はじめての万葉集 その一

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はじめての万葉集 その一

はじめに

 さて、『万葉集(まんようしゅう)』の魅力はなんですかと尋ねれば、歴史や伝統やら文化をかかげる先生方が、それぞれ能弁に語るでしょう。けれども、たったひとつだけ、理由を挙げるとするならば、それは収められた和歌が、今日においても生きた表現として、つまりは私たちの心に響く詩として、楽しめるからに他なりません。

 なるほど、
  今とは異なる言葉で書かれていますし、
 詠まれた状況や、当時の慣習などが分れば、より深くその和歌にのめり込めますし、それが正しい鑑賞には違いありませんが、少しくらいの表現の解説を加えただけでも、私たちの心情に寄り添うような、言葉の砂粒が、浜辺の敷き詰められているからこそ、私たちもこれに、触れてみたいと思うのですし、そうでなければ、歴史的価値など知ったことではなく、骨董品を扱うことはお偉方にまかせて、私たちは放って置いても構わないくらいのものです。

 それどころか、その詩は、
  ちっとも難解なものではなくて、
 どれくらい、私たちの日頃耳にする、ありきたりの流行歌程度の内容で、語られた詩に過ぎないものであるかを紹介するために、通常の名作集とは大きく異なりますが、日常的な語りのレベルに寄り添ったような、たやすい和歌をばかり取り上げながら、とりあえず、『万葉集』全20巻を、さらりと眺めてみるのはいかがでしょうか。
 それを手始めにして、
  次のステップへと、
   足を踏み出すのがゆかいです。

いにしへの 素敵な歌が ありました
 いにしへの 素敵な歌は 歴史やら
  伝統やらを 負わされて
   ありがたがりやのご教授と
    おはなし好きの学徒らの
   かたりの贄(にえ)にされました
  いにしへの 素敵な歌は ほんとうは
   ただあなたが ひとりさみしいときに
    口ずさんでくれたら それでよい
     そう願っただけなのに
    いにしへの 素敵な言葉らは
   こころ削られて なみだです

短歌を作ってみませんか

 もし『万葉集』の和歌を理解したいなら、解説書などを買いあさることではなく、もっとも手っ取り早いのは、自らも短歌を詠んでみることです。おそらく一時間の読書で悟れなかったことが、たちまちのうちに悟れるようになるでしょう。

 スポーツをやらないでそのやり方を勉強したり、楽器も弾かないのにその演奏法を勉強しても、なんの意味もありません。それと同じように、彼らが詠んでいるものは、もっぱら短歌なのですから、その短歌を作ってみるが、彼らのやっていることを、もっともたやすく理解できるのは、むしろ当然のことです。

 古語のことは、くよくよしなくても、大丈夫です。現代語訳されたものを参照に、何度も短歌を唱えていれば、学習帳に言葉を敷き詰めなくても、次第次第に身につきます。そんなことよりも……

 あなたはなんのために『万葉集』を読みたいのでしょうか。
  教養やら伝統などどうでもよくって、
   素敵な詩に逢いたいからではないでしょうか。
    そうして素敵な詩に出会えたら、
   自分でも作ってみたくはならないでしょうか。

 なんの準備も入りません。
  必要なのはただ、私たちが使用している、日常の言葉だけなのです。あとはせいぜい記録のために、筆記用具が必要なくらいです。かつての先輩たちが、なんだか分からないけれど、みんなで寄ってたかって、歌を詠みまくっている。どうも楽しそうだ。それなら、後輩である私たちも、それに釣られて、歌いまくってみたくはならないでしょうか。

 そうやって詠み継がれていくことが、結果として「伝統」であるに過ぎなくて、いつしか詠み手が一人もいなくなって、歌いもしないくせに研究する蟻どもやら、鑑賞がご趣味の鳴かない虫ばかりになったら、蟻ときりぎりす、もはや伝統は、死んだのではないでしょうか。

 そもそも伝統やら、教養やら、国の誇りやら、もうどうだっていい。詠うことはきっと楽しいことだから、そうしてきっと素敵なことだから、よろしかったらあなたも一緒に、短歌を詠んではみませんか。ただそれだけのことなのです。

 そのような訳で、わたしは『万葉集』の紹介をしながら、同時に、皆さまが短歌を詠めるようになり、上達するするための、解説を加えていこうと思います。もちろんそれを無視して、ただ『万葉集』の和歌を眺めることも出来ますが、なんだかつまらなくはないですか。鑑賞は本当に趣味なのですか。好きな音楽があったなら、弾いてみたくはなりませんか。それをもっとも簡単にできる、しかも日本語さえ使えれば誰にでも出来る、もっとも簡単な遊びがあるのです。おにぎりを食べながらでもいい。音楽を聴きながらでもいい。娯楽にのめり込むのは少しやめにして、情報の渦に溺れるのは少しやめにして、ほんの少しの時間くらいでも、よろしかったら一緒にはじめては見ませんか。

  ではノートと鉛筆を用意しましょう。
 もちろんこれは譬えです。テキストファイルでも結構ですし、キーボードで打ち込んでも構いません。とりあえずレシートの裏に、殴り書きをしても良いのです。ただ何より大切なのは、手書きであるか、紙であるかではなく、出来た短歌を、かならず口に出して詠んで欲しいのです。そうして何度も唱えていると、記述した内容が拙くなったり、ちょっと違うように感じてきます。そうしたらまた手直しです。口に出すことが愉快です。表現している実感です。そうであるならば……

 これから紹介する『万葉集』の和歌も、何回でも良いから唱えて見てください。ゼロ回よりは一回です。一回よりは二回です。三回唱えると大抵のことは、分かったような気になります。(もちろん気がするだけですが。)なによりそうすることだけが、和歌を捉えるのに、最良の道しるべとなるでしょう。

『万葉集』について

 『万葉集』の名称は、「万の言葉を集めた集」の意味であるとも、「万世(ばんせい・よろずよ)まで伝えられるべき集」ともされ、他にも諸説あり、はっきりしていません。詠み方さえはっきりしていないのですが、とりあえず私たちは世間一般の「まんようしゅう」と読むことにして、編纂者についても、とりあえずは、大伴家持(おおとものやかもち)(718-785)を当てておきます。完成時期は、おおよそ750年頃から、彼が亡くなるまでのいずれか、ということにして、ともかくはじめの巻に、飛び込んでしまうのが早道です。

巻第一

 「巻第一」と「巻第二」は、もともと二つをワンセットにして、いち早く完成していたものが、『万葉集』に取り入れられたと考えられています。ところで、万葉集の歌の分類は、もっとも大きい枠組みとして、
     雑歌(ぞうか) ……その他ではなく、メインの様々な歌。公的な歌が多い傾向。
     相聞(そうもん)……人同士の愛情の歌。当然ながら恋愛の歌が中心。
     挽歌(ばんか) ……人の死に関する、哀悼など思いを述べた歌。
の三つがあります。そうして、それぞれ、
     巻第一 ……雑歌
     巻第二 ……相聞、挽歌
が収められて、二巻で閉じているのです。

 その内容については、450年代頃に即したかともされる雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の和歌に始まりますが、実際に詠み手が確実で、詠まれた和歌も増加するのは、舒明天皇(じょめいてんのう)(在位629-641)からになります。政治上は、彼の亡くなった後に、645年に乙巳の変(いっしのへん)があり、翌年「大化の改新」がなされます。しかし、663年には白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)における朝鮮半島での大敗、672年の壬申の乱(じんしんのらん)を経て、天武天皇(てんむてんのう)(在位673-686)が即位します。

 その天武天皇とその正妻、つまり後の持統天皇(じとうてんのう)(在位690-697)、および天武天皇の皇太子の和歌などを中心にして、宮廷歌人とも称されることのある、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)(660頃-720頃?)が活躍するのが、『万葉集』の開始部分にあたると、今は捉えておけば十分です。あるいは八世紀半ばの『万葉集』編纂時に対して、伝説の時代とでも呼べるかもしれません。

 それだけに、すばらしい作品が多いのですが、
  実は『万葉集』を近寄りがたくしている原因の、
   根本もあるいはこのはじめの二巻にこそ、
    凝縮されているような気配がします。

 今回は、そららとは関わらず、『万葉集』の和歌が、どれくらいありきたりのことを、記しているのに過ぎないかを中心に、「巻第一」では一首だけを紹介してみることにしましょう。

 それではノートを開きましょう。
  ついでに見出しも付けましょう。
   「はじめての万葉集、巻第一」
  日付も西暦から付けましょう。
 そしたら準備は完了です。

 たとえば今あなたが、朝早くに山登りをしていて、
   「この山は、朝寒いなあ、
      誰か上着貸してくれないかな」
と思ったとします。そうしたら恋人の顔が浮かんで来て、なんだか彼女なら、やさしくジャケットでも掛けてくれそうな、なつかしいような恋しさがあふれてきた。それを[五七五七七]の短歌にするとしたら、どのように読まれるでしょうか。さっそく短歌を詠んでみましょう。思ったままで結構です。少々の字余りも構いません。字足らずだって良いのです。

この山を 旅する朝は 寒くって
  あなたがジャケット 掛けてくれたら

 あるいはこのくらいでも、
   初めはなかなか浮かばないかも知れません。
  けれどもありきたりの日本語ですから、
    もっとうまく出来た人もいるかも知れませんが……

 さて、例えば、この短歌を手直しして、
   冒頭の「この山」はちょっと曖昧だと思って、
     具体的な山の名称に、置き換えてみたらどうでしょう。
  そうしたらもう次の短歌と、
    言っていることは、それほど変わらなくなります。

宇治間山(うぢまやま) 朝風寒し
   旅にして 衣(ころも)貸すべき
  妹(いも)もあらなくに
          長屋王(ながやのおおきみ) 万葉集1巻75

宇治間山は 朝風が寒い
  旅をしていて 服を貸してくれる
   恋人さえいないのに

 ただ、私たちが作ったものは、
  安易に回想されるような恋人で、
   寂しさくらいで済んでいるようです。
    長屋王の場合には、旅さきにあって、
   妻、あるいは恋人に逢えない心のすき間が、
  朝風の冷たさと重なり合って回想されますから、
 ずっと切実に響きます。
  そうして、これくらいで、
   もう十分に『万葉』です。
    よろしかったら、先ほど自分で作った短歌と、
     交互に唱えて見るのが比較です。

 ところでこの長屋王、
   後に政乱に飲まれて、自害に追い込まれますが、
  そんな歴史の登場人物たちが詠っているから、
 どうしても思い入れが深くなる。
  先生方が和歌の面白さよりも、
   人間のドラマを叫びたがるのも、
    仕方のないことではあるようです。

 ここでは取りあえず、解説でざっと述べました、天武天皇(てんむてんのう)(在位673-686)と、その妻である後の持統天皇(じとうてんのう)(在位690-697)の名称。それから柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の名前くらいは、記憶に留めておくのが便利です。これだけで一巻を過ぎ去りますから、なるほど異常事態には違いありません。さくさく次へと参りましょう。

巻第二

  巻第二は、巻第一の続きです。
 先ほどは「雑歌(ぞうか)」を、こちらは「相聞(そうもん)」「挽歌(ばんか)」を納めます。特に「挽歌」では、和歌の世界では、後には神とされて、崇められた人物。「歌聖(かせい)」と讃えられる、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)(660頃-720頃)が登場し、彼の「長歌(ちょうか)」が並びますから、「万葉集」好きの方々には、たまらない巻でもあるようです。

 ところで、「長歌(ちょうか)」というのは何でしょう。これは、短歌が[五七五七七]で終わるのに対して、[五⇒七⇒五⇒七⇒五⇒七⇒五⇒七⇒五⇒七]と好きなだけ[五⇒七]を繰り返して、最後を[七⇒七]とまとめるような作品です。多くの場合は、長歌の後にいくつかの短歌が加えられ、それを、「反歌(はんか)」と言ったり、文字通り「短歌(たんか)」と呼ぶ場合もあります。簡単な例を、現代語で歌ってみましょう。

     「長歌」
あじさいの 雨が降ります
 七変化 心変りな
  今日もまた 振り回されて
 時々は 憎くなるけど
   君が好きです

     「反歌」
雨上がり
   いつもの公園 あじさいの
 色も変わらず 君を待ちます

 三分クッキングみたいで、内容は適当です。これは現代語だから良いのですが、実際の長歌は、当時の言葉で、しかも様式的な表現がなされますから、慣れない初心者が眺めると、「なんのことやら」ということにもなりかねません。やっぱり『万葉集』なんてお化けと一緒だ。と逃げられるのも残念ですから、今回は長歌も外して、ついでに柿本人麻呂も外して、わかりやすい和歌を、いくつか紹介するだけという、他には類を見ない、あるいは無駄なユニークです。

相聞(そうもん)

 さて、「相聞」と言えば恋愛、
  恋の歌と言っても構わないくらい、
   「相聞」には恋の歌がひしめいています。
     またノートを取り出してみましょうか。

 さて、日付と「巻第二」は記せましたか。
  それでは短歌の内容です。
   もしあなたが吉野川に立っていて、
    この川のように淀みなく、恋人を愛したいと、
   願う短歌を詠むとしたら、どのように表現するでしょうか。

吉野川の 流れのように 淀みなく
  あなたのことを 愛していたいよ

とでも詠まれたでしょうか。
  あるいは、相手に贈る短歌なら、
 あなたなど加えなくても分りそうなので、

吉野川 早く流れる 水のように
  淀むことなく 愛していたくて

とでもしたでしょうか。
 けれどもし、「水のように」などと、
  わざわざ直接喩えなくても、
 その意味が伝わりそうだと気づいたならば……

     「弓削皇子(ゆげのみこ)、
       紀皇女(きのひめみこ)を思ふ御歌四首」より一首
吉野川
  行く瀬の早み しましくも
    淀むことなく ありこせぬかも
          弓削皇子 万葉集2巻119

吉野川は 流れゆく瀬が早いので
  しばらくの間も 淀むことがない
    それと同じように 私たちもお互いに
      淀んだ気持ちを持たずに
    ありたいものです

 「しましくも」は「しばらくも」くらい、
  「ありこせぬかも」が「ありたいものだなあ」
という願望を表わすことが分かれば、もうこの短歌は、今の感覚で理解できるのではないでしょうか。ただ、私たちの短歌が、「早く流れる水のように」と平坦に記したところを、「流れが速いのでしばしの間も」と置いて、四句目の「淀むことがない」に掛かりながら、一方で自分の気持ちとしては、「川が淀むことのないのと同じように」淀むことがないようにありたい。つまり、「淀む」を前の文脈と後ろの文脈に、両方使用することによって、日常の語りを、様式的な短歌へと移しかえています。

   そのため、「名無しさん」のは分りやすくて、
    同時に、ただ日常の語りのように、
     弓削皇子のは、ちょっと考えなければなりませんが、
    そのかわりちょっと格調高く、
   一度捉えれば、短歌という詩型に相応しいもののように、
  思われるのではないでしょうか。

 実はこの技法、
  序詞(じょことば)と言って、
   万葉集では、もっとも使用される修辞法(しゅうじほう)[あるいは「レトリック」]のひとつです。
  もう一度見てみましょう。

吉野川は流れが速いので淀むことがない

 それと同じように、「淀みなくありたい」と表現したい場合に、喩えの内容である「淀みなく」と、伝えたい思いとしての「淀みなく」を重ね合わせて、一つの表現にしてしまおうという方針です。この場合などは、下句の思いに対する比喩として、分りやすいものになっていますが、たとえば、

鳥たちの駆け抜けるような大空の青

という「青」の説明がそのまま、

鳥たちの 駆け抜けるような 大空の
  青ボールペンで ○を付けてね

と前の文と、
  後の文がつながっていないような場合にも、
 「なんだか分からねえ面白さ」で、
   組み合わされることもあるくらいです。
     すなわちこれが序詞です。

 ところで作者の弓削皇子(ゆげのみこ)(?-699年)、「巻第一」で名前だけでも覚えて欲しいと言った、天武天皇(てんむてんのう)(在位673-686)の息子です。もちろん天皇の妻は沢山いますから、正妻、つまり後の持統天皇(じとうてんのう)(在位690-697)の息子ではありません。加えるなら、紀皇女(きのひめみこ)も天武天皇の娘ですが、この恋の短歌が戯れでないならば、母親は違っているかと思われます。
 いかがでしょうか。
   これくらいの歴史の情報なら、
     何も知らないよりかえって愉快です。

挽歌(ばんか)

 さて「挽歌」と言えば柿本人麻呂、柿本人麻呂と言えば「挽歌」。それはどうか知りませんが、ここでは、689年、日並皇子(ひなみしのみこと)が亡くなられたときに、柿本人麻呂が詠んだ格調高い「長歌(ちょうか)」……ではなく、それに続けて舎人(とねり)、つまり使えていた役人たちが、哀しんで作った短歌がありますので、その中から二つだけ、紹介してみることにします。

天地(あめつち)と
  共に終へむと 思ひつゝ
 仕へまつりし こゝろ違(たが)ひぬ
          よみ人しらず 万葉集2巻176

「天地が終わるときまでは共に」
   そう思って仕えてきましたが
    その心を違えることになってしまうなんて……

 思ったことをすらすらと、
   私たちでも語りそうに詠んでいます。
  ただ「天地が終わるまでは」
    というところに、嘘の修辞ではなく、
      真心が籠もっているようで共感できます。

み立たしの
   島の荒磯(ありそ)を 今見れば
 生(お)ひざりし草 生(お)ひにけるかも
          よみ人しらず 万葉集2巻181

あなたがよく立たれていた
  庭にある池の 荒磯を今眺めると
    生前には生えていなかった
  雑草さえ生えているのでした

「み立たし」というのは、身分の高い人を敬う尊敬語を名詞化しながら、「立たれていた」と述べる表現です。こちらは、亡くなった日並皇子(ひなみしのみこと)の愛されていた庭を眺めると、もう庭を整える人もいなくなって、雑草が生えている。これも、ありきたりの表現で、目の前の情景を記しながら、その裏に故人を偲ぶ思いがあることを、私たちに悟らせています。

 ところでこの日並皇子、実は草壁皇子(くさかべのみこ)の別名で、この草壁皇子という人も、先ほど「相聞」で眺めた、弓削皇子(ゆげのみこ)と同様、天武天皇の息子です。しかもこちらは、皇后(こうごう)つまり正妻である、(後の)持統天皇の息子になっています。

 この他にも天武天皇には、
  大津皇子(おおつのみこ)という息子があって、
 つまりは次期天皇を巡る、壮絶なドラマが展開していくのですが、せっかくですから、大津皇子(おおつのみこ)の名称も、頭の片隅に、残してみるのも一興です。(今回は登場しませんが、この人は悲劇のヒーローとして、万葉集時代には、特に愛された人物だったようです。)

……意地悪ではありません。
   アンチ柿本人麻呂でもないのですが、
  次もまた彼の歌ではなく、
 彼が亡くなった後の、妻の歌をどうぞ。

あまざかる
   鄙(ひな)の荒野に 君を置きて
  思ひつゝあれば 生けるともなし
          よみ人しらず 万葉集2巻227

はるか空を隔てた
   遠いどこかの荒野に あなたを置いて
  思い続けているものですから
 生きた心地もいたしません

 この句は実際は、妻の短歌ではなく、それに見立てて、妻の短歌の後ろに置かれているものに過ぎません。三句目が、ちょっと分かりにくいかも知れませんが、墓所が遠くにあるくらいで捉えても、構わないかと思います。冒頭の「あまざかる」は「空のかなた」くらいの意味。「鄙(ひな)」は今日でも「ひなびた」などと使用される、都から離れた地方、あるいは田舎のことです。それで全体の語りは、受け取れると思いますが……

 別に、これを紹介したのは、
  柿本人麻呂への当てつけではありません。
「あまざかる」という表現が、やはり万葉集でしばしば利用される、「枕詞(まくらことば)」というものだから、ここで説明をしておこうと思ったまでのことです。

 この「天離(あまざか)る」は、確かに先に述べた意味を持ちますが、同時に「鄙」という言葉を使う時に、それを導く言葉として、いつでも一緒に使用できる修飾語になっています。つまり「鄙」と表現したい場合は、ただ「鄙」と言っても良いですし、「天離る鄙」と語ってもよい。さらには、「天離る」のもとの意味が、全体の意味に関係しなくても構わない。ただ純粋に「鄙」だけを修飾する言葉になっています。

 このようにある言葉の前に、常におなじ表現として加えられた、様式的な言葉のことを「枕詞(まくらことば)」と呼んでいるのです。枕詞には、今回のように、何らかの意味を保っているものもありますが、万葉集の時代にすら、本来の意味は分からなくなり、ただ様式的に使用されているものも多い。そのもっとも有名なものは、

あしひきの(あしびきの)⇒山

ではないでしょうか。
 この「あしひきの」という言葉は、山につく枕詞として、和歌のページをめくりさえすれば、しょっちゅう出くわすような表現なのですが、それでいて本当の意味は、今日でも解明されていない。このような、ある言葉を導く言葉も、『万葉集』ではよく使用されますので、次第に自然に、覚えていくものと思われます。だからといって、教科書を片手に、順に暗記をする必要は、冗談抜きで全くありません。

 さて、巻第二のおさらいは、
  柿本人麻呂の長歌が多く納められていること、
   それから「序詞(じょことば)」「枕詞(まくらことば)」
    これらを頭に入れて、次にまいりましょう。
   なんならこのおさらいだけは、
  ノートに書き残しても便利です。

巻第三

 さて「巻第一」と「巻第二」が、ペアのように捉えられたのに対応して、「巻第三」と「巻第四」もペアのように、「雑歌」「相聞」「挽歌」を収めます。ただ配列がちょっと異なって、
     巻第三 ……「雑歌」「比喩歌(ひゆか)」「挽歌」
     巻第四 ……「相聞」
となっています。

 「比喩歌」というのは、新しい言葉ですが、これまでのジャンル分けのように、和歌自体の内容を表わすものではなく、和歌に詠まれた内容とは別の思いを、たとえば「秋山」の事だけを詠んでいる短歌にも関わらず、短歌の外に「別れの哀しみ」を秘めているような、簡単に述べれば、「隠喩(いんゆ)」を全体に使用した和歌を、万葉集では「比喩歌」と呼んでいます。

 巻第三の特徴は、
  もう一人の歌聖(かせい)ともされる、
   山部赤人(やまべのあかひと)の活躍。
  それから、大伴旅人(おおとものたびと)の登場と、
 彼の連作短歌「酒をほむる歌十三首」にあるでしょうか。

 このあたりから、本格的に和歌の紹介を始めます。
  急に章が伸びますので、ご注意ください。

雑歌

 さて、船旅の安全を祈願して、
  「沖にも、岸辺にも波が立っても、
   あなたのまわりにだけは、
  波がありませんように。」
 そんな当たり前の表現を、
  短歌にしてみたらどうでしょうか。
   さっそく、試して見るのがお奨めです。

沖の波 岸にも波は 高くても
  あなたの船に 波よこないで

 そのくらいでよいのです。
  万葉集とも変わりません。
   ただ上の句が伸びすぎて、
  逆に述べたい下の句がキツキツです。
 それなら逆にすればいいのです。

沖つ波 辺波(へなみ)立つとも
   わが背子(せこ)が 御船(みふね)の泊まり
  波立ためやも
    石川大夫(いしかはのまへつきみ/だいぶ) 万葉集3巻247

沖の波 岸辺の波が 立とうとも
   親愛なるあなたの 船が着く港に
  波が立つことがありましょうか

 上の句を縮めて二句で済ませれば、残りで思う存分、述べたいことを語れます。さらには直接「波よこないで」ではなく、「どうして波が立ちましょうか」と述べています。これは反語(はんご)の表現で、それによって心情は、「いいえ決して立ちはしません」と、結句のさらに後に、余韻のように残されます。しかも現実的に考えれば、波が立たないかどうかは、詠み手には保証できないに決まっています。ですから「立たない」と強調しているのは、ようするに詠み手の願望に過ぎないことが悟られます。

 まとめれば、「波よこないで」では、純粋な願望に過ぎませんが、石川大夫の表現だと、一見波の否定により、相手を安心させながら、航海を祈願する「波は立たない」という願掛けのようになっています。その実うしろには、「どうか波よ立たないで欲しい」という、深い願望が秘められている。さすが『万葉集』の短歌です。なかなかわたしたちの、安易な思いつきでは、太刀打ち出来そうもありませんね。

 ところで、
「我が背子(わがせこ)」というのは、女性が男性に対して、「夫よ」「恋人よ」と呼びかける時の、親しみを持った表現です。ちょっと敬意を込めて「君(きみ)」「我が君」という場合もあります。ですから「君」という呼びかけがなされていたら、その和歌は女性から男性に呼びかけたと、判断できることになる。
 逆に男性から女性には、「我妹子(わぎもこ)」という表現があり、それぞれ「背・兄・夫(せ)」「妹(いも)」で、通常は相手への呼びかけになっています。ただし、日常生活で、

「いいだろ我妹子」
 「もう我が背子ったら」

「おい我妹子、お茶」
   「自分で入れろよこの背子」

 なんて使用するような、
  日常語ではなかったようですが……
 それは冗談として、この和歌は、長田王(ながたのおおきみ)という人が、九州の方へ使わされた時に、「どうか波よ立つな」と詠んで、それを石川大夫に贈った時の返歌になっています。

 ところでこの長田王、天平6年(734年)に朱雀門の前で、「歌垣(うたがき)」が催された時に、頭(かしら)のひとりを務めた人物です。あるいはこのようなところからも、後の「歌合(うたあわせ)」の伝統が、生まれてくるのかもしれませんね。

 次の短歌も分かりやすいものです。
  「漁師が浜に帰ってきたけど、
     沖の方は波が高いのかな」
これなら完全に、日常会話の範疇です。
 さっそく短歌にしてみましょう。

強風で 沖では波が 荒れるのか
 漁師の舟が 浜に戻るよ

 あるいはこのくらいの表現には、
   自然となったのではないでしょうか。
     わたしが提示する内容が、
   答えの短歌に基づいていますから、
 ちょっと誘導尋問のような気もしますが……

風をいたみ
   沖つ白波 高くあらし
 海人(あま)の釣舟 浜に帰りぬ
          角麻呂(つののまろ) 万葉集3巻294

風が激しいので
   沖では白波が 高く立っているようだ
 猟師たちの釣り船が 浜へと戻ってきた

 遠方の高波と、近景の浜の対比を、
  一方は実際に見たものとして、
 上の句は推し量ったものとして対比する。内容はきわめて明快で、三句目の「高くあるらし」(高くあるようだ)という推量によって、実際にそこで眺めている詠み手の、ある種の心理状態が伝わってくる。このような簡単でありながら、構図も整っていて、詠み手の関心も受け取りやすい短歌を、まずは目標にするべきかもしれませんね。

 ところで、「風をいたみ」というのは聞き慣れない表現ですが、今日「ミ語法」と呼ばれている、万葉集に特徴的な表現で、「いたし」などの形容詞の語尾について、「~なので」という意味を表します。それで「風をいたみ」なら「風が痛いので」つまり「風が激しいので」となります。

 ついでに述べますと、他にも、動詞などの語尾に「く」(あるいは「らく」)がついて、「~のこと」「~すること」などを表す「ク語法」というものもあります。たとえば「散らまく惜し」として、「散ること」が惜しい、というような用法です。やがては、登場しますから、一緒に加えておきましょう。

奥山の
  菅(すが)の葉しのぎ 降る雪の
    消(け)なば惜しけむ
  雨な降りそね
     大伴安麻呂(おおとものやすまろ)? 万葉集3巻299

奥山で 菅の葉を押し伏せて
  降っている雪が 消えてしまうのは
   惜しいものだから……
  雨よ 降らないで欲しい

 これも、雪が消えるのが惜しいから、
  雨よ降るなという、ありきたりの表現に過ぎません。
「しのぐ」というのは「押し伏せる」の意味ですが、あるいは最後の「な降りそね」というところが、分かりにくいかと思われます。これもまた、古文に特徴的な使用法で、「な~そね」によって、「~しないで欲しい」「~して欲しくない」というような、願望に近い禁止(むしろ禁止を求める願望か)を表します。

 ただ「奥山の菅の葉しのぎ降る雪」というのは、むしろなかなか解けない雪の喩えのように感じられますから、上の句を「巻第二」で習った序詞(じょことば)であると考え、
     「奥山で菅を押さえている、
       簡単に消えそうにない雪」
でさえもやがては消えてしまうものだ、
 という意味を内包させながら、あるいは目の前の庭の雪でも眺めて、
     「消えるのが惜しいから雨よ降るなよ」
と言っているようにも聞こえます。

 ところでこの和歌、
  あるいは大伴家持(おおとものやかもち)(718-785)のお父さんに当たる、大伴旅人(おおとものたびと)(665-731)の、そのまたお父さんの、大伴安麻呂(やすまろ)の作かとも考えられますが、和歌には、大伴の下の名前は分らないことが記されています。大伴旅人と大伴家持は、これからもしばしば登場するために、ここで無理して覚えなくても、いつしか勝手に覚えるでしょう。

忘れ草(ぐさ/くさ) わが紐につく
  香具山(かぐやま)の 古(ふ)りにし里を
 忘れむがため
          大伴旅人 万葉集3巻334

忘れ草を、わたしの服紐につける
    奈良の香具山の
  かつてのみやこを忘れようとして

 さっそく大伴旅人です。
  語りかけに分かりづらいところは無いと思います。
   ただ普通でしたら、

香具山のふるい都を忘れようとして、
    わすれ草を紐に結い付けました。

と述べるところを、文章の途中から入れ替えて、理由を後に持ってきているのが、ちょっと技巧的なくらいです。このような方法を、倒置法(とうちほう)と、学校で教えていますが……

   [倒置法]
 難しいものではありません。
   「わたしはカツ丼を食べてお腹がいっぱいです」
なら淡々と説明する感じですが、
   「お腹がいっぱいです。わたしはカツ丼を食べて」
と言うと、「お腹がいっぱい」な気持ちを表わしたように聞こえる。
   「カツ丼を食べて、わたしはお腹がいっぱいです」
と言うと、ちょっと「カツ丼」であることが強調される。
 そんな文章の入れ替えのことを、倒置法と呼ぶくらいのものです。

 ところで「忘れ草」というのは、
ワスレグサ属の「萓草(かんぞう)」、特に「薮萓草(ヤブカンゾウ)」を指すとも言われています。中国での別名を忘憂草(ぼうゆうそう)と言い、そこから「憂いを忘れる草」として、和歌に詠まれることになりました。

 けれどもこの和歌は、
  実は、故郷を思う一連の歌の一首です。
   故郷を忘れたいとはどういうことでしょうか。
  それはあまりにも故郷のことが思い浮かぶので、
 わすれ草の力でも借りて、望郷の念を逃れようとしたのです。
  あるいは酒を飲んで、恋人を忘れるよりは、
   詩人らしい態度と言えるでしょうか?

 ところでわたしが、時乃旅人(ときのたびと)など名乗っていますので、さぞ彼の和歌もご存じで、愛着もあるように思われる方もあるかも知れません。実際は「酒の歌」の詠み手であるくらいの知識で、あやかったようなもので、今回『万葉集』をはじめて読破するまでは、ほとんど何も知らなかったくらいで、お恥ずかしい限りです。

 おまけに、このコンテンツも、
  読み出してからひと月くらいで、
   半ば自分に分からせるために、
  落書しているようなものですから、
 いたらない点もあると思いますが……

土下座して
   鼻に桜が散る夜かな
          即興句 時乃旅人

 やれやれ、
  とんだ失態です。
   せっかくですから、
  まともな旅人(たびと)の方の、
 酒の歌でも眺めてみましょうか。

酒を褒むる歌

 先の短歌のすぐ後に来るのが、同じく大伴旅人卿による「酒を褒むる歌十三首」です。どれも面白いのですが、今回の目的は、日常会話から一歩進んだくらいで、分かりやすく詠まれた和歌をピックアップしながら、『万葉集』を俯瞰(ふかん)[高いところから見下ろす、全体を見渡すこと]するというものでしたから、なるべく簡単なところを、取り出してみたいと思います。

夜光る 玉といふとも
  酒飲みて 心をやるに
 あにしかめやも
          大伴旅人 万葉集3巻346

夜ひかりを放つ宝玉に
   こころを奪われると言っても
  酒を飲んで こころの憂いをはらすのに
    どうして まさることがあろうか

「夜光る玉」というのは漢文の書籍などに基づいていますが、何らかの作用でみずから光る鉱石、それを加工した宝石かなにかでしょうか。とにかく、世にもまれなうつくしい玉であっても、酒にこころを奪われるのには負けると、酒飲みにはうれしい短歌になっています。これくらいなら私たちも、

輝いてる 真珠であっても
  近くにいて あなたを見るのに
 勝りはしないよ

なんて、詠めそうな気がします。
 また、その程度の内容を、表現したに過ぎないからこそ、わたしたちも楽しめる訳ですが、同時にちょっとしたこだわりも見られます。たとえば冒頭ですが、「輝く真珠」くらいでも、実際の真珠の美しさと対比されますから、十分ほめていることになりますが、これが逆に「母さんの持っている真珠」などと表現されれば、抽象性が薄れて、本当にほめているのか、大したことはないのか、分かりにくくなってしまいます。けれども逆に「夜光る玉」とするならば、それはもう対象の定まらない、得体の知れない、幻想的な美しさに喩えられますから、それに対比される「酒飲み」の心というものが、魅力的な地位に押し上げられてくる。

 また結句も「酒飲みの方がすぐれている」なら、
  明快であるかわりに、淡々と語った様子ですが、それを、
 「どうして勝ることがあろうか」
と反語のように言われると、今の私たちでも、日常会話で反語のようなものは、わざとやらないと、使用するものでもありませんから、要するに語りが大げさになった分、讃えたい詠み手の気持ちが伝わってきます。それで、詩の内容にさえ共感できれば、よりうれしい気持ちで、楽しむことが出来るという仕組みです。
 つまりは文脈は、明快で分かりやすいものですが、
   語りのうまさには、なかなか真似できないものが籠もるようです。

生ける者(ひと)
  遂(つひ)にも死ぬる ものにあれば
 この世にある間は/なる間は 楽しくをあらな
          大伴旅人 万葉集3巻349

生きている人
   遂には死ぬものであるならば
     せめてこの世にある間くらい
   楽しくありたいものです

 明快です。言いたいことはただ、
   「生きてるときくらい楽しくやろうぜ」
という、完全にその場の語りかけに過ぎないものです。同時に表現が概念的で、人間一般をひっくるめて言っていますから、今日でも、スピーチ集などでよく見かけるような、格言めいた引用のように響いてくる。それが短歌に、改まった祝賀の詩文であるような印象を加えているようです。たとえば宴の席で、

「ええ、生きている人は、
  必ず死ぬのが定めと申します。
    そうであれば、楽しくできるのも、
  今生きていればこそでございますから、
    わたしたちはせめてこのひと時を、
      大いに楽しもうではありませんか」

  なんておぼつかない口調で、
 語りかける進行役もあったものですが、大伴旅人のものは、なかなか堂々としていて、聞いていて喜ばしいくらいです。ただ、今日私たちが聞くと、何でもない定義のように聞こえますが、「生けるものついに死ぬ」といった表現は、おそらく当時最先端の宗教、仏教の影響から来ているものと思われます。

 次の和歌の着想は、
   「今日も鳴いてるかな。ほら飛鳥川って夕方になると、
      かえるがきれいな声で鳴いてるじゃない」
よろしかったら、またノートを取り出して、
 [五七五七七]にしてから、
   次に向かうのが有意義です。
    多少の字余りは、気にする必要はありません。

今日もかな
  あすか川原の 夕べには
 清らかに鳴く 蛙(かわず)らの声
          即興歌 時乃遥

 なるほど、
  そのくらいの歌かも知れませんね。
   ありがとうございました。

今日もかも
   明日香(あすか)の川の 夕さらず
 かはづ鳴く瀬の さやけくあるらむ
          上古麻呂(かみのこまろ) 万葉集3巻356

今日もそうだろう
    明日香の川では 夕方になるたびに
   蛙の鳴いている瀬が
      すがすがしいことだろう

 さてあなたの歌と、
  どこがどう違ったでしょうか。なんです?
   「わたしの方がずっとうまい」
  それは大いに結構です。
 まずは言葉の説明から。

 よく出てくる言葉に「夕されば」というのがありますが、これは「夕方が去れば」ではなく、「夕方になれば」の意味です。つい読み流すと誤解を引き起こしますので、今のうちに覚えておきましょう。それと同じように、「夕さらず」というのは「夕方が去らない」という意味では無く、「夕方ごとに」「夕方のたびに」という意味になります。

 また蛙が鳴いているだろう。
  という感慨に過ぎませんが、
 例の倒置法によって、「今日もかも」が冒頭に置かれていますから、「また今日」という詠み手の思いが、強調されることになりました。そして、その今日が心地よいだろうことが、結句に「さやけくあるのだろう」と提示されますから、短歌の全体は、「今日もさやけくあるのだろうな」という感慨にサンドイッチされて、その内側に、感慨の内容が述べられている。そのような構造も、短歌の存在意義を高めているようです。

 わたしが皆さまに提出した現代文も、
  その倒置を行った上でのものですから、
    たとえこの作品より、皆さまの短歌がうまかったとしても、
     それはちょっとだけ、
    後出しジャンケンの「ずるい」ということになります。
      (序詞を使うといろいろな語りあそびが出来ますね)

 ところで、万葉集に登場する「かはづ」は、その鳴き声がきわめてうつくしい、「カジカガエル」ではないかとされる事が多いのですが、もちろん蛙一般を指すこともありますし、カジカガエルである、という結論が出されている訳ではありません。みなさまはあまり気にせず、今のうちは、自分の知っている蛙の鳴き声を、浮かべてくださってもかまわないかと思います。

我が宿に
  韓藍(からあゐ)蒔き生(お)ほし 枯れぬれど
 懲りずてまたも 蒔かむとぞ思ふ
          山部赤人(やまべのあかひと) 万葉集3巻384

わたしの家の庭に
  鶏頭(けいとう)を蒔いて育て
    枯れてしまっても 懲りずにまたも
      蒔いてやろうと思うよ

 「韓藍(からあい)」というのは「鶏頭(けいとう)」の古名です。鮮やかすぎる花を思い浮かべると、さも近代にもたらされた外来種のような気がしますが、その由来は意外に古く、中国で異国情緒豊かな外来種としてもてはやされていたものが、奈良時代に渡って来たようです。それにしても……

 山部赤人と言えば、万葉集でも有名な歌人です。勅撰和歌集の時代に「歌の聖(うたのひじり)」とあがめられる、その歌人が、よりによって、こんなふざけたような短歌を、お詠みなさったりするものなのか、驚く人もあるかもしれませんが、
  あえて言いましょう、
 もちろん、お詠みなさったりもするのです。

 この短歌は、
  「蒔いて枯らしてまた蒔く」
という単純な構図から成り立っています。「蒔き生ほし」つまり「蒔いては育て」とわざわざ断っているのは、あるいは外来種で、育てるのが難しかったことを、具体的に述べたのかもしれません。そうしてここでは、具体的に述べられたことによって、聞き手はまるで、赤人がその場で語っているように感じますから、
     「枯れてしまったけど」
    でなんだか、言葉を止めて、
      こっちを見ているような気がしてくる。
      (まあたとえですから、ちょっと大げさに)
      そこで改めて、
     「懲りずにまた撒いてやるんだ」
という「負けるもんか精神」を、決意表明されたような気分になります。つまりは、鶏頭に一喜一憂する詠み手の心情を、彼の「めげない精神」と共に、語られたような愉快が湧いてきますから、嫌みもなく詩に共感できる訳です。

 もし、このような、語りによりそった冗談を、中途半端にもっともらしい短歌に仕立てたら、もうおもしろさは、嫌みに落ちぶれてしまうには違いありません。ユニークな事を述べるときは、ユニークな口調で、冗談を述べるときは冗談の口調で。ささいな短歌ではありますが、これはその、良い見本になっているかと思われます。なるほど、それだからこそ赤人なのだ。と言うことも出来るかも知れません。

 ところでこの短歌、鶏頭を恋人のたとえとすることも可能で、するとなおさら、詠み手の「懲りずにまた蒔く」という、当人ばかりの必死さが、面白く読み解けるかもしれませんが……それは皆さまの、心のままにすればよいかと思います。。

比喩歌(ひゆか)

 改めて説明しますと、万葉集で「比喩歌(ひゆか)」というのは、ただ比喩を使用した歌、という意味ではありません。そうではなくて、短歌全体がおもての意味を歌っていて、その歌を比喩として裏に読み解くと、別のことを述べていることが分かる。そのようなジャンルのことを、万葉集では「比喩歌」と詠んでいるのです。もっとも多いのは、もちろん恋愛のことを、裏に読込んだもので、比喩歌は「相聞」の下位ジャンルかと、疑われるくらいです。なるほど恋歌ばかりが、流行歌にあふれるような日本人気質は、昔からちっとも、変わってはいないようですね。
 それでは、せっかく赤人の、
  ゆかいな歌を眺めたばかりなので、
   また、おもしろい短歌をひとつ。

     『娘の歌に答ふる歌』
ちはやぶる
   神の社(やしろ)し なかりせば
  春日(かすが)の野辺(のへ)に 粟蒔(あはま)かましを
      佐伯赤麻呂(さえきのあかまろ) 万葉集3巻404

(ちはやぶる)
   神の社さえ 無いならば
    春日の野原にも 開墾して粟を蒔けるものを

[()で示した「ちはやぶる」は「神」に掛かる枕詞。]

  神社がある神域でなければ、粟を蒔けるのに。
 神を押しのけて、開墾をしてやろうとする、百姓だましいを歌ったようにも思われますが、さすがにこれだけでは、理解しきれないような短歌です。しかし、変であるがゆえに、なにか裏がありそうに思えてくる。あまり和歌になれていなくても、ちょっと不思議がるような違和感を、感じるかもしれません。そのような時、もし、万葉集時代の聞き手であれば、「粟まかまし」の裏に「逢はまく」つまり「逢うこと」が掛け合わされている、つまり掛詞になっている事が分かるものですから、つまりは、
    「神のやしろさえ無ければ、あなたと逢えるのに」
    という意味が込められていることが悟れます。

 さらにこの短歌は、実際は贈答歌(ぞうとうか)[和歌どうして手紙のようにやり取りすること]になっていますから、互いの短歌のやり取りから、「神のやしろ」が、詠み手の奥さんであることが分って来る。すると面白いことに、「ちはやぶる」というのは神に付く枕詞ですが、本来「激しい神」のイメージを内包した言葉です。ですから、自分の妻を、
     「ちはやぶる神のやしろ」
と表現するのは、どれほどか妻を、畏怖すべき神のように恐れていて、つい本音を漏らしてしまったように響きます。つまりは恐妻家(きょうさいか)の男が、それでもどうにか浮気を決行しようと、必死に手紙を出している。そんなコメディーめいた情景が浮かんでくる。それで、娘さんの返答も、

わが祭る 神にはあらず
  ますらをに つきたる神そ
    よく祭るべし
          (とある娘) 万葉集3巻406

それはわたしが 崇めている神じゃなくって
    あなたに取り憑いている 神じゃないの?
   せいぜい大切に 崇(あが)めることね

 立派な強い男性を讃え称する言葉、
  「ますらを」という表現を、
   あえて使用しているあたり、
    冷たい皮肉が走ります。

挽歌(ばんか)

 おさらいをするならば、「挽歌(ばんか)」は亡き人を追悼する歌。勅撰和歌集の時代には、「哀傷歌(あいしょうか)」と呼ばれるようになります。まずは、大伴旅人が亡き妻を偲ぶ歌からどうぞ。

都にある/都なる
   荒れたる家に ひとり寝(ね)ば
 旅にまさりて 苦しかるべし
          大伴旅人 万葉集3巻440

都にある 荒れ果てた家に
  妻もなくして ひとりで寝れば
    苦しいことばかりの 旅路よりも
  もっと辛いことになるだろう

 旅人は還暦頃になって、大宰帥(だざいのそち)つまり長官として大宰府(だざいふ)に赴任します。赴任先には山上憶良(やまのうえのおくら)などもいて、役人共々、漢文や和歌を楽しみ、これを筑紫歌壇(つくしかだん)と呼ぶ人もあるくらいですが、その赴任中に妻を亡くしてしまいます。それで、傍に寝てくれる人も居なくなりましたから、みやこへの旅路より、戻ってからのひとり寝が苦しいだろうと詠んだのです。このような思いを述べるには、凝った修辞よりも、普通に話しかけるくらいの、ストレートな表現の方が、聞き手のこころに響きます。和歌の「姿(すがた)」よりも「心(こころ)」に打たれるからです。

     「膳部王(かしはでのおほきみ)を悲傷(ひしやう)する歌一首」
世の中は
   むなしきものと あらむとそ
 この照る月は 満ち欠けしける
          よみ人しらず 万葉集3巻442

世の中はむなしいものだ
    そう告げようとして
   この照る月は 満ち欠けをするのだな

 膳部王(膳王)(かしわでのおおきみ)というのは、
  長屋王(ながやのおおきみ)の息子です。
 その長屋王というのは、藤原四兄弟という「ごっつう悪い奴ら」(というのは冗談ですが)と、政治闘争を繰り広げていた皇族で、天武天皇の孫にあたる人物です。その邸宅は、文芸活動の中心にもなっていたようですが、おそらくは無実であったろうと思われる罪を着せられて、729年、兵に取り囲まれて、自害に追い込まれました。これを「長屋王の変」といって、歴史でも知られた事件なのですが、このとき妻と息子である膳部王も亡くなっている。ちょうど、東大寺の大仏建立でおなじみの、聖武天皇(しょうむてんのう)の時代です。
 その亡くなった膳部王を偲んで、
  誰かがそっと短歌を詠んだ。
   それがこの和歌だとされています。

 大仏の話がちょっと出てきましたが、当時は仏教熱が高まっていた時代でしたから、この和歌の「世の中は空しいもの」というのも仏教から来た表現です。決しておのずから、哲学的に生みなされた言葉ではありませんが、前に見た大伴旅人の「酒の歌」と同じく、引用が心情に生きています。

いつしかと 待つらむ妹に
  たまづさの 言だに告げず
    去にし君かも
          大伴三中(おおとものみなか) 万葉集3巻445

いつになったらと 待ちわびる妻に
   (たまづさの) 言づてさえもせずに
  君は亡くなってしまったのか

  過労による自殺。
   我が国の空しい伝統は、
  万葉の時代からだったのでしょうか。
 丈部龍麻呂(はせつかべのたつまろ)という人が、耕作地を区分する班田(はんでん)の役人としての仕事の途中、みずから命を断ったのを哀れんで、大伴三中(おおとものみなか)が詠んだ長歌(ちょうか)がありますが、これはそのうちの「反歌」の一つです。

 「たまづさの」は、次の言葉にかかる枕詞です。
本来は「使い」に掛かりますが、ここでは「使いの伝言」の意味から「言」に掛かっています。今後、枕詞を内容に説明するのが煩わしい場合は、(小学館)の現代語訳の方針を見習って、先ほどの現代語訳のように、()で括ることにします。

 この短歌では、「たまづさの」と置くことにより、非日常性が持ち込まれます。さらに「どうして死んだんだ」と感情に任せたりせず、「去にし君かも」と客観性を持たせた表現になっていますから、葬儀の際にでも挨拶に詠みそうな、あらたまった印象になっています。だからこそ、第三者である聞き手には、整えられた追悼に込められた悲壮感として、伝わってくるのではないでしょうか。

かくのみに ありけるものを
   萩(はぎ)の花 咲きてありやと
  問ひし君はも
     余明軍(よのみょうぐん) 万葉集3巻455

こんなことに なってしまうものを……
   萩の花が 咲いているだろうかと
  尋ねられたあなたよ

 こちらは、大伴旅人が亡くなった時に、余明軍(よのみょうぐん)という、渡来系の部下が詠んだ和歌のひとつです。はじめの二句は、「こんな風になってしまうとは」という意味の、「弔いの慣用句」ですが、対象を明示せずに語りかけますから、亡くなった人に対して、詠み手が感慨を述べているように聞こえます。(その効果を利用して、慣用句になっている訳ですが)
 そこに、さらに会話調で、
  「萩の花が咲いているかと尋ねたあなたは……」
と加えますから、改まって哀しみを述べた大伴三中の短歌とは異なり、主観にゆだねた嘆息のように響きます。「萩の花」というのは、730年に大宰府から戻った旅人が、731年に萩が咲き出す頃に亡くなってしまったので、ちょっと前まで「萩の花は咲いたか」と尋ねていたことを指すと思われます。

 終始、故人に語りかけるような表現ですが、決して「悲しい」「泣けてきます」と主情には溺れずに、「花を眺めていたあなたは」と閉ざして、自らの感情は、結句の外に追い出していますから、哀しみをかみしめるような余韻が残る。このような表現こそ、はじめは目指したいような短歌です。

朝鳥(あさとり)の 音(ね)のみや/し泣かむ
  我妹子(わぎもこ)に 今またさらに
    逢ふよしをなみ
       高橋朝臣(たかはしのあそん) 万葉集3巻483

朝鳴く 鳥のように
  声をあげて 泣いていよう
    愛する人に これから先
  逢えることは ないのだから

「高橋朝臣は名前は分らない」と、わざわざ注意書きが記してあります。「あさとりの」は枕詞になっているようですが、ただの比喩としてもかまいません。どちらにせよ、ちょっと日常語から離れたような「あさとりの」が、辛うじて直情に溺れて、詩でなくなりそうな全体を、短歌に保っているような印象です。あまり主情的な表現は、第三者としての聞き手の、興を削ぐような場合も多いのですが、ちょっとした枕詞や歌詞(うたことば)が、様式に引き留めている例として、覚えておくと良いかも知れません。

 ところで「歌詞(うたことば)」というのは、「歌語(かご)」とも呼びますが、蛙を「かえる」とは呼ばずに「かわず」と呼んだり、鶴を「つる」ではなく「たず」と呼ぶようなものから、「我妹子(わぎもこ)」「我が背子(わがせこ)」などの呼びかけなど、和歌を詠むときだけに使用されるような表現のことを指し、実際は「枕詞」もこれに含まれます。

巻第四

相聞(そうもん)

 この巻は「相聞」だけで成り立っていますが、特徴と言えば、後半から、まるで「大伴家持の青春の一ページ」のようになってくることで、若かりし頃の、女性との和歌の応答が、数多く収められている点でしょうか。

 全体的な傾向ですが、『万葉集』というのは、当時の歌社会を均等に描き出したものでは無く、大伴家のための、あるいは大伴一族のための、集大成であった。そう捉えた方が、幾分公私混同されたようなスタイルを、理解しやすいくらいです。

 実際の意図はともかく、初心者の皆さまは仮に、大伴家持が、一族のために作った歌集だと思って、眺めてみるのもおすすめです。そうすれば、一族の礎の時代を、冒頭の和歌、すなわち雄略天皇から開始し、柿本人麻呂などの偉大な歌人たちに、自分たちの和歌を連ねたものとして、歌集の意図が、分かりやすく眺められるものですから。さらに、先行資料として「柿本人麻呂歌集」を引用するなど、柿本人麻呂との関係が深いので、彼と親しい関係にあったとすると、なおさら全体が「大伴家歌集」のように眺められるかと思います。

 もちろん見立てには過ぎませんが、慣れないうちは特に、全体がごちゃごちゃして、足がかりが無いように感じられますから、そのように捉えてみると、所々に足場が出来る。それを踏みのぼっていくと、全体が見渡しやすいので、このように捉えてみるのも、良いかと思われます。

わが背子(せこ)が
  着(け)せる衣(ころも)の 針目(はりめ)おちず
    こもりにけらし/入りにけらしも
  我(あ)が心さへ
          阿部女郎(あべのいらつめ) 万葉集4巻514

あなたが着る服の
   私の縫い込んだ 針目の漏れもなく
      すべてに縫い込まれているようです
   私の心さえ一緒になって

 これは、手編みのセーターの、縫い込んだ一編み一編みに、わたしの思いも、縫い込まれている。そう言っているのとおなじことで、女性らしい細やかな着想が生かされた、おもむきのある短歌になっています。なるほど、

寒そうな
  あなたにあげる セーターの
 ひと編みごとに わたしの思いも

と歌っているだけですから、あなたにでも、今すぐにも詠めそうな気がしてはこないでしょうか。この詠み手も、同じように、今自分が使っている言葉で、思いを伝えたに過ぎません。当たり前でないことを、変な表現で並べ立てる人たちに驚いて、短歌を嫌いになった人も、あるいはいるかも知れませんが、それは詩形が悪用されているに過ぎません。みなさまはそれとは関わらず、それらしい嘘をではなく、本当に思ったことだけを、落書してくださったらよいと、わたしは願っています。

  せっかくですから、
 もう少し女性の短歌を眺めてみましょう。次のは、笠女郎(かさのいらつめ)という女性が、大伴家持に贈った二十四首の和歌からお送りします。二十四首というと、ずいぶん熱烈なラブレターのように感じますが、一番最後に二首だけ、大伴家持の歌が加えられています。あるいはこの二十四首は、異なるときに往復された贈答歌で、大伴家持が、自らの短歌はつたないものとして、抹消した可能性もありそうです。

我(あ/わ)が思(おも)ひを
   人に知るれや/か たまくしげ
 開きあけつと 夢(いめ)にし見ゆる
          笠女郎 万葉集4巻591

私の思いを 誰かに知られたのでしょうか
   化粧箱が 明け開かれたという
     そんな夢を見るなんて

「玉櫛笥(たまくしげ)」というのは、もともとは「櫛などの化粧道具」を入れておくためのケースですが、同時に「開き」「明けつ」に掛かる枕詞にもなっています。ここではむしろ、実際の化粧箱であることが重要で、お化粧道具を見られたら、恋をしているのがばれてしまう。そんな思いが込められています。

 これだけでも、後の「勅撰和歌集」の時代にあるような、繊細な女心を表現しているように思えますが、さらに下の句では「明け開かれた」とだけ説明して、それを誰がのぞき見たかは、二句目の「人に知れるや」としか分からない。それで、もしこれが、まだ恋のはじめ頃の和歌であれば、「あなたに知られたのかしら」ともなりますし、ある程度深い仲にあれば、「世間に知られたのかしら」とも解釈が出来る。つまりは、シチュエーションによって解釈に幅がありますから、それだけ含みのある、推し量りきれない余韻が残ります。それがかえって、外部から鑑賞する(ちょっと失礼な話ではありますが)私たちにとって、解釈仕切れないような、魅力になっているようです。。

  この笠女郎というひとが、
   どういう女性なのか、
  それはあまり分っていません。
 ただ残された『万葉集』においては、大伴家持に熱烈な和歌を送りつけて、家持の方は、最後にあきらめたみたいな、短歌を二首返しているのですが、その笠女郎の和歌が、万葉時代の和泉式部(いずみしきぶ)と言いますか、情熱的で、生き生きとしていて、しかもきわめて多彩、さまざまな詠み方を、自由自在にこなしています。

 さらりと心情を打ち明けたような短歌があるかと思えば、万葉時代の修辞にしても、ちょっとファインプレー過ぎて、他に例を見ないような、風変わりな恋愛歌もあり、しかもそれが奇抜なだけでなく、短歌として価値のあるものになっている。何気なく読み進めた時に、思わず「この人は何ものなんだ」とはしゃいでしまったくらいの、なかなかの詠み手なのです。

(なまじい『万葉集』のことを、
   ろくに知らなかったものだから、
     ロウソクのたゆたう頃の、
    こんなよろこびもあるのです。)

心ゆも 我(あ)は思はずき/思はざりき
   山川(やまかは)も 隔(へだ)たらなくに
 かく恋ひむとは
          笠女郎 万葉集3巻601

こころにもわたしは
  浮かべたことはありませんでした
    山川を隔てている訳でもないのに
  こんなに恋しい気持ちになるなんて

 山川も隔てていないのに、というのは具体的ですが、「山川も隔てていないのに恋しい」なんて、みんなが言うような気持ちは、あなたを好きになるまでは知りませんでした。と捉えると分りやすいかもしれません。もちろん、そうではなくて、山川を隔てて遠くにいたあなたが、ようやく近くに戻ってきたのに、こんなに恋しいなんて、と詠んだものかもしれません。いずれにしても、物理的には行けそうな境界線として、山川と置いたのは、女性のひとり旅の限界を考えれば、なかなか効果的なのではないでしょうか。

 もっとも心理的距離感と、物理的距離感は違うものですから、なかなか新幹線が開通したからといって、北海道が近くなったようには感じないものです。隣の県に単身赴任するだけでも、すぐに逢えるとは思えない。隣の学校へ別れるだけでも、家までの距離はほんの数キロなのに、もう逢えないようなさみしくなる。心理的な距離感は、相手への愛情を加味した、不可思議な方程式から、導き出されるものなのかもしれませんね。そんな意味でも、この短歌は、そのまま今にストレートに、伝わってくるのではないでしょうか。「今日なら山川くらいでは」なんて、そんな発想の方がかえって貧弱です。

剣大刀(つるぎたち)
  身に取り添(そ)ふと 夢(いめ)に見つ
 なにの兆(さが)そも/怪(け)そも 君に逢はむため
          笠女郎 万葉集4巻604

剣大刀を身にまとうと
   そんな夢を見ました
     これはなんの予兆でしょう
   きっとあなたに逢うためです

[四句目、他にも「なにの怪(け)そも」「なにの徴(しるし)そも」など様々な解釈あり。もともとの原文は、多くが「恠」という字を用いるが、それをどう読むかで解釈が異なっている様子。]

 女であるわたしも、
  剣大刀(つるぎたち)してみんとてすなり。
 かどうかは知りませんが、
「男装の麗人(れいじん)」というのは聞いたことがありますが、「男装の歌人」というのはあまり聞いたことがありません。それを夢の中でもおこなうという発想は、なかなかバラエティに富む『万葉集』のなかでも、浮かんでこないような着想です。なんだか発想がモダンです。あるいは「はいからさん」なのでしょうか。

 あるいは、剣大刀を身につけるというのは、
  男性の振りをすることによって、
   あなたの働いているところに押しかけたい、
  今は行かれないあなたの職場に、
 馬にでも乗って駆けつけたい。そんな意味が籠もるのではないでしょうか。あるいは相手は、遠方に赴任していて、女であるわたしは、自分で勝手には行けないようなところにいる。それで男になって、あなたのもとで働けるように手続きでもして、赴任先まで逢いに行けたら。そんな思いなのかも知れません。

 ところでこの短歌、一般には、「あなたの持ち物に寄り添う夢を見たのだから、きっとあなたにお逢いできる」くらいに解釈されますが、前後の歌が「恋に死ぬものなら、千回でも死のう」「神々がいない世があったとしたら逢わずに死のう」などと、きわめて情熱的なものですから、おなじくらいの情熱に解釈しないと、飼い殺しにされてしまうような気がします。それに、剣大刀になって付いて行きたいような短歌はありますが、この剣大刀という言葉は、多くの場合、男性の和歌で使用されているようです。山口女王のも、むしろ男に化けて、そう告げるような効果を、枕詞にゆだねているのではないでしょうか。(4巻616の短歌)

心ゆも
  我(あ)は思はずき またさらに
 わがふるさとに 帰り来むとは
          笠女郎 万葉集3巻609

こころにも わたしは思いませんでした
  いまさら わたしのふるさとに
   あなたが戻ってくるとは

 いかがでしょうか。
  つい口にした言葉そのままのようですが、
   思いは伝わってはこないでしょうか。
  下手な修辞を加えたら、
 その思いはたちまち、消え失せてしまうかもしれません。
  わたしたちは、まずこのような短歌を、
   目指したいとは思いませんか?

 この和歌は、「互いに別れた後で」贈ってきたものであると、わざわざ注がされています。つまりは、これまでの熱烈な和歌は、二人が愛し合っていた時のもので、そしてこの和歌は、恋人のシーズンが、終りを迎えてからのものと思われます。そうして、この後に置かれた大伴家持の和歌は、笠女郎(かさのいらつめ)の最後の二首だけに対する、答えになっているようです。その短歌は、なんだか分からない、やりきれないような思いがあふれていて、あるいは家持のものは、相手には贈らなかったのではないか。そんな気にもなりますが……
 ところでこの和歌、先ほど眺めた、

心ゆも 我(あ)は思はずき
   山川(やまかは)も 隔(へだ)たらなくに
 かく恋ひむとは
          笠女郎 万葉集3巻601

と同じフレーズを使用しています。そこにもまた、いろいろな含みがありそうですが、ここから先はもはや、彼女の和歌すべてを取り出して、詳細に語るような、まったく別のコンテンツになってしまうことでしょうから、今はあきらめて、いさぎよく離れることにしましょう。

 次もまた女性の和歌です。
  大伴家持の叔母に当たり、母が亡くなってからは、
   母親代わりでもあったとされる、
  大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいつらめ)の短歌。

我(あれ/われ)のみそ/ぞ 君には恋ふる
  わが背子が 恋ふといふことは/恋ふとふことは
    言のなぐさそ/ぞ
  大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ) 万葉集4巻656

わたしだけが あなたに恋しているのです
   あなたがわたしに 恋しいということは
  言葉のなぐさめには過ぎませんよ

 さて女流歌人と言えば
  やはりこの人は避けて通れません。
   (正しくは、避けて通る必要がありません)
  とりあえず、意味の明解なものを、
 ひとつ紹介しておきました。

わたしだけが あなたを好きなの
   あなたから 好きだよなんて
  信じてあげない

   ちょっと一休みして、
  思いを真似してみるのも愉快です。
 簡単なものですね。
  もちろんこれは、わたしの手柄でなくって、
   もとの短歌が、素直に書かれているせいなのです。
    (いいんですよ、字余りなんて気にしなくたって。)

 さてこの女性は、大伴旅人の異母妹(いぼまい)にあたり、大伴家持の叔母にあたる人物です。さらに彼女の娘である、大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおいらつめ)が、家持と結婚することになりますから、家持の姑でもあるという……どうも「大伴家の人々」ばかりが登場するのは何故かと、疑問を覚えた方もおられるかもしれませんが……

 先にも述べましたが、
  その傾向は『万葉集』の各所にあふれています。
 十七巻以降は、ほとんど大伴家持の私家集の気配ですし、年代が新しいものほど、当時の和歌社会全体から編纂されたというよりは、編者を中心とした、片寄りのある撰集になっている。だからこそ、大伴家持を中心として、相互関係を把握しておけば、『万葉集』に踏み込むための、お手軽な足場にもなるものですから、「大伴一族のための歌集である」と、喩えてみせたくらいです。

夕闇は 道たづ/”\し
  月待ちて 行(い)ませわが背子
    その間にも見む
          大宅女(おほやけめ) 万葉集4巻709

夕闇は 道がたどたどしいですよ
   月が出るのを 待ってからお帰りください
     その間だけでも あなたを眺めていましょう

 夕闇(ゆうやみ)というと、夕暮れが暗くなった頃なら、自由に使用しても良さそうですが、月齢と連動して、日が落ちてまだ月が昇ってこない暗闇を、夕闇と呼ぶそうです。それに対して、月が早くに沈んでしまい、空がまだ明るくならない時分を、暁闇(あかときやみ・あかつきやみ)という。なるほど、当時は照明もありませんから、なおさら月の光が、大切なもののように思われたのでしょう。
 「行(い)ませ」というのは、「行く」の敬語ですから、
  目上の相手と思われますが、私たちは別に、
   ちょっと年上の彼氏くらいで、
  今は眺めていても構いません。

夢(いめ)の逢ひは 苦しかりけり/くありけり
   おどろきて 掻(か)き探(さぐ)れども
  手にも触れねば
          大伴家持 万葉集4巻741

夢で逢うのは 苦しいもの
    はっと目が覚めて 手探りをしても
   触れられないものだから

 これは大伴家持が、坂上大嬢に贈った和歌ですが、どうやらこの第四巻の後半は、大伴家持の恋の遍歴を、和歌に残すのが隠された意図だったのではないか。そんな邪推さえ浮かんできそうです。

 さてこの和歌ですが、
  はたしてどう思われるでしょうか、
   さすが大伴家持、まるで私たちが読みそうな、
    きめ細かい描写を和歌に持ち込むなんて、
   和歌の巧みは伊達じゃなかった。
  などと感心した方もあられるでしょうか。
 たしかにこのように詠みなしたことは巧みなのですが、残念ながらこのようなユニークな発想は、多くの場合、私たちの祖先がイマジネーションを働かせたものではなく、中国から漢文に乗せられて、渡ってきたものが多いようです。それは「無情の達人」を思わせるような和歌が、仏教の教典の影響から生まれてくるのと一緒で……

 この夢の手探りもまた、
  当時知識人たちの間で流行した、
   「愛と青春の逃避行」
  ……かどうかはよく分りませんが、
『遊仙窟(ゆうせんくつ)』という中国の流行小説が元ネタとなって、詠まれているに過ぎないようです。(ただし詩によって物語が進行していくような方針と、形式張らないその詩のあり方にこそ、引かれたのかも知れません)むしろ、流行ものをすぐ取り入れて、たぶん当時としては、プレイボーイ的な、他の人には描けないような短歌を描いてみせるところに、多感主義時代の大伴家持の姿を、眺めてみるのも一興かも知れません。

いかならむ
   時にか妹(いも)を むぐら生(ふ)の
 きたなき宿(やど)に 入れいませてむ/なむ
    大伴田村大嬢(おおとものたむらのおおいらつめ) 万葉集4巻759

いったい いつになったら
   あなたのことを むぐらの生えたような
  汚い家ではありますが 迎え入れることが出来るでしょう

  さて、恋歌といっても、
   これは庶民の恋。
  それを真似たものです。
 雑草の生えたような、汚い宿だけれど、早くあの娘(こ)を迎え入れたい。ただし「妹(いも)」と呼びかけてはいますが、大伴田村大嬢という女性であり、異母妹(いぼまい)にあたる、大伴坂上大嬢に宛てて、送ったものに過ぎません。戯れの贈答では、しばしば女同士、男同士で、恋愛ごっこのような和歌をやり取りするのは、なにも「勅撰和歌集」の専売特許ではなく、万葉の頃から行われていたことなのです。ついでに、家持の妻が絡んでくる短歌ですから、最後に取り上げてみた訳です。

四巻までのまとめ

 まず、私たちの詠む短歌については、現代語を利用しましょうと述べました。それから万葉集の短歌の説明として、「序詞」「枕詞」という、もっとも基本的な技法を紹介しました。また「倒置法」についてもお話ししました。

 紹介した短歌から、ちょっとした語り口調、あるいは日記に記すくらいの、あたり前の表現でも、あるいはそれを、ちょっと改まった表現へと、移しかえたくらいでも、心情を込めながら、様式化された詩になるということ。そうして『万葉集』は、そのような当たり前の表現の、さりげない和歌が、沢山収められていることは、分かっていただけたかと思います。それから『万葉集』の主人公が、柿本人麻呂や山部赤人などではなく、大伴一族とその仲間たちであるような気が、ちょっとはしてきたのではないでしょうか。

 それでは今回はこの辺で一休みということで、
  次回は「巻第五」から改めて、分かりやすい和歌をばかり、
   眺めていこうではありませんか。
    それでは、そろそろ酒を飲みますので、
   皆さま、さようなら。

               (つゞく)

2016/04/28
2016/05/18 改訂

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