ふたたびの万葉集 その六

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ふたたびの万葉集 その六

巻第十一

 さて巻第十一と巻第十二はペアで、「相聞」を担当します。前回眺めたように、「正述心緒(せいじゅつしんしょ)」「寄物陳思(きぶつちんし)」がジャンル分けの大枠になっていて、それに「比喩歌」「問答」「旋頭歌」などが加わったものと捉えておけばよいでしょう。巻第十一の特徴としては、『柿本人麻呂歌集』から取られた短歌が150首以上収められている点で、対して巻第十二ではあまり取られていません。

 ところで、恋愛の短歌と聞くと、ここから読み始めたくなる人もあるかも知れませんが、実はもっともおすすめ出来ないやり方かと思われます。実は八代集でも『四季』の和歌に対して、『恋』の和歌は、量が多い割には、マンネリズムと安易な感傷主義の和歌が増加して、巻によっては読破するのが、困難に思われるくらいのものですが、『万葉集』でも「四季」の短歌の質の高さに比べると、巻第十一巻第十二の『相聞』は、むしろ低調な短歌の合間に、すぐれた表現が挟まっているくらいに、全体の質はむしろ劣ったものに過ぎません。むしろこのような巻は、私や他の人の、秀歌選でお楽しみいただくことを、お勧めしたくなるくらいです。

旋頭歌

朝戸出(あさとで)の
  君が足(あ)ゆひを 濡らす露原(つゆはら)
    はやく起き
      出でつゝ我(われ)も 裳(も)のすそ/裳すそ濡らさな
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集11巻2357

朝出かける
  あなたの足紐を 濡らす露の原
    はやく起きて
  わたしも見送りして 裳のすそを濡らしましょう

 まずは旋頭歌(せどうか)です。
「朝戸出(あさとで)」は朝に戸を開いて外出することです。反対に「夜戸出(よとで)」という言葉もあります。「足結(あゆひ)」というのは、男の袴の膝の下あたりを、それぞれの足、紐で括って動きやすくすることを言います。それで出勤すれば、なるほど「あゆひ」は露で濡れるのでしょうが、裾が濡れるくらいならありがちなところを、「あゆひを濡らす」と置いたのが、ちょっと凝った着眼点になっています。

 それに対して下の句(五七七)は、わたしも見送りに出て、裳の裾を濡らそうかなと言っています。最後の「な」は意志を表わすのですが、その結句の意志と合せて、「はやく起き」のひと言が気になります。見送りに際して「はや起き」が必要だと言うことは、あるいはこの女性は日頃、ぎりぎりまで起きないのではないか。(講談社文庫)の解説に、「あゆひ」は妻の仕事とありましたが、あるいはその「あゆひ」すら、妻はやっていないのではないか。そんな疑惑すら湧いてきそうな朝戸出です。

  それは軽やかな冗談としても、
   屈託もなく陽気なところがチャーミングで、
  まだ若い妻のような気配がします。
 そうして旋頭歌に合っています。

……で次に行っちゃ、
 駄目ですよね、やっぱり。

 さて旋頭歌でも、作り方はこれまでのプロセスと変わりません。上句[五七七]と下句[五七七]を明確に分けて詠むことと、それに合せて、着想を整える必要があります。今回はそれほどのことでもなく、たとえば夫の「あゆひ」でも結びながら、

「あなた、あゆひも露で濡れちゃうでしょ、
  わたしも明日から一緒に濡れてあげよっか」

なんて、冗談を言っていたところから、
 短歌を作ってみようと思いまして、

「出かけるあなたの足結が露に濡れるなら、
  わたしも一緒に裳を濡らしましょう」

 これをもとに短歌にしようとしましたが、どうも込めすぎてうまくまとまりません。幸い上の句と、下の句で、二つの文脈を、対比させるように配備できる「旋頭歌」という詩型がありますから、今回はそれを利用することにしまして、

「朝出かけるあなたの足結は草原の露に濡れる」
「わたしも見送りながら裳の裾を濡らしましょう」

 アウトラインが定まれば、
   あとは表現と修辞を様式に流し込めばいい訳です。

朝戸出(あさとで)の
  君が足(あ)ゆひを 濡らす露原(つゆはら)
    はやく起き
      出でつゝ我も 裳(も)のすそ/裳すそ濡らさな

 どうでしょうか、
  遣っていることは、
   三分間クッキングと、
  あまり変わらないくらいですね。
 このように、初めから旋頭歌を詠もうとしなくても、着想の段階で、旋頭歌が相応しいと気がついたら、皆さまもたちまち、旋頭歌に切り替えて詩作を行なって構わないのです。もちろん、相応しいと思ったら、俳句にしたって構わない。着想が溢れたら長歌にすればいい。詩型は表現の手段として存在するものですから、どんどん利用して、自らの詩作の道具として利用してください。ただ……

 何度でも言いますが、一つの詩型に閉じこもって、そこに無限の小宇宙が存在するような、何を言っているのかさっぱり分からないような人たちにだけは、どうかならないでいてください。それだけが、わたしの願いですから。

たまだれの
   小簾(こす/をす)のすけきに 入りかよひ来(こ)ね
 たらちねの
    母が問(と)はさば 風とまう/まをさむ
          (古歌集) 万葉集11巻2364

玉すだれの 小さいすだれの
   すき間から 通っていらっしゃいよ
(たらちねの) 母に聞かれたら
    風だって 言い訳しちゃうから

「すけき」の意味などに存疑(そんぎ)[解明しきれず、疑問が残ること]があるようですが、男に戯れた旋頭歌として、紹介だけしておくのも愉快です。そうしてそれだけの事なのです。

正述心緒(せいじゅつしんしょ)

 久しぶりの「正述心緒」です。
  比喩などを使わないで、直接心情を、
   述べるものですから明快です。

たらちねの 母が手離れ
   かくばかり すべなきことは
      いまだせなくに
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集11巻2368

(たらちねの) 母さんの手を離れ
   これほどに やるせない思いは
     これまで したことがありませんでした

 「これ」「それ」「これほど」のような言葉は、第三者である聞き手には、十分に伝わらない場合がありますから、注意を要するということは、しばしば述べたと思いますが、もとより聞き手がどのように受け止めるか分かっていれば、それをうまく利用して、聞き手の心理を操ることも可能なわけです。

 これなどは、「これほどやるせない思いは、未だしなかったのに」と表現して、なんの思かは明示されませんから、はぐらかされそうですが、冒頭に「母の手を離れて」とあるところから、「親の監督を逃れてする、遣り切れない思いにさせられるものってなあんだ」と質問されれば、ある程度の聞き手には、察しが付くようになっています。それどころか「たらちねの母」を出すことにより、それまでは親のもとで守られていて、知らないでいられた事を、ひとりで思い悩まなくてはならない印象が、背後からにじみ出て来るようで……

 表現のはぐらかしや、代名詞や擬音などを、計算して自由に使いこなせるようになったなら、なるほど初学者用の注意など、何の役にも立つわけはありません。そうしてこの短歌は、聞き手の受け取り方の隅々まで、計算し尽くしたはぐらかしになっている。つまりは、確信犯のしわざには違いありません。
 あるいは偶然か、あるいは必然か、
  また彼のしわざでしょうか。
 わたしたちは何か、恐ろしいなにが、
  背後に潜んで笑っているような、
   言いようもない不安に駆られるのでありました。

いつはしも
   恋せぬ時は/恋ひぬ時とは あらねども
 夕かたまけて 恋はすべなし
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集11巻2373

いつといって
  恋しがらない時は ありませんが
    夕暮が近づくほど 恋は切ないものです

 「夕かたまけて」の「かたまく」は、
  「その時間に近づく」表現です。
 ところで、誰かから「一日のうち、何時が一番恋しい気分になるだろう」と質問されたとします。あるいは何人かいれば、「そんなの何時もに決まってるじゃない。でも、あえて言うならやっぱ夕方かな」くらいの事を答える人はあるかも知れません。ところが「一日のうち、一番恋しい気分になるのは何時か、短歌にして提出して下さい」と言われたら、なかなかどうして、

いつだって
   恋しいには 決まってます
  あえて言うなら 夕方でしょうか

とは詠んでくれません。
 「めがさめて朝起きるときひとりして」ベットがどうしたとか、「宿題を終えてひと息ついて」あのねのねとか、かならず具体的なことを書こうとしてしまいます。しかもかえって、ほとんど短歌を知らないような人の方が、そのような傾向があるようで、あるいは言葉を書く、言葉を作るという行為そのものが、何かを具体的に表現することに結びついているために、つきまとう宿命なのかもしれませんが、なかなか恋しさの一般的傾向を抽象概念のようには、提出しないのが普通です。それをこの短歌は、ほとんど語り口調のまま、

いつはしも
   恋せぬ時は/恋ひぬ時とは あらねども
 夕かたまけて 恋はすべなし

と表現しています。それも、普通でしたら、少しくらいは凝った表現になったりしますが、この内容を表現するには、ほとんど独り言くらいの、虚飾のない語りの表現こそが相応しいと、熟知でもしているかのように詠んでいますから、かえって万葉集のなかでも、めずらしいくらいの、詩情の籠もる格言のような短歌になっているようです。なかなかどうして、あなどれたものではありません。

恋するに
  死にするものに あらませば
    我が身は千たび
  死にかへらまし
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集11巻2390

恋をすれば
  かならず死ぬもので あるならば
    わたしは千回でも
  死を繰り返すことだろう
   (そのくらいの恋を
     わたしはしているのだから)

 これも「死ぬほどの恋」という題目を渡されて、誰もが具体的な表現を試みる中にあって、「恋に死ぬことを千回繰り返すほどの恋」という、ほとんと抽象概念のような内容を、名優が台詞でも語りかけるようにして、平然と言い切っています。それが気障ったらしくも、嫌みにも響かないのは、語りがストレートで最低限度の表現で済ませているものですから、つまりは語られた内容が、聞き手には真摯なものであったように思われるからには違いありません。

 つまりは「死ぬほどの恋」の抽象概念を、格言化したような取りまとめ方と、それを真実味を持って語りかける、真摯な言い回しが、この短歌を交換し得ないもの、すなわち名歌へと導いているようです。

……ってそれだけでは、
 卑怯ですって?

なんというおっしゃりよう。
 じゃあ、今回は構成よりも、口調のリズムに焦点を当てて、なぜこの短歌が、すばらしく感じるかを説明して差し上げますから、せいぜい耳さかっぽじって聞いているがいい。(すいません、ちょっと疲れてます。)

oiuui iiuuooi aaaea
 aaiaiai iiaeaai

 謎の海王星文字じゃありません。
  ただ、この短歌から、母音だけを抜き出してみたものです。
 まず、もっとも目に付くのは[一二句]では[o][u]が使用され、[三句目以下]では[a][e]が使用され、それらは相互に相手の陣営には踏み込みません。完全に使い分けられています。口に出して見れば分かりますが、[o][u]は発散するような、叫ぶような声を出すときの母音ではありません、逆に[a][e]は声を大にしやすい母音です。それで、下の句の信念の表明に向けて、押さえられていたものが解放されるみたいに、もっとも述べたかったこと、明らかに宣言できるという仕組みになっています。

 次に、全体を整えているのは[i]になります。ところがそのリズムが、一端破棄される瞬間があります。それが三句目です。これによって前半の[o,u,i]の口調リズムが、後半の[a,e,i]のリズムへと移り変る、分岐点が演出されています。したがって、「あらませば」というのは、口を解放しながら放つ言葉で、自然と力がこもる感じになります。これから述べることを、導入するには相応しい口調リズムです。

 また似たものとして、三句目は[ae]四句目は[ai]しか使用されず、同じ動きを継続、または往復する感じになります。さらに、この和歌に限らず、かつての和歌に共通的な特徴として、同じ母音の連続が非常に優位に働きます。中でも、母音のリズムとして、特に注目すべきは、
  [初句後半から] ⇒[uiiiuuooi]
  [四句後半から] ⇒[aiiiaeaai]
この、それぞれの領域の母音を使用した、きわめて似通った構成になっている部分で、もちろん作者は、母音を抜き出しながら、緻密な作業をしているのではなく、発声を整えることに集中しているだけですが、結果として表われた、母音のリズム性は驚嘆に値します。

 もちろん、この「解読された読み方」が正しいことが前提ではありますが、以上の事を総合して、母音によるリズムの構築だけでも、この短歌のすばらしさは、十二分に解き明かせたのではないでしょうか。

という訳ですから、
 そろそろ、お許しいただきたく……

 なおこの短歌は、巻第四(603番)で、例の恋に生きる女流歌人の笠郎女が、本歌取りか再表現か分からないくらいのところで、詠んだ和歌がありますが、あるいはこれについても、いつか語ろうこともあるかも知れません。

寄物陳思(きぶつちんし)

 前にも見た、何らかの物や情景に、自らの思いを委ねて表現する相聞のジャンルです。次のは馬に委ねた恋。

馬か徒歩(かち)か

山科(やましな)の
  木幡(こはた)の山を/は 馬はあれど
    徒歩(かち)ゆそ/ゆ/より我(あ/わ)が来し
  汝(な)を思ひかねて/思ひかね
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集11巻2425

山科の木幡の山を 馬はありますが
  歩いて遣ってきました
    あなたを思う気持ちに堪えかねて

 木幡の山は、京都府宇治市北部の木幡辺りでしょうか、存疑があり確定はしていないようです。それに合せてでもないでしょうが、歌の内容も必ずしも明確ではありません。つまりは馬があるのに歩いてきたというのは、単に思いあまってのことなのか、地形が絡んでいるのか、近道でもあるのか……

  お好きなように捉えて構わないと思います。
 そのあたりが不明瞭でも、馬があるのに歩いて行くというのは、ユニークなものですから、捨て去ることも出来なくて、こうして紹介したまでのことです。

と初めは考えて、読み流しかけましたが、
 果たしてそれで良いのでしょうか。
  本当に詠み手の思いは不明なのでしょうか。
 ふと読み返していて、ようやく詠み手の意図に気がつきました。
  わたしは、愚鈍の男です。

 つまり、この短歌においては、疑いなく詠み手の思いが存在します。それははっきりと結句に「汝(な)を思ひかねて」と示されています。これほど大々的に示されているのに、ぼんやりしていた私の精神が恥ずかしいくらいのものですが、まさにこの短歌は、恋人のことを思いかねたから、馬ではなく歩いて出かけて行ったのです。なぜなら、当時の女性は一人暮らしをしている訳ではありませんから、公認にせよ非公認にせよ、訪れるべき時間帯というのものは決まっています。逢いたいからと行って、朝から出かけて、「来ちゃったぜ」と抱きしめる訳にはいきません。これでようやく謎が解けました。

 つまり、詠み手は、恋人に早く逢いたくて、逢いたくて、そればかりがつのって、もう何も手に付かず、馬で出発する時間までなど、到底待っていられなかったのです。それで、一刻も早く、恋人のもとに向かっている。という状態へ自分を持ち込みたくて、わざと徒歩で、早くから家を出て、恋人の家路をめざしたという理屈です。

 なるほど、そう捉えると、「馬」と「徒歩」という関係が、木幡の山を越えるという、ある程度は距離がありそうな条件設定が、綿密に計算されていることが分かってきますから、どうもおどろきます。まさか、これほど計算し尽くされた短歌であったとは、わたしは今までまったく気がつきもしませんでした。

 この読者に聞き流させるほどナチュラルな、計算し尽くされた表現というのは、どうやら(柿本人麻呂歌集)の特徴になっているようです。それにしても……

  わたしは頭が腐りかけているのでしょうか。
 気がついてみれば、当たり前のことを、平気で見過ごして先に行こうとするなんて。なんだか、非常に残念な心持ちがします。同時に、気がついて良かったという安堵も湧いてきます。そして、近道があったなどという、屁理屈の解説をする書籍を、憎たらしく思ったりもする訳です。(その点、怪しいところ、不要なところには首を突っ込まない[小学館]の態度には好意が持てます。)

  さて、ここで最終的に伝えたいことはひとつです。
 今回はまだ、思い至りましたが、わたしの読解が十分でなく、何かが抜け落ちたままの過ぎ去った和歌も、きっと在るには違いありません。知識が足らなくて、読み誤っているものも、在るには違いありません。そもそも、一人の人間の言うことなどは、学者であってもかならず当てにならない側面があるものですから、間違っても全面的に信用なさらず、最終的には自らが判断するしかないのだということを、心に留めていられたら、良いかと思います。
 ただ、それだけの黄昏(たそがれ)です。

三日月にゆだねた恋

三日月(みかづき)の
  さやにも見えず 雲隠(くもがく)り
    見まくそ/ぞ欲しき
  うたてこのころ
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集11巻2464

三日月が
  はっきりと見えず 雲に隠れるように
    姿の見えないあなたが 見たくてたまりません
  普通ではいられないそんなこの頃

 この「うたて」は「普通ではない」「普通とは異なっている」ような意味を表わすようです。あなたの姿が見えなくて、普通じゃいられないわたし。それを、まだ光もおぼつかなくて、すぐに西空に沈んでしまう三日月が、雲に隠れるような序詞で様式化したら、こんな短歌になりました。

 ここでもまた、「見たくてならないあなたなのです」などと、主観一辺倒な記し方をせず、和歌の内容から推察される相手の事などは記さずに、「見たくてならない、いつもと違う気持ち」とよりデリケートな心情描写にゆだねている。まるで、このような場合人は、どのような心理状態に在るのか、一度考察をして効果的な表現を選び出したような気配がこもります。結果として表現されるのは、私たちがもっとも、共感出来るような、絶妙な表現であるにも関わらず、あまりナチュラルに共感してしまうものですから、聞き流すと大したことを詠んでいるようにすら感じない。

 つまりは、表現が熟れすぎているのであって、あるいは『柿本人麻呂歌集』の短歌は、もう一度すべて、リサーチし直した方が、良いのかも知れません。なんだかちょっと気になってきました。けれどもそれはまたの機会、次の短歌へと参りましょう。

正述心緒(せいじゅつしんしょ)

 さて、あるいは名歌の宝庫かも知れない気がして来た(柿本人麻呂歌集)の短歌が終われば、もう一度「正述心緒」に戻って、他の「よみ人しらず」の短歌を紹介する。というのが、編者の方針です。私たちも、さっそく眺めてみましょう。

多段切れの歌

相見(あひみ)ては 千年(ちとせ)や去(い)ぬる
   いなをかも 我(あれ)やしか思ふ
     君待ちかてに
          よみ人しらず 万葉集11巻2539

出会ってから 千年は過ぎたでしょうか
  いや違うかも知れない でも確かにそう思う……
    あなたを待ちかねて……

「いなをかも」は前の内容に対して「そうかな、いや、違うかも知れない」のような表現。(小学館)の解説には「否カモ諾(ヲ)カモ」の短縮形とあります。この短歌は、まさに語り口調の効果を取り入れたもので、詠み手の状況はただ結句に「君待ちかてに」と記され、四句までは待ちわびる詠み手が、心のなかでつぶやいている思いが、わざとそのままの状態で、表明されているに過ぎません。

  その、言わんとすることは要するに、
 時間つぶしに花びらを「好き、嫌い」とむしっていく、(残酷な?)恋占いとあまり変わりはありません。「もう、千年過ぎた気がする」「そんな訳ない」「でも過ぎた気がする」「そんなのあり得ない」「でもやっぱり千年過ぎた」と二句から四句のあいだを、相手が到着するまで、果てしなくループする。という、効果的な戦略です。あるいはこの着想を、うまく短歌に様式化出来た時点で、この短歌の価値は、確立されたのではないでしょうか。ところで……

相見ては、千年や去ぬる。
   いなをかも。 我やしか思ふ。
     君待ちかてに。

 この逡巡する思いは、区切れごとの余白を、時間的に自由に引き延ばせますから、この短歌は四つに切れている、と見ることが可能です。それもまた、わざと作ろうとすると、嫌味が湧いてきたりもしますが、ごく自然にそうなっているものは珍しいので、紹介しておきました。

 せっかくですから、私たちも多くの句切れを含む短歌を詠んでみましょうか。ただし、注意しなければならないことがあります。それはいつものお約束に過ぎませんが、何か特定の効果を人工的に得ようとすると、つい修辞を込めることに夢中になってしまい、

春は寝る 夏は痩せます
    秋は食う
 今年も終わる 除夜の鐘鳴る

 このように、着想を丸出しにした、お粗末な落書きに落ちぶれやすいものです。もっとも今は、練習ですから、このくらいのものでも結構ですが、修辞の表明に囚われると、しばしば内容そのものが、意図をひけらかした、安っぽい作品になりやすいことは、覚えておいて欲しいと思います。

眠い春
  痩せました夏 太る秋
    来年よろしく 初雪の鐘

 初めが意味の固まりだと、
  手直ししても、素敵な短歌にするのが大変です。
   まだ、ごちゃごちゃした印象が顕著(けんちょ)です。
  頑張って、次くらいでしょうか。

春はねむり
  夏は痩せます 秋ぶとり
    蕎麦を食べます 初雪の鐘
          手直歌 時乃旅人

 コツとしては、やはり例題の短歌を見習うのが良いかと思います。つまりこの場合は、結句に「あなたを待ちながら」と状況を説明して、四句までを、逡巡する短い言葉で、心のなかのつぶやきとして提示しています。ですから、例えば結句に「遅刻しそうだ」などと置いて、「列車はまだか」「あの列車か」「いつまで待たせる」などと心情をつぶやきとして並べれば、「春は寝る」のような不自然な短歌に陥ることはないかと思います。
 それではどうぞ。


     「呼び出しだ」
うざってえ
  やってらんねえ 腹減った
    柄にもねえや 昼礼だってよ
          いつもの彼方

     「結局ただの社会人」
生きていたい
  殺したくない 殺される
    メディアに遊ぶ おとぎ話を……
          風刺歌 時乃遥

     「悪かったな」
時代だ
  俺のせいじゃねえ 悪くねえ
 禿の背広に どしゃぶりの雨
          風刺歌 いつもの彼方

     「粋がってはみたものの」
金の時代
  鋼(はがね)の英雄 銀の夢
 今はブリキの 錆びの雨降る
          即興歌 時乃旅人

次の短歌

誰(た)そ/ぞかれと
   問はゞ答へむ すべをなみ
 君がつかひを 帰しつるかも
          よみ人しらず 万葉集11巻2545

あの人は誰と
  聞かれても答える すべがないので
    あなたの使いを 返してしまうなんて

 おそらくは母親にでも、「あの人は誰なの」と聞かれた時、どう答えていいか分からないので、恋人の使いを帰してしまったという内容です。ところで、「相聞」に入ってから、ありきたりの話しかけの表現が、増加したように感じた方もあるかも知れません。それは、恋とは相手へ関わることそのものであり、一人でいる時にさえ、直接話しかけるように、心に話しかけてしまうものですから、『万葉集』ならずとも、勅撰和歌集でもその傾向は変わりません。そして往々にして、泣いたりはしゃいだりと、もっとも人間の主情が露骨に表わされるシチュエーションであるために、甘ったれた作品も多くなる。するとどうしても、秀歌を探すためには、苦労の絶えない、イエローゾーンでもある訳です。

相見て/相見ては
  いく久(びさ)さにも あらなくに
    年月(としつき)のごと 思ほゆるかも
          よみ人しらず 万葉集11巻2583

逢ってから
  それほど時間も 経っていないのに
    長い年月を過ごしたように 思われてなりません

「逢ったばかりなのに」ではなく、
  「互いに見合ってから、
     それほど久しいというものでもないのに」
と表現し、「何年も過ぎたようです」にとは言わずに、
   「年月のように思われます」
とまとめるような、ちょっと改まった表現に移すだけでも、主情に委ねた感慨ではなく、ちょっと客体化された、様式化された短歌らしく響いて来る。さすがに、動きまくるような、あやふやな表現では、手の施しようがありませんが、「はじめての万葉集」で見たような、日常の語りや日記の記述によりそうような、率直を旨とする方針でも、語り方にさえ気を遣えば、なかなかの短歌にはなることは、これまで見てきた通りです。
 わたしは執拗に、オウムのようにおなじ事を、
  繰り返し述べているには、過ぎないのですから。

夕占(ゆふけ)にも
   占(うら)にも告(の)れる 今夜(こよひ)だに
  来まさぬ君を いつとか待たむ
          よみ人しらず 万葉集11巻2613

夕占にも 占いにもお告げのあった
   今宵でさえも 来てくれないあなたを
  いつと思って待てばよいのでしょう

「夕占(ゆうけ・ゆううら)」は以前に見た「辻占(つじうら)」のことで、夕方に辻(つじ)[道と道が重なり合うところ、今日の交叉点]に立って、過ぎゆく人たちの言葉から、真実を得ようとする占いです。それ続く「占(うら)」は、自分で占うものでなく、占い師にでも依頼した、正式な占いと思っておけばよいでしょう。

 次にサイコロの六が出たら、あの人に逢えると決めたのに、結局は六が出るまで何回でも振ってしまう。そうして来ると思って、わざとらしく振り向くと、教室は空っぽ、誰もいない。なんて、今も昔も、恋に生きる人間の心理は、あまり変わるものでもないようですね。

  ただ、サイコロくらいならいいですが、
 この詠み手はもはや、専門家の占いまで外れてしまいましたから、結句の絶望は、わたしたちの想像するより、はるかに深刻なものかもしれません。。。とはいえ、あまり深いものに感じないのは、冒頭の占いを繰り返す着眼点が、深刻さよりもユーモアを感じさせ、ちょっとコメディ調に響くからです。

寄物陳思(きぶつちんし)

枕に寄せる恋

ぬばたまの
   黒髪敷(し)きて 長き夜を
 手枕(たまくら)のうへに 妹待つらむか
          よみ人しらず 万葉集11巻2631

(ぬばたまの) 黒髪を敷くようにして
   長い夜のあいだ 自分の腕を枕にして
     あの娘(こ)は待っているのだろうか

 今日は行けなかったけど、恋人はひとりで待っているのだろうか。くらいの心情を、どう具体的に表現するか、ということになるでしょうか。「ぬばたまの夜長」くらいならありがちですが、「ぬばたまの」を「長き夜を」ではなく「恋人の黒髪」を導く枕詞として、その髪を敷物のようにしてと続けてから、「長き夜を」としますから、あるいは誇張があるにしても、髪の長い女性の姿が浮かんできます。

 その上で、眠れずに腕を枕にして、あの子は待っているだろうか。と自分の感想へと切り替えている。もちろん腕を枕にして、眠れないので仮寝をしているのですが、本来なら恋人の腕に眠りたいところを、逢えないもどかしさで、自分の腕で誤魔化すような気配がこもります。

 ここまで具体的に女性の描写をしたなら、結句を「あなたは来ません」のようにして、女性の歌に委ねてしまっても良いくらいですが、「そのようにしてあの子は待っているのだろうか」と推察する、男の感慨へと返している。

 すると、これまでの「具体的な妄想」から、どれほど男の方が、恋人のことを考えながら、眠れないでいるのが、その思いが映し出されるという仕組みです。あるいは手枕をしているのは、自分自身なのかも知れませんね。

弓に寄せる恋

あづさ弓
  末のはら野に 鳥狩(とがり)する
    君が弓弦(ゆづる)の 絶えむと思へや
          よみ人しらず 万葉集11巻2638

(あづさ弓) 末のはら野で 鷹狩りをする
   あなたの弓の弦が 絶えるなんて
     どうして思ったりするでしょうか

 さてこの短歌は、「あなたへの思いが絶えたりするでしょうか」という心情をもとにしています。それをどう表現したら良いかと思ったときに、相手がいつも鷹狩りに使用していた弓のことを思いだしました。その弓が切れる事などないように、わたしの思いが切れることがない。とうまく序詞にまとめられたなら、自分の心情は表明されますし、様式化された短歌にもなりますし、さらには恋人の弓を讃えることにもなりますので、大いに結構ではないか。
 それで四句目までを序詞として、結句の絶えむとやで、実際の思いへと返そうという、着想と様式の見取り図が出来上がりました。それをまとめたものがこの作品です……

 ……と、さすがにこれで納得する方は、
  あまりおられないかも知れません。
 とてもそんなプロセスで、詠まれた作品とは思えませんから、騙されたような気がします。実は初めにも述べましたが、[心情⇒着想⇒様式化]というのは、仮に定義したものに過ぎません。「はじめての万葉集」で「心情」に近い表現を学んだ皆さまが、次の段階に進むための、「実践と鑑賞のための足場」にしか過ぎないものですから、ある程度はそれに即して話をまとめられますが、この作品のように序詞が主なのか、結句の心情が主なのか分からないような作品では、嘘くさく聞こえるのは仕方のないことです。

 それならなぜ、あえて紹介したかと言いますと、まさにこれまでのやり方では、説明がこじつけになるような作品もある事を、知って欲しかった為と、四句目まで序詞であるような例は、ぜひとも紹介したかったからに他なりません。そこで実際のプロセスはと言いますと……

   「あなたへの思いが絶えたりするでしょうか」
という思いから出発したものとしては、相手の弓の弦(げん)への譬えはちょっと飛躍しています。ましてそれを四句に渡る序詞にするのは、とても素直な心情から出発したとは思えません。それで恐らく、もともと「弓の弦が絶えることがあるだろうか」というような慣用句が、なにも恋愛のためにではなく、あらかじめしばしば使用されていたものを、恋愛の糸が「切れることがあるでしょうか」へと流用する事を思いついた。それによって下の句が生まれ、後は四句目へ掛かる序詞が形成された。というように生まれたものかと思われます。

 またあるいは、すでにストックされた序詞として、
     「あづさ弓末のはら野に鳥狩する弓弦」
のような表現があって、それを生かそうと思いついたものかも知れません。いずれにせよ、既存の何らかの表現の力を借りて、表現のステップに生かしたような気配が濃厚です。もとより、これまで説明してきた物の中にも、実際のプロセスは、これに近いものもあるには違いありませんが、この例の場合は、便宜上の説明が虚偽になってしまうので、こうして説明を加えてみました。それで、真の目的はと言うと……

  つまり、私の述べたかった真意は、
     [心情⇒着想⇒様式化]
などという見方は、便宜上のものに過ぎないということです。
  何です、それは前に聞いた?
    いえいえ、そうじゃありません。

 私たちは何かを創作したり、解釈したりする時に、特定の法則を見つけ出そうとすることを好みます。創作のプロセスを解き明かすための[心情⇒着想⇒様式化]もそうですし、序破急から文学を解き明かして見たり、アポロン的なものとディオニューソス的なものを対比させようと目論むのも、皆おなじ事です。また、写生主義やら、象徴主義やら、文学上のなんとか派やら、かんとか派などというのも、自らや他者の創作の法則としての主義を、まとめようとしたものに過ぎません。もちろんこのような事は、それが便宜上の事である、と言うことをわきまえていれば、なんの問題も起こりませんし、分かりやすくてありがたいくらいですが……

 往々にして人は、その便宜的なものに囚われます。
  自らの作り上げた法則で、すべてを説明しようと試みて、矛盾に満ちたニセの理論書をひけらかしてみたり、彼の作品は彼の主義に反するなど、もっともらしい、出鱈目の批評を付け加えたりする。それくらいなら、まだ創作の妨げにはならないから構わないのですが、しばしば創作をする側の人間こそが、真っ先に便宜的なものに囚われて、自らの想像力を封印してしまう事は、残念ながらありがちな事象です。

 もちろん、主義主張があるからこそ、創作欲もあろうものですから、ある程度まではそれは構いません。実景をうつし取る事が、自らの作風に合っているならば、それを主義として、創作の中心においても、ちっとも構いません。けれどもし、それが便宜上のものに過ぎないことを忘れて、せっかく心情を豊かに込めれば、ストレートに表現できる事をすら、自らの主張に合せて、わざと客観的に描き出すような事になったら、もはや主義は創作の足かせに過ぎません。逆に「主観が表明されなければならない」などと決めつけたら、主観を込めなくても豊かに描き出せる情景すらも、無理に主観を込めて、貶める終末も迎えます。

 ですから、皆さまも、短歌と長く付き合っていけば、お気に入りの鑑賞方法も、自分にあったスタイルも生まれてくるのは当然です。ただそれが、便宜上のものに過ぎず、状況に応じて差し替えても構わないものであるという事を、どうか忘れないで欲しいと願うのです。

「型を作るのは良いことですが、
   型に囚われるのは悪いことです」

 そのことを、
  覚えていてくださったらと願います。

 ついでに、特に狭いジャンルに閉じこもりがちな、ある種の人間ほど、牢獄にも足かせを付けて貰わないと、安心して創作も出来ないという、馬鹿馬鹿しい囚われを見せるものです。そのような人たちの、いかさまの主義主張などとは、関わりにならないことがお奨めです。

雨に寄せる恋

笠(かさ)なみと 人には言ひて
   雨つゝみ とまりし君が
     姿し思ほゆ
          よみ人しらず 万葉集11巻2684

笠がなくてと 他人には言って
  雨宿り 泊まっていったあなたの
 すがたが浮かんで来ます

 冒頭の「笠無(かさな)み」は「ミ語法」で「笠が無いので」、「雨つつみ」は雨を嫌って家に籠もること。様式上の見所は、「笠が無いのでと、人には言って泊まっていった、あなたの姿が思いだされます」が通常の文脈で、その中心に、つまり三句目に、挿入句のようにして「雨つつみ」を置いたところにあります。もちろん通常の文脈に解釈は可能ですが、ちょっと「-雨つつみ-」のように加えられたような感覚が、お分かりになるでしょうか。以前にも紹介したパターンですが、そこで一端、文が途切れますから、さらりと語られたときよりも、その部分が印象深く残されるという遣り方です。

会話の差し込み

泊瀬川(はつせがは)
  早み早瀬を むすび上げて
    飽かずや妹と 問ひし君はも
          よみ人しらず 万葉集11巻2706

初瀨川の 早い早瀬を すくい上げて
   「おいしいかお前」と 聞いたあなたよ

 二句目は「ミ語法」で、「初瀨川が早いので、その早瀬を」と捉えそうですが、「早み早瀬」と二回「早」を繰り返して、「早瀬」を強調したような一つの言葉です。様式上ユニークなところは、もちろん四句目に「会話」を持ち込んでいるところで、「水を汲んで飲ませてくれたあなたよ」くらいでは、平坦な回想になりそうなところを、彼の言葉を、生々しく思いだしている状況が描かれている。それによって分かることは、詠み手がその瞬間のうれしさに浸って、また恋人のことを想い出してしまい、妄想に耽っているという場面です。
  「あの時の状況、よかったなぁ。ぽわわぁん」
 みたいな感じでしょうか。
   恋愛症候群と人は呼びます。

 ところでこの短歌、
  冒頭を「天の川」とすると、
   きわめてまれなユニークな天の川の短歌になりそうですが、
  それは置いておいて。

 せっかくですから皆さまも、しばらく目を休めて、
  短歌の中に、実際の会話を込めたものを、
   詠んでみるというのはいかがでしょうか。
  呼びかける言葉は何でも構いません。
 挨拶だってよいのです。
  それではどうぞ。


     「たまには遊ぶ」
騒ぎ声
  静寂それから 次の方
    陽気な声に おびえる患者ら
          時乃旅人

     「いつも真剣だぜ」
待てコラと
   隣の女の 手をつかみ
  目覚めた夢が 修羅のバス停
          いつまで彼方

     「どこが」
愛してる
   素敵な嘘に 酔わされて
 おどりませんかと それでいいから
          時乃遥

海に寄せる恋

なか/\に 君に恋ひずは
  比良(ひら)の浦の 海人(あま)ならましを
    玉藻(たまも)刈りつゝ
          よみ人しらず 万葉集11巻2743

こんな気持ちで あなたに恋をするなら
   比良の浦の 海女にでもなったほうがまし
      玉藻でも刈りながら……

「なかなかに」には「なまなか」「生半可(なまはんか)」のことで、「中途半端に」「どっちつかずに」という表現ですが、文脈次第では「かえって」「むしろ」の意味になることもあります。ここでは「中途半端な、煮え切らないような恋」をしている、その状態が辛いものですから、むしろ海人(あま)になった方がマシだと述べている事になります。

 比良の浦(ひらのうら)は、湖西線(JR西日本)の比良駅のあたりの琵琶湖の浦と思っていただければよいでしょう。様式上のポイントは、「玉藻を刈る、比良の浦の海人になった方が」という表現を、倒置した上で、継続を意味する接続助詞「つつ」で閉ざした所です。このように、倒置の結果、和歌の最後を「つつ」で閉ざすと、本来は接続助詞で、次に続くはずの言葉があるのを、言わなかったような効果が現われますから、含みや余韻が残されることになります。そのため、和歌ではしばしば利用される終止法で、「つつ止め」と呼ばれますので、覚えておくと良いでしょう。

草に寄せる恋

葦垣(あしかき)の なかのにこ草(ぐさ) にこよかに
  我(われ)と笑(ゑ)まして 人に知らゆな
          よみ人しらず 万葉集11巻2762

葦の垣根の なかのにこ草のように
   にこやかに 私とは笑い合って
  他の人には知られないで欲しい

「和草(にこぐさ)」には諸説ありますが、ここでは「ただ柔らかい草」を指したものと取っておきます。水や葦との関連性が認められるところから、枯れ葦で作られた垣根に、一緒に交じったものかという(小学館)の説は、一理あるように思われます。なるほど、その正体が分かれば、三句目への掛かり方も、深まるのかも知れませんが……

 冒頭の二句が「にこ草」の語呂合わせで「にこよかに」に掛かります。着想もユニークで、私といるときは笑い合っていても、他の人には知られるなという。結句の「人に知らゆな」というのは、二人の関係を知られるなという意味だけでなく、笑顔を見せるなという意味も含まれているのでしょう。おのずから序詞には、こっそりと隠れているようなイメージが、込められているような気がします。

水(みな/みづ)くゝる
  玉にまじれる 磯貝(いそがひ/いそかひ)の
    かた恋のみに 年は経につゝ
          よみ人しらず 万葉集11巻2796

水に潜っている
   うつくしい玉に混じった 磯貝のような
  片思いのままで 年は過ぎてゆきます

「くくる」は「くぐる」「もぐる」の意味で、ここでは沈んでいるようなものですが、玉は真珠に代表されるような、うつくしいものの譬えとして、捉えておけば良いでしょう。そこに混じった磯貝のというのは、うつくしくもない場違いのものという意味と、おそらく四句目に掛かる、二枚貝が片方となったもの、よく海岸などで拾えるような貝殻を指すかと思われます。(他にも諸説ありますが。)

 つまりは、三句目までが「かた恋」の「片」に掛かる序詞であり、同時に美しいものに混じったさえないもの、自らを暗示する比喩にもなっているという。まあ、いつものパターンと言えば、いつものパターンです。ただし、玉や貝殻の譬えですから、静的な美しさに引かれて、詠み手の思いが、せっぱ詰まったものには響きません。玉にまじった磯貝にしても、むしろきれいなものに思われてしまいますから、竜宮城で乙姫(おとひめ)さまが詠んでいるような、おおらかなかわいらしさが、波打ち際にただよいます。ちょっと海の神秘めいたところが、詠み手の心を包み込んで、おだやかな悲しみへと宥(なだ)めてくれるのが、この短歌の魅力なのでしょう。

 一方で、短歌を作る側から考えれば、
   「片思いのまま年を重ねて」
という内容を序詞で表現するくらいは、(当時の歌人であれば)誰でも浮かびますし、それを貝殻にゆだねるのも、むしろありがちな発想かもしれません。ただし、その貝殻に片思いの原因の一つである、「取るにたらない自分」というイメージを重ねることによって、なおさら片思いから抜けられないような、複合的な印象を込めたのは、むしろファインプレーかと思われます。

問答

     『問い』
かくだにも 妹を待ちなむ
  さ夜更けて 出でこし月の
    かたぶくまでに
          よみ人しらず 万葉集11巻2820

これほどまで お前を待っているのに
   夜も更けて のぼり来た月が
      西に傾くまでも

     『答え』
木(こ)の間より
  移ろふ月の 影を惜しみ
    立ち廻(もとほ)るに さ夜更けにけり
          よみ人しらず 万葉集11巻2821

木々のあいだを
   移りゆく月の光が 心地よくて
  歩き回っていたら 夜は更けてしまいました

  この「問答」は、呼びかけが男性になっています。
 当時は、男性が女性の方に向かうのが普通ですから、女性を待つのは不自然で、同性同士の見立て歌に過ぎないとか、「君」の間違いとか、もともとは一人で詠んだ二つの短歌を、「問答」に見立てたものに過ぎないなど、さまざまな意見があるようですが、例えば家族がいるので、女性の家の近くで待ち合わせ、のようなことが、あったか無かったかは知りません。二人の短歌からは、外で待ち合わせているような気配がします。

 もっとも、現代の私たちからしてみれば、男が待っているシチュエーションに違和感などありませんから、短歌のままに読み取っても、差し支えありません。それに同じ巻第十一にも、この短歌の少しまえに、

道の辺(へ)の
  草を冬野に 踏み枯らし
    我(あれ/われ)立ち待つと 妹に告げこそ
          よみ人しらず 万葉集11巻2776

道ばたの草を 冬の枯れ野のように
  踏みつけては 枯らしながら
    私は突っ立って 待っていると
  どうかあの娘(こ)に知らせて欲しい

のような、男の待つ短歌も詠まれています。
 さて、男の方の「さ夜更けて 出でこし月の かたぶくまでに」というのは、別に夜が更けてから月がのぼる訳ではありませんが、先に「さ夜更けて」と語られると、何となく夜になってから東に現われたような印象がしますから、日没後に登った月が、西に傾くまでと述べているように感じられ、待ち続ける時の長さが思いやられます。

 ところが女性の方は、その男が眺めていた月を、同じように、夜更けまで眺めてはいましたが、清らかな月の光にわくわくして、散歩をしているうちに、夜更けになってしまったから、家に帰りました。ご苦労様、ごめんなさいね。というような返答です。

 もちろん恋しく待っていたという、恋の短歌に対して、「月に心を奪われて逢いに行くのを忘れた」というのは、あなたの事なんか気にも留めなかった、という意味になりますから、たとえ一時的なものであれ、拒絶の短歌というニュアンスになるでしょう。

 さらに本当に、男性が女性を待っている短歌だとしたら、約束の場所に女性が出向くのは良いとしても、夜中にあたりを散歩しながら、ほっつき歩いたりはしなそうですから、なおさら、初めから行く気はありませんでした、と拒絶するような印象が強く感じられたかも知れません。

 もっと皮肉な見方をすれば、移りゆく月の光が惜しい、つまり愛しいというのは、他の男性に気移りしたことを、暗示しているとも、取れなくもありませんから、いずれにせよ、男性にとって良いところは、ちっともないようです。

 結論は、女性の切り返しの、
  軽妙な自由人といった雰囲気を、
   楽しむくらいの愉快さです。
  最後はちょっと変な短歌。

比喩

川上(かはかみ)に
  洗ふ若菜の 流れ来て
    妹があたりの
  瀬にこそ寄らめ
          よみ人しらず 万葉集11巻2838

川上で 洗っている若菜のように
  流れていって あの娘(こ)のあたりの
 川瀬に寄せていきたい

 「若菜」に寄せる恋。
 一応、「寄物陳思」と違って、全体が別の意味を暗示する「諷喩(ふうゆ)」を表わすものを「比喩歌」と定義する建前ですが、これなどはどう見ても、直接的な恋歌になってしまっていますから、「寄物陳思」と変わりません。

 それにしても、川上で洗っている若菜が流されて、あの子のいる川瀬のあたりに寄せたら、あの子の間近に行けるし、もしかしたら拾ってくれるだろうから、若菜になりたいとは、なんとも素敵な情けなさで、サーアンドリューが友だちになってくれそうな気配がします。(by十二夜)

 このように、どこまでも他力本願で、自分の意志では何もしないくせに、あの子を慕うことだけは、一人前、誰にも引けを取らないといった精神は、むしろ私たちには、なじみ深いくらいで、それを短歌にして詠んでいるあたり、逆にシェイクスピアが、わざと台詞のために生みなした、キャラクターのための短歌のようで、こんな台本作家が万葉時代にいたのかと思うと、ちょっと面白い。
  名歌からは離れていますが、
    捨てがたい魅力が籠もるようです。

 それにしても川の流れは思ったより速いものですから、川瀬に寄るどころではなく、「あら菜っ葉が流されてる。変なの」くらいで、若菜は下流へと消えていったに違いありません。そこで娘さんの一句。

流れ行く
  大根の葉の 早さかな
          by 高浜虚子

 失礼致しました。
  巻第十一は終了です。

巻第十二

 この巻の特徴は、同じ「相聞」でも『柿本人麻呂歌集』『古歌集』からの引用が少ないこと。『羈旅発思(きりょはっし)』、つまり旅に関する恋歌が、ジャンル分けされて収められていることでしょうか。佳作(かさく)の密度は巻第十一とあまり変わりませんが、時間の都合で、先ほどよりは掲載を減らすことに致しましょう。

正述心緒(せいじゅつしんしょ)

我(あ/わ)がこゝろ ともしみ思ふ
  あらた夜の ひと夜もおちず
    夢(いめ)に見えこそ
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集12巻2842

心よりお慕いしたく思います。
  どうか新しい夜の、
    ひと夜たりとも欠かさずに、
  夢にお見えになってください。

 諸説ありますが、
  二句目はこの訳に従います。
「ともしみ」は「慕し(ともし)」の「ミ語法」で「こころが慕わしいこと」です。「私のこころが慕わしいことを思う」とそのまま表現してみると、現代文と大分違うことを、改めて実感しますが、「我が背子」「我妹子」などと同様、「我がこころ」などの「我が」や、途中にあえて加えられる「妹が」などの表現は、意味が分かるときは、スルーした方が、かえって内容が現代語に馴染む場合が多いです。自分用の現代語にする時は、無理に込めなくても良いかも知れません。内容については、特にありませんが、「あらた夜のひと夜もおちず」という表現が魅力的です。

 後、今更ですが、
  万葉集では「夢」は「いめ」と呼ばれます。
   着眼点と表現にかなりのこだわりがあります。
  詳細は省きますが、よく味わってください。
 では、これにて。

寄物陳思(きぶつちんし)

紐に寄せる恋

しろたへの
   わが紐の緒の 絶えぬ間に
 恋結(こひむす)びせむ 逢はむ日までに
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集12巻2854

(しろたえの)
  わたしの服紐が 絶えないうちに
    恋結びにしておこう
  また逢う日まで

 紐にも上着の紐と、下着の紐がありまして、特に下着の紐は恋に絡んで、詠まれることが多いのは、それが解かれると裸になりますから、当然と言えば当然なのかも知れません。それで紐が恋の象徴のようにして、分かれる時に結び合って、次までは解かないことを、二人の証にしたり、逆に紐がゆるんだら、恋人に逢えるような俗信が生まれたりもしているようです。ここに登場する「恋結び」というのも、どのような結び方かは知りませんが、次に逢うまでに紐が解けてしまっては、二人の証が絶えてしまうものですから、「恋結び」にしたという事かと思われます。あるいは、絶対外れないように、だんご結びにでもしたのでしょうか。それは分かりませんが……

  しばしば、恋人たちが、
 次に逢うまでは紐を解かない、などと誓い合うものですから、本当に解かないのだろうか。ずっと着っぱなしなのだろうかと、いぶかしがる方もあるかもしれません。もちろん俗信的なものですから、脱ぐべき用件があれば、気にせず脱いだ可能性はありますが、しょっちゅう服を着替えたり、入浴をする慣習がなかったからこそ、このような詠まれ方が、当たり前になされたのも事実のようです。どうやら和歌に共感出来るからといって、当時の彼らと私たちとは、共に暮らすことなどとても出来ないだけの、断層があるようですね。都の街並だって、模型にされてるから、住んでみたくなるような錯覚には過ぎませんから。
 今回はそれだけのお話しでした。

正述心緒(せいじゅつしんしょ)

たまづさの
   君が使ひを 待ちし夜の
 なごりそ/ぞ今も
    寝(い)ねぬ夜の多き
          よみ人しらず 万葉集12巻2945

(たまづさの)
   あなたの使いを 待っていた夜の
     名残でしょうか今でも
   寝られない夜が多いのは……

 これも分かりやすくて、また現代の感覚でも、受け止めやすいのではないでしょうか。「たまづさの」は「使い」に掛かる枕詞で、様式としては、「今も寝られない夜が多いのは、あなたの使いを待った夜の名残でしょうか」という文脈を倒置したものになっています。

 ただし、実際の倒置法というのは、本末転倒な所があって、必ずしも詠み手が、本来の語りをひっくり返して、人工的に詠みなした修辞ではないのですが、私たちには把握しやすいものですから、これからもことわり無く、倒置したものとして説明させて頂きます。

 ところで「なごり」については、(小学館)の解説に、
  『「なごり」というのは、風が静まった後もなお立っている波。』
とありました。そこから転じて、物事が過ぎた後も影響が残っていることを指すようになったようです。語源由来を調べたら、波が置き去りにしたものなどを指すような「波残り」の説もあるようです。ただそれだけのコラムでした。

うつせみの
   常(つね)の言葉と 思へども
  継ぎてし聞けば こゝろ惑(まと)ひぬ/はまとふ
          よみ人しらず 万葉集12巻2961

世の中にありきたりの言葉とは思うのに
  何度も続けて聞かされるので
    ついこころが揺らいでしまいます

 これもまた、私たちにはリアルなくらいの表現です。誰だって口にするような言葉なのに、あんまり「好きだ好きだ」と言われるものですから、メダパニでも食らったようになってしまって、急に冷たくしてみたり、かと思えば、急にやさしくしてみたり、だんだん自分も好きな気がしてきて、ついには敵だったはずなのに最愛の人みたいな……はて「メダパニ」なんて日本語ありましたっけ。

寄物陳思(きぶつちんし)

衣に寄せる恋

くれなゐの
  うす染めのきぬ/ころも 浅らかに
    あひ見し人に
  恋ふるころかも
          よみ人しらず 万葉集12巻2966

紅花の
  薄染めの着物の 淡いくらいに
    ふと逢ったあの人が
  恋しいこの頃です

 「紅」や「紫」に深く染まるような恋ならありきたりですが、まだ「薄染め」の状態であると、比喩を兼ねた序詞にして、「浅らかに」に掛けたのが効果的です。「くれなゐの」は「色」や「浅い」に掛かる枕詞なので、解釈は比喩でも枕詞でも構いません。

 様式上の胆(きも)は三句目の「浅らかに」で、「浅らかにあひ見し人」と取れば、ほんの少しだけ逢った人にと解釈出来ますし、「恋ふるころかも」に掛かるものとして、まだほのかな恋と解くことも可能です。おそらくはそのような効果を利用して、「まだ浅くしか逢っていない人であればこそ、淡い恋心が芽生えた」ような、恋の予感のような、つかの間の出会いを、うまく捉えたものかと思われます。例えば、

あらたまの
  いのりかさねて 清らかに
 鐘が鳴るのを 聞いていました

とすれば「清らかに鐘が鳴る」のも「清らかに聞いてました」も、終局はわたくしの、清らかなこころの見せる、心象スケッチに過ぎませんから、短詩の形式としては、重なり合って好都合なくらいです。

田に寄せる恋

心あへば/魂(たま)あへば 相寝(あひぬ)るものを
  小山田(をやまだ)の 鹿猪田守(しゝだも)るごと
    母し守(も)らすも
          よみ人しらず 万葉集12巻3000

こころがぴったり合えば
   一緒に寝るのは避けられないのに
 山間の田んぼをイノシシや鹿から守るように
    お母さんったら見張りしている

 恋する心理を捉えたような短歌があるかと思えば、男と寝ながらちょっとだけ母を哀れむような、それでいて残念でしたと舌を出すような、こんな短歌もある。かと思えば、持てない男のひがみのような、形式自体がやけを起こしたような、

水を多み
  上田(あげ)に種まき 稗(ひえ)を多み
    選(え)らえし業()そ/ぞ 我(あ/わ)がひとり寝(ぬ)る
          よみ人しらず 万葉集12巻2999

水が多すぎて
  上の田んぼに種をまいたら 稗が多くなって
    抜き取られるような事になっちまって
  俺さまは ひとりぼっちで寝るのさ

なんて短歌まで収めている。
 そうかと思えば、また、

かく恋ひむ ものと知りせば
   夕(ゆふ)へ置きて
  朝(あした)は消(け)ぬる 露ならましを
          よみ人しらず 万葉集12巻3038

これほど恋しい ものと知っていたら
   夕方に置かれ
 朝には消えてしまう 露になった方がましだった

なんて恋する思いを、
  結晶化したような、抽象的な和歌も収める。
 かと思えば貴族社会に思いを致し、

うちひさす 宮にはあれど
   月草(つきくさ)の うつろふこゝろ
  わが思はなくに
          よみ人しらず 万葉集12巻3058

(うちひさす) 宮仕えはしていますが
   (つきくさの) 変わりやすい心は
  わたしは持ってはおりません

などと、内裏(だいり)のうちから、
  思いはかるような詩も並べられている。
 ほんと万葉集って、
  その名称に恥じない、魅力的な和歌集ですね。

問答歌

 最後に、個人の詠んだ短歌と言うよりも、あるいはフレーズのある歌詞からでも、取られたような、問いも答えもひとつの作品の内部にあるような気配のする、問答歌をワンセット紹介して、巻第十二を、終わることに致します。内容の説明は、おそらく必要ないのではないでしょうか。

     『問い』
ひさかたの
   雨の降る日を わが門(かど)に
 蓑笠着(みのかさき)ずて 来(け)る人や誰(た)れ
          よみ人しらず 万葉集12巻3125

(ひさかたの) 雨の降る日を
    うちの入り口に 蓑も笠も着ないで
  来る人は誰ですか

     『答え』
巻向(まきむく)の
  穴師(あなし)の山に 雲居つゝ
    雨は降れども
  濡れつゝそ/ぞ来(こ)し
          よみ人しらず 万葉集12巻3126

巻向の 穴師の山に 雲が掛かって
  雨は降っていますが 濡れながら来ました

 なんだか、ずっと引っかかっていたのですが、
  (講談社文庫)の解説をみたら、
    「あなしの山の神さまが来たような歌のようですね。
  なんか二つとも表現が異質です。

羈旅発思(きりょはっし)

 そんな訳で省略しますが、
  その代わりといってはなんですが、
   羈旅の歌を詠んでみることにしましょうか。
    万葉集の伝統に則って、ただ旅先の歌ではなく、
   旅先からふるさとや、誰かを思う歌にしてみましょう。
  相手は別に、恋人である必要はありません。
 故郷も、地名でもただ家でも、なんでも構いません。
  それではどうぞ。


     「ラフな普段着で」
富山より
  お元気ですか ほたるいか
    不思議な味です 今度はふたりで
          手抜歌 時乃旅人

     「じゃあわたしもラフで」
今どきの 研修生かな
  はじめての ホテルで泣きべそ
    あめ玉あげよか
          手抜歌 時乃遥

     「俺が決めてやるぜ」
島渡り
  バイクに乗って すっころぶ
    浮かんで消えたぜ 俺のサボテン
          気合歌 いかさま彼方

悲別歌

 こちらもスルーですが、この「悲別(ひべつ)」というありがちに思える言葉が、辞書で検索すると出てこない。実際には日常使われない表現であるという、どうでもいい無駄知識を、ここに書き残して終わりましょう。彼方のお見舞いに行かなければなりませんから。では。

巻第十三

 記紀歌謡に通じるものがある、古代の歌謡曲集。
なのかどうかは、わたしには分かりませんが、長歌といっても、儀式で使用するのに相応しそうな柿本人麻呂のものとも、純粋な個人作品であるような大伴家持のものとも異なり、何度も繰り返し歌われる歌詞のような、あるいは実際に音楽と関わっていたのではないかと思われるような、そんな長歌が多く納めれた巻です。ですから、長歌に触れてみたい方は、この辺りの短いものから始めると、取っつきやすいと思うのですが、どうも皆さま名作を追い求めて、難易度の高いところに、群がる傾向があるのはいかがなものでしょうか。

 一応「雑歌」「相聞」「問答」「比喩歌」「挽歌」に分けられていますが、紹介するのは二首だけなので、「相聞一」「相聞二」で済ませます。

相聞 その一

敷島(しきしま)の 大和(やまと)の国に
  人さはに 満ちてあれども
 藤波の 思ひもとほり/まつはり
   若草の 思ひつきにし
     君が目に 恋ひや明かさむ
       長きこの夜(よ)を
          よみ人しらず 万葉集13巻3248

(敷島の) 大和の国に
   人はたくさん あふれていますが
 (藤波の) 思いは絡まり
   (若草の) 思い寄り添う
     あなたを浮かべ 恋しく明かすよ
        長いこの夜(よる)

 特に問題なく理解できるのでは無いでしょうか。枕詞は()で括ってあるものですし、「君が目に恋ひや明かさむ」というのは「あなたの目を恋しがって」の意味になります。今日なら「あなたの顔を」くらいでしょうか。「君」とあるから、一般には女性から男性ですが、逆の使用も見られますから、固定する必要はありません。ふさわしい方をお選びください。「思いもとほり」あるいは「思ひまつはり」というのは、「もとほり」も「まつはり」も「絡みつく」「まとわりつく」くらいの表現です。
 構成について軽く説明するなら、
   仮に次のように番号を振り分けて、
     枕詞を()に括ると、

[1] (敷島の) 大和の国に
[2] 人さはに 満ちてあれども
[3] (藤波の) 思ひもとほり/まつはり
[4] (若草の) 思ひつきにし
[5] 君が目に 恋ひや明かさむ
[6] 長きこの夜を

[1][2]が[A][B]とするなら、
[3][4][5]が[A'][A''][B']
[6]が[C]
のような構図になります。[3][4]が枕詞を含めて同型反復、つまり対句(ついく)なのはもっとも分かりやすいでしょうが、[2][5]も「沢山の人」と「あなた一人」を対比させ、共に「~に」で終わっているのは、逆に[1][2][4]の枕詞の最後が「~の」できれいに揃っているのと同様、偶然ではありません。ここまで構成がきれいにまとまっていると、むしろ現代の調性に乗せてメロディーを作ってみたくなるくらいのもので、非常に歌謡的に感じられる訳です。

 あまり意味があるとも思いませんが、このくらいの長さですと、これまで眺めてきた方法でも、作品の由来を確認することは可能です。まず心情としては、
     「あなたを恋しがりながら、夜長を明かします」
くらいのものですが、これを元に、
     「人は沢山いますが、ただあなたの瞳だけを、
        恋しく思ってこの夜長を明かします」
と着想をある程度まとめて、
 ここではあまりこだわらずに、
  そのまま語るように様式化すると、

人さはに 満ちてあれども
  君が目に 恋ひや明かさむ
    長きこの夜を

 さらに二句と三句の間に、逡巡する心情を表わす言葉を「思いは絡みつき、思いは寄せて」と、文脈の間に挟まる挿入句のように加えます。それぞれに枕詞を加え、最後に、その挿入句に相当する枕詞付きの言葉を冒頭に、導入として提示すれば、この長歌の出来上がりという訳です。
 せっかくですから、反歌も見てみましょう。

     『反歌』
敷島の 大和の国に
  人ふたり ありとし思はゞ
    なにか嘆かむ
          よみ人しらず 万葉集13巻3249

(敷島の) 大和の国に
  もしあなたが二人 いると思えたら
    なんでこんなに嘆いたりするでしょうか

  ちょっと理屈落ちです。
 長歌ほどは面白くありませんが、ちゃんと長歌に対応していることが、反歌にとっては大切です。初めの二句はもちろん、長歌の冒頭に対応しています。そうして三句目になぜ「人ふたり」と提示するかと言えば、それは長歌の三句目に「人さはに」と、「人物」を提示したのに合せてある訳です。それでは、なぜ「ふたり」と表現するかと言えば、長歌で「沢山の人」と「あなたひとり」を使用したので、予約された「二人」という「取って置きの表現」を、ここで使用してる訳です。

 さらに四句目の「思はば」という言葉は、挿入句で使用した「思ひもとほり/まつはり」「思ひつきにし」の「思ひ」を回想していますから、つまるところは長歌を踏まえることにより、長歌の恋い焦がれる気持ちを想い出しながら、もしあなたが二人いたら、こんな気持ちにならないで済むのに。と無理な注文つけて嘆いている訳です。

 これだけを取り出すと、すばらしい反歌とまでは言えませんが、長歌と結ばれたときの効果はなかなか効果的であると言えるでしょう。しかもそのような糸を、開けっぴろげに、聞き手に悟らせないのが立派です。さっそく私たちも、作ってみることにしましょう。

……というのは、
 さすがに冗談です。
  結構大変だと思いますよ。
   やってみてもいいですけど。
    あんまり頑張ると、辛くなって来ますから、
   無視して過ぎ去るのも生きるすべです。
  そのうち関わることもある筈です。
    Take it easy.
       思い詰めないで行きましょう。

相聞 その二

 次のものは、当然『万葉集』のものは、連続して書かれていますが、改行を行ない、その上で三つの部分に分けておきます。その方が、ずっと分かりやすいと思いますので。それぞれの冒頭の『』は、いつもながら、わたしが勝手に付けたもの。原文にはありません。現代語訳は、また長歌にしてみましょうか。「父母」と「息子」が問いと答えを、おなじフレーズで、共に枕詞から始めて歌い、その中間に、父母から声を掛けられた息子の、とっさのひと言とも、心の思いとも解釈できるものが、すべて六文字ずつで、挿入されている。まるで西洋のオペラの歌詞にでもありそうな、分かりやすい構成に注目しながら、口に出して読んでみるのがおすすめです。


     『父母の問い』
うちひさつ 三宅(みやけ)の原ゆ
 ひた土(つち)に 足踏みぬき
  夏草を 腰になづみ
   いかなるや 人の子ゆゑそ/ぞ
    かよはすも我子(あご/あこ)

     『息子の返事』
うべな/"\ 母は知らじ
   うべな/"\ 父は知らじ

     『息子の答え』
みなのわた か黒(ぐろ)き髪に
  ま木綿(ゆふ)もち あざさ結(ゆ)ひたれ
 大和の 黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)を
  押さへ刺す うらぐはし子/さすたへの子
    それそ/ぞ我(わ)が妻
          よみ人しらず 万葉集13巻3295

     『父母の問い』
(うちひさつ) 三宅の原を
  裸足して 足を痛め
    夏草は 腰に絡み
      どのような 娘だからと
    通う息子か

     『息子の返事/心の思い』
それはそれは 母は知らず
   それはそれは 父は知らず

     『息子の答え』
(みなのわた) 黒い髪して
   しら布で あさざを飾り
  大和の 飾りの櫛を
    髪に差す うつくしい娘(こ)
      それが僕の妻

  大意は現代語訳でお察し下さい。
 ちょっとだけ、言葉の説明を加えるなら、「ひた土に足踏み貫き」とあるのは、当時は庶民は裸足だったので、直土(ひたつち)にあった枝などに足をぐさっと、刺してしまったことです。「うべなうべな」は「そうだろ、そうだろ」「もっともだ、もっともだ」くらい、「あざさ結ひ垂れ」は「アサザの花」を「木綿(ゆふ)」で髪に縛ったともされますが、ちょっと疑惑が残ります。「うらぐはし」は「うるわしい」に近いでしょうか、「心にしみて美しい」「すばらしく美しい」といった表現です。

 植物の「アサザ」について補足すれば、浮葉性の水草で、水底から茎を伸ばして葉っぱを水面に浮かせる、スイレンのようなタイプです。ただし花は小さく、黄色い色をして、葉っぱと同じように水面を漂うな感じになります。詳しくは、ネットで検索する方が画像が見られて便利です。

 後は読んで楽しんでいただけたら、良いかと思います。問いと答えの結末が、双方に対応していること。中間の独白は、あるいはオペラなら、間奏の合間の台詞や、レチタティーヴォ風に済ませる所でしょうか。長歌の様式とは異なる、六文字の連続を使用して、長歌風の前後との違いを演出するあたり、完全に前後を分ける、中間の挿入句として機能しています。

 他の部分も、全体に五七でなく六が混入するため、かえって表現が、形式的な角張った印象を逃れて、ナチュラルに響く点も、かえって長歌の形式など使用しない私たちからすれば、聞き心地が良いかと思われます。そうして非常に演劇的であり、歌謡的です。
 それに対して、反歌はどうでしょうか。

     『反歌』
父母に 知らせぬ子ゆゑ
   三宅道(みやけぢ)の 夏野の草を
  なづみ来るかも
          よみ人しらず 万葉集12巻3296

父にも母にも 知らせない恋人のため
    三宅道の 夏野の草を
  苦労しながら行くのです

 長歌にもありましたが「なずむ」というのは、「暮れなずむ」(暮れるという状態がなかなか進行していかない)の「なずむ」と同じもので、「行き悩む」「はかばかしく進まない」といった意味です。まさに父母が問いで、「ひた土に足踏みぬき、夏草を腰になづみ」というように、夏野を進んでいく、その様子を表わしています。「来るかも」というのは、ちょっと分かりにくいですが、今日風に恋人の所に「行く」と捉えて良いでしょう。例の息子が、父母との演技を打ち切って、娘さんの所に向かう、独白の反歌になっています。オペラであったら、聞かせどころのアリアの登場。といったところでしょうか。

  この反歌のユニークなのは、
 先ほどの長歌の、後の状況を詠んだものではなく、この反歌のように通っていった結果として、先ほどの長歌の問答が起ったように、解釈出来る点にあります。ですから、この反歌の時点では、「父母に知らせぬ子ゆゑ」なんて歌っている。それで密会でもして、家に帰ったら、「いったいお前はどんな娘に逢いに行っているんだ」と、さっそく糾弾されてしまう。

 ところが、よく詠んでみると、時間軸を反転させているようにも取れますが、先ほどの長歌の後で、またのこのこと出かけて行ったとも、見なせるようになっているのです。なぜなら、先ほどの「息子の返答」を、もう一度よく読んで見てください。さも、自らの妻を、高らかに紹介しているように思えましたが、実際のところは、彼女がどこの誰なのか、たったひと言すら漏らしていません。住んでいるといっても、あまりにも広範な「大和の」という言葉が出て来るくらいで、所在地すら分からない。息子は何一つ、妻について明かしてなどいなかったのです。

 もちろんこれは、偶然ではありません。
  わざとすっとぼけているという演出で、
   台本が作成されたに過ぎませんから、
    やはりこれは実際の舞台か何かで、
   歌い演じるための長歌であったと思われます。

 そうして、高らかに娘さんのことを口にしながら、
  その実、何一つ漏らそうとしなかった息子は、
   次の反歌へ移って、また娘さんの所へ通っていく。
  通っていくとまた冒頭に戻って、
 長歌で両親から糾弾される。
  あるいはこの長歌もまた、
   無限ループに陥っているのでしょうか。
    人はこのような長歌を、
     『メビウスの長歌』と呼ぶようです。

               (つゞく)

2016/05/13
2016/06/16 改訂

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