はじめての万葉集 はじめに

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はじめての万葉集

詩の定義

 わたしたちは生まれるとすぐに、
    誰かの言葉に耳を傾けます。
  それが何であるかを得ようとして、
     いつしかそれを真似します。
   親の話している言葉つきは、
      こちらから仕向けることもなく、
    おのずから身につけてゆくのです。
       それが人と言葉の関わりの本質で、
     永遠に変わることはありません。

 わたしたちは生まれも一向に、
    誰かの言葉を読もうとは思いません。
  それが何であるか得ようともせず、
     容易に真似しようとはしないもの。
   親が活字を読んでいても、
      こちらから努力して教えなければ、
    おのずから身につけてはゆきません。
       それが人と活字との関わりの本質で、
     永遠に変わることはありません。

 語ることは言葉を躍動させ、
   書き記すことはままならない、
     高度な表現を自由にする。
  それらは共に大切な、
    わたしたちの表現ではあるけれど。

 詩の領域の本質は、
    語られることを良しとします。
  修辞をこらした文章も、
     みてくればかりのお化粧も、
   口に出して崩れたら、
      もう取り返しが付きません。
    それからなんど読み返しても、
       その落書きはいびつです。
     口に出すのがわたしたちに、
        優位であるからどうしても、
           くつがえすことはかないません。

 取るにたらない落書きも、
    口にしてみて心地よい、
  響きがしたらもう二度と、
     つまらない記述とは思えません。
   眺めた言葉はたちまちに、
      語りの愉快へうつされて、
    黙読したような印象は、
       まやかしだったと思うでしょう。
     口に出すのがわたしたちに、
        優位であるからどうしても、
           くつがえすことはかないません。

それをわきまえているならば、
  どれほど記述の領域を、
    取り込んだって語られる、
 よろこびくらいへ戻されて、
   きびきび羽ばたくことでしょう。

 ただ語ることだけを指標とし、
   感情ばかりの表出も、
     新聞めかした解説も、
  言葉を伝える有効性の、
    内容の違いと悟るとき、
      あらゆる表現は一つとなり、

(あるいはもはや話し言葉も、
   階層の異なる書き言葉すらなくなって)

 語りのうちへと帰るでしょう。
    ゆたかな指標と生きるでしょう。
   それがわたしのひそやかな、
      願いと定理に過ぎないのですから。

所信表明

 ある詩型がそれを営むべき社会において生命力を保っている間は、どれほどその内なる表現が、常態を乖離しているように思われても、それを逃れることはありません。現在社会において、カラオケなどで歌われる歌詞が、どれほど破天荒なように思われても、詩として破綻していないように思われるのは、(あるいは市場原理によってかもしれませんが、)提供者と享受者の緊張感によって、今わたしたちが使用している、言語の営みそのものから、(もちろん文法からではなく、)詩が紡ぎ出されているからに過ぎません。

 前世紀に「現代詩」(今なら古代詩でしょうか)と呼ばれた一ジャンルや、サークル活動にいそしんだ特定の短詩の領域に、すべてではないにしろ、口に出すやいなや、作者の浅はかな着想やら頓知が、下手な口調で語られて、心情が伝わらないどころか、馬鹿にされたような気になるものが、なかなか現在の焼却システムでは、廃棄できないくらい、あしびきの山高く積まれているのは、それが通のものだからという訳ではなく、それが詩として、享受者の言語生活から乖離した、まがいものに陥っているからには違いないのです。

(今の語りの特徴のまま、言葉付きだけを古い言葉に置き換えて、いびつなものを生みなすことが、多少の感受性を持つ人たちから見たら、どれほど言葉をもてあそんだ、きたならしいものに思われるか。それは制作者が、みずからの言葉ではなく、嘘の言葉をもてあそんでいるからに他なりません。もちろん制作者が、その言葉を本当に豊かに使用することが出来れば、みずからの言葉としているのであれば、つまりはそつなく模倣することが可能であるならば、それは擬古的な詩として、生命力を得ることは出来るかもしれません。あるいは、現在の表現との兼ね合いを操れるほどの巧みならば、それはもう、どんな使い方をしても、焼却されるような、不要物に陥ることはないでしょうが、往々にして今日の言葉ですら詩を書くことも出来ない人々が、そのような不可解な行動に、慰めを見いだしているような、掃き溜めです。)

 わたしには言葉をもてあそぶ人は不気味です。
  変な言葉遣いの、センテンスすらままならない、
   わめき散らす人たちよりもはるかに、
  言葉を破壊しているように思われてなりません。

 わたしたちはそれとは関わらず、
   伝えたいことを、その心情はないがしろにせず、
     ただちょっと様式化して、
       詩としての存在意義を高めたくらいの、
     あるいはそれは、ポピュラー音楽の歌詞くらいの、
   ありきたりの言葉から生まれて、結晶化されたもの。
 そんな詩を求めて、旅をしてみようではありませんか。

P.S.
  そのような訳ですから、
   わたしたちと主義の異なる人たちは、
    あちらからお引き取りください。
   それがわたしの願いです。

2016/04/20
2016/05/14 改訂

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