かなしみ (中原中也)

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かなしみ

 白き敷布のかなしさよ夏の朝明け、なほ仄暗[ほのぐら]い一室に、時計の音(おと)のしじにする。
 目覚めたは僕の心の悲しみか、世に慾呆[よくぼ]けといふけれど、夢もなく手仕事もなく、何事もなくたゞ沈湎[ちんめん]の一色に打続く僕の心は、悲しみ呆けといふべきもの。
 人笑ひ、人は囁き、人色々に言ふけれど、青い卵か僕の心、何かかはらうすべもなく、朝空よ! 汝(なれ)は知る僕の眼(まなこ)の一瞥[いちべつ]を。フリュートよ、汝(なれ)は知る、僕の心の悲しみを。
 朝の巷[ちまた]や物音は、人の言葉は、真白き時計の文字板に、いたづらにわけの分らぬ条(すぢ)を引く。
 半ば困乱[こんらん]しながらに、瞶(みは)る私の聴官[ちょうかん]よ、泌[し]みるごと物を覚えて、人竝[ひとなみ]に物え覚えぬ不安さよ、悲しみばかり藍[あい]の色、ほそぼそとながながと朝の野辺空の涯[はて]まで、うちつづくこの悲しみの、なつかしくはては不安に、幼な児ばかりいとほしくして、はやいかな生計(なりはひ)の力もあらず此の朝け、祈る祈りは朝空よ、野辺[のべ]の草露、汝等(なれら)呼ぶ淡(あは)き声のみ、咽喉(のど)もとにかそかに消ゆる。

言葉

[沈湎(ちんめん)]
・酒に溺れふけること。

[聴官(ちょうかん)]
・音の刺激を受ける器官。聴覚器(ちょうかくき)。

2009/03/23

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