虫の声 (中原中也)

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虫の声

夜が更けて、
一つの虫の声がある。

それはたしかに庭で鳴いたのだが、
鳴き了[おわ]るや、それは彼処(かしこ)野原で鳴いたやうにもおもはれる。

此処[ここ]と思ひ、彼処と思ひ、
あやしげな思ひに抱かれてゐると、

此処、庭の中からにこにことして、幽霊は立ち現はれる。
よくみれば、慈[いつく]しみぶかい年増婦(としま)の幽霊。

一陣の風は窓に起り、
幽霊は去る。

虫が鳴くのは、
彼処の野でだ。

        (一九三三・八・九)

2011/1/7

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