こんな悪達者[わるだっしゃ]な人にあつては
僕はどんな巻添へを食ふかも知れない
僕には智恵が足りないので
どんなことになるかも知れない
悪気がちつともないにしても
悪い結果を起したら全くたまらない
悪気がちつともないのに
悪い結果が起りさうで心配だ
なんのことはない夢みる男にとつて
悪達者な人は罠(わな)に過ぎない
格別鎌[かま]を掛けられるのではないのであつても
鎌を掛けられたことになるのだからかなはない
それを思へば恐ろしい気がする
もう何も出来ない気がする
それかといつて穴に這入[はい]つてもゐられず
僕はたゞだんだんぼんやりして来る
あゝ、神様お助け下さい!
これははやどうしやうもございません。
貴方[あなた]のお助けが来ない限りは、
これは、どうしやうもございません。
このどうしやうもないことの理由を
一度は詳しく分解して人に示さうとも考へました
その分解から法則を抽[ひ]き出し纏[まと]め、
人々に教へようとも考へました
又はわたしの遭遇[そうぐう]する一々の事象を極めて
明細に描出[びょうしゅつ]しようとも考へました
しかし現実は果しもなく豊富で、
それもやがて断念しなければならなくなりました。
それから私はもう手の施しやうもなく、
たゞもう事象に引摺[ひきず]られて生きてゐるのでございますが、
それとて其処[そこ]に落付いてゐるのでもなく、
搗(か)てて加へて馬鹿さの方はだんだん進んで参るのでございます
かくて今日はもう、茲[ここ]に手をついて、
私はもう貴方のお慈悲を待つのでございます
そして手をつくといふことが
どのやうなことだかを今日初めて知るやうなわけでございます。
神様、今こそ私は貴方の御前に額[ぬか]づくことが出来ます。
この強情な私奴[め]が、散々の果てに、
またその果ての遅疑[ちぎ]・痴呆の果てに、
貴方の御前に額づくことが出来るのでございます。
※
扨[さて]斯様[かよう]に御前に額づいてをりますと、
どうやら私の愚かさも、懦弱[だじゃく]の故[ゆえ]に生ずる悪も分つてくるやうな気も致します、
然[しか]しそれも心許[こころもと]なく、
私は猶[なお]如何様[いかよう]にしたらよいものか分りません。
※
私はもう泣きもしませぬ
いいえ、泣けもしないのでございます
茲[ここ]にかうしてストイック風に居[お]りますことも
さして意趣[いしゅ]あつてのことではございません
せめてこのやうに足痛むのを堪(こら)へて坐[すわ]つて、
呆[ほう]けた心を引き立ててゐるやうなものでございます。
※
妻と子をいとほしく感じます
そしてそれはそれだけで、どうすることも出来ないし
どうなることでもないと知つて、
どうしようともはや思ひも致しません
而[しか]もそれだけではどうにも仕方がないと思つてをります……
僕は人間が笑ふといふことは、
人間が憎悪[ぞうお]を貯(た)めるゐるからだと知つた。
人間が口を開(あ)くと、
蝦茶色[えびちゃいろ]の憎悪がわあツと跳び出して来る。
みんな貯まつてゐる憎悪のために、
色々な喜劇を演ずるのだ。
たゞその喜劇を喜劇と感ずる人と、
極[ご]く当然の事と感ずる馬鹿(ばか)者との差違があるだけだ。
私は見た。彼は笑ひ、
彼は笑つたことを悲しみ、
その悲しんだことをまた大したことでもないと思ひ、
彼はたゞギヨツとしてゐた。
私は彼を賢者だと思ふ
(そしたら私は泣き出したくなつた)
私は彼に、何も云ふことはなかつた
而[しか]も黙つて何時[いつ]まで会つてゐることは危険だと感じた。
私は一散に帰つて来た。
※
私はどうしやうもないのです。
※
あゝ、どうしやうもないのでございます。
[悪達者(わるだっしゃ)]
・芸能などが巧みではあるが下品であること。
[鎌を掛ける]
・本音を言わせるために狡猾に誘いを掛けること
[搗てて加えて(かててくわえて)]
・そのうえ、さらに。(好くないことのさらに重なるときに使用する場合が多い )
[額づく=額ずく(ぬかずく)]
・額を地に付けて拝礼する。最敬礼なみのお辞儀をする。
[遅疑(ちぎ)]
・疑いや迷いがあってためらうこと。ぐずぐずしていてなかなか決行しないこと。
[懦弱=惰弱(だじゃく)]
・怠けていて弱いこと。意気地のないこと。
[ストイック]
・(ギリシア哲学における)「ストア派の」といった意味。そこから、禁欲的といった意味を持っている。
[意趣(いしゅ)]
・考え、意向。あるいは、理由。あるいは意地。または「恨み」といった意味を持つ。
[蝦茶色(えびちゃいろ)]
・黒みを帯びた赤茶色。
2009/04/01
2011/1/20再録音