北沢風景 (中原中也)

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北沢風景

 夕べが来ると僕は、台所の入口の敷居の上で、使ひ残りのキャベツを軽く、鉋丁[ほうちよう]の腹で叩いてみたりするのだつた。
 台所の入口からは、北東の空が見られた。まだ昼の明りを残した空は、此処台所から四五丁の彼方[かなた]に、すすきの叢(むら)があることも小川のあることも思ひ出させはせぬのであつた。
 ――甞[かつ]て思索したといふこと、甞て人前で元気であつたといふこと、そして今も希望はあり、そして今は台所の入口から空を見てゐるだけだといふこと、車を挽いて百姓はさもジツクリと通るのだし、――着物を着換へて市内へ向けて、出掛けることは臆怯[おつくう]であるし、近くのカフヱーには汚れた卓布[たくふ]と、飾鏡(かざりかゞみ)とボロ蓄音器、要するに腎臓[じんぞう]疲弊に資する所のものがあるのであるし、感性過剰の斯[かく]の如き夕べには、これから落付いて、研鑽[けんさん]にいそしむことも難いのであるし、隣家の若い妻君は、甘ッたれ声を出すのであるし、……
 僕は出掛けた。僕は酒場にゐた。僕はしたたかに酒をあほつた。翌日は、おかげで空が真空だつた。真空の空に鳥が飛んだ。
 扨[さて]、悔恨[かいこん]とや……十一月の午後三時、空に揚つた凧[たこ]ではないか? 扨、昨日(きんのふ)の夕べとや、鴫[しぎ]が鳴いてたといふことではないか?

言葉

[卓布(たくふ)]
・テーブルクロスのこと。食卓へ掛ける布など。

[研鑽(けんさん)]
・学問などを、深く極めること。

[悔恨(かいこん)]
・後悔して残念に、恨みに思うこと。

[鴫(しぎ)]
・チドリ目シギ科の鳥の総称で、くちばしや脚が長く、夏から秋にかけて日本を渡るものが多い。水辺で生活し、秋の季語となっている。

2010/5/9

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