ふたたびの万葉集 その八

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ふたたびの万葉集 その八

 さて、「ふたたびの万葉集」では、
     [心情⇒着想⇒様式化]
というプロセスで、短歌が成り立つものとして、和歌を眺め、また自分たちの短歌にも、それを応用してみたりしました。けれども、自分で作っていれば、すでにお分かりかと思いますが、心情と着想はしばしば混ざりあい、着想のあとに様式化がくるとは思えないくらい、着想と様式化はごっちゃになります。かと思うと、特定の表現だけが先に生まれてしまい、そこから短歌を生みなすこともあるくらい、このプロセスは便宜上のものに過ぎませんでした。

 そのような訳で、「ふたたびの万葉集」の仕上げとして、実際にはどのような成り立ちで、和歌が詠まれているのかを眺めながら、最後の四巻を紹介していこうかと思います。それで一応、短歌の講義も一段落を迎えるでしょう。

巻第十七

 これ以降は、大伴家持の私歌集、というスタンスで、今は良いかと思います。その冒頭は大伴旅人が大納言になって、みやこへ戻るに際して、従者たちが海の旅を恐れ悲しむような短歌から始まります。さらに、家持の弟の書持(ふみもち)が、大宰府での梅の宴に、後から応じて作った和歌が収められるなど、以前の巻に収められた時期とかぶる和歌が並べられ、次の時代の和歌としては、下の作品からではないかとされますので、眺めてみることにしましょう。

降る雪の
  白髪(しろかみ)までに 大君に
    仕へまつれば 貴(たふと)くもあるか
          橘諸兄(たちばなのもろえ) 万葉集17巻3922

降る白雪くらいの
  白髪になるまでずっと
    天皇家にお仕えするとは
  ありがたくも 恐れ多いことです

 745年、ようやく聖武天皇(しょうむてんのう)(在位724-729)が平城京へ還都(かんと)[都を元の場所に戻すこと]して、さまよえる朝廷時代が終わり、その翌年の正月、女帝であった元正太上天皇(げんしょうだじょうてんのう)[先の天皇]のところへ、左大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)を筆頭に貴族たちが出向き、雪掻きをしたときの和歌です。

 一週目でも見ましたので、覚えている方もあるかも知れません。雪かきをした後の酒宴で、元正太上天皇が「雪で歌を詠め」と仰せになり、皆が短歌を詠んでいったという、宴の和歌になっています。これはその時の左大臣の短歌。すでに63歳でしたから、あるいは実際に、白髪だったのかと思われます。

 さてこの場合、「雪を詠め」という「お題」が与えられています。このように出された題に基づいて和歌を詠むことを、題詠(だいえい)と言いますが、あらかじめ出されている場合ならともかく、今回のようにふと高貴な方が思いついたようなシチュエーションでは、その場で即興に和歌を詠まなければなりませんから、私たちがノートに落書きをして、のんびりカフェでも楽しみながら、推敲を重ねているゆとりはありません。

 左大臣として元正太上天皇を(なんらかの表現で)讃えながら「雪を詠む」という、自らの置かれた立場から出発して、表明すべき心情としては、
     「長らくお仕えして、ありがたくも恐れ多い気持ちです」
と自分の年齢を生かしたようなものにしよう。とあるいは橘諸兄は考えたかも知れません。すると運がよいのか、悪いのかは知りませんが、自分はすっかり白髪になっていることが、すぐに浮かんで来ました。

 この白髪に、雪の白さを掛け合わせて、長年の勤務をありがたく思う和歌にしよう。皆の代表として、大げさするのもあさましいし、小賢(こざか)しいのも体裁が良くないから、ごく普通の語りで、「仕えれば恐れ多いことです」とまとめよう。

 恐らく、歌を詠むのも、一番初めなのでしょう。即座にこの程度のことを考えて、滔々(とうとう)と詠み上げなければなりませんでしたから、きわめて素直な叙し方なのは、自分の地位だけでなく、時間がなかったせいもあるかと思われます。

 以上、これまでの見方で説明してみましたが、実際は「雪」という題を与えられての短歌ですから、「長らくお仕えして、ありがたくも恐れ多い気持ちです」という心情を込めようとして、何かを探すような思考にはなりません。ともかく「雪」から連想されるもので、祝福に結びつきそうなものを浮かべていくと、即座に自分の髪が白いことに気がついたものですから、「こんなに白くなるまで、お仕えしてありがたい」という心情を込めて、まとめようと決定した。

題詠

 つまり着想の一部が先に生まれて、それから心情が定められたような所が、橘諸兄の短歌の、実情かと思われます。もちろん、このような状況に陥ることは、私たちにはあり得ませんが、題詠自体は、もちろん、何を眺めてもそれを和歌に出来るようにする、良い練習にはなりますから、「その七」ではお休みしていた、練習を再開してみるのも愉快です。
 いくつかお題を出しておきますから、
  お好きなものを利用して、
   もちろん全部やっても構いません。
  ノートに短歌を記しましょう。
 もちろん「ふたたびの万葉集 その八」と、
  見出しを付けておくのが便利です。
   西暦から日付も付けましょう。
    後から見たときに有用です。

・「桜」を題に「別れ」を詠め。次に「出会い」を詠め。ゆとりのあるものは「出会いと別れ」の両方を折り込んだ短歌にせよ。

・「流れる雲」を題に、「過ぎゆく思い」「過ぎゆく時」を織り込んで、一首ずつ詠め。(より高度なものに挑戦したい場合は、その一首ずつを関連づけて、贈答歌にせよ)

・「りんご」を題に「重力」を詠め。
  (「巨人引力」という表現も可とする。)

 やれやれ、困った執筆者ですね。
  いくら皆さんだって、そこまで暇じゃありませんよ。


     「巨人引力ってか」
リンゴはな
   大地が好きで 引き寄せる
  落ちたんじゃねえ 愛したんだよ
          いつもの彼方

     「じゃあ出逢いと別れで」
よいざくら
   口づけしました 公園に
  今また散ります 君にさよなら
          課題歌 時乃遥

     「返歌よろしく」
恋しさは
   過ぎゆく誰の 影法師
  かすかにたなびく 三日月の雲
          贈歌 時乃旅人

     「宿題多すぎです」
砂時計
  また逆さまに する君を
    いつまで待ちます 雲は流れて
          返歌 時乃遥

次の和歌

秋の夜は 暁(あかとき)寒し
  しろたへの 妹がころも手(で)
    着むよしもがも
          大伴池主 万葉集17巻3945

秋の夜は 夜明け前が寒いなあ
  (白妙の) 妻の着物を
    一緒に着るすべがあればなあ

 746年、越中国(えっちゅうのくに)の守(かみ)[四等官のトップ]として赴任した、大伴家持(717/718頃-785)でしたが、その時に掾(じょう)[四等官の三官]を勤めていたのが大伴池主(おおとものいけぬし)(?-757?)でした。あるいは家持とおなじくらいの世代なのでしょうか、越中時代からその後も、和歌の贈答を行っています。その最後は、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱において、首謀者の一人として、獄中で亡くなったのではないかとされています。

 短歌の中心となる心情としては、
   「夜明けは寒いなあ、妻が一緒だったらなあ」
となりますし、それでよいのですが、実際の動機と考えると、「夜明けが寒い」か「妻が恋しい」のどちらかが浮かんで、それをもとに、短歌として表明すべき、心情が生まれてきたと考えられます。つまり、
     [思い]⇒[心情]
という段階が、存在していたと見ることが可能です。いずれ着想の段階ではそれが一つの心情として結びつき、[現在の状況の提示]⇒[妻への回想]という簡単な構図として、様式化されたものと思われます。三句目の枕詞を導入として、下の句を導き出すのも、当時の短歌の、定番のスタイルに乗っ取っています。

 そして、そのような定番スタイルが身についてさえいれば、「夜明けが寒い」「妻と一緒にいたい」くらいの素朴な心情に、ちょっと「秋の夜は」と説明を加えてやれば、いきなり先生に名前を呼ばれて立たされても、それなりの短歌は詠めるようになる。

 枕詞も序詞も、類似のパターンも、場合によっては使いまわされるフレーズも、和歌を即時的に詠みなすための、必要な道具箱だったのかも知れませんね。

あらたまの
   年かへるまで 相見ねば
 こゝろもしのに 思ほゆるかも
          大伴家持 万葉集17巻3979

(あらたまの)
    年が改まるまで 顔を見ていないので
  止まない恋しさにしおれるように
     あなたのことばかり考えています

 さて746年、越中に赴任して、大伴池主とも和歌の贈答を行う家持でしたが、一方では赴任後まもなく弟の大伴書持(おおとものふみもち)が亡くなり、自分は病気に苦しみ、妻の大伴坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)はみやこに残ったまま。ずいぶん寂しい思いもしたようです。これは、開けて西暦747年5月12日に、夜のうちに急に妻が恋しくなって、作られた長歌と短歌のうち、短歌の一首になっています。

「しのに」というのは「しっとりと、しみじみと」といった意味と、「しきりに、しげく」という意味がありますが、あるは、「露などでしっとりと濡れる、しきりに濡れる」という寄り添った表現かと思われます。もとより連作ものの一首ですから、全部で四つある短歌は、それぞれが長歌の内容から詠み起こされ、全体の一部に過ぎないことは言うまでもありません。

 この短歌は、一番初めに置かれていますから、年が改まるまで互いに見なければ、という長歌の開始部分に基づいて詠まれています。したがって、短歌の着想から、様式化にいたるまで、もとの長歌をもとに、導き出されたものとして、眺めなければ、由来は説き明かせません。

 これまで紹介してきた短歌のなかにも、実際にはこのように、長歌の後の短歌であったり、またいくつかの連作的な短歌の一つであるようなものも、結構含まれるのですが、実際の短歌が、なかなか、
     [心情⇒着想⇒様式化]
のようにパターン的には詠まれないことは、よく分かるかと思います。ただ、仮にそのように説明を加えても、短歌の心情や様式を探るには、不都合はありませんから、私たちもこれを利用している訳です。以前述べたように、その便利なものが、便宜上のものに過ぎないという、当たり前の事実を忘れて、このようなパターンが存在するなどと、思い始めたら、それは本末転倒な話にもなる訳ですから、そこだけ注意して欲しいと思います。

     「礪波郡(となみのこほり)の雄神(をかみ)の川辺(かはへ)にして作る歌一首」
雄神川(をかみがは)
  くれなゐにほふ をとめらし
    葦(あし)つき取ると
  瀬に立たすらし
          大伴家持 万葉集17巻4021

雄神川に 紅色が照り輝いている
  乙女たちが アシツキを取るために
    川瀬にたっているようだ

「雄神川」は、岐阜北部から富山県の砺波市(となみし)などを流れて、富山湾にそそぐ庄川(しょうがわ)の古名です。「葦付(あしつき)」は黒っぽいイボイボしたようなものが、川底の岩などに成長する「アシツキノリ」のことではないかと言われています。一方で、「カワモズク」という説もあるようです。

 河辺で作った歌ですから、はじめに乙女らが、川瀬に立っているのを眺めて、その裳の色が鮮やかなのが目に付いた。その情景にこころを引かれて、短歌にしたものと思われます。ただそれを、そのまま表現せずに、一つの詩的情景に移しかえるのが、家持の家持たるところで、「雄神川くれなゐにほふ」というのも、いくら乙女らの裳が鮮やかでも、彼女たちの存在より前に、その服の紅色だけが映し出されたような演出は、実際の認知としては、疑わしいくらいです。

 なぜなら、「雄神川くれなゐにほふ」という表現は、さぞ紅色が、「雄神川」の印象を支配するくらいの、鮮やかさで描き出されていますから、赤い裳のあたりに視点がクローズアップされている様相ですが、「ああ乙女たちがいるのか」と気がつく情景は、むしろある程度の距離感を保っています。

 ですから、実際には「乙女たちが紅色の鮮やかな裳を着て立っているな」くらいの感慨であったものを、さも雄神川に紅色が照り輝いて、なんだろうと眺めてみると、「ああ、乙女らが、アシツキを取ろうとして、瀬に立っているるのか」と始めて気がついたように仕立て上げている。その際、四句五句の表現はきわめて重要で、「らし」の推量によって、乙女らが何をしているのかは明瞭ではなく、どこまでも「雄神川くれなゐにほふ」の印象だけが、聞き手のうちに確定的な印象として残される。

 おそらくこれだけ説明をされても、実際の短歌を詠むと、少しも不自然にも、人工的にも、虚偽弁明にも聞こえないと思います。それは家持の情景提示の表現が完璧なこともありますが、詠み手がその情景から受けた印象としては、まさに鮮やかな紅色の映える光景ばかりが、心に刻まれれたから、そのように詠まれたからに他なりません。

 つまりこの短歌は、その現場の、リアリズムにもとずいた表現としては、虚構が含まれているのですが、最終的に詠み手の心に残された印象としては、この表現こそが詠み手の中での真実であり、何も虚偽を述べてはいない。それが聞き手にも伝えられるから、嘘を付かれたのではなく、心情を効果的に伝えるための、修辞の手続きを済ませた、すばらしい作品のように思われ、すなわち、共感する事が出来る訳です。

 けれども皆さまは、
  このようなファインプレーは、
   真似しなくって良いかと思います。
  家持も初めから、
 これほどの巧みだった訳ではありませんから。

巻第十八

 家持は、748年初め頃、橘諸兄(たちばなのもろえ)の使者として越中を訪れた田辺福麻呂(たべのさきまろ)を歓待します。一方で大伴池主は、越前国(えちぜんのくに)[福井県東部]の掾(じょう)となって移転、その後任に久米広綱(くめのひろつな)が赴任しますが、彼らは皆、大伴旅人の筑紫歌壇ならぬ、息子家持の越中歌壇(えっちゅうかだん)の面々に他なりません。

 この巻は、ユニークな長歌がいくつも収められ、749年、陸奥国(むつのくに)で我が国で初めての金が産出されたことを喜ぶ長歌や、妻がありながら遊女と同棲している部下を考えあらためさせる長歌といった、和歌のあり方として非常に面白いものまであります。さらに大伴池主の寄越した漢文と和歌など、見どころは満載です。

ほとゝぎす
   今鳴かずして 明日越えむ
  山に鳴くとも しるしあらめやも
          田辺史福麻呂(たなべのさきまろ) 万葉集18巻4052

ほととぎすよ
   今鳴かないで 明日越える
 山で鳴いたって なんの意味もないぞ

 これは、久米広縄(くめのひろつな)の館で、おそらく都に戻る、田辺史福麻呂(たなべのさきまろ)の、餞別の宴での一首。「しるし」は「甲斐」とか「ごりやく」「効果」といった意味になります。

 もちろん、その心情は、
   「不如帰(ほととぎす)よ、今すぐ鳴いて欲しい」
というものに過ぎません。それを直接述べずに、「明日鳴いても甲斐はないぞ」としたのが着想ですが、実際は「明日帰らなければならない」ことを送別するための宴の席ですから、心情としての「不如帰よ、今すぐ鳴いて欲しい」というのは、短歌となった結果としての心情に過ぎず、別れの気持ちをどのように歌にしよう、という着想を考える方が、まずは先にあったものかと思われます。

 そこで浮かんだのが、ここで不如帰を一緒に聞きたい、明日になったら分かれてしまうのだから、という着想で、後は即興の短歌ですから、「明日鳴いても甲斐はないぞ」という機知くらいを共として、素直に様式化して詠(うた)って見せたものではないでしょうか。まさに宴会などで、即興で詠まれる、当座の短歌の典型と言えるでしょう。単純明快で、屈託もなくて酒の友です。

月待ちて 家には行かむ
  我(わ)が挿せる 赤らたちばな
    影に見えつゝ
          粟田女王(あわたのおおきみ) 万葉集18巻4060

月を待ってから 家に帰りましょう
  わたしの挿す 赤い橘を
    月明かりに映しながら

  橘諸兄の屋敷で、宴の際に詠まれた短歌です。
 あるいはそろそろ、おいとまするとか、
  しないとか、話でも出たのでしょうか、
   シチュエーションは分かりませんが……

  これも即興性の高い和歌です。
 家に帰るということについて、髪飾りと月との関連を閃いた。今日は十五夜を過ぎた後だから、月が昇ってから家に帰ろう。そうすれば髪飾りが、月のひかりを受けて、きれいな色を放つでしょう。「月を待つ」とあるからには、すっかり暗くなってから、月の出るまでに、少し間がありそうな気配がします。

 べつに詳細は、必要なさそうですが、
「赤ら橘」という表現について、橘の熟した時期と、宴の時期について、「これは造花ではないか」とう説も含めて、いろいろな解釈があるようです。なんだか、自分のほっぺたでも、赤ら顔になっているのを、ちょっと遊んだ表現のようにも思われるのですけれども……

焼大刀(やきたち)を 礪波(となみ)の関に
  明日(あす)よりは 守部(もりへ)やり添へ
    君をとゞめむ
          大伴家持 万葉集18巻4085

(焼大刀を) 礪波の関に
  明日からは 番人を増やせよ
    あなたの帰りをとどめよう

 東大寺の大仏は、聖武天皇が大仏造立の詔を出したのが天平15年(743年)、実際に大仏が鋳造(ちゅうぞう)され始めたのが747年で、752年に開眼式(かいげんしき)が行われます。そんな東大寺を維持するために、荘園(しょうえん)の墾田(こんでん)を求めて、各地に僧が派遣されました。これは749年、派遣された僧、平栄(へいえい)らの一行が、家持のもとを訪れた時に、贈り物の酒と一緒に添えられた短歌です。

「礪波の関」とあるのは、富山県と石川県の境にある礪波山(となみやま)[倶利伽羅峠(くりからとうげ)で知られる]にあった関所のことです。その関所は、すでに休業に近い状態にあったのを、「関守を増員せよ」と命令し、それによってあなたが都へ戻れないようにしよう。という、ちょっと荒っぽいような、「帰って欲しくはありません」という社交辞令になっています。
 どうも万葉集を眺めていると、歌人として大伴家持を眺めてしまいがちですが、実際は越中国の守(かみ)の地位にあり、部下を従えて業務を行っていた訳ですが、かえってこの短歌のような、強引な歓待の挨拶の方が、日常の彼を捉えているのかも知れませんね。

 和歌の成立について考えるなら、「あなたを留めたい」という思い、あるいは社交辞令がまずあって、それをどのように表現するか考える訳ですが、やはり相手が墾田を求める僧たちに過ぎないという点が、表現と大きく関わって来ます。つまり日頃の歌仲間のような、貴族どうしであれば、言わないような冗談になりますが、関所で留めて、帰さないようにしてやるぞ、という発想を思いつきます。もとより「守部やり添へ」というのも、実際に自分がそれを命令できる立場であるから、浮かんで来る発想で、そのような関所封鎖の臨戦態勢をまた、冒頭の「焼大刀を」という礪波に掛かる枕詞が、実にうまく演出している。「明日よりは」というのも、もちろん明日以降に一行が帰るからには違いありませんが、ついに日常の業務命令的なところが、そのまま口調になったようにも感じられます。案外このような武士的な傾向の方が、仕事をしているときの彼の、おもての顔だったのかもしませんね。それがちょっと垣間見れる、この短歌の魅力はそこにあるのかもしれません。

ほとゝぎす いとねたけくは
   たちばなの 花散(ぢ)る時に
  来鳴きとよむる
          大伴家持 万葉集18巻4092

不如帰が ひどく憎らしいことに
  たちばなの 花が散る時に
    来て鳴いている

「ねたけく」は「ねたし」の「ク語法」で、「ねたし」は「しゃくに障る」「憎たらしい」といった表現です。この短歌も、長歌と合せて全部で四首のセットになっていて、それを眺めると、ここで表現された「いとねたけくは」というひと言が、準備されて、満を持して詠まれたものであることが分かります。しかし、全体を紹介するものではありませんので、またこれまで通り、単独に詠まれたものと仮定して、眺めてみることにしましょう。

 この短歌は、「ほととぎすはひどく憎たらしい」という心情を詠んだものではありません。その出発点はやはり「ほととぎすの声が聞きたい」というありきたりの願望に過ぎないものです。ただもう一つの視点があります。それは花橘です。つまり詠み手は、橘の花が咲いているうちに、時鳥(ほととぎす)の声が聞きたかった。その取り合わせを、オーロラでも待つみたいに、ひたすら願っていたのです。けれども時鳥は鳴きません。橘の花は盛りを過ぎます。でも鳴きません。花は毎日散り急ぎます。でも鳴きません。そしてとうとう花は散り果て、自らの願いが叶えられないと分かったその刹那、時鳥がやって来て鳴きだした。それで待ち望んでいた時鳥の声ではありますが、見るも無惨な花橘のなれの果てを眺めると、可愛さ余って憎さ百倍、なんて憎たらしいと……

……とはなりませんよね、
   おそらくは人間の心理として。
 やっぱり時鳥の声が聞こえたときはうれしいのです。まずはうれしさが溢(あふ)れます。これまで散々待たされたことも、橘の花が散ってしまったことも忘れて、待ちわびたあの人に逢えた喜びで、もう心は一杯です。ただ散々待たされたものですから、橘の願いも廃れたものですから、「もう今日は絶対に許してあげないんだから」と、わざと怒った振りをしている。待たされた恋人たちのありふれた一ページと、つまりはおなじ心境です。

 つまりは、一種の擬人法の見立てで「いとねたけくは」と語っているのですが、鳥が畑を荒しでもすれば、たちまち憎たらしくもなりますが、なかなか橘が散ったくらいでは、逢えた瞬間の喜びを、打ち消すような心理状態には、ならないものかと思われます。それをあえて「いとねたけくは」と表現したのは、自然に沸いた心情と言うよりも、待ちわびた自分の心理状態を、一度客観的に眺めて、どのように表現したら良いか、つまりは着想を練った結果には違いありません。

 結論を述べれば、これは素直な心情から生まれた詩ではなく、今の心理状態と時鳥の来る前の心理状態とを比べて、この状況なら「にくたらしい」とも感じるだろうという、構想の上から成り立っている。それがちっとも不自然に感じないどころか、かえって私たちには、当然のようにすら思えてしまうのは、その心理状態が、相手が人間であれば、きわめて当たり前にわき起こる心情である。すなわち間接的に、擬人法を利用しているからに違いありません。

 大伴家持の短歌の凝った表現が、
  垣間見られたような気がしませんか。
   あまり出発点が長引いたので、
  それをどう短歌に様式化したのかは、
    省略したいと思います。

     「判官(じょう)久米朝臣(あそみ)広縄が館(たち)に宴する歌一首」
正月(むつき)立つ 春の初めに
   かくしつゝ
 相(あひ)し笑みてば 時じけめやも
          大伴家持 万葉集18巻4137

正月を迎え 春の初めに
  こうやって 互いに笑顔をするのは
    時節に合わないはずはないではないか

 750年の正月です。家持は33歳で、人生の中間くらいに差し掛かっています。あるいは皆さまは、まだ旅立ちの頃でしょうか、それとも家持とおなじくらいの、働き盛りでしょうか。あるいは終焉を、色づく紅葉のシーズンでしょうか。どのような人でも、たちまち自らの心情に基づいて、簡単に詩を作れる、プロもアマチュアも、初心者もベテランも関係なく。それが短歌のすばらしいところです。なぜならば必要なものは、言葉と心情、それだけなのですから。

「時じ」という言葉は、「その時でない」「時期が定まっていない」という意味で、「時じけめやも」は「その時でない、ということがあろうか」という内容ですが、ようするに「正月に笑顔を見せ合うのは、いつでもふさわしい」と言っているに過ぎません。文法マニアの方は、品詞分解をしても良いですけれど、一つのイディオムとして「時じけめやも」と覚えておけば十分です。覚えた表現がたまってきたら、自然に品詞の意味などにも、関心が向くかと思いますし、たとえ向かなくても、目くじらを立てたものではありません。覚えた表現さえたまってくれば、私たちは品詞分解などしなくても、日本語を話せるではありませんか。ただそれくらいの、ものには過ぎないものです。

 さて、正月の宴会での挨拶ですから、その場の状況がうれしくて、即興で詠まれたもの。しかし、宴会があるのは分かっていますから、事前に準備しておくことは可能です。そうして大伴家持という人は、万葉集に収められている和歌に、「あらかじめ作りおく歌」という注が幾つも残されている事から、このような場合には、あらかじめ和歌を作って、宴に臨むのをモットーとします。もちろんそれは、その場で詠うのが苦手などという事ではなく、どうせ述べるならすばらしい短歌を述べたいという、今日風に言えば、詩人のたましいがそうさせる。この短歌も、その場で生みなしたにしては、あまりにも整いすぎていますから、前もって考えられたものかと思います。そうであるならば、着想を練るゆとりも、おのずから生まれてくるというものです。

  これも状況が内容を規定します。
 まずはお正月の宴の席ですから、祝賀の気持ちと、集まり逢えた喜びを込めなければなりません。それから、その場で生みなされたような、即興性が求められますから、語りかけを意識した、簡単な詠み方が求められます。内容はもちろん、いろいろな可能性がありますが、
     「年の初めを一緒に祝えてうれしい」
くらいの表現は、もっとも無難なものの一つでしょう。これが今回の出発点、すなわち心情になります。(こんなことを書くと、全然素直な心情に感じられないかも知れませんが、完成された短歌から受ける心情が誠であればよい訳です。そうして最終的に受け取られる心情こそが、どれほど素直さを語っても、結局は人工物へと還元される詩というものに対して、作者がもっとも込めたかったもの、作品を通じて眺められる、素直な心情には違いないのですから。)

 そこで、挨拶のような語りかけを意識しながら、
   「一緒に祝えてうれしい」あたりを、
  凝った表現に移しつつ、アウトラインを定めると、
     「年の初めに、互いに笑い逢えたのが喜ばしい」
くらいの着想が出来上がります。

 それをちょっとした修辞で、そのまま記すくらいの作品は、これまで大分見ましたが、宴の挨拶にも、家持は手を抜きません。表現の洗練をめざします。まず「年の初めに」のところを、新たな年が来た、春が到来した、という二つの喜びを兼ねて「正月(むつき)立つ春の初めに」とします。さらに結句を「うれしい」や「よろこばしい」といった、日常的な感想からは引き離して、「時じけめやも」という凝った表現に移します。「時節にあっている」というような、情緒を客体化したような表現ですから、感情を表出した印象は弱まりますが、公の挨拶に叶ったものですから、主催者の挨拶の意義をまっとうしています。

 さらに、社交辞令的な挨拶を埋め合わせるように、三句目を「宴の席で」のような公的表現から、「かくしつつ」という、私的な語りかけへと変更し、互いに笑顔を見せ合ったことを、個人的な感情として表わしていますから、改まった感じと、打ち解けた感じのバランスが見事で、心情の表明が蔑ろにされていません。

 それで、短歌の完成のプロセスを考えて見ますと、以上のような作詩が、もちろん、実際にはこのような順番ではなく、はじめの心情に、宴の挨拶を兼ねて、どのように表現しようかと考えたときに、ほとんど一緒になって、つまり[着想⇒様式化]などという段階を経ず、ある表現が字数と共に定まれば、それに釣られて他のか所が生まれるように、ほどなく成立する場合もありますし、そうかと思えば、どうしても[着想⇒様式化]がうまく果たせず、そのまま眠らせて翌日に持ち越しされるような場合もある訳です。また、考えているうちに、新しく生まれた着想に取って代わられたり、たった一句を変えたばかりに、全体を作り直す羽目に陥ったり、あるいは、お気に入りの二句だけが先に出来て、そこから心情を組み立てることさえある。つまりは、その短歌、その短歌で、成立するプロセスなど、定式化できないというのが、実際の作詩の実情になります。

  もっとも、これまで、
 ノートを開いて、短歌を記してきた皆さまには、おそらくそれがよく分かっているのではないでしょうか。ただ忘れてならないのは、大伴家持のこの短歌が、これだけの練り上げ方をしながら、表現された内容は、まさにもっとも伝えたい思いを、通常の表現では思いもよらないような、様式美に乗せて、それでもしっかりと、相手に心情を伝えるためにこそ、短歌が存在しているということです。

 皆さまも、いろいろな修辞を身につけ、言葉にちょっとした含みを持たせたり、次第に表現の幅が広くなっていくと、ついその一番大切なことを忘れて、独りよがりの知恵に溺れたり、着想を頓知に仕立てて、それを聞き手に解かせるような、嫌みのある表現に陥りそうになることも、あるいはあるかも知れません。

 その時はどうか思いだしてください。
  どれほど技巧的になっても、あなたの思いを、
   ただ相手に伝えたくて、あらゆる詩は、
  歌われているには過ぎないということを……

 以上で、短歌の作り方、初級編は終了に致します。
  皆さまが、たとえ内容は取るに足りなくても、
   自らの言葉で表現された、自らのこころに返される、
    自らの宝物としての、言葉の結晶を、
   詠みなせたらよいと願っています。
  最後に『万葉集』の残りの二巻から、
 すぐれた和歌を紹介しながら、
  この『ふたたびの万葉集』を、
   終わりにしたいと思います。

巻第十九

 天平勝宝(てんぴょうしょうほう)二年三月一日から開始します。西暦なら750年。この時期の元号は非常にややこしく、けれどもそれはもちろん、朝廷の事情と絡み合っていますから、ちょっとだけ説明してみるのも悪くありません。

 聖武天皇(しょうむてんのう)(在位724-729)が即位して、しばらくしてから元号は天平(てんぴょう)へと変わります。学校でも「天平文化」を教わりますから、聞き慣れた元号です。その後、巻第十八の初めにお話しした、陸奥での黄金の産出によって、元号は天平感宝(てんぴょうかんぽう)へと変わります、ところがおなじ年の内に、聖武天皇は孝謙天皇(こうけんてんのう)(在位749-758/称徳天皇として764-770)へと移り、元号も天平勝宝(てんぴょうしょうほう)へと変わります。巻第十九は、それの二年から開始しているという訳です。

 孝謙天皇は、聖武天皇と、始めて藤原氏から皇后となった光明皇后の息子です。いよいよ藤原氏の血を引く天皇の登場により、平安時代の「あなたもわたしもみんな藤原」という恐ろしい貴族体制が生まれつつあるようです。すると後の世の、「平家にあらずんば」なんてひと言も、あるいは積年(せきねん)の屈辱「藤原にあらずんば」からの脱却を意味するような、勝利宣言の意味もあったのではないかと、くだらないことまで浮かんでしまうのでした。(もっとも物語の台詞をさらに改変したもので、歴史じゃないですが……)

  脱線しました。
 この巻は、大伴家持の越中時代後半から、別離の挨拶を経て、みやこへ戻っての和歌までを収めます。特に越中時代のものがメインで、しかも妻の大嬢も赴任先に来て、仕事もすっかり板についた様子で、目の離せないような傑作が並べられた巻として知られます。これには、家持の歌人としての力量が、完全に開花したという側面もあるかと思われますが、魅力的な和歌が目白(めじろ)の連なりあっています。

     「二日に、柳黛(りうたい)をよぢて都を思ふ歌一首」
春の日に
   萌(は)れる柳を 取り持ちて
  見ればみやこの 大道(おほぢ)し思ほゆ/大道思ほゆ
          大伴家持 万葉集19巻4142

     「二日に、柳の若芽を折り取って平城京を思う歌一首」
春の日に 芽吹く柳を
  手に取って 眺めていると
    みやこの 大路が偲ばれます

 詞書きの「柳黛(りゅうたい)」は、「柳の眉毛」の意味で、芽吹いた柳の若葉をたとえる表現です。黛(たい)はもともとは眉墨(まゆずみ)のことですが、今日眉毛を描くのと一緒で、描かれた眉毛も、眉毛と呼ばれるようなものです。「萌(は)る」は「ふくらむ」。「大道」は、平城京(へいじょうきょう/ならのみやこ)を、羅城門(らじょうもん)から平安宮(へいあんきゅう)へと直進する朱雀大路(すざくおおじ)のことで、幅が七十メートルもあり、柳が植えられていたそうです。

 ひとり言みたいに、何かをさらりと回想するときには、修辞を駆使したような和歌は、不似合いですから、ここでも感じたことを、率直に記しています。ただ三句目からの「取り持って見れば」という文脈が、四句目へと渡らされて、言葉の区切れと、短歌の区切れを、わざと違えている。(あるいは四句目の途中で切れている。)このような効果は、ちょっと様式を解体させて、日常の語りに近づける効果もありますから、なおさら相応しいような修辞です。

 ただし、この短歌を、決定的に魅力的なものにしているのは、そのような表現のディテールではなく、ただ眺めるだけでも都を思い出せる柳を、行為として「折り取って手に持った」という、詠み手の行動の方にあるかと思います。その行為によって、三句目の「取り持ちて」という表現が可能になり、聞いてる方は、詠み手と一緒になって、手に持つ柳が浮かんで来ますから、場景がリアルになっただけ、詠み手の語りかける心境も、おのずから間近に語られるようで、みやこを思う心も、それだけ深く伝わってくる。

 それに、柳をわざわざ手に持って眺めてみる態度は、ちょっと演技をする感じになりますから、観客が居ようと居まいと、眺める誰かを、意識したような役者根性が籠もります。つまり、自分に対するつぶやきのような表現だと思われたものが、なかなかに詠み手への配慮が見られ、言ってみれば舞台の上で、役者が迫真の演技でひとり言をつぶやくような感じになる。その対外意識と内向性のバランスが、この短歌の真の魅力かと思われます。

 ですから、柳については、実際は折ってもいないものを、そのように見立てて、和歌内での虚構を打ち立てたとも考えられる位ですが、でも、こういう発想をする人たちって、案外実際に手に持って、(ちょっとわざとらしく顔などしかめて見せて)、感慨に耽ってみたりすることを、喜びとするものです。そう考えると、なかなかの役者ですよね、大伴家持って。

     「夜のうちに千鳥の鳴くを聞く歌二首」のうち一首
夜くたちて/夜ぐたちて 鳴く川千鳥(かはちどり)
   うべしこそ むかしの人も
 偲(しの)ひきにけれ
          大伴家持 万葉集19巻4147

夜更けを過ぎて 川に千鳥が鳴いている
   もっともなことだ むかしの人たちも
      それを憐れんで来たのは

「くたつ」は盛りを過ぎ、衰えゆくような表現ですから、「夜くたちて」は夜のピークを過ぎ、明け方に近づいていく頃を意味します。「うべしこそ」は「もっともだ」くらい、「偲ふ」は「しのぶ」ことです。奈良時代には濁音化されていない表現が結構ありますが、これもその一つです。

 夜更けや、あかつきではなく、「夜くたちて」という凝った表現で千鳥の声を導き、感興を直接詠むのではなく、「昔の人たちが憐れんできたのも、もっともである」と表現する。「昔の人たち」というのは、この場合、同じように和歌を詠んできた先人たちの意味ですが、これによって、あまたの千鳥の声を讃えた和歌を、自らの感興に引き込むことになりました。もちろん、そこまで深読みしなくても、昔から偲んできたのだろうと言われると、昔から誰もが感興を催すような、すばらしい声であることが悟られますから、いずれにしても直接感慨を述べなくても、かえって読み手の思いは、十二分に伝わって来るという仕組みです。

 もちろんそればかりではありません。
  ちょっと自分のしのんでいる状況を、
   歴史時代の歌人たちと、同列化するような印象が、
  先ほど、柳の短歌で眺めた時のような、
 ドラマ仕立てに思われるとすれば、
  またほんの少し、役を演じながら、
   自分を歴代の歌人たちの、
    後継者に位置づけていると、
     取る事も可能かも知れません。

 このような巧みな表現は、家持が一人で勝手に、高みに登っているような気配もしますが、十六巻までの和歌とは、印象が異なるように感じている人もいるかもしれません。おおよそ、共通の表現に寄り添う傾向が見られた『万葉集』の和歌は、平城京へ移るのと合せて、次第に詠み方を変化させ、個性的な表現をめざすようになっていきます。さらに家持の私家集の頃には、その和歌かぎりの、他にないような、とびっきりの表現をめざす傾向が現われて、次第に勅撰和歌集の時代へと、移り変って行くようです。

     「都より贈来(おこ)する歌一首」
山吹の
  花取り持ちて つれもなく
    離(か)れにし妹を 偲(しの)ひつるかも
          (留女の郎女) 万葉集19巻4184

山吹の 花を取り持って つれなくも
  離れていったあなたを お慕いしております

  隠れキャラの登場です。
 家持の弟は生前しばしば登場しましたが、この作者は家持の妹です。ただ名称も加えず、(都に留まっている女)などと左注(さちゅう)[和歌の後に、加えられた説明書]に記してあるばかり、この後でもう一度、妻との絡みで名前が登場しますが、そこで妹であることが分かります。それにしても、扱いがぞんざいで、身内ゆえにとも思えますが、あまり仲も良くなかったのかな、など、ちょっとした邪推も湧いてきそうなくらいです。

 内容は分かりやすくて、ありがたいくらいですが、冒頭の「山吹の花を取り持って」という表現が、なんだか、自分のために取ってくれているのかと思ったら、たちまち走り出して、恋人のところに行ってしまった。ぽつんと残された、片思いの男性に自分を見立てたようで、効果的なもののように思われます。

 かえってこのくらいの和歌の方が、こだわった家持の表現よりも、ずっと生きているように感じる人も、おそらく結構いるのではないでしょうか。もしそう感じたなら、まわりに釣られて名歌などを崇めなくても良いのです。むしろ、その素直な表現をこそ、愛したらよいと思います。ありふれたものには過ぎませんが、この短歌にはもっとも詩に必要なものが、ちゃんと結晶化して、収められているのですから。そうして邪念もなくて、素直でありながら、ちょっと凝った表現というものが、あらゆる詩の出発点。あらゆる詩の帰り来る、王道であるには違いないのですから。

この里は
  継ぎて霜や置く 夏の野に
 我が見し草は もみちたりけり
          孝謙天皇 万葉集19巻4268

この里は
  常に霜が置かれるのでしょうか
    夏の野だというのに
  わたしが見た草は もう紅葉(もみじ)しています

 大納言である藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)(706-764)の家に、孝謙天皇と光明皇后(孝謙天皇の母)が行幸(こうぎょう・みゆき)[天皇が宮を離れて旅や訪問をすること]なされた時に、命婦の佐々貴山君(ささきやまのきみ)に「サワアララギ」一株を持たせて、仲麻呂へのお土産として渡された。その時に、一緒に添えられた和歌。ただし詠んだのは、お土産を手渡した佐々貴山君であると、詞書きに記してあります。

 その「サワアララギ」は、「サワヒヨドリ」とも「ヒヨドリバナ」ともされますが、どちらもフジバカマに似た、山間の湿地などに生えるキク科の植物です。それを、株ごと土産にして、一緒に和歌も詠まれた。もちろん事前に作っておいたものを、命婦に詠ませたのです。詞書きにわざわざ「命婦読みていはく」とあり、口で唱えたものであることが、強調されています。

 天皇の和歌というのは、勅撰和歌集の時代でも、屈託もなくて大様(おおよう)に構えたものが、比較的多いのですが、ここでも「この里はいつでも霜が降るのか」という単純な疑問を、「夏の野であるのに紅葉していた」と表明しているに過ぎません。四句目の「我が見し草は」というのが天皇らしくて、普通の短歌であれば、自分が詠んでいるのだから、「わたしが見た草」などと、ことさら加えないものですが、自分が特別な立場であるものですから、「わたしが見た草」、つまり今お土産に手渡した一株は、「天皇が見立てた草であるよ」と、配下に与える特別な贈り物であることを強調している訳です。今日の感覚なら、ちょっと高飛車にも思えるかも知れませんが、当時の社会では、受け取る側が、そのように言われることを誇りとし、喜びとするものですから、天皇もまた、純粋な好意でもって、そのような表現を加えているに過ぎません。

 このように、何も知らないと、ちょっと動きそうなものですから、添削してしまいそうな短歌でも、シチュエーションによっては、そのちょっと無駄なひと言が、もっとも大切な内容を秘めている場合もままあります。それはなにも、天皇に限ったことではなく、わたしたちが短歌を詠む場合にも、あえてちょっとくどくどしく加えた言葉により、わざとそこに注意を向けさせて、相手に悟らせるような技も存在することを、頭の片隅にでも入れておいてくださったら、いつか役に立つこともあるかも知れませんね。

あたらしき 年の初めに
  思ふどち い群れてをれば
    うれしくもあるか
          道祖王(ふなどのおおきみ) 万葉集19巻4284

あたらしい 年の初めに
  親しいもの同士 集まっているのは
    うれしいことではないか

 きわめて分かりやすく、
   屈託もない短歌です。
  前に登場した、

正月(むつき)立つ 春の初めに
   かくしつゝ
 相(あひ)し笑みてば 時じけめやも
          大伴家持 万葉集18巻4137

と比べてみるのもよいでしょう。
 なるほど、その姿は家持の方がはるかに優れていますが、かえって単純な喜びに勝る、道祖王(ふなどのおおきみ)の短歌に、こころ引かれる人もあるのではないでしょうか。かといって、そのような人たちにしても、家持の方が劣っているとは捉えないのではないでしょうか。短歌の価値というのは、なかなか簡単に、表現力の優れている方に籠もるものではなく、また詠まれる状況によっても変化しますし、極端な場合では、その日の気分によってさえ、一定以上の作品のAとBとの優劣が、逆になって感じられたりするものです。

 だからいって、優劣がないものでもなく、
  皆さまも、みずからが和歌を詠めば、詠むほどに、
   さまざまな状況を鑑(かんが)みても、
    Aの方がBより優れていると、
   優劣を付けられるようにもなっていきます。
  ただあまりその結論を、絶対的なものと捉えずに、
   常に自らの判断に、誤りは含まれるものであると、
    自覚してくださったら良いと願うばかりです。

 ところで、この道祖王(ふなどのおおきみ)、このときは宮廷の食事担当の大膳職(だいぜんしょく)のトップにありますが、この人もまた、後に橘奈良麻呂の乱に連座して、獄中で亡くなっています。鞭で打ち殺しにされたようです。

     『宮のうちに、千鳥の鳴くを聞きて作る歌一首』
川洲(かはす)にも 雪は降れゝし
  宮(みや)のうちに 千鳥鳴くらし
    居(ゐ)むところなみ
          大伴家持 万葉集19巻4288

川州まで 雪が降り積もっているので
  宮のうちに来て 千鳥が鳴いているのだろう
    降り立つところがないものだから

 二句目の「雪は降れゝし」という表現が、「降れりし」の言い間違いなのか、特殊な表現なのか、いろいろともめているようですが、ここではわざと言い違えてみせたくらいに考え、こだわらないで行きすぎます。「宮のうち」というのは、宮殿の内側、すなわち内裏(だいり)のことで、そこで聞こえた千鳥の声を、雪のせいで川瀬に降りられないから、出張して鳴くのだろうと詠んだものです。
 家持らしい、きめ細かい表現が魅力的です。

巻第二十

 みやこでの和歌が続きますが、巻第二十の特徴は754年に、軍事をつかさどる兵部省の次官である、兵部少輔(ひょうぶのしょう)に任命され、翌年755年、難波で採取した、「防人の歌(さきもりのうた)」と、それに合せて作られた、みずからの長歌などにあると言えるでしょう。最後の巻は、これまでの巻よりも期間が長く、任務に関連した「防人の歌」を取り除くと、これまでよりずっと、執筆の量が減っていることが分かると思います。あるいは遊びのシーズンは過ぎ去り、仕事に生き甲斐を見いだしていたのかも知れませんが、それは分かりません。やがて、大伴家持にも、危機的な状況が迫ります。

 756年、聖武太上天皇が亡くなると、彼の遺言により、先ほど短歌を見た、道祖王(ふなどのおおきみ)が孝謙天皇の次の天皇として、皇太子の立場に付くことになりました。ところが、757年の初めに橘諸兄がなくなり、その後しばらくすると、道祖王は素行不良として、皇太子の座から降ろされ、藤原仲麻呂と関係の深い大炊王(おおいのおおきみ)が皇太子に立てられました。後の淳仁天皇(じゅんにんてんのう)(在位758-764)です。

 この藤原仲麻呂の政治権力の拡大に、不満と危機感を高まらせた、橘諸兄の息子である橘奈良麻呂は、同年のうちに不満分子を集め、藤原仲麻呂の排除をめざしますが、事前に発覚し、ことごとく捉えられました。(首謀者でない者も藤原仲麻呂の敵対者は一緒に排除されたようです)これがこれまで何度か、説明にのぼらせてきた、757年、橘奈良麻呂の変です。

 家持はこれに連座しませんでしたが、これまでの和歌のつきあいを見ても分かるように、藤原仲麻呂よりは橘奈良麻呂に近い存在として、見られていました。おそらくはそのようなことも影響しているのでしょう。翌年、758年、大伴家持は因幡の守[鳥取県東部あたり]として、またみやこを離れる事になるのでした。巻第二十の最後の和歌は、その赴任先で759年の正月に、おおやけの宴の席で詠まれたものとして、『万葉集』全巻を閉じることになりました。

     『七夕の歌八首のうち一首』
秋風に
  今か/\と 紐解きて
    うら待ちをるに 月かたぶきぬ
          大伴家持 万葉集20巻4311

秋風のなか
   今か今かと 待ちわびながら
  服の紐をほどいて あなたを待っているのに
     月はいつしか傾いてしまいました

「紐を解く」というのは古歌にさかのぼる、万葉集の定番の表現ですが、それを利用しながら、一方では「今か今か」と織り姫の心情を主観的に表現することによって、聞き手を和歌に引きつけ、その上で「うら待ちをるに月かたぶきぬ」つまり「心待ちにしていると月は傾いてしまった」と、ちょっと客観的に取りまとめる。それによって、散々待ちわびて、我にかえって、なんだか途方に暮れて、みずからの立場をあきらめに詠んでいるような、きわめてデリケートな心情を、それと悟られることもなく、さらりと表現しているようです。

 ところで、六世紀中頃、朝鮮半島経由で太陰太陽暦(たいんたいようれき)が伝えられ、645年の大化(たいか)(645年~650年)という元号が使用されてからは、和暦(われき)の一年を定めるものとして使用されてきました。今日、ざっくばらんに旧暦(きゅうれき)と言われるものです。新月が新しい月の一日(ついたち)になりますから、七月七日は、毎年七日の月で変化がありません。(小学館)によると、「七日の月入は九時過ぎ」と解説がありますから、「月かたぶきぬ」という表現は、安易な空想に詠まれたものではなく、なかなかリアルな心情が籠もることが分かると思います。

     『ひとり秋野を思ひて作る』
宮人(みやひと)の 袖つけごろも
  秋萩に にほひよろしき
    高円(たかまと)の宮(みや)
          大伴家持 万葉集20巻4315

宮中の人々の 袖つきの衣服が
  秋萩と 照り映えあって美しい
    高円の離宮よ

「宮人」は大宮人とおなじで、宮中に仕える貴族などを指します。「袖つけ衣」というのは、どの解説もいまいち詳細が分かりませんが、袖を広く大きく見せるようになっているもののようです。「高円の宮」は、奈良市東南にある高円山あたりにあった聖武天皇の離宮。

 どことなく実景よりも、空想性にまさるのは、袖にせよ、秋萩にせよ、離宮にせよ、聞き手の視点を引きつけるような、詳細な印象が加えられていないからです。それはもちろん、実景を詠んでいるのではなく、秋野を思って詠まれた和歌だということもありますが、例えば月にある都を詠んだとして、あえて実体を悟らせないように、大枠だけを表現した方が、かえって幻想性が増すように、この場合も、遠くから眺めるような、空想性を保ちたかったからでもあると思われます。

 なるほど宮廷人の衣と、近くにある訳でもない秋萩とが、共に照り映えながら解け合うような光景は、全体を遠くからぼんやりと眺めるか、具体的に記して袖と萩とを近距離に仕向けるか、どちらかの方針が必要になるでしょう。この場合はちょっとおとぎの国めいた、かすみがかった印象が、効果的に機能しているのではないでしょうか。

防人の歌

大君の みこと畏(かしこ)み
  磯にふり 海原(うのはら)渡る
    父母を置きて
          丈部造人麻呂(はせつかべのみやつこひとまろ) 万葉集20巻4328

天皇の 恐れ多い命令のままに
  磯を伝って 海原を渡る
    父と母を残して

 心情は「父母を置きて」くらいに控え、大君の命令のままに海原を越えていくような表現は、建前を重んじ、みずからの虚弱な精神を振り切るような、太平洋戦争の出兵の和歌などにありそうですが、万葉集の「防人の歌」では、かえってこのような武士道的な精神は珍しい方で、みなさまもっと正直に、みずからの気持ちを表明しています。なかには、ちょっと言葉遊びを加えた、ユニークなのまでありますので、次に見てみましょう。

国めぐる
  あとりかまけり 行きめぐり
    帰(かひ)り来(く)までに いはひて待たね
          刑部虫麻呂(おさかべのむしまろ) 万葉集20巻4339

国を巡る アトリ・カモ・ケリのように
  大宰府に行ってはふたたび巡り
    帰ってくるまでどうか
      祈って待っていてください

 渡り鳥の花鶏(あとり)、鴨(かも)、鳧(けり)のように、渡ったら帰ってくるから、それまで待っていよという短歌です。言葉遊びの様相はありますが、短歌全体はむしろきまじめなものですから、ちょっとしたユーモアを加えながら、こころから下の句を詠んでいる。まじめな中に込められたユーモア、というのがこの短歌の魅力かと思われます。

  「そんなユニークな詠み方があってたまるか、
     二句は『アトリ感(かま)けり』である」
など諸説あるので、この短歌の読みは参考ぐらいにしておいてください。ただ「感けり」だと、直後の「行きめぐり」というのが気になります。

庭なかの
   阿須波(あすは)の神に 小柴(こしば)さし
  我(あ)れは斎(いは)はむ 帰り来(く)までに
          若麻続部諸人(わかおみべのもろひと) 万葉集20巻4350

庭中にある
  阿須波(あすは)の神に 小柴を挿して
    わたしは祈ろう 帰ってくるまではと

「阿須波(あすは)の神」は『古事記(こじき)』の中で、穀物の兄弟神である、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と大年神(おおとしのかみ)のうち、大年神と天知迦流美豆比売神(あめしるかるみずひめ)の間に生まれた十神のうちの一神です。足場の神ともされる屋敷神で、それを庭に祭ってあるところに、小柴を挿すことによって、崇め祭って、御利益を得ようという趣旨かと思われます。

 後の勅撰和歌集のような作品に慣れていると、かえってこのような、実生活にもとずいた神への祈りの短歌は、珍しいもののように思えてしまいますが、今のわたしたちは、もとよりどのような内容でも詠みますから、このような短歌も、喜ばしいくらいの祈りです。

 ところでこの短歌、下の句の叙し方から、自分が帰ってくるまでと祈ったようにならず、かえって残された人々が詠んだように感じられるので、実は妻や家族が、「お前が帰ってくるまでは祈ろう」という思いを込めたものではないか、という説もあるようです。ただこの詠み手が、妻や家族から贈られた短歌を、そのまま提出したとしても、今日いったい誰が、それを証明できるのか、永遠に解決の付かないような問題かとも思われます。

たちばなの
  下吹く風の かぐはしき
    筑波(つくは)の山を 恋ひずあらめかも
          占部広方(うらべのひろかた) 万葉集20巻4371

橘の 木陰を吹く風の
  香りを含んですばらしい
    筑波の山を 恋しがらずにはいられません

  内容は分かりやすいかと思います。
 ところで「海原」の読みが「うのはら」になっていたり、「あらめやも」とありそうなところが「あらめかも」となっているのは皆方言です。「防人」は東国人から徴収されたので、東歌と同じように、みやこの標準語とは異なる表現が、しょっちゅう見られる訳です。

あかときの かはたれ時に
   島陰(しまかぎ)を 漕ぎ去(に)し船の
 たづき知らずも
          他田日奉直得大理(おさたのひまつりのあたいとこだり) 万葉集20巻4384

夜明け前の かわたれ時に
   島陰を 漕ぎ去った船の
  行方は分からない

「かはたれ時」というのは、夕暮の「たそがれ時」に対応した、夜明けの言葉です。その意味は、「彼(か)は誰(たれ)?」と、相手を確かめる言葉が、そのような時間帯を差す言葉となったもので、夕方の「誰(た)そ彼(かれ)?」と言い方が反対になっているに過ぎません。現代語に訳すよりも、「かわたれ時」という言葉として、覚えてしまうのが便利かと思います。

「たづき」は「様子、手がかり」くらいの意味ですから、おそらく先に出た船なのでしょう、それが島陰を去ったきり、暗がりで分からなくなってしまった。幅広い情景にして、薄暗く心細いような作品で、「防人の歌」ということを除いても、すぐれた短歌です。
 これを持って、防人を終わりましょう。

その後の和歌

     『八月十三日、宴の時の歌二首』
をとめらが
    玉裳すそ引(び)く この庭に
  秋風吹きて 花は散りつゝ
          安宿王(あすかべのおおきみ) 万葉集20巻4452

宮廷の乙女たちが
  裳の裾を引いて歩く この庭に
    秋風が吹いて 花は散ってゆきます

秋風の
  吹きこき敷ける 花の庭
    きよき月夜(つくよ)に 見れど飽かぬかも
          大伴家持 万葉集20巻4453

秋風が 吹いてはしごき散らしたように
   庭に敷かれた花びらは
 清らかな月の夜に どれほど見ても飽きません

 ふたつの和歌を、何度も繰り返して比べてみて、その違いを読み取るでも、優劣をはかってみるでも構いません。皆さまそれぞれに、思い描いてみるのが最後のまとめです。述べたいことはありますが、ここではあえて黙します。ただ詠まれた日付から、それが萩の花であることだけを、述べて終わりに致します。どうかしばらく、それぞれに比べてみてください。

 もしよろしかったら、「ふたたびの万葉集」のまとめとして、今回は短歌の代わりに、自らの批評を、ノートに記してみるのが、私からの皆さまへの最後のプレゼントになります。貰って迷惑でない人は、ぜひご利用ください。

はしきよし
   今日のあるじは 磯松(いそまつ)の
  常にいまさね 今も見るごと
          大伴家持 万葉集20巻4498

慕わしいことです
   今日のあるじは 磯の松のように
  常にあってください 今見ているように

「はしきよし」は「はしけやし」とおなじで、「ああ愛しい」「ああ懐かしい」などと、相手に投げかける表現です。この和歌は中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)の家に、宴をするときに詠まれた、皆の短歌の中の一首ですから、「あるじ」とあるのは中臣清麻呂に他なりません。当時57歳であることから、磯松のようにこれからもずっとあって欲しいという願いには、丁度よい年齢(といっては失礼ですが)に差し掛かっているかと思います。あまり若いと、さすがに虚偽のように響きますから。

 簡単な効果ですが、冒頭に「うれしいね」「すてきです」などと思いを述べてしまってから、その内容を述べるのは、思いを表現するのに、便利な用法なので、これまでに何度も眺めたパターンには過ぎませんが、最後にここで、また確認してみるのも素敵です。三句と結句に「今日」と「今」とあるのは、もちろんくどくどしい表現ですが、そのくどくどしく繰り返す所にこそ、ずっと今のままであって欲しいという、願いが込められている。
 これもおさらいとして、
  最後に一つだけ付け加えるならば、

 ちょっと傷に思われるようなところ、
  動かせるように思われるところ、
   それは短歌の弱みでもありますが、
  あえてそれを利用して、
 思いを伝える技もある。

という事でしょうか。
 もちろんこれもまた、今まで何度も見てきた通りです。
  そろそろ語ることも無くなってきたようですので、
   このあたりで「ふたたびの万葉集」を、
  終わりにしたいと思います。
 皆さま、長らくのお付合い、
  本当にご苦労さまでした。
   手元にあるノートは、
    捨てずに取っておくのが思い出です。
     そうして明日からもまた、
      新しい和歌を詠みましょう、
       命の尽きるその日まで。

後書

 以上で、『万葉集』と、短歌の作り方についての初級編を終わります。初級編とは言っても、「はじめての」の短歌くらいに詠むのにも、なかなかの表現力が必要なこと、そして「ふたたびの」和歌の紹介のように、すでに作品としての価値を有した、優れた短歌まで含まれますから、初級編をものにするのにも、あるいは長い歳月が必要になってくるかも知れません。おおよそ万葉集の半分以上の和歌、勅撰和歌集の半分以上の和歌、あるいは近代の控えめに見ても、半分以上の作品は、すべてこの初級編の範疇の事象には過ぎないものです。しかもいずれのカテゴリーにも、「はじめての万葉集」にすら紹介されるべきでないような作品が、ごろごろと転がっているのもまた事実です。

 それだけに、皆さまにはまずこの「ふたたび」に紹介したような作品をこそ、目標に掲げて、そうして私が所々に説明しておいた、嫌味への誘惑にそそのかされないようにして、表明された心情の誠さを道しるべに、和歌の王道を歩んで頂きたいと願います。

 その上で、次回「みたびの万葉集」では、さらに優れた短歌を詠むにはどうしたらよいか、という視点で、中級編のお話しをはじめようと思います。だからといって、初級編をマスターするまでは、読まないようすべきなどという、馬鹿馬鹿しいことはまったくありません。知識は、知識として、どんどん得た方が良いには決まっています。

 ただ、初級編で行なってきたような、初心者向けの根本的な事柄については、すでに既定のことに過ぎないとして、これまでのように丁寧にはお話しはしませんから、中級編はあくまでも、初級編の土台の上に成り立っているということだけは、どうか覚えておいて欲しいと思います。それさえ覚えていてくださったら、中級編の解説にそそのかされて、足を踏み外すことも無いかと思われますから。

 では、以上をもちまして、
  「ふたたびの万葉集」の終了と、
   初級編の終了を改めて告げたいと思います。
  もしノートを記してこられた方があったなら、
 ぜひ「ふたたびの万葉集」の最後の部分に、
  終了の文字と、今日の日付を、
   記しておいてくださったなら、
    そうしていつまでも和歌を詠んでいてくださったら、
     その落書き帳はいつかきっと、
      あなたの宝物になることを、
       わたしは信じて疑いませんから。
      それでは、さよなら。
     あるいは、またお逢いしましょう。

               (をはり)

2016/05/16
2016/06/18 改訂

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