万葉秀歌集 解説版その一

[Topへ]

万葉秀歌集 解説版その一

巻第一

『万葉集』の原形は、巻第一、巻第二でひとつのまとまりだったようで、巻第一に「雑歌(ぞうか)」、巻第二に「相聞(そうもん)」「挽歌(ばんか)」を納めます。この三つが、万葉集の三大ジャンルで、「雑歌」はその他の歌ではなく、「もろもろの歌」くらいに捉えればよいかと思いますが、特に巻第一では、宮廷の公的行事や宴の和歌が多く納められています。これに対して「相聞」は、つまりは恋歌のジャンルで、「挽歌」は死者の追悼歌になります。

雑歌

雄略天皇の巻頭歌

籠(こ)もよ み籠もち
   ふくしもよ みぶくし持ち
 この岡に 菜摘ます子
    家聞(き)かな/家告(の)らせ 名告(の)らさね
  そらみつ 大和の国は
     おしなべて 我(われ)こそをれ
   しきなべて 我こそいませ/ませ
      我こそば/は 告(の)らめ 家をも名をも
          雄略天皇(ゆうりゃくてんのう) 万葉集1巻1

籠(かご)は よい籠を持ち
   菜摘のへらも よいへらを持ち
 この岡で 菜を摘まれている娘子(むすめ)よ
    家を訪ねよう 名を告げて欲しい
  (そらみつ) この大和の国は
      押し伏せて 私が治める国
    均しく 私が治める国
       私こそは 告げよう 家柄をも名をも

  万葉集全二十巻の開始を告げる巻頭歌です。
 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は5世紀中頃に即位したとされる天皇ですが、武を持って国を治め、和歌を詠う文芸の王として、和歌集のトップを飾っているようです。籠(こ)はカゴのことで、「ふくし」はシャベルのようなものですから、カゴとヘラで菜摘をする娘に近づきながら、確認するように繰り返しを込めた導入で、
     三文字⇒四文字⇒五文字⇒六文字
と詩を導入し、安定した五文字の繰り返しに至るという構成で、娘さんの名称を尋ねます。

 当時、女性の名前を尋ねることは、求婚を意味しましたから、続く後半部分では、あらためて男性の方から、自らを明らかにするという、手続きに乗っ取って詩が形成されているものと思われます。ただ、その求婚者が天皇であるところから、「この国はあまねく私が治める国である」と宣言することによって、名前など必要なく、「私から告げよう家も名も」という結句の意を果たしたことになる。それは同時に、「この国も、この国の女であるお前もまた」わたしの所属である、という力強い宣言にも他なりませんから、歌の下手なアイドルくらいで、悲鳴をあげるような女性であれば、コロリと遣られたには違いありません。そう思わせるような堂々たる強制力が、この和歌の魅力でしょう。

 ただし、庶民の娘にしては、「名告らさね」などの敬語表現が不自然ですから、もう少し身分のある女性を、菜摘ます児に見立てたともされています。すると天皇の肩書きぐらいで、やすやすと靡いてくれたかどうだか、まだこの和歌の後にも、一波乱はりそうな気もしますが、それはもはや妄想の話ですから止めにして、後の長歌のように「五七」のリズムで整えられていませんが、日本語で字数を定めた詩型というのは、自然発生的なものではなく、人工的に生みなされた気配がこもります。この長歌は『古事記』などに納められた歌謡と似たところがあり、もう少し自由な詩型で歌われていて、それだけに生き生きとした表現に感じられるのではないでしょうか。

舒明天皇の国見歌

     「天皇、香具山に登りて国見したまふ時の御製歌(おほみうた)」
大和には 群山(むらやま)あれど
  とりよろふ 天(あめ/あま)の香具山(かぐやま)
 登り立ち 国見(くにみ)をすれば
   国原(くにはら)は けぶり立ち立つ
  海原(うなはら)は かまめ立ち立つ
    うまし国そ あきづ島
      大和の国は
          舒明天皇(じょめいてんのう) 万葉集1巻2

やまとには 群れなす山々があるが
   私にふさわしい 天の香具山に
  登り立って 国を見わたせば
     広大な陸には 炊煙(すいえん)が立ちのぼる
    広大な海には かもめが飛び回っている
       すばらしく味わいのある国だ
      あきづ島と讃えられる
         このやまとの国は

 実際の万葉集の時代は、舒明天皇(じょめいてんのう)(593?-641)から始まると言っても、あながちに誤りではありません。奈良時代の人々から、今の時代への端緒を開いた、はじめの天皇と思われていたフシがあります。そんな、我々の開明王が、神話に結ばれた統治の山である「天の香具山」に、自らの足でもって登られて、国を見渡すというのが「国見(くにみ)」の正体です。

  もちろん観光のためではありません。
 現人神(あらひとがみ)であるところの天皇が、国を眺め守ることによって、今年の豊作が予告され、人々の平和が約束される。そのような積極的な予祝の意味を持って、国土を天皇の目によって監視していただく行事として、国見というものは存在していたようです。

 そのためここでの「けぶり」とは炊煙(すいえん)、かまどの煙であるとされ、そうであるならば、かもめが立つのは、漁業における魚の群がりを知らしめるような、豊漁の意味合いも籠もるのでしょうか。「あきづ島」は「とんぼの島」を意味する、大和に掛かる枕詞ですが、やはり豊年の祈願と結びつけられているようです。それで結末は、あまり古語に拘泥せずに、豊作になれば「美味しい国だぞ」くらいの感覚で、まずは捉えてみても構わないかと思われます。

中皇命の遊猟歌

     「天皇、宇智(うち)の野に遊猟(みかり)したまふ時、
        中皇命(なかつすめらみこと)、
          間人連老(はしひとのむらじおゆ)にたてまつらしむる歌」
やすみしゝ わが大君の
   朝(あした)には 取り撫でたまひ
  夕(ゆふへ)には い寄り立たしゝ
     み執(と)らしの あづさの弓の
    中弭(なかはず)/金弭(かなはず)の 音すなり

 朝狩(あさがり/かり)に 今立たすらし
    夕狩(ゆふがり/かり)に 今立たすらし
   み執(と)らしの あづさの弓の
      中弭(なかはず)/金弭(かなはず)の 音すなり
          中皇命(なかつすめらみこと)
           /あるいは間人老(はしひとのおゆ)か 万葉集1巻3

(やすみしゝ) わが大君が
   朝には 手に取り撫でられ
 夕べには そばに立たれて
    お取りになられる 梓(あずさ)の弓の
  弓弦(ゆみづる)の 音がしてきます

 朝の狩に 今立たれるのでしょう
   夕べの狩に 今立たれるのでしょう
     お取りになられる 梓の弓の
   弓弦の 音がしてきます

 中皇命(なかつすめらみこと)はあるいは舒明天皇と斉明天皇の娘である間人皇女(はしひとのひめみこ)のことかともされますが詳細は不明です。きれいに二部に分かれ、後半部分に言葉の繰り返しを込めた詩になっていますから、むしろ歌詞に慣れた私たちには、馴染みやすいのではないでしょうか。

 このような様式的な詩は、それがメロディーを付けて歌われるものであれ、朗唱されるものであれ、もちろん散文ではなく、詩文としての価値を、初めから有しているものです。なぜそのようなことを述べるかと言いますと、まるでこれが散文でもあるかのように、「今立たすらし」とあるからには、出発の際に詠まれたものであるといった馬鹿馬鹿しくもはかないような意見が、まことしやかに述べられていたりするからです。

 なるほど散文のニュースでもあれば、「君が今眠ろうとしている」と詠んだなら、それは死を看取る言葉でなければ不自然ですが、様式的な詩であるならば、葬儀の際に詠まれても、埋葬の際に詠まれても、不自然なところはありません。詳細は説明はしませんが、詩的表現を無視して、散文として意味だけを推し量るほど、読解力の欠落した行為もまたとありません。つまり詩としては、出立の前日に詠まれようと、狩の後の宴で詠まれようと、「今立たすらし」と歌われても、何の不自然はありません。そんなことは、歌の歌詞を考えるだけでも、当然のことではないでしょうか。旅立ちを詠うという事と、旅立ちの際に詠われたという事の間には、大きな断層が横たわっています。あまりにも浅はかなものですから、びっくりしたままを、落書きを加えてみたまで。

  内容は、むしろ分かりやすいかと思われます。
 ただ「中弭(なかはず)」というのが明白でなく、詠み方を含め諸説ありますが、しかしそれは専門家の領域で、私たちは取りあえず、「弓」を使用する時の響きがするくらいでも、十分に楽しめるかと思います。あるいは定説が出来たなら、その時はまたそれに寄り添って、詩興に深みが増すくらいのものです。

     「反歌」
たまきはる
  宇智(うち)の大野に 馬なめて
    朝踏ますらむ その草深野(くさふかの)
          中皇命(なかつすめらみこと)
           /あるいは間人老(はしひとのおゆ)か 万葉集1巻4

(たまきはる)
   宇智の大野に 馬を連ねて
     朝野を踏ませているだろう
   その草深い野を

「宇智の大野」は、奈良県五條市にあった当時の狩猟地です。長歌で狩への出立を歌ったのに対して、反歌では時間軸を進めて、狩りをしている最中を詠っている。しかも長歌が「今立たすらし」「音すなり」と、参加しない者の立場で「今立つようだ」「音がしてくるな」と、現場を眺めない状況で、歌を詠んでいるのに合せて、反歌も「朝踏ますらむ」つまり「踏ませているのだろう」と推量にゆだねています。

 それによって、居残りであろうと、狩りには参加していないだけであろうと、男世界を見守るような、女性側からの和歌の様相が差し込まれて、男性的な力強いだけではない、デリケートなものが、表現に混ぜ込まれているように思われます。もっとも詞書(ことばがき)にあるように、間人老(はしひとのおゆ)という人が、中皇命のために詠んだものかも知れませんが、ただ実際に歌を詠唱しただけのようにも思われ、いずれ女性の立場として、このように詠まれたものでしょう。修辞としては、
     「草を踏ませているだろう、朝の深い野原を」
     「朝の草を踏ませているだろう、深い野原を」
くらいの表現を、「朝踏ますらむ」とするアクロバットによって、結句の取りまとめを「その草深野」という造語に取りまとめた下句が光ります。

熟田津の歌

     『伊予の湯にて』
熟田津(にきたつ)に
  船乗りせむと 月待てば
    潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
          額田王 万葉集1巻8

熟田津から
  船を出そうと 月を待てば
    潮も頃合いだ 今こそ漕ぎ出そう

 額田王(ぬかたのおおきみ)は、初期万葉集の代表的な女流歌人ですが、柿本人麻呂やら山部赤人など、怪しげなペンネームのようにすら思える名称とは異なり、王の名称を抱いていますから、天皇家の血を引くなど、なんらかの地位のある女性ではなかったかと考えられます。また、詠われた内容などから、彼女が宮廷にあって公的に歌を詠むべき、立場にあったのではないかともされますが、ほとんど万葉集だけを資料とするために、明白な結論は出しきれない怨みがあります。

 この時期の倭王権(やまとおうけん)は、朝鮮半島は百済(くだら)と友好関係にあり、大陸からの文化の波も、遣唐使などよりもより多く、継続的に、朝鮮半島からもたらされていたようですが、その百済は660年に唐(とう)によって滅ぼされ、復興の援軍要請に応じて、斉明天皇(さいめいてんのう)(594-661)は、あるいは政治を操っている印象の中大兄皇子は、朝鮮出兵を決定します。

 これによって、女帝をはじめ大軍団が、まずは北九州に集結するために、瀬戸内海を渡ることになりましたが、その途中で立ち寄った「伊予の湯」、つまり現在の道後温泉(どうごおんせん)付近の港から、出航する際の和歌がこの短歌です。万葉集の編者が、斉明天皇の和歌ではないかと疑問を呈していますが、月の出を待って、潮も頃合いだから漕ぎ出そうという、明快にして命令的なその精神は、天皇の御心に叶うものと思われます。額田王が宮廷の和歌を担っていたならば、当然その気持ちを推し量って、天皇の立場で詠んだと考えられますから、抒情歌などとは歌風が違うのは、むしろ当然かも知れません。

 ところで、唐の脅威の中で決断した出兵ですが、斉明天皇は北九州で亡くなってしまい、中大兄皇子は即位しないまま指揮を執りましたが、663年の白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)で大敗して、迫り来る危機感の中で、さらなる国内の中央集権化が推し進められて行くという流れになります。

三山の歌

     『中大兄皇子の三山(みつやま)の歌一首』
香具山(かぐやま)は 畝傍(うねび)をゝしと
  耳成(みゝなし)と 相争(あひあらそ)ひき
    神代(かみよ/かむよ)より かくにあるらし
  いにしへも しかにあれこそ
うつせみも 妻を 争ふらしき
          中大兄皇子(なかのおおえのみこ) 万葉集1巻13

香具山は 畝傍山(うねびやま)がいとしいと
  耳成山と 互いに妻を争った
    神代より こうであったようだ
  いにしえも そうであればこそ
今の世でも 妻を争うらしい

     「反歌」
香具山(かぐやま)と 耳成山(みみなしやま)と 闘(あ)ひし時
  立ちて見に来し 印南国原(いなみくにはら)
          中大兄皇子 万葉集1巻14

香具山と 耳成山とが
  妻を争ったとき
 心配して見に来たよ
   阿菩大神(あぼのおおかみ)が印南国原まで

わたつみの
  豊旗雲(とよはたくも/ぐも)に 入り日さし
    こよひの月夜(つくよ) さやけかりこそ/さやけくありこそ
          中大兄皇子(なかのおおえのみこ) 万葉集1巻15

海神の
  豊かなたなびく雲に 入り日がさしている
    どうか今宵の月あかりが
  すばらしいものでありますように

 最後の短歌が、反歌としてはそぐわないというのは、万葉集の編者からして注釈を挟んでいますし、私たちもやはり、同じように違和感を感じるものですが、ここでは完成された詩として、これは反歌であるという立場で、解説を加えてみようかと思います。後から加えられたものであれ、反歌として眺めることも、不可能ではありません。

 まず長歌は、奈良盆地は飛鳥の地に並び立つ、香具山(かぐやま)、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)という三山(さんざん)の伝説に基づいて、神々の三角関係を詠み上げます。「畝傍をゝしと」は「畝傍を愛(を)し」つまり「愛しいと」する説と、「惜(を)し」つまり、誰かに渡したくないとする説がありますが、心情はつながりますからこだわらなくても良いでしょう。そうではなくて、「雄々し」と解釈する説もありますが、これだと男らしい畝傍山を、二つの女山が争う事になりますから、今日では「いにしえも妻を争ふらしき」との関係が、おかしく感じられますが、もともと「つま」というのは夫婦の一方を指す言葉には過ぎませんから、解釈に不都合は生じません。さらに原文の漢字表記が「雄男志(ををし)」ですから、読み取り方としてはナチュラルです。

 しかも神話の事ですから、なおさら妻同士が夫を争っても構わない気もしますが、結論など出そうにありませんので、皆さまはお好みの説を取って楽しんでいただいて、差し支えないかと思われます。ただ、後半を踏まえると、当時の社会では妻を争う方が自然であると思われますから、現代語訳はそのように解釈してあります。

 いずれ長歌は、前半のような神々の領域を受けて、現在においても妻を争うのはもっともだと締めくくっています。つまり長歌のテーマは、神話の提示と、それを現在に返す事にあると言えますから、当然反歌は、そのテーマに沿った詠みが期待される訳です。

 そこで初めの反歌は、やはり伝説を引き合いに出して、阿菩大神(あぼのおおかみ)という神が、三山が争うのを調停しようとして印南国原まで来て、争いが収ったのを確認したことを踏まえて、
     「この印南国原こそ、あの神がここまで来たという土地だ」
とまとめている。印南国原は兵庫県の加古川市から明石市あたりを指しますから、長歌からですと、人間には飛躍しすぎた土地ですが、山同士が争って、別の神が土地をまたいで調停に来るような神話の力を借りて、「ここが印南国原である」という、強引な場所の提示を、辛うじてまっとうしているようです。そして恐らく、実際に印南国原で詠まれたからこそ、このような反歌が挟み込まれたのではないでしょうか。

 これもやはり長歌と同様、伝説の領域から、現実に返された土地を導き出しているのですが、一方では長歌の「妻を争ふらしき」の印象が強いものですから、閉ざされた詩の世界として眺めますと、この反歌は「妻を争ふ」ような状況においては、必ず「調停者」あるいは別の見方をすれば「野次馬」が、のこのことやってくるという、やはり現在でも変わらないありさまを、詠んでいるようにも思えてきます。

 それで、神話の内容を継続させれば、最後の反歌は、阿菩大神がわたつみの神の瑞兆(ずいちょう)を眺めながら、いさかいもおさまって、ああ今宵の月はきっときれいだなあと、神々の平和を讃美する反歌になっている訳ですが、同時に先ほど導き出された印南国原によって、現在の自分らへと返すならば、旅先に吉兆を願うような反歌にもなっているという訳です。

 このようにまとめては見たものの、やはり最後の反歌には、なかなか異質なものが込められているようですから、あるいは同じ中大兄皇子の和歌で、関連性がありそうなものを、後の誰かが、つなぎ合わせたような気配も、やはりぬぐい去れないように思われます。ただし、この作品を、朝鮮出兵と重ね合わせて考える説もあるようで、それだと長歌は、国争いの状況を神話に委ねた事になり、唐と新羅が百済を奪い合っているような印象に、我々は調停者としての印南国原であるぞ、と反歌でまとめているように捉えられます。その上、最後の反歌は、調停の成就を願う祈願にもなりますから、全体がきわめてすっきりと把握できる事になります。それが事実かどうかは、わたしの範疇を逸れますが、安っぽいドラマの見過ぎで、額田王を巡る三角関係に酔いしれるような、恋愛至上主義のアンチテーゼとして、覚えておくと良いかも知れません。

 もうひと言加えるならば、この詩の特徴として、それ自身の閉ざされた詩として把握すると、つじつまを合わせるのに苦労する代わりに、なんらかの現実の状況に即して、詠まれたものだと捉えると、全体が捉えやすくなる傾向を持った作品だと言えるでしょう。そしてそのような傾向を持った作品は、実際に何らかの現実の状況に即して、時事的に詠まれた可能性を多分に秘めていますから、このような場合、状況から切り離された作品だけの価値などを論じるのは、逆に空しい試みに過ぎないような傾向も無きにしもあらず。挨拶歌から挨拶であるという現実を取り除くと、その解釈に齟齬(そご)をきたすのと同じように、その作品に応じて、詩の読み取り方もまた様々です。ですから作品解釈には、詠み手の状況を踏まえたものと、それを切り離した純客観の美的基準が存在するなどと、幼稚な二元論は、ポリシーとして掲げない方が良いでしょう。ただそれくらいの、余計なお世話には過ぎませんでした。

春山と秋山を競う歌

     『天智天皇、春山(しゅんざん)の万花(ばんか)の艶(えん)と、
       秋山(しゅうさん)の千葉(せんよう)の彩(いろ)との、
        哀れを競はせたまふ時に、額田王の答ふる歌』
冬ごもり 春さり来れば
  鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ
 咲かざりし 花も咲けれど
   山を茂(し/も)み 入(い)りても取らず
  草深み 取りても見ず

秋山の 木(こ)の葉を見ては
  黄葉(もみぢ)をば 取りてそ偲(しの)ふ
 青きをば 置きてそ嘆く
   そこし恨(うら)めし
     秋山そ我(あれ)は/秋山われは
          額田王 万葉集1巻16

(冬ごもり) 春が来たれば
   鳴かなかった 鳥も来て鳴きます
  咲かなかった 花も咲きますが
    山が茂ってしまうので 入って取ることもせず
   草が深いので 取って見ることもしません

秋山の 木の葉を見れば
  もみじを 手に取って偲びます
 青々としたものは そのままにして嘆きます
   そんな恨めしさもまた
     秋山こそすばらしいと思うのです

 春と秋を競わせて詩を詠むのは、やはり漢籍からの影響に基づく、当時の流行だったようです。あるいは漢詩をもてあそぶ男共に対して、女である私は、和歌にして応じて見るような意識が、当時は存在したものでしょうか。そもそも、鳥が来て花が咲き始めた頃の春山と、黄葉と青葉の交じる頃の秋山の、どちらの方が実際に踏み込みにくいものであるのか、ちょっと疑問が湧かないでもありませんが……

と詠んでいて気づいたのですが、この和歌は単純に、春と秋を対比したものでもなく、構造的なバックボーンとして、春夏秋冬を織り込んでいるようです。つまり、冒頭は「冬ごもり」から開始して、一瞬には過ぎませんが「冬」という季節を経過します。提示する時間は必ずしも重要ではありません。たったひとつの和音が、楽曲の印象を規定することだってありますから。

 そうして春が導き出されますが、春のことを語り続けていると見せながら、実際は「山をしみ」からの部分は、春過ぎて夏のあたりを詠んでいる様相です。こうして季節を移らせますから、秋に対比させて春を詠んでいたような前半は、同時に季節を順に巡らせ、フォーカスを秋へと移し定めるための、序としても機能しているのが見て取れます。

 しかもようやく登場した秋山において、黄葉に色彩を確定させるのではなく、わざわざ黄葉と、青葉を配しますから、時節の移り変りの連続性ということは、ますます強く感じ取れます。

 つまりは「そこだけが恨めしい」などと、ようやく判定を付けたような表現をしながらも、一方では構造的に秋を讃えるための、一貫性のあるプロットが敷かれている。その上で、四季を移す手際や、「黄葉と青葉」を混ぜることにより、秋とはいっても時間の経過によって、移り変る季節の営みの一ページには過ぎないという心情を、そっと織り込めてもいるようです。

 もちろん、単純に言葉通りに読み取って、秋山は全体が一斉に色づかないのだけが無念であるとだけ読み取っても、何の不都合もありません。輪郭がはっきりしている方が、心情にはプラスに作用することもありますから。

三輪山の歌

     「額田王、近江国にくだる時に作る歌」
うま酒 三輪(みわ)の山
  あをによし 奈良(なら)の山の
 山の際(ま)に い隠(かく)るまで
   道の隈(くま) い積(つ)もるまでに
  つばらにも 見つゝゆかむを
    しば/"\も 見放(みさ)けむ山を
   心なく 雲の 隠(かく)さふべしや
          額田王 万葉集1巻17

(うまさけ) 三輪の山を
  (あをによし) 奈良の山の
  山のあいだに 隠れてしまうまで
    道の曲がりが 重なるまで
   つまびらかに 見続けて行きたいのに
     頻(しき)りに 眺めたい山なのに
    つれなくも 雲が隠してしまってよいものか

 「うま酒」
という素敵な表現は、神酒を「みわ」と呼んだ事から、「三輪」に掛かる枕詞です。667年、都が近江(おうみ)に移るのに際して、飛鳥から離れたくない心情を読んだものとされます。その遷都には、先ほど眺めた、663年の白村江での敗戦が、関係しているともされ、敗戦から数年での遷都には、また様々な思いもあったかと思われますが、もといた場所を離れる悲しみは、当時も今も変わりませんから、何度も飛鳥を見返るような長歌です。

 この和歌の面白みは、「三輪の山をじっくり見て行きたいのに、雲が隠して良いのか」という内容を、「山の際にい隠るまで」「道の隈い積もるまでに」と、まるで言葉を引き延ばして、実際の旅の進行を妨げでもするかのように、逡巡したような言い回しで、離れたくない印象を表現している点にあると言えるでしょう。その逡巡が最後に雲に隠されて、長歌を閉ざしますから、当然反歌には、隠された詠み手の、心情表明が期待されます。

     「反歌」
三輪山を しかも隠すか
  雲だにも こゝろあらなも/む
    隠さふべしや
          額田王 万葉集1巻18

三輪山を そんなにも隠すのか
  せめて雲だけでも 心があるのならば
    隠したりはしないでください

 そんなにしっかり隠すな。雲だけでも心があるならば、と詠んでいるのは、もちろん直前の長歌の結句を踏まえた表現ですが、嫌々ながら三輪山から離れて行かなければならない状況を思えば、「雲だけでも」という表現には、「指示をした人には心が無くても」せめてお前だけでも、という暗喩が込められているようにも思われなくもありません。もしそうであれば、なかなか過激な政治批判が、委ねられていると見ることも出来そうですね。

額田王と大海人皇子の贈答歌

     「天皇、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)する時、
       額田王の作る歌」
あかねさす
  むらさき野ゆき しめ野ゆき
    野守は見ずや 君が袖ふる
          額田王 万葉集1巻20

(あかねさす)
   紫草の野をゆき 標しのある野をゆき
     野の番人は見ないでしょうか
   あなたが袖を振っているのを

     「皇太子の答ふる御歌(みうた)」
むらさきの
  にほへる妹を にくゝあらば
    人妻ゆゑに 我(あ)れ恋ひめやも
          大海人皇子(後の天武天皇) 万葉集1巻21

紫草のような
  気品のこもるあなたを 憎く思うのであれば
    人目を気にする 人妻であるからといって
  どうして恋しく袖を振ったりしましょうか

 蒲生野(かもうの・がもうの)は琵琶湖の東南岸(よりずっと奥)にあった狩猟地。万葉集の詞書きと、和歌に「むらさき」とあることから、染料として栽培されていた紫草(むらさきそう)の原あたりの状況を詠んだものかともされています。あまりにも印象的な恋の贈答歌なので、天智天皇とその弟である大海人皇子(おおあまのみこ)、正史では大海人皇子の妻であるはずの額田王との間に、複雑な三角関係のもつれもつれて、大河ドラマになりそうなほどの伝説に彩られていますが、たったこれだけの和歌から、いったい何が読み取れると言うのでしょう。

  もちろん読み取れることもあります。
『万葉集』自身に「御狩する時に作る歌」とわざわざ断わっていますから、私的な贈答ではなく、宮中行事や宴などの席で、人々の前で詠まれたものであることは分かります。また、その詞書きをそのまま読み取るなら、初めの和歌は天智天皇に対して、夫に見られますよ、袖なんか振ったりして。とたわむれ掛けたもの。それに対して天智天皇は応えずに、夫である大海人皇子が、和歌を返したものかと思われます。あるいはもし、「紫」という表現と「人妻」という事が、和歌的に何らかの関連を持つのであれば、このような席では、投げかけられた和歌に対して、「人妻ゆゑに」と返すのは、必ずしも事実とそぐわなくても、差し支えないようにも感じられます。

 また逆に、はじめは天智天皇の妻であったものを、自分が恋して妻と得た経緯でも存在して、それを踏まえて、「人妻ゆゑに 我れ恋ひめやも」と詠っているようにも聞こえますから、別に後になってから天智天皇の妻となったと捉えなくても、つまりはどうにでも推し量れてしまいます。こういうのは、推察とか考察と呼ばれるべきものではなく、いずれも単なる妄想には過ぎませんし、いくつかの和歌をつなぎ合わせて、妄想に妄想をつなぎ合わせても、出来上がった妄想は、誇大妄想以外の何物でもありません。

 いずれ、活躍時期や天智天皇への和歌から、額田王という歌人が、天智天皇のもとで和歌を詠むべき役割を持った、なんらかの女性であったような気配はしますから、「秋の風吹く」なども含めて、そちらの方向から、全体を定めていったらよいかと思われます。そして皆さまは別に、そのようなゴシップを追い求めなくても、純粋にこの和歌を、楽しめるくらいの感性は、持ち合わせているものと信じます。

常娘子(とこをとめ)の歌

     「十市皇女(とをちのひめみこ)、
        伊勢神宮(いせのかむみや)に参(ま)ゐおもぶく時
       波多(はた)の横山の巌(いはほ)を見て、
         吹黄刀自(ふゝきのとじ)が作る歌」
川の上(へ/うへ)の
   ゆつ石むらに 草生(む)さず
  常にもがもな とこ処女(をとめ)にて
          吹黄刀自(ふふきのとじ) 万葉集1巻22

川のほとりの
   なめらかな岩々に 草が生えないように
 常にありたいものですね いつまでも乙女のまま

 十市皇女は天武天皇(てんむてんのう)(?-686)の娘で、天武天皇は「むらさきのにほへる妹」を詠んだ大海人皇子(おおあまのみこ)の即位後の名称です。彼女は、嫁いだ夫である大友皇子(おおとものみこ)と父親とが、672年の壬申の乱(じんしんのらん)で対立し、夫が亡くなるという悲劇に見舞われた女性です。この壬申の乱というのは、要するに天智天皇が亡くなった後の、天皇の後継者争いで、白村江などよりもよほど国家を揺るがす大事件として、人々の心のなかに刻み込まれたもののようです。

 吹黄刀自(ふふきのとじ)は彼女に仕えていた侍女でしょうか、草も生えないなめらかな岩のように、すべすべの乙女でいてくださいと、十市皇女の事を詠います。あるいはその願いが、誤って叶えられたのでしょうか、678年、十市皇女は突然の死を迎えます。ゆつ石むらになったのだと、ささやく人もあったかも知れません。

天武天皇の御製歌

     「天皇の御製歌(おほみうた)」
み吉野の 耳我(みゝが)の嶺(みね)に
 時なくそ 雪は降りける
  間なくそ 雨は降りける
   その雪の 時なきがごと
    その雨の 間なきがごとく/ごと
     隈(くま)も落ちず
    思(おも)ひつゝぞ来(こ)し
   その山道(やまみち)を
          天武天皇(てんむてんのう) 万葉集1巻25

み吉野の 耳我の嶺に
  休みなく 雪は降ります
    絶え間なく 雨は降ります
      その雪に 休みがないように
        その雨に 絶え間がないように
      曲がり角ごとにずっと
    もの思いしながら来たのです
  その山道を

 あまり気にならないかも知れませんが、
      時なくそ 雪は降りける
      間なくそ 雨は降りける
      その雪の 時なきがごと
      その雨の 間なきがごと
という表現は、日本語の詩の通常表現からすればむしろ異質です。対句として「時なくそ」「間なくそ」と同種の表現を繰り返すのはまだしもですが、「時なくそ雪は」「間なくそ雨は」を「雪の時泣なき」「雨の間なき」と倒置反復(とうちはんぷく)じみた表現で、もう一度対句のパラレルを形成し直すような表現方法は、あるいは漢詩からの影響によるものでしょうか、あまり使用されるものではありません。

 もっとも、誰が使い始めたかは不明ですが、ユニークだけに独特な響きが好まれたようで、万葉集の中にはこれと類似の表現が、幾つか見られます。ここに紹介したこの長歌からして、「ある本の歌」として紹介される別バージョンが加えられていますが、巻第十三に納められた、全体がよく似た二つの恋歌との関連と前後関係が気になります。

 パターンは「うま酒三輪山」の長歌と似ていて、最後の「思ひつつぞ来し」という状況を、「時なくそ」から繰り返される、大いに淀みのある、先に進まないような表現が、それ自体によって心情を表明していると言えるでしょう。その印象から、壬申の乱の直前の心情に、重ね合わされることもあるようです。

よき人の歌

     「天皇、吉野宮(よしのゝみや)にいでませる時の御製歌」
よき人の
  よしとよく見て よしと言ひし
    吉野よく見よ よき人よく見/よく見つ
          天武天皇(てんむてんのう) 万葉集1巻27

かつての良き人が
  良しとよく見ては 良しと名付けた
    吉野をよく見なさい 良き人を/良き人よよく見なさい

 壬申の乱のような、後継者争いを避けるために、天武天皇が皇子たちを集めて、吉野離宮において、相互扶助の制約を誓わせた。その際の短歌ともされます。もちろん、純粋な「よし」を重ね合わせた、「よし」のリズム遊びの和歌として楽しんでも結構ですが、そのような背景を捉えると、過去の偉大な「よき人」を習えと諭すようにも、また約束を交わした「よき人」同士を、互いによく見て、忘れるなと脅すようにも、様々なイメージが湧いてきますから、よしまた和歌に深みがよく増して、よろしかろうと思います。

 ちなみに言葉のリズムについて、簡単に加えると、
     よき よし よく よし
     よし よく よき よく
と上の句では「よし」を、下の句では「よく」を基調に、初めは五七五で四回提示したものを、下の句では七七で四回提示して、「よしよき」リズムを後半に高めながら、同時に「よく」のところでは必ず「よく見」が使用され、これもまたリズム構造に華を添えている。何度も口に出したいフレーズを形成していると言えるでしょう。

 ですから、よほど『万葉集』に慣れないうちは、単なる言葉遊びの屈託もないあそび歌としか感じられなくても、それはむしろ普通のことで、逆にこの短歌のもっとも根本的な魅力を、ちゃんと捉えられているとも言えるでしょう。そのように捉えられている間は、別にそれが間違いという訳でもないのです。どこかに間違いがあるとすれば、無理矢理にこのような意図があるなどと、教え込もうとする精神の方にあるかと思われます。

夏来たるらし

     「天皇の御製歌」
春過ぎて 夏来たるらし
  しろたへの ころも干したり
    天(あめ)の香具山(かぐやま)
          持統天皇(じとうてんのう) 万葉集1巻28

春が過ぎて 夏が来たようだ
  真っ白な 着物を干してある
    天の香具山に

 真っ白な衣、というのは普通、実際の着物や布を干していると説明されますが、あらためて考えてみると、いくら大量の衣が干されてみたところで、あるいは特別な衣であったところで、このように大きな視点で、むしろ遠景から香具山を眺めた時に、白い印象を実感するだろうかという疑惑が湧いてきます。

 大和には神聖な山で、神に比される事も多いものですから、むしろ和歌にある定番のスタイルである、卯の花を布に見立てた、神々の衣の印象、その初期の例として捉えた方が、よほど実景において、美しく栄えるのではないでしょうか。どうも着物や布を干したものだと、全体のスケールが、ばらばらになるような気がします。もっとも、卯の花としたところで、はっきり白く見えたりはしないでしょうが。特定の布などよりは、山全体に掛かる印象がします。

近江荒都の歌の反歌

さゝなみの
  志賀(しが)の唐崎(からさき) 幸(さき)くあれど
    大宮人(おほみやひと/びと)の 舟待ちかねつ
          柿本人麻呂 万葉集1巻30

(ささなみの)
   志賀の唐崎は 今もすこやかにあるが
     かつての宮廷の人たちの
   来ない船を待ちわびている

さゝなみの
  志賀(しが)の大わだ 淀むとも
    むかしの人に またも逢はめやも
          柿本人麻呂 万葉集1巻31

(ささなみの)
  志賀の入り江は このように淀んでしまっても
    かつての人々に また逢えるだろうか
  そう思っているようでした

 代々治められていた大和を離れて、はるばる移った近江の都は、ここだとは聞いたけれど、春草が茂り、春霞が立っているばかり。そんな長歌に添えられた反歌です。志賀の唐崎は、今日の滋賀県大津市にあり、琵琶湖の最南端の西側。天智天皇が建設した新都でしたが、壬申の乱で完全に廃墟となったようです。それで都は廃れても、志賀の唐崎の景観はそれとは関わらず、都のあった頃と変わらないが、移り変ってしまった人の世を偲んで、かつての宮廷人たちを待っている。というのが反歌の一首目で、そんな志賀の入り江がこころを淀ませても、昔の人は帰ってこないというのが、反歌の二首目の趣旨になります。

 中途半端な擬人法などは、興ざめをもよおす事もありますが、大きな自然に対して当たり前のようになされると、それが虚偽であることが明白ですから、つまりは詠み手がこころを委ねたものであるということが、はじめから明白であることになりますから、聞いている方も、その場景を思い描きながら、素直に心情に寄り添うことが可能で、効果的な用法です。

手向けくさの歌

     『紀伊国(きのくに)にいでませる時』
白波(しらなみ)の
  浜松が枝(え)の 手向けくさ/ぐさ
    幾代(いくよ)までにか 年の経ぬらむ
          川島皇子(かわしまのみこ) or 山上憶良 万葉集1巻34

白波の寄せる
   浜松の枝に 結ばれた祈願の幣(ぬさ)は
  幾とせの歳月を 過ごしてきたものか

 恐らくは実作者は山上憶良かと思われ、羈旅の安全のために、浜松の枝に付けられて、神に捧げられた幣などは、どれほどの歳月を過ごしたものかというものですが、もとより幣の古さだけでなく、永遠と変わらないような人々の祈願の営みにも、思いを馳せている訳です。また、後に紹介する、有間皇子(ありまのみこ)の挽歌を、踏まえたものだと捉える人もあります。彼がこれを結んでから、どれくらい歳月が流れただろうという解釈で、それもまた詩興に増さるものかと思われます。ただし、そう詠まなければならない訳ではありません。

あみの浦

     『伊勢国にいでませる時に、京にとゞまり作る歌』
あみの浦に
  舟乗りすらむ をとめらが
    玉裳(たまも)の裾(すそ)に 潮満つらむか
          柿本人麻呂 万葉集1巻40

あみの浦で
  船乗りをする むすめらの
    玉裳の裾には 潮が満ちているだろうな

 あみの浦は三重県のどこかと思われるくらいで、場所が定まっていません。都に留まって詠まれた短歌ですから、逆にどこの浦でもありそうな場景が描かれていますから、場所が分からなくても、鑑賞への影響は少ないようです。ここではむしろ、
     「あみの浦」⇒「船」⇒「をとめ」⇒「裳の裾」
と焦点を定めていく、お決まりのパターンのうちに、一句ずつ対象が変化していく場景の描き方や、満ち潮に船を漕ぎ出すと詠むべきところを、乙女らが乗り込む裾をめざして、潮が満ちていくような印象にまとめた点をこそ、よく観察して欲しいと思います。着想もその表現も、ありきたりの短歌からは、大分離れたところに存在します。

安騎の野の歌

     「軽皇子(かるのみこ)、安騎(あき)の野に宿らせる時に、
         柿本人朝臣麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)が作る歌」
やすみしゝ わが大君 高照(たかて)らす 日の御子(みこ) 神(かむ)ながら 神(かむ)さびせすと 太敷(ふとし)かす 都を置きて こもりくの 泊瀬(はつせ)の山は 真木(まき)立つ 荒き山道(やまぢ)を/荒山道(あらやまみち)を 岩が根(いはがね) 禁樹(さへき)押しなべ 坂鳥(さかどり)の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に はたすゝき 篠(しの)を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて
          柿本人麻呂 万葉集1巻45

(やすみしし) わが大君 (高照らす) 日の御子よ 神のまま 神らしくして しっかりとした みやこを置き去りに (こもりくの) 泊瀬の山へと 真木が立ち並ぶ 荒々しい山道を 岩々や 遮る木をねじ伏せ (坂鳥の) 朝から越えられて (玉かぎる) 夕方が来れば み雪の降る 安騎の大野に 穂のススキや 小竹(しの)を押し伏せて (草枕) 旅の宿りをなさいます 昔を偲びながら

「わが大君」は普通は天皇を指しますが、未来の天皇候補であるところの、皇子(みこ)や諸王にも使用される場合があります。軽皇子(かるのみこ)(683-707)は、後の文武天皇(もんむてんのう)。皇太子となって、即位寸前で亡くなった草壁皇子(くさかべのみこ)の息子で、持統天皇が次期天皇へと期待する人物ですから、猶更その表現はふさわしいと言えるでしょう。

 この和歌は、まだ十代前半の軽皇子が、父親が狩を行なった安騎の野(あきのの)(奈良県宇陀市大宇陀区あたり)に出向いて、狩をする時に詠まれたもので、長歌では穏やかな都を逃れて、父の面影を偲びながら、荒々しい土地へと踏み入れる、息子の姿が描かれています。

 もちろんひとり旅ではありませんし、柿本人麻呂を従者にしての、二人きりの決死の旅ではありません。むしろ目新しい狩やら旅で、テンションが上がってはしゃいでいるくらいかもしれませんが、和歌の中ではまるで孤独な冒険者でもあるかのような、殺風景な旅の果てに、草を枕に横になり、いにしえに思いを馳せるという演出がなされています。もちろん、軽皇子を讃え、同時に草壁皇子の後継者であることろを、知らしめるための長歌だからに他なりません。

     『短歌四首より一首』

ひむがしの
  野にかぎろひの 立つ見えて
    かへり見すれば 月かたぶきぬ
          柿本人麻呂 万葉集1巻48

東の野に
  夜明けの きざしがあらわれて
    かえり見れば 月は西へと傾いていた

 それに対して、反歌もまた、孤独の演出がなされ、軽皇子が父親に並び立ち、後を継ぐというプロットにもとずいています。この有名な反歌も、いにしえのことを思い煩って、眠れずにいると、とうとう東の空が明け始め、帰り見ると月は傾いていた。そうして続く最後の短歌によって、草壁皇子が馬を並べて狩を催された時になったとまとめている。もちろん草壁皇子と同じ立場に立たれたことを、表明してもいる訳です。

 そのようなプロットを考えると、単独の短歌として叙景詩のように捉えられがちなこの作品にも、今は父を傾いた月として、より照り輝く太陽として、新たに登る軽皇子を、讃える賛歌のような意図が、込められているような気配がします。そうであるならば、「かぎろひ」を暁の光とするよりも、太陽の立ちのぼる輝きを指したとする説も、捨てがたい印象をおびてきますが、今は突き詰めずに行き過ぎます。

袖吹きかへす明日香風

     「明日香の宮より藤原の宮にうつりし後、
        志貴皇子の作らす歌」
うねめの
  袖吹きかへす 明日香風(あすかゝぜ)
    みやこを遠み いたづらに吹く
          志貴皇子(しきのみこ)? 万葉集1巻51

かつて 天皇(みかど)の侍女たちの
  袖を吹き返してた 明日香の風も今は
    新しいみやこが遠いので
  ただ空しく吹いている

 うねめは天皇付きの侍女で、天皇以外の人が恋をすることは叶わない、特別な女性として詠まれています。藤原の宮へ移っても、同じ奈良盆地には過ぎませんから、何度も三輪山を振り返るほど、深刻な印象ではありませんが、かつての繁栄を思いはかって、風に委ねたものです。かつての華やかさを偲ぶのに、美女の服を吹き返らせたのが、動的な詩興となって生きています。

つらつら椿の歌

     『持統太上天皇、紀伊国にいでませる時』
巨勢山(こせやま)の
  つら/\つばき つら/\に
    見つゝ偲(しの)はな 巨勢の春野を
          坂門人足(さかとのひとたり) 万葉集1巻54

巨勢山の
  茂み連なるような椿を つくづくと
    見ては 思い浮かべましょう
  やがて訪れる 巨勢の春野を

「つらつら」は連なる様子と、よくよく眺める様子を表現しています。煙に巻いたような解説もありますが、実際はきわめて意図を定めにくい和歌になっています。まずこの和歌の別バージョンとして、

     「ある本の歌」
河のへの/うへの
  つら/\つばき つら/\に
    見れども飽かず 巨勢のつばきは
          春日蔵首老(かすがのくらのおびとおゆ) 万葉集1巻56

とあり、それとの関係が不明です。内容同士から、「ある本の歌」が本歌で、それを元にして坂門人足(その名称もまた怪しげですが)がこの短歌を詠んだ可能性が高そうですが、問題はその際にわざと本歌を踏まえて、つまり皆が本歌を知っていることを利用して、本歌との関連を踏まえてこの和歌を詠んだのか。ただ単に本歌を利用して、本歌とは関わりのない、閉ざされた和歌を詠んだものか。それが不明です。

 次に、「つらつら椿」が何を指しているのかがはっきりしません。よく読み取れば分かりますが、この和歌は山の椿を眺めながら、野原を思うというもので、同じ場所の椿の、シーズンの違いを歌ったものではありません。詞書にあるように、訪れたシーズンが秋であるから、咲いていない椿を思い描いたと捉えると、もし巨勢山の咲いていない椿を、「見つつ偲はな巨勢の春山を」なら詩的に生きますが、それをさらに春野に渡すのは飛翔しすぎて、むしろ詩興を削ぐようなものです。

 そこで考えられるのは、訪れた時期とは関わりなく、春の和歌として、巨勢山の連なる椿を眺めながら、春野に思いを馳せたものと捉えるか、あるいは早咲きの椿が、巨勢山の名物でもあって、実際に咲いている花を眺めながら、春野を偲んだとするものです。また、参照にした本歌を踏まえて、あの知られた短歌に詠われるように、という意図を込めて、春野を偲んだと見ることも可能です。

 ここでは詳細は突き詰めず、本歌を皆が知っているものとして利用しながら、そのような椿の咲き誇る巨勢の春野を、今の巨勢山のつらつら椿を眺めながら偲びましょう、と詠んだものとしておきます。訪れたのは旧暦の秋九月ですが、咲き始めた椿を詠んだとか、あくまでも「偲ぶ」ものであるから、実際の椿とは限らず、椿のように咲く山茶花などを、わざと「つらつら椿」と詠んで見せたと、今はしておくことにしましょうか。

 ちなみに、まったく椿が咲いていないと、春野を偲ぶのは浅はかに感じられますが、わずかでも花が咲いていれば、それをもって「つらつら椿」の詠われた春野を偲んでも、対象の変遷上のものとして、聞き手に感じられやすくなりますから、安っぽい虚偽にはならないようです。

引馬野の歌

     『持統太上天皇、参河国(みかはのくに)にいでませる時』
引馬野(ひくまの)に
  にほふ榛原(はりはら) 入り乱れ
    衣にほはせ 旅のしるしに
          長意吉麻呂(ながのおきまろ) 万葉集1巻57

引馬野に
  色づいた榛木(はんのき)の原に 乱れ入って
    着物を染めるがいい 旅のしるしに

 御幸(みゆき・ぎょうこう)といって天皇を筆頭に、貴族たちが旅をなさることは、政治的な意味合いも兼ねましたから、当時は頻繁に行なわれています。引馬野(ひくまの)は愛知県豊川市(とよかわし)にある引馬神社のあたりともされ、「榛原(はりはら)」は、カバノキ科に属する落葉高木のハンノキの原。ただし、萩で服を染めるという和歌が多いこともあり、この榛原というのは萩の原ではないかという説もあるようです。いずれ詠み手は、みやこに残された居残り組で、帰ってきた際には、染まった衣を見せて欲しいと、ユーモアを見せたものと思われます。

棚なし小舟の歌

     『持統太上天皇、参河国(みかはのくに)にいでませる時』
いづくにか 舟泊(ふなは)てすらむ
  安礼(あれ)の崎 漕ぎ廻(た)みゆきし
    棚なし小舟(をぶね)
          高市黒人(たけちのくろひと) 万葉集1巻58

どこで 舟泊(ふなど)まりするのだろう
  安礼の崎を 漕いで巡っていった
    あの横棚のない小舟は

 これも「引馬野の歌」と同じで、都に留守番の詠み手が、旅を思い描いたものです。「安礼の崎」もまた所在が不明瞭ですが、愛知県のどこかではないかとされています。「棚なし小舟」というのは、船の横板のない、簡単な小舟のことで、丸太を刳(く)り抜いただけの丸木船、つまり単材刳舟(たんざいくりぶね)の事かとも考えられますが、確定はされていません。

 いずれ、小舟が岬を巡っていったが、こんな岬ではどこに停泊出来るだろう、と推し量った和歌になっています。舟泊(ふなはて)というのは、旅行の停泊などに使用されがちな表現ですから、あるいはこの船も、丸太船などよりは、もう少し本格的な小舟の気配もします。

遣唐使の歌

     『大唐(だいたう)にありし時、国を思ひて作る歌』
いざ子ども 早く日本(やまと)へ
   大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ
          山上憶良 万葉集1巻63

さあ皆よ 早く日本へ
  大伴の三津の 港の浜松も
    待ちわびていることだろう

「大伴の御津」は、公的な船が出航する港で、大阪湾のどこかにありました。そこで出航の際に眺めた、港の浜松も、「まつ」だけに、今頃私たちを待ちわびているだろう。朝鮮での衝突もあり、唐との国交はしばらく途絶えていたようですが、律令制を整備した大宝律令(たいほうりつりょう)も前年に編纂を終え、新しい国を伝える意識もあったのでしょうか、702年に遣唐使(けんとうし)が派遣され、すでに四十才を越えていた山上憶良も、その一員に選ばれました。

 そこで、新しい国名である「日本」を伝えていますが、面白いことにこの万葉集の原文漢字の表記にもちゃんと「早日本辺(はやく日本へ)」と記されています。(もっともこれは後から記されたものかも知れませんが。)「いざ子ども」と偉そうに詠えたのは、遣唐使に選ばれて唐に留学したこの時の、年齢にもよるのでしょうが、当地の知識を元に、影のリーダーのように立ち働いていた可能性もあるかも知れません。なにしろ年を重ねても、軽蔑される人間は軽蔑されますし、このように詠えるからには、実際に詠える立場にあったと、眺めることは可能です。

 ところで、巻第十五の『遣新羅使節団』の和歌が、朝鮮半島に着く前に終わってしまうように、当時の和歌で、海外で詠まれたものというのはきわめてめずらしいものです。国際都市としての長安には、カルチャーショックを起こさせるような場景があふれていたと思いますが、そのようなものを詠みまくるものとしては、当時の和歌は存在しなかったようで、たまたま詠まれたとしても、このように郷愁にどっぷり漬かるようなものには過ぎませんでした。国際社会などと叫んでいる割には、今日の精神も、きわめてそれに似通ったような気配がします。ただそれだけの感想でした。

鴨の羽がひに霜降りて

     『難波の宮にいでませる時』
葦辺(あしへ)ゆく
  鴨の羽がひに 霜降りて
    寒き夕(ゆふ)へは 大和(やまと)し思ほゆ
          志貴皇子 万葉集1巻64

葦辺をゆく
  鴨のつばさに 霜が降って
    寒さのつのる晩には
  大和のことが思われる

 鴨の「羽がひ」とあるのは、羽根を畳んでいる状態で、二枚が重なり合っている部分を指します。つまり鴨が羽根をおとなしくして、ぷかぷかと葦辺を泳いでいる所にさえ、霜が降るような寒い夕ぐれは、故郷の大和のことが思われるという内容です。大和は奈良盆地で、難波は大阪のあたりなら、いくら古代人とはいえ、しばしば往復しているではないかと、皮肉を言う方もあるかも知れませんが、ほんの短い期間の海外旅行にさえ、日本食を持ち出すような大和の民の精神は、いにしえも今も、あまり変わっていないのかも知れません。だからどれほど時間的距離が短くなっても、東京にしばらくいれば故郷が思われ、帰省すれば心も動かされるようなものです。

沖つ白波竜田山

海の底(わたのそこ)
  沖つ白波 竜田山(たつたやま)
    いつか越えなむ 妹があたりみむ
          (古歌か) 万葉集1巻83

(わたのそこ)
   沖には白波が立つよ 竜田山
     いつか越えたいな
   妻のあたりが見たいから

 『伊勢物語』で、

風吹けば
  沖つ白波 たつた山
 夜半には君が ひとり越ゆらむ

と歌われる、有名な短歌の雛型(ひながた)かと思われます。初めの二句は、「竜田山」の「たつ」に「立つ」として掛かる序詞になりますが、海底から立ちのぼる巨大な白波が、瞬時にクリスタル化して山になったような、破天荒なくらいの壮大さが、「いつか越えたい」という心情の、ハードルを高めているのが魅力です。

 この種の短歌は、特に初心者のうちは、一つの心情を詩にまとめたものとは受け取れず、言葉で遊んでいるようにしか、響かないのはもっともです。なにしろ今の詩に対するイメージから、解釈を始める他ありませんから。しかし、だんだん慣れてくると、その序詞でなければ、心情表明に至らない事が悟られて、次第に忘れがたい、独特な表現として、あなたに寄り添うものとなるでしょう。

 別にそれを今、無理に感じ取る必要はまったくありません。ただ、あさましいまでの心情表明を突き詰めて、一読すればさらりと読解され、喜怒哀楽を動かしたらごちそうさま、それ以上なにも残らないような、初学者向けの詩の定義とは、まったく異なる領域があることを、心に留めておかれたならいつの日か、なるほどとうなずくこともあるかも知れません。もちろん、一生ないまま果てる人も、あるいは多いかとも思われますが、私としてはうなずく人のアシストをしたい気分にさせられます。

巻第二

相聞

磐之媛命の恋歌

     『仁徳天皇を思ひて作らす歌』
かくばかり 恋つゝあらずは
    高山の 岩根(いはね)しまきて
  死なましものを
          磐之媛命(いわのひめのみこと) 万葉集2巻86

これほどに 恋しいくらいなら
  高い山に果て 岩を枕にして
    死んでしまった方がましです

 磐之媛命(いわのひめのみこと)は仁徳天皇の正妻です。仁徳天皇は立派な古墳で名前を覚えている人もあるかも知れませんが、あるいは五世紀前半頃に活躍した天皇なのかな。税を免除することにより、民の活力を取り戻した、文字通り仁(じん)と徳(とく)によって国を治めたとされる天皇として知られます。彼の和歌といえば、

高き屋に のぼりて見れば
  けぶり立つ 民のかまどは にぎはひにけり
          仁徳天皇 新古今集707

が有名ですが、これは後の仮託とされます。一方で妻の方はといいますと、『古事記』や『日本書紀』には、嫉妬深い女性として描かれていますが、嫉妬は愛情の裏返しとも言いますから、ヒマラヤ登山に果てるほどの決意表明にも、激情の女の一端は、表われているのかも知れませんね。万葉集の相聞(そうもん)、つまり恋歌の開始は、彼女が夫を思う四首の短歌から開始しています。

 これも巻第一の武を持って治めた雄略天皇の解しに対して、仁を持って治めた仁徳天皇という図式もあるのかも知れませんが、『古事記』などを見ると、仁徳天皇自身の和歌で始めることも可能だったようにも思われますから、万葉集においては、磐之媛命の作品自体が、愛情として真実味の籠もる、巻頭を飾るに相応しい短歌と見なされたからこそ、こうして開始を告げるのであって、その他のことは、周辺自称には過ぎないものと、眺めた方が良さそうです。

大伯皇女の歌

     『大津皇子、ひそかに伊勢神宮(いせのかむみや)にくだりて、
        上り来る時に、大伯皇女の作らす歌』
わが背子を
  大和へやると さ夜更けて
    あかとき露に 我(あ/わ)が立ち濡れし
          大伯皇女(おおくのひめみこ) 万葉集2巻105

大切なあの人を
  大和へ見送ろうと 夜も更けて
    あかつきの露に わたしは立ち濡れる

 686年、天武天皇が亡くなると、天武天皇の息子のひとりである大津皇子(おおつのみこ)は、姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)の元へ訪れ、その後に謀反のかどで自害に追い込まれています。時期天皇候補である草壁皇子との、何らかの確執や、実際のクーデター計画でもあったものでしょうか。大伯皇女の短歌は、まるで弟との再開に、深い不安でも感じたかのように、彼を見送ったまま、立ち去ることも出来ず、夜明けの始まる頃の露に、立ち濡れる様子を詠んでいます。

 あるいは、後世の歌人が詠んだものかも知れませんが、いずれにせよ、見送ったまま「さ夜更けて」さらに「あかとき」の露に、ずっと立ったまま濡れているという状態は、二度と逢えない別れのような印象を、聞き手に感じさせることに成功しています。

石川郎女に贈る御歌

あしひきの
  山のしづくに 妹待つと
    我(あれ/われ)立ち濡れぬ 山のしづくに
          大津皇子 万葉集2巻107

(あしひきの)
   山のしずくに 恋人を待って
     わたしは立ち濡れる 山のしずくに

 こちらはその大津皇子が、まだ危機感もなく、石川郎女に恋歌などを送っている頃の短歌。姉の沈んだトーンとは異なり、山のしずくに恋人を待つというのは、アナログ時計の秒針や、雨だれに時間を数えて、じらされながら、待ちわびるような印象です。そして「山のしづくに」を二回繰り返すことによって、一方では待つことを強調しながらも、その調子は深刻なものではなく、軽快でリズミカルです。その生き生きとした、恋人を待つ心情が、この短歌の魅力です。

石見(いはみ)の歌

     『石見国(いはみのくに)より妻に別れて上り来る歌の反歌』
さゝの葉は
  み山もさやに さやげども
    我(あれ/われ)は妹思ふ 別れ来ぬれば
          柿本人麻呂 万葉集2巻133

笹の葉が
  御山でしきりに さやいでいるが
    わたしは妻を思う 別れて来たので

 長歌を含めて『石見相聞歌(いわみそうもんか)』と言われる、柿本人麻呂の代表作の一つです。もちろん内容が優れているから有名なのですが、一方では「別本の歌」を長歌から乗せて、詩作の制作と推敲の課程が読み取れそうなところも、あるいはその名声に、一役買っている可能性もあります。内容は、石見国(いわみのくに)から都にのぼるときに、妻と別れるに際して詠まれたもので、この妻は、赴任先で作られた、出張妻ではないかとも考えられているようです。

 長歌では、分れ来る道で、自分が何度も振り返って見るけれど、もうすっかり離れてしまったことを詠んでいるのに対して、一つ目の反歌が、妻も私を見ているだろうかというもの。ここに紹介したのが二つ目の反歌で、長歌の最後に「なびけこの山」、つまり草がなびくように横になって、妻のいるところまでの視界を開かせよと述べたのに対して、その呼びかけに対して、
     「笹の葉が、山にさやぐばかりであった」
という現実としての、殺風景な答えを提示しつつ、それでもわたしは妻のことを思っていると、和歌全体の心情を、改めてまとめたものになっています。ただ、笹の葉のさやかな印象と、別れた妻を思う、晴れない心情の対比が、み山の場景に委ねられ、単独の短歌としても、優れたものになっている。優れた反歌が、詩的に結晶化された独自性を高めるほど、全体としての長歌が、かえってやぼったくなったとき、あるいはこの長歌と反歌という、ちょっと様式的傾向が過ぎる表現方法は、形骸化して行くのかも知れません。

 それにしても、柿本人麻呂の作品が、そうなる直前の、長歌と反歌の統一された表現の、ピークを形成しているように感じられるのは単なる錯覚で、ただ彼にとってこの形式が、自らの表現力を生かすべき、特別なジャンルに過ぎなかっただけということもあり得ます。

挽歌(ばんか)

結び松の歌

     「有間皇子、みづから傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首」
岩代(いはしろ)の
  浜松が枝(え)を 引き結び
    ま幸(さき)くあらば また帰り見む
          有間皇子(ありまのみこ) 万葉集2巻141

岩代の
  浜松の枝を 結びあわせて無事を祈り
    生きながらえたら また戻り見られるだろうか

家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を
  草枕 旅にしあれば
    椎(しひ)の葉に盛る
          有間皇子 万葉集2巻142

家にいれば うつわに盛る飯を
  (くさまくら) 旅にあるから
     椎の葉に盛る

 658年に、謀反のかどで中大兄皇子(なかのおおえのみこ/おうじ)(後の天智天皇)によって処刑された、有間皇子(ありまのみこ)の二首の挽歌です。中大兄皇子のもとに連行中の、和歌山県日高郡みなべ町にある岩代(いわしろ)で詠まれたものとされ、一つ目は、そこの浜松に、普通であれば羈旅の安全を祈る行為なのでしょう、無事を願って松の枝を引き結び、その効力があればまた帰って見ようという内容です。

 もちろん、祈願の精神は、その瞬間には、心から松のご利益を信じ、無事を祈るものには過ぎませんが、「ま幸くあらば」という表現に、信じ切れない何か、不安のようなものが籠もるように感じるのは、あるいは詠まれたシチュエーションが、聞き手の心理状態に作用するせいでしょうか。恐らくは、別の機会に詠まれた羈旅の歌が流用されたとしても、このように詠まれうるくらいの範疇には過ぎない表現かとも思われます。

 これに対して二つ目の短歌も、やはり収められたシチュエーションによって、印象を移しかえられているようです。つまりは、ご飯を葉っぱによそって食べているくらいでは、初めの短歌との脈絡もなく、そもそも死の気配の迫るものが、観念に詠むべき内容としては、完全に位相がずれていますから、一句目の祈願に合わせて、神への手向けものとしての食物を、椎の葉に盛ってお供えしていると捉えるのが、二首統一の足場かと思われます。

 ただし、通常の羈旅の歌であれば、何の不幸も感じられず、むしろユーモアすら感じられるような短歌であり、キャンプの夜に歌われても構わないくらいです。それで、もし後世の歌人が「有間皇子」の辞世の句として、詠んだものとしては、あまりにもその精神が乖離しているものですから、別の機会に有間皇子が詠まれたか、知られた既存の羈旅の和歌を、誰かが挽歌と見なして、結び合わせようにも思われます。

 もちろん、そのことが結び合わされた後の価値を、劣らせることはありません。最終的な形状がすぐれたオブジェであれば、個々のパーツの多様性は、マイナスに作用するものではありません。むしろ時にプラスに作用するくらいのものですから。

天武天皇崩御の歌

     『天武天皇の崩(かむあが)ります時』
北山に
  たなびく雲の 青雲(あをくも)の
    星離れゆき 月を離れて
          持統天皇 万葉集2巻161

北山に
  棚引いている雲 その青雲は
    星を離れてゆき そして月を離れて……

 持統天皇と言えば、703年、はじめて天皇として火葬にされた女帝としても知られますが、あるいは様々な宗教への感心が高かったのでしょうか、これと共に収められた、もう一首の短歌にも、

燃ゆる火も 取りて包みて
   袋には 入るといはずやも 智男雲
          持統天皇 万葉集1巻160

という、謎に満ちた短歌が残されていますが、あまりにも謎めきすぎて、結句もあるいは「いはずや、面智男雲」かも知れませんが、学者が精力を傾けても、解読が出来なくなってしまっています。ただ二つの和歌とも、発想が当時の日本の表現の範疇から離れているばかりでなく、中国のものとも異なる気配がして、むしろオリエントめいた風が感じられますから、ヒンズー教など、別の宗教の知識を元に詠まれたものかも知れません。

 ただこの「北山に」の短歌に関しては、むしろ今日の感性にはきわめて馴染みやすく、星が歌われることもめずらしい万葉集においては、清新な印象を受けますし、同時に青雲(せいうん)が星と月を離れるというのは、単なる情景描写などではなく、死者の魂など、なんらかの意図を込めていることが、和歌自体から悟れますから、独特の魅力を持った、さりげない秀歌になっていると言えるでしょう。

大伯皇女の歌二首

     「大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬(はぶ)る時、
        大伯皇女の悲しびて作らす歌二首」
うつそみの
  人なる/にある我(あれ/われ)や 明日よりは
     二上山(ふたかみやま)を 弟背(いろせ)と我(あ/わ)れ見む
          大伯皇女(おおくのひめみこ) 万葉集2巻165

この世の 人であるわたしは
  明日からは み墓となった二上山を
    愛する弟と わたしは見るでしょう

磯のうへに
  生(お)ふる馬酔木(あしび)を 手折(たを)らめど
    見すべき君が ありと言はなくに
          大伯皇女(おおくのひめみこ) 万葉集2巻166

磯のほとりに
  生えた馬酔木(あせび)を 折り取ろうとしたけれど
    もう見せるべきあなたが いる訳ではないのに

 大津皇子が埋葬されるとき、姉の大伯皇女が詠んだ二首で、大津皇子の辞世の句は、巻第三に納められていますから、ちょっとばらばらに分けられているのが、不思議な気もします。あるいはひとまとまりの巻第一、巻第二には、手を出したくなかったのでしょうか。わたしには分かりかねます。

 はじめの短歌は、これからは埋葬された山を、弟として眺めるだろうという感慨で、後のものは、あるいは弟が好きだった花でしょうか、馬酔木(あせび)を折り取ろうとしたけれど、もう彼はいないと気がついた。生前当たり前に繰り返されていた感慨が、一瞬だけ先に湧いてしまった、そんなふとした瞬間の、わびしさを詠んだものです。

 あるいは「磯のうへに」の印象や、シーズンの違いからでしょうか、万葉集の選者は、この「馬酔木」の短歌を、大伯皇女が伊勢神宮の巫女(斎宮・さいぐう)から外されて都へ戻る途中に、弟の死を聞いて詠んだ和歌ではないかと推察しています。

日並皇子の殯宮の時

     『日並皇子(ひなみしのみこ)の殯宮(あらきのみや)の時の歌』
島の宮(みや)
  まがりの池の 放ち鳥(はなちどり)
    ひと目に恋ひて 池にかづかず
          (柿本人麻呂) 万葉集2巻170

島の宮の
  まがりの池に 放し飼いの鳥は
    亡き人が恋しくて
  池に潜ろうとしないのか

 こちらは日並皇子(ひなみしのみこ)、すなわち天武天皇の子にして次期天皇が予定されていた草壁御子(くさかべのみこ)が、即位前に亡くなってしまった時の、柿本人麻呂の挽歌です。島の宮は、皇子の住まれていた宮のことで、そこの池に放ち飼いにされていた鳥が、人目が恋しいので、池に潜ろうとしないと詠んでいます。二つの反歌を持つ長歌の後に、「ある本の歌」として載るものですから、正式な葬儀に使用される長歌ではなく、それとは別に思いを委ねたような短歌かも知れません。

 ちなみに、この短歌の直後に、日並皇子の舎人(とねり)、つまり従う役人たちが詠んだ短歌が二十三首並べられていて、当時の一般的に和歌を詠む場合のレベルを、垣間見ることが出来るのには、秀歌とは違った面白さがまた潜んでいるようです。

但馬皇女をしのぶ歌

     『但馬皇女(たぢまのひめみこ)の薨(こう)ぜし後、
       冬の日、雪降るに、み墓を遥かに望み、
        悲傷流涕(ひしょうりゅうてい)して作らす歌一首』
降る雪は あはにな降りそ
  吉隠(よなばり)の 猪養(ゐかひ)の岡の 寒からまくに/くあらまくに
          穂積皇子(ほつみのみこ) 万葉集2巻203

降る雪よ 沢山積もるな
  吉隠の 猪養の岡にあるみ墓が 寒くなるだろうから

 但馬皇女(たじまのひめみこ)も、天武天皇の娘です。万葉集全体が、大伴家持の一味に支配されているのと同じように、万葉集の前半は、天武天皇とその家族たちで、固められているような気分もします。一方では柿本人麻呂が棒を振り回していますが、何しろ詠み手の穂積親王もまた、天武天皇の息子には過ぎませんから。ただ母親は異なり、但馬皇女とは恋愛関係にあったともされていますが、真相は不明です。

 吉隠(よなばり)は奈良県桜井市にあり、岡もその辺りのものですが、埋葬された彼女が寒がらないように、雪よ降り積もるなと言う内容で、簡単な心情を地名によって様式化を計るという、万葉集の基本的なパターンに乗っ取っています。パターンというのは、感動を与えやすいから、定型となったものには過ぎませんから、それだけに効果的で、かけがえのない短歌になっているようです。

千代につづく歌

     『河辺宮人、姫島の松原に、
       娘子(をとめ)がかばねを見て、
         悲嘆して作る歌』
妹が名は 千代(ちよ)に流れむ
   姫島(ひめしま)の 小松がうれに
      苔生(こけむ)すまでに
          河辺宮人(かはへのみやひと) 万葉集2巻228

この娘の名前は 千代まで伝わるだろう
   いつか姫島の 小松のこずえに
      苔が生すその日まで

 姫島(ひめしま)は淀川の河口付近にあった島で、そこに横たわる少女の死骸を見て、河辺宮人が「彼女のいたことは、せめてこの和歌によって、千代に残されるように」と願った思いが、姫島も小松も尽きたこの二十一世紀に、形を変えて、「君が代」という国家となって、今でも歌い継がれているという、壮大なメルヘンです。

志貴皇子をしのぶ歌

     『志貴皇子の薨(こう)ずる時の歌より短歌』
高円(たかまと)の 野辺(のへ)の秋萩
  いたづらに 咲きか散るらむ
    見る人なしに
          笠金村(かさのかなむら) 万葉集2巻231

高円の 野辺の秋萩は
  むなしく 咲いたり散ったりしているだろうか
    もう見る人もいないのに

 こちらは、天智天皇の息子である志貴皇子(しきのみこ)が亡くなった時の長歌より、二首の短歌のうち一つ。長歌に付けられた短歌は「反歌」と呼ばれるのが普通ですが、「短歌」と記されたものも幾つか存在します。高円山は、奈良市の東部にある春日山の南に位置し、そこに皇子の宮があったものと思われます。

 そこの秋萩が、勝手に咲いたり散ったりしているだろうか、見る人もいないのでという内容で、萩にとっては何の事やらですが、それも結局は詠み手が、萩に委ねた思いには違いありません。直接「あなたがいなくて泣きました」とか「生きたかりけり」などと述べられると、あさましいような興ざめを引き起こすものですが、こちらの短歌は、何度読み返しても、事実としては「むなしく」あろうと「見る人もいない」状況であろうと、お構いなしに咲き散る萩の花には過ぎません。

 思いを委ねているからこそ、心情は間接表現されて、子供が感情を丸出しにするようには響かず、心地よい短歌でいられる……もとより、いつでも間接的な表現が優れているものでは、まったくありませんが、直接的な心情表明が、同じ心情を共有している当事者にならともかく、ある意味で特別な立場にある、詩の鑑賞者からすれば、あまりひけらかされると、興ざめを誘いがちなのは事実です。それで「死なれざりけり」などと宣言されても、日常語として直接関係にあるならば、大いに訴えるところはありますから、ドラマの台詞としては(古語を改めれば)不都合もありませんが、それが詩として表現されると、その心情をひけらかしたいために、わざわざ短歌を拵えたような、素直ではない心情へと取って代わられてしまう傾向があるようです。聞いている方は、むなしさばかりが後味悪く、残されるようなものには過ぎませんでした。

               (つゞく)

2016/08/13

[上層へ] [Topへ]