ふたたびの万葉集 その七

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ふたたびの万葉集 その七

 巻第十四から巻第十六までは、特徴ある短歌をそれぞれに収めた集ですから、「はじめての短歌」の時と同様、短歌の作り方はお休みして、その特徴ある短歌を、紹介するのに専念したいと思います。ですから、時乃遥さんと、いつもの彼方は、今回は出番無しです。

     「洋梨宣言?」
おだてられ
   もてあそばれて 捨てられた
  あわれな子猫 誰の手のひら
          時乃遥

     「しかも俺だけ呼び捨て」
友に背を
  任せて蹴られた 崖の下
    這い上がるぜ俺は 復讐の鬼
          いかりの彼方

     「まあまあ」
まごゝろを
   休暇にしては たてまつる
 このやさしさを 信じてくれたら
          時乃旅人

巻第十四

 東歌(あずまうた)の巻ですが、一応分類は存在します。まずは、どこの国の歌であるか分かるものが先に掲載され、「雑歌」「相聞」「比喩歌」に分類されますが、実際はほとんどが「相聞」です。その後、巻末に「これらは国が分からない」と詞書きがあるために、今日「未勘国歌(みかんこくか)」と呼ばれる、国名不明の和歌が並べられ、「雑歌」「相聞」「防人歌」「比喩歌」「挽歌」と分類されます。これもやはり、大部分は「相聞」に集約される。紹介はこれらを網羅しませんが、国名が分かるものには、初めに『』で国名を記しておきます。

相聞

     『相模国(さがむのくに)の歌』
わが背子を
   大和へ遣りて まつしだす
  足柄山(あしがらやま)の 杉の木の間か
          よみ人しらず 万葉集14巻3363

あの人を 大和へやって松
  ……じゃなくって
   足柄山の 杉の木の間かも

 この短歌、実は三句目が方言過ぎるためか、未だ解読されていません。ただ(角川ソフィア)の「待つに松をかけて、杉に時の《過ぎ》るを掛けたか」という考えなら、面白いと思うので、採用しました。それ以外の解なら、あまり紹介する魅力を感じませんので。

     『下総国(しもつふさのくに)の歌』
葛飾(かづしか)の
  真間(まゝ)の手児名(てごな)を まことかも
    我(われ)に寄すとふ
      真間の手児名を
          よみ人しらず 万葉集14巻3384

葛飾(かつしか)の
  真間(まま)の手児名(てこな)が ほんとかな
    自分の噂をしているとか
  真間(まま)の手児名が

「寄すとふ」は「寄すと言ふ」の略で、「言寄(ことよ)せる」で「うわさをする」の表現になるように、「わたしを気にしてうわさしている」という意味です。「葛飾の真間」は千葉県市川市あたりで、「葛飾の真間の手児名(てこな)」というのは、万葉集時代にすでに伝説となっていた、悲劇のヒロインの名称です。そのストーリーは、純真すぎたとも、国同士のいさかいに巻き込まれたとも、いろいろあるようですが、複数の男性の板挟みに、海に入水(じゅすい)して命を絶ったというもので、この短歌は、その伝説の女性が「俺っちに恋してるぜ」と、どこかの男が、出鱈目の自慢をしているというものです。

  その程度のものを、なぜ紹介するのか。
 それは山部赤人高橋虫麻呂 という優れた歌人たちが、それぞれに彼女の伝説を長歌に詠んでいるので、いつかはそれに接することもあるでしょうから、予備知識を付けておいた方がよかろうという、つまりは老婆心です。(といってもわたしは老婆ではありませんが……ってこれ前にもやった気が。)

     『上野国(かみつけのくに)の歌』
我(あ)が恋(こひ)は まさかも愛(かな)し
  くさまくら 田胡(たご)の入野(いりの)の
    奥も愛(かな)しも
          よみ人しらず 万葉集14巻3403

俺さまの恋は 今もいとしい
   (くさまくら) 田胡の入野の奥にある
  未来だっていとしいのさ

  なんのことやらさっぱりです。
 田胡(たご)は、おおざっぱに群馬県多野郡付近くらいで、入野はその山間に入り込んだ野ですから、その奥は山に入っていくばかりです。その奥に時間の奥、将来を掛けて平然と「未来も愛しい」と締めくくっています。つまり三句四句が「奥」の序詞で、しかも三句は「旅」に掛かる枕詞ですが、それがまた旅にではなく、一字違いの「田胡(たご)」に掛かっているという駄目さ加減。つまりはこういう事です。

 詠み手の心情寄りの表現としては、
     「わたしの恋は、今もいとしい、未来もいとしい」
くらい。もちろん思いは明確に分かりますが、心情にしても、ちょっと幼稚なあたりを出発点にしています。もちろん、出発点が「今日もいとしい、明日もいとしい」くらいでも、着想と様式化を整えれば、まとめ方次第では効果的な詩にも出来そうなのですが、詠み手はこの、素朴すぎる表現に頑(かたく)なにこだわります。

 それで、全体の骨格は、とうとう、
    「我が恋は、まさか(現在)もかなし、奥(将来)もかなし」
というまったく第三者というものが念頭にない、しかも表現に拙い、現代風にいうなら、小学生の習作の詩のように、独りよがりなままにまとまってしまいました。

 さらにすごいのは、その稚拙な骨格をこそ改めるべきであるのに、まるで自分の宝物でもあるかのように、「まさかもかなし、奥もかなし」だけは保存しながら、なんたることか、「奥もかなし」の「奥」に「田胡の入野の奥」という、将来の暗示には、まったく結びつかない、辛うじて思い浮かべたような序詞を加え、さらに驚異的なことに、その「田胡(たご)」に、本来なら「たび」に付けるべき枕詞「くさまくら」をかぶせたのだから、大変なことになりました。それを一言でいうなら、しっちゃかめっちゃかな、やりたい放題、散らかしたい放題の、妄想のような短歌になってしまったのです。

 つまりは、完成された提出物は、ちょっと幼いような心情を、みごとにそのまま保存しながら、それに圧倒的に焦点の定まらない、取って付けたような変な序詞と、枕詞になりきっていない、ニセの枕詞を、修辞法を駆使して絡み合わせて、もっともおかして欲しくないミスを、立て続けに連発してまとめたような、不朽の迷作になっている。

……そうなんです。
 東歌を眺めていて、しばしば感じることは、本当に和歌の下手な人間に、こんなうまい間違いの仕方が出来る訳がない。という、素朴な疑問なのです。わたしにはどうしても、これは計算して仕組まれた、つまり東国の歌の下手な、農民か何かをでも演じて見せた、和歌を熟知した者の影が、チラついてなりません。それだからこそ、安心して、この下手歌を楽しんでいられるのではないでしょうか。様式化された和歌と、下手な和歌のバランスが、見事に保たれている。和歌を知っている人が聞いたら、こりゃ面白いや、と笑わずにはいられないような、嫌味のない下手歌になっているからです。

比喩歌(ひゆか)

     『上野国(かみつけのくに)の歌』
上野(かみつけ)の
  阿蘇山(あそやま)つゞら 野を広み
    延ひにしものを
  あぜか絶えせむ
          よみ人しらず 万葉集14巻3434

上野の阿蘇山のかずらは
   あまり野が広いので
     這い伸びているものだから
   どうして絶えることがあるだろう

 阿蘇山と聞くとつい熊本県の活火山が頭に浮かびますが、これは現在の上野国(かみつけののくに)[今の群馬県あたり]のとある山の名前です。「つづら」はつまり「かずら」のことで、ツタで伸びる草の総称です。「それが絶えることなどあろうか。いいや絶えることなどないよ(反語)」と言っているのですが、比喩歌ですから、裏に思いが絶えることはないという意味を宿している。
 このように内容だけは東国のものを詠んではいるものの、短歌の様式は、みやこの伝統に則った、洗練されたものが結構多いのも、東歌の特徴です。次からは、国名の分からない短歌。

雑歌(ぞうか)

庭に立つ 麻手小衾(あさで/あさてこぶすま)
  今夜(こよひ)だに
 夫寄(つまよ)しこせね 麻手小衾
          よみ人しらず 万葉集14巻3454

(庭に立つ) 麻の掛け布団
    今宵だけでも
  夫を寄こしてよ 麻の掛け布団

「小衾」は上に掛ける夜具のことで、「庭に立つ」というのは、「麻」に掛かる枕詞です。あるいは、庭に立て掛けてある「麻殻(おがら)」などから来ているのでしょうか、乾燥させた麻の茎から、麻糸が作られますから。

 いくつかの解説を見ますと、そうではなくて、庭というのは大なり小なりの畑であり、そこに刈り取る前の麻が、植えられているのを「庭に立つ」と実景に描いたものが、ここでは比喩的に「麻」にかかる枕詞のように使用されているようです。

 今日なら、ちょっと意味が変わってしまいますが、「庭に干した」と捉えると、すごく分かりやすい短歌になるかと思います。それで、寝床でぬいぐるみの代わりにでも、恋人を来させてよと、掛け布団に話しかけているような印象です。はい。

 ところで、一句二句と四句五句の、素朴な対応などから、どこかの民謡の歌詞からでも、抜き出したような短歌になっていますね。

相聞(そうもん)

あしひきの
   山沢人(やまさはびと)の 人さはに
 まなと言ふ子が
    あやに愛(かな)しさ
          よみ人しらず 万葉集14巻3462

(あしひきの) 山沢に住む人のように
   人々がよってたかって
    「駄目だ」と言うあの娘(こ)が
   どうしても愛しくてならない

 「まな」というのは禁止の呼びかけです。
「あやに」は「不思議なくらい」「むやみに」といった意味。「人さはに」は「人が大勢で」。「山沢人」はあるいは、「山や沼などに住む人」くらいで良いかも知れません。そういう村社会でなんでも群れたがる人たちが、寄ってたかって「駄目だ」「駄目だ」と言うような、そんな言われ方をした娘さんが、どうしても愛しくてならない。そんな短歌でしょうか。あるいは、歌垣(うたがき)などで、恋人を取り合うような意味でもあるのでしょうか。

 二句は実体を含むと見ても構いませんが、初めの二句が「人さはに」に掛かる序詞で、さらに冒頭の「あしひきの」は、おきまりの山に掛かる枕詞になっています。そればかりが、「山さは人の人さはに」と倒置反復法(とうちはんぷくほう)(「山川」が「川山」と繰り返すようなタもの)が使用されていて、「まな」といった語り口調も織り込まれている。

 つまりこの短歌は、枕詞、序詞、「まな」という感動詞、倒置反復法が使用されて、修辞法の教科書のようになっているのですが、もっと恐ろしい(?)ことに、(角川ソフィア)の注釈にあるように、「まな」を「愛(まな)」つまり「いとしい」「かわいらしい」と見る説もあるようで、もしこれを「皆が可愛らしいから、駄目だ」と言ったと解釈するなら、二つの違う意味の内容を一つで表現した、例の掛詞(かけことば)まで織り込まれていることになりますから、まるで修辞法の化身のような姿です。さらに母音を並べると、

aiiio aaaaioo ioaai
aaoiuoa aaiaaia

 母音の「a」の連続が心地よく、特に「やま」「さは」「まな」「あや」「かな」のように、二字の連続になっている言葉同士が共鳴し合って、口調のリズム(口の動かし方の周期性)から来るよろこびが感じられて、口に出して唱えるのが楽しいくらいです。

 ただ、もっとも驚異的なのは、そのような修辞が、突き詰められた創造物だとは、さらりと聞かされた印象から、まったく悟られないという点にあります。さながら、印象派の絵画を「おばっちゃーん」共が、「あら屈託もなくてきれいな絵」「ありのままを描いただけみたい」「それで夕べのおかずがさあ」などと、のほほんと描かれたスケッチでもあるように錯覚して、平然と次の絵画に移りゆくのと同様で、真の巧みとは、その巧みさがどこにあるのか、悟られないほどの巧みを言うのかも知れません。このような作品に比べると、

病める児(こ)は ハモニカを吹きて 夜に入りぬ
  もろこし畑(ばた)の 黄なる月の出
          北原白秋

のような、それだけで眺めていたときは、すばらしく思えた短歌も、冒頭の「病める児がハモニカを吹く」という情景は人工的で、自然に何かを写し取ったと言うよりも、詠み手の意図が強く感じられますし、「夜になった」といえば自然な描写で、自然の中に子どもを置いた感じになるものを、子どもが積極的に夜へと向かっていったような印象を込めましたから、つまりは自然界のいとなみの延長としての、私たち社会の一部としての子どもではなく、人工的な作劇法で知的創造物を拵えた感じが強くなります。(二句から続けて「夜に入りぬ」としたのが原因です。)

 一度感興から冷めますと、「夜に入ってから月が出た」というのも、ちょっと拙い過剰説明のように思われて来ますし、下句の「もろこし畑」の「黄色い月」というあからさまな、小学生のテストにでも最適な色合せが、自然の情景よりも、はるかに増さって、詠み手の仕組んだ人工的な取り合わせのような、嫌味を発散させるようになって、その頃になると、もうこれを口で唱えるのが、なんだか嫌な気分ばかりが湧いてきて、ポケットの中にしまっておく気分には、到底なれなくなってしまいます。

 つまりここには、正岡子規が空想には嫌味が出やすいと考えた弊害そのものが、あるいは十九世紀の西洋の画家達が、実景を写し取らないと、本当の意味での情景が描き出せないと確信した、一昔前の描き方の弊害が、見事に提示されていると見ることも可能な訳で……

  もとより、これは初心者向けの解説を外れています。
 恐らくこのような事を言われても、この作品が素敵なものにしか思われない人は、多いかと思われます。それはそれで、ちっとも悪いことでも、間違ったことでもありません。けれどもし、あなたが本当の表現ということを、どこまでも突き詰めていったなら、あるいはあなた方のうち、誰か一人にくらいは、きっと有用な話であることを、わたしは確信しているものですから、今はただ、その誰かに対して、この話を加えていると思ってくだされば、それで十分。
 話をもとに戻しましょう。

 つまり結論を述べるなら、
  この万葉集の短歌は、かなりの和歌の巧みのしわざです。
   そうしてあえて使用したような田舎の内容以外は、
  きわめて洗練された表現になっているようです。
 あるいは東歌としては、洗練されすぎていると、
  皮肉を言うことも可能でしょうか。

うべ子なは
   我(わ)ぬに恋ふなも
  立と月(つく)の ぬがなへ/のがなへ行けば
     恋(こふ)しかるなも
          よみ人しらず 万葉集14巻3476

もっともだあいつが
  俺に逢いたいのは
    立つ月の 流れて行けば
  逢いたいのだろう

 ここでは純粋に、
  この訛りっぷりを、
   楽しんでいただけたらと思います。
  もちろん口に出して。
 ちなみに、みやこの言葉に戻せば、

うべ子らは 我に恋ふらむ
   立つ月の 流らへ行けば
     恋しかるらむ

  いかがでしょうか。
 ただでさえ、古語で分かりにくいところを、方言にされたのでは、たまったものではありませんが、このように比べてみれば、今日と同じような、方言らしい面白さというものが、伝わってくるのではないでしょうか。上二句で「恋ふなも」下三句に拡大して「恋しかるなも」と言い換えてのくり返しなど、表現が単純にして様式的であることから、ちょっとどこからの田舎の歌から、短歌に変換したものと考えて見ても、面白いかも知れませんね。

……ただそれよりも、
 やっぱり都の流儀の短歌のスタイルで、
  わざと地方的なことを詠んでいるような気配が、
 どうしても抜け去らないのでした。

み空行く 雲にもがもな
  今日行きて 妹に言どひ
    明日帰り来む
          よみ人しらず 万葉集14巻3510

空を行く 雲になれたらいいのに
   今日行って 恋人と語らって
     明日帰って来れるのに

「もがも」「もがもな」というのは「~であればなあ」「~だったらなあ」という願望を表わします。「もがもな」の「な」は詠嘆の終助詞ですから、「もがもな」というと、より強く思っているような感じですが、同時に短歌の字数を整える手段であったりします。

  内容としては、
 むしろ「はじめての万葉集」でめざしたような、心情に基づく素直な思いつきを、そのまま記したようなものになっています。つまり雲を見ながら、恋人に逢いたいなあ、あれに乗れたらなあという、とりとめもない思いから、具体的に「今日行って語り合って、明日帰ってくる」という着想をまとめたもので、一応「初句」「三句」「結句」が「行く帰る」の言葉で響き合い、三句と結句が対応関係にある。

  それと同時に、
 初句の「行く」と三句目の「行きて」はちょっと冗長の感があり、三句目以下の叙し方は、簡単な思いつきを丸出しにして、ちょっと拙いくらいの表現に過ぎません。短歌の学習で捉えれば、練習で考えれば、初めの一歩としては良いが、次のステップが期待されるくらいの作品です。(すなわちその程度の田舎人が詠んだ和歌として、東歌に相応しいものとなっています。)

 計算された下手歌、
  という疑惑は常につきまといますが、
   それは横に置いて、
  この和歌の二句目「雲にもがもな」の表現に、
 『小倉百人一首』の、

世のなかは
   常にもがもな なぎさ漕ぐ
 あまの小舟(をぶね)の 綱手(つなで)かなしも
          源実朝(みなもとのさねとも) 小倉百人一首93

世の中は 常にこうあればいい
   渚を漕いでいる 漁師の小舟の
     引き綱を引くいとおしさ

を思い起こす人もあるかもしれません。
 源実朝(みなもとのさねとも)(1192-1219)は鎌倉時代の三代将軍ですが、『小倉百人一首』の編纂者の藤原定家(ふじわらのさだいえ・ていか)(1162-1141)から『万葉集』を貰って、勉強するなど、万葉集に傾倒した歌人でもありました。それでこのような、後の勅撰和歌集では廃れたような表現が、生き生きと使用されたりしている訳です。
 ただそれだけの脱線でした。

とやの野に 兎(をさぎ)ねらはり
  をさ/\も 寝なへ子ゆゑに
    母にころはえ
          よみ人しらず 万葉集14巻3529

とやの野で 兎を狙って ろくすっぽ取れず
  寝てもいない あの娘(こ)のことで
    あの娘の母に叱られて

「とやの野」は不明ですが、(講談社文庫)の解説にある、「鳥屋の野」の意味で、鳥を捕る野で兎を捕ろうとした、そんな喜劇を持ち込んだとするのが面白いかも知れません。三句目の「をさをさも」は「寝なへ」のように、打ち消しを続けると「ほとんど」「まったく」のような意味になります。それに対して、初めの二句は序詞として、三句目の「をさをさも」に掛かります。掛かり方は、「をさぎ」との語呂合わせで、「をさぎをさぎ」という所が、「をさをさ」もとなったもの。それで、本来なら、
     「兎(をさぎ)を狙ったが、をさをさも取れなかった」
と言うべき所を、短歌の本当の意味へと切り返すという作戦です。それで最後の「ころはえ」は「叱られ」の意味になります。

 一方で下の句は、「ゆゑに」というのが「~のために」「~のせいで」といった意味になりますから、「おさおさも、寝てない子のせいで、母に叱られた」となります。もちろん初めの序詞は、比喩としての意味を持ち合わせていて、「兎が捕れなかったように、あの娘も捕れなかった」それなのに「なんでか叱られて」というオチになる。「兎一匹取れなかっただ」ではありませんが、当人ばかりは切ないようなコメディです。

 ところで、この短歌、
  「をさをさも寝ない子だから、母に怒られ」
という読み取り方が出来れば、
 全体の短歌の意味がきわめて明快になり、

とやの野で 兎を狙うように
  ろくすっぽ 寝ていない娘なので
    母に叱られて

 男を狙うようにして、遊んでばかりいる娘が、母親に叱られるという、東歌ならではの、洗練された女性ではやらないようなことを、やって怒られている田舎娘の状況が、見事に描き出されて面白いのですが、「ゆゑに」の表現は「娘のせいで」に結びついているようです。ちょっと残念。

くへ越(ご)しに
  麦食(むぎは)む小馬(こうま)の はつ/\に
 相見し子らし あやにかなしも
          よみ人しらず 万葉集14巻3537

柵越しに 麦を食う小馬のように
   ほんのわずかだけ
 垣間見たあの子が たまらなく愛おしいよ

馬柵越(うませご)し
  麦食(むぎは)む駒の はつ/\に
    にひ肌触れし
  子ろしかなしも
          よみ人しらず 万葉集14巻3537の別本

柵越しに 麦を食う馬のように
   ほんのわずかだけ
 始めての肌に触れた あの子が愛おしい

 どちらも面白いので、
  二つとも掲載。
「はつはつに」というのは「ほんのかすかに」「ほんのわずかに」くらい。二句まではそれに掛かる序詞で、柵越しであればこそ、馬も麦をわずかにしか食べられない。そのくらい僅かにという比喩になっています。初めの短歌に、「子馬であればこそ顔もちょっとだけ覗かせて」別本の短歌に、「柵越しの馬であればこそわずかしか撫でられなかった」というような意味が、それぞれ比喩として、込められているかどうかは、ちょっと断言できませんが、なんとなく序詞のイメージが、下の句になじむような気配はします。

 いずれ、こんなユニークな着想は、なかなか正統な和歌には見られないので、なおさら存在意義があるように思われます。だから、あなたが短歌を作る場合でも、人のあまり歌わないような発想というのは、発想自体で短歌の価値を高める可能性を、大いに秘めていると云うことになります。あるいは品評会の皆さま方も、初めはそんな軽い気持ちから、次第に横道へと逸(そ)れていったのかも知れません。いかなる着想であろうと、嫌みが先に表われたら、もはや詩ではなくなります。それだけ覚えておいてくだされば、あなた方はどんな着想でも、短歌に詠めるには違いありませんから。

巻第十五

 この間は『遣新羅使(けんしらぎし)』一行の和歌集をメインにおき、付録ではないですが、サブに『中臣宅守(なかとみのやかもり)と狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)』の往復書簡を収めたものになっています。『遣新羅使(けんしらぎし)』のものは壱岐に付くまでの行程に添った、使節団の和歌を膨大な長歌と考え、最後の帰省の短歌を反歌として、祈願に神々に奉納されたもの、と見立てても面白いでしょう。(学説とは関わりなく、あくまでも見立てです。)
 同じように考えるなら、往復書簡も最後のものだけを反歌として、えん罪の祈願として神々に奉納したものとして、巻第十五の意義としても、面白そうです。(これまた見立てです。)

遣新羅使

  この「遣新羅使(しんしらぎし)」は、
 天平8年(736年)に、聖武天皇より、阿倍継麻呂(あべのつぐまろ)(?-737)を大使に、大伴三中(おおとものみなか)を副使に、壬生宇太麻呂(みぶのうだまろ)を大判官(だいじょう)に、大蔵忌寸麻呂(おおくらのいみきまろ)を少判官(しょうじょう)にして、朝鮮半島の新羅に向けて送り出された使節です。一応、当時の状況をざっと示しておきますから、歴史に興味のある方はお読みください。そうでない方は、読み飛ばしても、何ら差し支えはありません。

 朝鮮半島には高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)の国があり、大和の朝廷は、百済と友好関係にありました。一方で唐へも「遣唐使」を送るなど、外交関係を結んでいましたが、660年、百済が唐軍及び新羅軍に敗れて滅亡します。その復興をめざす旧百済勢力は、大和の朝廷に援軍を求め、倭国は[名称「日本」の使用は敗戦後の改革のなかで、正式には701年の大宝律令からとされます]援軍の派遣を決定。しかし663年に「白村江(はくそんこう・はくすきえ)の戦い]に破れ、かつ唐との関係を悪化させることになりました。それで大宰府の国防体制が強化され、防人が徴収され、同時に国内の政治体制も整えられて行くことになります。

 一方で朝鮮半島では、ほどなく高句麗が唐に滅ぼされ、その後「新羅」が唐と対立しながら、朝鮮半島を統一。唐との対立のため、大和の朝廷に対しては、半ば従属的立場での外交を行って同盟関係にありました。ところが、732年からの渤海(ぼっかい)[朝鮮半島北部の新勢力]との戦いを通じて、新羅はふたたび唐との関係を良好にし、日本との従属的関係を改めるべく、天平7年(735年)、大和の朝廷に使者を派遣します。日本の方ではそれを認めず、使者を朝廷に迎えることすらせずに送り返してしまう。

 その翌年、日本側から派遣されたのが、
  この使節団ということになりますから、
   外交の継続か破綻か、きわめて重い任務を、
  彼らは背負わされての船出でした。

遣新羅使和歌

 「はじめての万葉集」となるべく同じ状況を描いて、両者の和歌を比べてみるのも面白いでしょう。あくまでも絶対的な違いではなく、比較的より良いものを収めたに過ぎませんから、以前の短歌が勝ることもあるかも知れませんが、前回眺めた短歌は、どこかにたるみや、傷や、まだ動くところがあったり、ちょっとアマチュアめいた傾向が増さりますが、今回紹介する短歌は、達人とまでは行きませんが、和歌を詠み慣れた歌人たちの仕事になっています。
 今まで散々やってきたので、双方を比べることは致しませんから、皆さまは興味があれば、両方を比べ読んで見るのも一興です。なかには明確に、「はじめて」の方がすぐれているものもありますから、わたしの言葉に騙されずに、ご自分で判断するのがよいでしょう。それではどうぞ。

 ストーリーは、天平八年(736年)六月、新羅(しらぎ)に使わされた役人たちが、まずは船に乗る前に、別れを偲んで短歌の贈答を行うところから始まります。上級の者しか名称が記されていないため、よみ人しらずの和歌が沢山ありますが、多くは船上の役人達と思ってよいでしょう。あちらの方では、どうやら、夫婦どうしが、別れを述べ合っているようです。

君が行く
   海辺(うみへ)の宿に 霧立たば
 我(あ)が立ち嘆く 息と知らませ
          よみ人しらず 万葉集15巻3580

あなたが向かう
   海辺の宿りに 霧が立ったなら
 わたしが嘆く ため息だと思ってください

秋さらば 相見(あひみ)むものを
  なにしかも 霧に立つべく
    嘆きしまさむ
          よみ人しらず 万葉集15巻3581

秋になったら また逢えるだろう
  何をそんなに ため息が霧になるような
    嘆いたりすることがあろうか

 もとより、秋に逢えるというのは、
   希望的観測に過ぎません。
  けれども今は船に乗り、
    出発の瞬間の到来です。

海原(うなはら)に 浮き寝せむ夜は
  沖つ風 いたくな吹きそ
    妹もあらなくに
          よみ人しらず 万葉集15巻3592

海原に 浮いたまま眠る夜は
  沖の風よ ひどく吹かないで欲しい
    妻さえいないのに
  (ますます、眠れなくなってしまうから……)

やがて船はみなとを離れます、
   見送りの人影さえも、
  だんだん遠く消えてゆくようです。

つくよみの 光を清み
   神島(かみしま)の 磯廻(いそみ/いそま)の浦ゆ 船出(で)す我(われ)は
          よみ人しらず 万葉集15巻3599

月の神の 光が清らかなので
  神島の 磯辺の浦から
    私は船出するよ

 向こうの方には、
    はるか彼方までたなびく、
   真っ白な雲がまるで、
  みやこの方に靡(なび)いているのでした。

あをによし
  奈良のみやこに たなびける
    天(あま)の白雲 見れど飽かぬかも
          よみ人しらず 万葉集15巻3602

(あをによし)
   奈良のみやこへと 棚引いている
     空の白雲は どれほど見ても飽きることはない

 船はようやく、安芸国(あきのくに)[広島県西部]の、
  長門島(ながとのしま)につきました。
   磯辺に船を宿泊です。
  ちょっと降りては、
 近くの川瀬に遊んでいても……

山川(やまがは)の
  清き川瀬に 遊べども
 奈良のみやこは 忘れかねつも
          よみ人しらず 万葉集15巻3618

山も川も 清らかな川瀬で
  遊んでいる時でも
    奈良の都のことが 忘れられないよ

 けれどもすぐ出発です。
    月明かりさえあるなら、
   風さえ良ければ、
      宵にも船は走ります。

山の端に 月傾(かたぶ)けば
  漁(いざ)りする 海人(あま)のともし火
    沖になづさふ
          よみ人しらず 万葉集15巻3623

山の端に 月が傾きかければ
  魚取る 漁師のいさり火が
    沖に揺れているよ

 船は早くも、大島(おおしま)の鳴門(なると)を渡ります。
   渦潮で知られた鳴門海峡ですが、
     漁師が女ながらに、藻を刈っているらしく、
       たくましいような光景です。

これやこの
   名に負ふ鳴門(なると)の 渦潮(うづしほ)に
  玉藻(たまも)刈るとふ 海人娘子(あまをとめ)ども
          田辺秋庭(たなべのあきにわ) 万葉集15巻3638

これですよ これ
  名高い鳴門の 渦潮にあっても
    玉藻を刈るという たくましい海人の娘たちは

 しばらくは、海人娘子(あまをとめ)に興じたり、
  昼になれば、楽しい気分にもなるのでしたが、
   熊毛(くまげ)の浦[山口県熊毛群あたり]に泊まり、
  夜も過ぎゆく頃には、海人娘子にしても、
    また、寂しさばかりが増さってしまうのでした。

あかときの 家恋(いへごひ)しきに
  浦廻(うらみ)より 楫の音するは
    海人娘子かも
          よみ人しらず 万葉集15巻3641

夜明け近く 家が恋しくてならないのに
   浦のあたりから 楫の音が響いてきます
  あれは海女の娘たちの船でしょうか

  そしてついに、恐怖の瞬間が訪れます。
 佐婆(さば)[山口県防府市(ほうふし)沖あたり]まで来たところ、
  はげしい逆風に見舞われたのです。
   大波に揉まれるように漂流しながら、
    一夜を風に翻弄され尽くし、
   ようやく順風を得て、
 豊前国(ぶぜんのくに)の分間(わくま)の浦に到着です。
   [大分県中津市付近]
  恐怖を沈めるために、
   大君のことを詠(うた)います。

大君(おほきみ)の みこと畏(かしこ)み
  大船(おほぶね)の 行きのまに/\
    宿りするかも
          雪宅麻呂(ゆきのやかまろ) 万葉集15巻3644

天皇の命令に 畏(かしこ)まりながら
  大きな船の 行くのにまかせて
    宿りをするまでだ

(小学館)によると、「大君の命畏み」の表現は『万葉集』に28回登場するが、すべて平城京に遷都した、710年以降のものだという。官僚のトップとしての大君という、中央集権ぶりを表明してもいるとか。

 でも駄目です。
   あちらでは自分の髪を撫でながら、
     だらしない、それを妻の髪だとでも、
  思い込んでいるのでしょうか。
    ため息さらしてめそめそです。

鴨じもの 浮き寝をすれば
   みなのわた か黒き髪に
  露そ/ぞ置きにける
          よみ人しらず 万葉集15巻3649

鴨でもないのに 鴨のように浮き寝をすれば
  (みなのわた) 真っ黒な髪に
     こんなにも露が置かれています
  (あるいは誰かの涙でしょうか)

船はようやく、海外へ出航するための、
  筑前国(ちくぜんのくに)に来たようです。
    大宰府では歓迎の宴もあり、
      さかんに和歌も詠われましたが、
    やがてはそれも終わりとなれば、
  韓亭(からとまり)まで移動です。
   [糸島半島先端付近]

韓亭(からとまり)
 能許(のこ)の浦波 立たぬ日は
  あれども家に
   恋ひぬ日はなし
          よみ人しらず 万葉集15巻3670

韓亭(からとまり)の
   能許(のこ)の浦波が 立たない日が
  もしあったとしても
     家を恋しがらない日など 決してありません

 もとより浦波が、
   立たない日などはないのです。
  恋しくたって出発です。
 やがては松浦から、
  壱岐の島まで向かいます。

竹敷(たかしき)の うへかた山は
  くれなゐの 八(や)しほの色に
    なりにけるかも
          大蔵忌寸麻呂(おおくらのいみきまろ) 万葉集15巻3703

竹敷(たかしき)の うへかた山は
   くれない染めで 何度も染め抜いた
  深い色になったものです

 壱岐では初めての死者も出て、
   旅の不安をかき立てましたが、
  こうして対馬の竹敷(たかしき)まで来て見れば、
    神々に言祝(ことほ)ぐような紅葉です。
      捧げる短歌を、納めして、
    はるかなる朝鮮半島へ向かうでしょう。
   けれども本心は……

天雲(あまくも)の たゆたひ来れば
  九月(ながつき)の もみぢの山も
    うつろひにけり
          よみ人しらず 万葉集15巻3716

(雨雲の) 揺られるように ここまで来てみれば
   九月の 紅葉の山さえ
     もう終わりになってしまった

 現実の紅葉は、もう終わりに近づいている。
  そんな本音を、つい漏らしてしまうのでした。
   まるでこれから向かう使節の、
    舞い散る結果をでも、予想するかのように。

     『反歌』
くさまくら
  旅に久しく あらめやと
    妹に言ひしを 年の経ぬらく
          よみ人しらず 万葉集15巻3719

(くさまくら)
   旅もそれほど長くは 掛からないだろうと
     妻に言って来たのに
  年を越してしまうなんて

  こうしてみやこへ戻った使節団でしたが、
   実際の新羅との交渉はどうなったのでしょうか。
  実は先に我が国が行ったことを、そのままやり返されたようです。
 使節は謁見(えっけん)[目上の人に面会すること。ここでは新羅の国王]すら許されず、むなしく追い返され、大使の阿倍継麻呂は、戻る途中の対馬で病死しました。

 それでも使節団は737年の初め、みやこに戻りますが、副使の大伴三中は病気で二ヶ月遅れて戻っています。このときみやこでは天然痘が大流行して、例の藤原四兄弟も揃って亡くなってしまいますが、使節団のせいだという噂も、巷にはささやかれていたようです。もとより、使節が天然痘を持ち込んだのか、流行が使節にも及んだものか、直接の因果関係は無いのか、それはわたしには分かりません。(ただ、735年に流行を始めた大宰府など、西国の天然痘がずっとくすぶっている様子です。)

往復書簡集

 中臣朝大臣宅守(なかとみのあそみやかもり)と、都に残された妻、狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)の、短歌による往復書簡集。凛々しい妻と、甘ったれの夫との対比は、現代社会を予見したものでは、まさかありませんが、逆にモダンな、ユニークな連作ものになっているようです。

 今回は、その順番通りではなく、
   歌の内容はそのままに、和歌の配置を入れ替えて、
  少しだけ往復書簡らしくしてみます。
    そうでないと往復書簡にならないくらい、
      今回、選び出された短歌に、片寄りがあるものですから。

塵泥(ちりひぢ)の
  数にもあらぬ 我ゆゑに
    思ひわぶらむ 妹がゝなしさ
          中臣宅守 万葉集15巻3727

(ちりひぢの) 数ほどでもない
   取るにたらない わたしのために
  気落ちしているだろう 妻がいとおしい

我(あ)が身こそ
  関山越えて こゝにあらめ
    こゝろは妹に
  寄りにしものを
          中臣宅守 万葉集15巻3757

私の身体は
   関所や山を越えて ここにあるものの
      心はあなたに
   寄り添ったままなのです

 狭野茅上娘子(さののおとがみのおとめ)を妻とするやいなや、越前国(えちぜんのくに)[福井県の東部あたり]に流罪となった中臣宅守(なかとみのやかもり)ですが、その罪状は明らかではありません。ただ己の境遇を恥じて、このような取るにたらない男のために、と嘆いてみたり、わたしの心はまだあなたの傍にあると、妻に和歌をしたためるのが精一杯でした。

味真野(あぢまの)に
  宿れる君が 帰り来む
    時の迎えを いつとか待たむ
          狭野弟上娘子 万葉集15巻3770

味真野に 宿りをするあなたが
  帰ってくる その時がくるのを
    いつと思って待てばよいのでしょう

味真野は、福井県越前市あたりで、中臣宅守のいる場所。

 いつ帰ってくるのと、妻に尋ねられると、見通しも立たない分だけ、赴任したばかりの宅守の、心細さの細さも細る。男ながらに、だらしなくもなってしまうようです。まさか酒ぐらいは、自由に飲めたのでしょうか。ちょっと心配です。

あかねさす 昼は物思(ものも)ひぬ
  ぬばたまの 夜(よる)はすがらに
    音(ね)のみし泣かゆ
          中臣宅守 万葉集15巻3732

(あかねさす) 昼は物思いに沈み
  (ぬばたまの) 夜はよもすがら
     声をあげて泣いています

 もとより妻も、
   同じ気分には違いありません。

たましひは
  あした夕へに たまふれど
    我(あ)が胸痛し 恋のしげきに
          狭野弟上娘子 万葉集15巻3767

そんなあなたの愛情は
  朝にも夕べにも いただいています
    それでも胸が痛いの 恋しさが激しくて

 それから妻は、
   わたしの代わりにと手渡した、
  下衣(したごろも)のことを思いだします。

しろたへの
   我(あ)がした衣(ごろも) 失はず
 持てれわが背子
    たゞに逢ふまでに
          狭野弟上娘子 万葉集15巻3751

(白妙の) 私の下衣を なくさないで
   持っていてくださいね
     逢うまでの代わりと思って……

 そんな手紙が届いたら、
   男は下着を抱きながら、
  わんわん泣くには決まっています。
    なんだかちょっといかがわしい、
      現代に描けば、デッサンです。

わぎも子が
   形見のころも なかりせば
  なに物もてか いのち継(つ)がまし
          中臣宅守 万葉集15巻3733

おまえの代わりの
   この衣(ころも)が なかったら
  なにを頼りにして いのちを繋げるだろう

  女の下着を抱きしめて……
 いえいえ、そうじゃありません。
  愛する妻の下衣、あるいはそれは、
   天の羽衣ではなかったか、
    そんな誤魔化しをするうちに、
   男は決意を新たにします。
  それこそ下着の威力、
   じゃなかった、羽衣の魔法です。

わぎも子に
   恋ふるに我(あれ)は たまきはる
  短きいのちも 惜しけくもなし
          中臣宅守 万葉集15巻3744

愛する妻に
   恋するわたしは たとえそのために
 (たまきはる) 命が尽きることがあろうとも
     惜しいなんて思わない

 下着による覚醒が、
   良かったのやら、悪かったのやら、
     こうなったからには妻としても、
   最後まで押し通すしかありません。

しろたへの
   我(あ)が衣手(ころもで)を 取り持ちて
 斎(いは)へ我が背子 たゞに逢ふまでに
          狭野弟上娘子 万葉集15巻3778

真っ白な わたしの下着を 手にかかげ
 お祈りなさいな 逢える日のために

 はてな?
  どこで間違ったのでしょうか。
   なんだか二人の悲しみが、
  すっかり、抜け落ちてしまった様子ですが……
 念のために記しておきますが、
  当時の下衣は、今日のように、
   はっきりと男女別になっていなかったので、
    兼用出来るからこそ、手渡したのだとも言われています。
   最後は宅守の独白です。

     『反歌』
旅にして
  もの思ふ時に ほとゝぎす
    もとなゝ鳴きそ 我(あ)が恋まさる
          中臣宅守 万葉集15巻3781

旅にあって
   思い悩むときに ほととぎすよ
 むやみに鳴くなよ 恋しさがつのるから

     『反歌』
雨隠(あまごも)り
  もの思(も)ふ時に ほとゝぎす
 わが住む里に 来鳴きとよもす
          中臣宅守 万葉集15巻3782

雨でこもって
  あれこれと思い悩むときに ほととぎすが
    わたしの住む里に
  来てはさかんに鳴いているよ

 なんだか不如帰(ほととぎす)の声が、
   うるさくて、いらだっているようです。
  そうして妻の面影が、なおさらつのる雨の日です。

 さて、中臣宅守は、天平十三年(741年)に許されて、京に戻ります。それまで妻と別れていた期間については、残念ながら正確なことは、今に残されはいないようです。ただそれだけの話です。

巻第十六

 巻第十六は、付録と考えておけば、今はよいでしょう。滑稽な短歌も目に付きますが、それだけの集ではなく、これまでの分類に当てはまらなかった、雑多な和歌を収めています。そうして最後は、「恐ろしきものの歌三首」で巻を閉ざすという、世にも恐ろしいアンソロジーにもなっているようです。

     「玉掃(たまばはき)鎌(かま)天木香(むろ)棗(なつめ)を詠む歌」
たまばゝき 刈り来(かりこ)鎌麻呂(かまゝろ)
   むろの木と なつめが本と
      かき掃かむため
          長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ) 万葉集16巻3830

玉掃(たまばはき)を 刈って来い鎌麻呂よ
   むろの木と なつめの木のもとを
     掃いて掃除するために

 提示された物の名前を、和歌に織り込むものは、勅撰和歌集の時代は、物名(もののな)と呼ばれるジャンルに見られますが、万葉集のものとは、違いもあります。物名の場合は、基本は織り込まれた言葉が、和歌ではその言葉の意味では使用されず、しかも句の区切りをまたいだりと、つまりはなるべく悟られないように、織り込むものであるのに対して、万葉集の場合は、ただその名称を、その名称の意味のままで織り込みさえすればよい。

 むしろ逆に、すぐにはっきりと分かるように表現されがちなのは、それが即興的に行われた座興であるために、語られた瞬間に、聞き手にも分かるように、露骨であることが奨励されたものかと思われます。しかも鎌を平気で擬人化して、「鎌麻呂」に刈に来いなんて呼びかける、現場の笑いにゆだねた即興性と諧謔性が、この手の作品の存在意義なのかもしれません。そうして、この作者、長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)は、その達人として、いくつもの作品を、巻第十六に残している歌人です。

 ただこの短歌、正月飾りで実用性のない「玉掃(たまばはき)」で、実際の掃除を使用というところにこそ、真の笑いの要素があるそうです。決して、言葉を取りそろえてみせただけではない。探れば、もっといろいろな意味が出てきそうではありますが、ともかく次へ参りましょう。

     「侫人(ねいじん/こびひと)をそしる歌一首」
奈良山の
   児手柏(このてかしは)の ふた面(おもて)に
 かにもかくにも
    侫人(こびゝと)がとも
          消奈行文(せなのぎょうもん) 万葉集16巻3836

奈良山にある
  コノテガシワには 裏表がないように
 ああともこうとも へつらう輩(やから)よ

 侫人(ねいじん/こびひと)とは良い方には「口先の達者な人」から、悪い方には「口先だけのへつらうような人」を指すようです。二句目の「コノテガシワ」はヒノキ科の常緑低木で、葉が子供の手のようになっていて、表も裏もないことから、「ふたつのおもてに」と掛け合わされたとされますが、この説には疑惑も残るようです。これはあるいは、そんな侫人にはなるなという、教訓歌のようなものかもしれません。もちろん、笑いのために読まれた短歌ではありません。
 次のは、からかい問答。

     「平群朝臣(へぐりのあそみ)が笑ふ歌一首」
わらはども 草はな刈りそ
  八穂蓼(やほたで)を 穂積(ほづみ)の朝臣(あそ)が
    わき草を刈れ
          平群朝臣 万葉集16巻3842

おい子どもら 草なんか刈らなくていいから
   (八穂蓼を) 穂積朝臣(ほづみのあそみ)の
      腋(わき)に生えてる草を刈れ
   いけねえ、それは「腋臭(わきくさ)」だったか

     「穂積朝臣(ほづみのあそみ)が答ふる歌一首」
いづくにそ/ぞ ま朱(そほ)掘る岡
  こもたゝみ 平群(へぐり)の朝臣(あそ)が
    鼻のうへを掘れ
           穂積朝臣 万葉集16巻3843

どこにあるのか 赤土を掘る岡は
   (こもたたみ) 平群朝臣(へぐりのあそみ)の
      赤鼻の上を掘れ
   いけねえ、それは……さすがにちょっと言えねえや

 こんな下品なやり取りは、かえって宴会で、しばしば見られたようなものなのかもしれません。あまり深く考えず、楽しんで眺めればよいくらいのものです。ただし「腋草」には「わきが」と「脇毛」の両説があるようです。それがどうしたと、突っ込まれても困ります。

 いずれ、かえってこういう和歌が好きな人も、多いくらいの世の中であるならば、まさに誰のためにも、楽しめる和歌を収める集として、なるほど『万葉集』は、まさに萬の言葉を、集めようとしたものなのかもしれませんね。

いさな取り
  海や死にする 山や死にする
    死ぬれこそ
       海は潮干(しほひ)て 山は枯れすれ
          よみ人しらず 万葉集16巻3852

(いさな取り)
    海は死ぬだろうか 山は死ぬだろうか
   死ぬからこそ
      海は潮が引いて 山は枯れるのだ

 冒頭の「いさな」は鯨(くじら)です。
  調査捕鯨が叩かれたりする今日この頃ですが、鯨漁は伝統的なものでしたから、「海」に掛かる枕詞になったものと思われます。それで旋頭歌によって、上の句(五七七)に疑問が、下の句(五七七)に答えが並べられていますが、何となく察しが付くかもしれませんが、これは仏教の教えの歌になっている訳です。ですから教義めいていて、ちっとも和歌らしい心情が伝わってこないのは当然で、もしこれを心情に返して、詩らしくしたいならば、

海は死にますか 山は死にますか
 風はどうですか 空もそうですか
  おしえてください

と、まっさんの「防人の歌」の歌詞のようにすればいい訳です。そうすれば同時に、千年以上前の『万葉集』の本歌取りをしたことにも、あるいはなるのかもしれませんね。

               (つゞく)

2016/05/14
2016/06/17 改訂

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