夏 (中原中也)

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なんの楽しみもないのみならず
悲しく懶[ものう]い日は日毎続いた。
日を転ずれば照り返す屋根、
木々の葉はギラギラしてゐた。
雲はとほく、ゴボゴボと泡立つて重なり、
地平の上に、押詰つてゐた。
海のあるのは、その雲の方だらうと思へば
いぢくねた憧れが又一寸[ちよつと]擡頭[たいとう]する真似をした。

このやうな夏が何年も何年も続いた。
心は海に、帆をみることがなかつた。
漁師町の物の臭[にお]ひと油紙(あぶらがみ)と、
終日陽を受ける崖とは私のものであつた。
可愛い少女の絨毛[わくげ]だの、パラソルだの、
すべて綺麗でサラサラとしたものが、
もし私の目の前を通り過ぎたにせよ、そのために
私の眼が美しく光つたかどうかは甚[はなは]だ疑はしい。

――今は天気もわるくはないし、暴風の来る気配も見えぬ、
よつぽど突発的な何事かの起らぬ限り、
だから夕方までには浜には着かうこの小舟。
天心に陽は熾[さか]り、櫓[ろ]の軋る[きし]音、鈍い音。
偶々[たまたま]に、過ぎゆく汽船の甲板からは
私の舟にころがつたたつた一つの風呂敷包みを、
さも面白さうに眺めてござる
エー、眺めてゐるではないかいな。

    波々や波の眼[まなこ]や、此の櫂[かい]や
    遠[をち]に重なる雲と雲、
    忽然[こつぜん]と吹く風の族[やから?]
、     エー、風の族、風の族。

       (一九三三・八・一五)

言葉の意味

いじくねる
・[茨城弁]意気地を張る、とかいう意味。


・[茨城弁]意気地を張る、とかいう意味。

2009/05/03
2010/1/10新朗読

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