ふたたびの万葉集 その五

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ふたたびの万葉集 その四

巻第十

 「よみ人しらず」の短歌を「四季」の「雑歌」「相聞」に配置した巻第十は、後の勅撰和歌集での『万葉集』の和歌の採用が、もっぱらこの巻を中心とするように、勅撰和歌集時代の『万葉集』の中枢を担っていた巻になっています。そして恋歌を収めた「巻第十一」「巻第十二」が、歌数の割には、優れた作品の数が多いとは言えないのに対して、採用したくなるような短歌が、オタマジャクシのひしめいているのが、巻第十の特徴です。一見同じようなことを述べている短歌でも、ありきたりに読み飛ばしてしまいそうな短歌でも、よく吟味するとそれぞれに違っていて、それぞれに面白みがある。噛めば噛むほど味の出る、スルメのような巻だとも、言えるかも知れませんね。

 ここからは、これまで以上に、着想よりも、着想をどのように様式化して、短歌として表現するか。そのことにスポットを当てながら、眺めてみることにしましょう。皆さまの知識も、すでに大分豊かになってきた頃かと思いますので。

春の雑歌

いにしへの
   人の植ゑけむ 杉が枝に
 霞たなびく 春は来ぬらし
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集10巻1814

いにしえの
   人が植えたのだろう 杉の枝に
 霞がたなびいている 春が来たようだ

   「古杉に霞がたなびいている、春が来たようだ」
くらいの心情をもとに、ただ杉では遠景にあるものを、その杉の枝にと置くことによって、聞き手の浮かべる情景を、ぐっと杉に引き寄せ、その年輪が感じ取れるようにした上で、古杉と言う代わりに、昔の人が植えた杉として、詠んだらどうだろう。

昔の人が植えた杉の枝に、
  霞がたなびいている。春は来たようだ。

  これが着想になります。
 今回は、それを素直に姿に表わしていますが、それでも「昔の人」ではなく「いにしえの」と時代掛かった導入を行ない、それに相応しく、「人が植えた」ではなく、「人が植えたのだろう」と、過去の推測にゆだねならが、三句目の現在に移しています。それですでに[過去の推量]⇒[現在の状況]という、いつもの短歌のパターンを織り込んでいるのですが、これをさらに結句で、[現在の推量]へと帰す手際は見事です。

 もちろん、このようなプロセスを経て、順番に考え出されるものでもありませんが、このように様式化の手順を確認してみると、なかなかどうして、凝った作品であることが、見えてくるかと思います。ですから、このような考え方は、私たちにとっては、自分で作品を作るときにも、作品を読み解くときにも、暫定的には便利なものなのです。

子らが手を
   巻向山(まきむくやま)に 春されば
  木の葉しのぎて 霞たなびく
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集10巻1815

(子らが手を) 巻向山に春が来れば
  木の葉を押し分けて 霞がたなびている

   「木には霞がたなびいて、巻向山も春だな」
くらいの心情を元に、ここでもまた木の状況を、「木の葉」にまで詳細に記します。すると春が来たばかりの木の葉の印象が、あるいは常緑樹の豊かな葉を帯びて感じられ、それを「しのぎて」つまり「押さえるようにして」霞がたなびくと表現しますから、まるで森全体の木の葉に遮られるような、霞がにぶい動きでのたくっている。そんな様相さえ浮かんで来る。

巻向山(まきむくやま)に 春が来れば
  木の葉を押し分けるように 霞がたなびいている

 このような考えにまとめられた着想を、
  今度はどのように様式化を整えて、
 短歌にするかですが、ちょうどチャーミングな枕詞があることに気がつきました。それは、「娘の手を巻く」というイメージをもって「巻向山」に掛かる、「子らが手を」という枕詞です。これによって軽やかで慕わしい恋人のような春のイメージを、上の句に織り込めますから、わざと重々しく、鈍い動きをする下の句の霞と、シーソーのバランスが、均衡を迎えたような印象です。

 もちろん、均衡は取れましたが、短歌の述べていることは春になった事で揺るぎません。それなら軽いイメージと、重いイメージの正体はなにかと言うと、それはようやく眠りから覚めた、春の鈍い動きを、表現しているのに他なりません。つまりは、全体としては春の喜ばしさを描きながらも、四句目の鈍いイメージによって、なかなか春へと抜け切れそうもない、まだ期待に過ぎないものへと、少し押し戻してもいるのです。

 それにしても、不思議な感覚です。
  (柿本人麻呂歌集)の作品を眺めると、
 初めはたわいもない落書きかと思っていたはずのものが、読めば読むほど考え抜かれた、構造物のような作品になっているのは、あるいは偶然ではなく、これらの作品は、すべてたった一人の、柿本人麻呂の手のひらの上での出来事に過ぎないのではないか。そんな恐怖心(なんか違うか)さえ、湧いてくるような夜明けです。

     『雪を詠む』
うちなびく
   春さり来れば しかすがに
  天雲霧(あまくもき)らひ 雪は降りつゝ
          よみ人しらず 万葉集10巻1832

(うちなびく) 春が来たというのに
    それなのに 一面に曇って 雪が降っている
          (小学館)の現代語訳

霞こめて 春がやってきたので
  さすがに天雲が やわらかく曇っている
    雪が降りつづけてはいても
          (講談社文庫)の現代語訳

「春さりくれば」の「ば」を単なる順接と読むか、逆説に近いと考えるか、「天雲霧らひ」を雪雲が立ちこめたと解くか、以前よりは雪雲が霧のようになってきたと解くか、専門家でも読解が一致しないことは、古典ではしばしば出会いますが、これはほんの可愛いような例に過ぎません。こと『万葉集』においては、もっと壮大な食い違いに出くわすこともしばしばです。それで紹介してみました……

 ちょっと嘘です。
  わたしにもどっちが正しいのか、
   よく分からないばかりか、むしろどちらの解でも、
  この詩に関しては、十分に楽しめるのではないかと思い、
 他者の現代語訳にゆだねてみました。
  人はこのような執筆者のことを、
   日和見主義者と呼ぶようであります。

 お叱りが来ないように、
  おそらくこの短歌は、
   久松潜一(ひさまつせんいち)という国文学者が、
    「万葉秀歌(四)」(講談社学術文庫)に載せている説が、
   妥当なものかと思われますので、
  人様の説明ではありますが、
 引用してみるのも悪くはありません。
  実際は自分で述べるより、めんどい作業ですが、
   なかなかの解説かと思われます。

 この歌は、春が来たのと、未だ雪の降っている状態とを合せて歌っている。しかし春が来たという原因によって、雪は降っているのではなく、雪は降っているが、もう春になったというのであるから、この歌の「春さり来れば」は歌全体としては、春が来たのに、という意味になる。そうなるのは、「しかすがに」という言葉によってそのようになるのであって、「春さり来れば」は、春になると、の意と解したい。このようにこの歌は別のいい方をすれば「天雲霧ひ雪はふりつつしかすがにうちなびく春さり来れば」のような関係になる。春のはじめの状態を詠んでおり、このような発想が『古今集』以後にも多く詠まれてしだいに類型化してくる。

 ありがとうございました。
  安心して次へ迎えそうです。はい。

     『霞を詠む』
冬過ぎて 春来たるらし
   朝日さす 春日(かすが)の山に
      霞たなびく
          よみ人しらず 万葉集10巻1844

冬が過ぎて 春が来たようです
  朝日のさす 春日の山に
    霞がたなびきます

「冬過」「春来」の対比によって春を呼び込み、「朝日」「春日」が暖かな日の印象を共有。さらには「春来」「春日」が「春」の印象を共有し、「山」に「霞」がたなびいて、春を確定させる短歌です。簡単な表現の割に、ばらけそうもない、良質の結晶物でも見るようで、素朴な佳作なのではないでしょうか。なかなか邪念が増さると、こうは詠めません。

     『柳を詠む』
もゝしきの
   大宮人(おほみやひと)の かづらける
 しだり柳は 見れど飽かぬかも
          よみ人しらず 万葉集10巻1852

(ももしきの) 大宮人が かづらにしている
   しだれ柳は 見ていても飽きません

「かづらける」というのは「鬘(かずら)にする」という動詞です。「もみづ」や先ほど出てきた「霧らひ(霧る)」のように、名詞が動詞化したものは、万葉集ではしばしば見かけます。さて、貴族や公卿と呼ぶと嫌味な響きがするのに、枕詞から始めて「ももしきの大宮人」と呼ばれると、現実社会の粗が落とされて、抽象化される側面もあるのでしょう、なんだか伝説や物語のような気配がしてくるのは不思議です。この非日常的というところが、枕詞や歌詞(うたことば)を利用すると、途端に様式化された、作品のように響く理由にもなっているようです。ありきたりの感慨が、わずかな言葉の作用によって、素敵な表現に移し替えられる様を、私たちはこれまでに、何度も目にして来ました。

 それで、実際は「貴族たちが挿しているしだれ柳は見ていて飽きない」という、感慨に過ぎないものですが、冒頭の効果的な表現で、魅力的な短歌に移し替えられているという話です。

感慨の特殊化

 このように、当たり前の感慨でも、その一部を魅力的な表現に差し替えることによって、特別な短歌のように、移し替えることが可能です。これは知っておくと便利なワザですから、さっそく私たちも、練習してみることにしましょう。

 初めてですから、先ほどの短歌を見習います。
  主語から文章を始めて、三句分くらいの内容を作りましょう。
     「私は電車に乗り遅れてしまった」
     「あの雲はどこへ向かうのだろう」
当たり前の感慨で十分です。
 そうしたら、主語の部分を例えば
     「私は」  ⇒「この朝寝坊は」
     「あの雲は」⇒「空の綿飴は」
などと、魅力的な表現に移し替えるなり、
 その前に、とっておきの比喩を加えて、
     「動かなくなった時計の朝寝坊は」
     「変化自在の空の綿飴は」
などと修飾するのがお奨めです。
 これで着想のアウトラインは出来ましたから、
  短歌にしてみれば、

針を止め
  時計も眠る 朝寝坊
    駆け込み列車 扉閉ざされ

変化する
  綿菓子みたいな あの空の
    ただよいながら どこへ行くのか

 けれどもこれでは、一つ目はあまりにもいろいろなものを込めすぎて、短歌ではなく説明書きに過ぎません。逆に二つ目は、特に下の句が散漫になってもの足りません。どちらもさらに、推敲が必要になってきます。

時計まで
  朝寝坊する 駆け込みは
    閉じた列車を 見送るわたくし

綿菓子から
  アイスクリーム フランスパン
    ちょっと待ってよ 美味しそうな雲

 もちろん、下句も一緒に推敲して、元の形をなくしても構いません。ただ大切なことは、「電車に遅れてしまった」という心情はそのまま残されていますし、「雲はどこへ向かうのだろう」という感慨は、積極的なものに変えられていますが、そのベクトルは「どこへ行くの?」でぶれません。このように、述べたい心情を蔑ろにしないように、表現をユニークにしたり、修辞を行なって、すばらしい姿を整えていくのが理想です。
 では、さっそく試みて見てください。
  いつも言いますが、煮詰まったら投げ捨てて、
   またの機会にして良いのです。
  あまり思い詰めたからといって、
 精神論では上達しないものですから。
  そんな時は、『万葉集』の好きな和歌を、
   十回唱えた方がよほど素敵な、
    向上につながるには違いありません。


     「これなら短歌かな」
時計まで
  朝寝坊して 見送れば
    ひと気の失せた プラットホーム
          課題歌 時乃旅人

     「かえって不自由」
綿飴は
  フランスパンに ジャム付けて
    美味しく消える ゆうぐれの雲
          課題歌 時乃遥

にほひの謎

     『花を詠む』
見わたせば
   春日(かすが)の野辺(のへ)に かすみ立ち
     咲きにほへるは
   さくら花かも
          よみ人しらず 万葉集10巻1872

見渡せば
  春日の野辺には 霞が立ち渡り
    鮮やかに咲いているのは
  あれは桜ではありませんか

 桜の花といえば、今は「ソメイヨシノ」が真っ先に浮かばれますが、当時詠まれた桜は、ヤマザクラですから、ちょっと印象が違います。それはさておき、この短歌には不可解な所があり、それは霞が立っているのに、桜が鮮やかに映えるのは、実景に合わないのではないかということです。しかも冒頭に「見渡せば」と、春日の野辺も、霞も、桜花も、視野に収めたような表現をしましたから、なおさら不鮮明なものと、鮮明なものが混濁して、虚偽の短歌のように思えてしまう。

 このような場合は、短歌が下手な場合にも起こりますが、しばしばその不可解な所にこそ、短歌を解き明かす鍵があるのも事実です。それでこの短歌が、実景に詠まれてもおかしくない場所を考えると、なるほど、桜花が近景にある高いところから、春日野を見晴らした場合には、ありそうな景色だと気がつきました。

  つまりこの作品は、
 鮮やかに咲いている桜の近くにいて、春日野を見下ろす位置にある詠み手が、春日野も霞も見下ろすようにして、詠まれた和歌ではないか……

……とも思ったのですが、そう思って読み返しても、どうもしっくり来ない。こじつけにしか思われない。逆に霞のなかに詠んだと考えて、近景ははっきり見えると解釈しても、このような表現で、鮮明な印象を詠むにはあたらないと思われ、また振り出しに戻ってしまう。

 結論を述べれば、着想を元に、最終的に様式化して表現するに際して、つい自らの感覚に依存して、自分は分かっているものですから、詠み手がどう把握するかを客観的に詰めずに、明快でないところを詠みきってしまうことは、ままある事例ですが、それが失敗とまでは行かずに、割り切れない何かが、かえって、捨てきれない魅力のようになってしまうことも、時にはあるようです。あるいはこれは、その例かも知れないと思い、こうして残して置いたという訳です。
 なにしろ作品自体は、
  「すぐれている」とは言えませんが、かといって、
 悪いとはどうしても切れないものですから。

 ところでこの短歌、
  「にほふ」が純粋に香りの「におい」だと、
    たちまちしっくり行くのですが、
   それは駄目なのかしら。

と、ここでようやく気がつきました。
 なまじ蓄積された知識が乏しすぎるものですから、
   (小学館)の現代語訳の、
      「咲き輝いているあれは桜花であろうか」
   やら(講談社文庫)の、
      「色美しく咲いているのは桜の花であることよ」
 といった訳に欺されて、四句目の「咲きにほへるは」の印象自体を、わたしは履き違えているのではないかと。

 だって、四句目の解釈さえ整えば、全体がしっくり来るのですから、その解釈を誤っているために、全体がしっくり来ないと考える方が自然です。それで「にほふ」という動詞について、よろよろと調べてみると、どうやら必ずしも、「咲き輝いている」だの「色美しく咲いている」といった、直接はっきりと見える鮮やかさを表明している訳では、無いということが分かってきました。

 この「にほふ」は、視覚としての色彩を放つこと、またそれによって染められることを表わすものとして、特に赤系統の色彩に対して、よく使用される言葉のようです。そこから嗅覚の匂いが生まれてくるのは、万葉集の中では、むしろ例外扱いで、基本は視覚的な表現。色彩を放つところから、鮮やかな鮮明な印象がしますが、必ずしも直接的に、対象がしっかりと確認できなくても、つまり輪郭が明らかでなくても、その色彩に染まっていれば、「にほふ」と表現される様子です。

  これでようやく腑に落ちました。
「咲きにほへるは」というのは、霞の中でも鮮やかに「咲き輝いたり」はっきりと「色美しく」見える必要はなく、たとえ輪郭が鮮明でなくても、それによって放たれた色彩に、あたりが染まっているように感じられれば、霞の中でも「咲きにほへるは」と使用できるような表現に過ぎなかったようです。

 なるほど、そのような「不鮮明なあざやかさ」のような、矛盾した表現の中から、輪郭は不鮮明でも、きわめてはっきりと感じられる、嗅覚的な表現への、橋渡しがされたのかも知れませんね。もっとも、これは私の感想文です。興味のある方は自分で調べてください。わたしのスキルを越えてしまいますから。

 それで、この一連の考察の結論はと言いますと、
     「私の言葉も含めて、人の言葉を安易に信じるな」
といった所になるでしょうか。それともう一つ、意味の明確でないところには、詠み手が下手な場合もありますが、私たちが詠み手の意図を、誤って解釈している場合がある。そのいい見せしめの為に、わたしは恥を忍んで、初めからの考察を、delete せずに残しておこうと思う次第です。
 ただ、それくらいの落書きです。

     『雨を詠む』
春の雨に ありけるものを
   立ち隠(かく)り 妹が家道(いへぢ)に
 この日暮らしつ
          よみ人しらず 万葉集10巻1877

春の雨にしか 過ぎないものを
  雨宿りをして 恋人の道の途中で
    今日を過ごしてしまった

  こちらは分かりやすいですね。
 「恋人に逢う道の途中で雨に降られたから、
   雨宿りをしていたら、今日を潰してしまった」
それを「春雨」であることを強調して詠み込もう。

 そのくらいの着想を元にして、「春の雨にしか過ぎなかったのに」と開始して見せたのが、この短歌の魅力です。冒頭に定めた「春雨」によって、それほどの雨でもないなら、無理をすれば行けたものを、なまじい「春雨」であったものだから、ちょっと宿りをすれば止むだろうと思ってしまった。その後も、もう少し待てば、もう少し待てば、とずるずる思い続けているうちに、あら不思議、もう彼女の家にはたどり着けないほど、時間が遅くなってしまっていたというのです。

「その日暮らしつ」まではいかなくても、一度雨宿りをしたら、いつまでもそこから出られなくなった経験くらい、誰にでもあるのではないでしょうか。そのような詠み手の心理と、春雨のペアがしっくり行くような短歌です。おそらくこの男は、遅くなったからだけでなく、自分の踏ん切りの悪さに、すっかり気持ちが折れてしまって、しょぼんと家に戻ってきたのではないでしょうか。

春の相聞

春されば
  しだり柳の とをゝにも
    妹はこゝろに 乗りにけるかも
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集10巻1896

春になれば
  しだれ柳が しなるみたいに
    あの娘(こ)はわたしのこころに
  のしかかってきたよ

「とををにも」とあるのは「たわわにも」と同じで、「たわむ」様子を表わした言葉です。しだれ柳がしなやかにたわむように、あの子が僕のこころにのしかかってきて、片時も僕のこころを離れないんだ。ねえ、ジョン。どうしたらいい?
     「さあね、柳を切ればいいんじゃない」
なんて、笑いの壺のつかみ取れない、
  アメリカのコメディにでもありそうですが。
    (……ありそうですか?)

『柿本人麻呂歌集』に収められた短歌は、
簡単に詠まれているように見えても、なかなか凝った作りがなされている場合が多いのが特徴で、そもそも「あの子のことがこころから離れない」くらいの心情を、

「しなやかな女性であればこそ、
  しなるようにわたしのこころに、
   もたれかかってきて離れません」

と詠もうとすること自体が、ちょっとアクロバットな着想ですが、さらにそれを序詞で様式化させて、「春になったらしなやかにしなる、しだれ柳のようなしなやかさ」と開始させようとは、初めの心情からは、思いもよらないような結末です。しかも春になると芽吹くしだれ柳の印象が、そのまま恋が芽吹いて育っていくようなイメージと重なり、ますます豊かに心にのしかかってきて、「おもおも」している様相ですから、ちょっとユニークな表現の見せるおかしみもあって、忘れられない魅力を醸し出している。
 傑作という訳でもありませんが、
  やはり柿本人麻呂本人の作品なのでしょうか。

     『雨に寄する』
春雨に
  ころもはいたく 通らめや
    七日(なぬか)し降らば 七日来(なぬかこ)じとや
          よみ人しらず 万葉集10巻1917

春雨に 服がそれほど
  濡れるとでもいうのですか
    七日降ったら
  七日来ないつもりつもりなの?

 「雨で濡れるんで今日はちょっと」
とでも男が短歌を送って来たのでしょうか、このような場合には、様式化された和歌らしい和歌などを返していたのでは、思いの欠けらも伝わりません。むしろ日常会話に近い調子でもって、しかも具体的な日にちまで出して、
     「春雨なんかで服が濡れるって、
        七日降ったら七日来ないつもりなの?」
と怒ってみせるのが一番です。それでも「服が濡れる」とは言わずに「通らめや」とまとめ、下の句の七日のゴロ合せもありますから、ちゃんと短歌としての体裁にも注意が払われている。だからこそ私たちが聞いても、日常会話で聞かされたら、「やれやれ」と感じるところを、作品として楽しむことが出来ますから、そのバランス感覚が好印象です。

     『悲別(ひべつ)』
朝戸出(あさとで)の 君がすがたを よく見ずて
  長き春日を 恋ひや暮らさむ
          よみ人しらず 万葉集10巻1925

朝戸を出る あなたの姿を よく見なかったので
   長い春の一日を 恋しく思ってすのでしょうか

 恋人たちの幸せの夜も過ぎ、男が帰っていくのを、寝ぼけてしっかり見なかったために、かえって長い春の一日を、あなたを恋しく思って暮らすのでしょうか。というのが短歌の内容になります。

 心情としては、
  「君を見たりなくて、恋しい春の一日です」
くらいのものですが、それを、
  「朝に出て行くあなたを見ないで、
    長い春の一日を、恋しく暮らします」
と着想にまとめたものです。十分な別れを告げて、送り出すことが出来なかったものですから、そのことが災いして、相手はどう感じただろうなどと、考え始めたらもう次から次へと、恋の妄想が始まってしまう。そのきっかけとしての上の句が、なかなか心理学のサンプルにも、使えそうなくらいの乙女心ではないでしょうか。

 短歌としての魅力は、その着想にこもると言えるでしょう。様式化に際しては、下の句の表現が熟れているのは、個人のファインプレーではなく、使い慣れた慣用的表現である為で、全体は着想のままに、平たく詠まれたくらいのものです。それでも上の句の印象が鮮明ですから、心に残るような作品になっています。

夏の雑歌

     『鳥を詠む』
今夜(こよひ)の
  おほつかなきに ほとゝぎす
    鳴くなる声の 音(おと)のはるけさ
          よみ人しらず 万葉集10巻1952

今宵 月明かりもおぼつかない中で
  ほととぎすが 鳴いているようです
    はるか彼方で

今宵 心もとない気分でいると
  ほととぎすが 鳴いているようです
    なんてはるか遠くで

 二句目の「おほつかなきに」は月影がおぼつかないという説(小学館)と、心がおぼつかないという説(講談社文庫)(角川文庫)があります。どちらにも捨てがたい魅力がこもるなら、あえて一説を唱えなくてもよいのではないでしょうか。(少なくとも一方が誤りであると確定しない限りは)

「鳴くなる声」の「なる」が推定ですから、断定的に鳴いているのではなく、彼方の方で鳴いているようだ。月明かりの方で解説しますと、おぼつかない月明かりが、決して見えない訳ではないように、「鳴くなる声」というのも分からないくらいの声で、という意味で、実際に「ほととぎす」であるかどうか、判断が付かない訳ではありません。二つのおぼつかないものが視覚と聴覚に作用して、聞き手のこころさえおぼつかなく感じられてきたら……

 その時は二句目には、
  初めから二つの意味が、
   内包されていたと思考しても、
  一向に構わないどころか、
 なんて素敵な解釈ではないでしょうか。

     『蝉を詠む』
黙(もだ)もあらむ
  時も鳴かなむ ひぐらしの
 もの思(おも/も)ふ時に 鳴きつゝもとな
          よみ人しらず 万葉集10巻1964

思うこともない
   時に鳴いて欲しい ひぐらしが
  思い悩むときに やたらに鳴き続ける

 蛙の声でも蝉の声でも、一切ゴメンだという人もいますが、そのような人には、この短歌は分かりません。屈託のない時になら、鳴いてもよいと思っているはずのひぐらしであるのに、それが、もの思いに沈んでいる時だと、どうしてこうもうるさく響くのか。その心象のブレの分だけ、「もの思ひ」の内容も深く大きいというのが、この短歌の趣旨になります。対象物を三句目に置き、それを上下に掛からせながら、対比するようなやり方は、短歌の定型の一つには過ぎませんから、無難ながら踏み外さない様式で、うまく取りまとめたと言えるでしょう。

     『花を詠む』
見わたせば
   向かひの野辺(のへ)の なでしこが/の
 散らまく惜しも 雨な降りそね
          よみ人しらず 万葉集10巻1970

見渡すと
  向こうの野辺に咲く ナデシコが
 散るのは残念です 雨よ降らないで欲しい

 「雨な降りそね」はお約束の「な~そ(ね)」で願望を含む禁止「~するな」「~するんじゃない」という表現です。ついでに「散らまく」は「ク語法」で「散ることが」。おまけに「惜しも」の「も」はただの詠嘆です。

 「見わたす」にはあるいは「遠く広くを見る」意外にも「注意をして見る」ような意味も込められているのでしょうか。あらためて見わたすと、向こうの野辺のナデシコの花が、もうすぐ散りそうに思える。それでどうか雨よ降らないで欲しい。「な~そ」の表現には、語りかけるような効果がありますから、結句に置くのも効果的ですが、この歌の場合、四句目と五句目を入れ替えた方が良いか、あるいはちょっと悩んだかも知れません。

夏の相聞

     『花に寄する』
卯の花の 咲くとはなしに
   ある人に 恋ひやわたらむ
  かた思(も)ひにして
          よみ人しらず 万葉集10巻1989

卯の花が 咲くこともないように
  恋に開くこともない人に
    恋をし続けるのでしょうか
  片思いのままで

  「はぐらかし法」
などという技法は、万葉時代には無いようですが、明示を避けた表現には、解釈の幅がこもります。「咲くとはなしにある人」というのは、単に見込みのない人とも、まだ咲く状態になっていない人とも取れますから、詠み手が男であれ女であり、さまざまなシチュエーションが想定できます。そのくせ、明確なことは何も分かりませんから、まさに「はぐらかし法」を使用されたような余韻が残ります。

  順に見ていきましょう。
 まず「片思いのあの人に恋を続けるとは」くらいの心情から出発です。心情は単純明快ですが、片思いの相手を表現するために、「卯の花が咲かない人」のような単純な比喩ではなく、「卯の花の咲くということもない人」「卯の花の咲くというそぶりもみせない人」くらいの「卯の花の咲くとはなしにある人」という比喩を持ち込むことにしました。もちろん、そのような微妙な表現こそが、相手の女性に相応しいものだったからには違いありません。

 上の句は、すでに着想から様式化に踏み込んでしまいましたから、あとは下句側の「片思いのあの人に恋を続けるとは」という表現を移し替えて、先ほどの比喩が「あの人」に掛かって、文脈を継続させつつ、結句に現実を確認して、ため息をつくような効果で、倒置法を使用して「片思いでありながら」とまとめよう。

 そのようにして生まれたものが、
  この短歌であると、解釈出来るかと思われます。
   また一つ前の短歌との関連から、
    「卯の花の咲くとはなしに」には、
   憂いの花が開くともなくずっとあるという、
  意味が込められているという説もありますので、
 ここに記して終わります。

秋の雑歌

     『七夕(しちせき)』
天の川 水かげ草(くさ)の
  秋風に 靡(なび)かふ見れば
    時は来にけり
          よみ人しらず 万葉集10巻2013

天の川の 水かげの草が
  秋風に 靡いているのが見える
    待っていた時は来たのだ

「時は来た」とか「時は今こそ」などの言葉を結句に持ってくれば、導き方さえ的確であれば効果的です。それで七夕の着想として、彦星が天の川を眺めるというのはありそうですが、水辺の草が風に靡くのを見て、秋が来たと確信するだけ、という発想はあまり聞きません。それだけで、七夕の待ちわびる思いを表明するという、「悟らせ法」を使用していますから、甘くすればただ「純粋に秋を待ちわびていた」歌になってしまいそうですが、冒頭に「天の川」と置き、結句を「時は来にけり」と強い確信の表現で閉ざすことによって、待ちわびたとっておきの秋が来たことが悟れます。それが呼び水となって、私たちには、「ああ七夕の気持ちだ」と共感出来るようになっている訳です。

 しかも暦で七月七日を待ちわびるというより、風が秋の風に変わったのを知って、「時は来にけり」と感じた様子ですから、情緒的に響きます。結句の調子に出発の気配がこもりますから、恐らくは彦星の心情なのでしょう。「天の川の水かげ草」という、特別な草のなびく感じが、ちょっとファンタジックな心をくすぐるようで、魅力的な表現になっています。

     『七夕(しちせき)』
天の川
  去年(こぞ)の渡りで うつろへば
    川瀬(かはせ)を踏むに 夜そ/ぞ更けにける
          よみ人しらず 万葉集10巻2018

天の川の 去年の渡り瀬が 移り変っていて
  川瀬を求めるうちに 夜は更けてしまった

 やはり彦星の表明ですが、
  今度は、急に具体的な短歌です。
 渡り瀬というのは、歩いて渡れる瀬という意味ですが、なにも砂浜をジャブジャブ渡れるというものではありません。腰まで漬かっても、流され掛けても、なんとか渡れるならば、それは渡り瀬です。天の川ならずとも、直に川を越えるような機会も多かった当時の感覚では、おそらく渡り瀬が変化して、渡れなくなっているような場合、あるいは水量が増して渡りきれないような場合の、絶望するような感覚は、わたしたちには想像出来ないくらいだったのではないでしょうか。

 それでもあきらめずに、川瀬を求めるうちに、夜は次第に更けていく。もちろん運が良くても月明かりくらいの夜ですから、天の川といえども、川瀬は闇の底です。石を踏めば天の川藻がぬめって、溺れた途端に下流です。それを必死に渡ろうとする彦星の姿、焦燥感、それでも織り姫に逢いたいという願いが、この短歌には込められている。同時に最後の一言で、希望をゆだねてもいるのです。
 少なくともまだ、夜は明けてはいないのですから。

  そのような意味で、
 三句の「うつろへば」から四句の「川瀬を踏むに」というのは、当時の人々にはリアルなものに響いたのではないでしょうか。わたしたちも、もし、海や川で足を取られて、溺れかけたくらいの経験さえ持っていれば、夜中ではないにせよ、多少のイメージは湧いてくるかと思われます。もし、そんな経験すら奪われた、末世ともなれば……

 あるいは、我々は、
   川瀬を求める彦星などよりはるかに、
  かわいそうな人々なのかも知れませんね。

     『七夕(しちせき)』
天の川 楫(かぢ)の音聞こゆ
  彦星(ひこほし)と 織女(たなばたつめ)と
    今夜(こよひ)逢ふらしも
          よみ人しらず 万葉集10巻2029

天の川に 楫の音が聞こえる
  彦星と 織り姫とが
    今宵逢うのだろう

 冒頭の「天の川に楫の音が聞こえる」というのは、なかなか大胆な見立てです。なるほど、「二人が逢っているようだ。天の川に楫の音が聞こえてくる」くらいの、通常の文脈であれば、「天の川の楫の音が聞こえてくるなんて、ちょっと唐突な虚構に過ぎるな」と聞き手に感じさせるゆとりを与えてしまいますが、それを倒置していきなり提示しますから、虚偽であるはずの「楫の音が聞こえる」ということが、前提となって話が進むことになりますから、通常の文脈の時よりは、ずっと真実めいて響きます。もちろんそれは、冒頭で、詠み手が伝えたい思いを真っ先に伝えたような効果が、少なくとも短歌内部での「天の川の楫の音」を、正統なものに移し替えてしまっている。その効果によるものに違いありません。

 つまりこの場合、通常の文脈ですと、私たちは現実に対して、詠み手の内容を推し量りますが、倒置されて詠み手の意志が強く表明されたことによって、詠み手の物語内部に誘い込まれたような結果となる訳で、その上で、「ああ二人が逢っているのだな」と語りますから、もう完全に楫の音は、既定の事実にされてしまって、私たちも詠み手の思いに、心を委ねるようになってしまう。なかなか効果的な倒置になっています。

 だたこの短歌、案外船の上や、川べりで、実際に楫の音を聞いて詠まれたものかもしれませんね。それを短歌だけ残したものですから、ちょっと大胆な表現をしているようにも聞こえる。それでも地上の楫の音を、いきなり「天の川楫の音聞こゆ」と読み始めるざっくばらんさは、見習うべきくらいです。そもそも、そんなシチュエーションに立ち会っても、初心者のうちは、すぐに「楫音を聞き見上げれば」などと、中途半端に事実に縛られて、立ちのぼる想像に身をゆだねようとはしないもので、それによってかえって、短歌を中途半端なものに、貶めることもしばしばですから。

虚偽の既定化

 ではさっそく、
  大きな嘘は先に宣言して、
   既定の事実として短歌を詠むという、
  この戦略を見習ってみましょう。

 もちろん虚偽を述べるのですから、冒頭に提示しても破綻するような嘘になる可能性も高い。それを恐れてこざかしく振る舞えば、この「楫の音」のような効果はだせませんから。きわめて難しい課題には違いありません。よいのです。別に優れた作品にしなくても。今回はこの練習により、そのような効果があると言うことを、知っていただくのが目的です。そうすれば口で説明されるより、ずっと容易く、この短歌の効果をつかみ取ることが出来ますから。そうしてつかみ取ったら始めて、それは短歌を理解したと言えるのですから。

  コツですか。
 かえって誇張法による虚偽の方が作りやすいかも知れません。例えば「お腹を壊したのは毒入りのカレーを食べたからだ」では、事実を説明した調子なので、「毒入り」がきわめて嘘くさく響きますが、
     「毒入りのカレーだったんだ。
        僕がお腹を壊したのは。」
と倒置させますと、詠み手の心情として、「毒入りだった」という誇張がなされたように響くので、聞いている方も、たとえ話として、どれほどの下痢だったのかと、短歌に共感してくれる可能性が高くなる。というようなやり方です。
 まあ、失敗してもいいんですから、
  ともかく一つ、作ってみましょうよ。


     「また、勝手なことを」
豚箱から 出せやこのやろ
  三日三晩 風邪に打たれて みじめな俺様
          いつもの彼方

     「本当の豚箱だったり」
魔法使い 空をゆきます
  じれったい あなたのことを
    つかまえたくって
          時乃遥

風に聞く 誰のささやき
  コスモスの 揺れるみ墓に 水を打たせて
          課題歌 時乃旅人

まだ七夕の歌

     『七夕(しちせき)』
天の川
  遠き渡りは なけれども
    君が舟出(ふなで)は 年にこそ待て
          よみ人しらず 万葉集10巻2055

天の川は
   遠い渡りでは ないのですが
 あなたの船出は 一年ものあいだ待っています

  織り姫の気持ちです。
   あちら側が見えるくらいの川なのに、
  あなたの船出は一年待たなければならない。
 それはそれでよいのですが……

 わたしはこの短歌を読むたびに、実際に地上から見上げた銀河の印象で、あんな狭い川なのに、どうして一年も渡れないのだろうか。というリアルな感慨が、ベースになっているような気持ちが、ほんの少しだけ湧いてくる。べつにそれが、短歌を貶めるという意味ではありません。詠み手の心情の片鱗には、そんな実感もあるのかなと、推し量るようなものなのです。それでなんだかこの短歌が記憶に残って、こうして紹介してしまうことにもなる訳です。

 いずれこの和歌、
  拾遺集にも掲載されていますから、
   覚えて置いても、損はありません。
  別の集で、不意に出会うもの、
 ちょっとした喜びですから。

     『七夕(しちせき)』
足玉(あしだま)も
  手玉(てだま)もゆらに 織る服(はた)を
    君が御衣(みけし)に 縫(ぬ)ひあへむかも
          よみ人しらず 万葉集10巻2065

足玉(あしだま)も
  手玉(てだま)も揺らして 織る布を
    あなたの着物に 縫いきれるかしら

「足玉」「手玉」は手足につける修飾の玉で、それを揺らしながら布を織っているのですが、果たしてあなたの来る前に、着物に縫いきるでしょうか。そんな内容です。上の句は、これまで見てきたような、着想を元に様式化を計ったと言うよりも、むしろ集団の中で自然に様式化された、「機織歌(はたおりうた)」の歌詞か何かから、引用してきたような印象です。あるいは下の句も、歌詞の後半そのものにも思われます。そんな歌を歌いながら、せっせと機織(はたお)りをしている、けなげだけれど、ちょっと陽気な織り姫の姿が浮かんでくるようで、屈託もなくて愉快です。

 そんな解釈はまやかしだと言うなら、
  頑張って、様式化された短歌を眺めましょう。
   わたしは親切な男です。

 まず冒頭の二句がくり返しのリズムで、共に三句目の修飾になっています。これは序詞がある言葉を導いて、そこから詩の実質的な内容へ移るのと一緒で、この短歌も三句目以下の実体を述べるために、初めの二句は三句目の比喩として置かれている。ただそれが、状況を説明するものではなく、「足玉」「手玉」と揺らすような、機織りのリズムを形容したものになっているので、なんだか歌謡でも口ずさみながら、機を織っているように感じるわけです。

 それで、あなたの着物を縫っています。
とまとめれば、普通の発想に過ぎませんが、そこに、
   「もしかしたら間に合わないかも知れない」
という思いを、待ちわびる思いとは別に、もう一つ付け加えますから、急に詠み手の心情が複雑になって、私たちの興味を引くものになっています。

 つまりはこれによって、懸命に織る姿が強調されると同時に、まもなく七夕が近づいて、間に合わなかったらどうしようと思って、それで冒頭にあるようにせっせと、織物をしていることが悟れますから、短歌の場景が臨場感を持って表現されます。その上、思いの本当は、「間に合わなかったらどうしよう」ではなく、つまりはもうすぐあなたに逢えるという、待ちきれない心情にあることが、その場景そのものから、つまり実際の言葉の外側から、悟ることが出来ますから、この結句の内容は全体に大きな意味を担っているのです。

 このように形式と、心理状態が、綿密に構成されていますから、聞いている方は安心して短歌に身を委ねることが出来るのですが、それだけでなく、玉というのは糸玉にも重なりますから、冒頭から順番に上げると、「玉」「玉」「織る」「服」「御衣」「縫ひ」と、縫うことに関連性を持たせた言葉、つまり「縁語(えんご)」が全体を支配してもいるのです。
 そのため、冒頭の効果だけでなく、
  まさに縫うために存在するような短歌のようにも聞こえ、
   それでなおさら、「機織り歌」のように響いて来る訳です。

……このくらい説明すれば、
   許していただけるでしょうか。
    ようやく次へと参りましょう。
   全然先に進みません。
  時が足りなくってなみだです。

     『花を詠む』
白露の 置かまく惜しみ
   秋萩を 折りのみ折りて
  置きや枯らさむ
          よみ人しらず 万葉集10巻2099

白露で 散るのが惜しいから
  秋萩を 折るだけ折ったんだけど
 置いたままで 枯れちゃった
    ごめんね てへ

 何が「てへ」だ、
  絶対許さん。
 ……とは申しませんが、
ちょっといたずらをしました。
 本当は現代語訳は「置いたまま枯らしてしまうのだろうなあ」が正解で、まだ枯れる以前の後悔を詠んでいます。「置かまく」と「置き」はちょっと無駄な気もしますが、実はこの短歌は、ちょっとした言葉の韻(いん)遊びをもとに様式化されていて、三句目の「折り」のくり返しはもちろん、「置」のくり返しは、全体に六回登場する「お」(ただし「を」も含む)の戯れと一体になって、語りの愉快さに寄与している。だから黙って読むよりも、口に出して唱えた方が、ずっと優れた作品に感じると思います。
 では、さっそく唱えて見てみましょう。

     『花を詠む』
朝顔(あさがほ)は
   朝露負(お)ひて 咲くといへど
 夕影(ゆふかげ)にこそ 咲きまさりけれ
          よみ人しらず 万葉集10巻2104

朝顔は
  朝露を受けて 開くと言いますが
 夕日のなかでこそ 咲き誇っているようです

 実はこの短歌は、危険な短歌です。
  わたしはちょっと後悔しています。
   それはここに表現された朝顔が、
  今の私たちの鑑賞する朝顔ではない、
 夕方まで咲いていて、しかも夕方に咲き誇るような花だからです。これについてはいくつかの説があり、秋の花で、夕方まで咲き続けるもので、実際はキキョウを指す、というのが有力な説なのですが、その有力というのが、真実に近いから有力なのか、たまたま現在勢力を得て、有力と思われているに過ぎないのか、ちょっと怪しいくらいのところで……

 これに関わるのは止めましょう。
  「キリギリス」と「アサガオ」にだけは近づいてはならん。
 確か死んだ爺ちゃんも、そんなことを言っていたような気がします。年配者の助言は大切にしなければなりません。ただ他の説も、紹介だけはしておくと、朝のうちにしぼまない品種のアサガオもあるとか、ヒルガオであるとか、ムクゲであるとも言われている。いずれ夕方の方がうつくしいのに、なんでアサガオの名称か。という着眼点がこの短歌の面白さになっています。

  そうそう、他にも可能性がありました。
 この詠み手が誤って、当時アサガオと言われていた花と別の花を、アサガオと詠んでいた場合です。もしそうであったとして、誰がそのことを証明するのでしょうか。あまり深入りしても、むなしい事柄も多いのです。そのようなものは、わたしたちは保留にして、どしどし学者たちに、宿題を押しつけるのが便利です。

     『雁を詠む』
秋風に
   山飛び越ゆる 雁がねの
 声遠ざかる 雲隠(がく)るらし
          よみ人しらず 万葉集10巻2136

秋風のなか 山を飛び渡る 雁がねの
   声が遠ざかる 雲に隠れたようだ

 分かりやすく詩情もありますが、「山飛び越ゆる」というのは慣れないと、ちょっと変な描写にも響くようです。今日と類似の表現か、あるいはまるで違っているとそうでもないのですが、「山を渡りゆく」「山を飛びゆく」くらいが普通かと思われるが、文法的には「山を飛び越える渡り鳥」でも差し支えない。このくらいの表現が、一番現代語と古語において、違和感を感じやすい傾向があるのは事実で、もしあなたが不自然に感じたとしても、何度も繰り返して、読み慣れると、気にならなくなる場合も多いので、あまり性急に、判断を下さないことを望みます。
 もちろんこの表現に限らずです。

 ちなみに、表現として不自然なものは、何度も繰り返して、読み慣れると、さらに気になって、不愉快が湧いてきますから、ある表現がユニークすぎて、自分が慣れないのか、単に破綻しているだけなのかなど、迷ったときには、何度も口に出してみるのが一番です。ただし一日の印象は誤ります。翌日、あるいは一週間と、確認していくと、段々見えてきます。品評会の化けの皮が剥がれてきます。ユニークな表現の味わいが分かってきます。なにしろあまりあせらないことです。それが一番の早道ですから。

 この短歌の様式的に面白いところは、四句目までがひとつの文脈で、最後の結句だけが、あらためて語られた推察になっている。すなわち四句切れになっている点で、それによって結句の独り言みたいなつぶやきが、余韻となって残されるところでしょう。

     『鹿鳴(ろくめい)を詠む』
君に恋ひ うらぶれ居(を)れば
   敷(しき)の野の 秋萩しのぎ さを鹿鳴くも
          よみ人しらず 万葉集10巻2143

あなたが恋しくて しょんぼりとしていると
   敷の野の 秋萩を踏み分けて
  牡鹿が鳴いているのでした

 奈良公園には鹿が煎餅を狙ってたむろしていますが、あるいは鹿で知られた野であったのでしょうか、「敷の野」がどこであるかは、残念ながら不明なのです。秋になると求婚のために鳴く牡鹿の声は、悲鳴みたいで恐ろしいという意見もありますが、秋の風物詩として、万葉集から詠まれていました。「うらぶる」というのは「しょんぼりとしおれている」様子を表わします。それで内容は、恋にしおれかえっていたら、牡鹿も恋しさに鳴いていた。
 ところで、後の『古今和歌集』の和歌、

秋萩に うらびれをれば
  あしひきの 山したとよみ
    鹿の鳴くらむ
          よみ人しらず 古今集216

は、自らを秋萩の中に置き、山の麓で鳴き声を響かせている鹿を詠んだものとして、この和歌の「本歌取り(ほんかどり)」のようになっている作品です。これと比べると、万葉集のものは「君に恋ひ」と説明がされていますから明確で、牡鹿の行動も具体的ですが、『古今集』のものはくり返し詠んで、「鹿の鳴き声だから、詠み手は恋に苦しんでいるのか」と悟れるようなもので、鹿の行動は鳴き声だけに集約されています。このデリケートな表現と、万葉集の本歌(もとうた)を比べて、時代の差だと考えても良いですし、感性の違いだと捉えても構いませんし、あるいは純粋にその力量を、比べてみるのも面白いかと思われます。

     『蟋(こほろぎ)を詠む』
秋風の 寒く吹くなへ
  わが宿の 浅茅(あさぢ)がもとに こほろぎ鳴くも
          よみ人しらず 万葉集10巻2158

秋風が 寒く吹くのに合せて
   わたしの家の 浅茅のしたで
  こおろぎが鳴いています

  「浅茅の下でこおろぎが鳴いているな」
くらいの心情を「秋風が日ごとに寒く吹くに従って」ますます鳴くように、時間の経過を織り込もうとした着想と、それを「寒く吹くなへに」つまり「寒く吹くのと一緒に」「寒く吹くのに合せて」という表現で同時進行に表現したくらいのところで、特に凝った様式化もありませんが、内容への共感から、真実味のある短歌になっています。

   「こおろぎ」については、
  調べると足下が危険になるので、
 鳴く虫の総称であるという説に従って、
  今は、行き過ぎることにしましょう。

     『山を詠む』
春は萌え 夏は緑に
  くれなゐの まだらに見ゆる
    秋の山かも
          よみ人しらず 万葉集10巻2177

春は芽吹いて萌黄色(もえぎいろ)に
   夏は緑色を深くして
 紅色の まだら模様に見える
    秋の山肌

 このような短歌は、「春夏秋」の変遷に山の色彩を掛け合わせて、秋にスポットを当てるという着想と、それを様式化して提出することは、渾然一体として分離して説明するのが無駄なくらいです。はじめの二句で春と夏の提示を、対句(ついく)によってリズミカルに提示して、メインの秋に十分なスペースを確保しながら、ただ色彩を述べるだけではなく、「紅のまだら模様に見える」と述べたところが、印象深く結句を迎える、この短歌の見せ所になっています。

 『万葉集』の原文は、中国での表記を習って、「黄の葉」と書いて「黄葉(もみじ)」と詠ませるものが大部分ですが、それでは見た印象にそぐわないので、「紅色の」とわざわざ断わって、しかも様々な種類の木がありますから、全体が一色に染まらないものを、「まだらに見ゆる」と表現しています。説明的傾向に増さるようにも思われますが、同時に本当の情景を示したいがゆえに、説明を加えているようなおもむきがありますから、くどくどしくは響きません。もとより目的があるならば、説明的であることも、また語りの一側面には過ぎないのです。

     『黄葉(もみち)を詠む』
このころの あかとき露に
   わが宿の 萩のした葉(ば)は
  色づきにけり
          よみ人しらず 万葉集10巻2182

近頃の あかつきの露に
   私の家の 萩の下葉は
  色づいて来ました

  「このころのあかとき露に」
というのは、巻第八(1605)の大伴家持の和歌でも使用されていたフレーズです。万葉集では、しばしば使用されるフレーズというものが沢山あり、時にはそのフレーズの組み合わせで、短歌が成り立っているものすら、存在するような気配ですが、この短歌などは、

     『黄葉(もみち)を詠む』
このころの あかとき露に
   わが宿の 秋の萩原
  色づきにけり
          よみ人しらず 万葉集10巻2213

と、四句目がちょっと違うくらいのものが、直後に別の和歌として掲載されているくらいです。今回はただ、ほとんど同一の短歌が、時々別も和歌として掲載されていることを、改めて紹介してみただけに過ぎません。もちろん採用に足る短歌であることは言うまでもありませんが、今はさくさくと次へ移りましょう。

秋の相聞

秋の夜の
  霧立ちわたり おほゝしく/おぼゝしく
    夢(いめ)にそ/ぞ見つる 妹がすがたを
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集10巻2241

秋の夜の 霧が立ちこめて おぼろげに
  夢に現われた あなたの姿よ

「おほほしく」というのは「おぼろげでぼんやりしている」ことを言います。「ぼんやりとした恋人の姿を夢に見た」くらいですが、序詞によって秋の霧、それも夜霧を持ち込んで「おほほしく」へ導きますから、心もとないような夢の世界です。しかも下の句も「妹がすがたを夢にそ見つる」ではなく、倒置されますから、全体がおぼろげな恋人の姿へと収斂(しゅうれん)され、妹が姿も、細りに細るような印象です。

 そして、このように解析していくと、
   詩の構造がクローズアップされてくる。
     『柿本人麻呂歌集』の特徴と言えそうです。

ズーム、あるいはフォーカスについて

     『水田に寄する』
秋の田の
   穂のうへに置ける 白露の
  消ぬべくも我(あれ/わ)は 思ほゆるかも
          よみ人しらず 万葉集10巻2246

秋の田の
   穂のうえに置かれた 白露が消えるように
 私はまるで消えそうな 思いにとらわれてしまいます

 消え入りそうな下の句を導くために、稲穂の上の白露を序詞として様式化したものです。『小倉百人一首』の巻頭に、天智天皇の「秋の田のかりほの庵の苫(とま)をあらみ」という出だしがありますが、フォーカスの移動がそれと同様、広いものから
     「秋」⇒「田」⇒「稲穂」⇒「白露」
と小さいものへと順次移行し、それさえ消え入りそうなところへ、自らの心情へ移しますから、その比較によって、詠み手の心細さが把握されるという仕組みです。後は相聞に収められている所から、恋に対する心細さであると、判断が出来るかと思います。

 フォーカスの移動といえば、
   近代の短歌に、

ゆく秋の
  大和の国の 薬師寺の
    塔の上なる 一ひらの雲
          佐佐木信綱

の印象が、今ひとつ「一ひらの雲」に集約されないのは、聞き手に視線の移動が伝わらないから、極端に言えば詠み手が、場景を、焦点に向けて描いているのではなく、知恵によって並べているからに他なりません。

 つまりは、「秋の田の」なら冒頭はすでに秋の田んぼが浮かびますが、「ゆく秋の」というのは季節の状態を説明しているに過ぎません。さらに「明日香の川の岩の上の」と置けば、単に飛鳥川を「の」で分けたのではなく、「明日香」という地を流れる「明日香川の」というフォーカスも込められますから、「岩の上に」視点がクローズアップされる感じになりますが、「大和の国の」における「国の」は単にかつての国名である「大和」を、「の」で分離したに過ぎません。これによって「大和という国の」という印象が強く混入しますから、ズームインどころではありません。

 ズームが働かないとなると、「大和の薬師寺」で意味は通じますから、「の国の」は無駄な解説を加え、字数を埋めた印象が強くなります。もしズームを定めたいなら、そもそも『万葉集』時代の短歌にはまったく見えないものですから、別に「大和の奈良の薬師寺」とでも詠めば、まだしも二句目以降は、「塔の上」までつながりますし、他にもいろいろな候補は挙げられるかと思います。これによって、この「大和の国の」という言葉は、心から「塔の上」に焦点を定めていきたいという、心情と結びついた効果からと言うより、まるでそれが『万葉集』で使用された格調高い表現だから、持ち込んで見たような印象になってしまいました。要するに無駄な表現が混入しているのです。

 それで、初句も二句も、ちっとも「薬師寺」に収斂されない、ただの状況説明に過ぎなくなってしまいました。それでいながら、三句目以下の着想を読み解くと、どうしても上の句は、詠み手の中では「薬師寺」へと焦点を定めていったつもりになって詠まれたものとしか思えません。また、少しでも和歌を知っている人なら、明確にズームインを志した和歌の、模倣を行なっていることが明白ですから、なおさら、カメラワークの失態に、興ざめを引き起こします。

 もちろん、語りとしては成り立っていますし、「の」の連続によるリズムが、全体のフォームを整えていますし、「去りゆく秋の、大和にある薬師寺」くらいでも、下の句の詩情は行きますから、決して悪い短歌ではありません。むしろ取りどころのあるくらいの、詩にはなっているのですが……

それでもやはり、
     「ゆく秋の 明日香の里の 稲の穂の
        白露の消ぬべく 思ほゆるかも」
では万葉集の短歌に、取り上げるべき値打ちが無くなるのと同様、
     「ゆく秋の大和の国の薬師寺の」
というのは薬師寺に焦点を定めるべき、機能を果たしていないのは事実です。
 そして一度、詩としての興が冷めてしまうと、

「かつてはみやこのあった大和の国も、時代は移り変わり、秋のシーズンを迎えたようだ。かつての息吹を感じさせる薬師寺の塔の上には、去りゆく秋の風情の中で、流れてゆく一ひらの雲がある。そうれあればこそ、感興を催さないはずがないではないか」

となんだか、詠み手がこのような思いを込めて詠みましたよ。と本人から説明でも受けるような、寄り添えない気分が湧いてしまう。つまりは詩によって心を動かされないとなると、詠まれた内容を、推察するのが先に立ちますから、どうしても興ざめを引き起こします。

 それで、軽く流し読むくらいなら素敵なものですが、深く味わおうとして、何度も口に唱えていると、「薬師寺」の短歌は、次第に嫌気が差してくると思います。このことを確かめたいならば、あれこれ考えるのを止めにして、紹介した『万葉集』の短歌と、「薬師寺」の短歌を、一日十回ずつ、一ヶ月唱え続けてみれば、おそらく私の言わんとすることは、分かっていただけるのではないでしょうか。

 つまりは、その程度のことを私は説明しているには違いありません。その理由もまた、皆さまに、知恵や知識で詩を拵えるのではなく、表現を突き詰め、構成を極める刹那でさえも、それは心情をよりよく表明するためにこそ、存在するのだと言うことを、どうしても忘れて欲しくないからには違いないのです。そして、特に慣れないうちは、短歌に深い意味を込めようなどとしないことです。どのような着想にまとめたら、心情をうまく表現できるか。その着想をどのように短歌の様式に当てはめたら、心情をうまく表現できるか。それだけを突き詰めていけば、頓知や知恵など込めなくても、すばらしい作品は生みなせるには違いありませんから。

 もちろん、
  スキルアップの練習の時は、
   なんでも、思った物を込めていいですよ。
    特に初めのうちは、どしどしすっころんだ方がいいんです。
   知恵に走っても構いません。
  ただ、わたしが話しているようなことを、
 こころに留めていてくださったら、
  いつかあなたがすばらしい詠み手になるために、
   役立つこともあるかと思われます。
    ただそれだけの話です。

     『花に寄する』
長き夜を
  君に恋ひつゝ 生けらずは
    咲きて散りにし
  花ならましを/にあらましを
          よみ人しらず 万葉集10巻2282

秋の長い夜を
  あなたを恋い慕いながら 生きているよりは
 咲いては散っていく
   花であるほうがましです

   「ずっと恋しいままでいるくらいなら、
     どうなろうとあなたに逢いたい」
くらいの心情を、直接表現ではなく、花にゆだねて、
   「あなたへの恋しさのまま生き続けるよりは、
     花のように咲いて、そのあとは散ってしまっても構わない」
くらいの着想にまとめ、散る花の印象から、冒頭を秋に定め、
   「長き夜をあなたを慕いながら生きているよりは」
と歌い出す。「咲かせてください。散っても構わないから」なら、恋の決意表明にもなりますが、この短歌では「いっそ咲いては散っていく花であれたなら」と閉ざしますから、花にさえなる事が出来ず、したがって一瞬でも咲くことを許されない、詠み手の遣り切れない恋心が、また冒頭の夜長へと回帰するようです。

 このように心情を表現するために、全体を効率よく詩型に様式化出来れば、後はおのずから、聞き手の心情は寄り添って来るものなのです。あえて「行く秋の大和の国」のように、「かくあるべし」風の着想を込めなくても、「心」と「姿」を兼ね揃えた、すぐれた和歌にはなるものなのですから。

冬の雑歌・相聞

 時間の都合で、冬はキャンセルです。
  代わりに何でも良いですから、
   冬の歌を幾つか詠んでから、
  巻第十を終わりにするのはいかがですか。
 さっそくノートを開きましょう。
  ではどうぞ。


凍えるぜ
  ラーメンひと筋 五十年
    たいした爺(じじい)だ 餃子も食うぜ
          いつもの彼方

病棟の 窓辺のしたの 冬花火
  線香花火の のこり火くらいは
          時乃遥

冬の果
  波打つ岩を 打ち砕き
    荒(あら)ぶる神の 荒(すさ)ぶ夜嵐
          時乃旅人

               (つゞく)

2016/05/12

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