ふたたびの万葉集 その一

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ふたたびの万葉集 その一

心と姿

 「はじめての万葉集」では、感じた思いを、日常の語りくらいで、あるいは日記を記すように、描き出すことを目標に起きました。それは心情を相手に伝えるために、もっとも分かりやすく、間違いのない方針だったからです。けれども、ありきたりの語りであることが、作品としての価値を、砂丘のあまたの砂粒の、特別でないものにしているのも事実です。

 これから「ふたたびの万葉集」で、はじめからもう一度、『万葉集』を俯瞰(ふかん)しますが、今回はそのありきたりの記述を、どうやって作品としての価値を有する、様式化された詩にしていくか。それを目標にしたいと思います。

  勅撰和歌集の時代、
 和歌の「心(こころ)と姿(すがた)」という事がさかんに言われました。私たちも、それを引き継いでみようかと思います。例えば夕日を眺める。何らかの気分が湧いてきます。その言語化される前の、もっとも素朴な心の動きを、「感情」としておきます。

 けれども実際は、感情はその対象物と共に言語化されて、「ああ夕焼けがきれいだ」くらいの感慨へと至るでしょう。あるいはもう少し具体的に、「夕日が海に沈んでいく、きれいだなあ」という、感情と状況の結びついたものとして、言語化されて浮かぶでしょう。その、ほとんど感情と結びついているような状況までを、まとめて言語化したもの。つまりは普段私たちが、心のなかで感情そのものだと思って、無意識のうちに言語化しているような、

「犬がいるから嫌だなあ」
「あいつに振られて悲しい」
「ラーメン屋だ。お腹すいたな」

くらいのもの。
 思いに直結する、
  もっとも単純な表現を「心情」と定義します。
 あるいはもう少しだけ、幅を広げて、

「嫌だなあ、犬がいるから、回り道して帰ろうかな」
「あいつに振られて、毎日悲しくてい泣いている」
「ラーメン屋だ。お腹すいたから、食っていこうか」

など、もう少し加えたものも、
 別に心理学の勉強ではありませんから、
  「心情」とみなしても構いません。
 すると私たちは、「心情」をもとに、ちょっと説明を加えたくらいの素朴なもの。日常的な語りや、日記のような散文で、思いを伝えることを、「はじめての万葉集」では、目的に置いていた事になります。「ふたたびの万葉集」は、さらに一歩進めて、それをどのようにして、様式的な短歌へと移し替えるか。その表現方法を学んで行きたいと思います。

 そのためにはまず、
「心情」をどのようにまとめるか、様式的な短歌にするための発想を折り込みながら、表現を膨らませて、短歌のアウトラインを作る必要があります。これを「着想(ちゃくそう)」と定義します。

着想

 別に難しいことはありません。
  例えば先ほどの、
   「ラーメン屋だ。お腹すいたな」
と心情が湧いてきたので、それを短歌にしようと思う。(もちろんラーメンを食べてからでも構いませんが……)これまでは、ただ心情に寄り添うように、
   「~にある~のうまいラーメン屋だ、
   お腹すいたな、寄っていこうか」
とまとめていましたが、今度はその心情をすぐに短歌に記すのではなく、それをどのように表現したら、効果的に「お腹がすいたな」が伝わるのか、どのような構成にしたら、短歌としての魅力も伴うのか、構想を練り上げてみます。その際、もっとも初心者にお勧めなのは、写生(しゃせい)の精神、つまり実際に視覚で確認したことをもとにしながら、着想をまとめてみせる方針です。

 例えば、思い出してみれば、ラーメン屋を見かけたのは信号の前だったとします。そこで実際にあった信号を利用して、でもそこからは現実よりも表現の効果を優先させて、(つまりスケッチをもとにして、構想を練るわけですね。)

「信号に待たされながら、
   ふと見るとラーメン屋がある。
     急にお腹がすいて、信号が変わるのが待ちきれなくなってきた」

  これがひとつの着想です。
 あるいはまた、美味しいラーメン屋の名前を引き合いに出してみる。「~軒のラーメンが食べたいな」から構想を練り上げたらどうだろう。なるほど、これなら「~軒」を知っている人には効果的ですし、たとえ知らなくても、「~軒」のラーメンは美味しいのか。と悟らせることは可能ですから、ひとつの立派な着想になります。

 あるいはそうではなくて、「もう一ヶ月もラーメン食べてないなあ」とぼやいてみせるのも着想。「昨日もラーメン食べたのに」と逆接でせめてみるのも着想。「カツ丼を食べようと思っていたのに」と変化球を放つのも着想です。そして着想が浮かんでこなかったら、実際にその時はどうであったのか、よく回想してみる何かしか、現実という疑いのない素材の中から、すばらしいものが発見できる事が多いものですから、なるほど写生とか写実と呼ばれるものは、初心者にはお勧めの方針には違いありません。

 もちろん、短歌の字数は三十一字に過ぎませんから、常に形式のことを考えながら着想を練らないと、言いたいことすら分からないような、ごちゃごちゃとした説明書きにもなりかねません。けれどもそれは、追々バランスを見つけていくこととして……

 今は「心情」をもとに、短歌にするため、ある程度内容にふくらみを持たせた、アウトラインのことを、「着想」と呼ぶことにいたします。

姿 (様式化)

 以上の「着想」までが、歌論で述べる所の「心」であるとするならば、それを表現するために使用する言葉つきや、比喩や対句、序詞や枕詞などの修辞(しゅうじ)(レトリック)を整えて、実際に短歌として表わされた詩文のことを、「姿」と呼ぶことが出来るでしょう。

 つまり、
   「信号に待たされながら、
      ふと見るとラーメン屋がある。
        急にお腹がすいて、信号が変わるのが待ちきれなくなってきた」
という着想をもとにして、

信号に
  足止めされた いらだちは
    外まで並ぶ あのラーメン屋

のように、表現されたものが「姿」という訳です。

「姿」については、どのような言葉を使用するのか、「あなた」と「お前で」でも短歌の印象は変わってきますし、丁寧語か命令口調かでも、聞き手の受ける印象はまるで違います。「わたしは悲しかった」と言うところを、最終的に「悲しかった、わたしは」とまとめれば、倒置法という修辞によって、姿を整えた事になりますし、「夕暮です」と言うところを「秋の夕暮」と体言止めにすることによっても、表現される詩の印象は変化します。

 このように、「着想」を詩に相応しい、効果的な表現としてまとめること、つまり優れた「姿」に描き出すことを、ここでは「様式化(ようしきか)」と呼ぶことにします。

 ただし、これについては、「着想」にこだわりがなくても、姿を良くすれば表現もよくなるものですから、「はじめての万葉集」のうちから、その根本的なところは、説明を加えて来ました。そこで、「ふたたびの万葉集」では、特に「着想」ということにこだわりながら、もちろん「姿」についても、引き続きすぐれた表現を模索して、ソツのない表現以上のもの、より好い短歌にするということを目標にしながら、話を進めていこうかと思います。

動く言葉、動く表現

 ふたたび万葉集を眺める前に、「はじめての万葉集」で紹介した短歌を、冒頭よりいくつか抜き出して、どのような改善の余地があったのか、どのようにすればありきたりでない、優れた作品になったのか、具体的に指摘してみましょう。

 そんなときは、「表現が動く」ということを、一つの指針にするのが好いでしょう。「動く」「動きやすい」というのは、他の言葉に置き換えられるかも知れない、他の表現に変えられるかも知れない、そうした方が、よりよくなる可能性が、どの程度あるかということです。ですから、言葉や文章を変えたとしても、以前より良くなっていなければ、もとの表現が動いたとは言えません。動かないものを動かしたら、それは改悪になってしまいます。

 ともかく具体的に見てみましょう。
   まずは長屋王が「上着を貸してくれる恋人がいない」
  と嘆いた、巻第一の短歌。

具体例 その一

宇治間山(うぢまやま) 朝風寒し
   旅にして
 衣(ころも)貸すべき 妹(いも)もあらなくに
          長屋王(ながやのおおきみ) 万葉集1巻75

宇治間山は 朝風が寒い
  旅をしていて 服を貸してくれる
   恋人さえいないのに

 まず動くところを探すために、
  動かせないところを消していきましょう。
「衣貸すべき妹もあらなくに」が心情の核になっています。これを取り除くことは、着想そのものを破棄して、別のものに置き換えることになりますから、動かすとしたら上の句に移し替えるくらいですが、もし上下を逆にすれば、結論を言い終えてから、慌てて状況を説明するようなことになりますから、この場合はあまり効果的ではありません。したがって下の句は、動かないと見て良さそうです。

 一方冒頭の「宇治間山」は、
  必ずしも冒頭に置かれる必要性はありません。
   描き方次第では、
     「旅にして朝風寒し宇治間山」
としてから、ちょっと手直しをしても構わない。少なくとも上の句の範囲では、動く状態にあると言えるでしょう。ただし「消せる言葉」ではないので、いずれかに置かれるべき言葉になります。逆に、なくても内容が伝わりそうな言葉もあります。それは三句目の「旅にして」です。

 何しろ、具体的な山の名称を上げて、朝風が寒い、服を貸してくれる恋人がいないと延べているのですから、第三者が読んだとしても、「旅の歌」であることは推察されます。推察される言葉を、しばしば短歌の構造の要(かなめ)ともなる、三句目に当てたものですから、なんだか上下をつなぐために、接着剤の代わりに、置かれたような、頼りないものになってしまいました。引き締まった肉体が、お腹だけ出ているような、ちょっと間延びした印象が湧いてくる。
 なにしろ、この「旅にして」さえ取り除けば、

宇治間山
  (朝吹く風の 寒空に)
 衣貸すべき 妹もあらなくに

宇治間山
  (冷たき空の 朝風に)
 衣貸すべき 妹もあらなくに

 残念ながら、万葉集の語りは私には無理なので、()はそのような内容を、当時の言葉で述べると考えて貰いたいのですが、ともかく、心情の中心である下の句に対して、心情を表明するための状況の中心である「朝風が寒いので」を、二句分のスペースで十分述べることが出来ます。さらに余計なたるみもなく、状況の核心を提示したまま、心情の核心へと渡りますから、「旅にして」を接着剤にして、上下(かみしも)を橋渡したような、切れの悪い印象はなくなります。

 その上で、改めて「宇治間山」を冒頭に置くべきなのか、スペースの空いた上の句を、再構成することも可能ですから、結論を述べれば「旅にして」は外せる言葉。外した上での「宇治間山」「朝風」「寒し」は、まだ動かす余地の残された言葉であると言えます。一方で「着想」については、下の句の感慨に対して、「旅にして」を取り除いて、ようやくまとまりが付いたくらいですから、「宇治間山」「朝風」「寒し」だけでもう十分、訴える内容としては必要な駒は揃っていますから、改めて加える必要は、ないと考えられるでしょう。

 このような事は、もちろん慣れないと、聞いてすぐ分かるものではありませんが、何度も唱えるうちに、「なんとなく間延びしているな」「なんとなくしっくり来ない」あるいは、もう少し具体的に「この部分だけ詰まって聞こえるな」などと疑惑が湧いてきたなら、それはあなたが無意識のうちに、その詩が完成されきっていない、言葉が結晶化されていないことを、察知したのかもしれません。

 結論を述べれば、日常の語りかけくらいの表現は、それが即座に屈託もなく描き出されたものであるがゆえに、このような傷が、しばしばそのまま籠もるものです。次に「はじめての八代集」で二番目に見た和歌を取り出してみましょう。

具体例 その二

     「弓削皇子(ゆげのみこ)、
        紀皇女(きのひめみこ)を思ふ御歌四首」より
吉野川
  行く瀬の早み しましくも
    淀むことなく ありこせぬかも
          弓削皇子 万葉集2巻119

吉野川は 流れゆく瀬が早いので
  しばらくの間も 淀むことがない
    それと同じように 私たちもお互いに
      淀んだ気持ちを持たずに
    ありたいものです

 あるいは、お分かりでしょうか。
「しましくも」(ほんの少しも)「ありこせぬかも」(ありたいものです)という口調が、一方では語りかけられたような、臨場感を高め、思いを相手に悟らせるための、鍵になってはいるものの、同時にこの詩を、散漫なものにも貶めている。ここからもし「しましくも」を抜いて、

吉野川
  行く瀬の早み 淀みなく
    (    ) ありこせぬかも

としても、結句の「ありこせぬかも」で十分、即座に語られたような印象は消えませんし、あるいはまた、

吉野川
  行く瀬の早み しましくも
    淀むことなく (君を愛そう)

のようにしても、「しましくも」で十分、即時性は保たれる。しかも、いずれの場合でも「しましくも」「ありこせぬかも」の二つ込められた時の、ルーズな印象よりは、骨格がしっかりして聞こえるかと思われます。

 しかしどちらを抜くにしても、新たな何かを加えなければなりませんから、(別のつなぎ口調を加えても、状況は始めに戻ってしまいますから、)つまりはこの短歌は、着想の段階で今ひとつ、表現するものが足りなくて、その結果として、口調で間延びさせたような印象がある。このような場合は、着想に帰って、例えば「君を愛そう」に相応しい万葉語を持って来るような、処置を施した方が、よりよい短歌を提示出来そうです。

具体例 その三

天地(あめつち)と
  共に終へむと 思ひつゝ
 仕へまつりし こゝろ違(たが)ひぬ
          万葉集2巻176

「天地が終わるときまでは共に」
   そう思って仕えてきましたが
    その心を違えることになってしまうなんて……

 これも三句目に鎮座して、
  全体を散漫にしている「思ひつゝ」を除き、
    「天地と、共に終えようと、仕えてきた」
と四句目までを上の句へと集約して、結句の思いを拡張するなり、着想へ戻って、もう一つ対象物を持ち込んだ方が、ずっと悲しみが伝わってくるのではないでしょうか。

まとめ

  このくらいで十分かと思われます。
 実は「はじめての万葉集」で紹介してきた和歌は、日常的な語り口調、日記に記すくらいの散文で、表現される内容をめざしたものですから、逆に短歌として眺めた場合、どの作品も多かれ少なかれ、このような傷を持った和歌でもあったのです。したがって「ふたたびの万葉集」では、それを着想によって補強して、動かせる表現を手直しして、修辞を重ねて、でもはじめの心情は失わないで、ほんの少しだけ和歌の作品らしく、体裁を整えることをめざしたいと思います。

 実は、「はじめての万葉集」で散々、心情を蔑ろにする短歌のことをお話ししましたのは、この着想から様式化を果たすうちに、はじめの心情を蔑ろにして、表現ばかりを、つまり「姿」ばかりを追い求めてしまうような弊害に、初心者はしばしば陥るものですから、なるべくそのような誤った階段をのぼらないようにと、丁寧な注意を与え続けたものには、違いありませんでした。

 ですから、これからも、もっとも大切なこと、心情を伝えることよりも、表現をもてあそぶことに、魂を奪われることが無いように。このアドバイスだけは、ずっと守り抜いて欲しいとわたしは願っているのでした。

 それでは、また『万葉集』巻第一から……
   その前に、お帰りの方は、
     あちらに非常出口が用意してあります。
  ただし「蛍の光」は流れませんので、
    あしからず。さよなら。

巻第一

   さて、改めて第一巻。
  巻第一と巻第二はペアになっていて、巻第一に「雑歌(ぞうか)」、巻第二に「相聞(そうもん)」「挽歌(ばんか)」が収められています。これらはあるいは万葉集の成立前に全二巻のものとして整えられ、万葉集はそれを取り込みながら、改めて編纂しつつ、現在の巻第一、巻第二を仕上げていったともされています。

  そんな巻第一ですが、
 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の、
    「こもよみこもちふくしもよ」
というなんだか「もこもこ」した呪文から開始しますので、冒頭から駄目だこりゃと思って投げ出した方もあるかも知れません。言わんこっちゃない。いいんですよ、そんなの後から眺めたって。

 その「雄略天皇」というのは、あるいは450年代に即位したかとされる第21代天皇で、大和言葉での名称を「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」と言います。「獲加多支鹵大王(ワカタケル王)」と刻まれた鉄剣が出土していることから、考古学的に裏付けのある、最初の天皇ともされ、時には悪人呼ばわりされるほどの武人の魂を持ち、朝鮮半島へも出兵をした強権の天皇ですから、あるいは大和のいしずえとして採用されたのでしょうか。栄えある万葉集の開始を告げる和歌となっています。

 ただし実際のところ、はじめに並べられた古い和歌群は、本人が作ったかどうかも不明瞭で、実際の和歌は629年に即位する舒明天皇(じょめいてんのう)の頃からのものがメインになっているので、舒明天皇から平城京へ遷都する710年頃までを収めたものが、巻第一、巻第二だと言えるかもしれません。

 つまりは聖徳太子や、推古天皇、初めての遣隋使の時代は過ぎ去って、蘇我入鹿(そがのいるか)が殺された乙巳の変(645年)、その後の「大化の改新」や、白村江の戦い(663年)、壬申の乱を経て、例の天武天皇(てんむてんのう)(在位673-686)の活躍、その後けなげに頑張る持統天皇(じとうてんのう)(在位690-697)の時代を、描き出しているのが、この初めの二巻だと云うことも出来るかも知れません。
 という訳で、ここではやはり、天武天皇と、持統天皇の名称。それから、672年の壬申の乱(じんしんのらん)くらいを頭に残して、先に進むことにいたします。

     『近江(おうみ)の古い都を悲しんで作る歌二首』
いにしへの 人に我(われ)あれや
    楽浪(さゝなみ)の 古きみやこを
  見れば悲しき
          高市黒人(たけちのくろひと)[存疑有] 万葉集1巻32

かつての時代の人で わたしはあるのだろうか
   楽浪にある かつての近江宮(おうみのみや)を
     見るのが悲しいなんて

 まず一首目を眺めましょう。
  作者名に[存疑有]としたのは、実は「万葉集」において作者名は「高市古人(たけちのふるひと)」になっているからです。しかも此処にしか、そんな名称の人は出てこないものですから、高市黒人が自らを、「古きみやこの人になってしまった高市古人」と詠んだのではないか。もちろん推測に過ぎないのですが、そうだとしたらお茶目な人です。しかも、そのお茶目のせいで、「万葉集」の編纂者からして、「あるいは高市黒人か?」などと困りながら添え書きを加えている。ちょっとした冗談が、歴史的研究対象にされる滑稽は、ちょっと面白みがあるので、脱線しながら書き加えて起きました。

 だって、そんな人だと思ったら、はじめてその名前に接する人でも、あるいは高市黒人(たけちのくろひと)(600年代後半から700年代初め頃活躍)という、少しは知られた万葉歌人に、興味を抱くかも知れないではありませんか。もしそこまで計算されていたとしたら……さすが高市玄人(たけちのくろうと)、ただ者ではありませんね。

  短歌の方も、なかなか只人(ただびと)ではありません。
「楽浪(ささなみ)」というのは、志賀や、志賀に属する地名に掛かる枕詞として知られますが、もとは琵琶湖南西を広くさす地名ではないかとされています。近江宮(おうみのみや)は、天智天皇(てんちてんのう)が、あるいは唐からの遠征軍を恐れ、国防を強化するために、飛鳥(あすか)から遷都したのではないかともされる、琵琶湖沿岸の都(みやこ)のことです。天智天皇が亡くなった後、ほどなく壬申の乱が勃発して、天武天皇が即位すると破棄され、飛鳥の浄御原宮(きよみはらのみや)が都となりますから、都としての期間は短いものですが、壬申の乱以前以後というのが、当時の歌人たちにとっては、関心を引く出来事であったために、それ以前の時代にあこがれる、わたしは古い人間なのであろうか。と詠んでいる訳です。それは良いのですが……

  今はむしろ、詠まれた内容に注目してみましょう。
 例えば皆さまが、かつての都があった地を眺めて、かつての都を思う歌を詠むとする。これまでのような、思いをそのまま表現するような和歌であったら、
     「この古い都を見ていると、昔が偲ばれて悲しい」
     「あの頃の都も、今はさびれてしまったのが悲しい」
あるいは頑張って、
     「昔の人に会えるかもしれない」
くらいの発想は浮かべるでしょうか、
  なかなかどうして、
     「見ていると悲しいのは、
        わたしが昔の人になったせいだろうか」
とは浮かんでこないような内容です。和歌の表現に相応しいように、頭のなかで心情をもとに、十分に再構築して、初めて生まれてくるような着想になっている。

  しかもそれを倒置させて、
   「わたしは昔の人なのだろうか、
     見ていると悲しいのは」
としたものですから、きわめて人工的な表現になっている。冒頭などは「いにしへの人に」という文脈の途切れと、句の途切れとをずらしてさえいるのですが、そうでありながら、ちょっと聞かされると、そんなアクロバットなことをしているとはどうしても思えない。何気なく聞き流してしまうのは、確かに簡単には思いつかないような着想を、もっとも効果的な文章に組み替えてはいるのですが、同時に誰にでも思いつきそうな、聞かされればむしろ、当然と思いそうなところを撰んで、日常会話でも使いそうなくらいの倒置で、文章を入れ替えているに過ぎないからです。

 極言するなら、自分の着想をひけらかすのではなく、詠み手がもっとも簡単に、自分の言葉に捉えられ、その思いを理解してくれるように、相手の心情を効果的に引きつける術(すべ)をわきまえている。なかなかのファインプレーを行なっていながら、自然な表現への配慮が行き届いている。このような短歌は、「はじめての万葉集」で見たような、そのままを記した和歌とは異なるもの。
 プロフェッショナルの仕事に他なりません。

 もっとも、このような和歌にもまた、幾つもの定型があり、それを利用するということが当たり前のようになされていたのは事実ですが、それもまた面倒な話ですので、「二週目」は大抵の場合、個人のファインプレーのように語っていこうかと思っています。

 それでは、
   ようやく高市古人の二首目。

     『近江(おうみ)の古い都を悲しんで作る歌二首』
楽浪(さゝなみ)の
   国つ御神(みかみ)の うらさびて
  荒れたるみやこ 見れば悲しも
          高市黒人(たけちのくろひと)[存疑有] 万葉集1巻33

楽浪の
  その地の神も 心がすさんでしまい
    すっかり荒れた近江宮を 見るのは悲しい

  これもまた、ファインプレーです。
 荒れたみやこを見れば悲しいは浮かんで来ますが、その地の神々もすっかりすさんでしまいという表現は、土地神を信じるほどの古人(いにしえびと)でも、なかなかポンとは、頭のなかに昇りません。しかも表現の仕方が絶妙で、これだと神の御心がすさんで離れてしまったから、都が荒れてしまったのか、都が荒れてしまったから、神の御心もすさんでしまったのか。あるいはその両方で、相乗効果のように、いつしか古きみやこへと落ちぶれてしまったのか。捉えられているような、捉え切れていないような時間感覚のうちに、現在が提示され、わたしは見れば悲しいと締めくくりますから、なんだか本当に、伝説のみやこの末路をでも、眺めているような気分にさせられます。

 そのような訳で、三句目の「うらさびて」は、よほどの達人でないと、簡単には詠めないように思われますが……わたしがもっとも不愉快なのは、例えば明治維新後に万葉集を見習えなど「のたまふ者ども」が、変な借用語や、猿まねみたいな表現に生き甲斐を見いだし、このような肝心な精神には、まったく踏み込まないような輩が、もちろん全員ではありませんが、数多く存在し、またそのような意味不明の短歌が、意味不明であるがゆえに、例の謎サークルの内部などで、未だに掛け軸のようにして崇められたりしていることで……

 いったい、いつになったら、
   あなたがたは、文明開化を迎えるのやら、
     情けないくらいの古人(ふるひと)です。

我が背子は いづく行くらむ
  沖つ藻の 名張(なばり)の山を 今日か越ゆらむ
          当麻真人麻呂(たぎまのまひとまろ)が妻(め) 万葉集1巻43

わたしの夫は どのあたりを行くだろう
   (おきつもの) 名張の山を 今日は越えているだろうか

 先ほど万葉集には、同じパターンで詠まれるような和歌があると説明しましたが、これはそのよい例です。構図としては、はじめの二句で、
     「誰々は⇒どこにあるだろう」
三句目以降は、上二句に対する推察を行いつつ、
     「どのあたりを⇒越えているだろう」
となります。その際、「どのあたり」を、具体的な名称で述べて二句から三句に渡らせるにせよ、今回のように枕詞を挟んで、地名を導き出してもよいですし、結句を「明日は越ゆらむ」でも「今か行くらむ」でも、(理屈上は)相応しいように自由に作り替えることが可能になりますから、ある心情を即興で歌にするような場合には、便利なものとして利用されていたようです。

 何しろパターンというのは、熟れた表現が、定型化したものですから、その枠に当てはめてしまえば、とてもその場で三十一字(みそひともじ)を思いついたとは思えないような、形式と心情を兼ね揃えたものになる。動くということについて考えれば、言葉が定まらずに動きまくるような失態も、回避できるという事になります。

「それでは、この妻の功績は、
  何もないのではないか」

 そのアイデンティティを心配する方もあるかもしれませんが、大丈夫です。そこまで枠が定まっていても、なおかつ、旨い下手は存在するものです。おそらくはこの短歌も、定型を使用していたからではなく、定型を使用したうまい表現だったから、こうして残されたのではないでしょうか。そもそも、定型などという話を持ち出さなかったら、皆さまは、素直に心情を詠ったものとして、技巧的ではないものの、様式の整ったような表現として、素直に感心するのではないでしょうか。
  つまりはそれでもう十分、
    この短歌には価値があるのです。

くさまくら
   旅ゆく君と 知らませば
  岸の埴生(はにふ)に にほはさましを
          清江娘子(すみのえのをとめ) 万葉集1巻69

(くさまくら)
   旅を行くあなたと 知っていたなら
     岸の埴土(はにつち)で 服を染めて差し上げたのに

 娘子(おとめ)の経歴は不明ですが、長皇子(ながのみこ)に献上した短歌です。そうして長皇子は、またしても、といっては失礼ですが、天武天皇の息子の一人です。「埴生(はにゅう)」というのは、埴輪(はにわ)のレプリカでも思い浮かべて貰えば良いかも知れませんが、埴輪や土器、瓦などを作る際に使用された、赤黄色土(せきおうしょくど)のことで、あるいは染料にも使用されたのでしょうか、それともわざとからかったのでしょうか、それは分かりませんが……

 この短歌も、一週目(はじめての万葉集)でしばしば出くわしたような、裏に意味の隠された和歌になっています。何しろ、粘土で服を染めることが、事実として存在しようと、単なる冗談だろうと、「旅を行くと知ってたら、服を染めてあげたのに」という内容が、明快には通じません。そのような場合、裏の意味が潜んでいるというのは、これまで見てきた、万葉集の黄金パターンではないでしょうか。この短歌もおなじこと。

 実は『万葉集』の他の短歌に、「住吉(すみのえ)の岸の埴生(はにふ)ににほひて行かな/む」というフレーズのものが二つあり、どちらも、そこから産される埴生の土に染まって、遊んでいこうよ。というような内容になっています。そのイメージを逆にして、旅をしているあなたであるならば、わたしとしても後先のことを考える必要もなく、住吉の岸あたりから産出される埴土(はにつち)のように、しばらくあなたを染めて差し上げたのに。と、一夜のアバンチュールをほのめかしているのです。

 あるいはそれは、詠み手の名称が「清江娘子(すみのえのおとめ)」であるからこそ、「住吉(すみのえ)の岸の埴生(はにふ)ににほひて行かな」というような表現と、自分を掛け合わせて、このように詠まれたものかも知れませんね。

玉藻(たまも)刈る 沖辺(おきへ)は漕がじ
  しきたへの 枕のあたり
    忘れかねつも/思ひかねつも
          藤原宇合(ふじわらのうまかい) 万葉集1巻72

(たまもかる) 沖の方には漕ぎはしない
  (しきたえの) 枕のあたりが
     忘れられないから

 さて皆さまは覚えておられるでしょうか、
   「ジャケットを貸してくれる恋人もいない」
と嘆いた長屋王(ながやおう)を、藤原四兄弟というごっつう悪い奴らが、取り囲んで、「何食(729)わぬ顔して」、とうとう死に追いやったという、「長屋王の変」(729年)のことを。

 もちろんこれは、何も知らない人に、歴史のさわりを紹介するための、一種の誇張法には過ぎません。藤原不比等(ふじわらのふひと)の息子達にも、それぞれの事情があったでしょうし、誰が悪いというものでもないのですが。ともかく「長屋王の変」の時に、現場の指揮を行ったのが、この短歌の作者の藤原宇合(ふじわらのうまかい)(694-737)に他なりません。

 それでこの短歌は、愛する人と一緒にいた枕のあたりが、慕わしいものですから、海女の娘たちが玉藻を刈る沖には、漕ぎ出さない。そこから離れたくないという事を表明したものと思われます。ちょっと下句に対して、上の句が唐突で、優れた作品であるかと言われると、疑惑が残りますが、詠み手が十三歳の作品だともされていますから、取り上げる価値はあるだろうかと思われます。

 ただ本当に十三歳だとすると、文武天皇(もんむてんのう)(在位697-707)が難波宮(なにわのみや)に居たときのものですから、天皇を最愛の女性に譬え、あなたから離れられません、と詠んだもののようにも聞こえます。ところで……

 この和歌もまた、定型を使用しています。それは一句目と三句目にそれぞれ枕詞を使用して、二句目と四句目を導くと共に、一二句、三四句を、それぞれのまとまりとして、最後の結句でまとめるという方針です。この場合、詠み手が考えるべきは、もちろん枕詞の付く言葉である必要はありますが、全部で三句で済みますから、比較的たやすく、様式化された短歌を詠むことが可能です。ですから、詠み手が十三歳であったとしても、早熟な表現感覚を持っていれば、年相応の短歌に過ぎないと見ることも可能かもしれません。

  それより私たちは、
    このパターンをこそ、
   覚えてみたらいかがでしょうか。
     いつわりの枕詞なら、
       自分でも作れますから。

いつわりの枕詞

 つまり、枕詞を使用する代わりに、次の言葉に掛かる局所的な比喩を使用します。このパターンでは、
     (枕詞A)⇒七文字
     (枕詞B)⇒七文字
      結句  ⇒七文字
となりますから、
 あらかじめ「七七五」で述べたいことを定めてしまいます。
  例えば、「朝起きたなら、顔を洗って、おはようの声」
   あるいは、「夕べなくした、消しゴムがなぜ、こんなところに」
など、些細な内容で構いません。
 後はそれぞれの言葉に掛かる、比喩を付けてやれば、

鳥の歌 朝起きたなら
  にこやかな 顔を洗って
    おはようの声

三日月の 夕べなくした
  言の葉の 消しゴムがなぜ
    こんなところに

 普通の発想では生まれないような、ユニークな表現も生まれます。骨格は簡単な日常語に過ぎませんから、比喩さえ踏み外さなければ、このようないたずらをしたからといって、思いが無くなることはありません。文脈の全体を見わたして、修正を加えていければ、心情を蔑ろにせずに、面白い表現も目指せます。

 では、折角ですから、
  ノートを開いて、
   一つでも、二つでも、
  思いついたら実践です。


(砂時計) 戻れない日を
  (夢を待つ) 誰もが抱えて
    卒業の朝
          サンプル 時乃旅人

砂時計 戻ることなく
  あこがれの 君は旅立つ
    振り向きもせず
          課題歌 時乃旅人

握る手の この悔しさを
  するめいか かみ締めながら
    俺様ブルース
          テーマ曲 いつもの彼方

     「なんですそれ?」
お気に色 パジャマ着替えて
   鼻つまむ 仮病したいな ずる休みな春
          課題歌 時乃遥

閑話休題

うらさぶる こゝろさまねし
   ひさかたの 天(あま/あめ)のしぐれの
      流れあふ/流らふ見れば
          長田王(ながたのおおきみ) 万葉集1巻82

うら寂しさで 心がいっぱいだ
  (ひさかたの) 天から時雨が
     流れ降るのを見れば

 類似の名称が多いので困りますが、この長田王は天武天皇の息子ではありません。一週目にお目に掛かりましたが、天平六年(734年)の朱雀門前で歌垣(うたがき)で頭をつとめた歌人の一人でした。当然、歌の巧みと見られていたからには違いありませんが、この短歌はどうでしょうか。

 まず、三句目の枕詞で「天」が呼び起こされ、
  上の句と下の句が、倒置されていることが分かると思います。さらに「うら寂しさでこころが一杯である」などという表現は、どことなく矛盾した気分になり、なかなか勇気を出して、使用しきれないものですが、逆にこのように表現されてみると、何の不自然も感じられず、かえって効果的なように思われるくらいです。

 さらに、「動く」ということを眺めてみれば、冒頭の二句はもっとも魅力的な表現でありますし、ただ「時雨が降るのを見れば」と表現しそうな所を、「天の時雨が流れあう」という表現も、冒頭に劣らず、考え抜かれたユニークな言葉遣いになっています。もとよりそれを導くための、「天の」にかかる「ひさかたの」が、下の句全体の表現を、高めているのは言うまでもありません。

 このような優れた表現のうちに、
  動かしがたい完全性を備えたものこそ、
   優れた短歌であると言えるでしょう。
    それに比べると、「はじめての万葉集」のものは、
   どれもどこかに、わずかな隙が、
  残されたものには過ぎませんでした。

 では、そろそろ巻第二にまいりましょう。
   まだまだ、先は長そうです。
     わたしにはそれほど、
   砂時計、ゆとりはないのですから。

巻第二

 「相聞」「挽歌」を乗せる巻第二は、取りあえず天武天皇の子供たちと、挽歌を占める柿本人麻呂を押さえておくのが便利かと思われます。「はじめての万葉集」では見送りましたが、今回は柿本人麻呂の和歌も、掲載してみようかと思いますので、お楽しみに。でもその前に、平安貴族の名称をことごとく藤原氏にしてしまった、その発祥の人。中臣鎌足(なかとみのかまたり)(614-669)の短歌から始めましょう。

相聞

     『采女(うねめ)の安見児(やすみこ)をめとる歌』
我(あれ)はもや 安見児(やすみこ)得たり
   皆人(みなひと)の 得かてにすといふ 安見児得たり
          藤原鎌足(かまたり) 万葉集2巻95

さあ俺は 安見児を娶(めと)ったぞ
   誰もが ものに出来ないと言っていた
      安見児を娶ったぞ

  「ひゃほーい」
   とかなんとか、響いてきそうな短歌ですが、
  和歌としてはむしろ異質なものです。
 それを何とも感じないのは、皆さまが、

冷たーい すごく冷たい 美味しいや
  アイスクリーム やっぱ最高

と、心情そのままをつぶやいたような表現を短歌に持ち込んでも、違和感を感じないからであって、たとえ日常の語りかけを持ち込んでも、一人称の心情表明そのもの、まして単純な喜びを、ここまで単純に表明した短歌というのは、『万葉集』のなかでもあまり見られるものではありません。たとえば私にしたところで、「はじめての万葉集」で日常風の語りかけを提唱はしましたが、

この山を 旅する朝は 寒くって
  あなたがジャケット 掛けてくれたら

 あくまでも、仮想した「あなた」というものを心に見立てて、それに語りかけるように、つまりは二人称を想定した語りになっている、これがもし相手を意識しない、一人称の心象表明であったら、

ああ寒い 寒いよ寒い ひどい風だ
 上着が欲しい 恋人も欲しい

 改めて誰かに分からせる必要のない、感情に直結したような一人称のつぶやきは、状況説明の必要が一切ありませんから、このようなものになりがちです。そして鎌足の、
    「俺はさあ、安見児を貰ったぞ、安見児を貰ったぞ」
という率直すぎる喜びは、完全に和歌社会の表現ではなく、日常の喜びそのままに過ぎません。ですから、改めてこの和歌を、例えば大勢のいる所で、和歌として読まれているという状況を、場景に描いてみると、「えっ、それって短歌?」と思わず顔を眺めて、きょとんとする周囲の顔が浮かんで来そうな気配がします。ただ、「」それだけだと短歌にすらなりませんから、ちゃんと相手に語りかけを行っています。それがよりによって、

「みんなが得られないでいた
   安見児を貰ったぞ」

という、なんだか「俺だけ特別なんだ」と、ますます一人称の大喜びを極めてしまっているようで……

 それにも関わらず、この他者への意識が引き金となって、この一人称の純な喜びは、ほんの僅かな客観性を獲得し、上の句の内容を、下句で具体的に述べるという短歌の定型パターン。さらには、二句目と結句におなじ表現を用いて、言葉のリズムを整えるという様式化が、ほとんど一人称の喜びを、辛うじて短歌に保っているように思われます。

我(あれ)はもや 安見児(やすみこ)得たり
   皆人(みなひと)の 得かてにすといふ 安見児得たり

  もちろんそれが戦略です。
 というと、なんだか腹黒いようですが。そうではなく、もっと単純に、この喜びをどう表明したら、もっとも深く伝えられるだろうかと考えたときに、ふと頭のなかに湧いてきたくらいの着想と、捉えていただければよいのですが、「もう短歌と呼べるかどうか、ぎりぎりのラインまで、自分のよろこびを単純に表明してやれ」そうすれば、短歌としては「おや?」と思われると同時に、そこに込められた意味は悟られるに違いないから。

 いや、もちろん、この程度の言葉ですから、考えるまもなく直感的に、ポンと出てきただけかも知れませんが、あえて解説のプロセスを踏むならば、そのくらいの思いつきが契機になって、きわどいところで喜びを表明して見せた。

  後は状況の問題かと思います。
 采女というのは、天皇に仕える女官くらいに考えてくださればよいのですが、天皇以外の誰かが、触れることさえかなわないような女性です。それを今回、天皇がわたしに与えてくれた。そのようなとびきりの状況であればこそ、天皇に贈った和歌であろうと、その場で詠まれたものであろうと、これだけ詠み手の感情を表明したような、一人称の和歌が許され、それどころかユニークな和歌であるからこそ、感謝の念が表明されているように、聞き手側も、受け取ることが出来た。という仕組みになっています。

 なんだか大げさな考察のようですが、実際万葉集を眺めていて、このような和歌が沢山並んでいたら、馬鹿馬鹿しくなって詩集を閉ざしてしまうでしょう。またこのような和歌は、実際にはほとんどみられません。だからこそ、思いつき自体は単純ですが、単純な思いつきを、単純な思いつきのまま、直情に乗せてありったけ歌うという、特別な詠み方をしたものと、考えた方がふさわしいのです。

 ところで、
  類似の表現がまったくない訳ではありません。
   あるいはこの短歌の影響でしょうか、

豊国(とよくに)の 香春(かはる)は我家(わぎへ)
  ひもの児(こ)に いつがり居(を)れば 香春は我家
          抜気大首(ぬきけのおおびと) 万葉集9巻1767

妻のいる豊国の香春という土地は私の家だ
  ひもの児という名前の妻と つながっていれば
    香春という土地は私の家だ

 九州に赴任した先で、現地妻を得た喜びを詠っているようですが、
  「安見児得たり」に比べると、喜びのあまりの語り口調というよりは、
    わずかに様式化された短歌のようになっているようです。
  これと比べても「安見児得たり」の特殊性が分かるかも知れません。

 ところでそんな詠み方が許されたのは、天皇の前でも感情をあらわにして構わないくらい、中臣鎌足の地位が高かったからには違いありません。彼こそ645年の乙巳の変(いっしのへん)で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と共に、蘇我入鹿(そがのいるか)を殺害し、翌年からの「大化の改新」を推し進めた、重鎮には違いありませんから、まさにこの和歌も、彼にこそ、相応しいものだったと言えるでしょう。

 ちなみに、その中大兄皇子というのが、後に即位する天智天皇(てんちてんのう)(在位668-672)で、その天智天皇の同母の弟が、例の天武天皇ということになります。一方、中臣鎌足は生まれた土地の名称から、藤原氏(ふじわらうじ)という氏名(うじな)をいただき、それが契機となって、後の時代、「あなたもわたしもみんな藤原」という、平安貴族の状況を生みなすことにもなっています。とまあ、このくらいなら、歴史のことも、関心が保てるのではないでしょうか。

  さて、随分間延びしました。
   何がいけなかったのでしょうか。
  ようやく次へ参りましょう。
 次は天武天皇が亡くなった後の話。
  持統天皇が吉野宮に滞在中に詠まれた和歌です。

     『吉野宮で、弓削皇子(ゆげのみこ)が額田王(ぬかたのおおきみ)に贈る歌』
いにしへに 恋ふる鳥かも
  ゆづるはの 御井(みゐ)のうへより
    鳴き渡りゆく
          弓削皇子 万葉集2巻111

あれはかつての時代を 慕う鳥なのでしょうか
  ユズリハの生えている 泉のうえを
    鳴きながら渡ってゆくのは

 弓削皇子(ゆげのみこ)は、以前にも見た天武天皇の息子の一人で、額田王(ぬかたのおおきみ)は「熟田津(にきたつ)の歌」や「むらさき野行きしめ野行きの歌」で知られる、万葉集の初期の代表的女流歌人です。「ゆずるは」はちょっとエキゾチックな感じのする常緑高木ユズリハの事で、「御井」は川をせき止めたり、泉の水をためて、汲めるようにした、井戸の古いタイプとでも思っていればよいでしょう。もちろんただ「井」ではなく、吉野宮の特別な井戸であるから、敬うように「御(み)」が掲げられている訳です。それで短歌としては、鳴いて飛び去っていくあの鳥は、天武天皇の過去を慕って、消え去ってゆくのでしょうか。という内容になっています。

 これも先に見た、高市黒人の短歌と似ていますが、倒置法を使用して、鳴き去る鳥を過去を慕うものへゆだねている。「はじめての万葉集」に紹介した和歌であれば、それをただ「どこどこの山へ」「どちらの方へ」と、読みがちであろうところを、
     「ゆづるはの 御井のうへより」
と表現したところが、この短歌の魅力で、その井戸を具体的には知らない私たちにも、(ユズリハの事さえ調べれば、)特別な井戸の情景が心に描けますから、「いにしへに恋ふる鳥かも」という、着想の中心が、なおさらかけがえのない表現のように、感じられるという仕組みです。

 つまりは、
   「いにしへに 恋ふる鳥かも」
という、とびっきりの着想を、
   「ゆづるはの 御井のうへより」
という、相応しい情景に描いて、
   「鳴き渡りゆく」
によって、それを眺める詠み手、ひいては鳴き去った鳥をこころに浮かべてしまった、聞き手の残されたような心情を、結句の先に込めることに成功していますから、もはや「動かせる」「動かせない」ような、初心者レベルの話ではなく、完全に言葉を手のひらの上でコントロールしている気配がします。

 このような、隙を見つけるどころではない、聞き手が喜んで詠み手の言葉に操られて、詠み手の心情を共有することに、喜びを見いだすような優れた作品に仕上げることをこそ、私たちは目標に掲げたいと思います。
 なんとも頂は遠そうではありますが……

 さて、この短歌に対する、
  「女流歌人」の答えはどのようなものでしょうか。

     『額田王(ぬかたのおおきみ)の答える歌』
いにしへに
  恋ふらむ鳥は ほとゝぎす
    けだしや鳴きし
  我(あ/わ)が恋ふるごと/思(おも)へるごと
          額田王 万葉集2巻112

いにしへを 慕う鳥とは
   ほとゝぎすのことですね
  きっと鳴いていたのでしょう
     わたしが慕って泣いているように

 さて、知的解釈による切り返しというと、清少納言(せいしょうなごん)の「夜をこめて」の短歌が浮かびますが、額田王も又、「あれはいにしえを慕う鳥でしょうか」と投げかける弓削皇子に対して、「それはほととぎすでしょう」と切り返しています。これは、清少納言の場合と同様、中国の故事にもとづくもので、

 杜宇(とう)という人が、蜀の望帝(ぼうてい)として即位。治水などに力を入れるが、宰相の妻と交わったのを恥じて、彼に王を譲り、やがて亡くなると、皆はほととぎすの声を杜宇(とう)の声だと思うようになった。

 後にそれが、「不如帰去」(かえることが出来ない)として、不如帰(ほととぎす)の当て字になったとも言われますが、ともかくそのような故事をもとに、鳥の名前を解答した。とそれだけなら、短歌でなくてもよいくらいですが、ちゃんと自らの思いへと繋いでいます。

 もちろん、
  「わたしと同じように鳴いているのでしょう」
くらいの着想でしたら、優れた表現でもないのですが、この和歌のポイントはむしろ四句目に「けだしや鳴きし」と詠んでいる点にあります。「けだし」は「あるいは」「もしや」といった推量ですが、(確信的な推量としての意味は、後の用法のようです。)ここでは「おそらく」くらいになるでしょうか。これによって、「知識から言うとあなたの詠んだ鳥は時鳥(ほととぎす)です。きっと鳴いていたのでしょうけど……わたしと同じように」となりますから、ちょっと要領を得なくなる。

 またいつものパターンです。
  要領を得なくなるところに、詠み手の思いが詰まっている。何度かくり返し読んでいると、なるほど、結句にあるように、過去に対する思いが溢れて、自分が籠もって泣いているような状況であれば、鳥の声などを聞いているゆとりはありません。

 つまり一方では、あなたの見た鳥は杜鵑(ほととぎす)でしょうけど、と知的な解答を与えながら、もう一方では、わたしも昔をしのんで嘆いていましたので、鳥の声などに構っていられませんでしたから、答えに確信は持てませんよ。となかなか複雑なプロセスで、自らの情緒を表明してもいる。

 それでいて、日常でもありあそうな、ちょっとした言い含みで悟らせるようなものには過ぎませんから、勘の良い人はすぐに察知しますし、そうでない人も、一度説明されれば、その心情は解され、むしろ同時に見せた、ちょっと女性的な才気走った感じが、清少納言の時と同じように、かえってチャーミングに思えるくらいです。
 なかなか、戦略的な短歌だと言えるでしょう。

 もちろん、言葉つきから、戦略を練る詠み手の姿が、
  だらしなく顔を覗(のぞ)かせていないからこそ、
   聞き手もその詩に共感を覚えて、
  あれこれと、考えたくなることは、
   言うまでもありません。

たちばなの
   影踏む道の 八衢(やちまた)に
 ものをそ/ぞ思ふ 妹に逢はずして
          三方沙弥(みかたのしゃみ) 万葉集2巻125

まるで橘の 木陰を踏むような交叉点で
  どの道に行けばよいか 迷うみたいに
    あれこれと 悩んでしまいます
  あなたに 逢えないものですから

 三方沙弥(みかたのしゃみ)という、僧侶の見習いが、妻を娶ったものの、すぐに病気で妻のところに通えなくなってしまって、他の男が出来たかと心配した短歌が前にあって、それに妻が「心配入りません」と返歌をしたためた。それに対する返答がこの短歌です。

 坊さんのくせに妻とは何事かと、思うかも知れませんが、沙弥(しゃみ)はまだ正式な僧侶ではありません。けれども沙弥なんて、夫に撰んだらろくな事がない、といでもいう空気でもあったのでしょうか。それとも妻が美人であったか、自分がすぐ病気になるような、好かれない奴であると思ったからでしょうか。先に、情けないような、勘ぐりの和歌を送ってしまったものですから、今度は体裁が悪くなって、「ついあれこれと思い悩んでしまって……」と、いい訳の短歌をしたためている。なんだか情けないような気はしますが、それはさておき。

  上の句はしばしば使用される、
 四句目に掛かる序詞(じょことば)になっています。あとはその序詞が、全体の内容に対して、うまく溶け込んでいるかどうかですが、病気の彼の頭のなかには、

「いいだろあんな奴のことは忘れて」
 「そうねあなたの方が素敵だわ」
  「だいたい沙弥だぜ、沙弥」
   「そんなに悪いかなあ」
  「悪いさ。お前より仏の方が好きって言ってるんだぜ」
 「でも還俗(げんぞく)するって言ってたよ」
「馬鹿だなあ、還俗したって病気じゃ駄目だ」
 「でも……」
  「でもじゃねえ、俺とどっちが好きなんだ」
   「それはもちろん、あなたよ、あなた」

いろんな妄想が沸き起こり、床をごろごろ転げ回り、熱も二度五分は上がるような醜態に、一日中さいなまれるような有様です。ですから、病気で気持ちが弱くなって、頭も朦朧として、なおさら混迷を深めているような状況を表わすものとして、沢山に枝分かれした分岐点で、どっちに向かって好いか分からない、途方に暮れるような精神を喩えたのは、ユニークでありながら、的を得たもののように、感じられはしないでしょうか。

 しかもその道を、橘の木があって、その陰を自らが踏んでいるかのように叙しているのは、単なる譬えであるはずの描写を、具体的な情景へと広がらせ、まるで実景のなかで途方にくれているような、詠み手の様子が浮かんで来て、なんだか共感が湧いてくる。それは私たちのも、そのような思いをしたことが、経験として存在するからには他なりません。

 凝った序詞に対して、下の句は単純すぎるくらいですが、それによって詩文が語りへと返され、より詠み手の心情に、寄り添えるような仕組みです。ところでこの短歌、

たちばなの
   本に道踏む 八衢(やちまた)に
 ものをそ思ふ 人に知らえず
          豊島采女(としまのうねめ) 万葉集6巻1027

という短歌があり、編者の注釈に、豊島采女と言うが、三方沙弥の歌とも言う。あるいは豊島采女は、その三方沙弥の歌を唱えただけか。と説明が加えられています。このような例や、ちょっとした表現の差し替え、男女の入れ替えによる、類似の短歌というものは、万葉集ではしばしば見られる現象で、相手の口ずさんでいた歌を利用すると言うことが、和歌社会のなかで、後の世よりはずっと自由であったことが分かります。あるいは序詞の名台詞も、何人もの人が好んで使用するフレーズが、様式されたものがありそうですし、筆記されて残される以前の、歌の継承のあり方を、垣間見るような側面も、あるいはあるのかも知れませんね。

古(ふ)りにし
  嫗(おみな)にしてや かくばかり
    恋に沈まむ たわらはのごと
          石川女郎(いしかわのじょろう) 万葉集2巻129

年老いた 老婆になってから
  このような 恋に溺れるなんて
    まるで幼い子供みたいに……

 大津皇子と関係のあった石川郎女(いしかわのいらつめ)と、同じ人物という説もあるし、別人だという説もある、この石川女郎という詠み手は、大津皇子の宮に仕える侍女であったとされています。(何分、この歌の石川さんと、こっちの歌の石川さんは同一の石川さんだろうか、というような問題ですから、ありがちな名称になればなるほど、他に資料でもないと、なかなか断定は出来ません。)

 あるいは大分年を重ねてからのものでしょうか、大伴宿奈麻呂(おおとものすくなまろ)に贈った短歌です。年老いた男性を表わす言葉として、翁(おきな)というのは、竹取物語のおじいさんの名称から、知っている人もあるかと思いますが、嫗(おうな・おみな)というのはその女性版で、年老いた女性を差す言葉です。「たわらわ」については、「た」が接頭語で「わらわ」つまり幼い子供を意味します。万葉集の原文には「手童児」とあり、(小学館)では「手に抱くほどの幼子」と解説があります。

 それで内容は十分かと思います。上の句と下の句のデフォルメされた対比も、かえって本人の思いの高まりを、強調しているくらいですが、三句目に置かれた「かくばかり」という表現が気になります。もう少し、表現を整えられそうな気がする。つまりは「動きそうな」気配がします。するとこの短歌、編者の記入で、もう別のバージョンが示されているのですが、それを眺めてみると。

古りにし
  嫗(おみな)にしてや 恋をだに
    忍びかねてむ たはらはのごと
          (一説には) 万葉集2巻129

年老いた 老婆になってから
  恋をさえ 忍ぶことが出来ないのか
    まるで幼い子供みたいに……

 こちらだと、無駄な「かくばかり」は除かれて、意味も、いい年をして忍ぶべきなのに、どうして忍ぶことが出来ないのだろう、まるで子供の恋みたいに。となりますから、単純に老女と少女を区別したような、安易な対比ではなくなって、複雑な心情を表明しています。まるではじめの短歌が、「はじめての万葉集」のもの、こちらが添削された、二週目の短歌に相応しいもののようにも思えるくらいですが……

 なかなか、そう単純にも割り切れないから、
  短歌の優劣は、難しいものです。
 この場合、確かにより表現の優れた、作品として完結している作品はどちらかと尋ねれば、それは後の方かと思われます。しかし、二つの短歌はトーン自体が違います。後ろの作品が、自らを自嘲しながら、しっとりとした情緒を詠んでいるのに対して、はじめのものはもっと軽快で、そうして相手を意識して詠まれています。

 それはつまり、「動く」と思われた「かくばかり」が語りの効果としては有効で、また「嫗」と「手童」の対比も、実際の会話に相応しいような、分かりやすい対比になっていますから、それで初めのものには、ちょっとした軽み、すなわち冗談めかした調子が見られ、実際に相手に送る短歌としては、相応しいものになっている。あるいは言い換えるなら、実際はまだ「嫗」ではなく、若さを残しているような、ゆとりのようなものが感じられる。それに対して、後ろのものは、もっとシリアスな情緒をしみじみと詠んでいるのです。

 このように、推敲とは、時にもとあった調子そのものを、変更させてしまうものですから、常に全体の意義を推し量りながら行なわないと、伝えようとした思いから、離れていってしまう危険もある訳です。もちそんそれによって、こちらの短歌のように、新たな魅力が生まれれば、大いに結構な事ですが、悲惨な場合は、局所的な変更によって、全体の意味すら、心情を表明したものではなく、単なるばらばらな説明文のようになってしまうことも、初心者には多い傾向ですから、ここで丁寧に、解説を加えてみた次第です。

 ちなみに贈られた相手の大伴宿奈麻呂(おおとものすくなまろ)は、大伴坂上郎女の夫にあたり、二人の子供のうち、坂上大嬢が大伴家持の妻になるという。そんな関係にあります。やはり大伴家持の近辺から、採取されたような短歌になっています。

     『柿本人麻呂と相別れる歌』
な思ひそと/な思ひと 君は言ふとも/言へども
   逢はむ時 いつと知りてか
 我(あ/わ)が恋ひざらむ/恋ひずあらむ
          依羅娘子(よさみのおとめ) 万葉集2巻140

思うなよって あなたは言うけれど
  逢えるときが いつだと分かっていたら
    わたしだって こんなに恋しさを
  感じないで済むのに……

 柿本人麻呂が恋人と別れるときの短歌で、一説には石見国(いわみのくに)(島根県西部)に赴任していたときの女性だとも言われています。おさらいをしますと、「な思ひそ」というのは「な~そ」「な~そね」という構文で、「~をするのではないぞ」「~をするなよ」といった願望を込めた禁止を表現します。それ以外には、四句目から結句に掛けてが分かりづらいと思われますが、「いつと知りてか」は「いつだと知っていたら」くらい、「恋ざらむ」というのは「恋せずにあることが出来るでしょうか」といったニュアンスになります。

「逢えるときがいつであると知っていたなら、
  わたしだって恋しいと思わずにもいられましょうが」

  「回りくどいこと、言ってんじゃねえ!」
と「いつもの彼方」に怒鳴られそうですが、ちょっと待ってください。交通手段も、連絡手段すら乏しい当時の社会状況で、しかも女性の方から、男のもとへ駆けてゆくなど叶わないところで、「また来るよ」くらいでも不安なのに、例えば赴任や、みやこ帰りなどで、もう二度と逢えないかも知れない。そんな状況で「悲しむな」となぐさめられた、返歌と考えてみてください。すると「いつ逢えるか分からない」というのは、誇張表現ではなくて、単なる事実に過ぎませんから、「いつ逢えるか分かっていたら」と表現するのは自然なことです。

 それなら「来なくても思ってます」と詠めと、また「いつもの彼方」に怒鳴られそうですが、別れ際の心理としては、むしろそちらの方が偽りで、あるいはすこし乏しい精神かと思われます。なぜなら、永遠の別れになろうとも、何か奇跡でも起こって、また逢えたらと思うのが、好意を持つ相手と、分かれるときの心情です。それは何も、恋人の永遠の別れに限ったことではなく、退職の挨拶などで個人的に付き合いが無いような人に「またどこかでお逢いしたく」と言ったり、先生が卒業の日に、「今度逢えたときの成長した姿を」などと言って送り出したりするのは、それが私たちの性質であるからに他なりません。

 そのような状態に置かれているときに、「来なくても」とみずからその可能性を断ち切るような事は、人は(あるいは日本人はでしょうか)あまり口にしたがらないものです。何しろもう会う気がなくても、「いつかまた」なんて手を振るような人種ですから、言葉で望みを絶ちきるのは嫌である。それは今日でも、ちっとも変わらない性質には過ぎないものです。

 そうして「来なくても」と言うのが嫌だと感じると、おのずから「今度いつ会えるか分からなくても」のようにはぐらかす。はぐらかすことによって、実はそこに「本当にいつか会えるんじゃないかな」という、希望的観測をゆだねてもいる。さらにそれだけではありません。

 以前、反実仮想(はんじつかそう)の表現として、「いつ逢えるか分かる」という状況が分かれば、恋しいと思わないで済むのに、という内容の和歌を眺めましたが、これは同時に、「いつ逢えるか分かる」という状況が来るまでは、たとえその日がずっと来なくても、わたしは恋することを止めない、と表明していることにもなる訳です。ですから、もし仮に、恋しさを虚偽として、単なる別れの挨拶くらいに捉えても、相手を惜しむという礼節に乗っ取ったものになっている。

 このように、直接的でない表現というものは、自分だけの思いを勝手に表明して終わるというのとは異なる価値観を持っていて、相手との関係のなかでの心理状態や、別離の礼儀などを込めるからこそ、婉曲表現(えんきょくひょうげん)[遠回しに言うような表現。露骨に言い表さない表現]も生まれてくる訳です。

 なぜこのような事を、くどくどしくも説明したかと言うと、このような表現は、かつての和歌に付属する、古い価値観に過ぎないと、直接的に、あるいはそのようなニュアンスで語る人たちが、少なからず存在するからです。でも、もし一人で勝手に叫んで、一人で勝手に暴れて、一人で勝手に果てて、一人で勝手に睡ってしまうならば、それは野獣に過ぎません。その野獣に過ぎないところから、一歩抜け出して、人らしい豊かな表現を目指したところに、婉曲表現もまた存在するのであって、それは先ほどちょっと見たように、今日でも日常の至るところで、眺めることが可能です。それをまるで、古いものであるかのように唱えて、その表現を軽蔑したり、一人で勝手に歌って、一人で悦に入って、その内容を解説しまくって、詩集にして売りつけて、満足して寝てしまうような輩が、社会の底辺から立ちのぼって、暗雲のように世界を覆い尽くしたとしても、わたしは……

  さて、ここで断絶です。
 このようにして、述べたいことを、不意に留めることを、修辞技法では「黙説法(もくせつほう)」と言います。大抵の場合は、語り手の深い意味が次に続くようですが、ここでは、横に道に逸れたことに気がついて、慌てて文章を止めただけに過ぎません。このような執筆者の思いというものは、例えば上の文章だけからは、推察することが不可能です。学校の国語の試験などで見られる「執筆者の思いを述べよ」といった問題が、いかに不条理であるか、悟れるようなものですね。

 ちょっと息抜きです。
  ノートを開いて、婉曲表現でもしてみましょうか。
   やり方は、初心者にお勧めなのは、
  「もし~なら」と仮定に委ねたり、
  反対の表現に移し替えるやり方です。

「会いたい」⇒「もし会えたなら」
「死にたい」⇒「生きていたくない」
[泣けてくる]⇒「泣かないようにしたけれど」
「君と躍りたい」⇒「もし君と躍れたら」

  何でも良いのです。
 ちょっと直接的な表現を避けて、「馬鹿」という代わりに、「頭は大丈夫」と尋ねれば、それくらいでもう婉曲表現には違いありません。ただ、短歌の練習ですから、心情にゆだねた「な思ひそと」のようなものが、相応しいかと思います。まあ、言っても無駄な人もありますが……


     「なんだとコラ」
俺様は
  何を言われても 動じねえ
 鋼のハートを 持ってはいるがな
          むかつく彼方

     「すねない、すねない」
つばさした
   未来を語る 坊やして
 病棟の影 うずくまる母
          時乃旅人

   「生きていたくない短歌ねえ」
朝が来て
  でもわたしには なにもなくて
 確かめるような 鼓動だけれど
          時乃遥

挽歌(ばんか)

 まずは十市皇女(とおちのひめみこ)が678年に亡くなった時の挽歌です。彼女は、またしても天武天皇の子供ですが、母親は先ほど万葉歌人として紹介した、額田王(ぬかたのおおきみ)であるとされています。672年の壬申の乱で破れた、大友皇子(おおとものみこ)の正妻にあたり、あるいは亡くなったのも、その時の悲しみから逃れられず、自殺したという説もあるくらい。もちろん、真相は不明ですが、急な病に倒れたということになっているようです。

山吹の
  立ちよそひたる 山清水(やましみづ)
    汲(く)みに行かめど
  道の知らなく
          高市皇子(たけちのみこ) 万葉集2巻158

山吹の
  立ち整えられた 山清水
    汲みに行きたいが
  道が分からない

 ちょっと聞くと、ただ清水の場所が分からない短歌のようですが、実は二句目の「立ちよそひたる」という所が、短歌を読み解くキーワードになっています。「よそふ」というのは「飾られる」「整えられる」ような表現ですが、山の天然の清水を、当番制で山吹の手入れはしませんから、自然に咲き荒れているのではなく、人の手入れが行き届いている、庭園のような様相になって来ます。すると山清水の場所も、おのずから人里離れた別荘でもあって、そこの清水を汲みに行きたいと述べているように聞こえます。

 ただし二句目の読みにもまた、揺らぎがありますから、あくまでも「立ちよそひたる」である場合を前提に、話を進めているに過ぎません。それを言い出したら、きりがないのが、実は万葉集というものの、正体でもある訳です。

 つまり詠み手は、そこが読み解かれることによって、裏に潜ませた何らかの思いや意図を、察知して貰いたいという事になります。それは何かと言われると、同時代人ではないので、ここからは学究の手を借りなければ判断が付きませんが、あるいは中国からもたらされた「黄泉(よみ)」、つまり地下の死者世界を、「山吹の黄色」と「清水の泉」で表現したもの、その整えられた特別な「泉」のことを、暗示したものかとも考えられています。

 そうであるならば、あるいは、亡くなった十市皇女を蘇らせようとして、生命の山吹、あるいは聖なる水を汲みに行こうとしたけれど、その清水の場所が分からないとか、清水のある所に、かつての生者が住んでいるとか、死者との巡り会いを願いながら、それを果たせない詠み手の気持ちが、伝わって来るのではないでしょうか。

 もちろん、そのような寓意が分からなくても、普通なら「山吹の咲く」くらいに表現されそうな冒頭を、「立ちよそひたる」と表現したのは、あなどれない発想で、これによって、手入れの行き届いた人工的な美しさで、立ち並ぶ山吹のような気配がしてきますから、清水のありかさえ、秘められた仙人の館にでもあるような、ちょっと物語めいた様相を呈して来る。そこで結句が提示されますから、死者への比喩がつかみ取れなくても、大切なものにたどり着けないもどかしさのように響いてきます。そうして全体の表現に無駄がまったくありません。

 それでいながら、ちょっと読み流すと、
  「いやあ、水汲みに行こうと思ったけど、場所が分からなくて」
    と、何でもない事を語られているようにしか感じない。
   感興を催すべき表現をそぎ落としても、
  行為の骨格がありきたりで、
 不自然な所がないからです。
  それだからこそ心地よい秀歌です。

神風(かむかぜ)の
  伊勢の国にも あらましを
 何しか来けむ 君もあらなくに
          大伯皇女(おおくのひめみこ) 万葉集2巻163

(かみかぜの)
   伊勢の国に 居ればよかったものを
  何しに来たのだろう あなたも居ないのに

 大伯皇女(おおくのひめみこ)もまた天武天皇の娘で、大津皇子(おおつのみこ)は同母の弟に当たります。伊勢神宮の初代の斎宮(さいぐう)となっていたのですが、686年、天武天皇が亡くなった際に、大津皇子が謀反の罪で捕らえられ、自害させられるという事件が起きます。これによって、姉である大伯皇女も、斎宮から外されて、みやこへと戻されました。これはその時の短歌のうち一首です。

  分かりやすい表現ですが、
 上の句は、大津皇子が亡くなった今さら、神の居ます所から、人の世に引き戻されたくないという思いを、「あらましを」にまとめています。「あらましを」の「まし」は、例の反実仮想(はんじつかそう)の助動詞ですから、
   「もし在(あ)ることが出来きたなら(良かったのに)」
つまりは「居たかったのに」という内容を表明している事になります。それならなぜ、「居たかった!」と宣言しないかというと、少しまえに見た婉曲表現と似たような考えで、「居たかった」では、そこにどの程度居られる可能性があったのかは不明です。ただちょっと居たかっただけかも知れませんし、居られたけど、出てきてしまっただけかも知れません。けれども「もし仮に可能であったら」と例える反実仮想であれば、逆にそこに居ることは不可能であった、という事を一緒に表明する事が可能です。つまり詠み手は、そこに留まりたかったのに、どうしても留まることが不可能だった、許されなかったので、伊勢の国を出てきたことが表明されている。

 つまりは事実を提示しているかに見えた、「居たかった」よりも、実際はより多くの事実をその表現のうちに提示していますから、短歌のような短い表現で、すべての思いを伝えるためには、効果的な方法になっているのです。実は前に見た婉曲表現もおなじ事で、一見回りくどいように見えて、そのまま直接伝えるよりも多くのことを、短い表現のうちに折り込むことが可能になっている。もちろんすべてがそうではありませんが、含みによって長文が必要なことを、込めるような効果も、反実仮想や婉曲表現にはあるのだということを、覚えておいてくださったらと思います。

 ここではさらに、冒頭に置かれた「神風の」という枕詞が、その神の領域を讃えますから、なおさら世俗に戻されるのが嫌な心持ちが委ねられている。それに対して、下句はむしろ、ぶっきらぼうなくらいの表現で「何しか来けむ」と嘆いて、あなたも居ないのにとあきらめます。

 これによって、悲しみのなかにあっても、否応なく突き動かされるみずからの運命、自分からは能動的に解決するすべのない宿命のようなものを、むなしさのうちに表現しますから、心情から率直に生まれたであろう、飾りのない表現ではありますが、聞き手に強く、訴える内容になっています。

 このように、上の句も下の句も効果的に配置されている短歌には、動かしてより良くなるような隙など、どこにもありません。その意味で、わたしが「はじめての万葉集」で紹介した短歌は、どこか「動かすことが可能」なものであり、「ふたたびの万葉集」で紹介している短歌は、「動かすことが不可能」あるいは「困難」な、優れた短歌であると言えるかも知れません。

島の宮(しまのみや)
   上(かみ/うへ)の池なる 放ち鳥
 荒びな行きそ 君いまさずとも
          よみ人しらず 万葉集2巻172

島の宮の
  上側の池に住む 放たれた鳥たちよ
    そんな荒れたしぐさをするな
  飼い主が居ないからといって

 さて「はじめての万葉集」の巻第二の「挽歌」でも二首ほど取り上げたのですが、この和歌は日並皇子(ひなみしのみこ)、一般的には草壁皇子(くさかべのみこ)(662-689)と言いますが、彼が亡くなったときに、彼に仕えていた舎人(とねり)[上級貴族に付く役人、ただし上級貴族自身も一般に経過点として舎人を経験するので、身分の低い者たちの意味は無い]たちが、嘆き悲しんで詠んだ短歌二十三首のうちの一首です。

 日並皇子もまた天武天皇の息子であり、同時に皇后である後の持統天皇の実の息子でもありましたから、若くして亡くなった皇太子の死は、まだ天武天皇の死も、それから大津皇子の謀反も、記憶に新しかったために、なおさら残された持統天皇にとって、悲しみの連鎖のように思われたかも知れません。

 さて和歌の方ですが、
「島の宮」というのは、草壁皇子の住んでいた宮のことで、かつて蘇我馬子の邸宅のあったあたり、蘇我馬子の墓とされる、石舞台古墳(いしぶたいこふん)の近くにあったとする説が有力のようです。「上の池」というのは、実際にいくつかあった池のうち「上の池」と述べているに過ぎません。

 その鳥が飼い主を亡くして、あるいは餌などを十分に貰えないからでしょうか、野生化して荒れていくように見えるのを、このように詠んだものと思われます。その詠まれ方が、「はじめての万葉集」に紹介した別の短歌と、よく似ていますので、もう一度表わしておきましょう。

み立たしの
   島の荒磯(ありそ)を 今見れば
 生(お)ひざりし草 生(お)ひにけるかも
          よみ人しらず 万葉集2巻181

 比べてみるとよく分かると思いますが、「み立たし」の方は、ただ「今見れば」と眺めた状況を、「生えていない雑草が生えてきた」と示して、それをもって心情の表明としていますから、もちろん伝わるものはありますが、深い慟哭には響きません。それに対して、「島の宮」の短歌は、
     「荒びな行きそ君いまさずとも」
 放ち鳥たちを人に見立てて、語り掛ける表現を用いています。もちろん、鳥たちは「あるじを無くして荒れている」訳ではありませんから、これによって自らのすさんだ気持ちを、代弁しているに過ぎませんが、心情の表明が複雑になり、直接述べたいことをこらえているように感じられます。その上、先に情景描写を行ない、それから役者としての詠み手が、鳥たちに語りかけるように台詞を述べますから、ただ情景を眺めた感興を述べたものよりも、より動的な傾向が増さります。

 また上の句ですが、「み立たし」の方は、三句目の「今見れば」というのは、現在詠んでいる者の心情表明としては、無駄な表現で、かえって心象を散漫にしてしまっている。それに対して、「鳥の宮」の方は、語り掛ける相手である「放ち鳥」をターゲットにして、上の句がまとめられていますから、三句までを使用して描き出した相手に、下句で語り掛けるような印象で、構造が鮮明ですから、なおさら心情が、動的に把握される。あるいは「上の池なる」が不要ではないかと思うかも知れませんが、この表現によって、我々舎人はおろか、もっと上の人たちでさえ、心が荒れてしまった、という印象を内包させてもいるようで、決して無駄な表現にはなっていません。

  それで、結論としては、
 この二つの短歌は、静的な描写にも、動的な表現にも、それぞれの利点があり、それだけではたやすく優劣を付けられませんが、動的なものの方が、嘆きの表明には、より相応しいでしょうし、そうでなくても、下の句を表明すべき、上の句の質において、差が生まれてしまっている。それで一方は「はじめての」方々に向けた短歌として、もう一方はより豊かな表現力を持った「ふたたびの和歌」として、ここで紹介させていただいたという訳です。

 ではそろそろ、
   柿本人麻呂に行ってみましょうか。
     とはいえ、長歌は壮大すぎます。
   ここでは触りだけ、紹介してみようと思います。

     「明日香皇女(あすかのひめみこ)の城上(きのうへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、
       柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 併せて短歌」
飛ぶ鳥の 明日香の川の かみつ瀬に 石橋(いしばし)渡し しもつ瀬に 打橋(うちはし)渡す 石橋に 生(お)ひなびける 玉藻(たまも)もぞ 絶ゆれば生(お)ふる 打橋に 生ひをゝれる 川藻ぞ 枯るれば生ゆる……
          柿本人麻呂 万葉集2巻196 (抜粋)

  おおよその意味は分かるのではないでしょうか。
 こちらは天武天皇ではなく、そのお兄さんの天智天皇の娘、明日香皇女(あすかのひめみこ)が亡くなった時の挽歌になっています。抜粋の冒頭の内容は、川に生える藻は、衰えればまた生えてくることを、様式的に語っているに過ぎません。ここから内容が移り変り、それなのに皇女(ひめみこ)は、そのように末永くあることを忘れて、どうして亡くなってしまわれたのか。夫と遊び回られ、語り合われたことも忘れて。その残された夫の、姿を眺めるのがつらい。今はせめて、そのお名前だけでも、お慕いして行きましょう。そんな内容になっています。ですから内容だけを眺めるなら、別に面倒なこともないくらいなのですが……

 ひたすら五七調で語られ、その意味を取るためではなく、語られている言葉自体に共感を覚えつつ、詠めるようになるためには、なかなかどうして、短歌をかじったくらいでは、お経を有難がるように捉えてしまい、心情を揺さぶられるためには、時間が掛かるように思えます。

 もちろん好奇心にあふれた人は、すぐにでも本文に接していただければ好いのですが、そうでもない人が、かえって嫌になってしまわないように、今はもう少しだけ、様子を見ながら、話を進めていきたいと思います。この執筆者は、酔っぱらっているように見えても、ちゃんと聞き手のことを、考えているのだから立派です。酒呑童子(しゅてんどうじ)も真っ赤です。
  さっそく短歌を眺めましょう。

     「短歌二首」
明日香川(あすかゞは)
   しがらみ渡し 塞(せ)かませば
  流るゝ/進める水も のどにかあらまし
          柿本人麻呂 万葉集2巻197

明日香川に 堰(せき)を設けて
  水を留めたなら
    流れる水もあるいは
  もっと ゆっくりであったろうか

「しがらみ」は、川に幾つもの杭を打ち込んで、それに横板などを張って、流れをせき止めた、ダムの出来損ないの祖先のような風情です。完全にせき止める訳ではありませんが、それによって流れを穏やかにしたら、あなたの亡くなるまでのスピードも、もう少しゆっくりしたものであったろう。くらいの解釈でよいでしょう。

  もちろん、この短歌だけでは、
 ちょっと唐突にも響きますが、「明日香川」を中心にして長歌を詠んだ後ですので、明日香皇女を喩えての「明日香川」という冒頭も、聞き手には不自然には響きません。しかも長歌では、藻が何度も再生するイメージから、流れのようにいつまでも慕っていましょうというイメージに至るまで、一貫して時の流れについて詠っているのに、短歌に来てはじめて、取っておかれた表現、「それを堰き止めることが出来たなら」という思いが提示されますから、

長歌で長らく詠ってきたような、
  あなたの時の流れではありましたが、
 もしそれを少しでも留められたら」

と、長歌全体を受ける形になりますので、そのダイナミックな表現力は、短歌だけを眺めたときの受け取られ方とは、比較にならないくらい優れたものになる。それでこそ、単独の短歌ではなく、わざわざ長歌に添えられたものとして、存在する意義があるというものです。

 つまりはこのような計算された表現を、至るところでしまくっている、縦横無尽な詩人というのが、柿本人麻呂という歌人であると覚えておけば、はじめてにしては十分かと思われます。せっかくですから、長歌に付属する、もう一首の短歌も眺めてみましょう。

明日香川
   明日だに見むと 思へやも
  我が大君の 御名(みな)忘れせぬ
          柿本人麻呂 万葉集2巻198

明日香川を
  せめて明日だけでも見たいと
    いつも思っているせいでしょうか
  親愛なるあなたの
    お名前を忘れることが出来ません

     『参考までに、別バージョン』
明日香川
   明日さへ見むと 思へかも
  我が大君の 御名忘らえぬ
          柿本人麻呂 万葉集2巻198

 こちらは、長歌の取りまとめである、「あなたの名前にゆかりのある明日香川を、せめてこれからは形見として行こう」という内容をもとに、「せめて明日だけでも」と、明日香川を見るたびに、毎日思い出すものですから、あなたの名前を忘れることなど無いということを、改めて、まとめ上げた内容になっています。つまりは長歌の取りまとめを、リフレインのように、もう一度取り上げながら、短歌を含めた全体の、真の終わりを受け持つ、おさめ歌の役割を担っています。これもまた、全体の構造があってこそ、真価を発揮する短歌であって、個々の作品だけ眺めても、あまり意味は持ちません。

 このような長歌による挽歌は、朝廷の公式な儀式などで使用された、公のもので、個人的な心情をゆだねた作品ではないということも、頭に入れて置かれると好いでしょう。その上で、長歌の作者としての柿本人麻呂という人は、形式と構造がしっかりしていればこそ、詠まれた心情もまた豊かに表明できるという、一種の構造主義者(哲学とは関係ありません)のようにすら、思われなくもありません。

妹が名は 千代(ちよ)に流れむ
  姫島(ひめしま)の 小松がうれに
    苔生(こけむ)すまでに
          河辺宮人(かわへのみやひと) 万葉集2巻228

この娘の名は 千代に伝わるだろう
   この姫島の まだ若い小松の梢に
 いつか苔がむすほど長い間

「姫島」は淀川の河口付近にかつてあった島の名前で、その松原に横たわる、娘子(おとめ)の死体を悲しんだ和歌とされています。当時は道ばたや旅路で死体を見ることもありましたから、この種の和歌は、他にも詠まれています。冒頭「この娘の名は千代に伝わるだろう」というのは、もとより実名の意味では無く、ここにその人が確かに生きていたという証は、わたしの残した歌によって、長らく語り継がれるだろう、という意味です。

 そして、この和歌のすばらしいところは、実際に1300年以上を経て、それが現在にまで語り継がれている。つまり詠み手の表現は、ちっとも大げさなデフォルメでも何でもなく、現実となって叶えられている。しかも、小松のあったはずの姫島はなくなり、老松すらも跡形もなくなってしまった。それでも言葉だけは残されて、それどころか生き生きと、わたしたちの心に語りかけてくる。
 その一点にあるのではないでしょうか。

 ところで、この和歌「君が代」の歌詞に似てると思いませんか。「君が代」のルーツとなった和歌は、『古今集』に収められていますが、類似の着想の和歌も多い万葉集の時代ですから、直接ここから由来しているかどうかは分かりません。ただもし、亡くなった無名の少女のことを、せめて永久(とわ)の和歌に載せてと願った詠み手の思いが、形を変えて我が国の国歌になって、さらなる生命を得ているとしたら、壮大なロマンチック気分です。

               (つゞく)

2016/5/7
2016/06/11 改訂

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