はじめての万葉集 予習編

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はじめての万葉集

テキストについて

 『万葉集』の和歌は、すべて漢字で書かれています。それを和漢混淆文に直してあるのが、普段私たちの目にする万葉集の姿であり、累積された恐るべき膨大な研究の成果でもあります。ですから、校注者(こうちゅうしゃ)によって解釈や、本文が異なることはしばしばですが、ここではもっぱら、
     小学館の新編日本古典文学全集『万葉集』全四巻
     講談社文庫の「万葉集」(中西進)全四巻
     角川ソフィア文庫の「万葉集」(「新編国歌大観」準拠版)上下

を参照して、特に(小学館)のものを中心に置きながら、詩を掲載します。それぞれの本によって発音が違う場合や、詠み方が異なるものは、[A/B]のようにスラッシュで区切って表記する場合がありますが、半ば自分のための、覚書に過ぎません。表現の違いを、網羅したものではありませんので、ご注意願います。またこれらの書籍をいちいち名称で呼ぶのは大変なので、(小学館)(講談社文庫)(角川ソフィア文庫)だけで表現している場合も、特に後に行くほど多くなるかと思います。

・一冊購入する場合、上の三冊でしたら、個人的には(小学館)のものを、圧倒的におすすめします。かさばるし、値段も高いですが(質のいい古本を買えば半額くらいで手に入ります)、見やすいし解説が丁寧で、不明瞭なところを断定せず、疑いのあるところには、慎重な態度であるのも好印象です。何よりも、この手の現代語訳ではきわめて珍しいことに、現代語訳が非常にうまいのが特徴で、自分でもこの表現だと思って書籍を見ると、完全にかぶっていたりします。もちろんわたしの訳が正統という意味では無く、学究的に表現しなければならないところと、現代語のわたしたちの表現で自然であるところのバランスが絶妙で、しかも独断的で腹立たしいところが見られない。それでこそわたしも、「なんだこりゃ」と部屋のなかで吹き出す機会が無くて、残念なくらいナチュラルです。

(講談社文庫)のものは、文庫本は非常に見づらいです。頑張って漢語の原文を載せてあるのはすばらしいのですが、そのためなおさら、解説が十分に取れなくて、現代語訳もみじかく切り詰めたところがあるのではないかと思われます。またスペースの都合もあり、解説が独断的で、それを信じると、別の書籍では違ったりもします。それであまりお勧めできません。

(角川ソフィア文庫)のものは、「新版」は文庫では確認していませんので、何とも言えません。(電子版の感想は下)むしろお勧めなのは、わたしの持っている二冊版で、現代語訳もなく言葉の説明もぎりぎりですが、二十巻全体の構成をつかむのに非常に便利です。あちこち参照するのにも、わずか二冊で済みますから、例えばわたしの解説する和歌をちょっと眺めるくらいの用途なら、かえってこれがお奨めです。ネットなら良質の中古が格安で手に入ると思います。(今のところは)

[電子ブック]については、(講談社文庫)のものと(角川ソフィア文庫)の「新版」は、電子ブックになっていますから、持ち歩くのに便利ですが、見やすいかというと、疑問が残ります。(角川ソフィア文庫)はいくつかの短歌を並べてから、言葉の説明、現代語訳があるので、次のページに移らなければならなかったりと、とにかく見づらいです。サンプルで見たところ、現代語訳はありがちな過剰記述で、突っ込みどころも多い、こなれない日本語になっています。(講談社文庫)のものは、文庫本そのままを画像化してあるようです。サンプルで歌のところまで見られません。なんの意味があるのやら……

本文中の表現

 このサイト独自の執筆方針もありますので、
  以下に書き留めておきます。

おなじ平仮名の反復には「やや」であれば「やゝ」を、
 「ただ」であれば「たゞ」を使用します。
   ただし句が別れている場合は、
    「風を待ち ちかくの」とくり返しを使用しません。
   要するに、ちょっと気分を出しているだけの遊びです。

「ますます」の場合は「ます/\」と、
「かねがね」であれば「かね/”\」と表記します。

漢字とひらがなの配分に関しては、『万葉集』はすべてが漢字で記されているので、それに引きずられて、勅撰和歌集のものよりは、漢字を多く使用しています。ただしこの方針に正当性がある訳ではありません。極論すれば、執筆者のフィーリングに過ぎないものです。

和歌に関しては、本文の和歌にルビを振る場合は、「鶯(うぐひす)」のように歴史的仮名遣いを、その下の作者の名称などには、「僧正遍昭(そうじょうへんじょう)」などと現代語でルビを振ります。作者の名称は、「日本史」上一般的な名称に変えて書きしるす場合があります。

詠みやすいように、句ごとに余白を挿入し、かつ好みに応じて段を変更するのは、本歌とは関係なく、わたしの勝手にしていることに過ぎません。またこれは、詩的感覚に基づいているので、切れとは関係ありません。改行が文脈の途切れと寄り添う場合もありますが、はぐらかした方が面白い場合も多いものですから。

和歌の前の序文は、原文の場合は「」を使用します。原文を現代語に改めたり、勝手に部分引用したり、つまり執筆者の手の加わったものは、『』で標示します。

和歌の基本

 軽く予習をしておくと、内容が分かりやすくなるかと思われます。
 なお古語については、ところどころしか説明を加えませんが、初めのうちは、いちいち立ち止まって、
   「これは何の意味で」
  なんたらさんが推量したとか、
 完了の助動詞がどうのこうのなどと、思い詰める必要はまるでありません。ただ大切なことは、原文をそのまま、なんども口に出して詠んでみてください。あとはわたしの現代文で、おおよその意味はつかみ取れるかと思います。ただしわたしに限らず、いかなるお節介な現代文でも、原文そのものの意味は呈示しきれませんし、あえてそれをやろうとすると、もっとも大切なこと、詠み手の表現のニュアンスそのものが、ずたずたに切り裂かれてしまうことになります。そのことだけは、ご注意願いたいと思います。

 もっとも今は、あまり気にする必要はありません。
  ともかくも原文を、口に出しては唱えてみて下さい。
 それからもう次の和歌へ、さらに次の和歌へと、
とりあえず進んでいってみるのが愉快です。
 やがては、どのような時に、どのような表現がなされているか、その言葉がどのような意味を持っているのか、おぼろげに感じ取れるようになってきます。そうしたら、興味のあるところから、少しずつ辞書でも開いて、思い詰めずに覚えていったらよいでしょう。初めから言葉を解剖することに熱中しないでください。それは精神的な乞食のすることです。それより全体の意味から、詩的な共感を得ることを、おおらかに目指して欲しいと思います。それがわたしの願いです。

[詩の形式]
 形式は、言葉のまとまりが[五七五七七]で三十一字となります。またそれぞれのまとまりを、
    初句(一句)、二句、三句、四句、結句(五句)
と呼びます。

[上下の句]
 またはじめの[五七五]の部分を上の句(かみのく)、後半の[七七]の部分を下の句(しものく)と呼びます。これは勅撰和歌集において「上の句」と「下の句」で文脈が分かれることが多いからで、万葉集の頃には二句目で切れるものも多く、次第に三句目で区切るものが優位になってきたという変遷もありますが、別に万葉集の説明に、支障を来すほどのこともありません。ただ本文中では、面倒なので、[五七]を上の句と「五七七」を下の句と解釈したような表現も見られますが、意味は分かると思うので、注釈もなく上の句、下の句と使用しています。ただそれだけの話です。

[切れ]
 切れとは文脈の途切れ間を指します。句読点を置く場所と考えても良いかも知れません。特に一つの文脈を終えて、次の文脈にうつりかわる句点、つまり「。」の記号を使用する部分には、どんなに嫌がっても、文脈が切れた感じが起こりますから、そこで切れることになります。程度の問題なので、読点、つまり「、」くらいで結句まで押し通しても、やはり弱い切れは生じるのが普通です。実は「切れなし」などと称している短歌でも、実際はどこかで切れ目が存在しています。何しろ途絶える感じというのは、句読点だけではないですから。

[言葉]
 万葉集の時代なら、大和言葉の至上主義には毒されず、沢山の漢語も込められていよう、と思う方もあられるかもしれませんが、なかなかどうして、万葉集の和歌も、「法師」とか「行幸(ぎょうこう)」とか、漢語をそのまま読んだような表現は、あまり見られません。すでに大和の詩であるからという意識が、存在している。もちろん程度の問題には過ぎませんから、一切登場しない訳ではありませんが、むしろ『万葉集』で、漢文で記されている部分の表現が、和歌の方には浸食していかないのは、驚くほどの決別です。

[詞書(ことばがき)]
 和歌の前後におかれた散文の説明書きで、和歌の詠まれた状況などを説明したもの。単なる「お題は~」や「~の歌合で」といった簡単な説明から、ほとんど独立した物語のようになって、最後に和歌が添えられているような、歌物語的なものまで、その用法は幅広い。また『万葉集』では、冒頭に置かれるだけでなく、和歌を記した後で、「右の和歌は~」と説明を加える、「後書」になっている場合も多い。これは一般には「左注(さちゅう)」と呼ばれる。

[枕詞(まくらことば)]
 たとえば「ひさかたの空」「あしびきの山」「ちはやぶる神」など、「空、山、神」に掛かるおきまりの表現のことで、ある種のイメージを内包するものの、その言葉自体に独立した意味はありません。ただ特定の単語を飾り立てるような印象で、捉え方としてはむしろ「ひさかたの空」全体で「空」を表現しているのだと考えて結構です。
 万葉集ではきわめて使用され、『古今集』以後の枕詞はその残骸に過ぎなかったのではないか、と思わせるくらいですが、現代文に翻訳するときは、わざわざ説明を加えずに、
     「(ひさかたの)空を見上げて」
などと()書きにしてある場合も多いので、覚えて置いてください。

[序詞(じょことば)]
 枕詞がある単語に結びつく、定められた表現であるとすれば、序詞はある言葉に結びつく、定められていない表現であると言えるかもしれません。たとえば、
「ひさかたの空」ではなく、
「雲もなく青々とした空」と置きます、
 もしこれが和歌の内容そのものとして使用されたなら、技法も糸瓜(へちま)もありません。和歌の本体に過ぎませんから。けれどももしこれを、
「雲もなく青々とした空色の鉛筆で」
として「描いて見たいなあなたの笑顔を」としたらどうでしょう。もう「雲もなく青々とした空」は、本文の内容とは一致しない、青色の空だけを修飾するものになってしまいます。とりあえず序詞は、このように特定の言葉だけを修飾する文で、本文の内容とは直接関係にないものと思っておいてくだされば、初めの一歩としては、十分かと思われます。これも枕詞と同様、『万葉集』では数多くの短歌に見られるもので、後の勅撰和歌集のものよりも、つじつまの合わないもの、全体の調和をないがしろにするような場合も、少なくありません。おそらくは、「まくらことば」と共に、即興で短歌を詠み上げるための、武器庫の役割を果たしていたのではないでしょうか。

[掛詞(かけことば)]
 短詩型なので、言葉の省略が重要な戦略になってきます。そこでたとえば、
「まるで夜汽車の遠ざかりゆくわたしの思い」
などとして「遠ざかりゆく」の中に、夜汽車の遠ざかるさまと、遠ざかるわたしの思いを同時に込めるようなことは、きわめてあたりまえの表現としてなされます。ただしこれは掛詞ではありません。掛詞はもっとアクロバットな技法で、たとえば
「枯れた野に変わらないもの松ばかり」
と松だけは青々としていることを表現していると思わせておきながら、この「松ばかり」を別の「待つ」に置き換えて、
「枯れた野に変わらないもの待つばかり
   それでも来ないあなたなのです」
ただ変わらずに待っているけれど、あなたは来ないと詠み替えてしまう。つまりは一つの言葉に、違う二つの意味を重ね合わせるのが掛詞です。

[縁語(えんご)]
 縁語というのはつまり、縁のある言葉のことです。たとえば火という単語がある。そうしたら、
     「燃える」「熱い」「赤い」「さかる」
など関係のある言葉はみな縁語であるということになる訳です。つまり普通に作っていても、自然に関連語が内包される場合は多いのですが、意識的に使用したものとしては、万葉集よりも、勅撰和歌集の時代になってから目立つようになります。ただし無いわけではありません。

[本歌取(ほんかど)り]
 本歌を使用して、新しい歌として詠むことは数多くありますが、聞き手が読み歌を知っていることを利用して、さらなる表現を目指すという方針は、特に『新古今集』の時代を中心に流行を迎えたもののようです。『万葉集』ではむしろ、同種の定型パターンを使用したに過ぎないもの、他の歌のフレーズを、自分の歌に用いたものの、別に本歌の参照をもくろんでいないもの。あるいは今日の基準なら、盗用とも言われかねないようなものは沢山ありますが、『新古今集』などに見られるような意味での本歌取りは、あまり見られないかと思います。ただしこれも、無いわけではありません。

[その他]
 見るべき修辞法があれば、本分の中で説明することもあるかもしれませんが、これくらいの知識を予習しておけば、あとは本文を眺めたほうがはやいでしょう。

超初心者用の覚書

[「ゐ」と「ゑ」]
 古典にまったく慣れていない人だと、意外とこの二つで足を止めることがあるかもしれません。「ゐ」は「い」で、「ゑ」は「え」だと言われても、しばらくすると、記号を忘れてしまうからです。わたしにもかつて、そんな覚えがあります。そんな人は、
     「ぬ」に似ているのが「い」、
      「る」の下に「ん」を付けたのが「え」

という意味を込めて、「ぬがい、るんがえ」と呪文のように何度も唱えて見るのがよいでしょう。馬鹿にするなって? そういう馬鹿なやり方の方が、覚えやすいんですから、大いに結構ではありませんか。なんなら「犬がるんがえ」でもいいっすかね。

見取り図

 『万葉集』の和歌の総数は4500ちょっとくらいですので、それぞれの巻を別にして眺めるより、全二〇巻を一つのサイクルとして、簡単な和歌から、より表現のしっかりしたもの、豊かなもの、比類無いものへと、何度もサーキットを巡りながら、話を進めてみようかと思います。その際、和歌を自らも作ると云うことを、一つの指標として掲げ、短歌を作りながら万葉集を学ぶのか、万葉集を学びながら短歌を作っているのだか、分からないような領域を、模索してみるのも愉快です。そうして空前絶後です。時折脱線も楽しみです。

 最初に置かれた、「万葉集あるいは短歌の作り方」だけは、万葉集の紹介よりも、短歌の作り方にウェイトが置かれたもので、実際に短歌をはじめる方への、第一歩を提供している……つもりです。

2016/05/01

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