暗い空に鉄橋が架かつて、
男や女がその上を通る。
その一人々々が夫々[それぞれ]の生計(なりはい)の形をみせて、
みんな黙って頷[うなず]いて歩るく。
吊られてゐる赤や緑の薄汚いラムプは、
空いつぱいの鈍い風があたる。
それは心もなげに燈[とも]つてゐるのだが、
燃え尽した愛情のやうに美くしい。
泣きかゝかる幼児を抱いた母親の胸は、
掻乱[かきみだ]されてはゐるのだが、
「この子は自分が育てる子だ」とは知ってゐるやうに、
その胸やその知つてゐることや、夏の夜の人通りに似て、
はるか遥かの暗い空の中、星の運行そのまゝなのだが、
それが私の憎しみやまた愛情にかゝはるのだ……。
私の心は腐つた薔薇[ばら]のやうで、
夏の夜の靄[もや]では淋しがって啜[すすりな]く、
若い士官の母指(おやゆび)の腹や、
四十女の腓腸筋[ひちょうきん]を慕ふ。
それにもまして好ましいのは、
オルガンのある煉瓦の館(やかた)。
蔦蔓(つたかづら)が黝々(くろぐろ)と匐[は]ひのぼつてゐる、
埃りがうつすり掛かつてゐる。
その時広場は汐[な]ぎ亙[わた]つてゐるし、
お濠[ほり]の水はさゞ波たてゝる。
どんな馬鹿者だつてこの時は殉教者の顔付をしてゐる。
私の心はまづ人間の生活のことについて燃えるのだが、
そして私自身の仕事については一生懸命練磨するのだが、
結局私は薔薇色の蜘蛛だ、夏の夕方は紫に息づいてゐる。
2009/03/25