行くと、率直すぎてアホに響きますが、「あれが天国のドアだろうか」とか「もしここにとどまれたら」などと表現すれば、英語であっても単純すぎる表明よりは、詩的に響いて来るくらいの、根本的な事柄には過ぎません。

 けれどもあまり暗示に過ぎれば、難解になって肝心な心情が損なわれますから、この短歌はそのバランスにおいて、優れたものが感じられます。「辞世の歌」の理想型のひとつであると言えるでしょう。

巻第四

相聞

 この巻はすべて、恋歌でしめられていますが、これまでの王朝撰集のようなアンソロジーの傾向が、途中から大伴家持の恋の遍歴へと移り変ってしまうところに、撰集としての不体裁と、同時に『万葉集』ならではの面白みを眺めることが出来るでしょう。

すだれ動かし秋の風吹く

     『天智天皇を思(しの)ひて作る歌』
君待つと 我(あ/わ)が恋ひ居れば
   わが宿の すだれ動かし 秋の風吹く
          額田王 万葉集4巻488

あなたを待って 恋い慕っていますと
   わたしの家の すだれを動かして
  秋の風が吹いて来るのです

 この和歌の次に収められた、鏡王女(かがみのおおきみ)の和歌が、この和歌に応えたものだとするならば、この和歌は個人的な心情表明ではなく、和歌の詠い合いのような、何らかの宮中行事の中で、公表された可能性すら出てきて、はなはだややこしいことになりそうです。まるで天智天皇をお慕いする、恋する乙女の短歌になっていますが、それは歌人としての力量に過ぎなくて、あくまでも歌人の立場で、天皇を慕ったに過ぎないという見方も可能です。

 このあたりの事情に踏み込むと、ミノス王のラビリントスから出られなくなりそうですから、ここでは素通りして、ただの恋歌と思って眺めますと、相手を待って恋い慕っていると、秋風がすだれを動かして吹いてくるという感覚は、それをカーテンにでも変えれば、

君待って 恋しくすれば
  この部屋の カーテン揺れて 秋風は吹く

と、私たちにも詠まれそうな表現になっていますが、このような日常の精神に基づきながら、何気ない一場面のうちに、情緒を導き出すようなリリシズムは、あるいはこの作品によって開始されたかと錯覚するくらい、清新な感じがします。

いつ藻の花のいつもいつも

川の上(へ/うへ)の
  いつ藻の花の いつも/\
    来ませ我が背子 時じけめやも
          吹黄刀自(ふふきのとじ) 万葉集4巻491

河のほとりの
  いつ藻の花の いつもいつも
    いらしてくださいなあなた
  都合が悪い時などありませんから

 吹黄刀自は巻第一で、「常にもがもなとこ処女にて」の和歌を詠んだ歌人です。ここでも冒頭の二句に「の」を四回繰り返すリズミカルな調子と、二三句目の「いつもの」「いつもいつも」など、発声のよろこびを生かしたような、印象深い短歌を詠んでいます。女性の表現は、日常に寄り添うせいもありますが、今日でもあまり変わらないようなモダンなセンスが感じられることが、まま見られます。この作品の表現なども、
     「川の上のいつ藻の花のいつも一緒にいようよ」
なんて冗談にささやいても、シチュエーションが合えば、不思議な魅力的な表現にもなりそうです。

伊勢の浜荻

     「碁檀越、伊勢国に行きし時、とゞまれる妻が作る歌一首」
神風(かむかぜ)の
  伊勢の浜荻(はまをぎ) 折り伏せて
    旅寝やすらむ 荒き浜辺(はまへ)に
          碁檀越(ごのだにおち)の妻 万葉集4巻500

(神風の)
   伊勢の浜荻を 折り敷いて
     旅に寝ているのだろうか
   荒れた浜辺で

 こちらは夫を思う短歌。神のおわします伊勢ではありますが、荒涼たるイメージなのは、結句の「荒き浜辺」によるものですが、荒(すさ)んだ神の気配がするのは、あるいは心配事や、愉快ではない旅であることが、にじみ出てしまったものかも知れません。もちろんただの感想です。

来じと言ふものを

来(こ)むと言ふも 来(こ)ぬ時あるを
  来じと言ふを 来むとは待たじ
    来じと言ふものを
          大伴坂上郎女 万葉集4巻527

来ようと言っても 来ない時があるのに
  来ないと言うのを 来るだろうかと思って
    待ったりはしません
  だって 来ないと言うのだから……

 心情としては、親身にも理解できますが、表現としては「来」による言葉遊びを求めたイメージが濃厚ですから、恋に煩った女性の短歌と言うよりは、それを踏まえて知的な遊びを試みた、才気とゆとりのある女性の、たわむれのような愉快さが光ります。

 それもその筈で、詠み手の大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)は、女性でもっとも万葉集に和歌を残すばかりでなく、もっとも多様な表現を身につけた、和歌の巧みでもあります。その上、彼女の作品として残されるものは、ある程度の年齢になってからのものばかりですから、真摯な心情を読んでいても、様式とのバランスを保つだけの、ベテランの味わいが光ります。

老たる恋

     『大伴百代(もゝよ)の恋歌に答ふる歌』
黒髪に
  白髪まじり 老ゆるまで
    かゝる恋には いまだ逢はなくに
          大伴坂上郎女 万葉集4巻563

黒髪に
  白髪がまじり 年を取るまで
    これほどの恋には
  逢ったことはありませんでした

 やはり大伴坂上郎女。先ほどのように、心情と知性をリズムで戯れたような作品があるかと思えば、こちらは真心の短歌になっています。ただし、老いたとは詠っても、お婆さんを想像するのは間違いですが、心情としてはもう人生の終末を控えるほどの歳月を、生きぬいて経験も豊富であるはずの今頃、どうしてこれほどの恋をするのかという、驚きとも、よろこびとも、遅すぎるという諦めとも、もう少し若ければという悲しみとも、それでも押さえきれない恋心とも知れない心情が、混じり合ったように、結句に掛かるように思われます。真摯な秀作です。

ねもころ歌

     『大伴旅人に仕える余明軍、大伴家持に与ふる歌』
あしひきの
  山に生ひたる 菅(すが)の根(ね)の
    ねもころ見まく 欲しき君かも
          余明軍(よのみょうぐん) 万葉集4巻580

(あしひきの)
   山に生えている 菅の根のように
  ねんごろに見たいと 思うあなたです

 菅の根というのは、複雑旺盛にはびこり、がんじがらめに沢を絡め取るような生き様ですから、それを「ねもころ」つまり「ねんごろ」の序詞とするのは、まるで手を八方に伸ばして、君を絡め取るように眺めていたいような、ちょっとねちっこい印象で、なるほどそれも、愛情の真の姿には他なりません。

 とはいえ、送られた相手は大伴家持ですから、父親の従者が、その息子に、恋人に見立てた短歌を詠んだものに過ぎません。このように、同姓にせよ、上司にせよ、天皇にせよ、家族にせよ、恋人に見立てて和歌を詠む伝統があるからこそ、万葉集の和歌をもって、歴史的事実を読み取ろうとすることは、はなはだしい誤謬(ごびゅう)へと足を踏み外す恐れを、大いに秘めていることを、覚えておいてくださったらと思います。

 それにしても、この短歌の魅力は、「ねもころ見まく」という「ねんねこ」だか「ねんころよ」だか、まるで子供をあやす時のような気配のする、親しみのこもった四句目にあるように思われます。その独特な表現がこころに引っかかって、なんども唱えてみるうちに、なんだか分からない、忘れがたい短歌になってしまった。というのでは、ほとんど作品解説にすらなっていないと怒られそうですが、理性的に解釈出来ないような事柄も、詩の世界には潜んでいるものであると言い逃れて、今はわたしの感性に従って、ねもころにまとめておくのも悪くはありません。

笠郎女、家持に贈る歌

君に恋ひ いたもすべなみ
  奈良山の 小松がもとに/したに
    立ち嘆くかも
          笠郎女(かさのいらつめ) 万葉集4巻593

あなたが恋しくて どうしようもなくて
  奈良山の 小松のところに
    たたずんで嘆いているのです

 笠郎女(かさのいらつめ)は、熱烈な恋の歌で知られる女性で、よりによって万葉集の編者とされる大伴家持に短歌を贈ってしまったばかりに、今日まで作品が残されることになりました。あるいは本人にとっては、墓の下、迷惑な話かも知れませんが、私たちにとっては幸運だと感じるくらいの、優れた作品を残す歌人です。

 この短歌もなかなかに大きな心情で、家にあってあなたの事を考えていると、どうにも遣り切れなくなって、ついには表に出て、あちこちと歩き回ったような気配がします。ようやく小松のところで立ち尽くして、嘆いているのは、松に待つを掛けて、相手を偲ぶためでしょうか。それとも願掛けの松のような、特別の松だからでしょうか。それとも、相手との思い出でもあったのでしょうか。ただの小松でも詩情は生きるでしょうが、それを「奈良山の」と定めたところに、何か特別な思い入れのある松のような効果が生まれ、あれこれと思ひ量りたくなる。三句目の生きた短歌になっています。

八百日(やほか)行く 浜の真砂(まなご)も
   我(あ/わ)が恋に あにまさらじか
      沖つ島守(しまもり)
          笠郎女(かさのいらつめ) 万葉集4巻596

八百日を歩くほどの 浜の砂を集めても
  わたしの恋には きっとまさらないでしょうよ
    聞いていますか
      沖で眺めている島守さん

 浜辺の砂の数だけでも、千代を言祝いだ和歌は、後に多く詠まれるものを、「八百日を行く」ほどの長大な浜辺など、この世にあろう筈はありません。砂浜だけに一日20kmくらいしか歩けないとしても、16,000kmになってしまいます。安易に、砂の量に喩えられると、嘘くさく思われることもありますが、ここまで壮大な虚偽で攻め立てられると、かえって中途半端な嘘くささが抜け落ちて、ありったけの思いを表明したように響くのは、ある種の心理的なトリックでしょうか。かえって「ホトトギスが咲く」ような中途半端な虚偽が、もっとも嘘っぽく聞こえるようです。

 結句は、情熱とは距離を置いた観察者のような相手に対して、「沖つ島守よ」と投げかけて閉ざしますから、詠み手の思いにどう対処するにせよ、聞き手の方が解釈しなければならない気分にさせられます。私たちは鑑賞者ですから構いませんが、当事者として受け取った相手は、何らかのリアクションを、迫られそうな短歌です。

 一方では、砂の量を「八百日を行く」と定めるのも、その砂とは距離を置く相手を「沖つ島守」と呼びかけるのも、見立てであり、全体の浜の印象は揺るぎませんし、情景と心情を対比させ、語りかけて閉ざす方針も、知性で練り上げた印象が籠もり、しかもそれが生かされていますから、あふれ出る心情とそれを統制する知性、様式としての短歌表現のレベルが、高いところで結ばれた、すぐれた作品になっているようです。

思ふにし/ひにし
   死にするものに あらませば
  千度(ちたび)そ我(あれ/われ)は 死に反らまし
          笠郎女 万葉集4巻603

恋しさが
   死ぬべきもので あるならば
 千回でもわたしは 死を繰り返す事でしょう

 巻第十一の「柿本人麻呂歌集」に収められた作品として、

恋するに
  死にするものに あらませば
    我が身は千たび 死に反らまし
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集11巻2390

という作品があり、それを元にして詠みなしたものと思われます。今日の感覚なら、盗作かと騒ぐ人もあるかも知れませんが、当時の価値基準は、また違ったものだと言えるでしょう。それにしても、言葉の共通項が多い二つの作品で、決定的に違うことは、冒頭の意図するところです。「柿本人麻呂歌集」のものは、「恋をするということが」と普遍的な表現で開始しますから、個人に向けられた激しい心情であると共に、聞き手としての不特定多数にも訴えるような、わずかに客観性を持たせた表現になっています。

 それに対して、笠郎女の方は「思うことが」と、当事者同士で、詠まれるべき内容の前提は分かりきっているような、開始を告げますから、相手だけに語りかけたような印象が強くなります。それで、愛するあなたへの心情表明としては、よりストレートに、相手に訴えかけるものとなっています。

 その結果、何が起こるかというと、「恋するに」の方を聞かされると、ちょっと芝居の台詞でも聞かされるような、詩的表現を鑑賞するだけのゆとりが、聞き手の方にも生まれてきますが、逆に笠郎女の方を聞かされると、愛する人への個人的なラブレターを、つい垣間見てしまったような、「どきり」とさせられるような心情の共有が、私たちの心に兆します。

 二つの作品の類似性については、送り主が大伴家持であるということが、大きな意味を持っているかと思われます。なぜなら、万葉集の編纂者と目されるほどの、和歌通の彼であれば、当然「柿本人麻呂歌集」の和歌などは、よく知っている筈です。それで、この歌集が広く知れ渡っていたのか、それとも家持の方から、笠郎女に紹介したのか、そんなことは分かりっこありませんが、よく知られた短歌を、自分ならこのように詠みます、という意味を込めて、家持に贈ったものではないでしょうか。

 ちなみにそれ以外の和歌においても、現存資料は存在しませんが、例えば先ほどの「八百日行く」や、やはり知られた短歌である「大寺の餓鬼(がき)のしりへ」なども、あるいは本歌(もとうた)が存在していて、そのフレーズを利用したのではないか。初めから思いついたものとしては、あまりにもイマジネーションが飛躍していますから、もし何の下地もなく生みなしたとしたら、かえって恐ろしいくらいの才女です。

山口女王、家持に贈る歌

葦辺(あしへ)より
  満ち来る潮の いや増しに
    思へか君が 忘れかねつる
          山口女王(やまぐちのおおきみ) 万葉集4巻617

葦辺から
  満ちてくる潮の ますます増さるように
    思うからかあなたが どうしても忘れられません

 初めの二句が「いや増し」に掛かる序詞で、次第に思い増さる印象を情景に委ねたものになっています。これによって、「ますますあなたを思うせいで忘れられません」なんて、今どき詩にすらなっていないような、取るに取らないはずの感慨が、かけがえのない詩になっているばかりか、なかなかに忘れられないような作品にもなってしまう。つまり序詞こそが詩的表現のかなめであることを、分かっていただけたら、あるいは私たちにも、現代詩においてもあまり見られない、ユニークな作品も生み出せるものかも知れません。

 つまりは過去は、今から自由になるための、精神的な武器庫でもあるのですが、不思議なことに過去を学びはじめると、今度は過去に囚われて、ニセ万葉集のような作品を、したり顔で生みなしたり、模倣にすらなっていない表現を、中途半端に取り込んだりして、変な表現へと陥ってしまう。すると今度は、ろくに過去を知らない周りから、拍手喝采など贈られて、ついには名歌などと持ち上げられて、おお威張りしているような黄昏時です。そんなものは、詩でもなんでもないのですけれども……

中臣郎女、家持に贈る歌

をみなへし
  佐紀沢(さきさは)に生ふる 花かつみ
    かつても知らぬ 恋もするかも
          中臣郎女(なかとみのいらつめ) 万葉集4巻675

(をみなへし)
   佐紀沢に生える 花がつみでもありませんが
     わずかほども知らなかった
   恋をしているのです

 この作品などは、初めのうちは、むしろピントの定まらない短歌かと思われます。「花かつみ」は不明。あるいは花ショウブ、花アヤメなどかともされますが、なにしろ、万葉集ではこの短歌にしか登場しませんから、なかなか将来も、結論は出そうにありません。

 それはさておき、現代語の表現にある程度の感性があり、自らの意見もあるくらいの人ならば、かえって枕詞として登場する冒頭の「をみなへし」が「花かつみ」と競合して、ピンぼけ写真のように思える人もあるかも知れません。しかも、もし花ショウブ、花アヤメの類(たぐい)であるならば、季節さえバラバラになりますから、万葉集らしい無頓着さで、一方を枕詞として済ませているような、表現のルーズさについて行けず、下手な和歌だと信じる方も、あるのも当然かと思います。さらに、上の句の序詞が、ただ「かつみ」と「かつても」のゴロだけで結びついていると教えられれば、なおさら興ざめを引き起こします。

 けれども、あるいはそれは、そのように教える方にこそ、問題があるのではないでしょうか。なにしろ、安っぽい憤慨などは取っ払って、こころをまっさらに、何度も唱え直してみると、ばらばらな印象は、読み取りが浅いせいであることが、次第に分かってきます。

 実はこの上の句と似た表現は、巻第十一の1905番にもあるのですが、
     「をみなへし佐紀野に生ふる白つつじ」
とやはり、わざと「をみなへし」の秋とは季節を違え、「白つつじ」を提示しておいて、さらには「知らない」ということを導きます。紐解けば簡単な話で、「をみなへしの咲く沢」「をみなへしの咲く野」であることを、「花かつみ」や「白つつじ」は知らないと言っているには過ぎません。そうして、この和歌においては、そのように絶対的に知らなかったような恋を、今しているのですとまとめている訳です。

 つまり上の句は、ただ「かつ」だけでつながっている序詞どころではありません。「かつても知らぬ」という内容を、情景的に喩えた、訴えるべき恋心を確定するための、必要不可欠な表現になっていて、その上で「花かつみ」と「かつても」によって、言葉のリズムによっても、結びついているに過ぎません。接続としての言葉の韻も、比喩としての内容も、双方が合わさってはじめて、ひとつの序詞として機能しているのであって、もしそれを「かつても」に言葉で掛かる序詞などと説明するとしたら、それは和歌を駄洒落めいたものへと貶めて、軽蔑させるためにこそ、暴言を吐いているようなものではないでしょうか。明治維新のご時世ならまだしも、二十一世紀にもなって、その体たらくを継承したのでは、あまりにもふがいなさ過ぎです。

 ついでに「をみなへし佐紀」というのも、もとは「咲く」だけでつなぎ合わされた枕詞などではないかと思われます。実際にそこでを女郎花が盛んに咲くから、そこが佐紀沢とか佐紀野とか命名された、くらいのなんらかの深い繋がりがあって、はじめて枕詞として掲げられているのではないでしょうか。ただゴロを合わせるだけなら、万葉集の語彙だけでも、様々なことが可能であろうに、実際に使用されるものは、きわめて限定的であることから、ただ「咲き」繋がりですといった説明は、解説にすらなっていないように思われてなりません。
 ただ、それくらいの愚痴には過ぎませんでした。

紀郎女、家持に贈る歌

玉の緒を
   あは緒に縒(よ)りて 結べらば
 ありて後にも 逢はざらめやも/ずあらめやも
          紀郎女(きのいらつめ) 万葉集4巻763

玉の緒を
  沫緒(あわお)縒りにして 結んだならば
    ことがあった後でもまた
  逢えないことがあるでしょうか

 先ほどの和歌も、「花かつみ」の正体が分かれば、さらに魅力的な和歌になることが惜しまれますが、この作品もまた、二句目の「あは緒に縒りて」という、短歌の心臓部がどのような結び方かはっきりせず、歳月にむしばまれた真意が惜しまれます。ただ四句目の「ありて後にも」という言葉が、逢った後ならもちろん「逢ひて後にも」と詠むでしょうし、「ありて」というのがきわめて大きな括りですから、例えば恋が果てた後とか、いのちが果てた後のような、包括的な表現であるようには感じられます。

 一応ここでは、同時に贈られたもう一首の短歌や、大伴家持のお世辞にもうまいとは言えない返歌などから類推して、もし玉の緒を「沫緒縒り」という結び方で結んだならば、あなたを受け入れて、ことがあった後でもまた、さらに逢い続けることが出来るものでしょうかと、期待とも希望とも夢ともまぼろしとも付かないような、とりとめもない願いを込めたものと、解釈しておくことにしましょう。

巻第五

雑歌

 巻第五の「雑歌」は名目に過ぎません。この巻は特殊な巻で、山上憶良と大伴旅人の漢文と和歌の融合の試みのような、際だって漢文の多い一巻を形成します。特に山上憶良という人物がクローズアップされ、和歌を含まない、長篇の漢文まで収められているという、変わった巻になっていますが、それだけに魅力もこもります。

凶問(きょうもん)に答える歌

世の中は
  空しきものと 知る時し
    いよゝます/\ 悲しかりけり
          大伴旅人 万葉集5巻793

この世に居るのは
   空しい事に過ぎないと 知ったときこそ
 いよいよますます 悲しい気持ちにさせられます

 巻頭を飾るこの短歌は、大伴旅人のもっとも知られた短歌ですが、この作品からしてすでに、詞書とは別に、漢文による序文が加えられています。凶問は、凶事の知らせで、誰かの死亡通知かと思われますが、大伴旅人はすでに六十代半ば、大宰府の長官として北九州に赴任していました。

 あるいは任地で受け取った凶報に対して、みやこへ返した和歌でしょうか、短歌だけを詠むと、「ますます悲しかりけり」などと、ちょっとセンチメンタルが過ぎるようにも感じられますが、実際は格式張った漢文があって、その後に添えられたものでありますから、全体のバランスは保たれています。もっとも、この短歌がよく知られているのは、そのセンチメンタルに身を委ねたようなところが、現代人後のみであるせいかと思われますが、「世の中は空しいもの」というのは仏教からもたらされた観念で、むしろ当時としては、短歌に清新な響きがしたかも知れません。そうは言っても、やはりメランコリックな気質です。

子らを思ふ歌の反歌

しろかねも
  くがねも玉も なにせむに
    まされる宝 子にしかめやも
          山上憶良 万葉集5巻803

銀(しろがね)も金(こがね)も玉も なにほどの事か
   よりすばらしい宝である
      子どもには及ぶべくもない

 山上憶良が、渡来系の人であるというのは、一説には過ぎませんが、遣唐使として大陸に派遣された、漢文の巧みであったことは疑いありません。また『類聚歌林(るいじゅうかりん)』という和歌の書を編纂したとされ、これは現在では失われてしまいましたが、万葉集にもこれを参照したことが、注意書きに記されている所があるくらいです。そんな山上憶良と、大宰府へ赴任した大伴旅人が出会うことによって、後に筑紫歌壇(つくしかだん)と呼ばれるような、文芸活動の営みが、北九州で行なわれることになりました。それを記念する訳でもありませんが、『万葉集』の巻第五は、二人のための、特に後半は山上憶良のための、特別な巻になっているという訳です。

 とりわけ漢文が得意な山上憶良の活躍によって、この巻は他の巻にない、漢文と漢詩、および和歌の融合という、特別な作品が並べられていますが、この短歌もまた、漢文の序文から長歌へと移り、最後に添えられた反歌になっています。そうしてそれぞれの特性を生かして、序文では説法的に、長歌では一転して心情の吐露をしたような、大和的なスタイルによって、そして最後のこの反歌は、心情と教義を融合させた格言風に、子に対する思いを詠っている。

 それでこの反歌ですが、これだけですと情よりも、観念的な表明をしたまでのように聞こえますが、実際は長歌と結ばれることにより、情と観念のバランスが保たれているようです。

梅の宴

春されば
  まづ咲くやどの 梅の花
    ひとり見つゝや 春日(はるひ)暮らさむ
          山上憶良 万葉集5巻818

春になれば
  まず咲く我が家の 梅の花を
    一人で眺めながら 春の日を暮らすものか

わが園(その)に 梅の花散る
  ひさかたの 天(あめ)より雪の
    流れ来るかも
          大伴旅人 万葉集5巻822

わたしの園に 梅の花が散るよ
  (ひさかたの) 天から雪が
     流れて来るように

  内容は良いでしょう。
 序文は山上憶良と思われ、実行者はもちろん大宰帥(だざいのそち)として人々を掌握する大伴旅人。思いついたのはどちらか知りませんが、漢詩にある観梅の詩などに触発されて、大陸由来のまだ目新しい白梅を、愛(め)で楽しむ宴が催されました。歌われたのは三十二首で、後から加えられた短歌もありますから、別々の人が詠んだ、同一機会の短歌群として、万葉集のなかでも異例の膨大を誇ります。

 そんな知られた宴ですが、実際に短歌を眺めてみると、おやと首を傾げる方もあるかも知れません。あまりにも類型的な短歌が、イマジネーションの枯渇(こかつ)よろしく並べられていて、ある意味でもっとも取るにたらない部分を形成しているのではないか、そんな疑惑すら、湧いてくるのが実情です。

 もちろんこれには、和歌の巧みでもある貴族たちが、取って置きの短歌を用意して、事にあたるような都での宴とは異なり、しょせんは大宰府の役人たちが、動員されたには過ぎないという、皮肉な見方も出来るでしょうが、また一連の梅の歌を眺めていて湧いてくる疑惑として、誰かの歌にもとずいて、別の誰かが詠んでいるのではないか。それで、類型的な短歌が、並べられる事になったのではないか。直感的に、そう感じる人も、結構いるのではないでしょうか。

 調べてみますと、ちゃんと説として存在しているようで、この和歌群は、誰かが詠んだ和歌にもとずいて、はじめて次の人が新しい和歌を詠むという、宴の座興に基づいているというのです。万葉集の短歌というと、即座に詠まれたものが並べられているように、初学のうちは錯覚しがちですが、なかなかどうして、無名氏の作品や東歌でさえも、書き記されない口頭であれ、推敲された詩的表現として、結晶化された作品が収められているようです。あるいは中臣鎌足の「安見児得(やすみこえ)たり」の短歌は、純即興かも知れませんが、むしろ例外と言えるくらいのもの。

 そのような訳で、比較的即興に近い、その場のひらめきに委ねたような短歌が並べられているとするならば、この「梅の宴」の短歌群には、作品の価値はともかくとして、当時の日常的な短歌表現の、常態を眺めることが可能になりますから、また別の面白みも湧いてきます。またこれがもし、定められた順番ではなく、早い者勝ちのような原理に基づいていたとしたら、猶更面白くて、後の連歌(れんが)の走りのような意味合いさえ、ここには込められている事にもなりかねません。

 もちろん妄想に過ぎませんが、そう思って眺めると、作品としてはつまらないはずの短歌を詠んでいても、別の面白さへの感心が契機となって、なんだか愉快に詠めてしまう。愉快に詠めてしまうと言うことは、作品への感心が生まれたと言うことで、感心が生まれたと言うことは、少なくとも塵芥(ちりあくた)ではなく、取るべき作品であると、認識したと云うことにもなりますから、なるほど閉ざされた詩の外側のことは、確かにその評価に作用しますし、詠まれた状況が、その価値を変化させることがあるという事実の、良い見本にもなっているようです。

 けれどもまた、それだけ捉え直したとしても、個々の短歌を吟味したときの評価が、ちっとも変わらないものならば、一方では閉ざされた詩としての価値というものも、疑いなく存在するのだと、信念を新たにも出来るでしょう。そのような、作品を離れて、詩の読み取り方に思いを馳せながら眺めると、それはそれでまた、面白いものが見えてくる。それはそうとして……

 もしかしたらこのような宴は、しばしば開かれていたもので、ここでは山上憶良が序文を記したために、運良く『万葉集』に残されたには過ぎないのでしょうか。あるいはまた、後に命名される筑紫歌壇(つくしかだん)なるものは幻に過ぎず、大伴旅人と山上憶良の二人芝居に過ぎなくて、他の歌人たちは、この六十過ぎの爺さんに付き合わされて、
     「やれやれ、またあの二人が良からぬことを考えているよ」
     「短歌なんか詠ってられるかっての」
と接待サラリーマンの悲しみを、陰口に控えていたのでしょうか。そんな邪推さえ、浮かんで来ますから、なおさら面白く感じられます。

松浦川に遊ぶ歌より

     『松浦川に遊ぶ歌より』
松浦(まつら)なる
   玉島川(たましまがは)に 鮎釣ると
 立たせる子らが 家道知(いへぢし)らずも
          (筑紫歌壇制作) 万葉集5巻856

松浦の
   玉島川に 鮎を釣ろうと
 立っている娘たちの 家路は知らないけれど

 筑紫歌壇などという名目的な言葉を使っていると、自分がそれに取り付かれて、筑紫歌壇なるものが存在していたかのように錯覚し始めるので、注意が必要ですが、制作者が断定されていないこの短歌に、仮に使用する名称であれば、とがめ立てするほどの事もないかも知れません。

 作品の内容は、松浦川(まつらがわ)で観光をしていると、鮎を釣る娘さんたちに出くわしたので、「わお」となって和歌を贈ると、娘さん達も応えてくれるというものです。その精神は、漢詩集である『文選(もんぜん)』や、漢籍の流行小説『遊仙窟(ゆうせんくつ)』から、着想を頂いたものと考えられています。

 川の場所は「松浦川に遊ぶ」とはなっていますが、現在の佐賀県唐津湾に流れ込む松浦川(まつうらがわ)ではなく、この短歌にあるように、すぐ近くにある玉島川(たましまがわ)の方であるとされ、初めの二句で、地名からスポットを定めていくという、定番のスタイルに乗っ取っています。

あえて私懐を述べる歌より

     「あへて私懐(しくわい)を述ぶる歌」
あまざかる
  鄙(ひな)に五年(いつとせ) 住まひつゝ
    みやこの手振り 忘らへにけり
          山上憶良 万葉集5巻880

(あまざかる)
  田舎の地方に 五年も住み続け
    みやこの仕草も 忘れてしまいました

 山上憶良は、726年に筑前国(ちくぜんのくに)[福岡県北西部]の国守に任命され、北九州に赴きました。それがきっかけで、大宰府に赴任してきた大伴旅人との文芸が華やぐ事になります。有力貴族の挫折なら、複雑な感情もありそうですが、遣唐使に派遣され、そのおかげもあってか、従五位下(じゅごいのげ)を授かり、事実上の貴族の仲間入りとなり、国守にまで選ばれれば、うらやましがる人も多かったかと思いますが、本人は陽よりも陰に生きるべき人であったようで、この短歌も軽いユーモアと言うよりは、「こんな田舎に住まわせおってからに」みたいな老人の恨みが、見え隠れするように思われます。

貧窮問答歌(びんぐうもんどうか)より短歌

世の中を
  憂(う)しと恥(やさ)しと 思へども
    飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
          山上憶良 万葉集5巻893

世の中は
   辛いもの 恥ずべきものと 思うけれど
 飛びされないもの 鳥ではないから

 悲惨な下層役人クラスが不平を託つ前半と、それ以上にみじめな、下層の民の生活を思い描く後半とに分かれた長歌は、万葉集のなかでも、日本の詩文の中でも、むしろ異色の存在かと思われ、切磋琢磨した独自の表現を模索(もさく)した、意欲の伺える作品になっています。しかし、口ずさむ秀歌としては長すぎるものですから、ここでは短歌のみを掲載。

 反歌はもちろん、長歌のような状況を踏まえて、それでも飛び去ることは叶わない、鳥ではないのだから、とまとめたものです。「鳥のように羽ばたけたら」と詠んだ方が、ロマンチックな気配がして、私たちには馴染みやすいかも知れませんが、それだと現実を着々と詠みつづった、長歌の精神から離れてしまいます。どうにもならないまま、閉ざされるしかなかったというのが、苦々しいような、この反歌の正体です。

巻第六

雑歌

 実際は巻第五もそうなのですが、もはや巻頭の三大ジャンルは捨てて、すべてを雑歌のもとに、巻第三、四の次の時代のものを掲載していると思われます。特徴は、笠金村(かさのかなむら)、山部赤人(やまべのあかひと)らの長歌を紹介しつつ、さまざまな短歌も紹介しているような所でしょうか。

吉野の秋津宮(あきづのみや)の歌より

     『吉野の離宮(とつみや)にいでませる時の歌の反歌』
山高(やまたか/だか)み
   白木綿花(しらふゆばな/はな)に 落ちたぎつ
 滝の河内(かふち)は 見れど飽かぬかも
          笠金村(かさのかなむら) 万葉集6巻909

山が高いので
  白木綿(しらゆう)の花みたいに たぎり落ちる
    滝で知られた河内は どれほど見ても飽きない

 柿本人麻呂の反歌には、長歌との関連が認められ、単独の短歌として楽しめる場合でも、全体の和歌としての表現の必然性が強かったのですが、この巻に収められている、笠金村、山部赤人といった歌人の「長歌と反歌」には、はたして長歌は必要なのか、あるいは長歌は反歌を導くための、序に過ぎないのではないか。長歌と短歌の相互関係に、強い関連を持たないものが、目に付くような傾向です。そのため、短歌だけを抜き出しても、鑑賞にあまり影響がないばかりか、かえってやぼったさが抜け落ちて、すっきりしたような印象さえ受けるのは、私だけではないと思われます。

 滝の河内(こうち)とあるのは、奈良県吉野郡吉野町宮滝(みやたき)にあった吉野離宮あたりにある、吉野川の一地点です。滝と言っても、落差のある滝ではなく、短歌にもあるように水が「落ちたぎつ」、つまり激しく流れ落ちる様子を、「滝の河内」と呼んだものに過ぎません。

 白木綿花(しらゆうばな)は、コウゾから作られた白布を、花にたとえた表現とも、実際にそのような造花があったともされますが、「そのように」といった比喩にはせず、「白木綿花に落ちたぎつ」と言い切って、山の高いところから、既成事実のように下句へと流したところが、言葉で流れを表現する訳でもありませんが、一気呵成な勢いを感じさせ、結句の取りまとめを、私たちもまた眺めてみたいような、魅力的なものへと高めています。

鶴(たづ)鳴き渡るの歌より

     『紀伊国(きのくに)にいでませる時の歌の反歌』
若の浦に
  潮満ち来れば 潟(かた)をなみ
    葦辺(あしへ)をさして 鶴(たづ)鳴き渡る
          山部赤人 万葉集6巻919

若の浦に
  潮が満ちてくれば 干潟がないので
    葦辺をめざして 鶴が鳴き渡るよ

「和歌浦(わかのうら)」は、和歌山県北部の海岸沿いで、潮が満ちて、干潟が無くなって鶴が鳴き渡って行く。巻第三で紹介した高市黒人の「桜田へ鶴鳴き渡る」と似た着想ですが、あちらは推量にゆだねたのに対して、こちらは実景を眺めての短歌で、それぞれ違った面白みがあります。柿本人麻呂などは心情や象徴が背後に潜んでいる場合も多く、視覚情報をありのままに描き出すような叙情性としては、むしろ山部赤人こそ、写生(しゃせい)という精神には近い歌人かも知れません。

千鳥しば鳴くの歌より反歌二首

み吉野の
  象山(さきやま)の際(ま)の 木末(こぬれ)には
    こゝだも騒(さわ)く 鳥の声かも
          山部赤人 万葉集6巻924

み吉野の
  象山の谷間の 梢(こずえ)には
    これほど鳴き騒ぐ 鳥の声がします

ぬばたまの
   夜の更けゆけば 久木(ひさぎ/ひさき)生ふる
 清き川原に 千鳥しば鳴く
          山部赤人 万葉集6巻925

(ぬばたまの)
   夜が更けてゆけば 久木(ひさぎ)の生える
     清らかな川原に 千鳥がしきりに鳴いている

 こちらも、吉野離宮近くの吉野川を呼んだ、長歌に添えられた反歌二首。春も秋も美しい吉野の宮には、みやこ人達が、流れの絶えることなく通ってくるよ。とまとめた長歌に対して、その賑やかな都人の印象をそのままに、こずえに鳥を騒がせたものが一首目。それを夜に移しかえて、人気の消えた川原に、久木が生えて千鳥が鳴いているというのが二首目です。

 特に二首目には、月明かりの気配のこもる、精神的な闇をまったく感じさせない、聖なる夜の幻想のようなものが感じられ、そうして千鳥がしきりに鳴いているくせに、どことなく静寂の気配がします。短歌だけを捉えるならば、なるほど勅撰和歌集時代の歌人たちが、柿本人麻呂と山部赤人を、並べて歌聖(かせい)と呼んだのも、無理のないことかと思われます。決して柿本人麻呂の二番手の立場に甘んじてはいません。

恋忘れ貝

     『みやこに向かふ海路(うみつぢ)にして、
        貝を見て作る歌一首』
我が背子に 恋ふれば苦し
    いとまあらば
  拾ひてゆかむ 恋忘れ貝
          大伴坂上郎女 万葉集6巻964

愛する人への 恋しさが苦しいから
  暇があったら 拾って行こうかしら
    恋を忘れるという貝殻を

 大伴坂上郎女は、大伴旅人の異母妹にあたり、旅人の母親が亡くなってからは、何かと大伴家持の面倒を見てくれた女性でもあります。そればかりか、家持の妻は、彼女の娘です。そんな、大伴家の「愉快な仲間たち」が集う『万葉集』を眺めていて思うのは、はたしてこれが、彼らだけの特別な行為だったのだろうかと云うことで、もしこのような和歌の営みが、都や地方のいたる処でなされていたとしたら、いったいどれほどの『万葉集』と同じような歌集が、サークルごとに生まれ得たかということです。もし『万葉集』が運良く残されなかったなら、当時の和歌の営みは、ほとんど消え失せてしまうことを考えれば、砂粒さらさらと海へ返されたあまた秀歌の存在が、無念の彼岸に打ち寄せます。

 恋忘れ貝は、二枚貝の片割れとも、二枚貝のように見えながら、ぴったりと合う貝殻など存在しない、一枚貝のアワビともされますが、旅の記念に貝殻を拾うくらいの気持ちで、「暇があったら拾って行きましょう」という冗談が、軽みのあるユーモアとして響きます。両思いの恋人などに、ちょっといたずら心で贈りたいような短歌になっています。深刻でないと云うことは、本来は詩として、深刻であることよりも、上位に来るものかも知れません。

沈痾(ちんあ)の時の歌

をのこやも 空しくあるべき
   万代(よろづよ)に 語り継ぐ/継くべき 名は立てずして
          山上憶良 万葉集6巻978

男であれば 空しく終えてよいものか
  いつの世までも 語り継がれるべき 名を立てないままで

 死を控えるべき年齢の憶良には、そんな軽妙は見られません。もっとなすべき事があったはずだという、絶望とも後悔ともまた違う、夢の残骸を拾い集めるような心情が、あきらめきれずにくすぶっているようです。しかし語調の強さからは、むしろこれからでも何かを成し遂げそうな、芯の強さが感じられます。

 そうは言っても、やりきれなさのようなものが籠もるのは、あるいは詠まれた状況を知っている、シチュエーションによる作用でしょうか、それとも表現自体に、そのような気配を醸し出す、何かが存在するのでしょうか。試しに唱えて見ましたが、答えは分かりませんでした。

三日月の眉

振り放(さ)けて 三日月見れば
  ひと目見し 人の眉引(まよび)き 思ほゆるかも
          大伴家持 万葉集6巻994

振り仰いで 三日月を見れば
  ひと目見た あの人の眉毛のさまが
    こころに浮かんで来るよ

 まだ十代の大伴家持の作品で、事実上、歌人としてのデビュー作と言っても、構わないかも知れません。別にそれで取り上げた訳でもなく、「三日月を見ているとあの人の眉毛が思われる」なら、ありきたりの着想ですが、「振り仰いで三日月を見れば」としますと、視線を移した瞬間の清新な印象のうちに、三日月が飛び込んできますから効果的です。

 それではなぜ、急に振り仰いだかと考えると、下の句で「あの人の眉が思われる」と詠っていますから、今まで相手のことを思っていて、例えば下を向いて逡巡していたのを、ふと我にかえって遠くを仰ぎ見れば、三日月が飛び込んできて、するとたちまち、それが彼女の眉毛に思われたという、心情の変遷が、見事にまとめられています。

 しかも効果的なのは、三句目の「ひと目見し」で、一目惚れなどというものは、相手を熟視して、全体を眺め回して、好きだと判断するのとは正反対で、相手の特徴的な何かに引かれて、フィーリング任せにときめき出してしまうものですから、つまりは彼女の第一印象が、その眉毛のあたりにあって、だからこそ、ふと見上げた時に、三日月と彼女の表情がたちまち結びついて、鮮やかに蘇ってくる。するとますます彼女のことが、忘れがたくなってしまう。その瞬間の心の動きを、よく捉えているからこそ、秀歌として取り上げたには過ぎません。

 しかもこれが十六歳の作品だと言いますから、十代の頃は短歌など毛嫌いしていたような時乃某(なにがし)とは、大いに能力に差があるように思われます。

               (つゞく)

2016/08/14

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