草稿詩篇(1937)

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春と恋人

美しい扉の親しさに
私が室(へや)で遊んでゐる時、
私にかまはず実(みの)つてた
新しい桃があつたのだ……

街の中から見える丘、
丘に建つてたオベリスク、
春には私に桂水くれた
丘に建つてたオベリスク……

蜆(しじみ)や鰯[いわし]を商(あきな)ふ路次の
びしよ濡れの土が歌つてゐる時、
かの女は何処[どこ]かで笑つてゐたのだ

港の春の朝の空で
私がかの女の肩を揺つたら、
真鍮[しんちゅう]の、盥(たらひ)のやうであつたのだ……

以来私は木綿の夜曲?
はでな処(とこ)には行きたかない……

少女と雨

少女がいま校庭の隅に佇[たたず]んだのは
其処[そこ]は花畑があつて菖蒲[しょうぶ]の花が咲いてるからです

菖蒲の花は雨に打たれて
音楽室から来るオルガンの 音を聞いてはゐませんでした

しとしとと雨はあとからあとから降つて
花も葉も畑の土ももう諦めきつてゐます

その有様をジツと見てると
なんとも不思議な気がして来ます

山も校舎も空の下(もと)に
やがてしづかな回転をはじめ

花畑を除く一切のものは
みんなとつくに終つてしまつた 夢のやうな気がしてきます

夏と悲運

とど、俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられない。

思へば小学校の頃からだ。
例へば夏休みも近づかうといふ暑い日に、
唱歌教室で先生が、オルガン弾いてアーエーイー、
すると俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられなかつた。
格別、先生の口唇が、鼻腔[びこう・びくう]が可笑[おか]しいといふのではない、
起立して、先生の後(あと)から歌ふ生徒等が、可笑しいといふのでもない、
それどころか俺は大体、此の世に笑ふべきものが存在[ある]とは思つてもゐなかつた。
それなのに、とど、笑ひ出さずにやゐられない、
すると先生は、俺を廊下に出して立たせるのだ。
俺は風のよく通る廊下で、淋しい思ひをしたもんだ。
俺としてからが、どう解釈のしやうもなかつた。
別に邪魔になる程に、大声で笑つたわけでもなかつたし、
然[しか]し先生がカンカン[正しくは永い「く」の繰り返し記号]になつてゐることも事実だつたし、
先生自身何をそんなに怒るのか知つてゐぬことも事実だつたし、
俺としたつて意地やふざけで笑つたわけではなかつたのだ。
俺は廊下に立たされて、何がなし、「運命だ」と思ふのだつた。

大人となつた今日でさへ、さうした悲運はやみはせぬ。
夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。
やがて俺は人生が、すつかり自然と游離[ゆうり]してゐるやうに感じだす。
すると俺としたことが、もう何もする気も起らない。
格別俺は人生が、どうのかうのと云ふのではない。
理想派でも虚無派でもあるわけではとんとない。
孤高を以て任じてゐるなぞといふのでは尚更[なおさら]ない。
しかし俺としたことが、とど、笑ひ出さずにやゐられない。

どうしてそれがさうなのか、ほんとの話が、俺自身にも分らない。
しかしそれが結果する悲運ときたらだ、いやといふほど味はつてゐる。


(一九三七・七)

[無題]

嘗[かつ]てはラムプを、とぼしてゐたものなんです。
今もう電燈(でんき)の、ない所は殆どない。
電燈もないやうな、しづかな村に、
旅をしたいと、僕は思ふけれど、
卻々[なかなか]それも、六ヶ敷[むつかし]いことなんです。

吁[ああ]、科学……
こいつが俺には、どうも気に食はぬ。
ひどく愚鈍な奴等までもが、
科学ときけばにつこりするが、
奴等にや精神(こころ)の、何事も分らぬから、
科学とさへ聞きや、につこりするのだ。

汽車が速いのはよろしい、許す!
汽船が速いのはよろしい、許す!
飛行機が速いのはよろしい、許す!
電信、電話、許す!
其[そ]の他はもう、我慢がならぬ。
知識はすべて、悪魔であるぞ。
やんがて貴様等にも、そのことが分る。

エエイツ、うるさいではないか電車自働車と、
ガタガタガタガタ[正しくは長い「く」の記号]、朝から晩まで。
いつそ音のせぬのを発明せい、
音はどうも、やりきれぬぞ。

エエイツ、音のないのを発明せい、
音のするのは、みな叩き潰[つぶ]せい!

秋の夜に、湯に浸り

秋の夜に、独りで湯に這入[はい]ることは、
淋しいぢやないか。

秋の夜に、人と湯に這入ることも亦[また]、
淋しいぢやないか。

話の駒が合つたりすれば、
その時は楽しくもあらう

然しそれといふも、何か大事なことを
わきへ置いといてのことのやうには思はれないか?

――秋の夜に湯に這入るには……
独りですべきか、人とすべきか?

所詮[しょせん]は何も、
決ることではあるまいぞ。

さればいつそ、潜(もぐ)つて死にやれ!
それとも汝、熱中事を持て!

   ※     ※
      ※

四行詩

おまえはもう静かな部屋に帰るがよい。
煥発[かんぱつ]する都会の夜々の燈火を後(あと)に、
おまへはもう、郊外の道を辿(たど)るがよい。
そして心の呟[つぶや]きを、ゆつくりと聴くがよい。

2009/04/29

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