草には風が吹いてゐた。
出来たてのその郊外の駅の前には、地均機械(ローラー・エンジン)が放り出されてあつた。そのそばにはアブラハム・リンカン氏が一人立つてゐて、手帳を出して何か書き付けてゐる。
(夕陽に背を向けて野の道を散歩することは淋しいことだ。)
「リンカンさん」、私は彼に話しかけに近づいた。
「リンカンさん」
「なんですか」
私は彼のチョッキやチョッキの釦[ボタン]や胸のあたりを見た。
「リンカンさん」
「なんですか」
やがてリンカン氏は、私がひとなつつこさ[「ひとなつつこさ」傍点]のほか、何にも持合はぬのであることをみてとつた。
リンカン氏は駅から一寸行つた処の、畑の中の一瓢亭[いちひょうてい]に私を伴つた。
我々はそこでビールを飲んだ。
夜が来ると窓から一つの星がみえた。
女給が去り、コックが寝、さて此の家には私達二人だけが残されたやうであつた。
すつかり夜が更けると、大地は、此の瓢亭が載つかつてゐる地所[じしょ]だけを残して、すつかり陥没してしまつてゐた。
帰る術(すべ)もないので私達二人は、今夜一夜を此処に過ごさうといふことになつた。
私は心配であつた。
しかしリンカン氏は、私の顔を見て微笑[ほほえ]むでゐた、「大丈夫(ダイジヨブ)ですよ」
毛布も何もないので、私は先刻から消えてゐたストーブを焚付けておいてから寝ようと思つたのだが、十能[じゅうのう]も火箸もあるのに焚付(たきつけ)がない。万事諦めて私とリンカン氏とは、卓子[テーブル]を中に向き合つて、頬肘[ほおひじ]をついたまゝで眠らうとしてゐた。電燈は全く明るく、残されたビール瓶の上に光つてゐた。
目が覚めたのは八時であつた。空は晴れ、大地はすつかり旧に復し、野はレモンの色に明(あか)つてゐた。
コックは、バケツを提げたまま裏口に立つて誰かと何か話してゐた。女給は我々から三米[メートル]ばかりの所に、片足浮かして我々を見守つてゐた。
「リンカンさん」
「なんですか」
「エヤアメールが揚つてゐます」
「ほんとに」
[瓢亭(ひょうてい)]
・「瓢(ひさご・ひょう)」で「ヒョウタン」などを表現するから、居酒屋くらいの意味か。(検索してみたら、特定の店ばかり出てきてよく分からんかった)
[十能(じゅうのう)]
・炭や灰を運ぶためのスコップ状のもの、またはひしゃく状のもの。特に炭十能(すみじゅうのう)は、木の枝の付いた鍋のような形をしていて、ここに炭火をのせて運ぶためのもの。
[火箸(ひばし)]
・炭火などを挟んだり、いじったりするのに使用する。
[焚付(たきつけ)]
・簡単には点火しない炭火を燃えさせるための枯れた柴などのもの。
2009/5/2