君ら想はないか、夜毎何処かの海の沖に、
火を吹く龍がゐるかもしれぬと。
君ら想はないか、曠野[こうや]の果に、
夜毎姉妹の灯ともしてゐると。
君等想はないか、永遠の夜(よる)の浪、
其処に泣く無形(むぎやう)の生物(いきもの)、
其処に見開く無形(むぎやう)の瞳、
かの、かにかくに底の底……
心をゆすり、ときめかし、
嗚咽[おえつ]・哄笑[こうしょう]一時(いつとき)に、肝に銘じて到るもの、
清浄こよなき漆黒のもの、
暖(だん)を忘れぬ紺碧[こんぺき]を……
* *
*
空の下(もと)には 池があつた。
その池の めぐりに花は 咲きゆらぎ、
空はかほりと はるけくて、
今年も春は 土肥やし、
雲雀[ひばり]は空に 舞ひのぼり、
小児が池に 落つこつた。
小児は池に仰向けに、
池の縁(ふち)をば 枕にて、
あわあわあわと 吃驚(びつくり)し、
空もみないで 泣きだした。
僕の心は 残酷な、
僕の心は 優婉[ゆうえん]な、
僕の心は 優婉な、
僕の心は 残酷な、
涙も流さず 僕は泣き、
空に旋毛(つむじ)を 見せながら、
紫色に 泣きまする。
僕には何も 云はれない。
発言不能の 境界に、
僕は日も夜も 肘ついて、
僕は砂粒に 照る日影だの、
風に揺られる 雑草を、
ジツと瞶[みつ]めて をりました。
どうぞ皆さん僕といふ、
はてなくやさしい 痴呆症、
抑揚の神の 母無(おやな)し子(ご)、
岬の浜の 不死身貝、
そのほか色々 名はあれど、
命題・反対命題の、
能[あた]ふかぎりの 止揚場(しやうぢやう)、
天(あめ)が下なる 「衛生無害」、
昔ながらの薔薇[ばら]の花、
ばかげたものでも ござりませうが、
大目にあづかる 為体(ていたらく)。
かく申しまする 所以[ゆえん]のものは、
泣くも笑ふも 朝露の命、
星のうちなる 星の星……
砂のうちなる 砂の砂……
どうやら舌は 縺[もつ]れまするが、
浮くも沈むも 波間の瓢(ひさご)、
格別何も いりませぬ故、
笛のうちなる 笛の笛、
――次第に舌は 縺れてまゐる――
至上至福の 臨終(いまは)の時を、
いやいや なんといはうかい、
一番お世話になりながら、
一番忘れてゐられるもの……
あの あれを……といつて、
それでは誰方(どなた)も お分りがない……
では 忘恩悔ゆる涙とか?
えゝまあ それでもござりまするが……
では――
えイ、じれつたや
これやこの、ゆくもかへるも
別れては、消ゆる移り香、
追ひまはし、くたびれて、
秋の夜更に 目が覚めて、
天井板の 木理(もくめ)みて、
あなやと叫び 呆然[ぼうぜん]と……
さて われに返りはするものの、
野辺の草葉に 盗賊の、
疲れて眠る その腰に、
隠元豆の 刀あり、
これやこの 切れるぞえ、
と 戸の面(おもて)、丹下左膳[たんげさぜん]がこつち向き、
――狂つた心としたことが、
何を云ひ出すことぢややら……
さはさりながら さらばとて、
正気の構へを とりもどし、
人よ汝(いまし)が「永遠」を、
恋することのなかりせば、
シネマみたとてドツコイシヨのシヨ、
ダンスしたとてドツコイシヨのシヨ。
なぞと云つたら 笑はれて、
ささも聴いては 貰へない、
さればわれ、明日は死ぬ身の、
今ここ[←正しくは漢字]に 不得要領……
かにかくに 書付けましたる、
ほんのこれ、心の片端(はしくれ)、
不備の点 恕[ゆる]され給ひて、
希[ねが]はくは お道化[どけ]お道化て、
ながらへし 小者にはあれ、
冥福の 多かれかしと、
神にはも 祈らせ給へ。
一九三四・六・二
[清浄(しょうじょう)]
・穢れなく清らかなこと。特に仏教で、煩悩や穢れのないこと。
[紺碧(こんぺき)]
・少し黒みをおびた青。
[優艶(ゆうえん)]
・上品で美しい、艶やかで美しいこと。
[止揚場→止揚(しよう)]
・ドイツ語で「アウフヘーベン(aufheben)」のこと。ヘーゲルの弁証法の中の説明の日本語訳。古いものが否定されて新しいものが生まれる際に、古いものがすべて捨て去られるのではなく、その内容のある要素が新しい段階へ移行すると捉える。
[瓢(ひさご)]
・夕顔、冬瓜、瓢箪などの総称。特にその果実で秋の季語。また果実を乾燥させて、酒などの入れ物としたもの。また、それを半分に割った形から、ひしゃくなどの水を汲むもの。
[今は、今際(いまわ)]
・「今は限り」の意味で、臨終、死に際の意味。
[丹下作善(たんげさぜん)]
・林不忘(はやしふぼう)[長谷川 海太郎(はせがわかいたろう(1900-1935)の三つのペンネームの一つ]の新聞小説の作品内の架空剣士。また同名の映画の題名。
[不徳要領(ふとくようりょう)]
・要領を得ないこと。
2009/03/23