古今和歌集の朗読

古今和歌集(こきんわかしゅう) (朗読ファイルは下)

成立について
………古今和歌集までの道のりは長かった。
しかし、「パパ泣(887)かないで」の年号暗記でも知られる? 宇多天皇が887年に天皇に即位。さらに897年に醍醐天皇(だいごてんのう)に譲位しつつ、上皇の立場から政治への影響力を行使した時代は、平安時代の一つの転換点となった。
 桓武天皇時代頃に隆盛を極めていた、中国風文化、漢文至上主義、公私の明確な分離が、大胆に転換を遂げたのである。相変わらず中国風は重要なテーマだったが、それにしても万葉集以来、比較的周辺に追いやられていた和歌がクローズアップされ始めた。やがては下級貴族でも、和歌さえ堪能であれば、出世の道さえ開けるような公私混同さえも、この時代から目立ってくるようである。
 もっとも、古今和歌集に取られる「読み人知らず」の歌に古いものがあり、また古今和歌集の序文において六歌仙(ろっかせん)と呼ばれる歌い手達の活躍も、八世紀半ば頃であることから、必ずしも和歌が衰微し、ここで復活を遂げたというものでは無かった。日本風の見直しについては、象徴的に894年に遣唐使が白紙に戻されたことや、漢文の才能の豊かだった菅原道真が、901年には太宰府に左遷させられるなどを上げておいてもかまわないかも知れない。(あくまでも象徴として述べるのではあるが)
 そんな中、902年には歌会である「藤花宴(とうかえん)」が開かれた記録があるなど、しだいに公的な宮中行事に、和歌が重要な意味を持っていった。つまりは宇多天皇が、さらに醍醐天皇が、和歌を貴族の公的なたしなみへと導いたこともあって、この頃は和歌のブームの最初の波が、宮中を飲み込む形となったのである。そんな中で、醍醐天皇の勅命によって、我が国初めての和歌における勅撰和歌集(天皇が命じて集めさせたもの)の編纂が進められ、905年(他にも説あり)に「古今和歌集」として醍醐天皇に奏上されている。


……古今和歌集は、万葉集以後から勅撰時までの歌の中から、優れものを選び出そうという作業であった。撰者は、
紀友則(きのとものり)(845?-907?)
その従兄弟であり、「土佐日記」で有名な
紀貫之(きのつらゆき)(866?-945?)
壬生忠岑(みぶのただみね)(860?-920?)
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)(859?-925?)
の四人だったが、紀友則は完成を見ることなく亡くなっている。この紀友則は、恐らくすべての和歌のうちでもっとも有名な、
「久方のひかりのどけき春の日に
しづ心なく花のちるらむ」

の作者であり、「古今和歌集」の中に、彼の死を悼む歌が収められていることから、完成前に死んだとされるが、古今和歌集は、905年の上奏以後も改訂が続けられているから、どの時点で亡くなったのかはちょっと不明瞭だ。
内容
……古今和歌集の和歌は、一応万葉以後と説明される。もっとも多いのは、和歌の隆盛を極めた撰者時代である。それも撰者四人で全体の1/4近くを占めているが、特に群を抜いているのが紀貫之で百を超える歌を収めているのである。巻は全20巻。特に[1-6]巻までの四季のカテゴリーと、[11-15]巻までの恋歌は、全体の重要な柱となっている。恋の歌は全体の半分を占めている。
 古今和歌集は後世の和歌伝統を確定したといっても良いほどの影響力を持ち、「枕草子」にも貴族の皆さんがこれを暗記しまくりだったことが記されている。さらに序文に、漢文で書かれた真名序(まなじょ)と、ひらがなで書かれた仮名序(かなじょ)を持ち、特に紀貫之の記した、仮名序は、歌そのものと共に後世に多大な影響を及ぼすこととなった。約1100首あまりを持ち、バイブルとするのにもちょうど良い。
 あるいは象徴的に述べるならば、万葉集が旧約聖書だとするならば、古今和歌集こそ、新約聖書にあたると言えるかもしれない。とくに古今和歌集を持って、和歌こそが宮廷文学の中心として捉えられることになった。
 だからこそ、藤原俊成(ふじわらのとしなり・しゅんぜい)(1114-1204)やその息子である藤原定家(ふじわらのさだいえ)(1162-1241)によって、基礎とすべき和歌集として置かれたのである。その質の高さは、今日においても、万葉集を凌ぐと思われる。というか、万葉集は、歌に幅がありすぎて、ずいぶん悲惨な歌も含まれているものだから。
以後の勅撰について
[三代集]
古今和歌集(こきんわかしゅう)
後撰和歌集(ごせんわかしゅう)(950年頃)
拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)(1006年頃)
[八代集(上に加えて)]
後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)(1086年頃)
金葉和歌集(きんようわかしゅう)(1126年頃)
詞花和歌集(しかわかしゅう)(1151年頃)
千載和歌集(せんざいわかしゅう)(1188年頃)
新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)(1205年頃)
[以下十三代集を合わせて二十一代集となる]
性格
・ 耽美主義(たんびしゅぎ)、時に現実を踏み越えたイメージを表現
・ 理知的な比喩、掛詞や縁語の使用による技巧性
・ また賀茂真淵(かものまぶち)が「ますらおぶり」の万葉集に対して、「たわやめぶり」だといったことが引用されるが、真淵は万葉賛美の傾向が強かったことは見逃してはならない。
・ 五七調から七五調への移り変わりの傾向
・ 万葉時代よりあった独詠(どくえい)、対詠(たいえい)(贈答歌など)の他に、題目を設けてそれに基づいて和歌を詠むという題詠(だいえい)、また屏風歌といって、屏風絵に歌を記すような機会が増加し、これらが新しい理知的な傾向に一役買っているようである
・ 実際は万葉調の素朴なもの、驚くほど率直な和歌や、武士的なものもあり、非常にバラエティに富んでいる。あまりひとくくりに、こうだと言い切らないほうがよいかもしれない。
古今伝授について
戦国時代頃から、古今伝授というものが起こってくる。藤原定家の流れを引いている口伝などが関係しているようだが、古今和歌集の秘説を宗祇(そうぎ)に伝えたのが実際の始まりとされた。これは危機的状況にも、王朝文化の粋を守り通そうとする意識から発したものだとか。もっとも「古今和歌集」の伝授と言っても、勝手に武士道に結びつけられた曲解のような解釈など、今日から見ると不思議な解釈が、ひっそり伝授されたりしたようである。詳しくは不明だ。
 特に細川幽斎(1534-1610)は、当時唯一の伝承者として、後陽成天皇が勅命を発して関ヶ原の戦いにおいて彼を助けたという逸話を残している。細川幽斎が助かった後、智仁親王(としひとしんのう)に古今伝授を行い(1600年)、この時、古今伝授を行った建物が、古今伝授の間として、熊本市水前寺公園内に移築されている。また公家の烏丸光広(からすまるみつひろ)にも古今伝授を行い、その際に細川幽斎から烏丸光広に渡された太刀は古今伝授の太刀(国宝)と呼ばれている。古今伝授の本意は不明だが、有名な例として、(流派によってさらに違うらしいが)
[三木(さんぼく)]
おがたまの木、めどにけづり花、かはな草
[三鳥(さんちょう)]
よぶこどり、ももちどり、いなおほせどり
なんてのがあるので、ついでに紹介しておこう。

古今和歌集の朗読

朗読について
……自分で始めて黙読する代わりに、朗読しているような不始末なので、間違いもあると思われます。詞書、読人などは無視して、ひたすらに和歌を順番に読み流していきます。その代わり、抜粋ではなく、すべて朗読します。ただしテキストはつきません。
仮名序(かなじょ)
……序文には、仮名序と真名序がある。紀貫之が記した仮名文は、なかなかの名文なので、ついでにこれも朗読いたす。
朗読ファイル(直接音声ファイルです)
1. 古今和歌集の朗読[巻第一 春歌上]
2. 古今和歌集の朗読[巻第二 春歌下]
3. 古今和歌集の朗読[巻第三 夏歌]
4. 古今和歌集の朗読[巻第四 秋歌上]
5. 古今和歌集の朗読[巻第五 秋歌下]
6. 古今和歌集の朗読[巻第六 冬歌]
7. 古今和歌集の朗読[巻第七 賀歌]

古今和歌集に関するリンク

古今和歌集
………ウィキペディアの「古今和歌集」

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