はじめての万葉集 その四

(朗読) [Topへ]

はじめての万葉集 その四

 さて、あくまで仮にの話ですが、『万葉集』を大伴家の私歌集と見立てるなら、「よみ人知らず」の和歌が並べられた巻第七や、巻第十から巻第十六までは、当時の歌社会のなかでの秀歌を「四季」「恋歌」その他に分類した、純粋なアンソロジーと見ることが可能です。そうして十七巻からは、大伴家持の和歌を中心とした巻が最後まで続く。つまり中間部にアンソロジーをサンドイッチした形になります。(もちろん初めての方が、輪郭を掴むのに便利だというだけの見立てには過ぎません。)

巻第十一

 「巻第十一」と「巻第十二」は、二つで一つです。おそらくあまりにも量が多いので、二つの巻を使用したのでしょう。どちらも「よみ人しらず」の「相聞(そうもん)」、もっぱら恋の歌を収めています。あるいは『柿本人麻呂歌集』にあった分類名を、そのまま利用しているらしく、ちょっと風変わりな名称でジャンル分けしてありますが、それは登場したときに紹介することとして、まずは巻頭に並んでいる、「旋頭歌(せどうか)」でも眺めてみましょうか。

旋頭歌(せどうか)

 さて、『万葉集』は短歌以外にも、長歌、漢文、漢詩などさまざまなものが収められていますが、ここらで「旋頭歌(せどうか)」というものを、ひとつ眺めてみるのも悪くはありません。形式は簡単で、
     「五七七」
     「五七七」
と二回繰り返すだけのものです。
 その際、初めの「五七七」と次の「五七七」は、
  はっきりと文脈で切れるのが特徴です。
   二人の掛け合いのように捉えると、
  分かりやすいかも知れませんが、
 まあ、眺めた方が手っ取り早いでしょう。

うるはしと/うつくしと
  我(あ/わ)が思(おも/も)ふ妹は はやも死なぬか
    生けりとも
      我(あれ/われ)に寄るべしと 人の言はなくに
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集11巻2355

うるわしいと 私が思うあの人は
  いっそ早く 死んでしまえばいいんだ
    生きていたって わたしがものに出来るとは
  誰に聞いても 言ってくれないんだから

 ひとりで初めの「五七七」で謎かけをして、ひとりで後から「五七七」で答えを言っているような気配ですが、問いと答え、ぼけとつっこみ、以前と以後など、対比させたような詩文を二回、繰り返すのが「旋頭歌(せどうか)」です。従って、上下の「五七七」は文の途中で、連続的につながるような関係にはなく、「五七七」で言い終えてから、また「五七七」で始めるのが、オーソドックスなスタイルになります。

 この和歌もまた、どうせ自分には望みがないなら、恋しい人なんか、死んでしまえばいいと言っているのですが、自分が死ぬとは言い切れずに、相手に「死んじゃえ」とすねているところが、だらしない男を表現しているようで、なかなかコミカルに描ききっているのではないでしょうか。

 つまり、そのコミカルな場景と、コミカルな表現が目的の詩ですから、それを無視して、生真面目に訳すと、詩を生殺しにしたも同然になってしまいます。概して、生命力を断たれた現代語訳で、古文を眺めさせられて、吉田兼好の作品に、嘔吐感を催す人も多いかと思いますが、それは翻訳者の悪行(あくぎょう)であって、執筆者の意図ではありません。

 せっかくですから、
  短歌だけでなく、旋頭歌も作ってみませんか。
   ノートを開いて、問いと答え、昨日と今日、概要から具体例へ、
  なんでも構いませんから、
     [五七七]⇒[五七七]
  と前半と後半で応答するように、
   ともかくも作ってみるのが、
    形式を知るにも、和歌を知るにも、
     もっとも手っ取り早い方針です。


     「彼方はどこいった」
ふるさとは
   蔦に沈んだ 廃村のなか
  踏み込んで
    葉に腕を切る 血の痛みして
          旋頭歌 時乃旅人

     「込み入ってますね」
夢のなか
  笑いあったり おしゃべりしたり
    目覚めれば
      ひとりぼっちの 悲しみしたり
          旋頭歌 時乃遥

     「旋頭歌になってないけど」
春はまだ
   あなたのことを 待ちぼうけ
  落ち葉して
     あなたの腕の 暖かさ
          即興歌 時乃旅人

正述心緒(せいじゅつしんしょ)

  さて、何とも不可解な項目が出てきました。
   正述心緒(せいじゅつしんしょ/しんちょ)
  いったいなんのおまじないでしょうか。
 これは、「よみ人しらず」の相聞によって成り立っている、「十一巻」「十二巻」に見られる和歌の分類法で、大和言葉で「ただにおもいをのぶる」と表されることもある歌のジャンルの一つです。そのあり方は、名称ほど難しくはなく、何かに思いを寄せて、つまり比喩を用いて、心情を述べるのではなく、直接伝えたい心情を歌った、ストレートな和歌だと思って頂ければ、話は通じるかと思います。

     「俺様はここにいるぜ」
俺の歌を
  俺のソウルを 聞いてくれ
    お前が好きだと 裂けるたましい
          いつもの彼方

……いや、
 そんなのは、いくらなんでも、
  万葉集にはないっす。

うちひさす
   宮道(みやぢ)を人は 満ち行けど
 我(あ/わ)が思(おも/も)う君は たゞひとりのみ
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集11巻2382

(うちひさす) みやこ通りを人々は
   あふれるように 往来するけれど
  わたしが思うあなたは
     たったひとりしかいない

 「うちひさす」は「都、宮」にかかる枕詞です。
  なるほどこんな詩なら、
   「おだやかな午後の日差しを
     人々はとりとめもなく流れていく。
      わたしはたったひとりのあなたを、
     馬鹿ですね、また探しているなんて」
というような歌詞とあまり変わりません。それを歌詞くらいの文脈で詠んでいるから、旋律に乗せても、今に伝わってきそうな内容です。

恋ふること
   なぐさめかねて 出(い)でゝ/出で行(い)けば
  山を川をも/山をも川も 知らず来にけり
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集11巻2414

恋しい気持ちを
  なだめられないで 飛び出して行けば
    眺めたはずの山も 越えたはずの川も
  分らないまま ここに来ているのでした

 四句目をすこしアレンジしましたが、
  本意は分かるかと思います。
 恋しくて家を飛び出したら、自分が何を見て、どこを通ったのか分らないで、ここまで来ていた。ただし、道ばたで我に返ったというよりも、むしろ、「またあの人の住んでいるところに来ていた」と読むべきかもしれません。それで、家の呼び鈴を鳴らす勇気は無くって、家の周囲をちょっとうろうろして、「偶然出てきたところに、通りかかった振りをして、声でも掛けられたら」なんて、ひとりで妄想をふくらませて、でもドアが開いたら、驚いて角に隠れてしまったり、最後は何も出来なくて帰って行く。
 そんな経験は皆さま誰にでも……ないか。

寄物陳思(きぶつちんし)

 さて、また不可解なジャンルが登場しました。
  寄物陳思(きぶつちんし)です。大和言葉なら、
    「ものによせておもいをのぶる」
なんらかの物にゆだねて、みずからの思いを伝えるものです。もちろん比喩もそれにあたりますが、たとえば「どんな神さまにお祈りしたら、あの子は夢に現われるだろう」なら「神さま」にゆだねて、思いを述べたことになりますし、「世界が終わる時までこの愛は終わらない」と叫んでしまえば、「世界の終焉」にゆだねて、思いを述べたことになるのです。ですから、

     「呼んだか?」
絡みつく
  マイナーセブンの コードして
 駆け巡れ俺は お前がすべてさ
          いつもの彼方

  ……そんな短歌はないっす。
     しかも今日に詩集にもないっす。
    でも、まあいいでしょう。
   この落書なら、おそらく、
  エレキギターにでも恋心を、
 ゆだねたということになる訳です。

宇治川(うぢかは)の
  瀬々(せゞ/せゝ)のしき波 しく/\に
 妹はこゝろに 乗りにけるかも
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集11巻2427

宇治川の
   瀬々をうつ波が しきりに寄せるように
  あの娘(こ)は私の心を
     すっかり奪ってしまった

 「しき波」というのは「繰り返し寄せる波」で、「心に乗る」というのは、「心にのしかかって離れなくなる」状態をさします。それだと、現代語として「意味あって思いなし」になってしまうので、ちょっとアレンジしました。つまりは、だんだん増していく思いを、「瀬々波がしきりに」寄せることにゆだねている。それで寄物陳思という訳です。

荒磯越(ありそこ)し
   ほか行く波の ほかごゝろ
 我(あれ/われ)は思はじ 恋ひて死ぬとも
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集11巻2434

荒磯を越えて
  波がほかへ 去るような浮気心を
    私は決して思いはしない
  たとえ恋しさで 死ぬことがあっても

「外心(ほかごころ)」というのは、他の人に向かう心で、上二句はただ「外心」を喩えるための説明に過ぎませんから、例の「序詞(じょことば)」になっています。序詞の内容が、伝えたい思いの比喩としてもすばらしいものであると、短歌に様式美を与えながら、心情を讃えたものとして、優れた効果を発揮しますが、踏み外すと、

風呂一杯
   流したお湯の 外心(ほかごころ)
 俺はしないぜ 恋に死んだって
          ちゃっかり彼方

……またあなたですか。
   ずいぶん活躍していらっしゃる。
  まあ、そう云うことです。
 このように、おかしな事になりますから、注意が必要だということです。それで万葉集の短歌も、お風呂場の落書も、流れ去る波やお湯に思いをゆだねていますから、例の「寄物陳思(きぶつちんし)」になるという訳です。

ひさかたの
  天照(あまて)る月の 隠(かく)りなば
    何になそへて 妹を偲(しの)はむ
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集11巻2463

(ひさかたの)
   空を照らし出す月が 隠れてしまったら
  いったいあなたを 何に喩(たと)えて
    恋偲(しの)んだらよいのでしょうか

 さて「ひさかたの」は、もっとも知られた枕詞の一つで、ここでは「天」に掛かります。「なそへて」というのは「なぞらえて」という意味ですから、ちょうど寄物陳思の歌で行なっているようなことを、行なう意味になる訳で……

  まさか、寄物陳思のコーナーだから、
 月がなければ寄物陳思が出来ないと、ぼやいた歌だとは思いませんが、そんな邪推もまた、ちょっと楽しいものです。ところでこの短歌、並びの一つ前に、「わたしを愛しているなら、月の光となって、わたしのもとに来て欲しい」という和歌がありますから、それとペアなのかもしれません。

たちばなの
   もとにわが立ち/わを立て 下枝(しづえ)取り
  ならむや君と 問ひし子らはも
          (柿本人麻呂歌集) 万葉集11巻2489

たちばなの 木のもとに
  一緒に立って 下枝(しずえ)を手にとっては
    実になるかしら あなたとふたり
  そう尋ねたあの人はもう……

 前に花橘(はなたちばな)のところで言いましたが、万葉集においては、花よりも実がなることこそ、愛が結ばれる、つまり結婚することを意味するものとして、橘は和歌に詠まれているようです。ただここでは、それを比喩して歌うのではなく、実際に橘の木のところで恋人が語った言葉として、「実るでしょうか」と表現していますから、「尋ねたあの子は……」と余韻を残した終り方が、実を結ばなかった二人の、悲しい結末のようにして残ります。構想も詠み方も、なかなかうまい短歌ではないでしょうか。

 なお、「寄物陳思」に続く項目として、
  いくつか「問答(もんどう)」という短歌が置かれています。
   二つの短歌がペアになって、
  「問い」と「答え」になっている。
 勅撰和歌集なら、「贈答歌(ぞうとうか)」と呼ばれるものです。
  今回は見ませんが、そのうち紹介することもあるでしょう。

正述心緒(せいじゅつしんしょ)

 さて、実は今まで見てきた短歌は、すべて『柿本人麻呂歌集』という、柿本人麻呂が作ったのかどうかは保留付きの、『万葉集』のベースの一つとなった歌集から取られた短歌でした。(他にも『古歌集(こかしゅう)』の和歌も収められていますが、今回は取り上げませんでした。)

 それで、もう一度「正述心緒(せいじゅつしんしょ)」に戻って、今度は完全な「よみ人しらず」の作品を並べよう、というのが編纂者の考えのようです。さっそく、眺めていきましょう。

刈り薦(こも)の
  ひと重(へ)を敷きて さ寝(ぬ)れども
 君とし寝(ぬ)れば 寒けくもなし
          よみ人しらず 万葉集11巻2520

刈り薦の一枚を
  敷いて寝たけれど
    あなたと寝たものだから
  ちっとも寒くなんかないわ

「刈り薦(こも)」は、マコモを刈ったもので、乾燥したマコモは、編み込まれて筵(むしろ)にもされたようです。マコモと言えば、食欲をそそる「マコモダケ」を浮かべる人や、検索してはいけない「マコモ風呂」をつい検索してしまう人もいるかもしれませんが、なかなか巨大な葉っぱに成長する、マコモをどのようにして敷物にしたのかは、残念ながらわたしには分りません。

  分りませんが、
   ともかく粗末なことは確かです。
  数十万のふかふかベットでは決してありません。
 その粗末なシート一枚で、寝なければならなかったけど、あなたと一緒に寝たから、ちっとも寒くなかったよ。なるほど、さすがは正述心緒です。大したのろけです。真っすぐ過ぎてごちそうさまです。わたしなんかは、今夜もどうせひとりぼっちさ。
 ははん。なんだい。
  とっとと、次へまいりましょう。
   ……いいえわたしは初雁の、
  泣いているんじゃあないんです。

たらちねの 母に知らえず
  我(あ/わ)が持てる 心はよしゑ
    君がまに/\
          よみ人しらず 万葉集11巻2537

(たらちねの)
    母にも知られないで
  わたしが隠して 持っていた心は
     いいわ あなたにまかせるわ

 以前「よしゑやし」(ええいままよ)という表現を見ましたが、この「よしゑ」も同じように、「どうなってもかまわない」というような掛け声になっています。状況によってそのニュアンスは変化しますが、今日なら「よし」という掛け声くらいで、捉えておけば良いでしょう。最後の「まにまに」というのは、「ままに」という意味で、状況にまかせる、成り行きにまかせるような表現です。「たらちねの」はもちろん、母に掛かる枕詞ですが……

 さすが正述心緒、
  また熱いのが来ました。
「たらちねの」なんて枕詞をかかげたものですから、母親がなんだか敬意の対象みたいになって、それでもわたしの心は、あなたのもとに走るのだという、並々ならない決意を、効果的に描き出している。あるいは、
     「母に知らえず我が持てる心は」
という、ちょっと含みのある言い回しは、隠した恋そのものというより、いつしか恋を知る年頃になってしまった、母親にも知られなかった心。自分でも気づかないうちに、「もう母親の娘として、無邪気にしていられなくなってしまった」、恋に生きようとする自分の心にうろたえて、このような含みのある言い回しになったのかもしれません。もしそうであるならば……

 なるほど万葉集に収められた短歌は、
  その場で言いなしたような語りのなかに、
   私たちの深層心理をくすぐるような、
  モダンなものを秘めているのかも知れませんね。

たらちねの 母に申(まう/まを)さば
  君も我(あれ/わ)も 逢ふとはなしに
    年そ経ぬべき/年は経ぬべし
          よみ人しらず 万葉集11巻2557

(たらちねの) 母さんに打ち明けたら
  あなたもわたしも 逢うことが出来ないまま
    年ばかりが 過ぎてゆくでしょうよ

  そうかと思えば、こんな短歌もあります。
 つまりは、「結婚したいなんて打ち明けたら、母さんに反対されて、逢うことすら出来なくなっちゃうじゃないの」、二人のお付合いを認めて貰おうとする男に対して、リアルな現実を突きつけている。その女性心理だけでも、十分すぎる魅力なのではないでしょうか。そうして、勅撰和歌集のみやびの世界とは、まるで違ったおもしろさがある。
 それでこそ、万葉集の価値もあるというものです。

うつゝにも
   夢(いめ)にも我(われ)は 思はずき/思はざりき
 古(ふ)りたる君に こゝに逢はむとは
          よみ人しらず 万葉集11巻2601

起きているときでも
  夢の中でさえ わたしは思いませんでした
 かつてのあなたに ここで逢うなんて

「思はずき」は「思わない」の回想で「思わなかった」で、「古りたる君」というのはかつての知人の意味。幼なじみかもしれないし、恋人かも知れませんが、別に「古びて老人になった」という意味ではありません。今日でも「夢にも思いませんでした」という表現は使用しますが、短歌らしく、
     「うつつにも夢にも」
と対句(ついく)によって誇張を加えたのが、再開の驚きを大きく見せています。そうして
     [私の心情]⇒[原因としての状況]
という、分かりやすい二つの内容に区切られます。
 これもまた、初心者に見習って欲しいような手本です。
  スパイスのような対句の使い方も、覚えておくと良いでしょう。

あしひきの
  山桜戸(やまざくらと/やまさくらと)を 開(あ)け置きて/開(ひら)き置きて
    我(あ/わ)が待つ君を 誰(た)れか留むる
          よみ人しらず 万葉集11巻2617

(あしひきの) 山桜で出来た戸を
   開けたままにしながら
     わたしが待っている あの人を
   誰よ 引き留めているのは

 戸口を開けて待ってるのに、
  まさか、別の女が留めているんじゃないの。
 そんな疑惑でしょうが、俗に落ちそうなところを、冒頭の二句が、なんだか聖なる門のようにして、つまり詠み手にとっては、大切な恋のゲートなのだと思わせることに成功しているようです。それでちょっとだけ、抽象的な物語じみてくる。同時に訴えることは俗的である。様式化と語りとの、バランスがうまく保たれています。もっとも詠んだ本人は、
  恋人のことで一杯で、
   それどころでは無いかもしれませんが。

 では折角ですから、
  わたしたちもちょっと足を休めて、
   ノートを開いて、正述心緒の短歌を、
  呼んでみるのはいかがでしょうか。
 比喩など使用せずに、主情を押し出すものですから、
  初心者にも作りやすいかと思われます。


     「たまには先陣」
愛だけが 私にとっては 不可解で
 君の笑顔に 告げるさよなら
          時乃旅人

     「鬼かお前は」
たった一人
  愛することも 出来ねえで
    何がいのちだ 俺の唄を聞け
          いつもの彼方

     「主情ですか」
さよなら
  さよならさよなら 泣き崩れ
    もう振り向かない 前だけ見つめて
          主情歌 時乃遥

寄物陳思(きぶつちんし)

 さて、随分直球勝負の、
  主情に委ねた短歌を楽しみましたから、
   そろそろストレートではない、
  変化球を使用したような、
   「寄物陳思(きぶつちんし)」が必要です。

逢はなくに
   夕占(ゆふけ)を問ふと 幣(ぬさ)に置くに
 わがころも手(で)は またそ/ぞ継ぐべき
          よみ人しらず 万葉集11巻2625

逢えないからって
   夕方の言葉占いをしようと
 神に布を供えるので
    わたしの着物の裾は
  また継ぎ直さなければなりません

  占いに寄せる短歌。
 夕占(ゆうけ・ゆううら)とは、夕方に辻(つじ)[道の交叉する、交叉点の意味です]を行く人々の会話から、吉凶などを占う、夕方にする辻占(つじうら)のことです。幣(ぬさ)というのは、神に祈るときに捧げる布や紙のことで、今日でも神事(しんじ)に使用するための幣を、神社で見ることが出来るでしょう。

  「逢魔が時(おうまがとき)」といって、
 夕暮れは人ならざる者たちの、異界の門が開く時間とされていました。神々が生き、精霊が語りかけるような時代ですから、今日なら、「占いに袖使っちゃったからまた縫わなきゃ」くらいのユーモアにも聞こえそうですが、妖(あや)しくも深い思いが込められていると、見る方がふさわしいかも知れません。

 だからといって、あなたがもし、この短歌を軽やかな冗談のように感じたなら、軽やかなものとして、唱えてくださってよいのです。それによって、なんらかの共感が湧いてきたなら、解説のための贄(にえ)にさらされるよりも、今日まで残された和歌にとって、どれほど幸せなことか知れませんから。

ま袖もち
   床(とこ)うち払ひ 君待つと
  居(を)りし間(あひだ)に 月かたぶきぬ
          よみ人しらず 万葉集11巻2667

両袖で 寝床を払ったりしながら
  あなたを待っていると
 そうしている間に
   月は西に傾いてしまいました

 心情のかわりに、
  かたむく月に寄せた短歌。
「ま袖」というのは「片袖(かたそで)」の反対です。恋人を待つ女性が、両方の袖をつかって、寝床の塵などを払っていますと、いつまでたっても相手は来ないで、月はすっかり傾いてしまった。そんな短歌です。

 軽く詠むとコミカルですが、ちょっと寄り添って、時間の経過をあらためて考えますと、もう準備をすませてあるはずの寝床に、ずっと払い続けるようなゴミなどもありませんから、もう敷き終わったシーツを、両手で何度も手直しするような、けなげな姿が浮かんで来ます。

 それをずっと繰り返しているうちに、
  とうとうあなたは来なくって、
 すっかり月も傾いてしまった。明確な約束があったのか、来るかも分らない人を待っているのかは知りませんが、どちらにしても、恋人を待ち続けることの焦燥と不安といらだちと、様々なものが混じり合って、ただ同じ動作を繰り返している。その辛さを知る人であれば、心に打たれるものがあるのではないでしょうか。何しろ、端末ですぐに連絡のつくような今日でさえ、この種の思いは無くなりませんから。

妹(いも)が門(かど) 行き過ぎかねつ
  ひさかたの 雨も降らぬか
    そをよしにせむ
          よみ人しらず 万葉集11巻2685

彼女の家を 素通りしたくない
  (ひさかたの) 雨でも降らないか
 それを理由にするのだが

 こちらは男の、雨にゆだねた短歌。
  もちろん、雨でも降らないかと言うからには、空言(そらごと)というよりも、もうすぐ雨が降りそうな天候にあったのでしょう。ただ語調に熱気がありませんから、恋しくて内面をさらけ出したよりも、対外意識、つまり台詞のように語ったような印象です。家の前で雨が降るのを待って、恋する男が逡巡(しゅんじゅん)するようには聞こえません。たまたま家の近くを通ったので、すぐに逢う気もないのに、つぶやいてみたようなものかも知れません。ちょっと詠み方にゆとりが感じられます。

かくばかり 恋ひつゝあらずは
  朝(あさ)に日(け)に 妹が踏むらむ
    地(つち)にあらましを
          よみ人しらず 万葉集11巻2693

これほどに 恋し続けるなら
  朝にも昼にも あの娘(こ)が踏んでいる
    いっそ土でありたい

 こちらは、先ほどのものと違って、
  ゆとりのない男性の短歌。
 逢えなくて恋しさばかりがつのるので、ずっと側に居られるなら、一層のこと土になってしまいたい。あなたと触れていられるから……ただし、風や空気ならまだしもですが、土となりますと、男が踏みつけられながら、「それでも一緒ならいい」と満足している。そんな光景が、頭に浮かんでしまいます。そこまで必死なのかというリアルさもありますが、踏まれて喜ぶような滑稽さもありますから、喜劇と悲劇が絡み合って、ちょっと面白く読まれます。

 もちろんこの解説は、今の感覚に基づいています。当時、土への喩えが、どのように受け止められたかは、万葉人でないと分りません。ただ「地(つち)でありたい」という着想の短歌はいくつかありますが、秀歌とは言い切れないものばかりですから、当時から、ナチュラルな発想とは言えなかったのかも知れません。もっとも、土に寄せるという、その風変わりな喩えが、この短歌の魅力には違いありませんが。

はしきやし
   逢はぬ君ゆゑ いたづらに
  この川の瀬に たま裳(も)濡らしつ
          よみ人しらず 万葉集11巻2705

ああ いとおしい
  逢ってくれない あなたのせいで
    今日もむなしく この川の瀬で
  喪のすそを 濡らしているわたし

 「来ない」ではなく、
   逢わないあなたが理由で、
  むなしく川の瀬で服を濡らしている。
 そう言うからには、「来ない人を待って、川瀬に立ち尽くして、しぶきを浴びている」というよりも、そこが彼女のお気に入りの場所であって、川瀬のふちに佇(たたず)みながら、流れゆく川をぼんやり眺めて、「ああ愛おしい」と彼のことを考えている。つまり川で男を待っているのではなく、川で男を思っている短歌かと思われます。するといつしか、せせらぎから飛んだ水しぶきが、自分の裳を濡らしていた。あるいはそれは、なみだの譬(たと)えなのでしょうか。
  それでもちろん、川に寄せる短歌。
    ということになります。

 ところで、歌謡のなかで、音頭を取るかけ声のような言葉を「囃子詞(はやしことば)」と言いますが、「はしきやし」とは、「かわいらしい」「いとおしい」といった意味の形容詞「愛(は)し」に、囃子詞の「やし」が加わった連語です。民謡なら「ああ愛おしや、ああ愛おしや」と合いの手を入れるような感じでしょうか。そのため臨場感のある、その場の生の声のように、
     「ああ、いとおしい」
と、実際に口に出してしまったように捉えられます。とりあえずは、これが枕詞ではなく、語りかけの言葉であることを、理解しておけばよいでしょう。しばしば登場しますから、覚えてしまうと便利です。

あぢかまの
   塩津(しほつ)をさして 漕ぐ舟の
 名は告(の)りてしを 逢はざらめやも/逢はずあらめやも
          よみ人しらず 万葉集11巻2747

あぢかまの塩津を目指して
  漕いでいく舟に名乗りをするように
    こうして名前を告げたのだから
  逢ってくれないなんてことがあるだろうか

  名乗りを上げる。
 と言えば、一騎打ちの勝負でもいどむようですが、名前を告げるということは、万葉集では、求婚の手続きとして詠まれるのが普通です。特に男性がみずからの名を名告り、その問いかけに対して女性が実名を明かすと、求婚に応じたことになる。その名告りに、船乗りが、確認のために名乗りをあげることを掛けています。

 つまり上の句は、ただ三句目の「漕ぐ舟」を説明するための、下の句とは関わりのない序詞(じょことば)になっていて、あらためて「漕ぐ舟のように名告りをしたのだから」と下の句が、訴えたいことをまとめます。何かになぞえるジャンルであればこそ、このような序詞を使用したものが多いのが、器物破損、じゃなかった、寄物陳思(きぶつちんし)の特徴だと言えるでしょう。

 ところで冒頭の「あぢかまの」は「津」の枕詞とも、地名であるとも結論は出ていないようです。「漕ぐ舟の名告る」というのは、乗るために自分が名乗るのか、舟側が名乗るのか、わたしにはちょっと調べきれませんでした。あしからず。

あぢの住む
   渚沙(すさ)の入江(いりえ)の ありそ松
 我(あ)を待つ子らは たゞひとりのみ
          よみ人しらず 万葉集11巻2751

アジガモの住む
  渚沙の入江の荒磯松(ありそまつ)
 わたしを待つ恋人は
    ただあなたひとりきり

 松に寄せる短歌。
  これも上の句が序詞です。
「あぢ」は魚ではなく、アジガモのことですが、それにしても、よほどこじつけなければ、「荒磯松」の「まつ」と「わたしを待つ」の「まつ」には、なんの関係も見られません。けれども「荒磯松の松ではないが、わたしを待つ」という語呂合わせによって、これも序詞と見なされるのです。しかも勅撰和歌集の時代よりも、強引な序詞が多いのが、万葉集の特徴ともなっています。

 ただし、「松」に「待つ」を掛け合わせるのは、言葉の霊力が信じられていた当時の観念ではむしろ必然であり、人を待つのは松の木であるという意識が、共通概念にあったため、私たちがただ木の本で待っているようには、感じなかったかとも思われます。したがって、掛け合わせも単なるゴロ合せには取られなかったのではないでしょうか。
 今はわたしたちの感覚に則って、話を進めます。

 ただ、このような序詞も、段々慣れてくると、たとえば、
    「あぢの住む渚沙の入江のありそ松」
などと、歌でも歌っている時に、たまたま松が出てきたものだから、ふと「待つ」ということが思い出されて、そこで歌を止めて、「そういえば」と語り出したような印象。つまり、脈絡のつながっていない前後に、詠み手が、ふと思いを移しかえたような印象が籠もりますから、そういうものだと思って眺めていると、次第にその断絶が、気にならなくなってしまう。それどころか、慣れれば慣れるほど、つながりのない二つの内容が、一つの詩に溶け込んで感じられてしまう。
 そんな麻薬のような魅力も、
   ちょっとだけあるのです。

 あるいは、この序詞というのは、何かを詠む時の常套手段として、他者の引用や、みずからあらかじめ作って置いたものとして、詠み手のポケットに、ある程度、準備されているものだったのかもしれません。万葉集の特徴の一つに、その場で語りかけるような即時性があげられますが、序詞というものは、それとは反対の、きわめて様式化された、詩的表現になっている場合が多いのが特徴です。

 これによって、五句あるうちの、二句なり三句を埋めることが出来ますから、簡単な思いつきを、その場で短歌として詠みなすのに、きわめて便利ですし、熟れた表現であるために、序詞を使用するだけで、短歌らしく詠むことが可能です。枕詞や、序詞というものは、その由来はともかく、和歌をその場で詠みなすために、「取って置かれた表現」だったのかもしれませんね。(万葉集の時代の短歌は、後の時代のものよりも、その場で口で詠まれるものとしての傾向が強いですから。)

わぎも子が
   袖を頼みて 真野(まの)の浦の
  小菅(こすげ)の笠を 着ずて来にけり
          よみ人しらず 万葉集11巻2771

あなたの袖があるものだから、
   真野の浦名産の小菅の笠を、
 付けないで来てしまいました。

  こちらは草に寄せる短歌。
 時代劇などではよく菅笠(すげがさ)が登場しますが、それはカヤツリグサ科の菅(すげ)、特に笠菅(かさすげ)という湿地に群生する植物から作られたものです。ここで「小菅の笠」というのも、やはり雨をよけるためのものです。それで内容は明らかだと思います。油断して傘を持たずに、途中で雨に降られたのを、
     「君の袖が守ってくれると思って、
       傘を持たずに来ちゃったよ」
 もちろん、袖が雨除けになるとは思えませんが、要するに彼女の家に泊まって、雨をしのぐということと、彼女の袖に触れる距離にいたい、ということを表明しているに過ぎません。菅(すげ)の名所としての地名を織り込むことによって、ちょっと様式化された、短歌らしく響いて来る。このくらいの修辞は、見習いやすいのではないでしょうか。

  ではせっかくですから、
   地名を利用すした短歌を、
  いくつか詠んでみましょう。
 地名に限らず、改まって名称を述べると、第三者に語りかけた風になりますから、聞き手にとっては理解しやすい、作品としての価値を有します。ただし、同時に内容が客観的になり、その場で語りかけるような効果を遠ざけますから、単なる説明書きに陥る危険性もはらんでいます。(ちょっと大げさですが。)要するにバランスの問題ですが、バランスの問題は、継続的に短歌を詠んでいるうちに、少しずつ整えられるようなものですから、今はここにある注意を、頭の隅にでも入れながら、自らの信じるとおりに、詠みまくってみるのがお奨めです。
 今回は、寄物陳思はやりませんので、自由な詠み方で、ともかく地名を折り込んでください。実際にいる場所でも構いませんし、万葉集の例のように、名産品の地名でも構いません。


また仕事?
   あなた来れない 勝沼の
 ワインレッドな ため息もして
          時乃遥

西表
  山猫食って 豚箱に
    それから俺の やくざ人生
          いつもの彼方

     「嘘つき」
跳ね遊ぶ
  静かの海に うさぎたち
    竹取姫の 腕に抱かれて
          空想歌 時乃旅人

 いかがでしたでしょうか、時節を定めてしまえる季語や季題と同様、場所を定めてしまえる地名も、手短に聞き手に情景を浮かばせる、もっとも効率的な名詞には違いありません。これらを効果的に利用することが、短歌の向上の基礎にもなる訳です。

玉の緒(を)の
  くゝり寄せつゝ 末(すゑ)つひに
    行きは別れず おなじ緒にあらむ
          よみ人しらず 万葉集11巻2790

紐に宝玉を通して
  くくり寄せていけば 紐は最後には
 行き別れにはならず 結ばれる
   そんな風になりたいものです

 「玉の緒(たまのお)」というのも、
  しばしば登場する言葉です。
 これは、お坊さんの数珠や、あるいは真珠のネックレスのようなものを想像していただければよいのですが、丸い宝玉など、つまり「玉」をくくり結んでおく紐のことを「玉の緒」と呼びます。そこから「短い」「わずかな間」といった意味が派生して、さらには「人の命」を表わすようにもなりますが、この短歌は大もとの紐の意味。

  それでこの和歌は、
 一周分、玉を連ねながら、両側の紐をくくり寄せて結んだら、最後には行き別れになっていたはずの紐も結ばれて、一つの切れ目のない紐になるように、そんな風に、私たちもありたいものです。そう詠んでいることになります。現在は別れているけれど、いつかは一つになる、と詠むよりも、「くくり寄せつつ」と詠んでいる二句目に注目して、現在は結ばれている途中だけれど、つまり恋の半ばだけれど、と読み解くのが良いかと思われます。

問答

 さて、「問答(もんどう)」というのは、勅撰和歌集の時代には「贈答歌(ぞうとうか)」と呼ばれるもの。短歌による送信と返信をセットにしたものに他なりません。それだからこそ、相聞のジャンルにふさわしいものとして、ここに置かれているのも、もっともなことです。せっかくですから、ひとつ眺めてみましょう。

我妹子(わぎもこ)に 恋ひてすべなみ
  しろたへの 袖かへしゝは
    夢(いめ)に見(み)えきや
          よみ人しらず 万葉集11巻2812

あなたのことが 恋しくてたまらずに
  (しろたへの) 袖を返して寝たのは
     夢に見えませんでしたか

我が背子(せこ)が
  袖かへす夜の 夢(いめ)ならし
    まことも君に 逢ひたるごとし/逢へりしごとし
          よみ人しらず 万葉集11巻2813

あなたが袖を返して 寝た夜の夢でしょう
   ほんとうにあなたに 逢ったようでしたよ

 はじめが男からで、
  答えが女からです。
 袖を返して寝るというのは、当時の俗信で、袖のところを裏返して寝ると、夢に恋人が出てくるというものです。一方で自分が相手のことを思っていると、相手の夢の中に現われる。相手が自分のことを思っていると、自分の夢の中に恋人が現れる。という俗信もあります。

 それで、男の方は、自分の夢に出てきて欲しくて、袖を折り返して寝ましたが、それほどあなたを慕っているのだから、そのわたしの姿が、あなたの夢には出てきませんでしたか。そう問いかけている。それに対して女性の方は、もし
     「ああ、あなたが袖を返していた夢のことね」
     「あなたが袖を返して寝た夢のことね」
と答えたなら、分かりやすいかと思います。

 つまり男は、自分の夢に相手が来て欲しかったのに、見られなかった。それで思いが強すぎて、夢の中の自分が、相手の方に出張してしまったのだろうか。だから相手の方は、自分の夢には来なかったのだろうか。といぶかしがって、和歌をしたためた。それに対して相手の女性は、「袖を返す姿で見ましたよ。本当にあってる見たいに。」と機知をまじえて返したという分かりやすい内容になります。

 しかし、実際の短歌では、わざわざ「袖かへす夜の夢ならし」と言っているのが不自然です。「ならし」というのは「~であるらしい」「~であるようだ」といった表現ですから、「夜の」さえなければ、
     「そうそう、確かに、
       あなたが袖を返している夢だったみたい」
と男の短歌に乗ったような印象ですが、
  あえて「夜の夢であるらしい」なんて付け加えたために、
     「ああ、あなたが袖を返して寝たとか言う、
       あの例の夜の、夢のことであるらしい」
と疑惑を挟むような、響きになってしまっている。

 その疑惑のせいで、下の句の「本当にあなたに逢ったようでした」という返答も、「あなたの思い入れが強すぎて、わたしの夢にはっきり出ていました。本当にあえたみたいでしたよ」と男性の言葉に乗るようなものではなく、まるで、
     「逢えない思いで袖を裏返したけど」
と述べる男性の問いかけに対して、
     「おかげで、実際のあなたに逢えたみたいでしたよ。ごちそうさま。」
と突き放しているような気配がこもりますから、互いの贈答のトーンが、まるで噛み合っていない。さらに二人が「我妹子」「我が背子」と呼び合うような、親しい仲にあることから、導き出されるものは……

 つまり、もっともしっくり行く解釈は、
  男の方は、逢うべき夜に何らかの都合で、
 女の元に行けなかった。それで言い訳に、逢いたかったけど逢えなかったので、袖を裏返して寝たけれど、これほどあなたのことを思っているのだから、あなたの夢にも見えたのではありませんか。つまりは言い訳をしながら、「本当は逢いたいという私の心は、通じているのではありませんか」と短歌で弁明を試みている。
 それに対して、女性の方は、
  ああ、そのあなたが袖を返して、
   眠ったとか言う、あの日の夢ですか、
  思ってくださって、おかげさまで、
 本当にあなたに逢っているような、
夢を見させていただきました。
 誠にありがとうございました。ふん。
  と、ちょっと突っぱねている、
   あるいはすねているような印象です。
    男が返事を聞いて、真っ青になったのは言うまでもありません。

比喩

 これまでに見たように、万葉集で「比喩歌(ひゆか)」に分類されるのは、(厳密でない場合もありますが、)和歌が述べている本意と、異なる意味を内包するものです。もちろん恋愛にこそふさわしいものですから、しばしば恋歌で利用されています。ちょっと覗いて見ることにしましょう。

三島菅(みしますげ) いまだ苗なり/にあり
  時待たば 着ずやなりなむ
    三島菅笠(みしますがゝさ)
          よみ人しらず 万葉集11巻2836

三島江(みしまえ)の菅は いまはまだ苗だけど
  時期を待っていたら
    着られなくなりはしないか
  三島の菅笠を

 菅(すげ)が成長して、刈り取りの季節には、もう誰か他の人が刈ってしまって、自分はそれを菅笠にして、かぶることは出来なくなってしまうのではないか。それだけの内容ですから、生産者の縄張り争いのように聞こえますが、それにしては自分が着られなくなるというのは、ちょっと刈り取りの争いにしては、比喩に飛躍があるように思えます。

 そのような、おもての意味のちょっと不自然な所から、裏の意味が推し量られて、つまりは、知り合いの娘さんが適齢期になる頃には、名産品の菅笠のように、すばらしい女性だから、他の男に奪われてしまうのではないか。
 ……とまあ、
  いつものパターンに落ち着くわけです。はい。

 この短歌、冒頭と結句を「三島菅」でリズムを整えている上に、最後を名詞で留める「体言止め(たいげんどめ)」を利用しています。さらに「今は苗」「時またば」と常套手段の対比を使用して、全体が素朴な語り口調でありながら、同時に短歌の形式的が整えられています。それでなんだか、短い歌謡のワンフレーズのように聞こえるのです。

 このような様式というものは、必ずしも相手が明確に構成を悟らなくても、ただ何となくまとまっている感じとか、なんとなく心地よい表現に思われるくらいには、察知されるものですから、それだけに通の為のさらなるステップなどではなく、誰にでも感じ取れる、詩の大枠には過ぎないものです。

 それで皆さまは、これまでは、もっぱら、素直な語りかけ、素直な記し方をモットーに短歌を詠んできましたが、同時にそれが三十一字(さんじゅういちじ)の短歌という形式で詠まれたら、それは第三者からは、一つの作品として把握され、実際に語りかけられたのとは、異なる価値基準で判断され、評価されるという事についても、考えを巡らせて頂けたらと思います。

、そして、短歌の様式ということについて、少しずつ、足を踏み入れていくのが良いでしょう。実際に私の提出してる課題は、すでにその領域に、明確に足を踏み込んでいますから、身構える必要はありません。ただ忘れて欲しくないのは、どれほど様式を整えた、構造的な作品を詠む際でも、やはり指標となるのは、自らが本当に伝えたかった思い、それを短歌という詩型にするにはどうしたらよいか、という事にあるのであって、言葉をこね回して作り上げる、品評会の提出物を拵えることとは、何の関係もないということを、記憶に留めてくださったら良いかと思います。

巻第十二

 「巻第十二」は「巻第十一」とペアで相聞になっています。
  おそらくはあまり多いので、便宜上、二つの巻に分けただけではないか。そのくらい、内容は似通っていますが、分類上「旋頭歌」と「比喩歌」が無くて、かわりに「羈旅発思(きりょはっし)」、つまり旅の和歌と、「悲別歌」が加えられています。やはり正述心緒(せいじゅつしんしょ)寄物陳思(きぶつちんし)がメインですが、この風変わりなジャンルの名称は、『柿本人麻呂歌集』にあったものを、そのまま流用したために、ちょっと場違いな名称のように、「巻十一」と「巻十二」を占めているようです。ただ、内容を表現した言葉としては分りやすいので、どうせ万葉集を眺めるなら、覚えておくと、会話でもしたときに、「こいつ知ってるな」とちょっと思わせるくらいの楽しみはあるかもしれません。

正述心緒(せいじゅつしんしょ)

立ちてゐて
   すべのたどきも 今はなし
 妹に逢はずて 月の経ぬれば
          よみ人しらず 万葉集12巻2881

     ある本の歌にいはく、
       「君が目見ずて 月の経ぬれば」

立ったり 座ったりしながら
  どうしたらよいのか 全く分らない
    あの人と 逢わないままで
  月が過ぎてしまったので

 「立ちて居て」というのは「立ったり座ったり」落ち着きがないことで、「すべ」は「なすすべも知らない」の「すべ」、つまり「手段、すべき方法」などを表わします。「たどき」というのは、「手がかり」「手段」の意味ですから、二句三句は今日なら、「どうしたらよいのやら分らない」くらいのニュアンスですから、内容は分りやすいと思います。ところで……

 ここで紹介したかったのはただ、
『万葉集』の和歌には、「ある本にはこうある」など、注意書きで別の詩を紹介した和歌が多数存在します。その掲載の仕方はさまざまですが、この短歌のように、一方が男性の短歌(「妹」と呼びかける)、一方が女性の短歌(「君」と呼びかける)になっているようなものも、しばしば見られます。

 あるいは、「Happy Birthday to You」の歌のように、既存の和歌は、共有財産として、歌い変えられるような側面があったのでしょう。類似の序詞が使いまわされたり、既存の和歌のフレーズを改編して折り込んだものが、しばしば見られるのは、ほんの一言くらいに自分の所有権を主張するような、病的な精神とは異なる価値観が、そこに存在していたことをほのめかすように思われます。
  ただそれだけのコラムでした。

人言(ひとごと)を 茂(しげ)み言痛(こちた)み わぎも子に
  去(い)にし月より いまだ逢はぬかも
          よみ人しらず 万葉集12巻2895

世間のうわさが はげしくて うるさいので
  愛するあの娘(こ)に 前の月から
    ずっと逢えないでいるのです

   「ひとごとをしげみこちたみ」
  なんだか呪文みたいな表現が登場しました。
 まず「人言(ひとごと)」ですが、これは「人の言うこと」より広くは「人のうわさ」「評判」を表わします。「茂み」は、「しきりだ」「頻繁だ」の意味の「茂し」を、例の「ミ語法」で名詞化したもの。「しきりなので」という意味になります。

 それに対して、「言痛み」は「言痛し」、つまり「人の言葉がうるさい」「わずらわしい」という表現を、ミ語法で「言痛(こちたみ)み」と名詞化したもので、「言葉がうるさいので」という意味になります。

 また「茂み言痛み」は、おなじ「ミ語法」による類似の表現を、連続使用した例の対句(ついく)になりますから、冒頭からの内容は、「人のうわさが頻繁でうるさいので」と読み解けます。

 それで全体は、[状況の理由]⇒[状況]という分かりやすい構図になっていて、その中に、対句が使用されていて、ただ「ずっと逢えません」と白状するのとは違って、様式化された詩の中での表現に移し替えられている。という仕組みです。

いとのきて
  薄き眉根(まよね)を いたづらに
 掻(か)かしめつゝも 逢(あ)はぬ人かも
          よみ人しらず 万葉集12巻2903

ただでさえ薄い眉毛を
 なんの甲斐もなく わたしに掻かせながら
  逢わないあなたよ

 「いとのきて」は枕詞ではありません。
「いとどしく」などと同じく、「とりわけ」「特別に」「ただでさえ」といった意味の副詞です。これで意味は伝わりますが、どうして眉毛を掻いているのがが分りません。

 実は当時の俗信に、「眉毛がかゆいと恋人が来る」というのがありまして、それを積極的に推し進めて、「恋人に逢いたくて眉毛を掻く」という行為に走る、恋愛症候群な方々も、また多くいたわけです。つまりは詠み手も、恋人に逢いたくて、自分から眉毛を掻いているのですが、そうは詠まずに、
     「あなたが掻かせているのに、
       どうして逢ってくれないの」
と問いかけて見せるのでした。

 和歌に接すると、
  特に恋歌などで、このように、
 自分の気持ちをストレートには表わさないで、相手にゆだねるような表現に出くわしますが、それはなにも現代人とは違って、慎みや奥ゆかしさがあった、などと述べるつもりはありません。もっと本質的なところでは、
     「あなたに逢いたくて眉毛を掻いてます」
だと、完全な自発的行為として捉えられますから、好きでもなければ「そうですか。それはありがとう」くらいで、済ませてしまう人もあるかもしれませんが、
     「眉毛を掻かせながら逢ってくれない人よ」
と問いかけると、詠み手に責任があるのではなく、贈られた相手に責任がなすりつけられた形になりますから、相手は何か返事をしなければ、済まないような気分にさせられる。

 つまりは、返答を求めるがゆえに、わざと、このような表現が模索されるのです。そして、恋愛というものが、相手との関わり合いを求めるものである以上、贈答のために書かれた場合でなくても、思う相手に対して、返事を期待するような表現にゆだねてしまいがちなのは避けられません。あるいはそれは、今でも変わらないのではないでしょうか。

 それにしてもこの和歌。あるいは眉毛が薄いのは、掻きすぎて抜け落ちたのではないか。そんな邪推も加えてみたくなるくらい、喜劇と悲劇が融合しているような、ユーモアともどかしさが、まざりあった短歌になっています。

他国(ひとくに)に よばひに行きて
  大刀(たち)が緒(を)も いまだ解かねば
    小夜(さよ)そ/ぞ明けにける
          よみ人しらず 万葉集12巻2906

よその国に 夜這いに行って
   大刀の紐を まだ解かないうちに
 夜が明けてしまったよ

 さて、「夜這ひ(よばひ)」というのは、「呼ばふ」から生まれた言葉とも、それは誤りだとも言われますが、当時はホテルもありませんでしたから、基本恋人たちの関係は、男が女の元へ通って、語り合ったり組んずほぐれつしてみたりするようなものでした。この、恋人の元へ通うことを、「よばひ」と呼びます。外にも「妻問(つまど)ひ」という表現もあります。

 男性が通うという習慣は「待つのは女」という、和歌に置いて本質的な恋愛のパターンを生むことにもなるのですが、元来は、女性の地位が高かったため、家というものが、女性中心に把握されていたということも関係があるようです。それで男は、女のもとへ通っていく。同居する場合でも、女性の家に入り込む。あるいは二人で家を持つこともあったようですが、逆に男の家に女が入るというのは、ずっと後になってから起こったことのようです。

 ところでこの和歌、
  ちょっと他のものと比べて、ユニークに聞こえるのは、
 より古い歌謡をもとに、詠みなしたものであるからのようです。

うつゝにか 妹が来ませる
    夢(いめ)にかも 我(あれ/われ)か惑(まと/まど)へる
  恋のしげきに
          よみ人しらず 万葉集12巻2917

あれ、本当にあの娘(こ)が来たのか。
  いや、夢のなかを、わたしはさまよっているのか。
    恋しさのあまりに……

  内容は、きわめて分りやすいと思います。
 しかも、フロイトにかぶれた訳でもないようですが、夢の中にいるときの感覚を、よく捉えているようです。つまりは、夢の中にいると、あまりにもリアルに相手の表情まで分かって、自分は現実に接しているようにしか感じられない。けれども時折、つじつまが合わなくなって、なんだかおかしいな、あるいはこれは夢なのかもしれない。そう思うことがある。

 実際に夢の中で、そのような感覚に囚われたことのある人ならば、夢の不思議を、うまく詠みなした短歌が、千年以上前にあるなんて、と感心されるくらいではないでしょうか。それとも、これくらいの着想すら、大陸の影響で芽生えたものでしょうか。それはもとより、わたしには分かりかねます。

おのがじゝ 人(ひと)死にすらし
  妹に恋ひ 日に異(け)に痩せぬ
    人に知らえず
          よみ人しらず 万葉集12巻2928

それぞれの理由で 人は死ぬものらしい
  私は あの娘(こ)への恋しさに
    日ごとに やせ衰えていく
      あの人に知られないまま……

「おのがじし」というのは「己が為々(しし)」、つまり「各自がそれぞれに」といった意味です。「日に異(け)に」は「日ごとに異なり」から「日が変わるごとに」「日に日に」「日増しに」といった意味になります。ですから「恋しさのあまり衰えて死んでしまいそうだ」というだけの短歌ですが、それを主観的には述べないで、「人はそれぞれ死ぬものらしい」などと、客観したような表現から始めたものですから、詠まれた精神は、少しく観念的になっている。そのため「僕もう死にそうだよ」のような主情に落ちぶれず、ある種の格調を保っている。
 もとより、ほんの少しの格調に過ぎませんから、
  「僕もう死にそうだよ」がちらちらしてはいますが、
 まあ、そこが取りどころでしょうか。

寄物陳思(きぶつちんし)

十五日(もちのひ)に/の
   出(い)でにし月の 高々(たか/\)(たか/”\)に
 君をいませて 何をか思はむ
          よみ人しらず 万葉集12巻3005

十五夜にのぼる満月を待つように
   こころを高まらせて待ちわびた
  あなたがいらっしゃってくださって
    もう何も煩(わずら)うことはありません

 この「高々」は、来訪を待ちわびる気持ちを表現したもので、むしろ背を高くするように待ちわびる意味ですが、現代語は分りやすいように、ちょっとアレンジしてあります。はじめの二句が、「高々」に掛かる序詞になっていますが、同時に相手を満月に喩えてもいるようです。「いませて」というのは敬語ですから、それで全体の口調から、自分より身分の高い相手に対して、歓迎の意を表わしていることになります。

  もちろん月に寄せて、
 思いを詠んだ寄物陳思(きぶつちんし)ですが、敬意を表すべき相手に対する、歓迎の短歌として、必ずしも恋愛とは限らない、広義の「相聞」の和歌だと見ることが出来るでしょう。

朝(あさ)な朝(さ)な
   草のうへ白く 置く露の
 消(け)なばともにと 言ひし君はも
          よみ人しらず 万葉集12巻3041

朝ごとに草の上に
  白く置かれる露が
    消えるのなら一緒にと
  言ってくれたはずのあなたは……

「はも」は「~はもうなあ」「~はなあ」といった詠嘆で、次に続きそうな文脈を、省略したような印象がこもる表現ですから、使われる場所によって、ニュアンスが変わってくるようです。大分慣れてきましたから、お気づきの人もあるかと思いますが、上の句は序詞になっていて、「消えるなら一緒と言ったのに」の「消える」の比喩を、担っています。

 あとはその比喩がすばらしければ、
  魅力的な短歌になるかと思われます。
   この作品はいかがでしょうか。

 それでは、大分眺めましたので、ここで寄物陳思の短歌を、いくつか詠んでみましょう。単なる比喩というよりも、「~に寄せて」詠むことがポイントで、今の短歌なども、「あなたの語った露に寄せて」今の心情を詠ってますし、
     「逢わないで占いをするから袖が足りなくなる」
ことに寄せて、逢いたい思いを表明したり、
     「床を払って待つうちに傾く月」
に寄せて、来てくれないもどかしさを表明したり、
     「雨が降る」あるいは「土になりたい」
などの対象に寄せて、「あなたの家に寄りたい」「あなたと触れ合っていたい」ということを表明する。このように捉えて、詠んでみると、作りやすいかと思います。ただし、これまでのものよりは、ちょっとだけ難題です。


     「やっぱ俺が先陣だろ」
四番にも
  三連続の ストレート
    そいつが俺の 愛し方だぜ
          いつもの彼方

     「じゃあ真ん中」
蓋の奥
  籠もるさざえの 恥ずかしさ
 走ろうとして 街で転べば
          白状歌 時乃旅人

     「取りはわたし」
寄せ波
  打ち返しては 打ち寄せて
     波に返して 恋わすれ貝
          時乃遥

問答歌(もんどうか)

 十二巻の問答には、
   分りやすくて面白いものがありますから、
     一つ二つ、眺めてみましょうか。

ねもころに 思ふ我妹(わぎも)を
   人言(ひとごと)の しげきによりて 淀(よど)むころかも
          よみ人しらず 万葉集12巻3109

親愛に 思っているあなたですが
  人のうわさが 絶えないものですから
 流れが淀むように 逢えないでいるこの頃です

人言の しげくしあらば
   君も我(あれ/われ)も 絶えむと言ひて 逢ひしものかも
          よみ人しらず 万葉集12巻3110

人のうわさが はげしくなったら
  あなたもわたしも 別れようと言って
 わたしに 逢ったのですか

 「ねもころに」は「ねんごろに」の古い形ですから、「心がこもっているさま」「親しい様子」を表わします。意味は分りやすくて、「そんなの言い訳になんないわよ」という女の和歌も、三句目にわざと改まって「あなたもわたしも」と言い加えたところに、気持ちが籠もっていて、おもしろく詠まれます。

すべもなき かた恋をすと このころに
  我(あ/わ)が死ぬべきは 夢(いめ)に見えきや
          よみ人しらず 万葉集12巻3111

夢に見て ころもを取り着(き) よそふ間に
  妹がつかひそ/ぞ 先立(さきだ)ちにける
          よみ人しらず 万葉集12巻3112

 これも簡単で、しかもおもしろい。
  まずは女の方が、思えば相手の夢に現れるという俗信に基づいて、

やり場もない、片思いをしているこの頃です。
  わたしが死にそうなのが、夢には見えませんでしたか。

 それに対して、男の答えが、

見ました、見ました。
  それで服を準備して着ている間に、
 あなたの使いが、こうして先に着たところです。

と、たわいもない冗談で返している。
 もちろん、相手の女性が本当に片思いをしていたら、このような返事にはなりませんし、本気で来ないのを怒っていたなら、火に油を注ぐような冗談にもなりかねません。それでおのずから、幸せなカップルが、女性はちょっと逢えないのをわざとすねてみせる、男の方は諧謔(かいぎゃく)めいた冗談で返してみせる。
 屈託もないような順風の、
   シーズンを迎えているかと思われます。

羈旅発思(きりょはっし)

 「羈旅発思(きりょはっし)」は、旅先で思いを発するくらいのものです。すると自然に、男が故郷や、妻や恋人を思う和歌が、メインになるのはもっともです。さっそく眺めてみましょうか。

遠くあれば 姿は見えず
   常(つね)のごと 妹が笑(ゑ)まひは
  おもかげにして
          よみ人しらず 万葉集12巻3137

遠くにいるから 姿は見えませんが
  またいつものように 妻のほほえみが
 まぼろしとなって 浮かんでくるのでした

「ゑまひ」というのは、「ほほえみ」のことで、他にも花のつぼみが開くことも指します。じつは花のほころびるのと、「笑(え)む」ということは、もともと近しい関係にあって、今日でも「咲む」と書いて、「えむ」と読むくらいですが、この和歌の原文にも「笑」ではなく「咲」が使用されている程です。なるほど、旅先にあって、ふるさとの花の開くのを思うのも、妻のほほえみを浮かべるのも、おなじ旅情へと、つながってゆくには違いありません。

草枕 旅の衣(ころも)の 紐(ひも)解けて
  思ほゆるかも この年ころ/ごろは
          よみ人しらず 万葉集12巻3146

(くさまくら)
   旅先に着物の 紐が解けてしまい
  妻のことが思い出されます ここ数年の間

「草枕」は「旅」に掛かる枕詞として、また夏目漱石のすぐれた文学作品として、名前だけはしられた言葉です。「衣の紐解けて」とあるのは、服の紐が自然にほどけるのは、恋人が自分を思っているから、という俗信にもとずいています。それで「紐が解けて思い出される」なら、わたしを待っている妻が、ということになる訳です。それほどの短歌でもありませんが、「草枕」と「俗信」を紹介するために、ちょっと加えて起きました。

悲別歌(ひべつか)

 『悲別歌(ひべつか)』の基本は、先ほどの『羈旅』に対して、残された哀しみを歌うもので、恋人や良人(おっと)との別れや、待ちわびる心を歌ったものです。

ひさにあらむ 君を思ふに
   ひさかたの きよき月夜(つくよ)も
      闇のみに/夜に見ゆ
          よみ人しらず 万葉集12巻3208

ずっと逢えない あなたを慕うと
  (ひさかたの) 清らかな月夜さえ
     暗闇のなかにいるようです

 「久にあらむ」というのは、帰るまでは「久しい」状態にあるだろう、つまり長らく逢えないという意味です。「ひさかたの」は天に掛かる枕詞ですが、その天にあるものとして、直接「月」「日」「雲」などにも掛かります。そしてもちろん、初句と三句目の「ひさ」で、言葉のリズムを、整えてもいるのです。

問答歌(もんどうか)

 ここの「問答歌」は、旅の和歌に関連した問答を収めています。つまり「羈旅」「哀別」の続きという訳です。ひとつだけ紹介しておきましょう。

十月(かみなづき/かむなづき) しぐれの雨に 濡れつゝか
 君が行くらむ 宿か借(か)るらむ
          よみ人しらず 万葉集12巻3213

十月の時雨(しぐれ)に濡れながら、
  あなたは旅路をゆくのでしょうか。
 それとも宿を借りているかしら。

十月 雨間(あまゝ)も置かず 降りにせば
 いづれの里の 宿か借(か)らまし
          よみ人しらず 万葉集12巻3214

もし十月の雨が、時雨のようにすぐに止むものでなく、
   ずっと降り続けるものであったとしたら、
 わたしもどこかの里で宿を借りたものでしょうが。

 さて、妻の手紙はともかく、
  おっとの返信は不自然です。
   返事の仕方が普通ではありません。
  そのちょっとおかしなところに、
 真実が隠されている。
  これもまた、
   和歌におきまりのパターンだと言えるでしょう。

 まず夫(おっと)の短歌から、表現上難しいところを説明しておきましょう。それは反実仮想(はんじつかそう)という表現です。その定義は、

「現実に反することを想定すること。
あるいは仮想すること」

とあります。ややこしいものが出てきたので、
  がっかりされた人もあるかもしれませんが、
  実際はそれほど難しい物ではありません。現代語なら、
     「雨が降ったら、中止です」
と表現すれば通常の文ですが、
  もし試合会場が屋内であるのに、
     「もし雨が降ったならば、
        試合も中止になりましょうが」
 実際は屋内で、雨も降りませんから、たとえあなたが尻込みしても、もう試合を取りやめには出来ないよ。覚悟しなさい。と、このように、現実には起こらないことを仮定して、わざと「もしそうなったら中止になるでしょうが」と推量にゆだねてみせる。すなわちこれが「反実仮想」という表現です。

 古文ではしばしば、この短歌のように、
     「~せば、~まし」
という語法で、事実に反する事を仮想します。もちろん当時の人々が、文法の教科書を元にして、このような表現を試みた訳ではありませんから、彼らが使用していた、おきまりのパターンが、後になって「反実仮想」というような、恐ろしい名称となって、受験生を苦しめているようなものなのです。

 これが分れば、夫からの返事を、
  「もし雨がずっと降り続くなら、宿も借りるでしょうが」
と読み解くことが出来ると思います。それにしても……

 はたして夫は、この表現によって、
  「わたしは実際は、濡れながら旅を続けている」
と、妻の疑問に答えたとでもいうのでしょうか。あまりにも不自然です。そうしてその不自然は、「濡れながら旅をしてるのかしら」と心配するだけで十分なところを、あらためて「宿か借るらむ」と言い直したような、妻の手紙が原因になって引き起こされているようです。

 もうお気づきでしょう。
  妻がどの程度の意味を込めて、結句に言い直しを加えたかは分りません。ただ夫の方は、その言葉にこそ、意味が込められていることを感じ取った。しかも空とぼけて、「雨に濡れながらお前のことを思っているよ」とでも返事をすればいい物を、妻の短歌の結句だけに着目してしまったような内容の短歌を、しかも普通の表現ではなく、
     「時雨の雨が止まないなんてことがあれば、
         宿を借りるということもあり得るが……」
などと、旅路で宿を借りるくらい、あっても良い筈なのに、借りていないと嘘を付くことも出来ず、逆に借りたと白状することもなく、借りたのだか、借りてないのだか、よく分らないような返事をして、何かを誤魔化そうとしている。

 なんという失態でしょう。
  こんな下手な誤魔化しがあるでしょうか。
 おそらく妻には、夫が宿を借りて、いや、宿と称して旅先の女の所に転がり込んでおきながら、それをあまりにも不体裁に弁明する、夫の姿しか浮かんではこないのでした。それにしても……

  こんな問答を撰び乗せる、
 『万葉集』の魅力には感心しますが、夫の言い訳があまりにも不体裁なものですから、実際の状況は、妻はすでに他の女と一緒にいることを知って、あえてこのような短歌で、探りを入れて来た。男はすでに悟られたことを察知して、こんなしどろもどろの、短歌で返したというのが、この二つの短歌から導き出せる、最良のシチュエーション(といっては失礼ですが)なのではないでしょうか。

 もちろん当時は、たったひとりの妻だけという、
  時代精神や社会ではなかったでしょうが、
   その心情には、変わらないものがあるようです。

まとめ

 相聞については本文で話した通りですが、今回、特に大切な点は、短歌というものは、語りや散文ではなく、あくまで様式化された詩文であるということです。ですから、心情を大切にするのはもちろんですが、第三者が詠んで共感しながらも、優れた作品であると思わせるためには、表現を整えて、短歌としての様式化(ようしきか)を計ることが必要になってきます。

 ただ、その実践については、これまでも少しずつ見てきましたし、これからも少しずつ眺めながら、知識を増やしていこうかと思います。次回はそんな実践についてよりも、『万葉集』のユニークな章の説明をすることを中心に、引き続いて「巻第十三」以降を眺めていくことにしましょう。

               (つゞく)

2016/04/30
2016/06/08 改訂

[上層へ] [Topへ]